金銀徴集令差出品の書式京都の火災火の番の御触川崎神宮造営に就き献上金姦商の米騰貴策金融の逼迫西の丸普請差留の理由諸大名留守居の不行跡老中水戸侯を毒殺せんとす曽根崎新裏町を大坂に組入る盗品売買の処刑有栖川一件の処刑年末の米相場大塩騒動見聞記加勢の人々一揆の遺留品大塩の乱大塩一件の落著土井大炊頭へ恩賞遠藤但馬守畑佐秋之助坂本源之助本多為助山崎弥四郎糟谷助蔵岡翁助以下褒美頂戴の人々大塩一味者共処刑大塩一味大坂に送還さる飛田に於ける処刑大塩平八郎同格之助竹上万太大西与五郎大西善之進美吉屋五郎兵衛同女房つね吉見九郎右衛門吉見英太郎河合八十郎僧冷月小船吉蔵恵隆忠兵衛八右衛門平山助次郎安田図書小右衛門利右衛門平八郎妾ゆう李白忰貞助医師寛輔并女房こと正方忠右衛門新兵衛儀次郎磐若村卯兵衛
【 NDLJP:130】【金銀徴集令】当閏四月御触有㆑之候。百姓町人共金銀の品持扱候儀御停止に付ては、是迄心得違にて所持致し居候は御咎の不㆑及㆓御沙汰㆒、右品金座・銀座へ買上に相成候間、不㆓隠置㆒差出可㆑申候。銀具の儀は簪其外細工物も多分の事に有㆑之候儀、全く正金銀相当の代銀のみにては可㆑及㆓難渋㆒に付、別段為㆓手当㆒代銀高に応じ、余分の銀子も相渡り候趣に付、其心得を以て差出可㆑申候。銀細工商売人是迄仕込み置候品は勿論、聊にても金銀の品所持の分無㆓斟酌㆒差出可㆑申候。若し隠置き候儀相聞候はゞ、急度可㆑被㆑及㆓御沙汰㆒の旨被㆓仰渡㆒候間、右の趣一町限り年寄ゟ篤と申諭し軒別に取集め、当十一月中西御役所へ可㆓差出㆒筈に候へ共、御役所へ差出候ては、数町一時に相成可㆑及㆓混雑㆒候に付、伺の上郷々総会所へ差出候様、且所持名前の儀も差支無㆑之様、町名計りにて品数書付案文の通り取調べ、十一月十五日限り郷々総会所へ可㆑被㆓御断㆒候。尤差出儀却て相憚り其儘に差置き、後日及㆓難儀㆒候はゞ、以の外の事に候間、前段の儀も委細に申聞、銘々尤心得違無㆑之様為㆓差出㆒可㆑被㆑申候事。
戌十月廿七日
覚
【差出品の書式】一、金何品 何町何数 一、銀簪 何本 一、同烟管 何本一、同金具 何数 一、同香具 何数 一、同手遊 何数 一、同酒器 何程 一、同何品 何数
右町内家別相調べ候処、右の通差出候間、夫々品毎に附札番附仕り差上申候。此外金銀具所持仕候者無㆓御座㆒候に付、此段御断申上候。以上。
総御年寄中
右案文の通り二通可㆑被㆓差出㆒、金銀相用候簪・烟管・香具金物の類迄、不㆑洩様相調べ、其品々追て代銀渡候節、番附引合せ銘々へ年寄ゟ相渡候儀に付、年寄手前に番附致し置き、其品一つ毎に左の通りの附札可㆑被㆓差出㆒候。
何番 何町
掛目何匁
右簪・金具類等細かき品、町限り厚き紙袋に入れ、袋に町名相認め、混雑に不㆑及様可㆑被㆑申、右於㆓町々㆒も格別手数相掛り候事に候へば、代銀渡方の節不㆑及㆓混雑㆒様精々当時の取調べ入念の上被㆓申渡㆒事。
戌十月廿七日 北組 総年寄
右御口達の趣被㆓仰渡㆒慥に奉㆓承知㆒候。借家の者へは私共ゟ入念為㆓申聞㆒、急度為㆓相守㆒可㆑申候為、其家持の銘々判形仍如㆑件。
鍵屋伝兵衛 加島屋源七 大和屋林蔵 加島屋庄助 丹波屋源太郎 淀屋金兵衛 帯屋まつ 加島屋伝兵衛 平野屋八兵衛 米屋嘉兵衛 吉田屋林助 吹田屋宗助 大和屋武助 加島屋卯兵衛 浜田屋十助 加島屋新十郎家守 加島屋卯兵衛 篠屋長左衛門 舛屋与兵衛
年寄 米屋佐兵衛宛
十一日未明より大風猛烈なりしが辰上刻止み、夫より晴天と成る。十二日未明より雨、巳の刻止み、未の下刻少雨、虹東方に顕る。十九日曇、辰の刻微雪、終日風。山田屋大助家財闕所と成り、妻子の衣類は之を下し置かれしと云ふ。廿日晴、今日有栖川宮一件の掛り鎌田修理・加島屋藤八、其外七人の講掛り世話方の者、并料理屋福屋又平・池田屋太兵衛、其外講へ加入の者百三十人被召出、何れも夫々御仕置・御咎等の書付に印形致し、加島屋藤八は今日より入牢し、家財付立て再吟味となる。【京都の火災】廿七日夜八つ半頃より京都四条河原南側水茶屋より出火、夫より両側共焼失、西石垣過半焼失、中島橋本町両側共焼失、明六つ時頃に至り北へ焼広がり、先斗町一町余り【 NDLJP:132】木屋町に積み有之候炭薪の類に火移り、木屋町一町半程も焼失、尤高瀬川より西は別条之なく、昼四つ時頃に火鎮まりしとぞ。
【火の番の御触】一、町中火の元念を入れ油断不㆑仕様急度可㆓申付㆒候。風吹候時分弥〻以て一夜共態(能カ)人を廻し家主へ申断り、裏借家に至る迄其度に見廻り
一、風吹候夜は通の人々に心付、例の通り玄の刻以後は門を立て人を町送可㆑仕事。
一、夜中不審なる者通り候はゞ召連可㆑来候。且又川端の納屋下の外ふせ申間敷事。 附如㆑例自身番相勤候節は、当番の者弥〻以て念を入れ油断仕間敷事。
右之通毎年申付候得共、油断不㆑仕候様三郷町中可㆓触知㆒者也
十一月二日
古金銀真字二歩判・古二朱銀・一朱金等引替所の儀、当戊十月迄被㆓差置㆒候段、去る酉年相触候処、今以引替残有㆑之候間、引替所の儀尚又、来亥十月迄是迄の通に差置候条、右金銀其外所持の者共、来る亥年十月限急度引替可㆑申候。草字二歩判并文政度吹直二朱銀の儀も追つて通用停止被㆓仰出㆒旨、去る西年相触候趣も有㆑之候間、所持者後藤三右衛門銀座役所并江戸・京・大坂其外在々にて、当時引替御用相勤候者共の内へ早々差出引替可㆑申候。右の趣遠国末々迄篤と相心得候様、御料は御代官、私領者領主・地頭ゟ入念可㆑被㆓申付㆒候。右の通可㆑被㆓相触㆒候。
十月
右の趣従㆓江戸㆒被㆓仰下㆒候条、此旨三郷町中可㆓触知㆒者也
山城
伊賀
乍憚口上
一、今般川崎御宮就㆓御造営㆒、御先例を以て三郷町人共ゟも献上銀可㆑仕様被㆓仰出㆒奉㆑畏候。【川崎神宮造営に就き献上金】仍㆑之不㆓取敢㆒町人共へ申聞候。御先例の儀は不㆓相弁㆒候へ共、御国恩の程不㆑被㆓申尽㆒候。聊御冥加として、町人并借屋の者共申合せ、左の通献銀仕度候。
一、銀八枚 町中 但当戌年ゟ三ヶ年に割合上納仕度候。
一、金百疋 年寄自分
【 NDLJP:133】右献上銀誠に少銀にて御座候得共、何卒造営御手伝の端にも被㆑為㆓成下㆒候様、乍㆑憚各様迄書付を以て奉㆓願上㆒候。此段御聞届被㆑為㆓成下㆒候はゞ難㆑有奉㆑存候。
天保九戌年 斎藤町年寄 米屋佐兵衛
総御年寄中
一、銀八枚宛 組合十三町 一、同六枚 布屋町 一、同四枚 白子町 一、同十四枚 江戸堀五丁目
十一月下旬、備前より法華不受不施の者共老若男女の差別なく、五十人計りも召捕り来りて、江戸へ引かれしと云ふ。又五七目も過ぎて、兵庫其外近辺にて米買占の者共五十計り召捕り来る。前にも云へる如く、当年は少々不作なりしか共、近年打続き占囲ひし米沢山の事にて、【姦商の米騰貴策】米価下落せざればなり難き事なるに、姦商共之を途中にて買占めて高利を貪らんとする故、其価下落することなし。堂島にても姦商米を占めんとして、両人十二月四日に召捕らる。又世間一統に金銀大に差支へ、是迄堂島より諸屋敷の米入札をなし、落札せし者其米切手を両替は申すに及ばず、富家の者共へ引当に差入れ金を借り出し、【金融の逼迫】屋敷へ納むる事なるに、富家の者共は公儀よりの仰渡され厳しく、斯かる時節に米切手多く取扱へば、忽ちに御咎を蒙る事なる故、切手引当に金を出す者なく、両替とても同様の事なり。堂島は素より米を取扱ふ問屋共なれども、諸人を噓しあやかして人の金銀を取込み、夫にて渡世する者なれば、金銀を蓄積せし者更になし。此故に如何ともなり難く、己れが入札にて落札をなせし米を、屋敷へ返米する様に成行きぬ。此の如くなる有様なれば、来陽にもならば米価も定めて下落すべし。左様にいつ迄も金なしには貯へ難からん。貧乏大名・姦商大名等も米を安売してなり共、金銀に代へざれば何れも江戸への仕送りに差支ふべし。見よ〳〵米の下落眼前ならんとて、諸人一統に腹を居ゑて、飯米の用意も余り囲ひ持たざる様になりぬ。百四十匁の外へ出でたる肥後米も、十二月六日頃には百二十匁位となる。余の米は之に准ず。
前に京都より西の丸の御普請御差止の由、専ら風説せし故、其事を記しぬ。こは実説に相違なき由なり。天明の始め京都大火にて禁裏炎上し、今日に至れ共仮の皇【 NDLJP:134】居にて在しますなり。【西の丸普請差留の理由】此事に付、先年中山大納言殿と松平越中殿と殿中に於て論ぜられし事有り。然るに今以て禁裏をば其儘になし置きて、西の丸をば焼けて間もなく金銀・珠玉を以て、善美を尽し奇麗なる御普請出来の由なるにぞ、西の丸の普請より先に禁裏の造営をなすべしと、京都より御沙汰之有りしにぞ、西の丸の御普請も止めになりしと云ふ事なり。又金銀の諸道具も厳重の御沙汰故、町家より悉く奉行所へ持出しゝが、町家と雖も官家より先年拝領し、先祖より持伝への諸道具多き事故、是等をも悉く買上げと成りしか共、官家より所司代へ御沙汰有りて、之を差込められし故、悉く差戻しと成りしと云ふ。
【諸大名留守居の不行跡】江戸に於て諸大名の留守居共不行状甚しき故、公儀より御咎を蒙り、国元へ夫々に差戻しと成りし者五十八人、遠島と成りたる者三人、其外御叱りを蒙りし者数人、又中には御褒詞を蒙りし者も数人有りて、騒々しき事なりと云ふ。【老中水戸侯を毒殺せんとす】又水戸侯賢明なる故大に邪魔に成るとて、御老中の中にて之を毒殺せんとす。此事を茶道より密に侯に知らしめし故、候は其難を逃れられしか共、直に隠居せられしにぞ、其茶道をば殿中に於て、御老中密に手討にせられし抔と云ふ風説有り。こは諸人の銀物を買上げ、之を通用銀にせんといへるにぞ、水戸殿にも聞入れ有りしに、買上げし上にて其事はなくして、右買上と成りし銀具を以て、西の丸御普請の銀物とする事故、水戸殿之を咎められしより事起りしと云ふ噂なり。其虚実は分き難き事なれ共、何にもせよ宜しからざる風説なり。
十月の事なりしが、上中下の福島を蜆川の北手より二十五間の間を、三郷の市中へ取込まんとて、両町奉行立会にて見分ある。素より在領の事なる故、御代官支配の場所なれば、御代官にも立会はれしと云ふ。福島の者共は若し三郷の町中へ取込まれぬる時は、諸役諸雑費大に掛りぬる事故、何れも大に困窮し、何れも此事ならざる様にと祈りぬる事なりと云ふ。北野・曽根崎村等も同様の沙汰故、何れも心労すと云ふ事なり。
【曽根崎新裏町を大坂に組入る】元文三午年にも同様の事にて、已に曽根崎地の内を、蜆川より北新地裏町を南側迄を三郷市中に取込まれて、北側より北を在領として之を下京と云ふ。此時福島も同【 NDLJP:135】様に取込まるゝことなりしに、御代官布施弥三郎と云へる人、村役人葭屋九左衛門といふ者と心を合せ、諸人の難渋を救はんとて之を拒みて、御代官には切腹をなし葭屋九左衛門は江戸へ召下しとなりぬ。斯かる事を目論みて、下方より其利用を申立てし者三人有りしと云ふ。葭屋九左衛門も一命を捨てヽ福島村の諸人の難渋を救はんとて、右三人の者共と公事に及びしが、何分三人の者共より公儀の御益を申立てゝ、斯かる目論みをなし、御町奉行見分の上、竿を入れ縄張等も有りし程の事なる故、姑の程は負公事の様子にて散々の事なりしが、一命を抛ち諸人を救はんと、一心を定めて少しもひるまざりしと、御代官の切腹して無用の由を申立てられしとにて、終に右三人の者共獄門の刑に行はれて其事止みしと云ふ。右に付布施氏の墓所へ〈福島の内五百羅漢の寺内に有り〉諸人今に至る迄参詣す。昨西年は右百年忌に当りて、同寺に於て法事勤まりしと云ふ。今年百一年目に当りて又此催し有りとて、福島の者の之を語りぬ。葭屋九左衛門が家当時に至りても大に繁栄す。其時の始末同人方に委しき記録有りと云ふ事なり。
伏見へ大坂より往来する所の二十石船、是迄船へ積込みし品物米・紙其外何に寄らず之を盗み取りて、密に八幡辺にて之を売捌く。【盗品売買の処刑】其盗み物を買ひぬる者両人有りて、夫々に是を商売とせしが、其事此度露顕に及び、何れも悉く召捕らる。其盗物なる事とは弁へずして、其品物を右の者共より買調へし者共、至つて仰山の事にして、有栖川宮講の掛りの如く、買人残らず代銀仕出になる者共、多人数の事なりと云ふ事なり。
十二月初の事なりしが、堂島辺の者、東奉行跡部城州には役にも立たぬ川せゝりをなし、新に川を掘りぬれ共何の益もなき事計りなり。夫よりも市中に盗賊共大に徘徊し、諸人何れも困りぬることなるに、聊も之を捕ふる事なくて、無用の事計りをなす詰らぬ奉行なりとて、□人へ噂せしに、其言御奉行の耳に入り、忽ち召捕へられて新に掘りし川々の益なきやあるや、其事相分りぬる迄入牢申付くるとて、牢へ入れられしと云ふ。
十二月廿九日、有栖川宮講一件に掛れる者残らず召出され、鎌田修理は軽追放、九人【 NDLJP:136】の世話方【有栖川一件の処刑】加島屋庄兵衛・加島屋万助・平野屋甚右衛門・百疋屋太右衛門・長浜屋佐七・吉田屋源二郎・同忰、右是迄町預なりしが、改めて手錠となる。庄田友助外一人は死去致候故、先づ其儘に差置かる。加島屋藤八は鎌田同様に追放仰付けらるべきなれ共、当人死去せし故追て御沙汰之有る由。加入せし者六百人は、何れも三貫文宛の過料にて、掛銀残らず御取上となる。料理屋福屋又兵衛・池田屋太兵衛は公儀御法度の取除無尽の会合を存せずと雖も、之を引受候段不埒に付、当人は申すに及ばず所の役人共迄急度御叱りとなる。
年内米納相場【年末の米相場】
肥後米 百十九匁 同古米 百二十五匁 同宇土米 百十七匁 中国米 百十匁 同古米 百十五匁 筑前米 百九匁 同古米 百十五匁 広島米 百三匁 同古米 百十匁 肥前米 百十二匁 同古米 なし 備前米 百十匁 同撰米 百八匁 淡路米 百十七匁 筑後米 百八匁 豊前米 百十三匁 薩摩米 百廿二匁 岡米 百三匁 柳川米 百十五匁 同並米 百八匁 臼杵米 八十三匁 伊予米 八十八匁 中津米 百十五匁 讚岐米 百匁 田安三木米 百十二匁 同西成米 百八匁 同泉州米 百十二匁 同有馬米 百九匁 同島下米 百十匁 同川辺米 百八匁 沼田米 百十二匁 小城米 百九匁 新地高瀬米 百十七匁 同八代米 百十六匁 同出口米 なし 大村米 百十匁 延岡米 百六匁 同宮崎米 百五匁 金谷米 百廿二匁 唐津米 百十一匁 島原米 八十五匁 山形河内米 百十一匁 長門米 百十一匁 平戸米 百一匁 宇和米 百七匁 秋月米 百九匁 日出米 九十匁 姫路米 百三匁 清末米 九十二匁 杵築米 百七匁 津山米 百十二匁 同飛赤米 百九匁 龍野米 八十六匁 吉田米 百十匁 一橋米 百十三匁 伊東米 百六匁 佐土原米 百四匁 林田米 百十五匁 徳山米 百十五匁 加賀米 百三匁 米子米 九十八匁 雲州米 八十匁 秋田米 九十八匁 津軽米 なし
餅太米類
肥後餅米 百廿八匁 宇土餅米 同太米 百三匁 肥後小麦 百九匁 【 NDLJP:137】臼杵小麦 なし 明石餅米 百三十匁 姫路餅米 百三匁 豊前餅米 百八匁 中津餅米 百廿三匁 秋月餅米 百廿三匁 杵築米 百七匁 讚岐小豆 百十五匁 杵築小豆 百三匁 岡大豆 九十八匁 大州大豆 百匁 筑前夏大豆 九十六匁 筑後夏大豆 百三匁 平戸大豆 九十四匁 宇和大豆 九十八匁 新谷大豆 九十八匁 吉田大豆 九十五匁 南部大豆 八十八匁 金銭 五十八匁三分八匁八分
右之通に御座候以上。
十二月廿四日
【大塩騒動見聞記】一、今日朝辰の上刻より、天満東与力の内より出火に付、総詰被㆓仰付㆒候。此度の出火は以の外大変の由、依㆑之東御町奉行跡部山城守様御役屋敷厳重の御手当被㆓仰付㆒候。四つ時頃より与力坂本源之助・本多為助并蒲生熊次郎罷越候処、追々悪党共乱妨に及候に付、御奉行屋敷三箇所の構有㆑之候。然る処悪党共午の刻頃早難波橋を打渡り候趣に付、即時に御奉行様御出馬有㆑之、玉造方組同心三十二人、御先手に代り、淡路町一丁目の辻にて双方とも打合に相成り、悪党共同二丁目迄引退き、此所に悪党共三人討取り、外に手疵の者多く有㆑之、最早悪党者散乱と相成り、瓦町二丁目にて又一人討取る。是にて恐れ此処より悪党者皆散々に逃去り、其節鉄炮其外武器の類其儘打拾、或は此辺の井戸へ投込み置き、其後右の品々無残御取上に相成り、一先づ御引取に相成り、其内後詰の人数被越候に付、代り合玉造出張番所に相詰罷在候。
御加勢玉造組同心名前左の通【加勢の人々】
岡崎官兵衛・吉野司馬助広瀬平五郎・高橋弥兵衛・小林吉兵衛・松島惣右衛門・西岡久馬太・相沢督之助・宮島早多・小林利兵衛・下村伝右衛門・岡崎金五郎・相沢延蔵・福田簡司・広瀬民蔵・白石勝三郎・山崎弥四郎・市村与市・猪狩耕輔・山崎品蔵・大谷武之助・鶴田梅太郎・大島新八郎・糟谷助蔵・高橋国助・左尾清次郎・千脇正五郎・猪狩鶴太郎・田中守太郎・田部亀毛治・岡田村藤助・商広瀬左兵衛。都合三十二人
一、槍四本 一、長刀一振 一、具足一領 一、刀 五腰 一、熊手・鳶口三十本計 一、旗二本一、幟 一本 一、灯灯一荷 高張五十 一、革葛籠十三四本計 一、火縄一荷 一、幕 一、太鼓 一、大筒百目玉一挺但龍の象眼入中台共 一、同百目玉三尺五寸位張荷一挺但台下名前書有之 一、五七之桐相印数本瀬田済之助、平山助次郎外に二人消へて不分 一、同百目玉短鋳筒一挺 一、二十目玉筒二挺一、五匁玉筒一挺 三匁長筒一挺 一、二匁長筒一挺 一、三尺計木筒二挺但渡り五寸 一、台車四挺 一、火矢鉄羽共百本計 一、焼玉五十計 一、玉箱一荷
右の品々東御役所へ御差上に相成候処、四月十八日東御番所より、島町筋市中囲米籾蔵へ御取置に相成申候。前文御奉行所の書付を写取の由。
【大塩の乱】当時西御奉行堀伊賀守様入坂に付、先規の通り東御奉行跡部山城守様御案内にて、大坂市中巡見の折柄、当十九日は天満辺巡見にて、向与力朝岡助之丞屋敷へ御立寄の砌、以㆓炮火㆒両御奉行并諸役人を火殺致し、夫より与力町・同心町不㆑残焼払、打続いて大坂市中富家一円并諸蔵屋敷不㆑残積貯候米・金取出し、近在并大坂貧民共に配散致遣し可㆑申仕組の処、一味の内東組同心平山助次郎変心訴人仕に付、十九日巡見の儀御延引に相成候。依㆑之大塩氏手筈相違致し候処、恒例の輪番にて十八日夜は、瀬田済之助・小泉淵次郎泊番に相当り候に付、夜中山城守様寝所へ忍込み、可㆓討果㆒の処仕損じ、刃を交らへれ、小泉即死致し、瀬田は事不㆑成を見て塀を飛越逃去候。大塩氏露顕の上刺客の謀もならず、最早猶予難㆑成に付、十九日朝自宅に火を掛け、列を正し打立、夫より与力町・同心町以㆓炮火㆒焼立、東天満・北船場の富家の向へ炮火を放し焼立候に付、黒烟大火焼亡、混乱大方ならず、町家皆々丸焼身がら計りにて皆々近在へ逃去候。然る処御城内方両奉行所并近隣の諸大名、追々助勢相加はり、大塩一味の者捕方に御向ひなされ候に付、企存分に整はず、一味の者敗亡仕り候に付、即廿日の晩丑の刻に火鎮まり申候。尤も一味の者不残甲冑を著し、各〻劒戟を持ち旌旗押立て、大筒・鉄炮・筒火玉火沢山用意致し、所々にて放火致候へども、米金配散の手筈も相はづれ、最初は後難を気遣ひ候や、追々離散致し人数次第に減じ、仕組り通【 NDLJP:139】には全く不㆑整、一味の輩皆々敗北候なり。大塩が勤役中、大坂寺院淫行惰弱の僧並に切支丹の類属流行、並に団頭長吏等従来の騒奢並に西与力弓削新右衛門頻に賄賂を貪り、非法の捌のみなりしに、大塩氏一々之等の輩を刑獄せられし事有㆑之し故、其功によりて格別の恩賞も可㆑有の処に、少しも其儀なく、徒に隠居致されし故、是等の事遺憾の至りに候処、当時飢饉に依つて市民困窮に付て、旧憤忽ち啓発致し、生得の短慮慢心発出せし所より事起りしものならんと、或人の説なり。之れ尤も一理ありと云ふべし。
右は本町或人の筆記せる中よりして、之をこゝに抜出す。総て大塩乱妨の一件は別巻に委しく書記しぬれども、其いへる所少しく理りなきにもあらぬやうに覚ゆ。是等のことも別巻と照らし覧ば、其大抵を知るに足りぬべし。此書は彼徒御仕置并諸人御恩賞に預りし始末をおもに記しぬる事なれば、其事全からず。之を怪む事なかるべし。又御仕置の事も捨札の写、江戸にての被㆓仰渡㆒ホロ〳〵に追々に書記し、漸〻十月半ばに至り、御奉行所公用人の手控手に入りし故、之と見合せ、其漏たるを書添へぬる事の工重なるも、始め記せしは粗にして後に其審なる事の分りぬるが故なり。されども未だ之にても其全き事を得ざれば、尚追々に其委しきことを聞記し、此事尽きぬるに至らば別巻と照覧し、其内よりして其詳なるを抜萃して、これを一篇となさば其全を得るに至るべし。
大塩乱妨一件落著
御恩賞【大塩一件の落著】一、美濃兼定の刀〈代金二十枚〉於㆓御座の間㆒御手自被㆑下㆑之。 土井大炊頭右は去年於㆓大坂㆒徒党の者共及㆓乱妨㆒候節、【土井大炊頭へ恩賞】御城内外警固其外万端指図行届候に付被㆑下㆑之。
一、御鞍鐙
大坂御定番遠藤但馬守名代 稲垣若狭守 【遠藤但馬守】
同断の節、御城内外警衛厳重に行届、町奉行ゟ為㆓加勢㆒組の者共差遣候砌、家来畑佐秋之助差添働方見届候儀申含候に付、組の者共身命を不㆑顧相働候段、一時の取計而已に無㆑之、平日の心掛も宜被㆓思召㆒候に付被㆑下㆑之。
【 NDLJP:140】 右於㆓芙蓉の間㆒老中列座、越前守申渡す。
一、銀二十枚・御時服二 遠藤但馬守家来 畑佐秋之助
【畑佐秋之助】同断の節、主人但馬守申付を受け、跡部山城守を先乗致し、但馬守組与力坂本源之助等賊徒近く相進み鉄炮打合の砌、山城守馬印に先立ち身命を抛ち諸勢を励し、掛引致す始末抜群の働に付被下之。右於檜の間同人申渡す。
大坂玉造御定番遠藤但馬守組与力 坂本源之助 【坂本源之助】
右西年町奉行跡部山城守組与力、大塩格之助養父大塩平八郎頭取、徒党の者共大坂市中放火及乱妨に付、山城守馬前迄鉄炮打の同勢を抽で、賊徒の内へ附入り大筒取扱候者矢庭に討取候に付、忽及㆓散乱㆒候段抜群の働、依㆑之大坂御鉄炮方被㆓仰付㆒、御目見え以上の末席と可㆓相心得㆒、且御褒美銀百枚被㆑下㆑之、并町奉行所へ取上置候平八郎所持の大筒一挺被㆑下㆑之。但御宛行は取米の通被㆑下㆑之。
同断 本多為助 【本多為助】
右同断の節、跡部山城守先手に進み坂本源之助と申合せ、賊徒間近く附入り、鉄炮打払身命を不㆑惜相働候に付、御譜代に被㆓仰付㆒勤向の儀は是迄の通可㆓相心得㆒、且又別段為㆓御褒美㆒金五十両被㆑下㆑之。但宛行は取米の通被㆑下㆑之。
同人組同心 山崎弥四郎 同 糟谷助蔵 【山崎弥四郎糟谷助蔵】
右同断の節、坂本源之助・本多為助一同に相進み鉄炮厳敷く打掛候段、兼々炮術熟練致し罷在候故の儀と相聞候。依之弥四郎は御譜代、助蔵は上下格被㆓仰付㆒、何れも勤向の儀は是迄の通可㆓相心得㆒、且又別段御褒美弥四郎へ金三十両、助蔵へ金二十両被㆑下㆑之。但宛行は何れも取米の通被㆑下㆑之。
八田又兵衛・柴田勘兵衛・高橋佐左衛門・蒲生熊治郎・脇勝太郎・石川彦兵衛・米倉左近
右同断一条に付、為御褒美御銀被下置候御礼。
加藤善之丞・笹山良太郎・拓植市之助・本多路之助・小林専左衛門〈名代小林新之丞〉・高橋徹山〈名代高橋佐左衛門〉・久松権兵衛〈名代久松彦三郎〉・石川新右衛門〈名代石川彦兵衛〉・小野主水〈名代小野陸之助〉・山寺又作〈名代山寺七左衛門〉・久保主計〈名代本多路之助〉・森山与右衛門〈名代森山義治郎〉・坂部寂翁〈名代坂部駒治郎〉・朝比奈左平〈名代朝比奈新作〉久保平四郎〈名代本多路之助〉・岡温次郎〈名代岡筑太郎〉・久松九郎〈名代久松彦三郎〉・柴田弥太郎〈名代柴田勘兵衛〉・朝比奈賀之助〈名代朝比奈新作〉垣屋【 NDLJP:141】為治郎〈名代垣屋金吾〉
去酉年大塩平八郎及㆓乱妨㆒候一条に付、御褒美御金被㆓下置㆒候御礼。
【岡翁助以下褒美頂戴の人々】岡翁助・拓植貞右衛門・笹山老之助・本間重右衛門・小林新之丞・久松彦太郎・朝比奈新作・福原伝三郎・小野陸之助・山守七左衛門・窪田畳五郎・岡筑太郎・坂部駒治郎・多湖権之助・田口末蔵・森山義治郎・垣屋金吾
右同断一条に付奉蒙御褒詞候御礼。
岡翁助
右同断一条に付、山崎弥四郎御譜代席、其上御褒美として金三十両被㆓下置㆒候に付、召連右御礼。
本多為助
右同断一条に付糟谷助蔵上下格、其上為㆓御褒美㆒金二十両被㆓下置㆒候に付、召連右御礼。
岡翁助 本多為助
右同断一条に付、同心共へ御褒美銀被㆓下置㆒候面々召連右御礼。
岡翁助 本多為助
右同断一条に付、御同心警衛の者共奉㆑蒙㆓御褒詞㆒候面々召連御礼。
御同心支配役被㆓仰付㆒候御礼。 本間重左衛門
御蔵目附加役被㆓仰付㆒候御礼。 朝比奈新作
小買物役被㆓仰付㆒候御礼。 高橋佐左衛門
大塩平八郎并一味の者共御仕置
大坂町奉行跡部山城守組同心 吉見九郎右衛門 【大塩一味者共処刑】
引廻の上於㆓大坂㆒磔可㆓申付㆒の処、忰英太郎を以て及㆓密訴㆒候に付、御仕置宥恕にて取米の儘にて御譜代に被㆓仰付㆒、小普請入被㆓仰付㆒。
河合善八郎孫 河合八十次郎 吉見九郎左衛門忰 吉見英太郎
為㆓御褒美㆒銀五十枚宛被㆑下㆑之。
平山助次郎
【 NDLJP:142】吉見九郎右衛門同様可㆓申付㆒の処自殺。〈平山助次郎并小者両人、去る西三月朔日大岡紀伊守へ御預けの処、猶又同年十二月廿五日酒井大和守へ御預けに相成、同人儀叛忠之由にて評判至て宜かりしが、其後に至り甚だ不評判に相成り、夫故の自殺なるべしと世評也。〉
戌六月廿日御用番へ酒井ゟ御届左の通
大坂町奉行跡部山城守組同心平山助次郎并小者両人、拙者家来へ御預被㆓仰付㆒罷在候処、右助次郎今暁七つ時頃、臥居候部屋の内にて息合荒く相聞候間、番士共直様立寄り声懸候得共答も無㆑之に付、驚き相改候処、何時差出隠置候哉、脇指を以て咽を突通し罷在候に付、手当可㆑致と医師診察為㆑致候処、即死にて療治致方無㆑之相果申候。尤此間平常に相変り候様子も無㆑之、全く取昇候儀にも可㆑有㆑之哉、右始末候段家来の者共心付方不㆑参㆑届、恐入候次第に御座候。依㆑之御預被㆓仰付㆒候家来并番士の者共、急度手当申付為㆓慎置㆒申候已上。
六月廿日 酒井大和守名代本多主税
右に付差控被㆑伺候処、不㆑及㆓其儀㆒旨也。
被㆓仰渡㆒左の通
其方家来へ預け申付候大坂町奉行跡部山城守組同心平山助次郎致㆓自殺㆒候段、家来心得方不行届の次第、不埓に付御咎被㆓仰付㆒。右は畢竟申付方疎忽故の儀、不念の事に候。此段可㆓申付㆒旨御沙汰有㆑之候事。
右は於㆓水野越前守宅㆒同人申渡す。大御目附神尾山城守申渡す。
六月廿三日 酒井大和守家来 物頭山口孫三郎〈年四十一〉・馬廻友松勘之丞〈廿三〉・中小性斎藤力蔵〈廿四〉・足軽鈴木滝三郎〈三十〉・庄司八十八〈三十五〉・中間門蔵〈十九〉・
右於㆓評定所㆒三奉行御目附加藤靱負立合、一通り尋の上差返す。
一、遠島 町奉行組与力 大西与五郎 一、中追放 与五郎忰 大西善之丞 一、引廻の上於㆓大坂御弓奉行上田五兵衛組大坂㆒磔 竹上万太郎 一、存命に候はゞ獄門 大坂油掛町 美吉屋五郎兵衛 一、存命に候はゞ死罪 同人女房つね 一、中追放 陰陽師 安田図書 一、江戸払 大塩平八郎侍 小船吉蔵
松平和泉守下知也。
右 外に塩詰之死骸 両人 【 NDLJP:143】【大塩一味大坂に送還さる】戌八月廿二日、江戸町奉行組与力両人、同心八人、検使警固相兼出立。九月十一日当表へ著の積り、何れも肥後候預りの者共なれば、侯よりも警固大勢附添来り、於㆓森口㆒大坂蔵屋敷より大勢出張し之を受取り、大坂に連れ来り直に御奉行へ御渡と成る。
同十八日於㆓飛田㆒御仕置の次第【飛田に於ける処刑】
大坂町奉行東組与力大塩格之助養父 大塩平八郎
大塩格之助 【大塩平八郎同格之助】此者共儀、平八郎は表に謹厳の行状を飾り、文武忠孝の道を講じながら、内実養子格之助へ可㆓嫁合㆒約定にて、養置候摂州般若寺村忠兵衛娘みねと及㆓姦通㆒、殊に諸人の信用に随ひ慢心を生じ、軽き身分を不㆑顧御政道を批判致し、其上浅はかなる儀にしても不容易謀計を企て、師命を称し愚昧の門弟等を感伏為㆑致、追て米価高直諸民難渋の折を窺ひ、仁慈を行ふ存立に託し、又は同組与力・同心等の気合を量り、品々姦舌を以て不平の志を募し、夫々一味連判に引入れ、猶人気為㆑靡候ため、所持の書籍其余摂州兵庫西出町長太夫等申掠出金為㆑致、買調の書物類をも売払ひ、一己の慈善に申成し、右代金難渋人へ施遣し、或は叛賊の名聞を厭ひ諸民を惑乱可㆑為致ため、無㆓思慮㆒大言を綴り、
御弓奉行組同心 竹上万太郎〈五十歳〉 【竹上万太】
此者儀、大坂町奉行東組与力大塩格之助養父大塩平八郎逆意を企候とは不㆓心付㆒候【 NDLJP:144】へ共、違作の年柄諸民及㆓難渋㆒候に付、救民計儀と唱へ奉行を討取り、大坂御城を始め諸役所并に市中をも焼払ひ、富家の貯金等窮民へ分遣候由を以て、右企一味の儀申勧候節、民を救ひ候ため仕成候儀は不筋の儀にも有之間敷存、同意の上盟文へ血判致し、其上御政道を批判し、又は無㆓此上㆒恐多文言等を認有㆑之檄文をも一覧に及び、中には徹心の儀も有㆑之候迚、弥〻右企発起の手続申合せ、当期に至り所持の鉄炮持参、平八郎宅へ相越候処、内変出来狼狽候様子見受け、事成就無㆓覚束㆒存じ、徒党を可㆑遁と偽り其場を逃去候儀共、不㆑恐㆓公儀㆒仕方、右始末重々不届至極に付、引廻しの上磔に行ふ者也。
〈大阪町奉行東組与力〉瀬田済之助・小泉淵治郎・〈同心〉渡辺良左衛門・庄司儀左衛門・近藤梶五郎・〈摂州吹田村神主〉宮脇志摩・〈般若寺村庄屋〉忠兵衛・〈年寄〉源右衛門・〈百姓代〉伝七・〈猪飼野村百姓〉司馬之助・〈森小路村医師〉文蔵・〈河州守口村百姓〉孝右衛門・〈〉〈門真三番村百姓〉郡治・同九右衛門・〈尊延寺村百姓〉才治郎・〈弓削村七右衛門事百姓〉利三郎・〈無宿〉正一郎。
此者共儀、大塩平八郎慢心に長じ、米価高直諸民難渋の時節を量り、人気を為㆑靡候計略を廻し、所持の書籍其外摂州兵庫西出町長太夫等より、兼ねて貧取候金子を以て買調候分を売払ひ、代金施行致し、一己の慈善に申成し、又は軽き身分を不㆑顧御政道を批判し、救民計義と偽り唱へ奉行を討取り、大坂御城を始め市中をも焼払ひ、豪家の金銭を貧民へ分遣し、一旦摂州甲山へ可㆓楯籠㆒抔と無㆓思慮㆒大言申述、其上叛賊の名目を厭ひ愚民を惑乱可㆑為㆑致ため、品々不㆑軽文言認載せ候檄文を彫刻致し、右企同志の儀申勧候を不㆓容易㆒儀と乍㆓心付㆒、右欺謀を信じ、師命難㆑背抔と存迷ひ、銘々一味連判致し、剰へ徒党発起の節人数に加はり候者共は平八郎指図に随ひ、一同兵具を帯び槍・長刀を携へ、百姓共申威し、多人数徒党に引入れ、大筒等打払ひ、市中放火及㆓乱妨㆒、捕方役人に敵対致候始末、不㆑恐㆓公儀㆒仕方重々不届至極に付、瀬田済之助外十五人共塩詰の死骸引廻の土磔申付、利三郎も死骸腐爛不㆑致候はゞ、同様可㆓申付㆒候処、吟味以前病死致す間、墳墓取毀申付者也。
無宿熊蔵事 三平廿九歳
此者儀先達て不届有㆑之、領主役場に於て村払に相成候後、河州守口村孝右衛門世話を以て、大塩平八郎方に罷在り、同人不㆓容易㆒企に一味致し候儀にては無㆑之候へ共、【 NDLJP:145】平八郎頭取同組与力・同心等徒党兵具等携へ、多人数押出候期に臨み、平八郎義民を弔候大義を存立、大坂御城を始め市中をも焼払ひ、豪家の金銀貧民へ分遣候積に付可㆑致㆓加勢㆒、若し不承知に候へば可㆓斬殺㆒旨申聞候迚徒党に加り、処々放火及㆓乱妨に㆒途中、平八郎指図に随ひ百姓・町人等申威し加勢に引入れ、不㆓逃散㆒候様進退致し、殊に徒党の者共捕方人数に被㆓打立㆒離散致候節、一旦平八郎等に附添逃去候始末、不㆑恐㆓公儀㆒仕方重々不届至極に付、引廻の上獄門に行ふ者也。
戌九月
一、遠島 跡部山城守組与力 大西与五郎 【大西与五郎】
此者儀甥、大塩平八郎兼而不㆓容易㆒企致し候儀は不㆑存候得共、同人養子大塩格之助罷越し、両組の内奸智の者共及㆓増長㆒、御為筋不㆑宜候間征伐可㆑致積に付、此者存念承度き由平八郎口上の趣格之助申聞候節、不同意の段及㆓挨拶㆒、猶同人へも申諭し、平八郎へ及㆓異見㆒候程の儀に候上は、其後の様子篤と可㆓相糺㆒処等閑に打過ぎ、殊に同人大筒等打払放火及㆓乱妨㆒候次第承候はゞ、近親の儀殊に頭跡部山城守ゟ取鎮の儀指図受候上は、身命を抛ち制方も可㆑有㆑之処、病中とは乍㆑申大筒の音相響、火勢盛に相成り、平八郎方へ近寄り難く、素同人は異見等可㆓取用㆒性質に無㆑之、無㆑詮儀と存候迚、養子善之進のみ差直し、其身は不㆓罷越㆒、其上右騒動は格之助ゟ承㆑之候企と心得候へ共、法外の所業に付親族の罪科難㆑遁場に罷在、差留方不㆓行届㆒候ては不㆓相済㆒儀と心付き、善之進介抱受け一旦摂州西宮迄立退候上、心得違の段相□、途中不㆑被㆓見咎㆒様可㆑致ため、帯し居候刀海中へ投捨帰坂致し候段、御扶持被㆑下候身分に有㆑之間敷仕方、右始末不届の科。
中追放 右与五郎養子 大西善之進 【大西善之進】
此者儀従弟大塩平八郎不㆓容易㆒企致し、右発起の期に到り与五郎頭跡部山城守ゟ取鎮方の儀、同組与力を以指図有㆑之候節、与五郎は病中にて、同人のみにては無㆓覚束㆒存附添可㆓罷越㆒旨右与力へ申達候程の儀に候上は、素親族の儀身命を抛ち取鎮可㆑申処、与五郎に先立平八郎宅近辺迄駈付候得共、火勢盛に燃上り殊に槍刀を携へ候者、多人数往来も差塞、容易に平八郎へ対面難㆓相成㆒候迚立戻り、其上与五郎任㆑申一応【 NDLJP:146】も不㆑諫同人に附添ひ、一旦遠方へ立退候始末不埒に付、押込可㆓申付㆒処、伯父の科によつて中追放。
【美吉屋五郎兵衛同女房つね】存命に候はゞ獄門 油掛町 美吉屋五郎兵衛
同 遠島 同人女房 つね
此者共儀、五郎兵衛は兼て懇意に致し候大塩平八郎不㆓容易㆒企致し、市中放火及㆓乱妨㆒逃去候に付、同人父子始め一味の者共人相書を以て、厳敷尋方触渡有㆑之、殊右企に携候哉否の儀町方役人ゟ糺受け、町預け中平八郎父子忍承候はゞ、猶更速に其筋へ可㆓申出㆒処、平八郎押して止宿の儀頼聞、不承知に於ては可㆓切殺㆒、若し訴出候へば天文を考へ忽ち承知致し、家内一同可㆓焼殺㆒旨平八郎申聞候を怖敷存候迚、女房つねに申聞け、其余の者共不㆑察様、窃に平八郎父子を離座敷に囲置き、つね儀も不㆓容易㆒儀と再応五郎兵衛へ諫言に及候ても、同人品々申諭に任せ、終に夫に随ひ内分に致し置候始末、不届至極の科。
岩蔵外十二人、存命に候はゞ引廻の上獄門 〈大塩格之助若党〉会我岩蔵・〈瀬田済之助若党〉植松周次・〈中間〉 浅吉・〈無宿〉松本鱗太夫・〈播州西村百姓源兵衛忰〉仁三郎・〈天満北木幡町〉作兵衛・〈同処典薬町〉丑松・〈同処東寺町前〉万兵衛・〈摂州下辻村百姓〉金助・ 〈無宿〉利八・栄三郎・卯之助・〈穢多〉乙吉
此者共儀大塩平八郎慢心に長じ、名家の末葉抔申触れ、救民計議と偽り唱へ、大坂市中焼払ひ、豪家の金銀貧民に分遣候積相企て及㆓一戦㆒候間、荷担可㆑致、軍功の品に寄り褒美可㆑遣間、平八郎申聞候を不㆓容易㆒儀と乍㆓心付㆒、同人指図に随ひ兵具等を著、槍刀を携へ徒党に加り、加勢に引入候者共不㆓逃散㆒様申威し、或は鉄炮打払ひ、処々放火及㆓乱妨㆒、剰へ捕方人数へ敵対致し候始末、不届至極の科。
吉見九郎右衛門【吉見九郎右衛門】
其方儀組風の旧弊、奉行の存寄を以て改革等可㆑致と素ゟの儀に候処、勤向未熟又は我意申募り、風儀に拘はる者共にて、組替申付可㆑有㆑之抔と風説承り、歎敷存じ、且は向組の者共取計向をも疑惑致す折柄、兼ねて学文并に勤向を教示受け、随順罷在る同組与力大塩格之助養父大塩平八郎、肝舌を以て弥〻心得違存迫り、其上平八郎儀近来違作打続き諸民及㆓難渋㆒、一体御政事向に付同人存意に不㆑応儀間々有㆑之、世を【 NDLJP:147】憂共心難㆑堪間、大義を唱へ往々直道に帰す様致度く、就ては計策を以て奉行を討取り、大坂御城を始、諸役所并市中をも焼払ひ、豪家の貯金等窮民へ分遣し、一旦摂州甲山へ可㆓楯籠㆒心底の旨平八郎申聞、近国へ為㆓告知㆒候積りの檄文読聞かせ、右書中には無㆓此上㆒恐多文言も認有㆑之候を不㆓容易㆒儀と乍心付、徹心致す廉も有㆑之迚、右の企に一味連判致す始末、重々不届至極に付、引廻の上於㆓大坂㆒磔可㆓申付㆒処、対㆓公儀㆒恐入候儀と賊徒発起以前、右謀計の次第忰英太郎等を以て密訴に及ぶに付、御仕置御宥恕の上取来候高の儘、御普代被㆓成下㆒小普請入被㆓仰付㆒。
吉見英太郎 河合八十治郎【吉見英太郎河合八十郎】
其方共儀、同組与力大塩格之助養父平八郎方寄宿中、同人不㆓容易㆒企致し、格之助大筒町打に託し、棒火矢等抜立候儀とは不㆑存、銘々親共其外平八郎門弟共一同右手伝致す由、同人儀御政道批判致し、其上民を弔ふ大義存立候趣抔、対㆓公儀㆒恐多き事共認載せ板行摺立、殊に袖印旗相仕立、右門弟共折々打寄密談に及ぶ様子見聞、怪敷儀と心付、上は素ゟ一味となる者名前凡相分り、右檄文の趣意も覚居候儀に付、速に密訴可㆑致処、右体不㆓容易㆒儀と銘々父の内存等相探り罷在候て、遅々に及ぶ始末不届なれ共、一味に不㆑加平八郎門弟共外出等厳重に差留有㆑之を、彼此手段致し、窃に塾中忍出で八十次郎父河合郷左衛門始、一味の者共名前相認むる書付、吉見九郎右衛門ゟ受取、同人任㆓申合㆒右企発起以前注進致すに付、為㆓御褒美㆒銀五十枚宛被㆑下㆑之。但八十次郎は跡部山城守家来へ引渡遣す。
橋本町一丁目市五郎店 冷月 【僧冷月】
其方儀於㆓大坂表㆒不㆓容易㆒企致す大塩平八郎に一味致、市中放火及㆓乱妨㆒後姿を替逃去り、河州弓削村七右衛門事利三郎とは不㆑存共、同人別善と名乗り、勢州垣鼻村海会寺所化剛岳同道、尾州出生旅僧の由申偽罷越候節は、以㆑前平八郎其外徒党の者共人相書を以て御尋の触渡も有㆑之上は、別て身元をも可㆓相糺㆒処、右両人任㆑申数日止宿為㆑致、其上利三郎病死致すに付取置方の儀、剛岳相頼迚弟子の趣に申成、菩提寺へ葬遣す始末、不埒に付、押込申付る。
名主源七代 祐助 市五郎 次兵衛 長兵衛
【 NDLJP:148】其方共儀、大塩平八郎不㆓容易㆒企一味の者共、人相書を以て御尋触渡も有㆑之上は、別して人別改可㆑入㆑念処、平八郎徒党に加り、追つて姿を変へ、別善と名乗る河州弓削村七右衛門事利三郎外一人を、町内冷月方に数日差置せ不㆑存罷在候段、畢竟心附方等閑故の儀、右始末一同不埓に付、源七急度叱り、市五郎外四人は叱り置く。
小船吉蔵【小船吉蔵】
其方儀、大坂町奉行組与力大塩格之助方奉公中、同人養父平八郎不㆓容易㆒企致儀は不㆑存其、同人儀門弟共を集め、折々及㆓密談㆒を不審の儀と乍㆑存其儘打過ぎ、其上平八郎等徒党発起の節病気にて打臥居候処、傍輩木八罷越し、平八郎出陣に付早々に可㆓立退㆒旨申聞驚、同処鈴木町桝右衛門後家とみ方へ立退忍罷在るなれ共、被㆓召捕㆒吟味可㆑受も難㆑計、気遣敷存る迚江戸表へ相越し、右次第は押隠侍奉公致罷在る始末不届に付、江戸払申付くる。但し御構場処徘徊致間敷候。
恵隆【恵隆】
其方儀大坂町奉行組与力、大塩格之助門前通る節、同人養父平八郎施行差出候由にて、多人数立入候を見受け、困窮の折柄同様施行可㆑受と存じ立寄候処、俄に門を閉ぢ刃携ふる侍十七八人立出、大坂市中の者討亡候間加勢可㆑致。不承知ならば可㆓切殺㆒旨申聞候迚、及㆓乱妨㆒儀はなく共、仔細も不㆑存人数に附添歩行、其上勢州山田妙見町喜兵衛方止宿の砌、泊り合せる同国矢川村有作便用に相越跡にて、同人処持の金子入有㆑之紙入取隠、有作に被㆓見咎㆒盗共右始末不届に付、入墨放申付る。
忠兵衛 八右衛門【忠兵衛八右衛門】
其方共儀、先達て大坂表ゟ罷越す身寄小船吉蔵、大塩格之助方に奉公致居り、同人養父平八郎徒党及㆓乱妨㆒節病身に付逃去、其後忍帰る儀は不㆑存共、久々にて罷越すならば篤と身分相糺世話可㆑致処、身寄の□ある迚、銘々受人人主に相立ち、武家方へ奉公住為㆑致る始末不埓に付、両度共急度叱り置く。
山口孫三郎 友松勘之丞 斎藤力蔵
其方共儀、大坂町奉行組与力平山助次郎吟味中、孫三郎は預㆓申渡㆒受る身分、勘之丞・力蔵は助次郎番渡し罷在上は、別して入㆑念べき処、力蔵は母りの病気にある迚、乍【 NDLJP:149】㆑暫も勘之丞へ頼合せ宅へ立戻り、同人は力蔵不居にて無㆓頓著㆒便用に相越し、両人共其場を明候故、助次郎儀番人詰所棚に差置刀箱ゟ脇指取出し、自殺致す仕儀に至り候段、心付方不㆓行届㆒一同不埒に付、三人共押込申付る。
多助 弥助 尭閣代兼慧寛 鈴木滝太郎 庄司八十八 門蔵
其方共儀、不埒の筋も不㆓相聞㆒候間、一同無㆑構。但多助・弥助は跡部山城守家来へ渡し遣す。
【平山助次郎】一、平山助次郎儀、組風の旧弊奉行存寄を以て、改革可㆑致は素ゟの儀に在処、組内勤向未熟又は我意申募る風儀に拘はる者は、組替申付可㆑有㆑之旨の風説承り、身分の掛念は無㆑之なれ共、自然右之通に成行くならば、向組へ対し不外聞の儀と歎か敷と存じ、且は向組の者共取計ふ向をも疑惑致す折柄、兼ねて学文心得方を教示受け、随順罷在る同組与力大塩格之助養父大塩平八郎、右風聞之趣等彼此及㆑噂を承り、弥〻心得違存迫り、殊に平八郎儀相聞弟子渡辺良左衛門等を以て異変の節、心掛の儀度々相尋を難㆓心得㆒存じ、容易に組内の者へ応対難㆓相成㆒、役柄をも不㆑顧平八郎方へ忍参り及㆓面会㆒、剰へ違作打続き諸民難渋に及び、一体御政事向に付平八郎存意に不㆑応儀間々有㆑之、世を憂ふる心難㆑堪間、民を弔ふ大義を唱へ、往々王道に帰る様致し度、就ては謀計を以て奉行を討取り、大坂御城を始め諸役所并に市中共焼払ひ、豪家の金銀を窮民へ分遺し、一旦摂州甲山へ可㆓楯籠㆒心底の旨平八郎申聞、近国へ告知らする由の檄文読聞せ、右書中には無㆓此上㆒恐多文言も認有㆑之を不㆓容易㆒儀と心付、徹心致す廉も有㆑之迚右企に一味連判致す始末、重々不届至極に付、存命ならば引廻之上於㆓大坂㆒磔可㆓申付㆒処、対㆓公儀㆒恐入候儀と改心致し、賊徒発起以前右謀計の次第及㆓密訴㆒に付、御仕置御宥恕の上取来る高の儘、御譜代被㆓成下㆒小普請入可㆑被㆓仰付㆒処、自殺致間其旨可㆑存。
【安田図書】一、勢州山田外宮師職安田図書儀、大塩平八郎方寄宿中、同人不㆓容易㆒企致し右発起の節、同塾に罷在無宿正一郎儀相弟子宇津木矩之丞は、平八郎存意に不㆑応者、同人指図を受け打果由を以て、荷担の儀申間候を及㆑断ならば可㆓切殺㆒体にある迚、正郎矩之丞を及㆓殺害㆒。内外に心附罷在り、殊に平八郎徒党を催し兵具を帯し、救氏の【 NDLJP:150】計議を存立て、大坂御城を始市中をも焼払ひ、富家の金銀窮民へ分遣す企に付、加勢可㆑致旨任㆑申強勢に恐れ、間合見合せ可㆓逃去㆒積り、右徒党人数に付添歩行段、及㆓乱妨㆒儀は無㆑之共、右始末不届に付、存命に候はゞ中追放。
一、勢州植鼻村海会寺所化剛岳、泉州北糸屋町医師寛輔ゟ、海会寺柏宗弟子被㆑致度旨、今以て止宿の儀頼越す。先達ては於㆓大坂㆒不㆓容易㆒及㆑企、大塩平八郎一味致す河州弓削村七右衛門事利三郎、姿を変へ身隠致すとの段、最初は不㆑存同人儀奥州仙台大念寺へ相越修行致度旨申聞、剛岳も兼ねて同寺へ道徳を慕ひ居候儀に付、幸の儀と存の義(衍カ)同伴の儀申合、後利三郎儀右企に携候由咄聞、案外の儀と存ずるなれ共、違約も致兼ね同人同道、大念寺に相越す処、宿寺の儀断受迚猶又当処所々連立歩行、追つて江戸表へ罷出で、同人尚又別善と替名を唱へ、生国等申偽り、橋本町願ひ人冷月方止宿罷在、其上利三郎病死致す節、冷月相頼弟子の姿被㆑致貰、同人菩提寺に取置遣し、殊に海会寺に罷在候節、同寺勝手に有㆑之錠前無㆑之、銭箱の金子取逃げ致し不届に付、存命ならば入墨の上軽追放可㆓申付㆒処、病死致候に付其旨可㆑存。
一、庄司儀左衛門始一味荷担の者共、放㆓大坂表㆒夫々御仕置申付候間、其旨可㆑存。
右之通申渡の趣、一同請書証文申付る。
上野執当代 現龍院 触頭海福寺代 一音
右証文へ奥印申付くる
跡部山城守家来 恩田儀兵衛
右之通申渡、河合八十次郎外二人を引渡し遣す間、得㆓其意㆒主人へ可㆓申聞㆒。
細川越中守家来 後藤善右衛門 酒井大和守家来 福岡 松本忠温侍 与沢為蔵
右之通申渡間、得㆓其意㆒銘々主人へ可㆓申聞㆒候。
戌八月廿一日
右は於㆓江戸表㆒牧野備前守殿ゟ申渡の書付を写取候なり。尤大塩以下三平・美吉屋五郎兵衛等の被㆓申渡㆒は、前の拾札の写に委敷記置候故、略して吉見九郎右衛門へ被㆓仰渡㆒、已下を写置者也。
一、死罪 摂州沢上江村与一右衛門忰 孝太郎
【 NDLJP:151】此者儀大塩平八郎学文弟子に相成り。同人塾中に罷在追つて退塾致し候後、平八郎不㆓容易㆒企致し、右荷担に可㆓引入㆒ため、忠孝の端に可㆓相成㆒事は、如何の儀も師命に背間敷趣の誓詞可㆑致旨、同人申聞候を不審の儀とは不㆑存、右誓詞へ血判致し、又は平八郎施行金の世話相頼候節、天満辺出火有㆑之候はゞ、同人方へ馳付候様、施行金遣候者へ可㆓申含㆒旨、及㆓指図㆒候を如何の儀とも不㆓心付㆒、夫々申伝へ、其後平八郎儀、養子格之助屋敷内溜池埋候人足品々可㆓差越㆒段段間、并村々へ可㆓拾置㆒旨を以て、黄絹袋へ入候檄文相渡し、其節に至り怪敷儀と乍㆓心付㆒、右施行金取次遣候者共へ申触、平八郎へ差遣し、其上右檄文中対㆓公儀㆒、恐多事共書載有㆑之候を追て及㆑見、不㆑軽企之次第相弁候上は、速に其筋へ可㆓訴出㆒処、右申付を相背候はゞ何様の後難可㆑受も難㆑計存候迚、村内其外近村々へ右檄文配達致し、或は捨置候始末不届に付、死罪。
一、遠島 河州守口町百姓 彦右衛門
此者儀大塩平八郎民を救ひ候手段存立、大坂市中豪家の町人共貯金取上げ、貧民へ分遣候積の企に親孝右衛門も同意致し候趣、同人申聞不㆓容易㆒儀に候得共、親の悪事訴出の儀歎ヶ敷存、折を見合せ諫言可㆑致と忽せに打過ぎ、殊に平八郎徒党を催し放火及㆓乱妨㆒、捕方人数に被㆓打立㆒逃去候の由承り、始て右企の本意相弁候後、尊延寺村次兵衛弟才治郎儀、平八郎加勢として人足共大勢引連れ、鉄炮・竹槍等為㆑持馳附候積、彦右衛門宅へ立寄候はゞ差押可㆓訴出㆒処、孝右衛門不届の露顕を厭ひ、平八郎敗走の次第才治郎へ咄聞及㆓異見㆒、其節同人持越候右鉄炮・竹槍預り呉候様任㆑申、不筋の儀と乍㆓心付㆒右品為㆓取隠㆒、内分に致置き、追て罪科難㆑遁存じ姿を変へ、所々忍び立廻り罷在候始末不届に付、存命に候はゞ重追放可㆓申付㆒処、依㆓父之科㆒遠島
一、遠島 摂州般若寺村百姓勝治郎兄 富三郎
此者儀大塩平八郎民を救候手段存立、当表市中豪家の金銭取上げ、難渋人へ分遣し候積の申合に、親伝七も同意致し、右に付ては多人数騒立候儀も可㆑有㆑之候間、平八郎宅最寄異変出来候由承之、早々可㆓馳付㆒旨伝七申聞候を不㆓容易㆒儀と乍㆓心付㆒、平八郎兼ての取計を信用致し承知の旨相答へ、殊に天満辺出火異変の由承り、百姓の身分刀・脇指を帯び同人方へ馳付けつゝ、途中平八郎徒党の者共抜刀の槍・長刀等携へ、【 NDLJP:152】又は鉄炮打払候を見受怖敷存じ、其場を逃去候後、右体不㆓容易㆒企に伝七も荷担致し、同人指図に随ひ一旦右場所へ馳付候上は罪科難㆑遁存じ、帯居候刀取捨て、河州野崎村寺院に隠れ罷在候始末不届に付、存命に候はゞ脇指取上げ重追放可㆓申付㆒処、依㆓父の科㆒遠島。
一、所払 〈 治三郎 摂州世木村百姓〉
此者儀大塩平八郎企に荷担致し候儀は無㆑之候へ共、右徒党に為㆓引入㆒、兼ねて同人門弟共ゟ貪取候金子を以て、買調へ候書籍等売払ひ、右代金施行と唱へ呉候儀は不㆑存、慈善の取計と心得貰受候節、自然大坂天満辺出火有㆑之候はゞ、平八郎へ馳付候様摂州般若寺村忠兵衛申含候を、如何の儀共不㆓心付㆒、殊に平八郎徒党を結び、当表市中及㆓放火㆒候を出火と見受け、右施の恩義を存候迚途中迄罷出で、其上近村の者共一同吟味受け、平八郎欺謀の次第等諭請け、何れも発明致し深恐入候処、此者共平八郎欺謀厚く信用致し、究竟同人叛逆を企候故、真実施行の恩恵迄手段の様に成行候抔心得候ゟ、右勘弁に取紛れ白洲へ手を突候儀も打忘察度受候節、一旦右心底の趣申立候段、追つて平八郎巧の次第相弁、先非を悔い恐入候へ共、右始末不届に付、存命に候はゞ所払。
一、重追放 河州杉村百姓 小右衛門 【小右衛門】
一、同断 同州穂谷村百姓 利右衛門 【利右衛門】
此者儀尊延寺村治兵衛弟才治郎儀、西国筋ゟ当表へ攻来候者有㆑之、右に付同人師匠大塩平八郎儀も存立の儀有㆑之、及㆓一戦㆒候積に付、加勢に可㆓相越㆒、弥〻右存立通致㆓成就㆒候はゞ、品々身為に可㆓相成㆒趣申聞、不承知に候はゞ可㆓切殺㆒旨申罵り、平八郎存立の次第認候由の書付読聞候節、右文段は不㆓聞馴㆒儀故解兼ね、対㆓公儀㆒恐多事共とは不㆑存候共、御時節柄不審の儀と乍㆓心付㆒、平八郎相手も聢と不㆓相糺㆒強勢に怖れ、且は利欲に迷ひ、右村方の者共一同鉄炮・竹槍等携へ、才治郎に附添参り、同人儀平八郎敗走の趣承り、同人企に一味の次第申明すならば、早速差押へ可㆓訴出㆒候処、才治郎身隠致し度由を以て、引連る者共食事等の世話相頼むを不筋の儀と乍㆑存引受、取賄遣す始末不届に付、存命に候はゞ両人共重追放。
【 NDLJP:153】一、中追放可㆓申付㆒処、依㆓主人の科㆒遠島 大塩平八郎妾 ゆう 【平八郎妾ゆう】
此者儀主人平八郎不㆓容易㆒企致候儀は不㆑存候共、病気養生の為平八郎任㆓指図㆒、同人忰弓太郎并召仕等一同摂州般若寺村忠兵衛方へ罷越し逗留中、平八郎へ及㆓相談㆒候由を以て、猶又忠兵衛家内の姿にて、同国伊丹伊勢町幸五郎方へ相越止宿致し居候様、忠兵衛申聞候はゞ怪敷儀と可㆓心付㆒処、実に病人を厭ひ取計候儀と存じ、強ひて仔細も不㆓承糺㆒一同幸五郎方へ止宿致居り、殊に平八郎企の次第乍㆑承弓太郎等の身分落付の儀心掛、処々忍び立廻り候始末不届に付、存命に候へば中追放可㆓申付㆒処、主人の依㆑科遠島。
一、中追放 天満小島町医師李白忰 貞助 【李白忰貞助】
此者儀大塩平八郎企に一味致候儀は無㆑之□しとも、同人心腹の程計綴り候由申聞、対㆓公儀㆒恐多事共認載候檄文為㆑見候節、不㆓容易㆒儀と心付候はゞ、早速其筋へ可㆓申立㆒処、平八郎平常御政務を批判致し候者毎度の儀に付、門弟共及大言の儀と存じ其儘に打過ぎ、殊に平八郎儀多分の書籍売払ひ、右代金難渋人へ施遣候趣を以て世話可㆑致旨申聞候期に至り、弥〻怪敷儀と乍㆑弁推察又は及㆑見候迄の儀、卒忽に訴出、若平八郎申紛候はゞ却て何様の仇可㆑受も難附計存候迚、内分に致置候始末不届に付、存命に候はゞ中追放。
一、中追放 泉州堺北糸屋町医師 寛輔
一、摂河両国を構、江戸十里四方追放 〈 こと同人女房〉【医師寛輔并女房こと】
此もの共儀、寛輔はこと弟河州弓削村七右衛門事利三郎相越し、大塩平八郎方へ止宿致し候折柄、同人救民計議存立て、富家の金銀取上げ、貧民へ分遣候積の由にて徒党を催し、味方不㆑致候はゞ可㆓切殺㆒抔申聞候に付、強勢に怖れ右徒党に加り附添参候途中、捕方役人に被㆓追散㆒逃去候旨申聞候を実事と心得候共、素不㆓容易㆒筋に候上は召連可㆓訴出㆒処、利三郎只管相歎不便に相成候迚、同人の任申剃髪為㆑致、勢州垣鼻村海会寺柏宗方へ手紙相添為㆓立退㆒、ことは夫寛輔右体不筋の取計致候も、畢竟利三郎は弟故の儀と存じ再三差留候儀に候共、続合に不㆑拘利三郎身分難㆓見捨㆒由を以て寛輔承引不㆑致候迚、同人申付に随ひ罷在候始末、両人共不届に付存命に候はゞ【 NDLJP:154】寛輔は中追放、ことは摂河両国を構、江戸十里四方追放。
一、中追放 河州大蓮村大蓮寺隠居に罷在候 正方 【正方】
此もの儀、甥河州守口町孝右衛門外一人相越し、大塩平八郎民を救候計議と唱へ、多人数徒党を催し、味方不㆑致候はゞ可㆓切殺㆒旨申聞候に付、強勢に怖れ同意致し、鉄炮等打払ひ当表市中放火及㆓乱妨㆒候処、捕方人数に被㆓打立㆒逃参り候由申聞候はゞ、早速差押可㆓訴出㆒処、親族の儀不便に存候迚、孝右衛門任㆑申鋏貸遣し剃髪同様の姿に致し、袈裟衣・経文等呉遣為㆓立退㆒候始末不届に付、存命に候へば中追放。
尊延寺村 忠右衛門 【忠右衛門新兵衛】
一、両人共存命に候はゞ引廻の上獄門 無宿 新兵衛
此者共儀、同村次兵衛・才治郎、兼ねて大塩平八郎不㆓容易㆒企に致㆓一味㆒の処、右企発起を察し致㆓加勢㆒候積を以て、右村百姓等多人数呼集候節才治郎に荷担致し、同人指図に随ひ、右加勢に相越候はゞ品々身為に可㆓相成㆒抔申聞、同村亀右衛門其外の者共相勤め又々申威し徒党に引入れ、才治郎用意致置候鉄炮・竹槍等取出し、右の者共に為㆑持摂州長柄村迄罷越、殊に新兵衛は平八郎敗走の趣承り、才治郎に附添ひ逃去り、同人身隠の世話をも乍㆑致、忠右衛門倶々最初糺の節、品能く申紛し罷在候始末不届至極に付、存命に候へば両人共引廻の上獄門。
一、存命に候はゞ死罪守口町彦右衛門方に罷在候 同人従弟 儀次郎 【儀次郎】
此者儀大塩平八郎頭取徒党を結び、当表富家の町人共焼払ひ、貯㆓金銀㆒窮民共へ分け可㆑遣由の企、彦右衛門親孝右衛門も一味致し、右異変発起の節奉行処最寄へ徒党人数の内伏置き、及㆓放火㆒、捕方の気先を可㆑折手筈にて、松江町辺貸座敷借置候趣を以て、加勢可㆑致旨孝右衛門申聞候に同意致し、彦右衛門下男と偽り右貸座敷へ引移り、追て平八郎等市中放火及㆓乱妨㆒候段承り、兼て同人より譲り受け候刀・脇指を帯び、放火の指図相待罷在候始末不届に付、存命に候へば死罪。
一、存命に候はゞ死罪 摂州般若寺村 卯兵衛 【磐若村卯兵衛】
此者儀、大塩平八郎養子格之助屋敷内溜池埋候人足に被㆑雇居候内、米価高直にて諸民及㆓難渋㆒候趣に付、大坂市中豪家等打毀ち、所持の金銀分け遣候積に候間、其節は【 NDLJP:155】可㆓召連㆒、若不承知に候はゞ可㆓切殺㆒旨平八郎申聞、怖しく存候迚不㆓容易㆒儀と乍㆑弁承知の趣相答へ、殊に同人儀一揆蜂起可㆑致も難㆑計、早々人夫召連参候様申聞候を、右企発起と察し態と同人方人足入用の由、村内忠兵衛伝言の趣申欺き、小前の者共大勢引連れ途中迄罷出候始末不届に付、存命に候へば死罪。
〈瀬田済之助養父〉瀬田藤四郎・〈尊延寺村〉治兵衛・〈同人母〉のぶ・〈衣摺村〉市太郎・〈同村〉八左衛門・〈伊丹〉植松善右衛門・〈河州小川村医師力之助事〉志村周次。
此者共儀一件申口の趣にては、大塩平八郎荷担の者に無㆓相違㆒処、吟味以前縊死又は欠落、或は吟味中病死致候に付、此旨可㆑存候。
井伊掃部頭家来 宇津木下総病気に付
名代 宇津木十郎次
下総弟宇津木矩之允儀、大塩平八郎不㆓容易㆒企に不㆑致㆓同意㆒、発起の当期に相果候儀に付、矩之允死骸勝手次第可㆓取置㆒候。依㆑之同人碑文・詩集共渡遣し候。
油掛町 美吉屋五郎兵衛娘
家財は町内へ御預けなりしが以㆓御憐愍㆒其儘被㆓差置㆒十二月に至り闕処と成り、娘家へ引取となる。
五貫文過料、同町年寄、同断同五人組。過料可㆓申付㆒処、以御憐愍其儘に差置、 〈兵庫〉柴屋長太夫。商売柄とは申しながら過分の焰硝御届不㆓申上㆒商候段、不埒に付三貫文過料。〈大坂堺筋〉高三喜兵衛。急度叱り置。〈大阪唐物町〉馬具屋安兵衛〈外に馬具屋両人〉
九月十八日大塩掛被㆓召出㆒候分、凡千人計り、尤附添共也。百六十人無㆑構、九十五人 五十百の所払、四十人改て牢舎・手錠等被㆓申付㆒。十月中旬、七十人計被㆓召出㆒、九月十八日手錠被㆓仰付㆒候。落文の板摺致し候者両人、其外左様の類七十人計り御免。兵庫西出町柴屋長太夫は無㆑拠平八郎へ金銀を貸し、右御吟味御咎牢へも入り、不㆑怪処の者迄迷惑に及び、此度御叱の上十貫文過料。平八郎身上を不㆑弁大嵩なる金銀貸与候段、其節不審の趣を届不㆑申段、不届至極の御咎なり。
浮世の有様巻之八 終
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