目次

野口市郎右衛門見聞の記録大塩凶乱の最初三井呉服店に乱入御公儀人数次第町在に出せる口達賊徒人相書の廻文大塩平八郎大塩格之助瀬田済之助浦へ出せる触書大塩与党の人員及び武器凶徒人相京都の防備凶徒竄滅を悟す東奉行の留任を奏請す三吉屋五郎兵衛宅より出火大塩最後の状況跡部山城守賞せらる大塩凶乱に就いての聞取風聞書大塩凶乱は一朝の軽挙にあらず平八郎諫を納れず高麗橋辺の張紙大塩蔵書を売却して人民に施行す茶道具を入札せんとす大当りの芝居大塩の一件と酷似す凶乱勃発当時の騒擾士初めて武を試む凶乱の一件を万歳に作る落人生捕らる大塩書状を老中に奉る討伐の議遅延の理由大塩鷹司相公へ献書本書編纂の由来御代泰平を謡ふ大坂城番の諸役大塩の才智大塩隠居今川義元の裔なりと自称す平山助次郎大塩叛逆の由を報ず凶乱の報を得たる態度大塩一件露顕徒党放火す官軍部署を定む賊徒横暴鴻池善右衛門方へ入る三井に乱入平野橋辺の迫合賊徒火術掛討たる牢屋敷罪人を出牢せしむ凶徒の頭立者を求む防火の手配鎮火賊徒遺失の用品賊徒連判の人数大塩平八郎及び格之助小泉淵次郎渡辺良右衛門瀬田済之助近藤梶五郎庄司儀右衛門瀬田藤四郎及び一族平山助次郎吉見九郎右衛門宮脇志摩守梅田源左衛門松本林太夫杉山三平白井幸右衛門竹上万三郎大西与五郎同善之進深尾治兵衛大塩の家人入牢の諸士瀬田済之助中間横山文済卯木俵二額田善右衛門大井正市郎三好屋五郎兵衛同妻永井丈左衛門大坂市中焼失の次第焼失町家竈数大塩騒動に就いての戯書

 
オープンアクセス NDLJP:35     野口市郎右衛門見聞之記録野口市郎右衛門見聞の記録

一、天保八年丁酉二月十九日朝五つ時、天満川崎御組屋敷大塩平八郎宅より出火の由、大塩凶乱の最初例の通り人足夫々差出し候処、右平八郎を大将と致し同志の者余多、手に槍・長刀白刃を持ち、大筒にて同人北側朝岡助之丞宅へ打込み、其外或は火を懸け乱妨に及び候に付、大坂三郷火方人足の者共も難近付、前代未聞の騒動に相成申候。乍併家家へ乱入の已前旗様の物を持ち歩行き、無程焼打致し候間、大切の品持逃候様申候て、其後白刃にて人々疵付不申様追払候申合と見えたり。扨平八郎一隊は組与力町東西共不残火を懸け、天満十丁目筋へ乱騒致し、一隊は東寺町天神境内・天満御堂仏照寺辺へ火を懸け、木炮を車に載せ曳き歩き、天神橋へ一集に相成押寄せ候に付、御公儀の令にて右橋板を役人村人足を以為切落候、因之悪党の銘々難波橋へ走り付南側へ相渡り候。但天満市中へ火を懸け、乱防の砌は緩々相懸り候へ共、市の側へ差懸り候砌天神橋切落し候に付、火急に勢を進め難波橋へ渡り候也。依之大根屋抔不思議に免れたり。又天神橋詰より船を奪ひ、藍屋橋辺へ上陸致し候人数も有之。此者共東堀辺より上町へ乱入致候由、此時九つ時なり。扨悪党の銘々北浜家々を大筒打込み火を懸け、今橋筋へ出で、鴻池善右衛門前に旗を立て、槍白刃にて乱オープンアクセス NDLJP:36妨大筒を放し候に付、家内の者漸〻手許の者少しく持逃れ蔵々等も締切り候遑無之無慚至極と可申候。勿論同苗他治郎・庄衛方、庄衛方には早朝より、土州屋敷へ納銀有之、大体七歩通りも相運び候処、右の次第騒動不大方、乱入の者諸蔵を為開火を付け候抔余程盗取り候様に相聞え候。蔵数火の入候は此庄衛方一番夥しく見受候也。但庄衛手代の者話には、折節外の方へ参り此騒動を聞付け、東堀迄馳付候処、自分店金箱沢山浜より船に積み、又は散乱致候に付、乍怪馳付候処、右の仕合跡にて、掠取り候次第思ひ当りたりと云ふ。此砌川西には此辺騒動の儀無思懸候て、余も紀伊国橋筋かいや町にて善右衛門殿に引合候処、手代二人被召連南へ被走候を無何心挨拶そこに致し、追々東辺の沙汰承り、此時自分宅を漸〻逃出で、阿波屋善五郎宅迄逃候途中なり。跡々で大に気毒なる挨拶に及び候段心付候。高麗橋筋へ出で、三井呉服店に乱入三井呉服店にて食事を認め、衣類蔵・唐物蔵為開火を付廻り、大筒にて驚かし岩城同断一隊は、三井両替店を騒がし候心得に候処、先手平野町筋の党より火急に呼に来りたりとも云ふ。又焰硝処持の人足相後たりとも云ふ。夫故両替店は免たり。扨平野町を乱妨に及び淡路町・堺筋へ出候処、折柄堺御奉行曲淵甲斐守様御人足に御城付御鉄炮組与力坂本源之助・浅羽隼人、并同苗三太郎悪党共を散々に打散し候に付、此処に於て悪党共行方不知成行き申候。但此一条差起り候に付、両替店近辺迄人数を呼に参り候哉と後にて心付候由。淡路町一丁目西北角同所南側に二人鉄炮疵にて斃居候。又堺筋少し西手には大の男鉄炮にて斃れ、右首を槍貫き諸人を被鎮候。是東奉行の御計なり。残り両人の首廿二日朝斬取り帰り申候。西辺は此散乱にて、皆々無事なる事全く坂本・浅羽両人の功なりと云ふ。此時は平八郎・格之助は上町辺を乱妨致し候由と云ふ。是も本町にて行衛相知不申候由に候事。

     御公儀御人数次第御公儀人数次第

跡部山城守様、与力五十人・同心百人。後陣防方玉造口組・京橋口組。右十九日未の上刻御手当、其夜より翌日迄通し

御本丸御殿、菅沼織部正様。同桜御門、北条遠江守様〈百騎衆父残〉二の九京橋口、土井能登守様小笠原信濃守様。二の丸青屋口、井伊右京亮様、同玉造口。遠藤但馬守オープンアクセス NDLJP:37〈御名代御家老鷹見重郎左衛門〉

御番頭・御物頭・大目附・給人四人、都合七人替りにて詰める。北仕切御門・南仕切御門、御番頭・御給人三人宛詰通し。米倉丹後守様御組与力・京橋口御番所与力十騎、廿五人詰通し。山里の内東西仕切御門は土井能登守様・〈御家来〉小早川湊・〈同〉大生隼人・御給人二人宛詰替り。山里丸御家老大生仁衛門。丁木坂御門米津伊勢守様、築違御門遠藤但馬守様御家来。

大手先四手共土橋先柵を組有之。柵の外に百五十人詰。

土手南手松平遠江守様〈取方囲の陣〉・同西手渡辺備中守様御陣・同本町口岡部内膳正様御陣・土井大炊頭様御家老・長尾組高正様。

  右御金蔵北手魚鱗。

玉造口土橋先柵の外与力・同心持。御加勢として、松平甲斐守様・植村伊勢守様。

京橋口土橋先与力・同心にて持つ。御加勢、九鬼大隅守様・永井飛騨守様・稲葉丹後守様本町橋御出張、北淵甲斐守様。西御役所、堀伊賀守様。〈東御役所等預り〉

天満橋持口、土井大炊頭様御人数・堀伊賀守様御人数。高麗橋、浅羽隼人・同苗三太郎・万才隼之助、外に与力十二人。

一、同廿日子の刻鎮火に相成り、雨降出す。廿一日大雨是にて人気納まる。

     市中并在々迄口達有町在に出せる口達

悪党者所持致候飛道具類不残御取揚げに相成候間、此段安心可致候。此趣町々より相達し可申候以上  丙二月廿日

賊徒人相書の廻文一、十九日夜諸屋敷へ廻文人相書の写      ​松平遠江守内​​  稲葉左近右衛門​​ ​

廻状啓上候。然者今十九日大坂市中及乱妨候好賊、元大坂町奉行与組力大塩平八郎・同格之助・瀬田済之助、同組同心渡辺良左衛門・近藤梶五郎・庄司儀左衛門其外の者は逃去候に付き人相書左の通。

大塩平八郎大塩平八郎。年頃四十五六歳・顔細長く色白き方・目張強き方・眉毛細く濃き方・額開月代薄き方・鼻耳常体、脊格好常体。其節著用、鍬形附き兜著、黒き陣羽織其余著込不相分

オープンアクセス NDLJP:38大塩格之助大塩格之助、年頃廿七歳計り・色黒き方・脊低き方・鼻目常体・上向歯二枚折有之眉毛濃き方。

瀬田済之助瀬田済之助、年頃廿五歳計り・色青き方・脊高く肥肉・目丸く大きく二皮目・月代薄き方・小額有之・眉毛薄濃き方。

渡辺良左衛門、年頃四十一二歳・色白き方・脊低き方・二皮目大きく出目・月代常体・出歯。

近藤梶五郎、年頃四十歳計り色赤く丸顔薄・斑黒有之。脊低き方・目丸く常体・月代常体・角抜有之。

庄司儀左衛門、年頃四十歳計り・色黒くおとがひ細き方・左の耳つぶれ・目細き方・月代常体。右之者共当地并御領内にても、見合次第召捕又は及仕儀相捨候共不苦候間、早々御領内御吟味有之。疑候何者入込候はゞ縦令人違にても不苦候間召捕り、大坂町奉行所へ可差出候。右の趣朝岡助之丞を以被仰出候。各〻拙者より可通達候旨被仰付候条如斯御座候。艮の刻御□達の上、御廻留より返却可下候。已上稲葉左近右衛門へ廻状。只今両奉行所より御指図御座候。右は今朝よりの変事大火に付、艮の刻御人数被差出候様御城代并雨御奉行所へ向け差出候様被仰付候。尤も手向の者有之候はゞ切捨候ても不苦候旨、是又御指図に御座候。此段可御意候との事。

  二月十九日 諸家様・御留守居様・御役人中様

     浦触書之写浦へ出せる触書

此度於大坂容易儀相企候、大塩格之助父平八郎へ致徒党候忰格之助并に瀬田済之助・渡辺良左衛門・近藤梶五郎・庄司儀左衛門、其外名前不知者行衛不相知、船にて逃去候程難計候間、怪しき者は勿論廻船・小船・魚船等にて、他国相頼候共、決して貸申間じく、如何体にても手当致し取逃不申様其所へ留置き、早々大坂町奉行所へ訴候へば、為褒美銀百枚、手伝候者へ相応の褒美可差遣候条、此旨相心得津々浦々にも不洩様早々相触候者也。

 但此御触状先格之通り浦継ぎ無滞相廻触留より、大坂東番所へ持参可致候也。

オープンアクセス NDLJP:39     悪党者乱妨の次第大塩与党の人員及び武器

〈[#図は省略]〉 平八郎先手持参目標旗桐の紋は今川家の心意

〈[#図は省略]〉 湯武両聖主天照皇太神宮 八幡大菩薩 三神一は上の図の如く、一は東照大権現とす。又題目の印も有之。

〈[#図は省略]〉救民

   〔この処行列あれども前編二七九頁に出でたれば爰に略く〕

一、大坂勘助島天満屋忠兵衛方に罷在候

 当西十四歳                松本林太夫〈淡路町藤井省吾女房連れ子松本官吾へ遣し候由〉

右の者七ヶ年已前より平八郎に寄宿致し有之候処、此度一味致し、十九日市中乱妨に及び候砌、淡路町堺筋にて散々被打乱候節逃去候由申之。右林太夫白状の次第にて右人数の次第組方相知れ候趣。

一、武□拾匁筒五挺、内二挺は成瀬正兵衛・八田衛門太郎方にて奪取る。外に三匁筒七挺・大筒・鍬筒は兼ねて丁打□みに公儀より拝借の分。

鉄筒

〈[#図は省略]〉車に載せ用ふ

筒長四尺余、台共五尺。金象眼登龍の紋あり。其外七拾目筒、銀象車輪の紋。

     再三相廻り候人相書凶徒人相

河井郷右衛門〈正月下旬出奔〉年齢四十歳計り・顔白き方・鼻の上に疱瘡の跡あり。右の耳たぶ色変り有之。眉毛常体・目常体少し赤き方・脊中肉・月代薄く髪赤き方・舌常体

大井正一郎〈玉造組与力〉年齢廿五六歳計り脊高く瘠せたる方・顔細長く色赤黒き方・眉毛濃き方・眼常体・耳常体・舌静なる方。

西村利三郎。廿四五歳計り・脊低き方、下略

志村周次〈江州小川村〉三十計り・脊高く中肉、下略

オープンアクセス NDLJP:40堀井義三郎〈播州加東郡西村堀井源兵衛忰〉廿三四歳計り脊常体、下略

曽我岩蔵〈平八郎家来〉四十六歳計り・脊低き方、下略

阿部長助〈同断天満五丁目阿部屋久本左三衛門弟〉二十歳計り・中脊中肉、下略

喜八〈平八郎仲間〉五十二三歳計り・中脊中肉、下略

信助〈右同断〉五十歳計り・脊低き方。

忠五郎〈右同断〉四十歳計り・背高き方、下略

     落文の写(〈前編巻之六、二七一頁に既出に付き略す〉

     右黄色の絹に包み上書

〈[#図は省略]〉太神宮 礒部九大夫

但この紙一枚に板を摺り、板木は横に四枚・五枚宛ならん。摺後につきたる者也。此写初壱枚字並び、大抵本紙の趣なり。

一、廿一日守口駅へ、松平遠江守様御人数五百人計り出陣。但し京橋玉造与力・同心是も人数打揃ひ差向ふ。

一、同日岸和田岡部内膳正様吹田へ被差向候由。宮脇志摩は吹田神主の由に付、出陣蔵屋敷方へも御頼み有之、屋敷方人数御加勢に差向もあり。

 ​松本林太夫​​  十四歳​ 勘助島にて召捕  渡辺良左衛門河州恩地山にて自害  瀬田済之助 河州弓削村にて首くゝり  竹上万太郎 中山宿にて生捕  白井孝左衛門伏見にて生捕 ​才之助父​​ 瀬田藤四郎​​ ​ 河州にて召捕牢死  宮脇志摩守 吹田自宅にて養母を切害一里計退畑にて切腹  庄司儀左衛門 奈良にて生捕  吉見九郎右衛門新屋敷証所にて生捕病死  小泉淵次郎 奉行所用人竹島善之丞討取る  橋本忠兵衛 淡路町にて戦死  近藤梶五郎 自宅焼場へ帰り自殺

一、御加勢御備の為、高槻・岸和田・尼ヶ崎・姫路・郡山。

夫々御大名人数追々到著、後日には御断に相成り、悉く被差帰候。近国山手御備方厳重に往来を改められ候事数十日なり。

京都の防備一、京都には六門御防備有之、御所司代昼夜御出役。人数懸る厳重の段、奉恐入オープンアクセス NDLJP:41次第也。

但し京都禁裏・仙洞御所各〻昼夜の差別無く、禁門有之内可笑き話あり。如何なる事にや、江州彦根の社頭神主異形の装束を著し、鯛を一懸け持参にて、公家御門より案内を乞ひ候に付、堂上御詰御役より与力に尋ねさせ候処、霊夢に依つて参内致候段申述べ、甚以て無礼不骨の段追払候。右禁門中に付、掛り与力閉門狂人と相見え申候。

 去十九日奸賊共市中及乱妨候始末申上候。跡部山城守・堀伊賀守〔前編巻之六、二五八頁にあれば略す〕

 大塩平八郎父子居所相知れ、自殺仕候儀申上げ候。跡部山城守・堀伊賀守〔前編巻之六、二六二頁にあれば爰に略す〕

 口達写〔前編巻之六、二九四頁にあれば略す〕

下げ札  類焼の者共家財広場途中へ持出し、自身に番致し罷在候分掛り町へ申付け、右家財預り遣候間、致安心芝居へ罷越御救受候様、其場所にて相達し申候。其段相心得置き申候事。

     口達写

凶徒竄滅を悟す去る十九日放火及乱妨候者有之候より、女子供等別て相恐れ今以て危ぶみ候者も有之哉に相聞き候。右悪党共の内重立ち候者追々召捕、或は自殺致し候者も有之上は安心致し、諸商人売買は勿論、来月雛祭り等の儀無懸念例年の通り相祝、取引等可致候。右の趣三郷町中末々迄不洩様可申聞事。

  酉二月廿八日

但最初二月廿一日御触は、類焼の者外へ荷物を持出し、雨天に相成り傘はなく、夥敷く難渋の者有之。道具等盗取り候者多く有之、中々言語に不述体故、御口達有之、実に難有仕合に御座候。

芝居は道頓堀芝居一統へ参り、町人へ申付け、預り荷物運渡し、中々御仁恵の程と涙をこぼし候。但二月廿八日御口達は、日々此一件に恐怖致し、大体は表を締め、両替等も取引相止み、今や押寄来候哉と様々浮説も風聞有之に付、被オープンアクセス NDLJP:42候なり。右の外普請方へ高利を貪不申候様、商人の同段肥類等又何国の普請方にても差支無之段、御達有之願、右京都ゟも大工職へ下り渡を致し候事。

    乍書付を以奉願上 北組町々総代廿組通達年番町年寄共

一、東御奉行様御儀、去る甲七月より当表御在勤被在候処、追々米高直に付、市中一統及難渋候段被聞召東奉行の留任を奏請す米直段引下げ方格別御心配被成下、去秋已来追々御救方被在候に付、市中一統難渋の者共時節柄を相凌ぎ、且は莫大の御救米被下置候に付、自ら市中静謐にて安堵仕り取続候段、広大の御慈悲難有仕合に奉存候。然る処去月十九日市中乱妨の者有之、格別の御心労被在候。依之追々人気相鎮まり、其上類焼難渋の者共御救被在、御仁恵の程重々難有。後年に至無忘却恐奉感悦候。全く当地為繁米の種々御心労被在、町人共御仁徳を奉慕候儀にて候。恐多く御座候得共、何卒当表久敷御在勤被在下候はゞ、此上の御慈悲難有可存候間奉願上候段、町人共一統申上候に付、恐多く御座候へ共、私共為総代、此段奉願上候。乍憚各〻様より宜向き御願上被下候はゞ、難有仕合に奉存候、已上。

  天保八年西三月五日             ​大坂三郷町人総代​​ 弐拾町年寄中名前​​ ​

    総御年寄中

西御奉行様は当御詰寔に近代と違ひ、米価凶饑に付御世話様有之候上、右の大変と申し昼夜嘸々御心労と奉察上候事也。右変後牢屋敷は焼失、天満橋高(原カ)高津新地御救小屋等被仰出様の御仁恵の程、難有仕合とや可申候。

三吉屋五郎兵衛宅より出火三月廿七日朝五つ時、靱油掛町三吉屋五郎兵衛居宅より火起り、早速役人・村火防方等馳付け、火鎮まり候。其仔細は右三吉屋五郎兵衛と申す者、兼て平八郎へ出入致し候に付、企一件の旗類・手拭類等を染候を受取り仕立て候に付、御不審にて町預け被仰付〈三吉屋は更紗形染物売買也〉然る処如何成心得にや、平八郎・格之助を二月廿四日よりかくまひ置き、密々一室にて為暮し候処、女房一人の外家内八九人共相知る者無之内、下女三月出替りに付暇取り候を不遣候に付〈右下女平野郡の者にて宿元へそと帰り候由。〉親里へ宿元の様子を語りしにより、親元所役人へ話候儀、但一説には、兼て五郎兵衛倹約の仁にて、殊更オープンアクセス NDLJP:43米価高直の折柄、飯焚下男の者へ升合ますあひを厳敷申付候処、右大変後寛濶と相成候哉、一日分壱升計り焚き余り候得共、何共不申出候段不審に存じ候折柄、三月出替りに差向ひ候に付暇取り致度く申出候処、給銀等相増し差置き候。尤右下男平野郷の者にて、宿元へ見舞旁〻帰り、此節米価高直作並の話に成り、右俄に余分に焚候ても厳敷く主人不申出趣抔申候。平八郎染物掛候て、御咎一条色々話を友達へ致し候より、御代官処へ告訴候者有之候〈御城代掛りの場也〉夫に付き御城代掛りへ訴へ、御聞込みに相成候事共云ふ。

大塩最後の状況一、廿七日前夜より御城代方役人靱辺内密にて被取囲候を、御町与力へ内々御注進の者有之。猶又西御町与力内山彦二郎殿被差迎、内々前夜より火方等も手当有之候由。右彦二郎殿〈今一人は関弥左衛門殿〉五郎兵衛を被召寄、町内役場にて厳しく及吟味、遂に白状致し即刻五郎兵衛宅へ被差向候。已前御合役夫迄に被差向候節、五郎兵衛勝手騒動の様子にも相聞え候に付、平八郎物蔭よりそと相窺ひ候処、与力・同心被差向候に付、格之助飛道具と大声にて相叫び、夫より一室にて焰硝に火を懸け、格之助を殺し自分はけしからず周章転倒の体なる処へ、彦二郎殿差向ひ差詰め、縄を懸け候やと被呼候処、縄は懸かり不申切腹致し候と申候。尚彦二郎差向ひ候段、平八郎祝著の由大声の語合にて、火中にて自殺に及び候。夫より火中を引出し二人の死骸を駕籠に入れ、本町筋を高はらへ相送らる。

但折柄駕籠の用意無之、医者駕籠に平八郎死骸火中にて髪究ち焼ふすぶり候内、格之助は常の駕籠に載せ跡より五郎兵衛も駕籠にて被送。〈五郎兵衛駕籠は垂れ上げむき出し也二人は外より見えぬ様に釘付けの様子〉与力・同心附添ひ、けの様子火方の者はまさかり・引網等差し、御警固にて附属す。於油掛町両御奉行被立会、見分相済み、平八郎面体焼爛致し候に付き御糺有之。

 駕籠の四方へ木札大きく打付け姓名認有

 大塩平八郎死骸 大塩格之助死骸 此通り四方に打付く。

     江戸より御逹の写            跡部山城守

跡部山城守賞せらる其方組与力格之助隠居大塩平八郎儀、不容易不届の企致し、放火乱妨に及び候節、オープンアクセス NDLJP:44早速致出馬消防并捕方夫々及指図、悪党共速に散乱相鎮め候次第、彼此心配骨折の故の儀と一段の事に候。不取敢此段可申聞との御沙汰に候。

                         水野越前守

 右書面御城代西御奉行へも参り候由。初文は跡部山城守組与力と書出しの由。

     聞取風説書大塩凶乱に就いての聞取風聞書

一、大塩平八郎此度の企は、両三年已前より存じ立つにて、兼て江戸表へ罷下り、懇意の旗下衆〈或は大名の家老共云ふ〉出会の砌、世上の風儀百年来の有様、畏多くも御上の向の取沙汰の評説に及び候処、平八郎の剛性を不怪賞誉被致候。大塩凶乱は一朝の軽挙にあらず尤於大坂先年切支丹掛り長吏等の裁断抔を不怪自負致し〈平八郎役中御奉行高井へも度々罷出〉大に当時安治川口新築山水利の談抔も批判致し候由。此時自分宿志憂世の説を内々相話し候処、粗〻同志の仁も有〈是は自分の慢気例の気質より人々陽諛を誠実と心得候段尤も拙き事也〉其後格之助初め門人共町打火術稽古と称し、公儀より鉄炮等を拝借致し、専ら火薬を拵へ候由。此時に当て御城代〈土井大炊頭様〉御家来の内姓名某といふ人、学問談論の為め内々対面有之、当時飢餓の者共奉行所裁判救命の不行届き、米政の粗相なる事抔を自裁に被論候事も有りける。猶又当時東奉行所には西与力を御取用ひ抔にて、専ら東西并局の御仕法抔を嘲笑し、自分の世々用ひられざるを憤りたる宿心を顕し、小人の拘々として死せん事を共にするを歎じける。桓温の「醜を万世に伝へん」と云へる気象を被話たる処、右某殿大に同志にて、種々表向諛諂の詞も有りたる由〈此某も畢竟人心知らざる也。猶一大事にも相成候て、主人も後立てとはなられ可申抔の、一時興談もありたる由〉願右弥〻高慢強く隠心の者夥しと心得たる愚さよ。扨機密一件を自分弟子共へ打開きたるに、誰敢て一人も仰天せざるはなきなり。併例の堅剛不敵の性質故、各〻連判承知は不止致したるなり。〈兼て西与力吉田勝左衛門・内山彦二郎其外役に立ち候者、東併局に被取用候に付、東与力一統銘々不快の段度々雑談の内、平八郎方にて訴嘆致し候儀、度々の事也。因て此一儀無拠承知に及ぶと云ふ。〉併し所詮事成。就は覚束なしとは皆々覚悟候得ども、其内にはこの一条もよもや発挙は無存懸儀と、互に思ひゐたるなり。中には直諫抔致し候者も有之候得共、平八郎諫を納れず厳しきめに遇ひ、既に彦根侯家中宇津木香之助と云ふ仁、武術には委しく、兼て平八郎と学友なれば、長崎より帰路被立寄候処、平八郎宿志を被話候処、香之助大に被諫候に付、一応は平八郎も改過の体を見せ、門人大井庄一郎へ内意申オープンアクセス NDLJP:45付け欺き、槍にて突殺したる事も十九日発起の已前に有りたり。斯様の勢ひ故、皆皆不止事同志の約決致したるなり。河井郷右衛門抔は無二の門人なれど、正月下旬約を背き出奔したり。吉見九郎右衛門抔病気にて引込み、内々平山助次郎は返忠を致し、余程の一統実に一致と云ふにあらず。是平八郎我慢より拙策玆に及びたるなり。〈平八郎存念には、天満乱妨の初、人数追々差加はり候積り、船場へ渡り、山中辺放火の頃は、手勢二千人計りも有之より差加り候心得なり、可笑々々。〉

一、西御奉行堀伊賀守頃日大坂著に付、大坂町々巡見有之趣町触にて、跡部山城守様にも先例の通り御立言に付、十九日巡見当日の処、俄に相止み候。是則ち平八郎宅向ひ朝岡助之丞殿へ巡見、先例両奉行へ立寄候機を考へ、兼て趣向の大筒火器を打込の手筈の由、既に十八日夜吉見・河合の両子内訴より泊番御糺に相成り、瀬田済之助は塀を乗越え逃去り、小泉淵次郎は近習等へ手向致し、鎮守稲荷社前にて被討果候。此珍説より弥〻御備に相成り、済之助注進より平八郎方にも、十九日朝発起と成りたり。此一条は両御奉行書上げて、具に御認の事。

高麗橋辺の張紙一、高麗橋辺へ正月中旬頃張紙致し候文面、誠に御上を奉怨、富家を散々に申し、今天下飢饉至極の折柄、公辺には江戸表廻米と唱へ、利益を被計、江戸米掛り役人の非を被ひ、今上・仙洞御在所は一粒の米も不差遣との趣意、大坂豪富の銘々を取立て、身上過半位散財致し救民あらば、何国にても米の用意は出来可申筈抔、其外役人取捌の批判相認め、近日此書得心無之候はゞ、焼打ちに可致との文面。自然此張紙取除け候者は、槍玉に上げ候由相認め候に付、皆々恐怖は致候へ共、捨札の儀内々公訴を以て、同心衆引□に相成候。此張札同志の者千人とあり。此節には一向無心付候得共、後日落し文の趣を以て、平八郎仕業と心附きたり。

大塩蔵書を売却して人民に施行す一、平八郎企の已前、所持の書物四十貫目計り売払ひ、貧民一人前金一朱宛施行の趣尤安堂寺町筋書林会所より、河内屋喜衛其余書林共世話致し施し、切手引替へ候。此施行札、摂・河・泉在々へ夥しく施遣し候由。兼て板木彫二三人計、無筆の者差越し可申様申来り、右板木彫刻と唱へ、落し文為彫刻候事。

茶道具を入札せんとす一、二月十九日は兼て茶道具入札有之筈〈十八日と最初には触れ候得共、十九日巡見に付、十九日朝の所拘り候に付、十九日の日取に相替の由〉則ち、元売懸り候処、人々打寄々々少々計り商ひに取懸り候処へ、右鉄炮今橋辺へ参オープンアクセス NDLJP:46り、混雑夫れ切りに相成り、此入札代品物は米平の道具也。昨年已来追々評判有之名高き入札なり。

大当りの芝居大塩の一件と酷似す一、道頓堀中の芝居二の替新狂言恋女房作替へ大入にて面白く、斯かる凶歳の時節に、場所等も無漸、初日より十日計りに相成候処、此変にて其儘に相成残念に候。但此二の替傾城玉手綱・梅玉・顕左門・歌六・富十郎・江戸登・三桝源之助・工左衛門抔なり。此仕組芸梅玉初段は至て実方にて捌等も有之。三段目鏖に致し大謀叛に成り、顕左衛門奴にて、是も実と見るを謀叛人なる趣向。総体此度の騒動によく似寄るとすべし。大切は源之助目見狂言熊坂物見松に候。

凶乱勃発当時の騒擾一、十九日・廿日・廿一日頃市中の大変筆紙に尽し難し。実に慶長・元和已来甲冑を著込み、鉄炮・火縄にて市中を徘徊之有る抔、殊更淡路町筋死亡の者共鉄炮にて被打殺、首無之者大道に其儘有之を現に見物致し、白刃にて処々武家方の往来近国御備人数等を見懸け候ては、すは敵の寄せ来るやと貴賤・老若泣叫び逃廻り、如何なる豪富の旦那・深閨の佳娘抔も素足風呂敷包を背負ひ逃迷ひたり。或は武家方組与力が内室等、長刀を横へ腰に幾つも刀を差し、下女等は大風呂敷を負ひ、是も脇に刀・脇指を幾つも押込み逃げたる有様、此時に当つて万貫目持も今日暮しも聊か変りたる事なく、落し文の書面の如く、豪富奢侈を専らに致し候者共、今日に至て如何ぞや。後日よき手本ならんかし。

一、大坂蔵屋敷方留守居夫々御備御頼も有之、大混雑には候得共、何分火急の儀火薬等用意無之、大に難渋、役人等武術・馬術等如何程にや。総体蔵屋敷の儀米銀差引き場故、防火の例は度々有之候ても、斯様の珍変用意の人数等もなく、仲仕等も出入有之候乍ら、諸方兼持の者にて、皆々大に被相困候。御備方立派に被出陣致候も有之、又は国元より兼々申付の趣意を以て、公辺へ被答、防火のみにて武備の儀は断り被相成候も有之候事。但人数差出し被成、仲仕召連れられ候処、鉄炮を逆にかたげ人より被笑、俄に一統被持直候も有之、又鎧櫃は銀主館入抔の土産物入れ有之俄に周章被致候も有之、槍等も無之、館入古き家抔の長押に懸け候も借りに参り候処、皆々弓の如く逸返そりかへりたるを為持候もあり、又御城御組辺には、万屋小オープンアクセス NDLJP:47衛方へ昔より質物に差入れ有之を、急に被受出候もあり。是は此程過候て、皆々方々より受出しに参り、大に鎮時の利益なりと承る。具足屋・馬具屋十九日より大に忙しく、昼夜掛り種々の仕入を俄に註文有之もをかし。

士初めて武を試む一、御城は柵を結ひ、慕陣立厳しく、北条侯御指図の陣立有之、御役人方実地を試みられたるは此度初てなりと後にて御噂有之候。余などは無何心見物致し候得共、青龍・白虎と申す立て方の由、後日承之。〈賊徒桐の旗印と注進有之に付、もしや薩摩抔加勢ならんと公辺にも御驚き有之由。〉

凶乱の一件を万歳に作る一、十九日大変中鉄炮御組抔、各〻昼夜を不分奔趨の中に、右人数労中此一件を万歳の唱歌に作り、翌廿日認め、一見致したる朋友あり。実に言語道断と人々笑ひ罵りたり。是は軍中の有様を知らぬ人の、昔敵方寄来り騒動中連歌の会を催し、先刻より鉄炮にて烈しき折節、郭公を聞くとて茶湯の案内抔ある類、往古の記録中には沢山なり。是等の趣と同意なり。其心味ひて知るべし。〈大変中抜身の槍抔の類都てさびたる故、眼へ見たる節は恐気なきなり。〉

落人生捕らる一、廿一日朝伏見豊後橋にて、三人の落人被生捕候。余程金子所持にて、折節役人より被追詰橋の上より飛込み候処、兼て彼橋近辺は網を水底に御備有之候に付、即刻用意の綱網を被引上候処、魚の網に懸りたる如く、人々大に笑ひたりとぞ。 〈但是は白井孝右衛門並に平八郎家来の由。〉

大塩書状を老中に奉る一、平八郎より十四日〈二月〉認の書状江戸表御老中宛五通計り、外に金子余程相添へ差立候由。右発動に付、公儀より追手へ差出し候処、先書を取返し候処、又々何者共不知奪取り、途中に書状のみを捨て金子は何地共なく持逃候由。状は夫の処より相達候由。此儀も後日承る。

討伐の議遅延の理由一、御城代初、両御奉行にも斯る大変企候に付、若し自然大名衆中の内荷担の儀も有之候哉無心元、夫故余程評議隙取り候由。跡にては種々論説申す族も有之候得共、十九日朝の儀は、人数徒党の様子も不相知、実に御配労と被察候。

大塩鷹司相公へ献書一、京都鷹司相公へも、一通書状平八郎より前方差出し候由。是は封建・郡県の儀を論じ、王覇の正道を挙げ、実心を顕し候体に認取り、保元の頃より公権を武威に被誤候成行き、復古の趣を飾り、米倉官等の旧記に准じ候種々漢文の由。写取り定て後日一見も可相成候哉と存じ候。かゝる企も有之候はゞ、何れ雲上は兼て取入可有と見えたり。

オープンアクセス NDLJP:48本書編纂の由来予此度摂州に有之、幸なるかな大塩父子が乱妨を見聞く事を。剰へ鉄炮の下を潜り、大小に反を打ち、鞘を放つて槍を持つ事、是誠に武門生前の本快ならん。此故予見聞の荒増しを書して、東都に帰路の土産となし、旧友等が笑顔を楽しまんが為、此書を綴る。空有り実有る事は死骸に物を聞くの由なき事を察して笑ひ給ふ事勿れ。穴賢々々。

  于時天保八酉三月


御代泰平を謡ふ抑〻徳川の流は尭舜の御代共云ひつべし。万機の政穏にして慈悲の浪四海に普く、治めざるに平なり。君々たれば臣も亦水よく船を浮ぶとて、此難波津は其昔、仁徳帝の御宇かとよ、三とせ調を許されし、御代にも増すやます鏡、曇らぬ例し有磯の海の、浜の真砂の数尽し、弥増しに運ぶ御宝は、千種万歳の千箱の玉の八百万、八島の外迄波もなく、広き恵は筑波山、繁き御影は大君の国なれば、土も木も栄え栄かうる津の国の、難波の梅の名にし負ふ、匂ひは四方に普くて、一花開くれば天保八酉の春とぞなりにける。大坂城番の諸役時に御城代には総州古河城主八万土井大炊頭殿、御定番には江州三上〈一万石〉遠藤但馬守殿、今一人〈米倉丹後守殿未だ御著無之事一万石〉并大御番頭〈参州新城〉管沼織部正殿・〈河州狭山〉北条遠江守殿、御加番には〈越後大野〉土井能登守殿・〈越後与番〉井伊右京亮殿・〈出羽長瀞〉米津伊勢守殿・〈播磨安志〉 小笠原信濃守殿、御目附には中川半左衛門殿・大塚太郎右衛門殿。尤も町御奉行には跡部山城守殿・矢部駿河守殿には、去年交代有りて当二月二日堀伊賀守殿著坂、御初入の式日を負うて、同九日常例に応じ、御先役御案内にて初日御廻見中通の方相済み、二度目同十四日東より南の方首尾好く相済み、三度目同十九日西御役所浜通り、北は平野橋一丁目筋より雑喉場・魚市・江戸堀・土佐堀・常安裏町・会所御休み、玉江橋・渡辺橋・米市場・会根崎村露の天神・北野村神明社・天満西寺町・北野村不動寺御通抜け、大融寺御休み、南木幡町・伊勢町・樽屋橋天満組総会所御昼休み、夫より天満天神桓木屋大溝の側通り、天神橋筋西町御組与力屋敷御見分、両御迎へ与力宅へ御立寄并同心屋敷御見分、綿屋町東御組同心屋敷。心空町大溝の側、新御蔵并御材木蔵・川崎御組与力屋敷・四軒屋敷・長柄町御見分有りて、天満橋御渡り御帰館の道操りに相オープンアクセス NDLJP:49定む。然る処東御奉行跡部山城守殿御組与力に、大塩格之助父隠居平八郎と申す者有り。大塩の才智其性質を承及ぶに当時秀才の聞え有りて、余程和漢の学に通じ、武辺に宜しき門弟数多有之、隣国他郷に響いて能人の智処なり。先年高井山城守殿在勤中、京都清水の辺に本は茶屋女、改めて其名を貢と名乗る者、切支丹宗門を学び行ふの聞え有之、此儀露顕に及び、早速召捕り其折専ら詮議の事、此平八郎取扱ひ候始終承及ぶに、右貢を賺し宥めて此宗門の奥義を聞き、秘密伝授と書物等を熟覧して是を究め、夫より厳しく詮議致し、終に事明白に及び、夫々御仕置被仰付。依つて此一件相静候以後の勢ひ広大にして、実に空行く鳥も翔を垂るの威勢有るに依つて、東都より是を糺さんが為め密士を入れらるゝの処、果して失有るに依つて公辺の御沙汰に及び、大塩隠居之忰格之助へ跡式相譲り、其身は隠逓の願を出し、隠遯の身と成りて遊山・遊興に事寄せ、他国他郷へ掛屋敷等出来置き、或は半年・三五月其所に到り候へば、自身居間近くへは一円人を払ひて、□入の仕方有之候風説、此期に及びて考ふるに、全く邪宗に陥りたる事紛れ有間敷き致方、莫大大恩の天下に弓を引かんと反逆の兆を為す事、彼宗意新四郎等が再来にもや。如何なる天魔に見入られて、無謀叛に徒党をなし、賊敵の名を後世に残す事、誠に浅ましき次第ならずや。扨近年打続き凶作にて、今年も米穀諸品共に殊の外高直なる事、八旬の翁も曽て知らず。依つて東都には外神田佐久間町河岸通りへ百間有余の御小家建連ね、数万人の飢を救ひ給ふ。武家は素より有福・有徳の農商共に其分限に応じ、金銀米穀を貧窮の者へ施し与ふ事、三都会に不限人情の常也。されば此平八郎も兼ねて内福に暮しける由、多年好で所持たり書物の類、或は家財・著物の類、夥しく所持為し、幾莫の金銀を調達して近隣又は大坂町中貧窮の者、或は門下に出入る内国の者へ施として配送す。因茲挙りて是を尊敬する事、高位・高官の人の如く賞讚す。今熟〻と是を考ふるに、人を釣入れて餌にして、全く救民の故にあらずや。誠に怖るべきの狼賊なり。太公望は餌なく共渭水に武王を釣りしにあらずや。餌を以て人をあやつり引入るゝ事何事ぞや。是を知らざる百姓共餌に迷うて、二つなき一命を謀計に買はれて陥り、未だ夢の覚めざる者多し。今川義元の裔なりと自称す扨又某が家系は知らざれ共、今川義元の末葉と申立て、其身は今川治部オープンアクセス NDLJP:50大輔と自号し、去年妾腹に男子出生す。是を今川弓太郎と名乗らしめ、此度の隠謀総大将と号す由。未だ東西も分難き小児に迄、陥穴に引入れ荷責に困らす事、悪逆眼前たる地獄道の有様、此一事にても逆賊たる事顕然たり。平山助次郎大塩叛逆の由を報ず然れば二月十七日に相成り、明後十九日は弥〻三度目北の方御巡見と相成り候処、爰に東御組同心平山助次郎と申す者、封書を以て組与力・同心并浪人・百姓共徒党致候趣、右山城守殿へ差出し、其身は同日出奔〈江戸表へ罷越候趣申置き、出奔の由風説に、矢部駿河守殿御屋敷へ罷越し訴人の越に相聞え候。〉

評に曰く、此書如何なる事を認候哉難計。乍併風説を考候へば、天より給ふ事といふ檄文を認め、町人・百姓の政事を誹謗して、或は跡方も無き事を並立て、己が庸才に誇りて人を蔑に嘲したる文面、又は両御奉行御指図方の不宜、依之諸色高直抔と凶豊の弁なく申立候書面、且亦御巡見を待受け、組屋敷へ御入の節両方より挟み、火矢・鉄炮の類にて打留め、夫より大坂町中焼払ひ、富家の財宝を以て軍用となし、首尾よくば御城迄乗取り可申企て有之趣等、逐一に認め可之と被考候。

凶乱の報を得たる態度翌十八日、右の次第山城守殿より伊賀守殿へ御談合に付、「不取敢手当可致旨」答へ候処、山城守殿被申上候は、「拙者存寄り有之候間、今暫く御見合せ可有候由」に付、其儘退出の上御手分け、御組与力吉田勝右衛門呼出し、右の企て実否相糺し候様被申付。依之吟味の処、格別の儀共相見え不申段、返答に及び候へ共、尚亦不安気に被思召、又々勝右衛門へ再応被申付、夜に入り亥の刻能帰る。然る処丑の刻頃東御組同心九郎右衛門忰吉見英太郎・同郷右衛門忰河合弥七次郎、右両人若年と乍申、西御役所中の口へ罷出で、「御家老へ直に申上度き次第有之候由」申入れ候間、取次の者此段当番家老中泉撰司・公用人下山弥右衛門へ通ず。右両人早速呼入れ致対面候処、言語道断の趣委細認内訴状、并徒党の者共の檄文相添へ差出し候間、撰司承届け即刻松本嘉藤太へ相通じ、出席の上亦々吉田勝右衛門呼出し立会にて、右訴人申す条伊賀守殿御糺有之、無相違に依つて直に勝右衛門へ、「右徒党の者共召捕り候様、今晩中手当可致旨」被仰渡、勝右衛門急に退出。右の訴人共は夜明け候て、総会所へ御預に相成る〈後に江戸表に召登御詮議有之〉扨山城守殿へ、嘉藤太為使者遣さる。右のオープンアクセス NDLJP:51訴状并檄文共に持参の上入御覧、扨両組一手当に致し、即刻可召捕旨手筈悉く御示談申上げ、退出致す。扨亦勝右衛門儀は御役所より引取るや否や、即刻同人宅へ同組共集る様相触れ候間、不残参会に付、又々東御組中呼向へ候へ共、是は御役所より御呼上げに相成罷出候段相答へ、一人も在宿不致。依之手筈大に相違致し、且は山城守殿如何の存寄りにて呼上げられ候も難計、殊更一組にては人数も不足の事故不止事、組中一統西御役所へ相詰むる。扨又山城守殿夜明け、以使者伊賀守殿へ御出有之様被仰越、尚亦同心二十五騎鉄炮持参にて被遣候様申来り候。依之伊賀守殿には不取敢御平供にて、東御役所へ御出で、尚又天満の方へ火の手見え候はゞ、皆々火事装束・著込等相用ひ、本旗の手当より迎ひに参可申。同心共は夫々手当跡より遣し候様被仰出御出に相成る。扨十八日東御役所泊番にて罷在候組、与力荷担へ随一瀬田済之助・小泉淵次郎両人に有之にて、山城守殿嘉藤太退散の跡にて、余り心外に被思召候哉、内々小泉一人呼出し、右の企被糺懸候処、一言の申開き可有様無之、赤面の体にて逃出で候に付、山城守殿近習熊野宗五郎右の淵次郎へ斬付け、二刀にて仕留致し即死す。此物音に驚き、未だ当番処に休居候瀬田済之助・小泉呼出しに相成候故、心付居候哉、寝巻の儘大小追取り、庭前の塀を乗越え逃去り候時刻、暁方にも可有之。大塩一件露顕右露顕の次第大塩父子へ告知し候様子にて、賊方には兼ねて十九日午の刻頃、御組屋敷へ被入候手筈故、右徒党の者共并近在八ヶ村の

〈吹日村・三番村・般若寺村・三留村・弓削村・尊円寺村・猪野飼村・今一村〉百姓共へ、十九日施行致し候間、昼頃前相揃ひ候様兼ねて触置き候由に付、〈此儀百姓召捕の上白状致候〉心組大に相違致す。俄に手立を替へ候様子にて、朝五つ時頃より乱妨相始め、居宅へ火を放し、徒党放火す其上兼ねて用意致し居候火矢〈此大矢地車の類守口村質屋白井幸右衛門方にて出来候由〉大筒〈大小五挺有りて此内一挺に、太右衛門大郎方にて、奪取候品、同一挺成瀬正兵衛品の由。〉小筒等を以て、組屋敷家毎に、火矢打掛け、一円火となし天をこがすの勢ひ、猶建国寺御宮へ自分居宅より火を打込み、暫く此辺へ同勢を屯し居候由。

評に曰く、御宮へ火矢打込候始終より、檄文の文面相違ひ、天下を狙ふ賊敵たる事、明鏡に照すが如く、尚亦此処参上致し候時は、両御奉行共に是迄御出馬有之事、必定と相口候由に相聞ゆ。

オープンアクセス NDLJP:52され共段々に事の始終露顕に及び、中々出火如きの騒動にて無之、第一御城内の儀御心の外無御要害、専にして諸方御手配旁〻被仰談候故か、両御奉行共に、其中両三度御城入有之。其内段々火勢盛に相成り、追々天満寺町通り天神の方へ広り、広大なりと雖も其儘捨置かれ、先づ隣国大名方其外御手当注進追々有之様子、別て手筈事夫々相調ひ候哉、官軍部署を定む又々御城入の上伊賀守殿より、玉造・京橋両御鉄炮組五拾騎程御□受被成候由にて、東御役所脇馬場へ追々相固め、扨両御奉行御指図にて、天満橋は京橋鉄炮組相固め、天神橋は切落し、賊徒不寄様御手当有りて、夫より伊賀守殿亦々御城入。直に御退城東へ御入り、直に御退出にて御門前より御出馬の事、尤も馬場に控へ居り候玉造方御鉄炮同心二十騎程被召連御先へ立つ。

  西御奉行

​京橋御祖​​同心拾人​​ ​​御組​​同心三人​​ ​・御馬印一人一人​御組​​同心三人​​ ​​京橋鉄炮組​​同心拾人 ​​ ​​御徒士​​内藤久米蔵​​ ​​御徒士​​高田広作​​ ​・御槍・​御徒士​​古川力蔵​​ ​​御徒士目附​​御手洗滂作​​ ​​同助役​​江島金兵衛​​ ​​御中小性​​伊藤安次郎​​ ​​御中小姓​​豊田忠治​​ ​​御組与力二人​​大筒二挺 ​​ ​​御供頭​​山口泰助​​ ​​御馬口取​​上御馬 ​​御馬口取​​御供頭​​鈴木与市​​ ​​御組与力二人​​大筒二挺  ​​ ​、御草履取御長柄御床机​御納戸​​ 吉副金三郎​​ ​​御近習​​ 一色捨三郎​​ ​​同​​ 谷口和三郎​​ ​・御筥・御筥、​押​​高崎嘉兵衛​​ ​・御槍手替・​押​​水上久蔵​​ ​​公用人​​有貝順平​​ ​若党若党・御茶坊主・​公用人​​下山弥右衛門​​ ​若党若党、槍持・草履取・箱持・槍持・草履取・箱持、合羽籠其外人足附。

賊徒横暴両御奉行共に御供廻り、御同様何れも著込み鉢巻上げ、火事羽織著し、抜身槍・長刀の類持参し、帯劒に反を打ち御馬先へ進み、扨又賊徒の方は天満橋鉄炮にて被固、天神橋は切落し無是非難波橋に向ひ、又市中の者共は、賊兵に追立てられ焼立てられ、這々逃廻りて、天神橋落ちたるも知らず、或は水に落ち死するも有之由。右往左往に逃走る者を、敵賊共是を捕へて、「味方致さば免すべし、無左時は斬捨て候」抔と無理に引入れ、車を押させ或は旗を持たせ候由、其内逃走る者は、斬捨て候も有之由。彼地車四挺へ大筒仕掛け、外に火矢道具・具足・太刀調度に、品々持連び候車も有之。是を荷担ぎの百姓共百二三十人、其外降参の者共多勢に曳かせ、既に難波橋へ差掛かる。此橋も役人村々へ仰付け切掛り候処、段々敵近寄り火矢・大筒の類打掛け候事故、不止事、此番を開く。夫れ彼賊徒終に越えて船場に到り、先づ第一番に鴻池屋善右衛門方家内追立て乱入致すの次第、鴻池善右衛門方へ入る全く盗賊の処為、金銀を奪取り可申存寄りオープンアクセス NDLJP:53にて、隈々相尋ね候へ共、兼ねて要害宜しくや有りけむ立退候跡、一切金銀の有り所難知、手を束ねて出る由。夫より分家鴻池屋善左衛門方へ仕寄せ乱入に及び、此方にては金銀余程奪取り候様子に相聞く。三井に乱入両方共に火矢にて焼払ひ、夫より三井店に差懸り候節、戸締り要害に相掛け、取片付等致し居候処、表の方掛矢にて打破り、其穴より槍を入れ、夫より八九人乱入。家内の者も恐怖して立騒ぎ候処、鉄炮打掛け手疵を負候者も有之由。夫より火矢を打込み剰へ戸前等致し候土蔵態々開く、火矢三挺程打込み焼立候由。夫より岩城へ向ふ。是亦火矢数本打込み焼亡して、段々高麗橋へ差掛り候時、西御奉行には東御役所より島町筋・谷町辻より西へ追々押寄り、御秡筋辻にて賊徒の方見渡され候処、高麗橋西詰に押寄せ候と見え、先へ白旗三旒〈此旗の事奥に委しく出す〉押立て、橋より東両替町の方へ渡らむと勢ひをなす。依つて伊賀守殿被召連候。玉造方鉄炮組へ早く打留め候様御指図有之。兼ねて仕込居り候事故、何か以て猶予可致哉、二十騎一同に火蓋押放し賊徒を目懸け、筒先揃へて打放込み返し打つ。此音に驚き恐れけむ。高麗橋西詰を河岸通り南の方へ逃出で、又々平野橋へ差向ふ。此時東御奉行と御祓筋辻にて御出合ひ、御談合の上二手に別かれ、山城守殿には浜通り南へ遠廻しに追詰め候手立にて、御別れ被成候。扨伊賀守殿には御祓筋を南へ平野橋へ被入候節、平野橋辺の迫合賊兵等平野橋を東へ渡り、米屋平右衛門方目懸け、火矢打放し候に付、伊賀守殿御下知迄も無之、又々此所にて鉄炮釣懸けて打放す。又両替町の方より山城守殿御同勢是、も目懸けて打放す。敵賊共遁難くや思ひけむ、小筒二三挺打放し平野橋へ引返し、東詰より賊兵の方も二手に別かれ、一方は平野町を西へ堺筋の辻へ出で、大筒仕向け寄手を待居たる由。又一手は川岸通り南へ淡路町西へ堺筋辻迄逃げ乍ら、所々にて火矢を放し、爰にて踏留まる。是も同筒先東の方・南の方へ仕向け、要害に懸からむとなす処へ、山城守殿御同勢米屋平右衛門脇手にて鉄炮合せ、逃出す敵を跡より追駈けて、思案橋御渡り、西は火気盛んなるを小楯にして、備後町を西へ堺筋にて敵に追付き、鉄炮組に命じ給ひ挑戦ふ。時に天罪不遁処、賊徒の方火術掛大将梅田源右衛門と申す者、山城守殿手玉造口遠藤但馬守殿御組与力坂本源之助打留め、当時随一の功名を顕す。賊徒火術掛討たる惜むらくはオープンアクセス NDLJP:54生捕りたらん事本快ならむ。外雑兵二人、是も同じく打留め候に付、残党原是に周章て、不残爰にて散乱す。牢屋敷罪人を出牢せしむ此時伊賀守殿には平野町より牢屋敷御心得なく被思召、立寄り御尋被成候処、科人共俄に先刻不残出牢させ、高原溜へ遁候由、牢屋敷掛同心申上ぐる。尚又御役宅も御心元なく、松屋町御役所脇より表御門前へ御見廻り、直に本町橋御渡り、東詰河岸通り北へ備後町西へ堺筋辻へ御出被成候節、山城守殿御同勢敵賊被打留候処へ御出合にて、右大将分一人の首を御同前に御覧被成、山城守殿御近習にて首を討落し、槍に貫きて持帰る。其外地車四挺・大筒三挺・焰硝類・具足・槍・太刀・長刀の類、不残捨置き候分取上げ、大筒・火器の分は両御奉行御指図にて、近辺の井中に沈め、其余の品々両御役所へ御取上げに相成る。員数書き後に出す。夫より二手に御別被成、猶残党原御尋有之と雖も、火中の儀上下四方に奔走して、何れを敵賊、何れを焼亡の人と分別し難し。され共飛道具の類所持致すか、又は□形の者等召捕り候人数十五六人、外に辻にて町人共召捕り差出し候者共も有之、都合三十人余。何も百姓体の者無是非荷担致候者共にて、猶発頭人大塩父子其外頭立ち候者、行衛一円不相知凶徒の頭立者を求む之尚残党原御尋有之折、御城代様より御指図にて、乱妨の手当として諸大名方蔵屋敷家士へ居合の者差出候様、被仰出。依之西御家老松本嘉藤太承之、早速伊賀守殿右御場所へ駈付け、此段申上げ候処、其手筈の執計候様、被申付。依つて屋敷々々に触出す。斯くて此辺残党と覚しき者も無之様子に相見候間、何れも是より防火の手配り肝要に御指図被成置場所より、直に御城入有之。扨十九日暮方触出に相成候蔵屋敷人数追々繰出し、同勢引率して御役宅を相固め、或は川口堀奉行の手に加はり、又は御代官の手に加はり、其外思ひ防火に相掛り、厳しく相働くと雖も、東都の家並と違ひ、至て丈夫の建方にて、殊更往還道幅狭く、中々鎮火致し兼候様子。且亦近国御大名方或は京・伏見・奈良・大和・尼ヶ崎へ人馬奔走する事、彼櫛の歯を挽くに似て、追々大名方御同勢も、十九日夕方より暁に至り、参著多勢に相成る。防火の手配尤尼ヶ崎遠江守殿御同勢、初は三百余騎に聞えしも、廿日暁に至り一千余人皆甲冑にて追手柵門の南の方一行に陣取り、御城代土井大炊頭殿御同勢五百余騎、同西北の方二行に陣取り、岸和田岡部殿御同勢四百オープンアクセス NDLJP:55余人上へ本町の方へ陣取り、予州松山蔵屋敷同勢百余騎、東御役宅前に陣取り、何れも優々しく出立で、尚亦岡部殿より二番手三百余騎は、一心寺へ陣取り、弁当・長持入替の在所、岸和田より持運ぶ中にも、予州御同勢一入目立ちて武威を顕はす。諸軍の有様威儀顕然として当りを払ひ、柵門の前に焚く篝火は、宛然さながら白昼に異ならず。実にも天下の威徳照耀きて、目を驚かす有様、さも広々たる馬場に焼失の男女席を争ふ。勿体なくも元和の昔も斯くやと思はれ、道行く老若泣悲しむあり。狂人の如きあり。唯常例の出火と事変りて、財宝・家財に不拘逃走りて、命を全うするが如く、御治世打続き万歳を唱ふべき中なれば、見馴れぬ劒戟に恐るゝも尤宜べなり。扨両御奉行には十九日暁より、廿一日暁まで彼此廿四時の間、度々御城入并火事場御遊見にて、御立明しに相成り、御支度の節計り御役宅へ御帰のみ。漸く廿一日暁に悉く鎮火に相成り、皆人安堵の思をなす。鎮火され共彼発頭人大塩父子并に頭立ち候者、一円行方不相知。依之当町中は申すに及ばず、諸国道路の口々し敷く相守り、五畿・七道無残限御手当御詮議専らなれば、譬ひ人天を翔るの術あり共、いかで王法の網を遁るゝ事あらんや。されば京・伏見・奈良の手より、徒党の者共并に妻子追々召捕り差出しに相成る。され共未だ目指す者共は御手に入らずと雖も、最早鎮火も致し候事、穏に静謐の枝も動かぬ松平泰山府君の御代なれば、尚万代も栄え行く此津の国の名にし負ふ、梅の床しき香を止めて、浪華咄しと筆を止め畢んぬ。

  十九日賊徒散乱の節淡路町に捨置き候品

〈[#図は省略]〉救民

 湯武両聖主天照皇太神宮 八幡大菩薩

オープンアクセス NDLJP:56     右品数左之通賊徒遺失の用品

一、大筒台上車但地車也。一、大筒台覆弐〈但青草一枚白革一枚〉 一、具足四領。外ニ胴計り二つ。一、鳥目二百文包数二十。百文包同五十 一、太鼓一つ。一、□台一挺。一、細帯一筋。一、付木大把一把。一、刀三本。一、脇指十五。一、木綿紺パツチ一足。一、長刀一振。一、槍六筋。一、大筒・鉄炮・木綿枕一つ。一、小筒鉄炮三挺〈但三匁玉〉。一、火縄四把。一、大筒引縄四筋。一、細引二把。一、紺網袋一つ。一、桐紋付黒木綿羽織一つ。一、著込一つ。一、座蒲団一重。一、腰提烟草入一つ。一、雑物乗せ台車一つ。一、火矢〈一箱〉五本。一、樫旗竿一本〈但丈三間〉。一、鉄棒一本。一、鳶口一挺。

  〆 右之通有之。


     賊徒連判之人数賊徒連判の人数

〈東御組与力〉大塩格之助・〈同人父隠居〉大塩平八郎・瀬田済之助・小泉淵次郎・大西与五郎・大西善之助・〈同同心〉近藤梶五郎・庄司儀左衛門・吉見九郎右衛門・渡辺良左衛門・河合郷左衛門・平山助次郎・〈玉造組興力大井伝一郎忰〉大井正市郎・〈摂州吹田村神主〉宮脇志摩守・〈摂州守口村貸屋〉白井幸右衛門〈河州三番村〉安田図書・〈同村〉茨田運治・〈平八郎内弟子〉松本林太夫・〈放方〉林山三平・〈上田五兵衛殿組御弓同心〉竹上万三郎・〈河州三番村〉深尾治兵衛・〈同般若寺村〉橋本忠兵衛・相柏源源右衛門・〈同〉同伝七・〈河州沢上村〉上田幸太郎・〈同弓削村〉高橋九郎右衛門・〈浪人〉堤半十郎・〈牧方〉主馬之助・〈浪人〉自井儀四郎・〈江州浪人〉志村周次・〈摂州浪人〉堀井儀三郎・〈高槻浪人〉梅田源右衛門・〈浪人〉提半左衛門・〈江州弓削村〉西村利三郎・〈浪人〉額田善右衛門・〈兵庫の者〉阿部長太夫・〈同〉曽我岩助・〈浪人〉順市田次兵衛・〈浪人〉卯木俵二・〈猟師〉金助。

大塩格之助忰今川弓太郎〈酉二歳〉是を総大将に唱ふる由。

右の外摂州・泉州・河州の百姓共、其外浪人、十九日乱妨の節は、凡五六百人附添候趣、亦往来の者引留め、無理に加勢為致凡三四千人にも相見ゆる。

     叛逆徒党の者共大概

大塩平八郎〈改名して自ら名乗る由〉今川治部大輔と同人忰大塩格之助大塩平八郎及び格之助

右両人当十九日騒動以後行衛不知、種々御詮議強有之処、漸く三月廿六日当町油掛町更紗染屋三好屋五郎兵衛と申す者居宅奥の間に忰格之助共に相隠れ居候由露顕に及び、御捕として西御組与力内山彦次郎、并御城代土井大炊頭殿御手人数多オープンアクセス NDLJP:57差出、右三好屋取囲ひ候処、兼ねて用意致候と相見え、居間を三重に囲出来居り、中々手安く難打入に付、多勢取巻き掛矢等相用ひ、右居間へ押掛け候内、所詮退難と心得候哉、内へ多勢籠り候様火矢を放たせ鉄炮打ち抔大勢に威掛け、兼ねての檄文に相違し蓬き振舞にて、忰格之助儀逃去るべき体をなし候様子の処、平八郎一刀に切臥せ、居間の四方に焰硝類積置き、建具等取重ね、其上に火を放し、誠に広言に引替へ見苦しき次第無申計事共なり。右出火且つ注進に付、両御奉行御出馬油掛町於会所御見分、其儘高原溜に引取り、塩漬に相成り居候事。

                東与力 小泉淵次郎小泉淵次郎

右之者、十八日夜明方東御所にて、熊野宇三郎手に掛り即死、委しくは前に記す。

               同同心 渡辺良左衛門渡辺良右衛門

右之者、河内国柏原畑中にて、致切腹居候処、同月廿六日相知れ、則ち死骸東御役所へ持帰り塩漬。

                東与力 瀬田済之助瀬田済之助

右之者、河州千八代の山にて、首縊死有之を、前同日相知り死骸東御役所へ持帰り塩漬。

                東同心 近藤梶五郎近藤梶五郎

右之者、三月九日夜、我居宅焼跡へ立帰り、見事に切腹致し死す。尤是も其夜段々訳有之由。

                東同心 庄司儀左衛門庄司儀右衛門

右之者、南部にて召捕られ、則ち三月五日東御奉行組より送届け則ち入牢。

瀬田藤四郎及び一族  東組与力 瀬田藤四郎・同済之助妻・同人忰小児。​豊後町に住居致候者​​    浪人一人​​ ​〈外に男七人〉

右藤四郎儀近年病気にて、先達て大和宝龍(法隆カ)寺辺へ隠宅致し罷在候由。前七人の者藤四郎召仕の者、又は日雇人足百姓等に有之候。前儀左衛門同断東御役所へ被差出、不残入牢。

                東御組町目附 平山助次郎平山助次郎

二月十七日右徒党の事訴状に認め、東御奉行所へ差出置き、江戸表罷越し矢部駿オープンアクセス NDLJP:58河守殿へ駈込み、其後大岡主膳正殿へ御預に相成居候由、前委しく認め有之、略之。

                東御組同心 吉見九郎右衛門吉見九郎右衛門

右之者、長々病気にて、北の新屋敷に罷在り候を、早速召捕りに相成り入牢。

                摂州吹田村神主 宮脇志摩守宮脇志摩守

右之者、二月廿六日同人家内斬殺し、其上にて切腹致し相果て罷在る趣、則ち志摩守首東御役所へ持帰る。


                高槻浪人 梅田源右衛門梅田源左衛門

右之者、二月十九日に淡路町堺筋辻にて、東御奉行手勢に、玉造鉄炮組坂本源之助打留め即死。則ち東御役所へ持帰る。


                平八郎内弟子 ​松本林太夫​​  十四歳​松本林太夫

右之者、二月廿日勘助島にて御組町目附召捕る。此者幼年なれ共才智の者にて、乱妨の節口薬つぐ役に候由。此者白状にて諸事逆賊共の始末相知る。入牢。

              浪人杉山三平・守口質屋白井幸右衛門杉山三平白井幸右衛門

此幸右衛門、摂州質屋にて富豪の者にて逆賊に組し、金主方致し候由。右両人の者伏見迄逃去るの処、伏見御奉行手にて召捕り、二月廿五日東御所被差立則ち入牢。尤幸右衛門は坊主に相成り居候。

                        浪人 竹上万三郎竹上万三郎

右之者、早速召捕り入牢。

               東御組与力大西与五郎・同人忰同善之進大西与五郎同善之進

右両人之者、十九日淡路町散乱の節より、西之宮迄逃出で候を召捕りに相成り、其節道にて刀を捨て候を、百姓共見付け、則ち刀東御役所へ持参り、右の由訴出づる。右両人吟味の節、右之訳合被尋候処、面目を失ひ一言の申訳け無之直に入牢。

                        三番村 深尾治兵衛深尾治兵衛

早速召捕り入牢。此者所持之品鉄炮六挺・竹槍百筋・半鐘一、右の品不残東御役所へ持帰る。

オープンアクセス NDLJP:59  〈発頭人〉大塩平八郎妾・同格之助妻・右同人小児・外に下男女五人、〆八人。大塩の家人

右之者共、二月十九日京都御町奉行にて召捕に相成、東御役所へ被差立入牢。入牢の諸士

〈播州加東郡西村〉堀井儀三郎・〈大和者〉阿部長助・〈大和者〉曽我岩助・猟師金助・〈般若寺村〉橋本忠兵衛・〈三番村〉茨田運治・〈同村〉安田図書・〈沢上江村〉上田幸次郎・〈大塩平八郎中間〉喜八・〈同〉忠五郎・〈同〉七助・〈浪人〉堤半十郎・〈浪人〉堤半左衛門・〈弓削村〉西村利三郎・〈同村〉高橋九郎右衛門・〈般若寺村〉柏崎源右衛門・〈同村庄屋〉同伝七・〈江州の者〉志村周治。

右之者、何れも召捕り入牢。

                         〈瀬田済之助〉中間一人瀬田済之助中間

右之者、十八日丹波にて京都御町奉行の手に召捕に相成り、則ち東御役所被差越入牢。

                       浪人医者 横山文済横山文済

右之者、十九日夜より廿日朝迄防火人足に紛込み、西御奉行所内にて火防致すふりにて入込み居る処、甚だ風体悪しく相見え候に付召捕り、其後東御役所へ送り、御吟味の上及口上候て、西御役所へ火付け可申手筈にて入り候由口上候。

                     江州彦根浪人 卯木俵二卯木俵二

右之者、平八郎弟子にて有之処、乱妨の企て十九日迄心底不明。当日に及び示談致し候処、十九日朝諫言致し候て、雪隠へ行出る処を、平八郎槍にて突留め即死す。

                       浪人 額田善右衛門額田善右衛門

右之者、首縊死す。

                          〈瀬田済之助〉召仕一人

此者、京都町御奉行組にて召捕に相成り、三月廿四日東御役所へ被差越候。入牢。

                          〈大塩格之助〉槍持一人

此者、三月廿八日大坂市中にて、内山彦次郎手にて召捕る。入牢。

                   玉造鉄炮組与力 大井正市郎大井正市郎

此者、三月廿六日京都にて召捕り、東御奉行所へ被差越入牢。

                      三好屋五郎兵衛・同人妻三好屋五郎兵衛同妻

オープンアクセス NDLJP:60右之者、油掛町にて更紗染屋にて下職等多分召仕、久しく此町にて渡世致し来る処、此度平八郎悪逆企の旗染致し候由にて、其訳不知□候由申開き致すと雖も、町預に相成り居候。然る処三月廿六日、大塩平八郎・同格之助隠置き候事露顕に及び、御取方押寄せ、悉く白状致し、則ち両人共召捕り入牢。

                    丹波篠山城主青山因幡守殿御使者永井丈右衛門永井丈左衛門

江戸表、去月廿六日御用番水野越前守殿より、家来の者被召呼、別紙御書付写の通り被仰達候旨、一昨三日申越し候に付、人数并武器等致用意、当御地へ追々繰出し申候。参著の上御指図被成下候様仕度くと、因幡守より申付け候。

     御逹書之写                 青山因幡守

大坂奉行組与力大塩格之助父隠居平八郎頭立ち、与力・同心共并に百姓致徒党、火矢等相用ひ、大坂町中所々へ火を掛け及乱妨候に付、早々人数差出し召捕り可切捨に致、且著込をも相用ひ候儀、勝手次第可致。尤酒井雅楽頭・松平甲斐守・松平遠江守・岡部内膳正へも人数差出候様相達候間、可其意候。

   月  日                ​岡部内膳正殿御使者​​     坂井照助​​ ​

岡部内膳正申入れ候。此度其御地異変に付、御用番水野越前守殿依御達書召捕人数可差出の処、追々御静謐に付如何仕るの旨、御城代土井大炊頭殿迄相伺候処、不差出□、此以後異変之儀有之候はゞ仕向候様被仰聞候。依之人数手当仕置き差出可申候。右之段□可申述使者申入れ候。

   月  日                ​青山因幡守殿御使者​​     吉原彦助​​ ​

先達て御届け仕り候、此度御地異変に付、因幡守在所より固め人数並に武器等別紙の通り追々繰出し、当五月摂州十三村迄参著仕り候処、御地追々御静謐に相成候に付、人数繰出すに不及の儀、途中迄も繰出し候はゞ、早速差留め可申、此後異変承及び候はゞ、早々人数差出し可申旨、御指図御座候に付、追々繰戻し、同七日夕右人数不残篠山表へ引取り申候。此段御届け申上げ候様、家老共より申付け差越し候已上。

   月  日

弓十五張・鉄炮三十五挺・長柄十筋・大筒二挺、足軽十五人・同三十五人・同十人・番頭オープンアクセス NDLJP:61一人・物頭二人・目附二人・使役一人・番役二十人・医師一人・右筆一人・諸賄方五人・使徒士二人。総人数四百三十人。

     大坂市中焼失の次第大坂市中焼失の次第

二月十九日朝五つ時より、同廿日九つ時迄、天満四軒屋敷大塩平八郎宅より焼初め、川崎御組屋敷不残、夫より北御組屋敷南側迄、尤東西御与力屋敷の内、川崎にて田坂勇作、北町にて河辺官右衛門、右両人屋敷相残り、同心屋敷にて南町の内四軒残る。同北町の内南側にて二俣孫助一軒残る。同北側にて東の端より市川木工右衛門・同庄之助、右二軒焼失。天満南側川崎より市側筋十一丁目迄、北は長柄町より堀川迄十丁目筋にて、北へ津国町迄。船場は北浜より南へ安古町北側迄。西は中橋筋東側より東へ、東横堀上町にて東横堀より南にて谷町迄、北にて御弓の町迄。北は八軒家より南へ内本町北側迄。其間にて西御役所近辺松屋町西側より浜迄、本町北側より豊後町北の筋南側迄残る。

     焼失町家竈数焼失町家竈数

一、御破損奉行森佐十郎殿組手代屋敷・一、同榊原太郎左衛門殿十軒・一、天満総会所一軒・一、牢屋敷一ヶ所・一、公儀橋二ヶ所〈天神橋高麗橋〉一、東本願寺天満掛所・一、興正寺掛所・一、山村与助居宅・一、尼崎又右衛門同・一、御破損奉行鈴木栄助殿御役宅・一、御代官池田岩之丞殿同・一、東御組与力屋敷二十九軒・一、同同心屋数四十六軒・一、西御組与力屋敷二十九軒・一、同同心屋敷□□・一、与力・同心武術稽古場三ヶ所・一、御鉄炮奉行御手洗伊右衛門殿組同心屋敷十軒・一、天満天神社不残・一、寺町前御鉄炮組同心元屋敷・一、家数三千三百八十九軒・一、竈数一万二千五百七十八軒・一、明家数千三百六軒・一、土蔵数四百十一ヶ所・一、穴蔵数百三ヶ所・一、納家数二百三十ヶ所・一、寺数十一ケ寺・一、道場数廿二ヶ所・一、社三ヶ所・一、〈神主社家〉屋敷十軒・一、□□屋敷二屋敷・一、蔵屋敷五ヶ所・一、銀座一ヶ所・一、秤座一ケ所。〆

右焼失場東西七百六十五間、南北千十間余、凡道法十一里程。

附録

     東都於聖廟之趣
オープンアクセス NDLJP:62大塩騒動に就いての戯書

小人隠居為不善 其名大塩平八郎 天満大趣夜如昼 乱妨狼藉在誰防

分限長者家忽燬 橋々焼落更周章 東西南北人騒動 老若男女逆戦場

在番殿様各潰胆 奥方聞及癪更強 上意之趣大名畏 出張用意人馬忙

君不見天草与正雪 天罪不遁無程亡 早斬張本獄門懸 欲関東御威光

     当所之街賦

博学騒市中 人惑孔孟説 深雖其旨 何無高慢狂 落文痃癖甚 全羨豪家驕 開眼看終所 油掛裏屋隅

     好趣向

天神橋下仲春水 天神橋上繁多人 悲声高聴青天外 人間驚動天満裡

天満大筒魂自飛 建国御宮金作泥 可憐番場傷心人 可憐大煩断腹処

此日大塩邀百姓 此時乱妨入商家 高家金銀大半失 飛去飛来共注進

的々雄旗白日映 娥々甲冑綿繍装 河際徘徊総年寄 血辺顧歩両京兆

傾城傾国真大変 為烟為灰其騒動 古今未人所_恐 況復今日正相見

願成僧徒西国 願施一鉢再挙兵 与尼相向転相親 与妾双楼共一身

願落此所千歳楽 誰思隠宅一朝烟 万民相悦晩春空 千秋万古油掛塵

     奸邪異案

心下有高慢而臍下無〈或曰恐是仁虚〉全体奸相血脈子息亦不礼也。是因陽症之不全解棒火矢通焼散主此

     棒火通焼散之方

大棗・黄今・粳米・亡焼・武士・町家〈各等分、〉困窮・炮術〈七分、〉槍術・我術・天摩・魔王・巴豆・狂人、右件四橋辺にて川水にひたし、其形体腫脹するを窺ひて揚げて用ふと云ふ説有之。実験せしむるに験無し。近来宇智山先生之霜とし用ふ。忽ちに治す。〈宇智山先生之秘炮〉霜薬製法。右件先油掛にし、宇壺に入れ火鉢に上し、硫黄・焰硝類の武火にて焼き、真黒に成るを度とし、火鉢を下し塩に漬し貯置き、時臨て用ふ。

附曰く、四橋辺り川水に漬るの語は、河海・山谷・田園無残隈穿鑿有之処、四橋下川中に浮く骸体腫脹して何者と云ふ事、唯見分。依之元妾何某へ是を令オープンアクセス NDLJP:63見。元来平八郎事左の無歯今此骸体右の歯無し故に無実験と云ふ。宇智山は内山を云ひ、油掛・宇壺は地名。

   七言絶句

才兼文武誰容觜 呼作方今天下士 飛炬一朝何所為 長嗟千載汚青史

 難波がたよしかあしかは知らねどもからきめみせし大塩のなみ

 

浮世の有様巻之七

 
 
 

この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。