野口市郎右衛門見聞の記録大塩凶乱の最初三井呉服店に乱入御公儀人数次第町在に出せる口達賊徒人相書の廻文大塩平八郎大塩格之助瀬田済之助浦へ出せる触書大塩与党の人員及び武器凶徒人相京都の防備凶徒竄滅を悟す東奉行の留任を奏請す三吉屋五郎兵衛宅より出火大塩最後の状況跡部山城守賞せらる大塩凶乱に就いての聞取風聞書大塩凶乱は一朝の軽挙にあらず平八郎諫を納れず高麗橋辺の張紙大塩蔵書を売却して人民に施行す茶道具を入札せんとす大当りの芝居大塩の一件と酷似す凶乱勃発当時の騒擾士初めて武を試む凶乱の一件を万歳に作る落人生捕らる大塩書状を老中に奉る討伐の議遅延の理由大塩鷹司相公へ献書本書編纂の由来御代泰平を謡ふ大坂城番の諸役大塩の才智大塩隠居今川義元の裔なりと自称す平山助次郎大塩叛逆の由を報ず凶乱の報を得たる態度大塩一件露顕徒党放火す官軍部署を定む賊徒横暴鴻池善右衛門方へ入る三井に乱入平野橋辺の迫合賊徒火術掛討たる牢屋敷罪人を出牢せしむ凶徒の頭立者を求む防火の手配鎮火賊徒遺失の用品賊徒連判の人数大塩平八郎及び格之助小泉淵次郎渡辺良右衛門瀬田済之助近藤梶五郎庄司儀右衛門瀬田藤四郎及び一族平山助次郎吉見九郎右衛門宮脇志摩守梅田源左衛門松本林太夫杉山三平白井幸右衛門竹上万三郎大西与五郎同善之進深尾治兵衛大塩の家人入牢の諸士瀬田済之助中間横山文済卯木俵二額田善右衛門大井正市郎三好屋五郎兵衛同妻永井丈左衛門大坂市中焼失の次第焼失町家竈数大塩騒動に就いての戯書
一、天保八年丁酉二月十九日朝五つ時、天満川崎御組屋敷大塩平八郎宅より出火の由、【大塩凶乱の最初】例の通り人足夫々差出し候処、右平八郎を大将と致し同志の者余多、手に槍・長刀白刃を持ち、大筒にて同人北側朝岡助之丞宅へ打込み、其外或は火を懸け乱妨に及び候に付、大坂三郷火方人足の者共も難㆓近付㆒、前代未聞の騒動に相成申候。乍㆑併家家へ乱入の已前旗様の物を持ち歩行き、無㆑程焼打致し候間、大切の品持逃候様申候て、其後白刃にて人々疵付不㆑申様追払候申合と見えたり。扨平八郎一隊は組与力町東西共不㆑残火を懸け、天満十丁目筋へ乱騒致し、一隊は東寺町天神境内・天満御堂仏照寺辺へ火を懸け、木炮を車に載せ曳き歩き、天神橋へ一集に相成押寄せ候に付、御公儀の令にて右橋板を役人村人足を以為㆓切落㆒候、因㆑之悪党の銘々難波橋へ走り付南側へ相渡り候。但天満市中へ火を懸け、乱防の砌は緩々相懸り候へ共、市の側へ差懸り候砌天神橋切落し候に付、火急に勢を進め難波橋へ渡り候也。依㆑之大根屋抔不思議に免れたり。又天神橋詰より船を奪ひ、藍屋橋辺へ上陸致し候人数も有㆑之。此者共東堀辺より上町へ乱入致候由、此時九つ時なり。扨悪党の銘々北浜家々を大筒打込み火を懸け、今橋筋へ出で、鴻池善右衛門前に旗を立て、槍白刃にて乱【 NDLJP:36】妨大筒を放し候に付、家内の者漸〻手許の者少しく持逃れ蔵々等も締切り候遑無㆑之無慚至極と可㆑申候。勿論同苗他治郎・庄衛方、庄衛方には早朝より、土州屋敷へ納銀有㆑之、大体七歩通りも相運び候処、右の次第騒動不㆓大方㆒、乱入の者諸蔵を為㆑開火を付け候抔余程盗取り候様に相聞え候。蔵数火の入候は此庄衛方一番夥しく見受候也。但庄衛手代の者話には、折節外の方へ参り此騒動を聞付け、東堀迄馳付候処、自分店金箱沢山浜より船に積み、又は散乱致候に付、乍㆑怪馳付候処、右の仕合跡にて、掠取り候次第思ひ当りたりと云ふ。此砌川西には此辺騒動の儀無㆓思懸㆒候て、余も紀伊国橋筋かいや町にて善右衛門殿に引合候処、手代二人被㆓召連㆒南へ被㆑走候を無㆓何心㆒挨拶そこ〳〵に致し、追々東辺の沙汰承り、此時自分宅を漸〻逃出で、阿波屋善五郎宅迄逃候途中なり。跡々で大に気毒なる挨拶に及び候段心付候。高麗橋筋へ出で、【三井呉服店に乱入】三井呉服店にて食事を認め、衣類蔵・唐物蔵為㆑開火を付廻り、大筒にて驚かし岩城同断一隊は、三井両替店を騒がし候心得に候処、先手平野町筋の党より火急に呼に来りたりとも云ふ。又焰硝処持の人足相後たりとも云ふ。夫故両替店は免たり。扨平野町を乱妨に及び淡路町・堺筋へ出候処、折柄堺御奉行曲淵甲斐守様御人足に御城付御鉄炮組与力坂本源之助・浅羽隼人、并同苗三太郎悪党共を散々に打散し候に付、此処に於て悪党共行方不㆑知成行き申候。但此一条差起り候に付、両替店近辺迄人数を呼に参り候哉と後にて心付候由。淡路町一丁目西北角同所南側に二人鉄炮疵にて斃居候。又堺筋少し西手には大の男鉄炮にて斃れ、右首を槍貫き諸人を被㆑鎮候。是東奉行の御計なり。残り両人の首廿二日朝斬取り帰り申候。西辺は此散乱にて、皆々無事なる事全く坂本・浅羽両人の功なりと云ふ。此時は平八郎・格之助は上町辺を乱妨致し候由と云ふ。是も本町にて行衛相知不㆑申候由に候事。
御公儀御人数次第【御公儀人数次第】
跡部山城守様、与力五十人・同心百人。後陣防方玉造口組・京橋口組。右十九日未の上刻御手当、其夜より翌日迄通し
御本丸御殿、菅沼織部正様。同桜御門、北条遠江守様〈百騎衆父㆑残〉二の九京橋口、土井能登守様小笠原信濃守様。二の丸青屋口、井伊右京亮様、同玉造口。遠藤但馬守【 NDLJP:37】様〈御名代御家老鷹見重郎左衛門〉
御番頭・御物頭・大目附・給人四人、都合七人替りにて詰める。北仕切御門・南仕切御門、御番頭・御給人三人宛詰通し。米倉丹後守様御組与力・京橋口御番所与力十騎、廿五人詰通し。山里の内東西仕切御門は土井能登守様・〈御家来〉小早川湊・〈同〉大生隼人・御給人二人宛詰替り。山里丸御家老大生仁衛門。丁木坂御門米津伊勢守様、築違御門遠藤但馬守様御家来。
大手先四手共土橋先柵を組有㆑之。柵の外に百五十人詰。
土手南手松平遠江守様〈取方囲の陣〉・同西手渡辺備中守様御陣・同本町口岡部内膳正様御陣・土井大炊頭様御家老・長尾組高正様。
右御金蔵北手魚鱗。
玉造口土橋先柵の外与力・同心持。御加勢として、松平甲斐守様・植村伊勢守様。
京橋口土橋先与力・同心にて持つ。御加勢、九鬼大隅守様・永井飛騨守様・稲葉丹後守様本町橋御出張、北淵甲斐守様。西御役所、堀伊賀守様。〈東御役所等預り〉
天満橋持口、土井大炊頭様御人数・堀伊賀守様御人数。高麗橋、浅羽隼人・同苗三太郎・万才隼之助、外に与力十二人。
一、同廿日子の刻鎮火に相成り、雨降出す。廿一日大雨是にて人気納まる。
市中并在々迄口達有㆑之【町在に出せる口達】
悪党者所持致候飛道具類不㆑残御取揚げに相成候間、此段安心可㆑致候。此趣町々より相達し可㆑申候以上 丙二月廿日
【賊徒人相書の廻文】一、十九日夜諸屋敷へ廻文人相書の写 松平遠江守内 稲葉左近右衛門
以㆓廻状㆒致㆓啓上㆒候。然者今十九日大坂市中及㆓乱妨㆒候好賊、元大坂町奉行与組力大塩平八郎・同格之助・瀬田済之助、同組同心渡辺良左衛門・近藤梶五郎・庄司儀左衛門其外の者は逃去候に付き人相書左の通。
【 NDLJP:38】【大塩格之助】大塩格之助、年頃廿七歳計り・色黒き方・脊低き方・鼻目常体・上向歯二枚折有㆑之眉毛濃き方。
【瀬田済之助】瀬田済之助、年頃廿五歳計り・色青き方・脊高く肥肉・目丸く大きく二皮目・月代薄き方・小額有㆑之・眉毛薄濃き方。
渡辺良左衛門、年頃四十一二歳・色白き方・脊低き方・二皮目大きく出目・月代常体・出歯。
近藤梶五郎、年頃四十歳計り色赤く丸顔薄・斑黒有之。脊低き方・目丸く常体・月代常体・角抜有㆑之。
庄司儀左衛門、年頃四十歳計り・色黒く
二月十九日 諸家様・御留守居様・御役人中様
浦触書之写【浦へ出せる触書】
此度於㆓大坂㆒不㆓容易㆒儀相企候、大塩格之助父平八郎へ致㆓徒党㆒候忰格之助并に瀬田済之助・渡辺良左衛門・近藤梶五郎・庄司儀左衛門、其外名前不㆑知者行衛不㆓相知㆒、船にて逃去候程難㆑計候間、怪しき者は勿論廻船・小船・魚船等にて、他国相頼候共、決して貸申間じく、如何体にても手当致し取逃不㆑申様其所へ留置き、早々大坂町奉行所へ訴候へば、為㆓褒美㆒銀百枚、手伝候者へ相応の褒美可㆓差遣㆒候条、此旨相心得津々浦々にも不㆑洩様早々相触候者也。
但此御触状先格之通り浦継ぎ無㆑滞相廻触留より、大坂東番所へ持参可㆑致候也。
【 NDLJP:39】 悪党者乱妨の次第【大塩与党の人員及び武器】
〈[#図は省略]〉 平八郎先手持参目標旗桐の紋は今川家の心意
〈[#図は省略]〉 湯武両聖主天照皇太神宮 八幡大菩薩 三神一は上の図の如く、一は東照大権現とす。又題目の印も有㆑之。
〈[#図は省略]〉救民
〔この処行列あれども前編二七九頁に出でたれば爰に略く〕
一、大坂勘助島天満屋忠兵衛方に罷在候
当西十四歳 松本林太夫〈淡路町藤井省吾女房連れ子松本官吾へ遣し候由〉
右の者七ヶ年已前より平八郎に寄宿致し有㆑之候処、此度一味致し、十九日市中乱妨に及び候砌、淡路町堺筋にて散々被㆓打乱㆒候節逃去候由申㆑之。右林太夫白状の次第にて右人数の次第組方相知れ候趣。
一、武□拾匁筒五挺、内二挺は成瀬正兵衛・八田衛門太郎方にて奪取る。外に三匁筒七挺・大筒・鍬筒は兼ねて丁打□みに公儀より拝借の分。
鉄筒
〈[#図は省略]〉車に載せ用ふ
筒長四尺余、台共五尺。金象眼登龍の紋あり。其外七拾目筒、銀象車輪の紋。
再三相廻り候人相書【凶徒人相】
河井郷右衛門〈正月下旬出奔〉年齢四十歳計り・顔白き方・鼻の上に疱瘡の跡あり。右の耳たぶ色変り有㆑之。眉毛常体・目常体少し赤き方・脊中肉・月代薄く髪赤き方・舌常体
大井正一郎〈玉造組与力〉年齢廿五六歳計り脊高く瘠せたる方・顔細長く色赤黒き方・眉毛濃き方・眼常体・耳常体・舌静なる方。
西村利三郎。廿四五歳計り・脊低き方、下略。
志村周次〈江州小川村〉三十計り・脊高く中肉、下略。
【 NDLJP:40】堀井義三郎〈播州加東郡西村堀井源兵衛忰〉廿三四歳計り脊常体、下略。
曽我岩蔵〈平八郎家来〉四十六歳計り・脊低き方、下略。
阿部長助〈同断天満五丁目阿部屋久本左三衛門弟〉二十歳計り・中脊中肉、下略。
喜八〈平八郎仲間〉五十二三歳計り・中脊中肉、下略。
信助〈右同断〉五十歳計り・脊低き方。
忠五郎〈右同断〉四十歳計り・背高き方、下略。
落文の写(〈前編巻之六、二七一頁に既出に付き略す〉)
右黄色の絹に包み上書
〈[#図は省略]〉太神宮 礒部九大夫
但この紙一枚に板を摺り、板木は横に四枚・五枚宛ならん。摺後につきたる者也。此写初壱枚字並び、大抵本紙の趣なり。
一、廿一日守口駅へ、松平遠江守様御人数五百人計り出陣。但し京橋玉造与力・同心是も人数打揃ひ差向ふ。
一、同日岸和田岡部内膳正様吹田へ被㆓差向㆒候由。宮脇志摩は吹田神主の由に付、出陣蔵屋敷方へも御頼み有㆑之、屋敷方人数御加勢に差向もあり。
松本林太夫 十四歳 勘助島にて被㆓召捕㆒ 渡辺良左衛門河州恩地山にて自害 瀬田済之助 河州弓削村にて首くゝり 竹上万太郎 中山宿にて生捕 白井孝左衛門伏見にて生捕 才之助父 瀬田藤四郎 河州にて召捕牢死 宮脇志摩守 吹田自宅にて養母を切害一里計退畑にて切腹 庄司儀左衛門 奈良にて生捕 吉見九郎右衛門新屋敷証所にて生捕病死 小泉淵次郎 於㆓奉行所㆒用人竹島善之丞討取る 橋本忠兵衛 淡路町にて戦死 近藤梶五郎 自宅焼場へ帰り自殺
一、御加勢御備の為、高槻・岸和田・尼ヶ崎・姫路・郡山。
夫々御大名人数追々到著、後日には御断に相成り、悉く被㆓差帰㆒候。近国山手御備方厳重に往来を改められ候事数十日なり。
【京都の防備】一、京都には六門御防備有之、御所司代昼夜御出役。人数懸る厳重の段、奉㆓恐入㆒【 NDLJP:41】次第也。
但し京都禁裏・仙洞御所各〻昼夜の差別無く、禁門有㆑之内可笑き話あり。如何なる事にや、江州彦根の社頭神主異形の装束を著し、鯛を一懸け持参にて、公家御門より案内を乞ひ候に付、堂上御詰御役より与力に尋ねさせ候処、霊夢に依つて参内致候段申述べ、甚以て無礼不骨の段追払候。右禁門中に付、掛り与力閉門狂人と相見え申候。
去十九日奸賊共市中及㆓乱妨㆒候始末申上候。跡部山城守・堀伊賀守〔前編巻之六、二五八頁にあれば略す〕
大塩平八郎父子居所相知れ、自殺仕候儀申上げ候。跡部山城守・堀伊賀守〔前編巻之六、二六二頁にあれば爰に略す〕
口達写〔前編巻之六、二九四頁にあれば略す〕
下げ札 類焼の者共家財広場途中へ持出し、自身に番致し罷在候分掛り町へ申付け、右家財預り遣候間、致㆓安心㆒芝居へ罷越御救受候様、其場所にて相達し申候。其段相心得置き申候事。
口達写
【凶徒竄滅を悟す】去る十九日放火及㆓乱妨㆒候者有㆑之候より、女子供等別て相恐れ今以て危ぶみ候者も有㆑之哉に相聞き候。右悪党共の内重立ち候者追々召捕、或は自殺致し候者も有㆑之上は安心致し、諸商人売買は勿論、来月雛祭り等の儀無㆓懸念㆒例年の通り相祝、取引等可㆑致候。右の趣三郷町中末々迄不㆑洩様可㆓申聞㆒事。
酉二月廿八日
但最初二月廿一日御触は、類焼の者外へ荷物を持出し、雨天に相成り傘はなく、夥敷く難渋の者有㆑之。道具等盗取り候者多く有㆑之、中々言語に不㆑堪㆑述体故、御口達有㆑之、実に難有仕合に御座候。
芝居は道頓堀芝居一統へ参り、町人へ申付け、預り荷物運渡し、中々御仁恵の程と涙を
乍㆑憚書付を以奉㆓願上㆒候 北組町々総代廿組通達年番町年寄共
一、東御奉行様御儀、去る甲七月より当表御在勤被㆑為㆑在候処、追々米高直に付、市中一統及㆓難渋㆒候段被㆑為㆓聞召㆒、【東奉行の留任を奏請す】米直段引下げ方格別御心配被㆑為㆓成下㆒、去秋已来追々御救方被㆑為㆑在候に付、市中一統難渋の者共時節柄を相凌ぎ、且は莫大の御救米被㆑為㆓下置㆒候に付、自ら市中静謐にて安堵仕り取続候段、広大の御慈悲難㆑有仕合に奉㆑存候。然る処去月十九日市中乱妨の者有㆑之、格別の御心労被㆑為㆑在候。依㆑之追々人気相鎮まり、其上類焼難渋の者共御救被㆑為㆑在、御仁恵の程重々難㆑有。後年に至無㆓忘却㆒乍㆑恐奉㆓感悦㆒候。全く当地為㆓繁米㆒の種々御心労被㆑為㆑在、町人共御仁徳を奉㆑慕候儀にて候。恐多く御座候得共、何卒当表久敷御在勤被㆑為㆑被㆑在下候はゞ、此上の御慈悲難㆑有可㆑奉㆑存候間奉㆓願上㆒候段、町人共一統申上候に付、恐多く御座候へ共、私共為㆓総代㆒、此段奉㆓願上㆒候。乍㆑憚各〻様より宜向き御願上被㆑下候はゞ、難㆑有仕合に奉㆑存候、已上。
天保八年西三月五日 大坂三郷町人総代 弐拾町年寄中名前
総御年寄中
西御奉行様は当御詰寔に近代と違ひ、米価凶饑に付御世話様有㆑之候上、右の大変と申し昼夜嘸々御心労と奉㆓察上㆒候事也。右変後牢屋敷は焼失、天満橋高□(原カ)高津新地御救小屋等被㆓仰出㆒様の御仁恵の程、難㆑有仕合とや可㆑申候。
【大塩最後の状況】一、廿七日前夜より御城代方役人靱辺内密にて被㆓取囲㆒候を、御町与力へ内々御注進の者有之。猶又西御町与力内山彦二郎殿被㆓差迎㆒、内々前夜より火方等も手当有㆑之候由。右彦二郎殿〈今一人は関弥左衛門殿〉五郎兵衛を被㆓召寄㆒、町内役場にて厳しく及㆓吟味㆒、遂に白状致し即刻五郎兵衛宅へ被㆓差向㆒候。已前御合役夫迄に被㆓差向㆒候節、五郎兵衛勝手騒動の様子にも相聞え候に付、平八郎物蔭よりそと相窺ひ候処、与力・同心被㆓差向㆒候に付、格之助飛道具と大声にて相叫び、夫より一室にて焰硝に火を懸け、格之助を殺し自分はけしからず周章転倒の体なる処へ、彦二郎殿差向ひ差詰め、縄を懸け候やと被㆑呼候処、縄は懸かり不㆑申切腹致し候と申候。尚彦二郎差向ひ候段、平八郎祝著の由大声の語合にて、火中にて自殺に及び候。夫より火中を引出し二人の死骸を駕籠に入れ、本町筋を高はらへ相送らる。
但折柄駕籠の用意無㆑之、医者駕籠に平八郎死骸火中にて髪究ち焼ふすぶり候内、格之助は常の駕籠に載せ跡より五郎兵衛も駕籠にて被㆑送。〈五郎兵衛駕籠は垂れ上げむき出し也二人は外より見えぬ様に釘付けの様子〉与力・同心附添ひ、けの様子火方の者は
駕籠の四方へ木札大きく打付け姓名認有㆑之
大塩平八郎死骸 大塩格之助死骸 此通り四方に打付く。
江戸より御逹の写 跡部山城守
【跡部山城守賞せらる】其方組与力格之助隠居大塩平八郎儀、不㆓容易㆒不届の企致し、放火乱妨に及び候節、【 NDLJP:44】早速致㆓出馬㆒消防并捕方夫々及㆓指図㆒、悪党共速に散乱相鎮め候次第、彼此心配骨折の故の儀と一段の事に候。不㆓取敢㆒此段可㆓申聞㆒との御沙汰に候。
水野越前守
右書面御城代西御奉行へも参り候由。初文は跡部山城守組与力と書出しの由。
聞取風説書【大塩凶乱に就いての聞取風聞書】
一、大塩平八郎此度の企は、両三年已前より存じ立つにて、兼て江戸表へ罷下り、懇意の旗下衆〈或は大名の家老共云ふ〉出会の砌、世上の風儀百年来の有様、畏多くも御上の向の取沙汰の評説に及び候処、平八郎の剛性を不㆑怪賞誉被㆑致候。【大塩凶乱は一朝の軽挙にあらず】尤於㆓大坂㆒先年切支丹掛り長吏等の裁断抔を不㆑怪自負致し〈平八郎役中御奉行高井へも度々罷出〉大に当時安治川口新築山水利の談抔も批判致し候由。此時自分宿志憂世の説を内々相話し候処、粗〻同志の仁も有㆑之〈是は自分の慢気例の気質より人々陽諛を誠実と心得候段尤も拙き事也〉其後格之助初め門人共町打火術稽古と称し、公儀より鉄炮等を拝借致し、専ら火薬を拵へ候由。此時に当て御城代〈土井大炊頭様〉御家来の内姓名某といふ人、学問談論の為め内々対面有㆑之、当時飢餓の者共奉行所裁判救命の不行届き、米政の粗相なる事抔を自裁に被㆑論候事も有りける。猶又当時東奉行所には西与力を御取用ひ抔にて、専ら東西并局の御仕法抔を嘲笑し、自分の世々用ひられざるを憤りたる宿心を顕し、小人の拘々として死せん事を共にするを歎じける。桓温の「醜を万世に伝へん」と云へる気象を被㆑話たる処、右某殿大に同志にて、種々表向諛諂の詞も有りたる由〈此某も畢竟人心知らざる也。猶一大事にも相成候て、主人も後立てとはなられ可㆑申抔の、一時興談もありたる由〉願右弥〻高慢強く隠心の者夥しと心得たる愚さよ。扨機密一件を自分弟子共へ打開きたるに、誰敢て一人も仰天せざるはなきなり。併例の堅剛不敵の性質故、各〻連判承知は不㆑得㆑止致したるなり。〈兼て西与力吉田勝左衛門・内山彦二郎其外役に立ち候者、東併局に被㆓取用㆒候に付、東与力一統銘々不快の段度々雑談の内、平八郎方にて訴嘆致し候儀、度々の事也。因て此一儀無㆑拠承知に及ぶと云ふ。〉併し所詮事成。就は覚束なしとは皆々覚悟候得ども、其内にはこの一条もよもや発挙は無㆓存懸㆒儀と、互に思ひゐたるなり。中には直諫抔致し候者も有㆑之候得共、【平八郎諫を納れず】厳しきめに遇ひ、既に彦根侯家中宇津木香之助と云ふ仁、武術には委しく、兼て平八郎と学友なれば、長崎より帰路被㆓立寄㆒候処、平八郎宿志を被㆑話候処、香之助大に被㆑諫候に付、一応は平八郎も改㆑過の体を見せ、門人大井庄一郎へ内意申【 NDLJP:45】付け欺き、槍にて突殺したる事も十九日発起の已前に有りたり。斯様の勢ひ故、皆皆不㆑得㆓止事㆒同志の約決致したるなり。河井郷右衛門抔は無二の門人なれど、正月下旬約を背き出奔したり。吉見九郎右衛門抔病気にて引込み、内々平山助次郎は返忠を致し、余程の一統実に一致と云ふにあらず。是平八郎我慢より拙策玆に及びたるなり。〈平八郎存念には、天満乱妨の初、人数追々差加はり候積り、船場へ渡り、山中辺放火の頃は、手勢二千人計りも有㆑之より差加り候心得なり、可㆑笑々々。〉
一、西御奉行堀伊賀守頃日大坂著に付、大坂町々巡見有㆑之趣町触にて、跡部山城守様にも先例の通り御立言に付、十九日巡見当日の処、俄に相止み候。是則ち平八郎宅向ひ朝岡助之丞殿へ巡見、先例両奉行へ立寄候機を考へ、兼て趣向の大筒火器を打込の手筈の由、既に十八日夜吉見・河合の両子内訴より泊番御糺に相成り、瀬田済之助は塀を乗越え逃去り、小泉淵次郎は近習等へ手向致し、鎮守稲荷社前にて被㆓討果㆒候。此珍説より弥〻御備に相成り、済之助注進より平八郎方にも、十九日朝発起と成りたり。此一条は両御奉行書上げて、具に御認の事。
【高麗橋辺の張紙】一、高麗橋辺へ正月中旬頃張紙致し候文面、誠に御上を奉㆑怨、富家を散々に申し、今天下飢饉至極の折柄、公辺には江戸表廻米と唱へ、利益を被㆑計、江戸米掛り役人の非を被ひ、今上・仙洞御在所は一粒の米も不㆓差遣㆒との趣意、大坂豪富の銘々を取立て、身上過半位散財致し救民あらば、何国にても米の用意は出来可㆑申筈抔、其外役人取捌の批判相認め、近日此書得心無㆑之候はゞ、焼打ちに可㆑致との文面。自然此張紙取除け候者は、槍玉に上げ候由相認め候に付、皆々恐怖は致候へ共、捨札の儀内々公訴を以て、同心衆引□に相成候。此張札同志の者千人とあり。此節には一向無㆓心付㆒候得共、後日落し文の趣を以て、平八郎仕業と心附きたり。
【大塩蔵書を売却して人民に施行す】一、平八郎企の已前、所持の書物四十貫目計り売払ひ、貧民一人前金一朱宛施行の趣尤安堂寺町筋書林会所より、河内屋喜衛其余書林共世話致し施し、切手引替へ候。此施行札、摂・河・泉在々へ夥しく施遣し候由。兼て板木彫二三人計、無筆の者差越し可㆑申様申来り、右板木彫刻と唱へ、落し文為㆓彫刻㆒候事。
【茶道具を入札せんとす】一、二月十九日は兼て茶道具入札有㆑之筈〈十八日と最初には触れ候得共、十九日巡見に付、十九日朝の所拘り候に付、十九日の日取に相替の由〉則ち、元売懸り候処、人々打寄々々少々計り商ひに取懸り候処へ、右鉄炮今橋辺へ参【 NDLJP:46】り、混雑夫れ切りに相成り、此入札代品物は米平の道具也。昨年已来追々評判有㆑之名高き入札なり。
【大当りの芝居大塩の一件と酷似す】一、道頓堀中の芝居二の替新狂言恋女房作替へ大入にて面白く、斯かる凶歳の時節に、場所等も無漸、初日より十日計りに相成候処、此変にて其儘に相成残念に候。但此二の替傾城玉手綱・梅玉・顕左門・歌六・富十郎・江戸登・三桝源之助・工左衛門抔なり。此仕組芸梅玉初段は至て実方にて捌等も有㆑之。三段目鏖に致し大謀叛に成り、顕左衛門奴にて、是も実と見るを謀叛人なる趣向。総体此度の騒動によく似寄るとすべし。大切は源之助目見狂言熊坂物見松に候。
【凶乱勃発当時の騒擾】一、十九日・廿日・廿一日頃市中の大変筆紙に尽し難し。実に慶長・元和已来甲冑を著込み、鉄炮・火縄にて市中を徘徊之有る抔、殊更淡路町筋死亡の者共鉄炮にて被㆓打殺㆒、首無㆑之者大道に其儘有㆑之を現に見物致し、白刃にて処々武家方の往来近国御備人数等を見懸け候ては、すは敵の寄せ来るやと貴賤・老若泣叫び逃廻り、如何なる豪富の旦那・深閨の佳娘抔も素足風呂敷包を背負ひ逃迷ひたり。或は武家方組与力が内室等、長刀を横へ腰に幾つも刀を差し、下女等は大風呂敷を負ひ、是も脇に刀・脇指を幾つも押込み逃げたる有様、此時に当つて万貫目持も今日暮しも聊か変りたる事なく、落し文の書面の如く、豪富奢侈を専らに致し候者共、今日に至て如何ぞや。後日よき手本ならんかし。
一、大坂蔵屋敷方留守居夫々御備御頼も有㆑之、大混雑には候得共、何分火急の儀火薬等用意無㆑之、大に難渋、役人等武術・馬術等如何程にや。総体蔵屋敷の儀米銀差引き場故、防火の例は度々有㆑之候ても、斯様の珍変用意の人数等もなく、仲仕等も出入有㆑之候乍ら、諸方兼持の者にて、皆々大に被㆓相困㆒候。御備方立派に被㆓出陣㆒被㆑致候も有㆑之、又は国元より兼々申付の趣意を以て、公辺へ被㆑答、防火のみにて武備の儀は断り被㆓相成㆒候も有㆑之候事。但人数差出し被㆑成、仲仕召連れられ候処、鉄炮を逆にかたげ人より被㆑笑、俄に一統被㆓持直㆒候も有㆑之、又鎧櫃は銀主館入抔の土産物入れ有㆑之俄に周章被㆑致候も有㆑之、槍等も無㆑之、館入古き家抔の長押に懸け候も借りに参り候処、皆々弓の如く
【士初めて武を試む】一、御城は柵を結ひ、慕陣立厳しく、北条侯御指図の陣立有㆑之、御役人方実地を試みられたるは此度初てなりと後にて御噂有㆑之候。余などは無㆓何心㆒見物致し候得共、青龍・白虎と申す立て方の由、後日承㆑之。〈賊徒桐の旗印と注進有㆑之に付、もしや薩摩抔加勢ならんと公辺にも御驚き有㆑之由。〉
【凶乱の一件を万歳に作る】一、十九日大変中鉄炮御組抔、各〻昼夜を不㆑分奔趨の中に、右人数労中此一件を万歳の唱歌に作り、翌廿日認め、一見致したる朋友あり。実に言語道断と人々笑ひ罵りたり。是は軍中の有様を知らぬ人の、昔敵方寄来り騒動中連歌の会を催し、先刻より鉄炮にて烈しき折節、郭公を聞くとて茶湯の案内抔ある類、往古の記録中には沢山なり。是等の趣と同意なり。其心味ひて知るべし。〈大変中抜身の槍抔の類都てさびたる故、眼へ見たる節は恐気なきなり。〉
【落人生捕らる】一、廿一日朝伏見豊後橋にて、三人の落人被㆓生捕㆒候。余程金子所持にて、折節役人より被㆓追詰㆒橋の上より飛込み候処、兼て彼橋近辺は網を水底に御備有㆑之候に付、即刻用意の綱網を被㆓引上㆒候処、魚の網に懸りたる如く、人々大に笑ひたりとぞ。 〈但是は白井孝右衛門並に平八郎家来の由。〉
【大塩書状を老中に奉る】一、平八郎より十四日〈二月〉認の書状江戸表御老中宛五通計り、外に金子余程相添へ差立候由。右発動に付、公儀より追手へ差出し候処、先書を取返し候処、又々何者共不㆑知奪取り、途中に書状のみを捨て金子は何地共なく持逃候由。状は夫の処より相達候由。此儀も後日承る。
【討伐の議遅延の理由】一、御城代初、両御奉行にも斯る大変企候に付、若し自然大名衆中の内荷担の儀も有㆑之候哉無㆓心元㆒、夫故余程評議隙取り候由。跡にては種々論説申す族も有㆑之候得共、十九日朝の儀は、人数徒党の様子も不㆓相知㆒、実に御配労と被㆑察候。
【大塩鷹司相公へ献書】一、京都鷹司相公へも、一通書状平八郎より前方差出し候由。是は封建・郡県の儀を論じ、王覇の正道を挙げ、実心を顕し候体に認取り、保元の頃より公権を武威に被㆑誤候成行き、復古の趣を飾り、米倉官等の旧記に准じ候種々漢文の由。写取り定て後日一見も可㆓相成㆒候哉と存じ候。かゝる企も有之候はゞ、何れ雲上は兼て取入可㆑有と見えたり。【 NDLJP:48】【本書編纂の由来】予此度摂州に有㆑之、幸なるかな大塩父子が乱妨を見聞く事を。剰へ鉄炮の下を潜り、大小に反を打ち、鞘を放つて槍を持つ事、是誠に武門生前の本快ならん。此故予見聞の荒増しを書して、東都に帰路の土産となし、旧友等が笑顔を楽しまんが為、此書を綴る。空有り実有る事は死骸に物を聞くの由なき事を察して笑ひ給ふ事勿れ。穴賢々々。
于時天保八酉三月
【御代泰平を謡ふ】抑〻徳川の流は尭舜の御代共云ひつべし。万機の政穏にして慈悲の浪四海に普く、治めざるに平なり。君々たれば臣も亦水よく船を浮ぶとて、此難波津は其昔、仁徳帝の御宇かとよ、三
評に曰く、此書如何なる事を認候哉難㆑計。乍㆑併風説を考候へば、天より給ふ事といふ檄文を認め、町人・百姓の政事を誹謗して、或は跡方も無き事を並立て、己が庸才に誇りて人を蔑に嘲したる文面、又は両御奉行御指図方の不㆑宜、依㆑之諸色高直抔と凶豊の弁なく申立候書面、且亦御巡見を待受け、組屋敷へ御入の節両方より挟み、火矢・鉄炮の類にて打留め、夫より大坂町中焼払ひ、富家の財宝を以て軍用となし、首尾よくば御城迄乗取り可㆑申企て有㆑之趣等、逐一に認め可㆑有㆑之と被㆑考候。
〈吹日村・三番村・般若寺村・三留村・弓削村・尊円寺村・猪野飼村・今一村〉百姓共へ、十九日施行致し候間、昼頃前相揃ひ候様兼ねて触置き候由に付、〈此儀百姓召捕の上白状致候〉心組大に相違致す。俄に手立を替へ候様子にて、朝五つ時頃より乱妨相始め、居宅へ火を放し、【徒党放火す】其上兼ねて用意致し居候火矢〈此大矢地車の類守口村質屋白井幸右衛門方にて出来候由〉大筒〈大小五挺有りて此内一挺に、太右衛門大郎方にて、奪取候品、同一挺成瀬正兵衛品の由。〉小筒等を以て、組屋敷家毎に、火矢打掛け、一円火となし天をこがすの勢ひ、猶建国寺御宮へ自分居宅より火を打込み、暫く此辺へ同勢を屯し居候由。
評に曰く、御宮へ火矢打込候始終より、檄文の文面相違ひ、天下を狙ふ賊敵たる事、明鏡に照すが如く、尚亦此処参上致し候時は、両御奉行共に是迄御出馬有㆑之事、必定と相口候由に相聞ゆ。
西御奉行
京橋御祖同心拾人 ・御組同心三人 ・御馬印一人一人・御組同心三人 ・京橋鉄炮組同心拾人 、御徒士内藤久米蔵 ・御徒士高田広作 ・御槍・御徒士古川力蔵 ・ 御徒士目附御手洗滂作 ・同助役江島金兵衛 ・御中小性伊藤安次郎 ・御中小姓豊田忠治 、御組与力二人大筒二挺 ・御供頭山口泰助 ・御馬口取上御馬 御馬口取・ 御供頭鈴木与市 ・御組与力二人大筒二挺 、御草履取御長柄御床机・御納戸 吉副金三郎 ・御近習 一色捨三郎 ・同 谷口和三郎 ・御筥・御筥、押高崎嘉兵衛 ・御槍手替・押水上久蔵 ・公用人有貝順平 若党若党・御茶坊主・公用人下山弥右衛門 若党若党、槍持・草履取・箱持・槍持・草履取・箱持、合羽籠其外人足附。
十九日賊徒散乱の節淡路町に捨置き候品
〈[#図は省略]〉救民
湯武両聖主天照皇太神宮 八幡大菩薩
一、大筒台上車但地車也。一、大筒台覆弐〈但青草一枚白革一枚〉 一、具足四領。外ニ胴計り二つ。一、鳥目二百文包数二十。百文包同五十 一、太鼓一つ。一、□台一挺。一、細帯一筋。一、付木大把一把。一、刀三本。一、脇指十五。一、木綿紺パツチ一足。一、長刀一振。一、槍六筋。一、大筒・鉄炮・木綿枕一つ。一、小筒鉄炮三挺〈但三匁玉〉。一、火縄四把。一、大筒引縄四筋。一、細引二把。一、紺網袋一つ。一、桐紋付黒木綿羽織一つ。一、著込一つ。一、座蒲団一重。一、腰提烟草入一つ。一、雑物乗せ台車一つ。一、火矢〈一箱〉五本。一、樫旗竿一本〈但丈三間〉。一、鉄棒一本。一、鳶口一挺。
〆 右之通有㆑之。
〈東御組与力〉大塩格之助・〈同人父隠居〉大塩平八郎・瀬田済之助・小泉淵次郎・大西与五郎・大西善之助・〈同同心〉近藤梶五郎・庄司儀左衛門・吉見九郎右衛門・渡辺良左衛門・河合郷左衛門・平山助次郎・〈玉造組興力大井伝一郎忰〉大井正市郎・〈摂州吹田村神主〉宮脇志摩守・〈摂州守口村貸屋〉白井幸右衛門〈河州三番村〉安田図書・〈同村〉茨田運治・〈平八郎内弟子〉松本林太夫・〈放方〉林山三平・〈上田五兵衛殿組御弓同心〉竹上万三郎・〈河州三番村〉深尾治兵衛・〈同般若寺村〉橋本忠兵衛・相柏源源右衛門・〈同〉同伝七・〈河州沢上村〉上田幸太郎・〈同弓削村〉高橋九郎右衛門・〈浪人〉堤半十郎・〈牧方〉主馬之助・〈浪人〉自井儀四郎・〈江州浪人〉志村周次・〈摂州浪人〉堀井儀三郎・〈高槻浪人〉梅田源右衛門・〈浪人〉提半左衛門・〈江州弓削村〉西村利三郎・〈浪人〉額田善右衛門・〈兵庫の者〉阿部長太夫・〈同〉曽我岩助・〈浪人〉順市田次兵衛・〈浪人〉卯木俵二・〈猟師〉金助。
大塩格之助忰今川弓太郎〈酉二歳〉是を総大将に唱ふる由。
右の外摂州・泉州・河州の百姓共、其外浪人、十九日乱妨の節は、凡五六百人附添候趣、亦往来の者引留め、無理に加勢為㆑致凡三四千人にも相見ゆる。
叛逆徒党の者共大概
大塩平八郎〈改名して自ら名乗る由〉今川治部大輔と同人忰大塩格之助【大塩平八郎及び格之助】
右両人当十九日騒動以後行衛不㆑知、種々御詮議強有㆑之処、漸く三月廿六日当町油掛町更紗染屋三好屋五郎兵衛と申す者居宅奥の間に忰格之助共に相隠れ居候由露顕に及び、御捕として西御組与力内山彦次郎、并御城代土井大炊頭殿御手人数多【 NDLJP:57】被㆓差出㆒、右三好屋取囲ひ候処、兼ねて用意致候と相見え、居間を三重に囲出来居り、中々手安く難㆓打入㆒に付、多勢取巻き掛矢等相用ひ、右居間へ押掛け候内、所詮退難と心得候哉、内へ多勢籠り候様火矢を放たせ鉄炮打ち抔大勢に威掛け、兼ねての檄文に相違し蓬き振舞にて、忰格之助儀逃去るべき体をなし候様子の処、平八郎一刀に切臥せ、居間の四方に焰硝類積置き、建具等取重ね、其上に火を放し、誠に広言に引替へ見苦しき次第無㆓申計㆒事共なり。右出火且つ注進に付、両御奉行御出馬油掛町於㆓会所㆒御見分、其儘高原溜に引取り、塩漬に相成り居候事。
東与力 小泉淵次郎【小泉淵次郎】
右之者、十八日夜明方東御所にて、熊野宇三郎手に掛り即死、委しくは前に記す。
同同心 渡辺良左衛門【渡辺良右衛門】
右之者、河内国柏原畑中にて、致㆓切腹㆒居候処、同月廿六日相知れ、則ち死骸東御役所へ持帰り塩漬。
東与力 瀬田済之助【瀬田済之助】
右之者、河州千八代の山にて、首縊死有㆑之を、前同日相知り死骸東御役所へ持帰り塩漬。
東同心 近藤梶五郎【近藤梶五郎】
右之者、三月九日夜、我居宅焼跡へ立帰り、見事に切腹致し死す。尤是も其夜段々訳有㆑之由。
東同心 庄司儀左衛門【庄司儀右衛門】
右之者、南部にて召捕られ、則ち三月五日東御奉行組より送届け則ち入牢。
【瀬田藤四郎及び一族】 東組与力 瀬田藤四郎・同済之助妻・同人忰小児。豊後町に住居致候者 浪人一人 ・〈外に男七人〉
右藤四郎儀近年病気にて、先達て大和宝龍(法隆カ)寺辺へ隠宅致し罷在候由。前七人の者藤四郎召仕の者、又は日雇人足百姓等に有㆑之候。前儀左衛門同断東御役所へ被㆓差出㆒、不㆑残入牢。
東御組町目附 平山助次郎【平山助次郎】
二月十七日右徒党の事訴状に認め、東御奉行所へ差出置き、江戸表罷越し矢部駿【 NDLJP:58】河守殿へ駈込み、其後大岡主膳正殿へ御預に相成居候由、前委しく認め有㆑之、略㆑之。
東御組同心 吉見九郎右衛門【吉見九郎右衛門】
右之者、長々病気にて、北の新屋敷に罷在り候を、早速召捕りに相成り入牢。
摂州吹田村神主 宮脇志摩守【宮脇志摩守】
右之者、二月廿六日同人家内斬殺し、其上にて切腹致し相果て罷在る趣、則ち志摩守首東御役所へ持帰る。
高槻浪人 梅田源右衛門【梅田源左衛門】
右之者、二月十九日に淡路町堺筋辻にて、東御奉行手勢に、玉造鉄炮組坂本源之助打留め即死。則ち東御役所へ持帰る。
平八郎内弟子 松本林太夫 十四歳【松本林太夫】
右之者、二月廿日勘助島にて御組町目附召捕る。此者幼年なれ共才智の者にて、乱妨の節口薬つぐ役に候由。此者白状にて諸事逆賊共の始末相知る。入牢。
浪人杉山三平・守口質屋白井幸右衛門【杉山三平白井幸右衛門】
此幸右衛門、摂州質屋にて富豪の者にて逆賊に組し、金主方致し候由。右両人の者伏見迄逃去るの処、伏見御奉行手にて召捕り、二月廿五日東御所被㆓差立㆒則ち入牢。尤幸右衛門は坊主に相成り居候。
浪人 竹上万三郎【竹上万三郎】
右之者、早速召捕り入牢。
東御組与力大西与五郎・同人忰同善之進【大西与五郎同善之進】
右両人之者、十九日淡路町散乱の節より、西之宮迄逃出で候を召捕りに相成り、其節道にて刀を捨て候を、百姓共見付け、則ち刀東御役所へ持参り、右の由訴出づる。右両人吟味の節、右之訳合被㆑為㆑尋候処、面目を失ひ一言の申訳け無㆑之直に入牢。
三番村 深尾治兵衛【深尾治兵衛】
早速召捕り入牢。此者所持之品鉄炮六挺・竹槍百筋・半鐘一、右の品不㆑残東御役所へ持帰る。
【 NDLJP:59】 〈発頭人〉大塩平八郎妾・同格之助妻・右同人小児・外に下男女五人、〆八人。【大塩の家人】
右之者共、二月十九日京都御町奉行にて召捕に相成、東御役所へ被㆓差立㆒入牢。【入牢の諸士】
〈播州加東郡西村〉堀井儀三郎・〈大和者〉阿部長助・〈大和者〉曽我岩助・猟師金助・〈般若寺村〉橋本忠兵衛・〈三番村〉茨田運治・〈同村〉安田図書・〈沢上江村〉上田幸次郎・〈大塩平八郎中間〉喜八・〈同〉忠五郎・〈同〉七助・〈浪人〉堤半十郎・〈浪人〉堤半左衛門・〈弓削村〉西村利三郎・〈同村〉高橋九郎右衛門・〈般若寺村〉柏崎源右衛門・〈同村庄屋〉同伝七・〈江州の者〉志村周治。
右之者、何れも召捕り入牢。
〈瀬田済之助〉中間一人【瀬田済之助中間】
右之者、十八日丹波にて京都御町奉行の手に召捕に相成り、則ち東御役所被㆓差越㆒入牢。
浪人医者 横山文済【横山文済】
右之者、十九日夜より廿日朝迄防火人足に紛込み、西御奉行所内にて火防致すふりにて入込み居る処、甚だ風体悪しく相見え候に付召捕り、其後東御役所へ送り、御吟味の上及㆓口上㆒候て、西御役所へ火付け可㆑申手筈にて入り候由口上候。
江州彦根浪人 卯木俵二【卯木俵二】
右之者、平八郎弟子にて有㆑之処、乱妨の企て十九日迄心底不㆑明。当日に及び示談致し候処、十九日朝諫言致し候て、雪隠へ行出る処を、平八郎槍にて突留め即死す。
浪人 額田善右衛門【額田善右衛門】
右之者、首縊死す。
〈瀬田済之助〉召仕一人
此者、京都町御奉行組にて召捕に相成り、三月廿四日東御役所へ被㆓差越㆒候。入牢。
〈大塩格之助〉槍持一人
此者、三月廿八日大坂市中にて、内山彦次郎手にて召捕る。入牢。
玉造鉄炮組与力 大井正市郎【大井正市郎】
此者、三月廿六日京都にて召捕り、東御奉行所へ被㆓差越㆒入牢。
三好屋五郎兵衛・同人妻【三好屋五郎兵衛同妻】
【 NDLJP:60】右之者、油掛町にて更紗染屋にて下職等多分召仕、久しく此町にて渡世致し来る処、此度平八郎悪逆企の旗染致し候由にて、其訳不㆑知□候由申開き致すと雖も、町預に相成り居候。然る処三月廿六日、大塩平八郎・同格之助隠置き候事露顕に及び、御取方押寄せ、悉く白状致し、則ち両人共召捕り入牢。
丹波篠山城主青山因幡守殿御使者永井丈右衛門【永井丈左衛門】
於㆓江戸表㆒、去月廿六日御用番水野越前守殿より、家来の者被㆓召呼㆒、別紙御書付写の通り被㆓仰達㆒候旨、一昨三日申越し候に付、人数并武器等致㆓用意㆒、当御地へ追々繰出し申候。参著の上御指図被㆓成下㆒候様仕度くと、因幡守より申付け候。
御逹書之写 青山因幡守
大坂奉行組与力大塩格之助父隠居平八郎頭立ち、与力・同心共并に百姓致㆓徒党㆒、火矢等相用ひ、大坂町中所々へ火を掛け及㆓乱妨㆒候に付、早々人数差出し召捕り可㆑申㆓切捨に致㆒、且著込をも相用ひ候儀、勝手次第可㆑致。尤酒井雅楽頭・松平甲斐守・松平遠江守・岡部内膳正へも人数差出候様相達候間、可㆑被㆑得㆓其意㆒候。
月 日 岡部内膳正殿御使者 坂井照助
岡部内膳正申入れ候。此度其御地異変に付、御用番水野越前守殿依㆓御達書㆒召捕人数可㆓差出㆒の処、追々御静謐に付如何仕るの旨、御城代土井大炊頭殿迄相伺候処、不㆑及㆓差出㆒□、此以後異変之儀有㆑之候はゞ仕向候様被㆓仰聞㆒候。依㆑之人数手当仕置き差出可㆑申候。右之段□可㆓申述㆒以㆓使者㆒申入れ候。
月 日 青山因幡守殿御使者 吉原彦助
先達て御届け仕り候、此度御地異変に付、因幡守在所より固め人数並に武器等別紙の通り追々繰出し、当五月摂州十三村迄参著仕り候処、御地追々御静謐に相成候に付、人数繰出すに不㆑及の儀、途中迄も繰出し候はゞ、早速差留め可㆑申、此後異変承及び候はゞ、早々人数差出し可㆑申旨、御指図御座候に付、追々繰戻し、同七日夕右人数不残篠山表へ引取り申候。此段御届け申上げ候様、家老共より申付け差越し候已上。
月 日
弓十五張・鉄炮三十五挺・長柄十筋・大筒二挺、足軽十五人・同三十五人・同十人・番頭【 NDLJP:61】一人・物頭二人・目附二人・使役一人・番役二十人・医師一人・右筆一人・諸賄方五人・使徒士二人。総人数四百三十人。
大坂市中焼失の次第【大坂市中焼失の次第】
二月十九日朝五つ時より、同廿日九つ時迄、天満四軒屋敷大塩平八郎宅より焼初め、川崎御組屋敷不㆑残、夫より北御組屋敷南側迄、尤東西御与力屋敷の内、川崎にて田坂勇作、北町にて河辺官右衛門、右両人屋敷相残り、同心屋敷にて南町の内四軒残る。同北町の内南側にて二俣孫助一軒残る。同北側にて東の端より市川木工右衛門・同庄之助、右二軒焼失。天満南側川崎より市側筋十一丁目迄、北は長柄町より堀川迄十丁目筋にて、北へ津国町迄。船場は北浜より南へ安古町北側迄。西は中橋筋東側より東へ、東横堀上町にて東横堀より南にて谷町迄、北にて御弓の町迄。北は八軒家より南へ内本町北側迄。其間にて西御役所近辺松屋町西側より浜迄、本町北側より豊後町北の筋南側迄残る。
焼失町家竈数【焼失町家竈数】
一、御破損奉行森佐十郎殿組手代屋敷・一、同榊原太郎左衛門殿十軒・一、天満総会所一軒・一、牢屋敷一ヶ所・一、公儀橋二ヶ所〈天神橋高麗橋〉一、東本願寺天満掛所・一、興正寺掛所・一、山村与助居宅・一、尼崎又右衛門同・一、御破損奉行鈴木栄助殿御役宅・一、御代官池田岩之丞殿同・一、東御組与力屋敷二十九軒・一、同同心屋数四十六軒・一、西御組与力屋敷二十九軒・一、同同心屋敷□□・一、与力・同心武術稽古場三ヶ所・一、御鉄炮奉行御手洗伊右衛門殿組同心屋敷十軒・一、天満天神社不㆑残・一、寺町前御鉄炮組同心元屋敷・一、家数三千三百八十九軒・一、竈数一万二千五百七十八軒・一、明家数千三百六軒・一、土蔵数四百十一ヶ所・一、穴蔵数百三ヶ所・一、納家数二百三十ヶ所・一、寺数十一ケ寺・一、道場数廿二ヶ所・一、社三ヶ所・一、〈神主社家〉屋敷十軒・一、□□屋敷二屋敷・一、蔵屋敷五ヶ所・一、銀座一ヶ所・一、秤座一ケ所。〆
右焼失場東西七百六十五間、南北千十間余、凡道法十一里程。
附録
東都於㆓聖廟㆒賦㆑之趣 【 NDLJP:62】【大塩騒動に就いての戯書】小人隠居為㆓不善㆒ 其名大塩平八郎 天満大趣夜如㆑昼 乱妨狼藉在㆑誰防
分限長者家忽燬 橋々焼落更周章 東西南北人騒動 老若男女逆㆓戦場㆒
在番殿様各潰㆑胆 奥方聞及癪更強 上意之趣大名畏 出張用意人馬忙
君不㆑見天草与㆓正雪㆒ 天罪不㆑遁無㆑程亡 早斬㆓張本㆒獄門懸 欲㆑輝㆓関東御威光㆒
当所之街賦
博学騒㆓市中㆒ 人惑㆓孔孟説㆒ 深雖㆑捜㆓其旨㆒ 何無㆓高慢狂㆒ 落文痃癖甚 全羨㆓豪家驕㆒ 開㆑眼看㆓終所㆒ 油掛裏屋隅
好㆓趣向㆒
天神橋下仲春水 天神橋上繁多人 悲声高聴青天外 人間驚動天満裡
天満大筒魂自飛 建国御宮金作㆑泥 可㆑憐番場傷㆓心人㆒ 可㆑憐大煩断腹処
此日大塩邀㆓百姓㆒ 此時乱妨入㆓商家㆒ 高家金銀大半失 飛去飛来共注進
的々雄旗白日映 娥々甲冑綿繍装 河際徘徊総年寄 血辺顧歩両京兆
傾城傾国真大変 為㆑烟為㆑灰其騒動 古今未㆑聞㆓人所_㆑恐 況復今日正相見
願成㆓僧徒㆒赴㆓西国㆒ 願施㆓一鉢㆒再挙㆑兵 与㆑尼相向転相親 与㆑妾双㆑楼共一身
願落㆓此所㆒千歳楽 誰思隠宅一朝烟 万民相悦晩春空 千秋万古油掛塵
奸邪異案
心下有㆓高慢㆒而臍下無㆑力〈或曰恐是仁虚〉全体奸㆓相血脈㆒将㆑絶㆓子息㆒亦不礼也。是因陽症之不㆓全解㆒棒火矢通㆑焼散㆓主此㆒
棒火通焼散之方
大棗・黄今・粳米・亡焼・武士・町家〈各等分、〉困窮・炮術〈七分、〉槍術・我術・天摩・魔王・巴豆・狂人、右件四橋辺にて川水にひたし、其形体腫脹するを窺ひて揚げて用ふと云ふ説有㆑之。実験せしむるに験無し。近来宇智山先生之霜とし用ふ。忽ちに治す。〈宇智山先生之秘炮〉霜薬製法。右件先油掛にし、宇壺に入れ火鉢に上し、硫黄・焰硝類の武火にて焼き、真黒に成るを度とし、火鉢を下し塩に漬し貯置き、時臨て用ふ。
附曰く、四橋辺り川水に漬るの語は、河海・山谷・田園無㆓残隈㆒穿鑿有㆑之処、四橋下川中に浮く骸体腫脹して何者と云ふ事、唯見分。依㆑之元妾何某へ是を令㆑為【 NDLJP:63】㆑見。元来平八郎事左の無㆑歯今此骸体右の歯無し故に無㆓実験㆒と云ふ。宇智山は内山を云ひ、油掛・宇壺は地名。
七言絶句
才兼㆓文武㆒誰容㆑觜 呼作㆓方今天下士㆒ 飛炬一朝何所㆑為 長嗟千載汚㆓青史㆒
難波がたよしかあしかは知らねどもからきめみせし大塩のなみ
浮世の有様巻之七 終
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