浅井三代記/第十四
信長卿は京都より帰国の道すから所々にて難に逢といへとも御運天命に助けらるゝか恙もわたらせ給はす岐阜に帰坐まし〳〵て諸勢をしはらくやすめ給ふある時木下藤吉郎秀吉を召て宣ひけるは浅井籠城をかまへ当国と江北のさかひに要害多くかまへ置当国より切入事たやすくかなひかたし我つら〳〵思案するに長亭軒に楯籠る堀次郎は未た幼少たる故樋口三郎兵衛万事はからひたるへくと思ふなり此樋口は浅井内にては又者なりといへとも大剛の者なり此者を何とそ才覚をいたし味方へ引入たきとおもふなり竹中半兵衛尉と相談をとくへし此竹中は国を隔たりといへともいにしへは浅井に属せし者なり其上堀か住城門根と菩提は其間近けれは定て樋口とも其間むつましかるへしよく〳〵思慮をめくらすへしと内意種々被㆑仰けれは秀吉承り候とて同国菩提へ来り竹中に逢ひ此由かくと語れは内々申通ては候へとも樋口と申者義理の深き者にて御座候間御味方に参り可㆑申とは不㆑存候されとも信長卿の御意に候へは随分かたらひ見可㆑申とて秀吉を岐阜の城へそかへしけるかくて竹中以㆓書札㆒樋口に申入けるは貴殿に少々相談をとけたきこと候条御透に候はゝ罷越へき旨申送りけれは樋口返事には日比はしたしく申通候へとも此節は互に参会はなり申ましき由を返事す其後竹中より二三度も使節を差越けれとも樋口終に対面せす竹中心に思ふ様はされはとよ義深き者なるそ此度は直に我等参是非とも対面して此段委しく可㆓申入㆒と思ひ竹中菩提を立長亭軒に至り三郎兵衛か方へ行半兵衛是へ参候と申入けれは三郎兵衛も立出棚を隔て対面す半兵衛申けるは久敷対面不㆑申候只今は剰したしき中も敵味方と引別るゝ明日の命もとらされは名残を今一度可㆓申入㆒と存来り候なりと有けれは三郎兵衛半兵衛を一間所へ引入互に世間を語りけるかやゝあつて半兵衛語り出しけるは信長卿御辺を味方に頼度と種々様々の仰なり能々思案ありて堀殿の御家長久に守立給ひ可㆑然候はんとそ申ける樋口初の間は中々承引せさりしか竹中理をつくして申せしゆへ樋口同心し左様に候はゝ多良右近なとゝ相談し重て御請可㆓申上㆒とて竹中をこそかへしけるさてそれより樋口多良に近付右のあらましを語りけれは多良もいかゝと思案をす樋口重て申けるは信長に付奉るとも行末頼もしくは候ましけれとも次郎殿若年なれは是にて唯今うたれんより逆心をいたし五三年も命をのへ次郎殿を守立成人いたさせ其後はともかくも天連にまかせ候はんや此二ツに一ツを各分別可㆑有とそ申けるいつれも家老の者共承て如㆑仰信長とても末頼もしくはあるへからすされとも当城へ数万の勢を引請討死をとけんより信長へ同心して今日の命をのへ給ひて若殿の御成人を可待なりと同音に一統して心替に決定し則樋口は男子もたされは女子一人多良は男子を差上るとて竹中か方へ申遣しけれは竹中出合やかて両家老か人質等を請取木下藤吉郎秀吉の方へ右の通注進す秀吉は竹中を引連信長の御前に罷出一々次第を申上られけれは汝等か智畧不㆑浅とて喜悦限りはなかりけり竹中に時の褒美として御よろひ一領太刀一振黄金等を給はる江北謀叛の人樋口多良両人竹中か許へ来り信長に御【 NDLJP:117】申上〈[#底本では直前に返り点「一」あり]〉と有けれは則同心して秀吉に引渡す信長へ斯と申給へはやかて対面有て種々御馳走礼可㆓被㆑成江北㆒〈[#底本では直前に返り点「一」なし]〉の城取嶮難の地一々御尋被㆑成御感不斜して則堀には本領安堵の御教書被㆑下両人の者には先時の褒美として黄金五十両つゝ太刀を相添られてそ被㆑下ける堀か城へ信長卿よりも木下藤吉郎に弓鉄炮の者五十人つゝ相副へられ樋口にそへて籠置るかくて長亭軒近所長久苅安両城に楯籠る越前よりの加勢朝倉式部大輔堀逆心して信長勢引入るとおもひ浅井には一言の案内にもおよはすして三千余騎引具し元亀元年六月八日の夜中越前国さして落にけり浅井樋口か次第を聞又は越前の加勢の者共の落けるを聞立腹限りなし既に人数を出し堀か居城を可㆑攻と評議したまへとも信長より堀か加勢に秀吉を籠置れけれはたやすくは落へからす城の落さる内に信長後巻せは取入らるゝ事いかゝと思案して延引す
信長卿江北進発の事 去程に信長卿は物頭共召集め宣ひけるは内々江北浅井父子の者ともを攻へきと思案すれとも国さかひの要害とも切所を引請楯籠りけれはたやすく江北へふみ入候事かなひかたくして居たりける処に木下藤吉郎竹中半兵衛調畧として堀次郎か家臣両人味方に引入けれは付城の面々要害を夜中に開退のよし堀か居城本郷より注進す然れは江北進発にたよりよし諸勢に支度を触まはすへしとて六月十二日よふれまはし同十八日に数万騎を引率し江北小田村に本陣をすへ給ふ翌日十九日御小姓衆只五六人はかりめしつれられ近所横山の城の様体攻口等一々巡見被㆑遊此城は先押置浅井に一しほ付可㆑申とて横山の城のおさへには今度味方に参候堀か人数と水野下野守織田上野介丹羽五郎左衛門尉を残し置諸勢小谷表へおし出し給ふへきとて一番に坂井右近森三左衛門尉両先手二番に柴田修理亮佐々内蔵助前田又左衛門尉斎藤新五三番よ市橋九郎左衛門尉佐藤六左衛門尉塚本小大膳不破河内守丸毛兵庫頭四番佐久間右衛門尉蜂屋簗田出羽守中条将監五番に御旗本と定められ人数段々に組み佐野今庄上野にしはらく陣取小谷の様子を御覧被㆑成けれと人数も出さゝると見て平押におし来り在々所々一宇も不㆑残放火し給ひける長政此よしを見て物頭面々を近付申されけるは信長定て当城へ押寄町表を打破り様子により取巻攻めらるゝ事も有へしさあらんにおひては城中ひそかに持堅め町屋をも破らせ手の透を窺ひ城中より真黒につきかゝりなは田川近辺は難所なり即時に引取かたかるへし明日は無二の一戦をとくへきなり面々も其支度可㆑仕と申されけれは家の子共それはよからぬ御手立かな寄手人数を一段〳〵に組み備へしよりによする猛勢を味方わつかの小勢にて城中より切て出るとも何そ勝利を得へきや先此度は城中堅固に持かため義景出陣を待うけもみ合て戦ひなは勝利是に過しとて家老の者共同心せされは長政も其分にそ差置れけるかくて信長卿は兼て手筈を仰付おかれけれは先小谷山の西雲雀山へは佐藤六左衛門尉坂井右近斎藤新五市橋九郎左衛門尉塚本小大膳不破河内守丸毛兵庫頭其勢八千余騎にて取上り人数を立置小谷山の西尊照寺表へは柴田修理亮内藤庄助佐々内蔵助前田又左衛門尉林新三郎なと押寄る小谷の東木野尾表へは森三左衛門菅屋九右衛門尉福富平左衛門尉簗田出羽守木下藤吉郎押寄らる信長卿本陣は虎御前山にすへさ【 NDLJP:118】せ右の手分の軍兵共小谷の麓へ乱入町表を打破り懸とをり放火せしかとも城中には少もかまはすしつまりかへつて居たりける西は馬上東は雨立迄焼立ける諸勢其夜は矢島野に野陣を張て居たりけるかくて備前守長政申されけるは明日二十二日の未明より寄手人数を横山表へひき取へしその勢半分程矢島表を過る時分に当城より浅見大学を大将にして若者二三百人ほと出し弓鉄炮を打込へし味方小勢なれは寄手かまはす引取へし其時一千余騎を相添浅井玄蕃を大将にて出し跡をしたふへし定てしつはらひは森柴田にて有へし此者共軍に功ある者共なれはよき図にとつて返すへし其時味方の勢敗北すへし又我等二三千の勢を引具ししつはらひにひしとつき戦ふ物ならは寄手は退立たる勢なれは踏とゝまる事なるへからす惣していにしへより大軍退立ふみとむる事あらされは当城より横山表迄は五十町の所なれは横由辺迄追立へし其時所々の付城の者共も出合なは定て信長も可㆓討取㆒なり若寄手つよくして味方敗軍せは我等運命是迄なりとおもひ討死をとくへきそ各も供してたへと申されけり家老の面々承御手立は尤よろしく可有御座候へとも越前朝倉殿近日此表へ出給へは只今味方小勢にてあやうき事を思召立給はんより暫またせ給へと再三にとむる長政重て申させ絡ふは義景早速に出らるゝ物ならは面々か申所も候へとも義景の此程の当国への返事を聞にはか〳〵しき事は有まし信長は手早き人なれは横山城を攻落し当城へ押よせ幾重ともなく取まかれなは味方の勇気次第〳〵によはるへし其時いかに悔とも益あらし明日の軍は図にあたり候へは十分勝有へしとて一筋に思ひ切止へき気色もなかりけれは木村日向守川毛三河守中島宗左衛門なと下野守久政の舘に行右の次第一々申上る久政聞もあへす長政の舘へ来り長政をはしめ家老物頭共に対面して申されけるは明日味方より勢を出し可㆑戦との評議ありと聞信長数万の猛勢味方小勢にて切て出る物ならは信長味方を追込付入に此城をとらん事案の内なり今少相待義景を同心せは勢の三万も有へし其勢に此方の勢を打合一戦可㆑然とそ申されける長政承御意御尤にては候へとも義景早速に出られ申ましきなり是非明日は一戦の勝負とけ運命を天に任すへしと有けれは久政重て申されけるは汝かいふ所もあるへけれとも先此度は我等にまかせ置るへし義景も家の年寄ともゝ我身の大事の事をしらぬ事はよもあらし一両日の其内に定て出張有へきそしはらく相待へきとそとゝめ給ふかゝる処に遠藤喜右衛門尉外をはゝからす罷出申けるはとても義景の出張はあるましき物ゆへに軍の図を抜すものならは弓矢神にもはなたれ申へしとかく長政公の仰こそよろしく御座候へ信長引のかは引つゝき追討にするならは何の子細か候へき悉討取へしと詞を放て申ける久政此旨を聞大きに怒て遠藤を追立らるそれよりして長政も父の命にそむきかたく軍評議はやみにけりされとも浅井か遠待の若党とも寄合評定して申けるは今日は寄手に思ふまゝに城本まて焼立させ剰久政と家老の共者の大腰ぬけに長政背きかたくして明日の軍を止給ふ事口惜くおほしめさるへし我々も無念に存するなり先年箕作の城を攻むる時味方の内意ありて働きにふかりきそれを度々雑言する故二条御普請の時も言分として濃州勢を追立けれとも其後もやゝともすれは雑言す明日は大将ゆるし給はすとも我々友達とも【 NDLJP:119】といひ合せ形計なりとも軍して信長勢にねふりをさまさすへし若軍法を破るなとゝ後日の難に被㆓仰付㆒なはそれ迄の事と思ひ一したひしたふへしと其ひき〳〵といひ合せける程に究竟の若者二百計同心す此事味方の内にも堅く秘すへしとて密談してそかたまりけるかくて信長卿は小谷山より八九町西南虎御前山に陣取て居給ひしか物頭の面々を近付給ひて小谷を攻らるへきかと異見をこひ給ふに佐久間右衛門尉信盛すゝみ出て申けるは攻落し可㆑申はたやすかるへけれとも味方の御人数多く損し候はん又越前義景も走参るへし此近所みな敵の囲中なれは敵四方にまはりて味方のうしろ切可仕も計り難し御人数横山へ引とらせらるへしと申上けれは信長卿けに尤と思ひたまひ翌二十二日に諸軍勢横山表へ引入るへしとてしつはらひには佐々内蔵助簗田出羽守中条将監に鉄炮の者五百弓の者五十騎相副られ則信長卿も引取むつかしくや思召けん矢島の南の野に御小姓衆二百騎計にてひかへ給ふ森柴田両人はしつはらひの者共を見合てのくへしとて大寄野の西の方に立置諸勢引入ける処に浅井方の若者阿閉彦六郎千田新次郎西野弥次郎上坂五助同主馬助磯野新右衛門同与右衛門山田所之助雨森次左衛門千田新三郎細江久兵衛八田助七田那部久六なと初として二百人計皆歩立にて簗田か勢にひしと付能く案内は知つ弓鉄炮を射かけ打かけけれはのきかねてこそ見えにける佐々中条かけつかへしつ戦ひしはしか間はさゝへけり其時阿閉彦六郎千田新八郎細江久兵衛八田助七田那部久六山田所之助なと比類なき働し敵数多討取其身も討死とけたりけり此しつはらひの次第信長記にあり相違はかりしるし進上申候
信長卿横山の城を攻給ふ事附家康卿へ加勢をこはるゝ事 信長卿は小谷表を同二十二日に引とりたまひ横山の城を攻へしとて諸軍勢攻手を仰付られまつ観音坂の口へは柴田修理亮梁田出羽守市橋九郎左衛門尉織田上野介同九郎殿に仰付られ同山北犬飼坂へは森三庄衛門尉不破河内守菅屋九右衛門尉西表は木下藤吉郎秀吉氏家常陸介伊賀伊賀守稲葉伊予守等なり本陣は四方見分成さるへくとて龍鼻の出先の山に居へたまふかくて濃州勢三万五千余騎鬨をとつとつくり稲麻竹葦のことくひし〳〵と取巻おめきさけんて攻登る城中兼て覚悟のとなれはおのれ〳〵か持口に立出て命もおします防きけり城中の大将大野木土佐守秀俊三田村左衛門大夫国定野村肥後守貞元同兵庫頭直次勇気をはけまし走り廻りて下知すれは敵大軍にて攻と雖ともたやすく落へき共おほえすされとも昼夜のさかひなく寄手四方より攻けれは始終は叶ひかたしとて小谷へ申越急き後巻せらるへしとこふ備前守長政もかねて越前義景の許へ出張せらるへき旨注進再三に及ひけれとも只今に至るまて出張なけれは家老の者ともを近付宣ひけるは越前義景を相待にいまた来らす又敵陣取をかためつれは手勢ばかりにては所詮後巻かなひかたしいかゝあらんと申されけれは家老の者共案し煩ひて居たりけるか横山の城の者共よりは急き後巻なされ候はゝ今両日は当城も抱て見申へく候へともさなくは追付落城に及ふへしと申越けれは横山の味方に先力を付へしとて長政は手勢八千余騎にて同二十五日に小谷を出て大寄山へ打上るかゝ【 NDLJP:120】りける処に越前よりは朝倉義景は出陣これなく同勢孫三郎に其勢一万余騎同二十六日に着陣す長政孫三郎に対面して尤義景殿におとるへきにはあらされも貴殿はかりを差越され候事手ぬるき軍の次第なりとて祝着のけしきはなかりけり又信長卿も此度の軍は大事とや思ひ給ひけん三州徳川殿へ御加勢給はり候へと申越れけれは家康卿手勢五千余騎を引率し三州岡崎の城を二十五日に御出陣なされ二十六日暮申の下刻はかりに江北坂田郡に御着陣なされ本多平八郎内藤三左衛門彼等二人召連れられ浅井か陣取大寄山朝倉孫三郎か陣足掛り嶮難の地等よく〳〵御見立夫より信長の本陣へ相越さる信長卿大ひに悦ひ給ひて御辺と我等と両旗を以て浅井朝倉は即時に迫討すへしとて御悦ひは限りなし然るに横山の城の寄手の者ともは浅井朝倉か軍勢近つかさる内に城をもみ落すへしとておめきさけんて攻けれは城中こらへかたくや思ひけん同二十七日には長政殿味方近々と勢をよせられすんは城を開き渡し可申なとゝ申越けれは浅井此由を聞尤と思ひ明日は是非無二の一戦すへしとて軍評議をしたまひ申けるは大寄山より信長卿の本陣龍ケ鼻へは五十町の場所なれはすくにかゝつて軍せは人馬ともに疲れぬへし明朝野村三田村へ陣をうつし二十九日の払暁に彼の本陣へ切かり透間もあらせす一当あつる程ならはよも敗軍せぬ事は候ましと申されけれはいつれも尤と同しける中に浅井半助といひし者は先年美濃国不破郡の仕置申付鳥江城に住しけるか近年は又小谷へ引越て居たりけるか進出て申けるは我等近年美濃国に罷在信長卿の軍立を見候に手はやき人にて御座候へは明日野村三田村まてやすくは陣取せ候まし猿猴の梢をつたふことくなる武将なれは勝利を得させ給はん事十に一二とこそ存候へ今しはらく軍の様子を御うかゝひ御覧せよかしと申けれは遠藤喜右衛門尉進み出ていや〳〵長政公のはからせ給ふ処をこそ宜しく存候へ只一戦して勝負を決せんにはしかし其上我敵陣にまきれいり信長と引組討はたす程ならは味方の勝利何の疑ひ候へきと申にこそ軍評議はきはまりけり同しく二十七日の夜も漸更過けれは上下支度す越前勢は大路村三田村へ陣をうつさるへし浅井勢は主計村野村へ陣を移すへしとてひしめきけりかくて信長卿案のことく半助か申せしに少もたかはす信長卿は近習衆に宣ひけるは終日敵陣に火を焼は朝合戦にかゝり来ることあるへし家康卿佐久間柴田木下丹羽森等はそれになきかとのたまへは管屋九右衛門尉承て何れも是に候と申上る右の人々を近付評議し宣ひけるは敵は明日朝合戦に来へきにきはめたるそ是好む所の幸なりいかに〳〵と仰けれは徳川家康卿進み出させ給ひ仰られけるは夜も更申候間とく〳〵軍の御手立有て合戦の備其次第等いそき御定め可然候はんやと有けれはさあらは戦の次第をしるし定むへしとて右筆武井肥後守に被㆓仰付㆒一々其次第をしるしけるに家康卿仰られけるは今度敵死生をきはめて懸り来るへし朝倉勢か浅井勢か一方某に請取申度と被㆑仰けれは信長卿仰には越前勢に向へ給ひ誰をかさし加へ可㆑申哉と給ふ家康卿さあらは稲葉伊予守を召加へてたひ候へとこのみ給へは信長卿聞たまひかやうの望にあひぬる事名誉の事そかし伊予守加つて軍功いたし候へとのたまひけれは伊予守申上けるは仰にては御坐候へとも我勢はわつか一千騎はかりなり何として【 NDLJP:121】家康卿の御跡をくろめ可㆑申やと辞し申けれは家康卿の仰には我存する子細あり同心し候て給はれと有けれは一旦は如此にて御座候此上はいかなる天魔破旬かおそひ来るともと存る間御安くおほしめされ候へとあさ笑てそ立たりける 浅井三代記巻十四終この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。