目次
 
オープンアクセス NDLJP:55
 
浅井三代記 第六
 
 
京極隠謀の沙汰の事
 

去程に永正十五年正月九日の事なるに去年十一月初より雪積り今月初まては里より里の通ひたに自由ならされは江北の侍共爰かしこと縁に従かひて先妻子をのけ味方の様体を見ゐたるに浅見俊孝入道は浅井の郡を立のき高島郡新庄は己か知行なれは其村へ立退罷在子息浅見対馬守は山本山に楯籠けるか俊孝か指図として上平殿へ立越年始の嘉儀申上る高峯入道へ潜に申上けるは去年十月の軍散して後江北六郡の諸士或は知行所へ引隠居るも有或は江南佐々木殿を頼はしり込も有おもひに罷成候併己か城を枕として討死を極め罷有者多く御座候先一番に犬上郡佐和山の城に磯野伊予守員吉は近辺の者とも相したかへ七百余騎にて楯籠り候今井肥前守新庄駿河守己か一門四百余騎にて坂田郡箕浦の城に楯籠る堀能登守頼貞は樋口をかたらひ門根村の城に五百余騎にて籠り候高宮三河守頼勝久徳左近大夫は高宮の城に三百五十騎にて楯籠り候伊香郡には磯野右衛門大夫員詮子息源三郎為員二男源十郎宮沢平三郎員資千田伯耆守有義子息帯刀有信二男弥九郎布施二郎左衛門尉義里子息小次郎横山掃部頭家隆〈後改大和守〉同肥後守信家森勘解由都合其勢七百余騎にて同郡磯野山の城に楯籠り候近所山本山の城には某兄弟熊谷弥次郎直光同新二郎信直安養寺河内守勝光子息三郎左衛門尉六百余騎にて楯籠り罷在候此者は浅井か幕下に罷成候事中々不存寄体にて御座候其上先年環山寺殿御代に江北を上坂治部大輔泰貞に御預なされ候てより六郡の屋オープンアクセス NDLJP:56形有に甲斐なく渡らせ給ふたに口惜く存候に又候や浅井に降り京極の家をやふり申事かなふましきの心さしと相見え申候と申上れは上平殿聞給ひ浅井と中和し給ふ事御口惜くや思召けん御心忽に変して浅見を御頼有て仰けるは汝等義を守る段神妙なり我浅井と中和をなすといふも皆是智略なり右の楯籠る所の城主ともに京極か心底を曲よのへ定頼卿を頼み出し浅井退治偏に頼と仰られけれは浅見不斜悦ひさあらは御書一通可下其通相触可申と申上けれは京極殿宣ふ様は浅井を討へきの計略なれは触状なんとゝいふならは敵方へ聞ゆへし先其色をたつるまてもれさるやうにはかるへしと仰けるかゝりける所に加州宗愚大津弾正二人進み出て申けるは浅井を人数入らすに討事ありいまた年始に来らす定て一両日のうちよ来るへし其時殿中よて討取可申供侍の内赤尾孫三郎海北善右衛門尉雨森弥兵衛此三人の者共は若者第一の手きゝなり此者共は大寄の間に人数を隠し置討へきと申けれは何も此儀可然と同して此一坐より外へはもらさしとそ示し置ける

 
京極隠謀露顕の事
 
かくて小谷の城には亮政家中出仕取行給ひて上平殿へ年始の嘉儀可申上之処よ何とか思案や有けん正月十三日まて延引す其日既よ小谷を打立んとせし処へ大橋安芸守秀元か方へ上平殿にて備前守亮政を可討と大津弾正加州宗愚両人相計る旨告来る者はへれは秀元大きに驚き備前守殿へ此旨委申上けれは亮政聞給ひ宣ひけるは尤さも有へき事なり然れとも去年中和を取むすひ候処に今其色も立給はさるに此方よりひかへ申所にてもなしたとひ某を討給はんとしたまふとも心易くは討れ候まし是非打立んと宣ひける秀元重ねて申けるは君君たらされは臣も又臣たらすと申事の候へは其理にては御座有間敷候御名代をつかはされ可然と再三しゐて申けれは尤なりとて三男浅井大和守政信に供の士五十人相添亮政病気に依て大和守差越るゝ由太刀馬代を以申されける大和守上平へ参し此旨申上けれは加州大津計略相違して大に怒り申けるは亮政去年中和の上向後京極の家を守り可申との旨にて屋形にも隔なく頼みおほしめす処に今更病気と称して名代を以申さるゝ事如何なり遅速の儀はくるしからす重て病気本復の時出仕有へしとて大和守をかへされけり大和守両人の者に少も背かすさあらぬ体にもてなし其まゝ上平を罷立小谷よ帰り上平にての様子曲に語りけれは亮政をはしめなみ居たる面々秀元か申通り少もたかはす此上は雪も消馬足自由なる時節に上平へ押寄せ討奉るへし近辺の諸士ともをことく踏つふさはやとて其術をそ催されけるかくて上平殿には加州大津か謀露顕して浅井追付上平へ押寄可申沙汰を聞給ひて六人の家老打寄相談したりけるに折節上平に勢のあらされは兎やせん角やせんと案しわつらひ給ひけるかゝりける処に佐和山の城主磯野伊予守員吉高宮三河守頼勝久徳左近大夫三人同正月十五日に上平へ参着して御祝儀を申上る六人の家老共右の旨窃に語りけれは三河守申けるは中和御破被成候事幸なり佐々木定頼卿去年御加勢有し時江南勢越前勢に被破候事遺恨に思ひ給ひ是非に二三月の時分数万の軍兵を引率し小谷を攻給ふへきの内談これあり其節此者共に案内せよとの仰にて候間当春中には浅井を心易く討取可申候屋オープンアクセス NDLJP:57形中和の事江南佐々木殿後指をさし給ふ様に申候間今度浅井を討取御外聞御清め可遊とか申ける京極殿をはしめ六人の家老とも悦ひ申事限なしやかて御陣の内談有て各御暇給はり佐和山さしてそ帰りける
 
伊香郡磯野山山本山両城合戦の事
 
かくて浅井備前守は上平殿御謀叛に付所々の城主楯籠り小谷へしたかはされは家老の面々をめされ評議して宣ひけるは所々山々漸雪も消候の条軍兵を催し上平へ押寄可攻と思慮をめくらし候へとも近所磯野山山本山を眼前に置上平へ押寄候も覚束なし先山本山磯野山両城を攻取上平殿をしつめんと思ふは如何と被仰けれは各沙汰し申けるは磯野山に籠籠る源三郎弓勢に兵進みかね申候条磯野を押へ置上平へ責よせ可然候はんやと申けれはいやとよ其の儀に非す上平まては間七里許も候へは味万の人馬つかれ勝利すくなし磯野山は当城より其間二里の内なれは掛引自由なるへし其上磯野を責るといふとも上平より勢を出され当城へ取掛被申候事なるへからす上平へ押寄なは山本磯野は二里間なれは留守を窺ひ敵可来兎角磯野を可攻と宣ひけれは然らは先一もみもんて見給へと評定極りて永正十五年二月十七日六百余騎を二手に分山本へは赤尾駿河守教政を大将にて野村伯耆守同肥後守大橋安芸守海北善右衛門尉阿閉三河守西野丹波守雨森弥兵衛此人々相添都合其勢一千余騎さし向らる我身は舎弟大和守同宮内少輔東野左馬助井口弾正赤尾筑前守同孫三郎今村掃部頭伊部清兵衛八木与藤次片桐右馬允千六百余騎にて磯野山へ向はる磯野山には此よしを見るよりも浅井勢当城へよすると見ゆるそ川を前に当て戦ふへしとて源三郎を大将として究竟の射手を三十人一文字に川より半町許手前にひかへ其の後には右衛門大夫千田伯耆守三百余騎にてひかへたり大森山の切通し口には布施横山森百五十騎にてひかへたりかくて備前守は磯野の郷のこなたあやと申所に本陣をすへ給ひ先陣を伊部に被仰付磯野郷の際まて打入見けれとも敵川のあなたにひかへさゝへけれは伊部清兵衛磯野村へ討入放火すへきと思ひ郷中へかけいらんとせしを源三郎是を見て川よりこなたにひかへ勝利十分有といふとも郷中を放火させては其甲斐有ましきとたもひ三十余騎の射手を引具し川をさつと渡し清兵衛か先手の勢へかけ向ひ指詰引詰射たりけり源三郎元来精強の大矢にて向敵五六人目前に射落しけれは寄手しはらく進みかねたりかゝる処に赤尾孫三郎旗本より三十騎許にて面も振らす馳向ふ右衛門大夫是を見て源三郎を討せしと川を渡り郷中へ掛入けれは浅井勢旗本さしてさつと引右衛門大夫も源三郎を引連れ川よりむかひに引取けりかくて浅井は此由を見たまひて郷中へ押込放火せんと又人数を出し給へとも右衛門大夫は源三郎を堅くいさめて静り帰りて備へたれは思ふまゝに放火すれとも敵一人も掛向はす清兵衛五百騎許真黒になり川の端まて押よする源三郎既に射立んとすれとも右衛門大夫是を許さゝれは弓を横にふせ置打しつめてそ居たりける寄手是に気を得て川を渡り向の岸に二百四五十騎打あくるとひとしく両方に立分れ指詰引詰射たりけれは川中にて色めくを右衛門大夫是を見て三百余騎真黒になりつきかゝりける清兵衛こゝをせんとゝ戦へとも磯野か勢命を惜まずオープンアクセス NDLJP:58防きけれは二百四五十騎の兵川中へ追込み川中にて討ちつ討れつ戦へは清兵衛防きかねて居たりしを浅井は清兵衛を引取へきと思ひ旗本を崩し一千許にて鬨を噇とあけ喚叫て突かゝる大森山へ向し兵共横鑓になり馳来るそれよりして敵味方入違一時許りはしのきを削り戦ひしか浅井勢つゐに戦ひ負け引取らんとせしを千田帯刀宮沢平三郎なんと勝に乗突かゝりける処に赤尾孫三郎と名乗かけ敵の中へ面も振らす駆入東野左馬助井口弾正相つゝいて踏留め戦へは磯野か勢は此の戦ひに追立られ川をあなたへ引取けり浅井時分はよきとおもひ采配を取て人数をあや戸まて引取給へとも敵したひ追はされは山本表へ引取たまふ其時磯野表にて味方の兵三十二騎討るれは敵も十九騎討取ぬかくて山本山へむかひし赤尾駿河守は山本村より十町許り此方阿閉の南に陣取給ふに山本山より人数を下し川より此方へ渡り越備を立て居たりけるに大橋安芸守海北善右衛門尉雨森弥兵衛野村肥後守六百騎許にて押寄けれとも敵鑓ふすまを作り一人も立出されは敵味方の間二十間許もつめ寄けれとも敵事ともせす静りかへりて伏居たり大橋此のよし見るよりも馬上にて駆散らすへしとおもひ真黒になり駆込んとせし処を浅見熊谷共に下知して曰く弓矢は今なるそ矢種を惜ます射かくへしと散々に射立けれは大橋か兵足をしとろに乱しける処を安養寺河内守浅見対馬守四百余騎面も振らす切て掛れは大橋もこゝを先途と戦へと此の者共に迫立られ半町許引退く海北善右衛門尉雨森弥兵衛爰に在りと名乗かけ敵の中へ駆入四方へ追ひ掛ひ銘々首を引さけて味方の陣へ引取りぬ味方是に勢ひ得て備を崩して駆向ふ山本勢取てかへし火花を散らして戦ひ向ふ敵十七八騎討取猶も進て責入ける味方此の勢ひに追立てられ一町許引揚けゝれとも敵したひ追はされは難なく川をうち渡り城の中へそ引取けるかゝりける処に浅井備前守は磯野表を引取山本さして向ひ給へとも敵一働して城中へ引取けれは押寄可政にも便なしとて城取川筋見分したまひて重て押寄攻むへしとて勢を小谷へ打入給ふ
 
浅井箕浦の城を攻る事
 
浅井備前守亮政は山本山磯野山より人数を引揚け旗頭共に向ひ宣ひけるは今度攻る所の両城味方押寄かたき城取なり殊に右衛門大夫も浅見対馬守も人数の差引軍に心有体なり卒爾に攻落しかたし伊香郡の両城は先すて置坂田郡箕浦の城に楯籠る今井新庄を可攻と被仰小谷に五六日逗留ありて同月二十四日赤尾駿河守大野木土佐守三田村左右衛門大夫其勢八百余騎小谷の城に被残置其身は千八百余騎にて小谷を立て中道を押出て給ふ観音坂表にて野村伯耆守同肥後守阿閉三河守父子洲川山小屋山へ打上給ふ是は上平より加勢来るにおひては相さゝへんとの術なり残る千三百余騎は箕浦へ押寄取巻んとせし処を城中より新庄駿河守三百騎許にて顔戸山に人数を二段に備へて支へける其日亮政の先手舎弟大和守大橋安芸守は新庄か勢の中へ駆込しはらく戦ひけるか大橋安芸守五十騎許の手勢にて山の手にそふて追なひかす亮政これを見給ひて先手の者共はや敵にあひたり赤尾海北も打続て敵を城中へ追込給へと下知し給へは畏て候とて其勢都合六七十騎にて顔戸山の西より押廻す大和守安芸守味方西より廻ると見るより喚叫て突懸れは新庄も命を不惜戦ひしか西よりオープンアクセス NDLJP:59赤尾海北まはるを見て城中さして引取処を大和守安芸守に赤尾海北一手になり城際まて追ひせまる新庄門の中へ駆入らんとせしを味方幸ひと思ひ火花を散らして戦へは引入かたくて居ける処に大橋真先に駆け向ひ五十騎許の人数をさつと手前へ引取其透に新庄城の中へ入らんとすれは又味方の兵共城中へ付入に押込んとす其時に城中より今井勢二百騎許門を開て切て出るに味方の兵一さゝへも支へす敗北す今肥井前守新庄駿河守両人城の中へ人数をさつと引取門をてうと堅めける門外へたて出したる今井か兵共五六十人途を失ひて見えし処を味方追詰々々討んとす亮政兵其を制して一人も不討とて手勢を引揚け今井か兵共落しやるかくて城中を二重三重に取巻喚叫て攻め給ふ城中にても今井新庄命を不惜ふせきける処に亮政大橋に下知したまふは箕浦の民屋をこほち堀をうめ乗込めと有しかは夫よりして箕浦新庄の中へ乱れ入り民屋をこほち忽ち堀を平地に埋めたりけり城中には是を見て新庄駿河守今井に向て申けるは味方より敵すへき勢もなし先今度は亮政に降参し重て味方の安否を御覧候へと申けれは今井肥前守も味方の兵共多く討せたりといふとも運ひらきかたき所なれは新庄か申分に同心して則今井十兵衛を城中より出し申入けるは今度一命を御助け置被下侯はゝ自今以後無二の忠節仕るへきと佗言申入けれは亮政此旨聞届け給ひてさあらは人質を出すへし其上今井肥前守一家と新庄駿河守と一手つゝ小谷へ相詰可申左候はゝ扶助可申と有けれは畏候とて肥前守は八歳なる男子新庄は五歳なる女子を城中より出し両人ともに降人となり御礼申上けれは亮政不斜悦ひ人数を小谷へ引取給ふ其日に当て山本山磯野山には亮政坂田郡へ働き出給ふを聞小谷無勢にてあるへし小谷の城へ押寄せ上平殿へも人数を請ひ途中にて亮政を可討取と両城共示し合せ所々の浪人等かり催し明二十五日可打立と支度する処亮へ政箕浦の城を攻め取り今井新庄を味方に打したかへ翌二十五日早朝に小谷へ帰城したまへと思案大きに相違して其沙汰既にやみにけり
 
江南六角江北京極小谷表へ出張の事
 
山本山磯野出両城の者共は去月十七日の合戦に勝利を得浅井夫より此方へ兵をも出さす小谷に引籠り居給ふはこれよき幸ひなり上平殿と江南六角殿へ注進致し勢を可引出と思ひ江南へは宮沢平三郎上平へは浅見新八郎差遣し申上けるは先月十七日に浅井亮政数千騎の軍勢を率し山本磯野両城一度に攻寄せ候処に味方大ひに勝利を得浅井勢を忽ち追ひ払ひ両城へ首数五十討取申侯夫より浅井勢箕浦へ働き出候といへとも今井新庄両人浅井となれ合磯野表にての面目をきよめんか為めに箕浦へ引寄せ浅井に武威を付け候実は其儀にあらす候夫より唯今小谷に引籠り罷在候此節御人数を小谷へ被出候はゝ早速浅井をは御討取可成候と手に取やうに申けれは定頼卿を初めまゐらせ家老の面々も磯野浅見か分として浅井勢をかよふに追立剰首数多く討取事神妙の至なり内々より江北へ発向し浅井一家の凶徒を討静めんと願ふ処なれはよき首途の吉事なり追付討立へしとの返事にて約諾かたくしたまひ宮沢平三郎を江北へ帰し給ふ宮沢夫より直に上平へ伺候して六角定頼卿の御返事委曲申上けれは京極悦ひ給ふ事限なし斯て江南江北の両将浅井は破敵なれは今度は勢を段々オープンアクセス NDLJP:60にそなへ置仕寄によすへしとて子息義賢に後藤但馬守を付観音寺域の留主居なり永正十五年戊寅五月十一日に惣勢一万余騎江南観音寺の城を御立ありて其日は諸勢佐和山に着陣す六角定頼卿は佐和山の城磯野員吉か許に一宿候て翌日江北へ押出て給ふ江北方の者なれはとて磯野伊予守高宮三河守久徳左近大夫に御先を被仰付二番に長原安芸守三雲新左衛門尉小川孫七郎三番に進藤山城守三井修理亮目賀多四番に居場美濃守平井加賀守馬淵大賀蒲生小倉将監七番に定頼卿御旗本なりかくて人数段々に仕組佐和山より中道を討て押寄給ふ程に同十二日にははや先手勢江北観音坂横山に着陣す江北の浪人共此の由を見るよりも不斜悦ひて我先にと上平へ馳参し京極殿を大将として其勢千八百余騎矢島野に陣取山本山磯野山の勢共今度の御先陣仕らんと悦ふ事かきりなし小谷の城には備前守此由を聞給ひてされはこそ江南勢去年のおくれを清めんか為又勢を出すそや今度は所々に足たまりをこしらへ仕寄によすへきとの儀なるへし味方の軍術相究むへしとの給ひて大橋安芸守赤尾孫三郎海北善右衛門尉等外を不憚申けるは敵の軍勢に味方の軍勢をくらふれは七分一ならてはなし今度は無二の軍をすへし敵に近々とよせさせて此三人の者とも一番に駆出四方八面に働は敵十万騎にて備へたりとも二三段も切立へし其次に伊部清兵衛阿閉三河守雨森弥兵衛切て出らるへし其次を御大将亮政と大野木三田村を同勢として切り懸り給ふへし然らは定頼旗本まて切崩し可申夫にかなはぬ者ならは我々三人討死をすへきなり其隙に城中へ駆込此度味方に被参東野井口今村今井新庄に城中ふせかせ城を丈夫に持ち堅め越前へ使を立て御加勢を頼み朝倉勢に後巻をさせ城中より切て出て給はゝ六角か京極か一方は討ち給ふへし其のいきほひを以て江南へ乱入江州一国をしたかへ給はん事何の子細候へきと広言放て申ける伊部清兵衛承りいやそれは手立もなく荒き心得にて候今度は南北共に卒爾なきやうに人数を立合次第を追て攻よるへし其故は去年大軍を一時に討ち破り申候条其心得をして駆向はるへし我等存候は当城をひそかに持ち堅め数日を送らは敵長陣につかれ必油断を生すへし其時を見はからひ無二に切て出勝負を決すへしとそ申されける三田村大野木も同心して城を堅固に防置き越前へ使者を立て朝倉殿を相頼み軍勢を引出しもみ合せ戦はゝ勝利是に過しとそ申ける備前守評議一々聞たまひて宣ひけるは何も一術つゝ其徳候へとも先朝倉を頼み加劵を請はゝ早速加勢は来るへし然りといへと去年各異見に付朝倉殿を頼むたに口惜く存候に又候や相頼みなは浅井困窮に及ひ朝倉を頼み其難をのかるゝなと人々の口よ懸るも口惜かるへしとかく謀は我等か所存にあり此の城を枕として討死せんこそ本望なれ各も随分粉骨を抽て防てたへとそ宣ひける列坐の面々承引なき体には見えけれとも大将一向におもひ定められし事なれは各其儀に同しけり斯て海北善右衛門尉雨森弥兵衛赤尾孫三郎此三人の者共は浮武者となり四方に心を付味方に下知して可防大橋安芸守伊部清兵衛尉武者大将に定置味方のたゆむ所を可防浅井大和守東野左馬助に尾山彦右衛門尉田部助七を付大嵩の丸に可籠赤尾駿河守同帯刀同与四郎井口弾正は小丸の城に可籠と被相定備前守は矢倉へあからせ給ひ物見して居給ふかゝる処に江南佐々木六角オープンアクセス NDLJP:61勢を七段に備へ段々にしよりに押寄せ給ふ真先には江北方の浪人共の内弓の上手を四十人すくりて先に立る総して射手二百人磯野源三郎か左右にして小谷山の東の手へ押廻す江南の弓の上手五十三人すくりて是も先に立置五百人吉田出雲守に付置城の西南へ押廻す備前守は此由を見て矢倉より下り物頭共に向ひて宣ひけるは敵此度は殊の外用心して近江国中の射手ともを両脇に立おかれ候へは我等城中より討て出は両脇より引包み射取らんとのたくみなり卒爾に切て出へからすしつまりて城中を堅むへしと宣ひぬ斯て寄手は小谷一方は大山なれは三方に順ひて無難城を取囲む六角本陣は内保村にすへ給ひ江北京極は本陣を田川村にすへらるゝ扨寄手に向ひし兵等鬨を作り掛攻けるか城中にも喚叫て防きけり敵味方の鬨の声矢さけひの音山谷も崩れかゝるかと夥し寄手猛勢なれは入替り入替り攻たりける城中にも命をおします防きけれはたやすく可落とも見えさりけり
 
千田磯野大嵩の城夜込に乗取事
 
斯て寄手の猛勢数日を送るといへとも終に門矢倉の一つも攻とらされは攻あくみたる気色なり城中にも防き草臥たりかゝる処に磯野源三郎為員同源十郎千田帯刀有信同弥九郎浅見新八郎俊定此者共小谷山の東の手の弓大将にて居たりしか各一所に寄合軍評議して為員は小声になりて申やう昨日夕城中へしのひを入様子を聞に此の中の戦ひに殊の外つかれ休息の体に見ゆる旨告来るなり然らは今能き時分なり我等兄弟千田兄弟浅見新八郎五人今宵夜半許に大嵩の城へ忍入小屋に火を放ち其ひまに大嵩の敵を追立乗取へし若敵さとり防きなは我々運命のつくる所と思ひ討死し名を後代に留むへしと申けれは尤可然候とて夜の更るを待にけりかくて六月七日の夜半許の事なるに雑兵三百皆歩立になり山田口へ相まはり大嵩の城の搦手鷲の石といふ所にから堀の切岸に足かたを打忍ひあかり城の塀近く寄けれともとかむる者も更になく静り切て音もせす唯夜廻りの城中を廻る計聞えけれは頓て鬨を噇とあくる城中には是を聞騒動する事限りなし其間に五人の者共塀に手をかけ乗越城中の小屋に火をはなちけれは折節北風烈しくて四方に焼廻る城中の兵共太刀帯者は甲を忘れ弓取る者は矢をはかす上を下へと返しける源三郎四方に駆け廻り戦へは城中の者等本丸さして逃け退く新八郎源三郎不斜悦ひて逃る敵を追ひ討に三十八人討留て勝鬨を噇と作り小屋共の火をしめし門を堅めて居たりしか備前守大嵩の火の手を見るよりも大橋安芸守伊部清兵衛尉に被仰付敵夜込すると見えたるそ追立よと下知したまへは承り候とて大嵩さして急きけるか早や城中敵に乗取られ大嵩の者共開退く所へ来りけれは可防便りなし又寄手如何なる手立もあるやらん本丸心もとなしとて引返すかくて千田帯刀同弥九郎浅見新八郎磯野源三郎舎弟源十郎此者共大嵩の城乗取る旨風聞すれは磯野右衛門を先として浅見対馬守千田伯耆守横山大和守馳来り大嵩城へ楯籠り城を丈夫に堅めけるかくて浅井大和守東野左馬助尾山彦右衛門尉は大嵩城を焼立られ本丸へ落来りけるか備前守大に怒て宣ひしは扨々汝等戦場に向ひてかく大敗をなし敵の来るさへ不知一支もさゝへすして城を敵に乗取らるゝ事前代未聞の次第なりと宣ひけれは大和守も左馬助も兎角の返事なかりけり大橋安芸オープンアクセス NDLJP:62守赤尾孫三郎御前に候ひしか両人同音に御立腹御尤には候へとも軍と申す者は高名仕候も後れを取候も時の仕合にて御座候全以此儀越度にては有ましくと宥めける扨備前守兵等に向ひ申されけるは大嵩の城敵に攻取られぬる上は敵勝に乗明日は平攻に攻あかるへし小丸は大嵩近き所なれは板たゝみにて構置き源三郎矢先つよけれは能く防くへし惣軍勢の者共は敵に気をうははれ可落気色の侍は敵の手には懸け候まし味方討て舎らるへし此の城を枕として並居て討死とけらるへし其上味方死を一筋にかためなは百万騎の敵なりといへとも一度は討破り可申能たしなみ可申と夜の間に城中へふれ廻し四方丈夫に持ち堅めよする敵を待ち居たりかくて六角京極両大将は磯野源三郎大嵩を夜討に乗取り磯野浅見千田か一家一千騎許にて楯籠る旨聞給ひ是天のあたふる吉事なり明日は小谷を四方より平攻に可攻と使番を以て南北の諸勢に相触れられけれは軍中一度に勇をなし我もと進みける明れは六月八日の辰の一天に諸勢一度に鬨を作り攻あかりけれは城中にもときをあばせ走り廻りてふせきける誠に敵味方の鬨の声矢さけひの音山河にひゝきて夥し寄手四方にまはるといへとも東西は切り岸なり南は堀切なり其上より石を落し大木を落し矢先を揃へて射下せは寄手討るゝ者多かりき備前守は小丸と大嵩との間第一に可防とて大橋伊部阿閉今村赤尾海北雨森等此人々に被仰付我身は四方に駆廻り下知し給ふ大嵩より源三郎件の大弓にて討出し板畳とも言はす射通せは城中是にあくみけり海北善右衛門尉雨森弥兵衛赤尾孫三郎三人の者とも大楯と中の丸との間垣を引き落し土手を楯に取り名乗かけ攻下せは敵も進みかねてそ見えにける此三人の者ともは海雨赤の三将とて近江一国にては古の頼光の四天王のやうに申此三人向ひ一方討破らすといふ事なしさる間昼夜の境もなく寄手は入替三日か間は息をもくれす攻けれとも城中には一騎当千の武士多く籠り命を捨て防きけれは寄手攻あくみ陣所を少引退き人数を休め給ふ有時備前守亮政朝飯して居給ふ処に源三郎為員件の強弓にひら根の大矢を打つかひ射けるに何方よりか来りけん前なる膳を射わり草摺を射抜て後なるさくりの板に立けれはさしもに剛の亮政も此弓勢は一方ならぬ事なりとて大嵩の方をつよく用心したまひけり
 
浅井備前守以智謀寄手を追ひ立る事
 
斯て浅井備前守亮政は物頭大将の面々を近付宣ひけるは大嵩の敵に攻取られ高みに敵を置き味方ひくみよりふせきけるは城中の諸勢気力よはると見ゆるなり此分にて籠りなは追付当城は可落なり兵の勇気の少しく残れるうちに一術して敵を出抜き可追払もし敵さとり術かなはすは三千余騎真黒になり六角の旗本内保村へ無二に切入討死をとくへきなり今度は面々も我等と一所に討死をたのむと宣へは赤尾孫三郎海北善右衛門尉雨森弥兵衛進み出て申けるは敵何万騎にて取巻候ともさのみ御大事にはおほしめさるまし我々御先を仕伊部大橋二人二番に切て出る物ならは六角勢に自由は働かすましく候へとも大将御免しなき故此中取籠りいたつらに日を曠くす是非に切て出させ給ふへし大軍を追散らし追討に討程心地よき物は無御座候と申せは亮政につこと笑ひ汝等三人は心も剛に手立よしさあらは我オープンアクセス NDLJP:63等の謀かたるへしとて宣ひしは東野左馬助は余呉の庄の知行所なれは其村々被官百姓多し左馬助を先とし西野丹波守尾山彦右衛門尉田部助七此等四人は北国よりの道筋木の本井の口まて知行所多し然れは郷人頼むに便りよし明夜は当城を奥山伝ひに忍ひ出へし手勢五百余騎に郷人二三千かたらひ紙のほり紙さしものを三千はかりの郷人に指上させ明方の早朝に賤ケ嵩木の本山田部山に狼煙をあけ貝鐘にて鬨をあくへし新庄駿河守は汝か知行所横山辺に狼煙をあけ郷人に鬨をあけさすへし舎弟浅井大和守丁野弥助両人は丁野村の郷人を八相山へ打あけ敵陣取の上にて木の本田部山の鬨の声を聞なは狼煙をほのかにあけ鬨を噇とつくるへし其時城中にも四方の鬨の声と一同に鬨をあけ追手搦手一同に門を開き切て出へし寄手又去年の如く朝倉勢馳来り当城へ加勢すると思ひ木の本表へ入数半分差向らるへし其時六角旗本へ切込戦はゝ可勝利と宣へは物頭の面々御手立宜く候はや支度せよとて紙のほり紙差物等それに調へて日の暮るゝを待て居たりけりかくて六月十日の夜のうちに西野丹波守東野左馬助尾山彦右衛門尉田部助七其勢都合五百余騎にて奥山伝ひにしのひ出る相続て新庄駿河守は草野越に忍ひ出る北国道へ向ひし西野東野は余呉庄に到りて東野村左馬助舘にて在々所々へ触廻しけるは今夜の中に里の長に可申渡子細有早々来るへき旨触れ通しけれは我もと馳参す左馬助里の長に向ひて頼みけるは明十一日の夜の中に郷々下百姓不残召連東野村へ可来旨申付紙のほり紙差物等相渡す十一日夜五つ時分に郷人我もと支度して三千五百人馳集る柳瀬より中郷迄の山の峯稍々に件の旗さしものをゆひ付置堂木山坂口賤ケ岳木の本山へ頭々を付三千五百人打上る尾山彦右衛門尉田部助七も己か在所尾山洞戸田部山へ郷人をいさなひ打登り六月十二日の明六ツ時に狼煙をほのかにあけ鬨を噇と作れは東野左馬助木の本山賤ケ岳大音山にも貝鐘にて鬨の声をあくる夫よりして南方は観音坂西は横山辺八相山に狼煙を上鬨を作れは四方の峯々狼煙天にのほれは小谷の城中にも二千余騎鬨を噇と作る寄手の者共これを見て軍中以の外に騒動す進藤山城守平井加賀守は定頼卿の旗本へ伺候し申けるは越前朝倉浅井に加勢すと見えたり南方の敵は味方中に逆心の者出来して四方に廻ると存候先朝倉を被押可然と申上けれは汝両人可向と仰付られ則其勢三千余騎馬上表へ乗出す処に物見の者共段々に馳帰て申けるは北国表の道筋は皆人数にて山々峯々には皆敵なり如何様二三万騎もをしよすると申其内に江南勢大きにさはきて大将下知もなきにはや引取らんとす西野丹波守東野左馬助尾山彦右衛門尉田部助七五百余騎こゝかしこに打散り井の口川原へ押寄る馬上村表へ向ひし進藤平井か人数うら崩れして敗北す又小谷の城の東へ向ひし江南江北の兵とも大将の一左右も不聞さきに矢島をさして敗北す内保村本陣へは伊庭美濃守馬淵摂津守馳来て申けるは味方勢大半此表を落行申候間先御人数を被打入然候と申せは定頼卿も崩れ立たる味方なれは先手の者共呼取れと進藤平井を呼取矢島野へ引取らんとせし所を亮政是を見て赤尾駿河守井口弾正今村掃部頭其勢都合八百余騎大嵩の押に残し置備前守千二百余騎門を開き切て出らる元来引立たる猛勢なれは追討に尊照寺矢島まて討程に首数三百許り討取かちとオープンアクセス NDLJP:64き噇とあけ小谷を指て引取給ふ南方観音坂へ向ひし新庄駿河守は狼煙をあけ貝鐘をならし鬨を作り敵向はさる先に人数を引揚け箕浦の城へ打入ける八相山へ向ひし大和守丁野弥助も鬨をあけ今浜道へ引揚けるかくて大嵩に楯籠る磯野右衛門大夫父子三人千田伯耆守父子三人浅見対馬守横山大和守横山肥後守森勘解由此人々味方不残敗北するを見て朝倉勢に被取籠やみと討れんより居城へ楯籠り味方の安否を見はやと思ひ大嵩を開退き磯野山本の両城へ引にけり
 
浅井三代記第六終
 
 
 

この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。