目次
 
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浅井三代記 第一
 
 
永正乱の興
 

夫近江国には鎌倉源氏の御代より三十六人の国衆八十二人の郷侍と申て御座候処に其後尊氏将軍の御時分佐々木佐渡判官入道道誉の威勢に一国なひき彼道誉にしたかはすといふ事なし其以前より江州一国を二つにわかち江南江北と申て愛知川より北を江北と申愛知川より南を江南と申けるそれゆゑ江北佐々木江南佐々木と申す両家に引わかるゝしかりといへと南北ともに一家にして嫡男次男のわかちもなく相互に家を続来り江南佐々木六角江北佐々木京極と申双方侍ともあるひは郡のあらそひなく又は境日を論する事なし其後明応年中に天下大きに乱る此時の佐々木六角義実は義澄将軍の御妹聟なれは其威をかり江北京極と相戦ふなり其時佐々木六角義実卿は江南観音寺山に住城す江北高清入道環山寺は坂田郡伊吹山の内に住城す明応年中に江南勢強働故愛知郡犬上郡二郡江南六角切取京極入道環山寺病者なるにより終に軍勢催さるゝ事もなし夫故江南より江北をせはむる事多し環山寺か臣下に上坂治部大輔泰貞と云者有上坂に氏多し此上坂は梶原平三景時か末也此泰貞は前の京極政経の三男上坂の家を継く其末なり此者高清卿御見立候て江北の侍大将に被仰付ける此治部大輔軍勇智謀の者なりとそ申ける其時上坂我身不肖なれは江北の諸侍思ひ付事候はしと京極殿に度々辞退申上る京極殿江北中の諸侍を召集仰られけるは某近年病気たるにより此治部大輔に我代をゆつる汝等随分治部大輔を守立江南と一戦をとけ押領の二郡を取返オープンアクセス NDLJP:10し可申と被仰出けり此時まては君臣の道のこりけるにや各御請申上るそれよりして京極殿は伊吹の太平を引退き同山の内上平と申所へ引籠給ひけるしかるうへは江北中此上坂に出仕をする事夥しされともしたしき中と寄合申けるは京極の家今此時に滅亡し他家に渡る事前代未聞の次第なるへしとさゝやかさるはなかりけり爰に浅井新三郎亮政は永正四年には十三歳治部大輔へ奉公に出るに何事も心にかなふやうにそはをもはなれす仕へ給ひしゆゑ此亮政其後立身して江北ことく切したかへられしなり

 
軍評議の事
 
永正七年三月上旬の事なるに治部大輔江北中の諸士を廻文をまはし召集め相談して申けるは佐和山の城を六角かたへ被乗取江北の耻辱此所なり何とか思案をめくらし江北へ切かへし可申旨屋形被仰出候にいかにと申けれは堀能登守頼貞磯野伊予守員吉申けるは江南の侍共に江北の侍共まくへきにあらされと屋形の御出馬も候はす又は侍中間も和せさるゆゑに先年六角方へ乗取候今度はよく人数を組給ふへし惣して軍法を相定めらるへしと申せは泰貞申けるは先佐和山の一里此方米原太尾山に要害を拵此方出張の足たまりにして人数二手にわかち海手へまはし磯山に楯籠る松原弥三右衛門尉成久を責さすへし一手は鳥井本口へたしまはし佐和山に楯籠る小河孫七郎を責へし其内に観音城より六角勢をいたさるへし此方人数はすりはり米原の難所に陣取対陣して相戦へしと被申ければ列座同音に尤よろしかるへしと申上れはさあらは日限を相定へしとて同十六日打立へしとの手はつをとり其日の評議はやみにけり
 
佐和山へ押よする事
 
かくて上坂治部大輔泰貞は同十日に屋形へ参扣して軍評議を申上けるに高清入道打えみ給ひて首途の御祝儀として御秘蔵の御馬御重代の御腰の物を給はる同十一日には治部大輔横山へ取のほり味方の勢を揃見んとて同姓信濃守同伊賀守同掃部頭をめしくして其日の辰の刻はかりに打出給ふに内々江南勢にあなとられし事をいきとほりけれは我もと馳あつまる先一番に磯野伊予守員吉同右衛門大夫員詮子息源三郎為員井の口宮内少輔〈後弾正にあらたむ〉大野木土佐守秀国三田村左衛門大夫定元西野丹波守家澄同与八郎氏常安養寺河内守勝光浅見対馬守俊孝阿閉三河守貞義堀能登守頼貞野村伯耆守直定同肥後守定元今井肥前守頼弘新庄駿河守信家横山掃部頭家盛同肥後守千田伯耆守有義子息帯刀東野左馬助行成熊谷弥次郎同新次郎伊部清兵衛尉為利大橋善次郎秀元浅井新次郎教政野一色片桐富田尾山彦右衛門田部助七木村海北助左衛門同善右衛門雨森主計同弥兵衛赤尾与四郎同筑後守同孫三郎宗徒の侍として四千余騎雑兵共に二万余とそ申けるかくて治部大輔御名代を仕るしるしとやおもひけん物頭の方へ酒肴を出しければ上下さゝめき喜ひける斯て泰貞物頭共に向て申けるは某屋形の御名代を申上ると云とも江北の諸侍なとか下知にしたかひ給はんと思ひしに如此残らす出馬せらるゝ事満足なりと悦ひてさあらは打立へしとて永正七年三月十六日に横山を立て米原口へ押出す諸勢三手にわくる堀能登守新庄駿河守野村伯耆守同肥後守浦手へ向オープンアクセス NDLJP:11ふ大野木三田村阿閉西野は醒ケ井口へまはる治部大輔は残る勢を召具し米原由に陣取る斯て佐和山の城に江北の軍勢残らす馳向ふよしかねてより風間すれは観音城へ注進す観音城には定頼義実打より物頭共よひ集め軍評議をとけ給ふ末座の若者共あなとり申けるは何そ評議に及へき数年相戦ふといへと江北の者ともに一度も勝はとらせぬに何として物々しく評議し給ふ物頭一人被仰付なは我々罷越即時に敵を追払ふへしとて手に取るやうにそひしめきける中にも進藤山城守〈父山城守なり〉後藤但馬守進み出て申けるは今度は御大事の戦ひなるへし数年鳥井本口にれいて相戦へと佐和山へは敵に足をためさせさるに今かくもよほして来たる事は無二の一戦とけんとの儀たるへし屋形の御出馬尤たるへしと申けるかくて寄手の勢は三方より押まはし鬨を噇とあけ先遠取巻にそしたりける城中にはまつまつて防き矢も射さりけれは治部大輔此由を見て使番を以て味方の車勢卒爾に責ますへからす江南より多勢もよほし後巻有へきとおもふなり様子を見て明日未明より責へきとて其夜は軍をやめ陣取て太尾の要害こしらひける
 
磯山の城責落す事
 
翌日十七日未明より浦手へ向ひし堀能登守新庄駿河守野村伯耆守同肥後守此四人の人々磯山に楯籠る松原弥三右衛門尉成久か城へ押よせ鬨を噇と作ける城中よりも二百五拾騎にて打て出て明神山の上にてしはしか程はさゝへしか味方六百余騎面もふらす切てかゝれはこゝは防きかたき所なりとて城へ引取り門をちやうとうち城を丈夫にかためたり観音城には佐和山表へ敵働き出るとて定頼卿諸卒引具し出張し給ふ相続く人々には進藤山城守後藤但馬守伊庭美濃守目賀多伊豆守蒲生筑後守三上伊予守平井加賀守落合因幡守永原安芸守奈良崎源五左衛門尉彼等を宗徒の大将として都合其勢九千三百余騎の着到にて十七日辰の一天に観音城を立て佐和山表へ進発すはや前勢は清水村平田辺まてみちたりそれより二手にわけ一手は上道佐和山海道へ打むかふ一手は海手へおしまはす上道の士大将には進藤山城守なり相つゝく人々には伊庭日賀多三上蒲生永原四千余騎にてかけむふ海手の大将には後藤但馬守相したかふ人々には奈良崎源五左衛門平井加賀守二千五百騎にてかけ向ふ定頼旗本平田山に二千五百騎にて落合因幡守並に御馬廻衆守護し申さるゝかゝりける所に磯山の合戦急なる由注進したりけれは後藤一里半計の所をもみにもんてそ急きけるかくて味方は見次勢きたらぬさきに攻落すへしとて喚叫て攻入けるにはや惣かまへを打破四方八方より込入れば城中には塀際まて近つけすきまもなくあるひは射立又は切て出命も不惜防きける後藤五十町浜をすくに打て急きけるか去夜雨車軸に降て四川水増り白浪せかいを打夥敷中々可渡様もなかりけり此磯山と申は東は佐和山の尾つゝき二町はかり間きれ入江廻て底ふかく南は四ツ川常は歩わたりなれとも入江の水すそなりけれは水出ぬれは二町はかりも海の面になり可渡たよりなし西は湖水渺々としてきはもなし北も入江に引つゝむ入江と海の間はゝ一町半はかりの陸路あり磯築間朝妻と詠せし村も此間に打つゝき味方は大きに道の便もよし南はこれに打かへて以の外の難所なれはよせて川端にしはらく猶オープンアクセス NDLJP:12予してゐたりける奈良崎後藤に向ひ舟にて渡すへしいかゝ候らんと申けれは後藤尤とて舟をそこにもよほしけるにやゝ時刻も移ける味方は是に気を得て四方すきまもなく取囲み息をもつかせす攻めたりける野村堀に向て言けるは敵は四ツ川のあなたにひかへたり昨夜の雨にて水さそ深かるらん渡る事はなるへからす是も天のあたへなれは此図をぬかし給ふな或は敵のおさへにむかふへしと云すてゝ明神山の麓に百四五十騎はかりすくつて一文字に攻よする敵を待たりける後藤もさすか功有兵なれは兵船七八艘おし出す奈良崎心やさそせきぬらん平駄といふ小舟三艘に取のり一文字におしぬけんとす肥後は此由見るよりも明神山の高みより敵を見おろしさしつめ引つめ雨のふる如く射たりけりよせても舟よりいく程ともなく射いたしけれとも味方は高み敵は海上なれは味方事ともせす防きけれはさしも進む佐々木勢舟をよせかねてそゐたりける味方の兵とも卯の刻より午の刻迄の戦なれは少たゆむやうに見ゆれは堀新庄大音あけ敵はわつか三百には不過かほとの小城をせめあくむか見次勢は川を越かねたると見えたり不来さきに攻取と下知すれは塀逆もきともいはす乗越攻入けるに城中の者共弥三右衛門か勢過半討れ残すくなになりぬれは今はかなはしとや思ひけんつめの城へ駆いらんとせしを堀か者共追つゝき討取んとせし処に弥三右衛門か郎等七八人踏留て戦ひ枕を並て討死す其隙に成久は腹かき切てそ失にける江北方の者ともは城を攻取剰弥三右衛門討取悦事は限りなし今日の軍に敵雑兵百十三騎討とれは味方も四十八騎そうたれにける奈良崎は眼前にて味方をうたせしかのみならす城を敵方へ取れぬれは猶も舟おしよせ肥後と勝負を決せんとしたれとも後藤物なれたる兵なれは奈良崎を怒て申けるは尤敵は今朝よりの軍につかれたりとは申せともおもふまゝに打勝いきほひかゝつたる時節なり殊に舟の上にてのかけひきかなひかたし一旦利ありとも後の大事たるへしとて其陣十町引取五十町浜に備立てそゐたりける磯山討手の者共も敵人数を引とれは磯山に陣取りしはらく息をそつきにける
 
鳥井本合戦の事
 
同日の事なるに佐和山城にはからめての敵大軍にて寄けれは高宮三河守久徳左近大夫両人の者ともは近所一里二里の間なれは敵東西を囲候之条早々加勢し給へと申遣十七日の未明よりわか身は鳥井本村をやかせしと城中より三百はかりにて討て出鳥井本村に人数を二段に備を立てそゐたりける味方すり鉢峠に陣取たる大野木土佐守三田村左衛門大夫阿閉三河守西野丹波守手勢五百余騎にて峠より打おろす孫七郎射手を揃へさしつめさんに射けれとも味方五百余騎の勢事ともせす鬨を作て押よせ鑓おつとり喚呼て戦たりかゝる所に前勢軍初るとひとしく磯野伊予守員吉同右衛門大夫井の口宮内二番東野左馬助舎弟平野左兵衛尉三番浅見対馬守米原を立て鳥井本の此方矢倉といふ所へ押よせけれは味方猶も勇んて追立追まくり火花を散て戦たり佐和山勢敵猛勢にて押寄ると見ゆれは引色にこそ成にける孫七郎是を見て此儘勢を引とらは敵に惣構をも付入にせらるへしと思ひ自鑓ひつさけきたなし味方の者共よ敵大軍なりともいかほとの事か有へきとて取てかへしはしたなく働オープンアクセス NDLJP:13けは寄手五町はかり引退く其間に我人数をまとめ城の内へ引入ける味方左右ならしたふへき様もなけれは敵門を堅て防けれは小河か軍ふり物なれたる働とてみな人感しける斯て味方の者ともは思ふまゝに敵を追払ひ鳥井本村へみたれ入町屋一軒も不残放火して先勢はすり針山の麓に陣取二番勢は矢倉に陣取本陣は梅か原にそすゑたりける爰に久徳左近大夫と申者は多賀の奥久徳村と云所に小城をかまへ居住す高宮三河守と申者も高宮村に小城を構住居しけるか両人の者本は京極家の侍にて佐和山の城をまもり居るに明応の乱に佐々木家へ属せしか猶も昔をわすれねは京極家へ内意はかよはしけるにより此度其色を見せなは家の大事とやおもひけん両人相談して手勢二百四五十騎にて佐和山へつほみ入かゝりける所に佐々木勢小野村大堀村に着けれは進藤山城守は進藤小兵衛と云し者を物見に遣し敵の様体見するに立帰て申けるは寄手は一働して鳥井本村の町屋一軒も不残放火して山のつまり峯々谷々に陣取しは正しく人数二三万騎も可有かと覚え候と申けれは進藤大きに怒て汝は麁相なる者かな人数多とも五千には不可過重てたしなむへしとそ申けるかくて治部大輔は去る夜の雨夥敷して要害をかくる事ならされは上坂伊賀同信濃守に申付すり針山梅か原由米原の太尾に急に要害出来候様にと被申付けるかゝりける所へ磯山より早馬敷波を打て告きたりけるは今朝卯剋に軍を初め午の下剋まてに城をも落し城主松原を討其上首数百三十味方へ打取申候味方も四十八騎討れ候へともえかとしたる者一人も討死不仕候と浦手の討手四人方より申越けれは大将治部大輔を初軍中一度に軍初の吉事なりとて噇と声して勇みけりかくて山城守は敵に足たまりを拵させてはかなはしとて四千余騎の人数を二手にわかち馬淵目賀多を大将として佐和山の尾つゝき佐渡根山へ千五百騎にて押あくる進藤永原蒲生は二千余騎海道筋を押よする治部大輔は是を見て佐々木勢是へ寄ると見へたり先手の衆は今朝よりの戦にさそ労れ候らん磯野東野井の口此人々先を替り可申とて前手と替て鳥井本に南向に備を立る西野阿閉浅見は西向に備を立る是は城中より討出なは可戦とのたくみなり大野木三田村先備の上なる山に西向に備を立る是は横鑓に可懸との儀なり治部大輔も引続き矢倉村に本陣を居る旗本三段なり横鑓二所に置去程に永正七年三月十七日の事なるに山城守前勢敵味方三町はかりの合にて時をあくれは佐和山勢門を開切て出る佐渡根山の勢も一時にときを作り喚叫てかゝる敵は三所より切てかゝる味方も鬨をつくりかけ切てかゝる敵味方の鬨の声矢さけひの音百千の雷も一時に落山川も崩て湖海に入天地もひるかへるかと夥しやゝあつて鬨の声も静まれは佐和山表と佐渡根山表と軍二つになりて敵味方入乱れ命も不惜しのきをけつり一時はかりは黒煙を立てそ戦たる東野左馬助舎弟左兵衛尉敵猛勢にて入替戦は一町はかり敗北す跡にひかへし永原安芸守追つめて討取や者ともと息をもつかせす追かくる味方防かねてそ見えにける敵此由を見て伊庭美濃守三上伊予守目賀多伊豆守三人は佐渡根山より人数をおろし横鑓に突かくる味方大きに気を失なひことく敗北す敵勝にのつて追討に討たりける大野木三田村爰はよき図なりとて三百はかり真黒に成て楷鑓に面もふらす突かかる敵横鑓に又つき立られ引色に見へけオープンアクセス NDLJP:14るを磯野東野中の口是に気を得て取てかへし戦は佐々木勢をのれしらす一町はかり引にけり進藤軍に功ある人なれは我勢は八里はかり道を来るといひ今日の戦も一時はかりの戦なれは味方さそつかるらんとて諸卒をまとめて引にけり味方も数刻の戦人馬共つかれけれは陣をすり針山へそ引にける
 
同十八日合戦京極より加勢の事
 
あけけれは治部大輔は梅か原より鳥井本村へ旗本を寄せ三千騎の兵を左右にして真円に成て備たり先手磯野東野三田村も一手になり一文字に備を立る扨佐々木も人数三段に立て居たりける敵味方共に昨日の軍にや労れけん互ににらみあふて軍もせす午の刻はかりに双方射手を出し互に矢軍を初め相戦ふ事しはらくなりかかりける処に佐渡根山に陣とりたる三上伊庭人数をおろし横さまにつきかかる磯野大野木是を見て敵は横鑓に来るそ味方進むへからすとてひかへて敵を防きける三上伊庭喚叫て面もふらす突かかる磯野か勢しはしか間はささへしか此いきほひに追立らる井の口東野爰にありと名乗かけ味方の陣より討て出れとも敵猛勢にて事ともせす突かかれは味方防かねてそ見えにける進藤は是を見て軍配をとり軍は今なるそ味方の者ともよと下知すれは二千はかり鬨を作りかけ真黒に成て切てかかる治部大輔こらへかね西野阿閉浅見後詰せよと有けれは承と申て七百余騎先手にくははり切むすふ佐和山勢時分はよきと心得て後藤奈良崎小河千五百余騎にて切とほし道より馬煙を立て切て出れは夫よりして敵味方入乱れ追つおはれつ戦ふたり進藤か手へむかひし味方の者とも進藤にかけたてられ旗本人数と一つになる進藤は勝に乗敵の旗本をさして追掛る後藤是を見て進めや味方の者ともよ進藤殿の手は敵を追払と見えけるとて勇み進て切てかゝる其内に進藤か勢一つに成治部大輔おもふ図に敵はめくるそと思ひ旗本を崩し味方馬上三千四百余十死一生とおもひ定め鬨を噇と作り真円に成て切てかゝる両藤命もをします爰を詮途と戦ふたりま事に敵味方の叫声天地も震動して夥しかゝる処に磯山の討手にむかひし堀能登守新庄駿河守は磯山に野村を一人残し置鳥井本へ心さし米原の入江を廻てはせむかふ味方の陣へかけ入一所に成て戦ふたり寄手の大将定頼卿は敵鳥井本口にてつよく相働と聞給ひ平田山より落合因幡に先をさせ二千五百にてもみにもふてはせ来る切とほしの四五町南小山と云所へ馳着給ふ味方本より非生の人数なれは少も不驚うちつうたれつ戦ふたり然処に奈良崎は治部大輔に目をかけ一陣にすゝんて来たりける其中より高宮兵助と名乗面もふらす一人かけぬけつきかゝる浅井新三郎亮政は治部大輔にかた時離れすつきそうてありしかとも兵助か名乗を聞我もわか名を荒言し兵助と渡しあはせしはしは鑓にて仕合けれとも互に勝負はつかさりしか兵助鑓を投すて亮政とむすと組亮政を取ておさへ首をかゝんとせし所を下に成なから兵助か弓手の脇をつきけるかされとも上よりつよくおさへけれはおもふやうにとほらねはすてに首をかく所に亮政運やつよかりけん郎等ともかおり合ておのれか主を討せしとてはしりかゝつて兵助を引立る其隙に亮政おめきあかつて兵助か首をそ討にけるかくて治部大輔か見参に入けれはいまた若年の身として神妙なりける組討かオープンアクセス NDLJP:15なとて感状をそ出されける此時生年は十六歳に成けり場所やよかりけん後々にいたるまて敵味方ともに感しけり是を手柄の初として敵味方共に互に手柄は多かりき磯野右衛門大夫か嫡子源三郎為員と云しは生年十五に成けるか国中第一の大弓を好いまたこふしはさたまらさりしかとも其日の軍に雑兵何程射殺といふ数を不知見知たるをそ記しける永原安芸守か第甚六和田伊三郎後藤茂兵衛なとゝいふ歴々の侍を遠矢にて射落しけれは敵味方目を驚かしけるかくて敵は入替入替たゝかへは味方防かねて上平殿はきのふ十七日の注進を聞給ひ鳥井本へは六角定頼数千の軍勢を以て打向ひ給ひ味方難儀に及のよし聞給ひ両家老大津弾正加州宗愚治部大輔か本へ御加勢し給ふ今村掃部頭は少子細ありて在所に有りしか両家老佐和山表へ発向の旨聞て二百余騎にてかけむかふ大津加州今村は箕浦河原にて落合其勢二千騎にてはや先勢の者とも軍最中と見て駒をはやめて急きけれは味方の後備に馳付けるそれより味方いよ力を得て勇みにいさんて戦たり大津加州今村二千騎にて我々勢は荒手成そ敵追散せ者ともとて面もふらす切てかゝる定頼是を見給ひて敵は荒手か入かはりたるそと旗本を崩して両藤か後にくはゝりける敵九千余騎の人数に味方六千余騎せはき山合に入みたれ始終三時はかりも戦ひしか互に勝負はなかりけり磯野伊予守浅見対馬守山手の敵を南向に追散らし鑓衾を作て面もふらす突かゝれは敵は思はぬ方より寄られ足をそゝろに乱しける治部大輔是を見てみつから身をもみ摠かゝりにかゝれとてもみにもんて責たりけれはさしも防きし佐々木勢此いきほひに追立らる味方元来十死と定めし軍なれは追つめ戦ふたり進藤後藤も爰をせんとゝ防けとも後まはらに成けれは人数を引取んとせしを味方勝に乗四方八面に切て廻れは惣敗軍にそ成たりけるか大津弾正加州上坂伊賀此人々を初として味方三千余騎道筋へにくる敵を追て行磯野浅見赤尾三田村堀今井は山手へにく定頼旗本既に危く見えしか湯浅六之助佐津川宮内助後藤宇兵衛寺本加助三上図書なとゝ云一騎当千の兵共踏留て向ふ敵多く突たほし切捨枕を並へ討死しけるにそ佐渡根山を過き平田をさして落給ふ道筋を追かくる人々は敵を十四五町追討に打取今日数刻の戦に人馬さそつかるらんとで旗本さして引かへしける小河孫七郎は敵味方の軍の色を見るに南勢引色なると心得みたれぬ先に此表可引取一日なりとも城をあつかるよりしては我城こそ大事なれ自然敵にへたてられてはかなふましとて手勢引つれ城中へ引にけり後沙汰していふやうは誠に物なれたる引様かなといふ人もあり己か主の逃を見すて早く引といふ人もありとそ聞えける斯て治部大輔は敵を思ふまゝに追散し太尾の要害へ引取給ひて今日の軍の次第をしるしける敵首数昨今両日に五百三十余物頭首二つ討とれは味方も三百六十余討れけり治部大輔物頭ともに向ひ被申けるは昨日十七日の軍には先勢と三番備二手にわかつて相戦は懸引自由ならすして難儀に及ふの処に今日の軍は味方退くに敵勝に乗追懸来り一手になり勝利を得るなり去なから加勢の衆の懸付給ふ時分よしとて悦ひ給ひ軍功品々しるされけり其後敵味方合戦やみけれは鳥井本山の要害には阿閉三河守西野丹波守を入置太尾の城には磯野伊予守大野木土佐守三田村左衛門大夫梅ケ原要害には今井肥前守磯野右京大夫籠置磯山のオープンアクセス NDLJP:16城には浅見対馬守新庄駿河守を入置惣して江北の大名分の者とも一組つゝ月替に相守るへしと申付治部大輔は上坂の城へ引にける佐々木六角定頼は佐和山の城には小河孫七郎に目賀多久徳高宮を指添松原村に要害をかまへ平井奈良崎を入置重て一戦とくへきとて観音城へ引にけり
 
浅井三代記第一終
 
 
 

この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。