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浅井三代記 第十二
 
 
浅井備前守江州へ引取事
 

去程に備前守長政は御影寺川へ馬をさつと乗入けれは斎藤か勢の内巻村牛之助野村越中守なとは中和の事少も同心せさりしか今浅井江州へ勢を引入るを幸と思ひ若武者二十三十つゝ弓鉄炮をはなちかけ我もと進みけり三田村左衛門大夫其勢五百計鶴翼に備へて居けるか敵近付は追払ひ二三度計も討払ひけるか巻村是を見てすはや時分はよきと思ひ一千計の勢を以て突駆れは三田村しはしはさゝへしか巻村野村に被追立大野木か備へさつと引大野木か手にて追つ返しつ火花をちらして戦ふたり美濃勢は鑓ふすまを作り面も不振切掛る大野木爰を先途と防け共いさみに勇む美濃勢なれは巻村肥後守か備へ引取ぬ美濃勢上村野村は此由を見て来拝を取て掛れと下知すれは先陣はすゝまねと後陣に勇める事なれは相共にみたれ入火出る程戦ふたり肥後守か備も色めけは美作守遊軍となつて居たりしか両備にて其間七八町余も引取れは爰にては今一引ひきとらせたく思ひて居たりしか肥後か跡に扣し堀か勢うら崩して色めけは濃州勢はいよいさみて突駆る美作守引かへて待てとも如何なりと思ひ肥後か勢に馳加りて肥後殿も兵庫殿も討死したまへといひすてゝ鐙ふんはり立あかり荒言して名乗けるは只今かく名乗者はいかなる者と思ふらん浅井か内にて人々に見知れし赤尾美作といふ者なり巻村殿野村殿に見参と名乗かけおめきさけんて切てかゝる大野木も三田村も同しく名乗て切かゝる巻村野村は是を見て浅井殿の御内にさるオープンアクセス NDLJP:106者ありとは聞及ふそあますなもらすな討取と下知すれは巻村か勢は今朝より度々の戦ひなれは草臥たり肥後美作か勢は荒手なれはむらかる敵を突返すか斯ける処に敵方より蜂屋甚八郎と名乗かけ鑓をよこたへ取て返し美作に渡り合ゑはしか程は戦しか赤尾か長刀を受はつし二つに成てそ死たりける赤尾か郎等飛かゝりやかて首をそ取たりける稲葉助七郎と名乗面も不振突かゝりしか肥後是を見て此者をは某にたひ候へ赤尾殿と言すてゝ双方の中へ飛入稲葉と鑓を合せたり稲葉上鑓に成て肥後か馬手の肩先を突けれ共肥後事ともせす十文字にて突たほし鑓を捨て飛駆り難なく首を討取ぬかゝりける処に犬塚次郎四郎と名乗肥後を討んと引返す赤尾美作守嫡子新兵衛尉と名乗かけ互に鑓を合ける新兵衛か郎等上水源次といふ者二人か中へわけ入て次郎四郎に切て掛る次郎四郎鑓をすて腰の刀を引ぬき両股切て落しける新兵衛は郎等をうたせ無念に思ひ走りかゝり次郎四郎と鑓を合新兵衛討勝次郎四郎か首を取肥後甥野村頼母助才次郎等も無比類はたらきし肥後真先にて討死す江州勢それよりさつとかけてはさつと引段々引に引にける美濃勢も心はたけくいさめとも一日の戦ひに草臥たる勢なり味方の陣所へ引けれは江州勢跡をしたはんといさみしを赤尾大音あけ此いきほひに引取れとて御影寺川まて引取敵此由見るよりも川際まて追駆て討取とて荒手を入替したひ来る赤尾大野木三田村に向ひ申けるは敵合いまた査なるそ此間に川を越よとて二千四百の兵川ひたと討渡りこなたの岸に駆著備を立てをくれし味方を待請る敵川際まて追駆跡にをくれし者共を十五六騎討取けるされとも敵川を越されは味方の勢を打連れ駒をはやめて長政の本陣へ引取る今日の殿に濃州勢五六十騎討取は味方八九十も討れにけりかくて備前守長政けふのしつはらひの次第を聞給ひ今にはしめぬ事なれと赤尾父子か働肥後守働不浅事なりとて感悦にこそ預けれ敵もいなはに人数を打入けれは長政も江州さしていそかせける誠に今度美濃国にての次第は残多き事共なりとにもかくにも長政の家運の程こそつたなけれかくて磯野丹波守員正は備前守より先へ美濃路を打立佐和山へこゝろさし息をもつかす急きけるかはや先勢すり針峠に旗を上けれは佐々木勢は是を見て備前守こそ美濃の軍に討勝帰陣すと見ゆるそ取込られてはかなふましとて上を下へと騒動す承禎父子は味方の体を見て浅井か多勢に討かこまれなは悪かりなん引取れ物頭共といひ捨て一番に引とれは佐々木か者共佐和山の城を打捨て摠引に引取ける磯野は此由見るよりも駒をはやめて急けともはや悉く引取れは跡におくれし者共三十余騎討取て備前守に注進す備前守聞給ひ今少はやくかけ付なは彼臆病ものゝ承禎を討取へきとのたまひて噇といふてそ笑ひける

織田信長卿浅井長政縁者に望給ふ事信長卿家老の者共を近付軍評定なとして打より給ふ事侍りしか潜に宣ひけるやうは某近年数度敵と相戦ふに勝利を不得といふ事なし当国ははや平均に治め美濃国をも過半手に入たりといへとも江州の浅井長政美濃国へ働出内通する者有と聞又武将となる身の望なれは一度は帝都に旗を立たきと思ふなり面々も随分粉骨を抽て武畧智略をめくらし給へ万事は各オープンアクセス NDLJP:107頼むとそのたまひけるかゝる処に佐久間右衛門尉進出て申けるは御諚尤にて御座候武将としては一度は天下を平均に治め給ひてこそ御名末代にも残るへけれと申上れは信長卿重て被仰出けるは都まての道筋江州に佐々木六角承禎彼者の甥に義秀観音城に侍る是は軍にふき者と聞其上家中思ひ合す同国江北に浅井備前守長政此もの年若しといへとも軍の器量に相当りたると聞ゆ当春も濃州御影寺にて斎藤右兵衛と合戦して右兵衛佐か人持家老共と内意有と聞ゆ美濃国に惣して浅井に属したる兵共多し江州へ乱入攻といふとも年を重ねすは早速手に入かたかるへし此儀浅井をかたらひなは美濃国は早速手間入へからす京都への路次案内といひ何とそ此者を引入るに智略あるへし聞及に長政父むすひ置承禎か家老平井加賀守聟にて有しか此者十六の年妻を平井か方へ送り返し物頭共といひ合父を追込佐和山表へ勢を催し江南勢と野良田といふ所にして取合彼者共を悉追払ひ押領の地を取返しけると聞此者祖父亮政は世に隠れなき弓取なれは定て今に能者あまた付したかひて有へし備前守を敵にしては早速上洛の儀いかゝなり未た此者妻なきと聞よき折からに候へは備前守を聟に取らはやと思ふなり去なから浅井か家中に可然縁もなし面々の其中に便あらはよきにはからへとそ仰ける家老の者共承宜き御巧みにて御座候備前守に先駆させ御上洛可然とそ申けるかゝる処に不破河内守進出て申やうは我等少子細御座候て安養寺三郎左衛門と申者に只今に至まて不絶念比仕候間此者にたより首尾取持候て見可申と云けれは信長被〈[#直前の返り点「二」は底本では返り点「レ」]〉 聞召それは一段の儀なり急き此事可繕と仰られけれは不破河内守江州小谷に到り安養寺に此旨かくと内談す安養寺下野守久政に申上けれは久政は一門家老召集め此儀いかゝ有へきと了簡を請給へは各申上けるは一段宜き御事なり去なから能々被為示合御尤たるへしと同音に申上る先初てなれは重て相談可仕とて河内守をかへしける河内守此旨信長卿へ申上けれは信長卿宣ひけるは扨は浅井も同心と見えたれとも我等か存分引見んと思ふそや急又彼地へ立越首尾かたむへしとて不破河内守に内藤庄助を相添て差越る其時信長卿の仰には此方より縁者に望む上は我身の上にをいては何にても違背候まし美濃国の儀は此方より間近く渡り候へは我等切取へし是非所望候はゝ切取候とも可遣自今以後は諸事相談すへしとて只今は下野守方へ直に被仰越けれは二人の者共は江州に来り安養寺に此旨委申入ける安養寺やかて同道して登城し下野守に右の旨申ける備前守長政をはしめ一家不残同心す下野守久政被申けるは美濃国の儀は此方の手下さへかまひなくは別の子細候まし信長定て当国へ乱入佐々木一家を追払ひ近国なれは越前をも攻らるへし其時長政に先手なとゝ有へきなり彼越前国は数年当国となしみ合殊に亮政代に役に立給ふ家なれは今かく信長とむすひあはゝいにしへの忠功をも忘れたるなとゝ越前朝倉に思はれなんも口惜かるへしいかゝあらんと申されける木村日向守進出申けるは仰尤にて御座候去なから其段能々相断御同心にて候はゝ姫君むかへ給ふへしと申けれは此儀可然とて信長の両使に安養寺三郎左衛門川毛三河守中島宗左衛門三人相添信長卿の許へ遣しける信長対面して某方より相望候縁者になる上は何にても相談次第と被仰けれは安養寺申上けるは長政オープンアクセス NDLJP:108が親久政は年罷寄候へは義深き事を望候只今御前の鑓にては天下は早速御手に入候へし其時越前の朝倉浅井か家へ少子細御座候間越前の国の儀は御かまひなく立おかせられ候はゝ辱可存とそ申ける信長卿は聞給ひ尤なる被申様かないにしへの恩を被存出事神妙なり越前の義景か儀は少も手さしすましきそ心やすかれとそ被仰ける安養寺重て申上けるは有難き御諚なり恐れながら其段御書一通可下置と申上けれは信長やかて誓紙をなされ浅井か使節に被下御暇給はる色々の馳走其外太刀なと申請小谷に帰り浅井か父子に誓紙に口上の趣申上けれは残る所なき首尾なりとて喜悦の眉をひらきけるそれより信長美濃国へ討入美濃一国も平均に治め其翌年の春信長卿の御妹おいち殿を娘分になされ家老には藤掛三河守を相添られ御輿添には不破河内守内藤庄助を相付岐阜の城より出さるゝ御迎には安養寺三郎左衛門川毛三河守中島宗左衛門尉埀井まて罷越小谷へ御輿入にけり此おいち殿は其比天下に隠れなき御生付とそ聞えける其後備前守長政岐阜へ参着いたし御礼可申上と度々申遣けれとも信長卿江州へ来り長政と相談をとくへき事有之間先々此方より一左右あるまて可無用旨に付長政信長への対面は延引せり

 
義昭公江北矢島に移り給ふ事
 
こゝに足利義昭公は南都を落給ひて江南佐々木義秀は御一門の事なれは御頼被成天下御再興可成と思召甲賀郡和田和泉か許へは便りよきによりて先御移被成ける此義秀は佐々木の嫡家なれとも二代以前より若年にて打つゝき早世せしゆへ定頼に国を預置又其子義賢入道承禎おのつから我国となし政事をとりおこなひける承禎父子三好か一家に内意をかよはしけるよし義昭公供奉の細川兵部大輔藤孝聞出し和田か方にも滞在成かたくていかゝあらんと案しけるか爰に江北小谷に居城する浅井は代々武勇の家なり此者御頼被成三好一家の逆徒等を御退治可遊とて先いにしへを思召出されけるか京極武蔵守高秀卿(〈近江守トモ申候や不審〉)の許へ御書被成下けれは此旨浅井に高秀卿被仰けれは畏り存候とてやかて御迎に伺候し小谷の麓矢島野の救外寺にかりに御座をうつし奉る翌日より昼夜のさかひもなく御舘普請を仕り浅井も則小谷より下り人数打囲て警固申奉り御馳走尤つくされける又近国より心ある衆は御見廻として馳走す時の御慰として木の本地蔵上人罷出連歌なと興行し御心をなくさめけるかくて翌年にもなりて御くしもゝとゝりにかゝりけれは御髪を取あけさせ給ひ三好一家の逆徒を亡し給ひたく思召供奉の面々に相談をとけ給へとも江南の悪徒等何方へもつかすして国をさしふさきけれは天下の御大事を浅井引請申上るも身不肖恐れありと思ひけるか義昭公へ申上けるは越前国朝倉を御頼被遊可然と申上けれは尤なりと思召先御一門なれは若狭武田かもとへ御船にて藤孝はかり御供にて御越あり一ケ月程ありて矢島へ御帰被成永禄十年八月中旬に諸勢を前へ引取被成ける其時浅井長政も越前への御案内として御供仕る其夜は越前今庄の宿に着座被遊備前守は義景の許へ此段注進申けれは御迎に罷出則一乗の内安養寺と申寺へ御座をうつし奉り尊崇するといへとも天下の御大事の御役に立へきとも見えさりけりかくて義昭公越前に御座被成候とてもはかしき事有オープンアクセス NDLJP:109へからすと思召其上卜筮をあけられ織田信長卿を御頼可被遊に事決定して細川兵部大輔藤孝上野中務大輔清信に御教書を添られ信長卿へ被遣けれは不斜悦ひて御請申上させ給ふ其後信長卿より義昭公御迎として不破河内守さしこさるゝ又路次の便りよけれはとて浅井備前守方へも義昭公御迎に差越候条其方よりもよきにはからふへしと有けれは浅井も同姓玄蕃允木村日向守同喜内助を不破河内守に相添て差遣しける去程に義昭公越前国一乗の谷を御立被遊同国今庄に一宿被遊翌日江州木の本地蔵の寺に御着座被成地蔵に御祈願や有けん参詣を被成三条定近の太刀一振鳥目等を仏前に備へ給ふ浅井備前守も罷出御供申上救外寺へ御座をうつし奉り父子共に罷出御馳走は限なし救外寺に両日御滞留被成ける備前守御餞別として貞宗の太刀一振銀子五十枚鹿毛馬一疋奉る供の人々にもそれの餞別して当国のさかひ藤川まて一千余騎にて御供仕る信長卿より江州境まて菅屋九右衛門尉内藤庄助柴田修理亮を御迎に被越ける備前守それより御暇申上小谷へ帰り給ひける

  右の次第信長記に詳なり少々の相違を書しるし申候

 
浅井三代記第十二終
 
 
 

この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。