目次
 
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浅井三代記 第十三
 
 
信長卿江州佐和山に来長政と初て対面の事
 

永正十一年七月二十八日に信長卿より浅井備前守方へ使節を以申させ給ふは貴殿数年我等と対面の儀を被申越けれとも路次のたよりもいかゝと思ひ堅く留置候相談を遂へき儀候条来る八日に犬上郡佐和山の城にして対面可申候間内々左様に心得給へと被仰越けれは備前守は佐和山の城主磯野丹波守か方へ被申越けるは信長はしめて当地へ被越事なれは随分掃除等とりつくろふへしとありけれは丹波守畏候とて其催をそしたりける備前守は一門家老召連れ佐和山へ罷越相図の日限にはすり針峠まて迎に罷出て待たまふかくて信長卿は小性馬廻纔二百四五十騎にて出させ給ふ備前守御迎に是迄被出る事不浅とて御感悦不斜先へ被参候へと被仰けるに付長政は佐和山へ信長卿もそれより佐和山の城へ御着座あり備前守には一文字宗吉の御太刀並に鑓百本あちら百端具足一領御馬一疋を引給ふ父久政には黄金五十枚御太刀一振を給はる浅井か家老一門不残御礼申上けれはそれに引出物を賜はる中にも磯野丹波守には銀子三十枚祐光の太刀一振御馬を給はる三田村大野木浅井玄蕃二人には御太刀馬代をひかれけるかくて備前守不斜に悦ひ善をつくし美をつくし御馳走申はかりはなかりけり御酒宴数献めくり幾十歳と舞うたふ翌日小谷の御前にも久しく対面不成候故御逢被成度と被仰則小谷より迎よせ信長も奥へ御入なされむつましく語らせ給ふ其の夜信長被仰けるは備前守長政は義深き仁にて候へは某か方へも可参なとオープンアクセス NDLJP:110ゝおもはるへし只今天下の御大事をかゝへて置なからあなたこなたと日をついやすもいかゝなり明朝は当城をかり爰にて礼をうくへきと被仰けれは長政辞退す信長達て被仰に付其御請を申ける扨其夜は信長長政両人奥へ御入被成夜中密談し給ふ後に承るに箕作攻手の事三好退治の御談合諸事義昭公の御上洛の御相談とそ聞えける翌朝は長政父子を信長卿佐和山の城にて御振舞なり其時長政は家重代の備前兼光の太刀名を石わりといふ一腰近江綿二百把同しく国の名物布百疋月毛の馬一匹定家卿の藤川にて被遊し近江名所つくしの歌書二冊進上して御礼申上る父下野守久政は太刀折紙にて常ある通のさゝけ物一門家老それのさゝけ物にて御礼す長政よりは今度信長卿供の者共に不残あらみの太刀脇指をひかれける今度信長卿へ進上せらるゝ備前の兼光の太刀は亮政秘減せし打物なり備前守より備前兼光を信長へ送られしは備前守長政信長の為に滅亡せられし前表なりとは後にそ思ひゑられたるかくて信長卿は濃州より兼てたくまれし事なれはさまの珍物を相とゝのへ其日終日のもてなしにて残る所もなかりしうへに信長卿長政の家老共に宣ふは面々よくきかれよ長政かく某か子分に罷成上は日本国中は両旗にて可治随分粉骨を抽てらるへしさもあらは各を大名に取立へしとさもありけに仰られけるかくて翌日十一日には佐和山浦にて大網をおろし御馳走有しに鯉鮒其外の魚類夥し信長卿御感尤甚しくして美濃にしては如此なくさみはあるへからすことさら当国の名物なれは御帰城にもたせらるへきとそのたまひける其夜備前守と内談ありて翌日佐々木一家の者共方へ先心をうかゝひ見はやとて義昭公の御使節に信長私の使相添申入給ふは京都の逆徒三好を追罰被成度思召に付某其仰承候て此地迄罷越候御味方に参るへし本意をとけらるゝにおひては無二の忠節たるへき旨申入させ給へとも曽以御請申さすおし返し三度被遣けれとも終に承引せされは重て軍勢を率し攻へし長政も勢をもよほし出張せらるへき旨堅く契約まして十日あまり御滞留被成同しく二十日に岐阜へ御帰座可成と有けれは御名残の酒宴数刻に及し故に其日は柏原の常菩提院に御一宿と相定て長政もすり針峠迄御送り申されしとなり領分の事なれは御馳走にとて遠藤喜右衛門尉浅井縫殿助中島九郎次郎三人承りにて彼御宿所に馳参し御座の用意をつくろひける

 
遠藤喜右衛門尉小谷へ馳帰る事
 
かくて信長卿は常菩提院へ御入被成此地は長政領知なれは御心安くおほしめさるゝとて御供の侍共は町屋に置給ひて御近習の小性衆当番役の共者はかりにておはします去程に遠藤喜右衛門尉は馬にむち打もろ鐙にて小谷へ馳帰り長政に逢ひ一間所にて申けるは此中信長卿の様体見奉るに物毎に御気をつけらるゝ事誠に猿猴の梢をつたふか如し発明なる事鏡に影のうつるか如くなる大将なり御前行末まて信長卿の御気にあはせ給ふ事なりかたかるへし所詮只今此地にて御討被成事御尤と存るなり信長卿はいかにも打解させ給ひて馬廻の面々も皆宿々へ返し給ひて御傍には小姓当番役十四五人ならてはこれなし御同心にて御座候はゞ私一人として討奉るへし急き思召立給ひ御人数被出二百余騎の侍共悉討取其いオープンアクセス NDLJP:111きほひに濃州岐阜へ押寄する物ならは大将はうたれ給ふなり残る武士共は皆味方に可参然らは尾張国も早速に御手に入可申其いきほひを以て佐々木一家を追払ひ都に旗をあけ給ひ三好を追討に被成に何の子細の候へきと一口に申上けれは長政は聞給ひ遠藤か詞も用ゐすのたまひけるは信長我等を心安く打とけ親子の如くにおもはるゝ故人数もめしつれすして当国に永々滞留したまふなり是非可討と存なは此中佐和山にして一刀にさしころすへきは安けれと武将となる身の心得あり謀を以て打は是をゆるす頼みて来るを打事是をゆるさす今信長のことくに御心もおかせ給はすして居給ふを打なは一旦利有とも終には天のせめをかうふるへしと宣ひて少も同心し給はねは遠藤は承り後には御悔み草ともなるへきなりよく御思案被成よとて又引返し柏原に懸つけさらぬ体にて御馳走申上翌日関ケ原まて見送り奉る
 
信長卿朝井長政入洛江南落城の事
 
備前守長政は信長卿より御入洛の日限兼て示合せし事なれは留主中国中の仕置申付永禄十一年九月六日に佐和山の城にいたり信長卿を相待処に江南所々の城主共浅井方へ通して信長卿の御味方可仕といふもの多し其比江南には承禎子息義弼事の子細候て後藤父子を討し故家中我かちになり箕作をうとみはてたる故浅井を頼み来たる者数をしらすされとも家老分は義を守る故か三好に心をかよはしけるゆへにか降参すへき気色もなしかくて信長卿は御入洛有へきの間加勢可成の段被仰遣けれは家康卿より小笠原与八郎に二千余騎の勢を相添上せらる信長卿も尾州濃州三州の三ケ国の勢をかりもよほし同しく八日居城岐阜を御立有けれは先勢は江州醒か井柏原に着陣すれとも後陣は濃州地をはなれす人数みちたり急き給へは其夜は江州浅井の領内常菩提院に本陣をすへ給ふ翌日佐和山の城へ打入給ひ人数くはりを浅井と相談ある浅井当国の事なれは兼て案内残所なし一々御指図申上らる重て信長卿のたまひけるは長政は観音城の押へを可仕と有けれは畏存候併我等の者共は爰許の案内よく鍛練仕候間攻手を一方被仰付候へかしと申上られけれは信長卿観音城のおさへ大事と浅井存する故如此申と思ひ給ふか其儀に候はゝ箕作を攻らるへしとそ仰ける浅井其時の内意は佐々木六角の家には代々久敷当国に任せし家又は只今信長と縁者によりさへきつて働とおもはれんもいかゝと思ひ給ふゆへなり一には一戦おはりなは中和をつくろふへきとの所存なり度々此承禎とは相戦ふといへとも同国なれは情深くそおもはれける

  箕作落居の次第信長記にあらまし出申候ゆへ畧仕候

 
浅井江南の路次の押へに箕作の城に籠る事
 
かくて信長卿箕作の城観音寺の城長光寺の城八幡山の城を初め打破り通り給へとも承禎は愛知郡鯰江の城に楯籠る其外所々山々に楯籠る所の城主其数を不知しかりといへとも信長都へ御急き被成故先道筋計を追払ひ同しく二十三日迄観音城に逗留ありて長政に被仰けるは承禎父子の逆徒三好と兼て何事を計置もしれさるなり其上義昭公の御供仕某上洛せオープンアクセス NDLJP:112は近所なれは相坂辺へ馳集り前後を可包と計置もしれされは貴殿は箕作の城観音城両城の留主を頼なり跡に残り江南の城持共を味方にまねくへしと被仰けれは長政承り被申けるは仰は尤にて御坐候へとも今度の御大事の供にはつれ申事残多し是非上洛をと望給へとも信長達て仰けるは当国の残徒所々に楯籠る間無心許存るなり偏に頼とおほせけれは長政は其勢六千余騎にて箕作の城観音城両城に楯籠り佐々木か残党をまねき寄るかくて信長卿は京都制法事故なく取行ひ給ひ其年の霜月下旬に帰国したまふ又観音城に入たまひ一日滞留被成長光寺の城に柴田修理美作の城に木下藤吉郎に与力数多相添入かへられ浅井は本城小谷へと被帰ける
 
長政上洛二条喧嘩の事
 
斯て京都本国寺におはします義昭公の許へ三好か一家正月三日に押込て急難にあはせ給ふ旨岐阜へ注進有しかは信長聞かけに馳上り給ふ浅井も聞よりはやく上らるゝ間信長卿よりは一日先へ打て参着すされとも将軍恙も渡らせ給はすして寄手悉敗軍する故長政ば清水寺成就院を宿坊と定めて居給ひける信長卿も同しく十日の日御上着被成一条妙覚寺を御宿坊と被遊けるに洛中の名人等我もと縁を取御目見申上る信長卿御前へ召出され対面し給ひ被仰けるば清水寺に着坐する浅井備前守長政は我等か大切に存するむこなり彼者か方へも見まはれよと被仰けれは浅井威勢はつのりけりかくて信長卿将軍義昭公へ被仰上けるは今度の急難に被逢候事も偏に御坐所あしき故なり今度は本の御所を普請可仕と被仰上則畿内近国の人歩を入二条の御所をは四方へ一町つゝひろけ可申との評議なり御普請は信長卿と長政と両将として請取給ひける則信長卿の奉行には佐久間右衛門尉柴田修理亮森三左衛門に弓鉄炮者相添らる浅井方の奉行には三田村左衛門大夫大野木土佐守野村肥後守三人に申付らるかくて去年浅井箕作の城の攻手の時働にふく候故信長卿の弓鉄炮の者共浅井足軽共を内々雑言す又奉行に付居る者共も是を聞内々無念におもひしに佐久間右衛門尉丁場より三田村左衛門大夫か丁場へ水をかへ込候処に左衛門大庆か侍是を見て某か丁場へ水をかへ入る筈にて候や子細可承と申けれは佐久間か侍共申けるは其方の請取の丁場へすてすして何方へ持はこふへき何浅井のぬる若か者共とていよ水をかへこめは浅井か足軽共は聞かねて三百計一度に簀の棒をはつし佐久間か者共とたゝき合けるか浅井か者共つよくして佐久間か者共を追立るそれよりして森佐久間柴田見かね打物のさやはすしかゝれと下知をする浅井方にも兼て無念に思へは三田村大野木野村三人一度に切てかゝる追つ返しつすはたにて戦ふたりかゝりける処に浅井か侍共聞かけに集り森柴田を立売堀川迄追立る又信長の物頭共にも聞かけに出合浅井か勢を二条迄追下す又浅井か荒手二百計馳来り信長の者共を立売迄追立双方相引にのきにけり其時両方にて討るゝ者百五十とそ申ける野合の合戦にもか程多くは討るましきにかく大きなる哨嘩は候はしと京中にての評議也森柴田は信長卿の御前に伺候して右の次第を甲上浅井に御目見せよきゆへ如此の狼藉仕候間今度は浅井に一入付可申と御訴訟申上る信長卿喧嘩の次第一々御吟味被オープンアクセス NDLJP:113仰けるは去年箕作を攻る時浅井かふりにふきゆへ汝等か者共雑言かな申つらん浅井か家は弓矢取てほまれあるそかさねてもかまへてかさつなる事申かけ不覚を取なと被仰てさらぬ体にておはしましけれは森柴田も信長卿取上させ給はねはいきほひかゝつて居たりし者共もせん方なくてそ居たりける浅井此喧嘩の旨を聞自然信長方より人数を可寄かとて清水寺に人数の手あてをしてそ居たりける翌日に公方より信長浅井両人か者共和睦可申付とて御宿坊に被仰付各和睦したりけるかくて普請成就して公方御座をうつされける公方わたまし信長記に詳なり
 
浅井備前守心替りの事
 
徳川家康卿年始に御上洛ましませは御同心なされ越前国へ発向有へきと内談し給へは森三左衛門尉坂井右近と申上けるは御諚の通尤には奉存候へとも此由浅井に御しらせ候て其上にて御進発可然御坐候はんと申上る信長聞召浅井にしらせなはよし越前を攻よとは申さし其上朝倉のぬく若は我等方へ使節をも越されはよも此信長に属せんとは申ましとかく浅井か方には案内なしに越前を攻る事勝手よかるへしとそ被仰ける森柴田重て申けるは浅井恨はいかゝと申上けれは我等とは親子の間なれはいかて思ひかへんとて元亀元年四月二十日諸卒引具し西近江路にかゝつて若狭路に出させ給ひ手筒金崎の城を攻給ふかくて此旨浅井下野守久政聞付子息長政の舘へ行近習外様の者迄もよひよせ申されけるは今度信長此方へ一言の案内にも不及して越前へ攻入手筒の城を攻取たると聞えたりといふそいつれも其段聞つらん越前を攻取其引足にて定て当国へみたれ入一門顔にて当城へ馳来り可攻との事なるへしとかく越前の国の堅固なる間に越前と一味して信長を可討なりと申出されたり子息備前守をはしめまいらせなみ居たる面々とかくの言語もなくしつまりかへつて居たりける久政重て申されけるは信長の軽薄者は先年長政緑者になる時に天下平均におさむるとも越前の国の儀は浅井か指図にまかすへきと堅く誓紙をかゝるれとそれをも事としたまはす越前へ踏込て今かく攻らるゝ人なれは頼かひはあるへからさるそ備前守と申されける長政心に思ひ給ふは今かく信長は国多く攻取虎狼の勢をもあさむく程の威なるに義景と同心して信長を可討とも不覚とかくの返事もしたまはねは遠藤喜右衛門尉進み出て申けるは長政公の御意なきこそは道理なれ双方御背被成かたき所なり併信長卿は最早只今は美濃尾張三河伊勢若狭当国丹後五畿内の主として発明なる大将なり越丽勢と此方の御勢を以て信長を討奉らん事憚多き事なれとも越前は先代に恩ある国の事なれは誰なりとも人持衆に御人数相添られ一千計も御加勢候て其上にて無事を御つくろひ可然と推参申す野州此旨を聞大に立腹して申されけるは汝等末坐の侍として推参申様かなとあらゝかに怒り座敷を立てそ被帰ける長政も家の子も此儀いかゝと案しける赤尾美作守下野守方へ行申されけるは只今信長の越前を攻給ふ事は尤なりゆへはいかんとなれは信長上洛度々なるに義景より一度も使節なし近国悉信長御手に入候に我々は搆なきとおもひ其礼儀もなき事立腹したまひ攻らるゝ物にて御坐あるへし遠藤か申如く磯野丹波守に被仰付信長へ万事オープンアクセス NDLJP:114の御かまひなく御見廻に被遺此越前国は浅井か家に恩ある国にて御坐候間其表へ罷出不申候と被仰遣尤と申けれは久政立腹して汝等迄も左様に義の違ひたる事申か所詮此年寄にしは腹切との事なるへしとて身をもたえ怒ける中にも浅井石見守木村日向守なとは久政の御意ある旨も尤なり信長に付奉るとも行末頼母子くも不覚候間越前へ使者を立よく牃し合せらるへきと同音に申せは久政も時の急を逃るへきとゝかく天運の末と思ひ切其儀にて候はゝ長政の仰にはとたかひ可申上候へとも此朝倉はかしく働出る事なるへき人と不思候間諸事対陣の義は此方指図可仕候間あしかるに駆引せらるへき旨久政公よりよく仰遣然と宣へは久政やかて同姓福寿庵木村喜内助を越前一乗谷朝倉の許へ申遣されける両使越前にいたり義景へ書札相渡しかくと申けれは義景大に喜悦して一門家老近付浅井書札の通よみ給ひ誠に浅井父子の心底は金鉄ともいつへし先代の恩を思ひ出て現在緑者の信長をそむき某に組すへきと申さる事古今稀なる弓取かなと満坐一同に感悦す其後両使朝倉へ申入けるは信長此表を引取給はゝ江州小谷へ取かけらるへし其時節早速御出馬被成矢島野にして無二の一戦を被成信長を討取御分別肝要にて御座候と申ければ何時なりとも一左右次第即時に馳付可申とそ申ける浅井両使左様に思召候はゝ誓紙を一通可給と望みけれは義景も此際に候へは望所の幸と被存長政父子指図に違背候はしとてやかて誓紙を出されけるそれより両使小谷に帰り義景一家の誓紙をさし出す久政父子一門家老よろこひは限なしかくて長政申されけるは先年信長と縁者になる時誓紙越され候なり明日為持候て返すへし其者に引つゝき山中道を差ふさき越前勢と近江勢として前後を取切包討に可討とありけれは久政此由を聞いや其儀に非す義景と相談しよきつほへをひきよせ心静に可討なり此度人数出す事堅く無用と制しけれは長政力及はすして信長卿より内室の家老として付越さるゝ藤掛三河守熊谷忠兵衛を相添信長卿の許へそ遣しけるかゝりける処に信長卿の御前には浅井謀叛の旨取々評議すれとも長政やはか心替せしと御承引をもしたまはねは御前なる人々慥に左様に申なとゝいひもはてさるに藤掛三河守熊谷忠兵衛両人右件之誓紙を返上申上浅井口上の趣申上けれは信長卿をはしめ宗徒の人々上を下へと周章き十方にくれておはします信長既に御腹めさるへきとて御身をもませらるゝ処に徳川家康卿信長卿の御前に進み出させ被仰けるは無勿体御事なり命を全して敵をほろほすこそ良将ともいふへけれ御腹なさるへきとはあさましき御心底なりと忠諫をなし給へは信長卿は聞給ひ御辺仰らるゝ事はさる事なれとも我等足永に出張し敵の中に居るといひ難所は前後にかゝへつ浅井か方より人数を出し切所のつまりに立置鳥も通ふ事なるへからす当国勢につゝまれ賤敷者の手にかゝらんよりは心しつかに腹切へしとて御手に汗を握り給ふ家康卿重て被仰けるは今度の議は某次第に可遊先某若狭路より西近江路へ懸とほり様子を見候へし某難なく通りなは敵なきと思召追付引取給ふへし若江州山中辺に敵出合なは其所より一左右可仕其時は御分別次第になさるへしと被仰けれはともかくも御辺次第とのたまへは路次中の事かたく手筈を御申合越前敦賀を御立被成若狭路へ懸りオープンアクセス NDLJP:115それより江州山中を過給へ共敵一人も出されは舟木の浦へ着給ひ其村の長多羅尾治郎大夫を深く頼ませそれより御舟にめされ南近江佐津磨浦へ上らせ給ひそれより千種越に濃州つやせいしへ出三州岡崎に帰城したまひける

越前敦賀表しつはらひの次第信長卿帰国の次第以前信長記の抜書にしるし差上申候条畧仕候

 
浅井朝倉を呼出すに不出事重て使を遣す事
 
かくて浅井備前守長政は物頭共をよひ集め軍評議して申けるは信長越前を引取京都に逗留と聞えたり就其江南佐々本承禎も所々の味方を駆催し信長帰国を相待といふ是よき幸なり越前の朝倉左衛門大夫義景をよひ出し彼を同勢として濃州へ切入岐阜を即時に切落し申へし其時信長馳帰可申江州路へ被来ものならは佐和山表にて可戦伊勢路へかゝりなは濃州の内おこし洲の股にて可戦此儀利有へしと相談をこはれけるに一座同音に尤と請たりける左候はゝ越前へ一左右すへしとて川毛三河守浅井福寿庵を指越さる両使越前に至り義景へ軍の段々申入けれは義景も一門家老打寄評定とりなりやゝあつて家老共申けるはいかに信長留守なりともはる美濃路へのり出し敵に跡先をつゝまれなはいかにたけくはやるとも利有へきともおほえすよく御思案可成と口々に申けれは義景もけにもとおもはれける中にも魚住玄蕃山崎長門守進み出て申様には何も家老中の御分別尤には候へとも軍と申ものは昔より今に至る迄手きれたる事候はては勝利すくなき物にて御座候と開及ひ申候其上浅井信長に敵をし味方に組せし事頼もしき心底なり是非思召立給ひ浅井と示合一戦とのそめとも残る人々は少も承引なかりける故浅井方への返事には信長定て貴殿の御居城小谷へ押寄らるへし其時当国より大軍を率し二手に分ち中道上道双方へ押出し後巻をすへきなり其時城中より切て出切所へ敵を引うけ攻戦はゝ勝利これに過しと被申越出張はやみにけり浅井か両使小谷に帰此段を申せは長政は聞給ひ義景の心底もしれたりかくのひに捨をかは信長の物はやき大将に討勝事は十か一も不覚父の仰といひなからよしなき人と組せし事家運のつくる所なりと立腹かきりはなかりけり其後又木村喜内助と赤尾兵庫を以て義景の方へ申されけるは信長下着被申候はゝ追付当国へ可乱入候条加勢可給国境に要害を拵入置関ケ原表にて相さゝへ可申と申遣しけれは其時は浅井使の趣尤なりとや思ひけん朝倉式部大輔三千余騎にて小谷へ来るやかて江州と美濃の国のさかひ長久山苅安に要害を拵越前勢三千朝倉式部大輔大将にて籠置る同しく今洲口長亭軒の要害をかまへ堀次郎を籠置る此次郎父の遠江守病死して次郎当年八歳なれは家老の樋口三郎兵衛兼益と多良右近楯籠る多良も堀か家臣なり近所本郷の城には黒田長兵衛尉を入置たまふ右の城の根城として横山の城には三田村左衛門大夫秀俊大野木土佐守国定野村肥後守貞元同兵庫頭直次彼等四人を籠置濃州より江北への通路をさしふさきてそ置給ふ
 
浅井三代記第十三終
 
 
 

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