目次
 
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浅井三代記 第十
 
 
大橋安芸守秀元切腹事
 

大橋安芸守秀元といふ侍は亮政と竹馬の友にて互に魚と水とのことくなりしゆゑ亮政謀叛思ひ立し砌にも伊部清兵衛尉大橋善次郎両人にこそ申合て上坂の城を乗取けれ亮政代にては二人ともに左右の臣となりていつれの浅深もなく大切に思はれし人なれとも伊部清兵衛尉は美濃国赤坂表にて討死す今は大橋安芸守はかりなり亮政病中にも此大橋に任せ諸事可相計と子息下野守久政に遺言せられしかとも久政父におくれてより後日々私につのり弓馬の道をわすれ山野にのそみては鷹狩なとを業とし海河にいたりては漁を事とし遊山翫水に長しけれは大橋安芸守異見再三其数をゑらす諫言すれとも一として終に用いされは秀元をはしめ家老の面々あくみはてゝそ居たりけるある時久政つら物を案するに今江北には我をさまたくる者なししかりといへとも安芸守秀元は皆人もおそれ我にも毎事異見を加へこれのみ心にかなはぬなりそのまゝにおかは身のあたとなりさして可言立科のなけれは年月程ふりて有し処に秀元ある時己か知行所三河村へ行鷹狩をし休息して其後在所尊照寺村の屋敷に普請を申付て居たりけれは久政是こそよき幸と思ひ赤尾与四郎同美作守海北善右衛門尉雨森弥兵衛なとを近付聞は大橋安芸守は己か知行所へ引籠り其上尊照寺村に夥敷城普請を拵けるとよ我潜に此子細を相尋ぬれは謀叛の企と申者有之彼を其儘置は国の大事となるへき也急きふみつふすへしとのたまへは赤尾美作守進み出て申けるは誰人のオープンアクセス NDLJP:91左様の事を御耳に立申候や皆それは偽りにて御座候かつて以て其沙汰これなく候と申上けれは久政以の外に怒てさあらは各列座の面々も秀元と同心にて浅井か家をさまたくへきとの心底なるへしと身をもんて立腹せられけれは其上には誰か達てとかふと言者もなし重て伯父の大和守を近付右の段々潜に相談し給へは大和守は尤と同心せらる此故は秀元と内々小関合戦の砌より勇気をあらそひ中悪敷に付てなり去程に天文十七年三月九日の事なるに秀元を小谷の城へめしよせらるゝに大橋聞て今度我をめさるゝ事は不審なり定て可討との事なるへしと心得子息善次郎生年十八歳に成けるを近付只今我小谷へ被召事別の子細にて有まし久政の行儀悪敷度々諫言を申すゆゑ忠言逆耳とやらんそれを立腹しての事なるへし我此屋敷に取籠りぬくわかに目をさまさせんは安けれと亮政の恩深くして最期まて跡の儀を頼むとて人こそ多きに末期の盃まて取かはしけれは今一戦にも及ひなは種々異見せし事も皆いつはりとなるへし所詮自害にはしかしとて久政の嫡子新九郎いまた其時は猿夜又と申て当年四歳になり給ふに書置一通家老中へ一通認て被置けるいつれも国の制法浅井家の治様を事細にそ書れける其後父子同道してつねにかはりわつか供人十四五人にて小谷へ登城し久政に対面し一々次第を申分けれは久政言句につまりしかとも此者を其まゝ置ては身の上いかゝとれもはれけれは是非に可誅との存念なれは先重て子細吟味すへきそそれまては氏寺へ召籠て置よとて大吉寺に入置る同十五日に秀元親子ともに切腹をしたりける永正十三年の比より亮政に付随ひ日々夜々の取合に一度として場所をかゝさす一人当千の大剛の勇子とは是ならん今久政にむかひ無理に命を捨けるも国のさはきをおそれめしにしたかひて参り腹切事亮政に心入深く厚恩おもひし故なり国民おしなへてをしまぬ者はなかりけり去程に国中の諸侍えたしき中と寄合て扨も頼もしからぬ久政かな行々は我々の身の上とてもかくこそあるらめとて次第にうとみ果て小谷への出仕は遠さかるやうにそ成にける

 
海津信濃守政義謀叛の事
 
高島郡海津信濃守は同長門守政元か為には伯父なれとも長門守は嫡家にて海津の城に信濃守は大溝の城に住して居たりけるか政元に遺恨有て中悪敷旨志賀郡佐々木民部義時是を聞ひそかにかたらひ江南の旗下に引入ける故甥の長門守小谷へ右の旨注進申上けれは浅井下野守驚き早速是者可討とて長門守に加勢として浅井玄蕃允政澄赤尾与四郎清定安養寺三郎左衛門尉経世東野左馬助行成を宗徒の大将として都合其勢八百余騎天文十八年四月三日に小谷を立同四日に海津へ着長門守先手として大溝の城へ同五日に押寄る志賀郡より佐々木加勢して城の中より討て出源氏浜に日か間戦へとも互に勝負は見えさりしか中にも大溝の勢つよくして同十日浅井勢大に敗れ海津まで引取ける又十四日に海津より人数を出し相戦ふ所に其時は大溝勢城の中まて追込れける去程に浅井勢気を得て惣かまへまてれしよする佐々木民部五百計にて時分を見て城の内より童と切て出れは浅井方たまらすして源氏浜まて敗北す其後新庄の法泉坊俊長は近所伊黒の城主なりけるに噯を入双方勢を打オープンアクセス NDLJP:92入ける元来信濃守は久政に恨はなかりしかとも海津長門守に遺恨ある故の謀叛なれは長門守か旗下をのかれんとの事なり然るゆゑ法泉坊俊長佐々木民部を種々に宥め又海津長門守を種々断り旗下をのかれ小谷への直衆と可成段信濃守に申聞せけれは同心して長門守信濃守両人ともに小谷へ伺候し中和をそしたりける皆人口に申けるは亮政相果給ひていまた三年も過さるに亮政聟長門守に耻辱をあたへ信濃守を旗頭にしたまふ事下野守心底おしはかられてあさましく末々よからぬ中和とて人皆是を嘲りぬかくて佐々木民部此一件に付高鳥郡の諸侍と中あしくなり互の通路もせさりけり
 
長政妻を送る事
 
浅井新九郎長政と申は井の口殿の腹にて下野守久政の一子なり未た御年十にも足らせ給はねとも家中にて名のある者の方へは行会釈をなし家の老に近付ては祖父亮政の軍の様子を尋ね武士の働を聞朝夕耳を傾けいにしへをのみしたひ給ひ又父久政にうらみをふくむ者の方へ行ては心をなため其次第作法中々申もたろかなる事ともなれは国中の諸士よのつねならぬ若君なりとて尊崇する事父久政に越たり其時の京極殿は武蔵守高秀と申せしか長政の七歳まておさな名を猿夜又と申ける其時分よりいたはり給ふ事我子よりも勝りてけり此若君若年なりとはいひなから父下野守の作法一として御心にかなはせ給はすそれ故に久政も我子なから新九郎は父の命にしたかはぬとて手習学問に事よせて小谷の内清水谷の明王坊へ一年余り追込置給い父と対面はなかりけるか家老の者共をはしめまいらせ国中の諸士下野守への出仕より此長政の方に仕へ奉らんとそ申けるまことに此人は万事の行儀心つかひ見奉るにも祖父亮政の心はへに少も不違候なり浅井の家可栄吉兆なりとてよろこはぬものはなしかくて新九郎十二歳の時父久政寺よりよひ返し対面す其後長政十三歳の冬父思案に江南江北大永年中より無事になり国も豊かに治るなりゑかりといへと合戦といふは時に至りて出来る者なり又江南より如何様なる事も出来候はん所詮江南と結ひあははやと思ひ江南佐々木家の老臣に平井加賀守と言者は江南にての剛の者佐々木とも縁者なり此者の姫一人養女にして長政と一所にせんとこはれけるに平井も同心してけり此姫容顔無双なりとそ開えける其後に永禄二年正月新九郎年十五歳なれは備前守長政と名を改め右の平井加賀守か姫とめあはす其時に久政理不尽に縁を組せける去程に江北江南共に一統に祝言の出仕をそ勤けるかくて翌年の春浅井家の老臣後見の者とも久政は御隠居なされ長政へ御家督相つかせられよかしと達て一同に訴訟す其故いかにとなれは久政には士卒思ひつかす其上此間にも小せり合なと所々にこれあるといへとも江北諸卒は不働して所々を押領する者多きなり然るゆゑ種々相断候といへとも同心なし其年四月長政江南へゆかれ平井と親子の盃せられよと久政被申候に付其催し侍れは長政遠藤喜右衛門尉浅井玄蕃允なとを近付て申されけるは我佐々木か家臣平井加賀守聟となるさへ口惜存いかゝと思ひ候へとも父の命の背きかたくて過せしに今剰へ江南へ立越平井と親子契約を可仕との儀以の外の所存なり惣して弓馬の家に生を請るよりしては其治乱の首尾を窺天下に旗をあけ武門の棟梁をも心かけオープンアクセス NDLJP:93てこそ武士の本意なるへし其一国の内をさへ治かね平井なとに縁を組事前代未聞のまはさなりとかく平井か娘を送りかへし可申かと思ふなり家老の者共にも内意を汝等両人曲さに語りてたへと被申けれは玄蕃允も喜右衛門も御尤とそ申けるかくて此旨家老共に潜に語りけれは尤と云者もあり又国の騒動なるへしといふ者もありてしはらく相談決定せす其中に赤尾与四郎同美作守木村日向守なと相談して兎角久政へ此事案内なしに可送返江南へは誰か可遣とありけれは長政玄蕃允喜右衛門両人興そへに相定永禄二年四月初に縁を切平井か方へ被送遣る平井大に驚き立腹限りなしこの時より南北闘争の初とそなりにける下野守も立腹して長政と親子御中あしくなりそれよりは家老共と久政物ことすれになり給ひ小谷の体見分かたくそなりにける
 
高宮合戦の事
 
かくて佐々木六角定頼は去ぬる天文二十一年の春病死したまへは子息修理大夫義賢の世となり江南の仕置等取行ひけるに江南江北定頼亮政両将雌雄をあらそふ事度々に及ふといへとも終に勝負なくして双方対陣にあくめる時節なれは三井寺山門より噯を入双方中和となり国もゆたかに治りけるか当四月中旬に浅井長政平井加賀守か娘を送りけるにより平井は面目をうしなひ遺恨鉄心にとほりけれは大将義賢に近付御人数を被出領分を可切取とすゝめ申こそうたてけれかくて平井江北の侍久徳左近大夫に由緒の縁あれは久徳か方へ行種々に謀叛をすゝめけれは久徳平井にたより恩賞の地を可申請と内意に思ひやかて江南へ御味方可申入とて人質を遣しけるそれのみならす高宮三河守を彼か縁を以てすゝめけれども同心せされは時節のはしてはかなはしとや思ひけん久徳は平井かもとへ行右の旨申に付平井心得たりとて箕作の城へ行子細を一々申けれは義賢聞給ひ久徳を味方に引入る事領地さかひといひ佐和山の城を可攻に便りよしとてやかて旗頭共に相談ある中にも両藤進み出て申けるは御人数先高宮へ被出三河守を攻給ふへし佐和山の磯野丹波守は人持なり其上攻取かたき城なり又小谷下野守久政は親亮政には器量大きに生れおとり候条人も思ひ付候事ある間敷なり然れは此方へ討むかふと云ともはかしき事あるへからす佐和山近辺の城主共を攻取此方より御人数大分に入置は佐和山はむしおとしにおのつから可落なりと申に付さあらは人数を可出とて永禄二年六月上旬に其勢一万余騎にて高宮の城へそ押寄ける高宮思ひよらさる事なれはあはてさわきけるされとも高宮も勇気を励まし少もさわく体を見せす防きける佐和山磯野丹波守一千余騎にて高宮表へ出六角勢と入乱れて戦ひける久政に此由注進申せは大嵩に狼煙をあけ給へは人数暫時に馳集り六千余騎にそ成にけるそれより久政軍評定して阿閉淡路守中島宗左衛門木村日向守なとにむかひ手立を相談したまへは列座の者共申けるはそれは敵のむかはぬ以前なるへし只一刻もいそき給ひて対陣可然と申せとも既其日もむなしくなるかくて高宮の城を義賢の子息義弼請取攻給ふ父義賢は高宮の町はつれにて磯野か勢ともみ合せてたゝかふ磯野も大軍にかなひかたくして久政の出馬を相待に其儀なけれは己か城へ付入にせられてはいかゝと思ひ次夜人数を佐和オープンアクセス NDLJP:94山へ引取ける高宮三河守頼勝は磯野丹波守員正引取ぬれは今は其甲斐なしとて義賢に降参し城を開てそのきにけるそれよりして江南勢勝に乗り明日は佐和山のわき太尾の城を可政とて人馬に息をそつかせける又江北小谷へ佐和山近辺の者其方より注進櫛のはを引かことくに度々にかさなれは久政小谷を翌十六日に其勢六千余騎にて打立給ふ急かれけれは先勢は小野の宿鳥井本に着陣すれは本陣は梅か原にそすゑ給ふ江南勢は高宮に人数を段々に備へ一戦はけますへきとの気色なり明れは十七日に丹波守は大将出馬を待うけ佐和山より一千にて討て出て久政の先手をそしたりける二番堀遠江守三番阿閉淡路守と定て高宮へ討むかふ江南勢久政不来先に高宮の城は乗取ぬ勝に乗たる事なれは磯野か一千余騎と平井加賀守とはや鑓を打入戦ひしか磯野勢つよくして平井を難なく追立て後藤但馬か備の中へ討入後藤か人数荒手なれは磯野か勢を又追返すそれよりして味方も敵も入乱れ爰を先途と戦ひたりかゝりける処に右衛門督義弼一千計まて横鑓になつて面もふらす突かゝれは江北勢防き難くして敗北す久政此由みるよりも手勢五百計にて佐和山指て引給へは江北勢大将引給ふうへは力およはす佐和山指て引にけりすてに其日も二時の戦ひなれは義賢も高宮の城へ人数を引入給其日江北方三百余うたれぬれは江南勢も百五十うたれにけり翌日十八日に義賢は大きにいさみて佐和山の南芹川まて人数を押寄給へは佐和山にも討て出互に足軽合戦少々してあひしらひてそ置にける義賢何とか思はれけん人数箕作さして引取給ふ久政も人数を引連小谷へそかへられけるかくて備前守長政は今度久政殿の御勘気の御ゆるしをうけ合戦の御供仕度由木村日向守を以て度々のそみ給へとも終にゆるし給はすして味方敗北に及ふ事聞給ひ身をもんてそ怒らるゝ久政帰城したまひて物頭共近付て被申けるは我親亮政代にては伊部大橋赤尾海北雨森其外大名分は申にたよはす敵に幾度むかひても一方討破らすといふ事なくて他国まても其名聞えし者共年寄れはをくるゝものと見えたり今度の軍に江南勢に味方破らるゝ事偏に江北の侍共皆老したると申もはてさるに赤尾美作守清綱進み出て申けるは兎角武者と鷹は使手によるものにて候武者のわさにて更になし大将により申候今も亮政公ほとの大将候はゝ我々もいにしへに気力少もおとり不申候共唯大将武者のつかひやう御存なきゆへにおくれを取り耻く御座候と荒言すれは久政兎角の言葉もなく機嫌をそんしておはします列坐の者共も能申たるとは思へとも大将に当座の耻辱をあたへしはよからね美作の荒言かなとて後々まても沙汰をするとなり
 
義賢勢太尾の城を夜込に乗取事新庄駿河守心替の事
 
かくて去ぬる六月高宮合戦の後南北共に互に本陣へ勢を入けれは物静にそなりにける比は七月中旬の事なれは在々所々の者共大皷鐘にて躍けれは何方もものさはかしくそ聞えけるに義賢は平井目賀多後藤吉田四人の者共を近付被申けるは江北勢佐和山表を引取皆休息したると聞えたり定て太尾の城にも人数多くは籠るまし此節なれは在々所々躍をしてものさはかしきなり能図にあたりたれは此方より人数二三千程出し佐和山を二千程にて押へさせ高宮久徳に案内せさせ浅妻の城と太尾の間へ高宮久徳両人に後藤相そへ押へ置太尾をオープンアクセス NDLJP:95明夜乗取へきはいかにと有けれは尤よろしかるへし四方の小城とも御手に入なは佐和山はおのつからむし落しにいたすへしと久政のうちかふとを見て相談一図に極れは同七月十四日に箕作より後藤を侍大将として三千余騎にて討立愛知川村にて日の暮るを待夜五つに高宮へ入其夜の丑の刻に二千余騎にて佐和山に押へ置浅妻の押へに久徳高宮後藤相副太尾の腰をしのひぬけ目賀多平井吉田三人皮の城へ取つめけれとも城中油断して是を知らす番矢倉共に火を放ち鬨を噇とあくれは城中俄に驚きいかにとはかりにて防へきやうもなし其月の城番ば島若狭守岩脇市助田那部式部にて有けるかしはらくして其勢三百計にて四方駆に廻りて防きける佐和山の磯野丹波守太尾の鬨の声を聞驚き物見を出して見てあれは佐和山太尾の間皆人数にて取切れは敵いか体の術をかたくみ寄来るをも知されは討出る事もならすして夜の明るを待てそ居たりける太尾の者共は佐和山を敵押へ置事はしらすして磯野心替と思ひ城を開てそ落にける寄手の者共不斜悦ひ佐和山浅妻の押への人数夜の中太尾の城へ引取城を丈夫にかためける翌日の事なるに新庄駿河守は太尾より一里計西南浅妻といふ所に城をかまへて楯籠るか太尾へ人質指遣し江南佐々木方へ属し申ける後に沙汰しけるは元来其節は久政にふく渡らせ給へは江南のいきをひはつよし高宮久徳も江南に降参しけれは義賢入道承禎内意をかよはし佐々木を太尾へ引いれしとそ申けるかくて江南勢数日もへさるに両城手に入けれは大に悦ひ箕作へ此由注進申入けれは義賢喜悦して被申けるは佐和山の城も追付手に入るへし猶も勇気をはけまし近所の城持共に手を入味方にまねくへし追付小谷へ押寄久政に腹を切すへしとて大河内権内といひし者を太尾の使節に相添てそ被越けるかゝりける処に小谷の久政は太尾の次第を聞不安おもひ給ひ江北勢を出し合戦をなす事はしらすして立腹限りなくして先国中の味方の見せしめにせんとて新庄駿河守人質は筧助左衛門尉預り置けるか当年八歳の男子なり則串さしにして浅妻より四五町北世次村の川端にさらし番を付てそおかれける久徳か人質は則慈母なりけるか磯野丹波守預りて在けるを高宮の北方小野といふ所に磔にそかけ置ける誠にあはれなりける事ともなり高宮三河守か人質は少子細ある故先残しをかる誠に両人の謀叛人の心の程こそさこそと思ひしられたれ其時草かり少童の小歌に「うき世といへは浅ましや高賀の久徳か親なかす新庄駿河守は子をなかすとかくおしきは我命」と申歌を江北にてはうたひける誠に親にかへ子にかへ世を立給ふ人々かなと皆人是をにくみける
 
同士討の事
 
下野守久政は家老の者共を近付て軍評定をして居給ひしか去ぬる七月に太尾の城より落来り長沢村に居たりし田那部式部義明小谷へ馳来て申けるは此比太尾の様体承候に三井吉田両人計城を守り残る者共は味方の領内へ苅田なとして押領仕皆江南へ引取申候磯野勢を出し追立申候私共か田地共も大半押領仕苅取申候それよりして此方よりをくれて勢をも不出候と思ひ太尾は小勢にて相守と見に申候それにつき伊賀のしのひの者を頼候処に相たのまれ可申に事決定仕候て太尾の城に火をかけ可申と契約仕候火の手あかり申候はゝ島若オープンアクセス NDLJP:96狭守岩脇筑前神田修理今井権六等を相かたらひ太尾へ乗込暫時に城を乗取可申と内談仕候間今少誰なりとも御加労被仰付なは旧戦の耻辱をすゝかはやとそ申ける久政大に悦ひさあらは佐和山に楯籠る磯野丹波守与刀の者二百可申付候随分粉骨を抽て太尾を攻取へしと被仰けれは田那部は小谷より罷帰件の伊賀のゑのひの者を潜に近付内々頼入事あり明晩しのひ入へきのよし堅契約して近所の侍共にも示合ける時に永禄三年九月二十六日暮亥の刻はかりに今井権六神田修理島若狭田那部式部四人其勢四百八十磯野か加勢二百太尾の城より一里計北西に当て烏若狭守か居城井村と云所にて待合それより敵にさとられしと兵共にしのはせ米原坂すゝき亀山といふ所にしのひ居る田那部はしのひの者相具し手勢二十計にて太尾の城近くしのひあかる磯野丹波守加勢の者其は亀山南に陣取今井権六島若狭守同しき山の北に陣取神田岩脇田那部の者共は山の峯筋に陣取合図の火の手を待てそ居たりけるか伊賀の者共何としてかをくれけん丑の下刻まて火の手をあけさりけれは味方の者共心せきて居けるに島若狭守今井に向ひ何条合図相違せり夜も漸更行かは敵もしさとりもやせんしからは重て攻る事成かたかるへしとかく今井殿は御人数を被引引居城箕浦へ御帰有へし我々も今少相待一手つゝ引のくへし是非にと申けれは己か居城間近きによりて則若狭守か異見にしたかひ今川の三味道へしつとしのひのきにそのきにけるかくて田那部式部合図の時刻もすきゆけは事の外せき之のひの者に向ひ何としたる事なるそ今宵は火上る事なるましきか若なるましくはとツく立帰るへし重て可頼と申けるにしのひの者只今火の手可揚と申に太尾の本丸より二町計此方番矢倉これ有るをそれに火をかけんとす田那部是は本丸より程はるかに隔たりこれにかくるとも味方乗取事は難成かるへし城近く火をかけよといふ忍の者重て申けるはしのひの作法にて手前に火をかけ其首尾を以て本丸に火をかけ申筈にて候と申けれはさあらは汝に任すると申仍て件の番所に火を放つ権六是を見てすは火の手あかると思ひ馬をはやめ乗帰し島若狭守に出しぬかれける事の口惜さよとて味方我先にと乗あかる中へ駆込ける処を磯野か者共これは誰人そととかめつれと兎角こたへもなくかけぬけんとせしを味方にてはあらし是先討留んとて同士軍して権六を磯野か与力岸沢与七たゝ一鑓に突落す権六家来十七八騎やあいかにらうせきすなとて互に突合けるか終に討れて失にけり磯野が与力の者共六七騎も討れにけり誠にあはてたる次第なり其後子細を聞けれは権六生年二十四にてはやりきつたる若者なれは島か意見に従かひ陣所を引退しを無念にをもひ権六と名乗なは味方の者共権六殿は我々より敵近く陣取給ふに今おくれて乗出し給ふとたもはれん事口惜かるへしと思ひかくは名乗さるそと聞えけるかくて太尾の城の者共すは敵来るか手あやまちかとて物見を出し見けれともさはなくて寄手同士軍して剰へ大将権六うたれけれは敵の城へ乗込事はさてをきぬ上を下へとさはきけるに島田那部は物なれたる兵なれは味方の者共をゑつめ敵むかはさる先に引にけり太尾の城の者共はかけ出て火をけし其上に用心をきひしくさせ城を堅固に守居る誠に久政代のひけ軍の第一とて江北にての伝なり此権六は今井肥前守頼弘か一子にて親は神照寺にて切腹せオープンアクセス NDLJP:97しなり此時に今井か家は絶たりとそ聞にける
 
浅井家臣大名分の者共一同して久政を退る事
 
安養寺三郎左衛門尉浅井石見守同玄蕃允赤尾美作守木村日向守中島宗左衛門尉山田入道順哲斎をはしめ十四五人寄合密談して申けるは江南佐々木義賢入道抜関斎承禎に久徳左近新庄駿河守高宮三河守なとは旗下に属し申なり其上太尾の城には江南より勢多く被入置味方の城持共に種々手を入まねくのよし聞にたり然といへとも久政公先日久徳高宮表にて承禎に追立られしより其後終に出馬もなく昼は鷹狩に身をやつし夜は酒宴に心を入れ御息備前守長政殿戦陣の訴訟度々あれとも終にゆるし給はす此分に候はゝ江北は江南へ悉く切取らるへしとかく長政殿をかたらひ久政殿をは小谷の城をたて出し長政殿を大将に取立へきと相談一決して備前守へ此旨かくと申上けれは長政聞給ひ各の被申処もさる事なれとも父に向ひ弓引事天のおそれもいかゝ也家老の者共一統して我等の勘気をゆるされ候様に才覚頼と被申ける各承て御意尤にては候へとも其段再三断申候へとも終に御承引無御座此上なれは力なし久政公御鷹狩に出給ひなは大手の門をさし堅め御城へ被入時意趣段々に相断りさもなく承引不我は草野の谷へ入奉り行ク御中なをらせ給ふよふに可仕是非御同心候へと口を揃へて申ける長政も心得給はぬ御気色なれとも翌日阿閉漆路守磯野丹波守西野壱岐守なとか方へ此儀いかゝ可有と遠藤喜右衛門を被差遣ける各久政の行儀をうとみ果て居たりけれは事幸可然とや思ひけん御返事を申上けるは御家老中の御相談可然奉存候間此儀随分もれさるやうに被遊御家督相続可成とそ申上る長政もそれよりして家老の者共と心一にして久政の御遊興を相待けるに此の事久政は夢にもしらすして早崎浦にて鴨鷹狩抔して序てなから竹生島へ社参ある家老の面々は能折柄と思ひ長政を本丸へ移し赤尾美作守中島宗左衛門浅井石見守同玄蕃允〈此玄蕃允ハ大和守嫡子父ハ三年以前に死去なり〉此四人鎧物具して早崎浦まて久政の御迎に罷越右の旨段々申上けれは久政大に怒てのたまひけるは長政父に向ひ謀反をなすか汝等も長政と同心にて主を敵となす事我則天運のつくるところなり所詮国を開へしとそ宣ひける家老の者其承り長政不孝にしてかく野心を存立事にては無御座候御前に御遊山のみにて敵領分へ切入といへとも終に御合戦の沙汰も無御座候へは国中の諸士敵の国と可成事をおそれ長政殿を大将と仕大上南坂田両郡に働承禎父子を追立太尾の城をはしめ所々の城主攻取可申との企により如此御訴訟申上る事にて御座候と君臣間一町計相隔浅井石見守をして謹て御訴訟申上る久政も立腹其カンもなけれとも折節近習小姓四五十人にて出させ給へは力及はせ給はすして舟こきもとし竹生島へ御籠りある家老の面々しすましたりと悦て浅見対馬守阿閉淡路守は近所の者なれは片山南尾上浦早崎浦の番におき家老の者共は小谷へ帰久政の 井口殿へ右の段々申上けれは室の家老寺田半之助と申者此段曲さに井の口殿へ申上けるにきこしめさるゝより女儀の身なれは天にあほき地にふしなけかせ給ふ事はかきりもなし其時又家老共の申上るには今度久政公竹生島へ入奉る事全く以て長政殿も我々も逆心にはあらす長政殿へ国を御ゆつり有て万事仕置等も御かまひなオープンアクセス NDLJP:98く御合戦の御評議も長政殿被遊様にと度々御諫言申上けれとも終に御承引不成剰平井の姫を御かへし被成候とて父子御対面をもあそはされす只朝暮遊山翫水に長し給ふゆへ此分にて候はゝ他人の国と成へき事を歎き申如此仕候なり兎角御家を大事と存事なれは御前に竹生島へ被越大殿の御気色なほらせ長政公に目出度家督を被渡万事にいよゝかまはせられぬよふに小丸の城へ御退被成長政公の御後見と成給ひ諸卒のおもりとして悪敷事には御異見を加へたまはゝ長政公も我々も何の望の御座あるへき此段を被仰上下候へと種々言葉をつくして申けれは一々尤なりとて弟にて候井の口越前守政義をともなひ給ひて永禄三年十月五日に竹生島へ御越候て久政公へ右の旨趣涙とゝもに被仰けれは此由をきこしめしさすか親子の事なれは尤なりとて御同心ありて尾上より浅見対馬守御迎に来りて小谷へかへり給ひけるかくて御中和睦有て則其年は長政十六歳御家督不残被相渡其身は小丸へ引籠り給へは国中の諸士上下物改草木の陽春にむかへるかことくしてさゝめき渡て悦ひ御代替の御祝儀とて毎日太刀折紙にておもひに出仕をそしたりける爰に佐和山の城主磯野丹波守員正は太尾の城吉田安芸守目賀多摂津守も心かはりして承禎方となり道筋さしふさきけるにより供の侍五六人にて夜中に佐和山をしのひ出舟にて敵の城本をぬけて小谷に来り長政へ御礼申上御家老衆と打寄追付御人数を被出佐和山近辺の付城とも悉ふみやふらせ給へとて一々軍の内談しめて其身は又夜中に敵の中をしのひて佐和山の城へそ帰りける誠に長政いまた若年とは申せとも君臣の道正しくして国中の大名小名おもひ付事祖父故備前守亮政の御代には越たり誠に長政の徳化をあをかぬ者はなかりけり

浅井二代目下野守久政代の内二十二年余りの間さして紙面に可書事無御座候併多年に候へは相替事も可御座候へとも此方の覚書に無御座候事

下野守久政は一代の内軍きらひにて自身軍配を取事一両度ならては無御座候よしにて候へともさして可書程の事にて無御座候へは高宮合戦はかり記上申候事

久政代の事は何れも人の笑と可成事のみ多く候故略仕候て大要を記申候事

 
浅井三代記第十終
 
 
 

この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。