目次
 
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浅井三代記 巻第十八
 
 
越前朝倉義景小谷面へ出張の事
 

去程に浅井長政は信長卿に城中取つめられ味方残りすくなに心替して有けれは越前へ此旨注進再三なり義景此由を聞浅井に力を付むとて二万余騎の勢を引率し同十日に江州に至り木之本田神山を本陣として田部山に先手同姓式部大夫陣取けれは信長御覧して義景此面へ出たるそ向陣を可取と被仰けれは柴田修理党佐久間右衛門尉稲葉伊予守高月村に向ひ陣をそ張にけるかくて小谷を取巻たる人々も丁野山虎御前山迄引にける木下藤吉郎秀吉卿は信長卿の前に進み出て被申けるは馬上山に取出を拵朝倉式部大夫と対陣をはり可申はいかゝ思召候哉と有けれは信長大に御感被成我等も左様に思ふなり誰をか大将に可遣やと思案する所にいしくも申たる物かな汝馳付可申と有けれは畏候と御請申上馬上山さして馳向ふ相従ふ人々には江北にて降人の衆樋口三郎兵衛多賀新左衛門尉山崎源太左衛門尉阿閉淡路守此等を宗徒の人々として三千五百余騎にて馳向ひたまふ式部大輔も田部山より人数をおろし雨森川をへたてゝ互に弓鉄炮を射懸うちかけ相戦ふ秀吉卿はかねて手早き大将なれは其隙に要害あらましに取立本陣を馬上山にすえ足軽せり合毎日なり又上海道筋高月村の方も義景勢物部なはてをへたてゝ追つ返しつ相戦ふされ共互に勝負はなかりけりかゝる所に朝倉の侍前羽九郎兵衛父子富田彦右衛門尉戸田与次郎毛屋猪之助六合信長卿の方へ以内縁御味方申上越前への御案内可仕候条所領安堵被成へしと申込けれは汝等神妙成申分なりすこしも如在有ましと被仰けれは信長卿の勢の中へ切入と見えしか頓て幕下に属しける去程に信長卿の勢と朝倉か勢と東は雨森川原にて戦ふ西は物部村辺にて追つおはれつ戦ふたり其時信長卿の本陣は虎御前にすえられ二三日か間は武者烟を立てそ責あひける

 
小谷大嵩の城没落之事
 
大嵩の城には越前より合力勢として侍大将には斎藤刑部少小林彦六左衛門西方院彼等三人籠置ける二の丸には浅井内井口越前守千田釆女正三の丸焼尾といふ所に浅井侍大将浅見対馬守を籠をかれけるか対馬守信長卿の御味方と罷成忠節可仕とて敵の勢を三の丸へ引入けれは信長卿大によろこひたまひ同十三日の夜佐々蔵之助前田又左衛門蜂屋滝川彦右衛門市橋九郎左衛門尉を宗徒の侍大将として大嵩を七重八重におつ取巻時を噇とあくれは城中には井口越前守千田釆女正走廻て下知をなす所に本丸にこれ有し斎藤刑部小林彦六左衛門西方院初の程は相共に敵を防くと見えしか井口か勢の中へ弓鉄炮を放ちかくれは城中上を下へと騒つゝ井口も千田も命計を助り下野守久政の丸へにけ込けるゆへ信長卿より人数を入置浅井父子か居城を目の下に見下し勇にいさむて責たまへるも容易落へしとも見えさりける朝倉式部大輔と木下藤吉郎秀吉と馬上面にてせり合けるか浅井か城中に心替の侍多の由を聞式部大夫も秀吉のもとへ内通してさまて弓もひかさりける義景敵味方の軍の様子を見て此面を夜中に引払ひ越前へ可引籠とやおもひけむ八月十八日の子の刻計に引取ける
 
信長卿越前より御帰陣之事前小谷の城中へ噯を入らるゝ事
 
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斯て信長卿は越前朝倉御退治被成加賀の国の絵図を委仕差上可申と前羽に被仰付此前羽九郎兵衛を桜田播磨守に改め則越前守護所を被仰付豊原の城を被下置大野城をは朝倉式部大夫に被仰付富田彦右衛門には府中の城をくたされ諸事国の仕置等三人相談して可仕旨被仰付八月廿五日に江州虎御前山に帰陣したまひて浅井父子か居城責手を被仰付又小谷を幾重ともなく取まかせたまふ浅井下野守久政か丸と子息備前守長政か丸との間中の丸といふ所に浅井七郎同玄蕃亮三田村左衛門大輔大野木土佐守を籠置けるか誠に命すてかたくや思ひけん一命御助被下様にと達て御侘言申上れはさあらい先丸を請取へしとて木下藤吉郎を入置たまひ以御使番諸勢に被仰付けるは諸卒取巻敵をもらさゝるやうにかため此方より一左右せぬ間には責へからすとをゝせつけられけるか長政の妻おいち殿助よひ出したくや思召けむ御信実にてや有けん不破河内守をめして被仰付けるは汝は案内をこひ長政か許へ行可申様は其方数年一戦に及ふ事も越前朝倉か故なり義景は討捕ぬ今は長政に遺恨なし当城を開渡すへし以来如在には存ましきと可申と御諚有けれは畏て河内守長政か城中へ入右之趣申入けれは長政聞たまひ被申けるは信長卿思召入有かたくは存候得共如此成果何を花香になからふへきたゝ討死をとくへきなり御前よきに頼と申て一向承引申さゝりき河内守立帰此旨角と申上れは信長重て被仰けるは長政それは我等か空言にて申と存るか今迄は其方の命今より後は我等か命なれは以来忠節を致し可申大和国一国あておこなふへしと被仰越けれ共長政終に承引せすされとも長政の士卒共此旨を聞き是はよき噯を入給ふに御承引あれかしといはぬ者はなかりけりそれ故城中の持口も油断す廿六日の夜長政の菩提坊主雄山和尚と申僧を被頼小谷の奥曲谷の石切に申付石塔を切寄せられ徳勝寺殿天英宗臣大居士と長政の改名をゑり付其石塔の後を窪め長政自筆を以て願書をかき籠給ふ其意趣はしれさりける角て廿七日の未明に籠城の侍共を呼集め導師雄山をたゝせれき石塔の後に長政座し諸士の焼香をそうけられける武者共辞退すれ共達てと望みけるゆゑ各焼香をそしたりけるそれより其石塔を木村久太郎に城中をしのひいたし竹生島より八町東の沖中へしつめられけれはそれより城中心一筋に成討死を心懸ける

 
信長卿の許へ長政妻をおくらるゝ事
 
廿八日の巳の刻計に信長より又右之趣達て被仰越けれは浅井信長卿の御使河内守に対面して今度貴殿御取持世々未来難忘は存すれと当城にて尋常に腹を切可申といひ放ちてそかへされける其後御前をめされ被申けるは汝は信長の娘なれは何の子細も候まし信長の許へ送るへし若汝なからへて残りなは菩提をとふて得さすへしと名残を惜まれけれは是は仰共覚え候はす諸共に同し道にと社心かけつれ我等一人世に存へあれこそ浅井か女房なとゝ人々に後指をさゝれむ事も口惜かるへしたゝ害してたへとそ宣ひける浅井重て被申けるは其方の宣ふ事も理りにては候得共娘共も女子の事なれは信長さして恨みはあらし若も助けおかれは我等のなからん跡迄も菩提をとふて得さすへし我今花のやう成姫共を害せん事も不便也理をまけてのかれよかしと再三に宣へは北方此旨を聞請させ給ひける此時御子オープンアクセス NDLJP:143五人有内三人は女子二人は男子なり嫡男を万福丸と申けるを木村喜内之介を相添被仰付けるは当国はしる者多し越前敦賀郡にしる人あれは彼者許にしのひ居て此若か成人を見立てたへとのたまひ城中を廿八日の夜中にゑのひいたさるゝ壱人の男子は当年五月生れ給ひしを是は当国福田寺にとらせよとて乳人に小川伝四郎と中島左近あひそへ福田寺の本へしのひ落蘆原に舟をうかへ忍ひてこそは置にける姫君三人北方に女佐の臣藤掛参河守を相そへ信長の許へ被送ける信長卿北方を取かへし不斜によろこひ織田上野守によきにいたはるへしとて預置る此小谷の北方は後に柴田に被下柴田没落の時自害す此時又姫君達は柴田方より秀吉卿の許へ送りける一人は秀吉卿の妻と成秀頼卿の御袋一人は相国秀忠公の御台大融院殿家光公の御袋一人は若狭宰相高次の妻と成給ふ
 
浅井下野守久政切腹の事
 
去程に信長卿は小谷の北方を取かへし不斜よろこひ浅井は城を枕とし腹を切へきと覚悟をすゑけると見えたり此上なれは一刻にもみ落すへしとて京極つふら尾といふ所へのほらせたまひ惣軍勢に下知したまひけるは平責に攻浅井父子に腹切すへしと被仰けれは承候と申もはてす四方七重に廻つて鬨を作り喚叫て責けるは天地もくつるかと夥敷城中には中の丸まて敵を引入けれはかゝはりかたく見えけれ共城中の兵命もをします四方かけ廻防ける此時下野守の丸には雑兵八百計も籠りけるか寄手廿八日未の刻より夜の中共いはす廿九日の午の刻迄揉にもむて攻たりけれ共城中死を定めし所に柴田城中は無勢成そ乗や兵と下知すれは軍兵共塀に手をかけ乗込ひたと打入けれは下野守は井口越前守をめされ今しはらく雑人の立いらさるやうに防きたひ候得腹切へしと被仰けれは井口越前守赤尾与四郎千田采女正承候とて走廻防ける下野守は盃いたせ福寿庵と被仰けれは日比たしなみ置たる小筒を取出す久政盃を取上させたまふ所に森本村鶴松太夫と申舞まふ者候ひけるか進出て申ける我身不肖成者とはまふせとも御なさけ深くしていつも御相伴ははつれ不申候今何そはつれ可申候やとしやくに立ける久政盃を三度迄かたふけ福寿庵にさしたまへは福寿庵鶴松に盃をとらせけるさて久政腹を切たまへは福寿庵介錯して其刀にて福寿庵心元に指立れは鶴松介錯をして我等は同し座敷にては恐れありとて一段下の椽へ飛下り腹かき切てうせにける脇坂久左衛門も久政の御とも心かけて居たりけるに敵城中へ乱れ入をしはし防きて居たりけるか久政御自害を無心元おもひ内へかけ入見てあれははや御自害と聞己も腹をかき切御供をまふしける
 
浅井長政最後之事
 
去程に長政は妻子共をそこと相かたつけ給へは今は心にかゝる事なし花やかに軍すへしとて浅井石見守赤尾美作守同興七郎西野壱岐守彼等四人の者共に宣ひけるは今ははや心にかゝる事なしいさ切て出一軍せんとて手廻小姓五百計にて討て出たまふ長政其日の裳束には黒糸綴の鎧に金襴の袈裟をかけ朱柄の長刀をふつて門をひらき切て出たまへは寄手我討取高名せんとて猛勢の中に引包む長政の勢五百計一足もひかすあたるを幸と切伏せ追まオープンアクセス NDLJP:144くりたまへは寄手猛勢なりとは申せとも一町面崩れ散々はつと引けれは丸の中へそ引にける信長卿是を御覧してよきつがひに敵切て出つるに討もらしぬる事の残多さよ重て切て出なは生捕にせよや兵と被仰けれは柴田木下承と申て黒烟を立て責けれは本丸計に責よせたりけれとも城中の兵誰助り申さんといふ者一人もあらされは寄手塀へ乗むとすれははね落し突落しける程に長政の丸の中へは敵一人も入さりける斯て廿九日の夜に入けれは寄手少休息をしたりけるに長政其夜は並居て酒を呑たまふあけゝれは九月朔日の事なるに又四方より息をもくれす責たりける長政手廻小姓にむかひ問給ひけるは親下野守殿の御手は如何御入候そ何成ゆかせたまふと有けれは昨日廿九日に御自害被成しと承り候と申上れは長政聞たまひ我夢計もしらさるなり今は何をか待へき父の弔合戦をなさんとて九月朔日の巳の刻計に門をひらき二百計にて切ていてたまひ猛勢の中へ面もふらす切入四方八面にはたらき敵何程といふ数をしらす切伏一足もひかす相戦ふ事高祖のいきほひもかくこそあらめとしられたりかゝりける所に木下柴田前田佐々此入々長政か働くにかまはすして跡へ廻り丸の内を取切は長政かなはしと思ひ引返し給ふもはや其時味方残すくなに討取られわつか手廻の勢五六十に成けるか我丸の内へ懸入むとせし所を木下柴田か兵稲麻竹葦におつ取巻長政本より剛将なれはむらかれる敵の中を一文字にかけちらし丸の中へかけ入らんとする所を敵門内をはや堅めつれは我詰め城の左脇に赤尾美作守屋形有けるか其中へかけ入たまふ敵相続き込来る所を浅井石見守赤尾美作守同新兵衛なと爰に有とて踏留り相戦ふ老武者とはいひなから好敵数多討取しか四方よりつゝまれ三人なから生捕れてそ行にける長政は美作守か家へ入けるに寄手其まゝ込入んとせしを浅井か小姓共に浅井おきく脇坂佐介なとをはしめたれかれといふ者共四角八面に戦ひ防きける其時長政も又立出長刀を以四方を払ひたまへは敵も流石に入さりけり浅井日向守長政を引取御介錯可仕と申けれは心得たりとて頓て御腹めされける日向守も頓て錯介仕る長政満る年は二十九をしまぬ者はなかりける則日向守も腹かき切て伏たりける中島新兵衛同九郎次郎木村太郎次郎木村与次浅井おきく脇坂左介並居てはらを切にける誠に此長政十六より武将を取一度もにふき事あらさりけるか最後のきは迄かく手はやく御腹めされし事古今まれ成剛将なりとて敵も味方も感しける信長卿御にくみや深かりけんこの長政の首と義景の首とを肉をさらし取朱ぬりに被成安土にて其翌年より正月の御礼に参上せらるゝ大名衆へ御盃の上に御肴にそ出にける斯て信長卿生捕来りし石見守美作守を御前へめされ被仰けるは汝等か所存として長政に逆心いたさせ数年某にほねををらせつるにくき者共成と被仰けれは石見守雑言して申けるは浅井は信長の様成表裏の大将にてなきゆゑに如此成果申候と申上れは汝生捕にあふ程の侍として表裏を能存たるよとて鑓の石つきを以頂を三ヲ迄うたせたまへは石見申けるはそれこそよき大将の仕わさ成へしいましめ置し者打たまひ御腹いさせ給ふかと種々雑言を申ける信長卿きゝかねさせたまひ頓て打てすてたまふ又美作に向て宣ひけるは汝は若時より鬼神の様にきこえける兵なるか何とおくれ候哉と被仰けれはとかく老まう仕候とオープンアクセス NDLJP:145計にて御いとまをそ被望ける其時信長卿被仰けるは汝は老し者の儀なり汝かせかれ新兵衛は助置我取立て可遣と宣へは美作新兵衛にむかひ汝殿にたまされてわるひれなと申けれは老めか我空言をいふとおもふかと打わらはせたまひ新兵衛を助おかれ後迄なからへほまれ有りて美作守を頓て許したまひけり
 
信長卿降人の沙汰おいち殿を出抜万福丸を生害じ給事
 
信長卿其日は小谷に滞留有て浅井か降人共の御沙汰なされける浅井七郎同玄蕃亮大野木土佐守三田村左衛門大夫は長政一門成に落城きはの謀叛見苦しき心底なり諸侍のみせしめにせんとて則誅罰したまひけるさて長政か北方おいち殿を近付させたまひ宣ひけるは長政は男子を一人持ときく是は何方に居候哉若なからへてあるならは女子共と一所にそたて置長政かあとをつかせ可申と心なふ被課けれはおいち殿はしめの程は深くつゝませたまひ何と成行申候も不存候と被仰けれはいやとよ其義に非す長政こそかたきなれ比子共は我等か為には近きみるいの事なれはなけかしく思ふにより扨汝にとふ也と被仰けれは女性心のあさましさは御真実そと心得たまひ何とやらん聞つる事も御座候か越前の国敦賀の脇にしるへ有其方に木村喜内之介といふ浅井か小姓あかりか預り居たるときゝ申候と被仰けれは信長卿さては問おとしたると悦ひたまひ迎に可遣候間汝文してよひよせと宣へは心得申候とて北の方喜内之介か方へ念比に被迎遣けれと喜内之介承引いたさす害して捨申候と返事す其後又北の方信長卿よきにいたはり可申との仰なり喜内之介心得かたくはおもへ共とてもしれたる上なれはとて万福丸の供いたし九月三日に江州木之本に着けれは秀吉中にて心得万福丸を請取信長卿に此由被仰上けれは汝其子を串指にしてさらせよとて串指にしてさらしけるあはれなりし事共なり当歳の若は有やなしやをしる者なけれは是一人は残りける
 
信長卿江北仕置事
 
信長卿浅井か侍降人と成り忠節をはけます者共を呼出し所領を被下ける磯野丹波守には高島一郡を下されぬ阿閉淡路守には伊香郡一郡を給はり堀次郎いまた幼少たるにより家臣樋口三郎兵衛に坂田郡半郡を被下扨木下藤吉郎秀吉には今度のほねをり分浅からすとて江北の守護所と被成小谷の城に浅井郡に坂田郡半分犬上郡を被下ける秀吉小谷は小勢にては守りかたしとて今浜へ城をうつし名を改め長浜と付たまふ其後江州の諸牢人爰かしこにて一揆を催し国ゑつかならねは秀吉卿信長卿へ御訴訟被仰上けるは京極武蔵守高秀の子共潜にかくれ居ると聞えたり此者共御呼出しなされ世に立給はれは此国は治るへしと被仰上けれは尤なりとて各御よひ出し有ける一人は若狭高次一人は丹後守これゆゑ江北の侍の心もやすんしおたやかに治りける
 
オープンアクセス NDLJP:146此書は何人の著したるやを知らすと雖も江北浅井家三代の興廃を詳記せり今再版に臨み東京帝国図書舘本を以て再訂せり 近藤瓶城
 

浅井三代記巻第十八大尾

 
 
 

この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。