<< 信者は己の智を変化し、悉くの思を神に集中せんを要す、神に対するすべての勤は実にこれにあり。 >>
一、 信者は苦きより甘きに変ずる心の変化によりて、その自由なる意思の変ぜられんことを神に願はざるべからず。信者は瞽者のいやされしこと、血漏の婦の痊をうけしこと、獅子の性の鎮められしこと、火の性の作用をとどめられしことを記憶すべし、何となれば神は最高尚なる美麗なればなり、汝は智と思を神にあげて、神を見んことを望むの外他の何物をも意に存せざらんことを要するなり。
二、 ゆえに霊魂は好走戯なる児童の如く、罪によりて散乱したる思を集中して、これを鎮むべし、これを其体の家にみちびき入れ、不断に禁食し、愛を以て主を待ち、主が来りて実に霊魂を一に集中するの時を待つべし。けだし未来は知るべからざるにより、殊勝にもおのれの希望を舵師に托して、いよいよ彼に依頼すべく、又ラーフ[1]が異種族人と共に生活せしも、イズライリ人に信を置きて、彼等と共に生活するをたまはりしことと、イズライリ人が己の希望を以て埃及に帰りりしことを記憶すべし。異族人と共に居りしはラーフに少しも害あらず、却て信仰は彼をイズライリ人の一員に加へたりし如く、罪も望と信とを以て贖罪主を待つ者に害あらず、贖罪主は来りて心の思を変化して、これを神聖なる、天に属する、善良なるものとなし、霊魂を真実なる、浮戯れざる、散乱せざる祈祷に練習せしむるなり。言ふあり、畏るるなかれ『われ汝の前にゆきて崎嶇を平にし、銅の門をこぼち、くろがねの關木をたちきるべし』〔イサイヤ四十五の二〕。また言ふあり、『己を省みよ、恐らくは汝の心中にひそかに悪念を起していはん』〔申命記十五の九〕、又己の心にいふなかれ『此の民は繁くして強し』と〔同上の二十一〕。
三、 もしわれらは自から懈らず、猥りがはしき邪なる意念の為に自から牧野をあたへず、思を主に強て向はしめて、己が自由を以て智をみちびくならば、主は己の自由を以て我等に来りて、われらを実におのれに集中し給はんこと疑なし、何となればすべて主を喜ばすことと、主に勤むることとは思にかかればなり。ゆえにつねに内部に於て主を待ち、思に於て彼を尋ね、己の意思を起しはげまして、その自由なる任意を不断に彼に向はしめ、其意を喜ばせんことを努むべし。見よ主はいかやうに汝に来りて、汝の中に居所をまうけんとするか。けだし汝は其智を彼を尋ぬるにいよいよ集中すれば、いよいよ彼もそれに応じて、其善心と其仁慈とを以て汝に来りて汝を休せしめん。彼は立ちて汝の智と思と意の発動とを検し、汝の如何やうに彼を尋ぬるか、汝の全霊よりするか、怠慢を以てせざるか、等閑を以てせざるかを監視せん。
四、 而して汝の彼を尋ぬるに勉励するを認むるときは汝に公然とあらはれて、其助をあたへ、汝を其敵より救ひて、汝のために勝利をそなへん。けだし彼は先づ汝が彼に対する意向と汝がすべての待望を彼に向はしむるの如何とを検し、汝を教へて、汝に真実なる祈祷と真実なる愛とをあたへ給はん、これ即汝に於てすべてとなる彼自からにして、彼は汝の為に楽園なり、生命の樹なり、真珠なり、冠なり、家宰なり、農夫なり、苦をうくるものなり、無慾なる人なり、神なり、葡萄酒なり、活水なり、羊なり、新郎なり、戦士なり、武器なり、即ハリストスはすべてに於てすべてなるなり。たとへば嬰児は自から己を助け、或は己の事を慮るを能くせず、母が憐みてかれを取るに至る迄は、ただ母を見て泣くのみならん。篤信なる霊魂もかくの如く悉くの義を主に帰して、つねに独一の主に依頼するなり。葡萄の幹より離されたる枝は枯れん、ハリストスなしに義と称せられんを願ふ者もかくの如し。正しき入り口より入らずして、他の處より踰ゆる者は窃盗なり強盗なり〔イオアン十の一〕義と称する者なしに自から己を義と称するものもかくの如し。
五、 ゆえに我等は此の身体を挙げ、祭壇をきづき、我等が悉くの思を其上にそなへて、主に祈らん、天より見えざる大なる火を降さんためなり、彼は祭壇をも、すべて其上にあるものをも焼盡すべし。然らばワアル[2]の悉くの司祭、即反対なる力は倒れん、其時天の雨が人手の如く〔列王記上十八の四十四〕霊魂に降るを見ん、これ預言者を以ていひし如く、神の約束の我等に応験するなり、曰く『我ダワィドの倒れたる幕屋を興し、その破壊を修繕ひ、その傾圯をおこさん』〔アモス九の十一〕。主が其仁慈によりて、夜間暗中に無智の酣酔を貪る霊魂を照し給はんことを祈らん、然らば霊魂は覚醒して白昼の行、生命の行を成し、最早躓かずして来往せん。けだし霊魂は或は此世により、或は神の神によりて甞むる所のものを以ってやしなはれん。而して神もかしこに存在し、安息して、留まり給はんとするなり。
六、 さりながらおのおのもし欲するならば、おのおの何を以てやしなはるるか、何処に生活するか、何に従事するか、自から己を試むべし、かくの如くにして、精確に弁別するの能力を悟り、且これを獲て善に向ふに己を全く付與せんためなり。しかのみならず祈祷を行ひて、意念と行為が何れよりするか、神よりするか、或は反対者よりするかを察し、心に食を與ふるは主なるか、或は反対者なる此世の君なるかを察して、おのれを省みるべし。然らばおのれを試みて認識したる霊魂よ、汝は労により愛を以て天の食とハリストスの育成及び行為を主に願ふべし、いふあり、『我等の居處は天にあり』〔フィリッピ三の二十〕と、然れどもこれ或者等の思ふ如く外形と状態とにあるにあらざるなり。けだし視よ、ただ敬虔の状態のみを有する者の智と理解とは世に肖ん、かれらには自由なる任意の動揺と擾乱と恒ならざる思想と畏懼と戦慄とあるなり、いふあり、『地に吟行ふ流離子となるべし』〔創世記四の十二〕。恒ならざる意念の不信と錯乱とにより幾時か動揺せらるること他の悉くの人々と同様なる彼等の世と異なるは一の外形と外部の人の外見上の発達とを以てして、思想を以てするにあらず、されば心と智とは世と地に属する愛情の為にいざなひ去られ、無益の煩慮に縛られて、使徒のいふ如くなる天の平安を心に得ざるなり、いへらく『神の平安は汝等の心の中に宰たるべし』〔コロサイ三の十五〕。これ即力〔ママ〕とすべての兄弟を愛する愛とにより、信者の心を主宰して、これを新にする平安なり。光栄と叩拝とは父と子と聖神に世々に帰す。アミン。