通俗正教教話/信経/第十一か條

(十一)第十一か條 編集

われのぞしゃ復活ふくかつ


問 『われのぞしゃ復活ふくかつ』とふのはふことで御座ございますか。

答 それこのおわりおいて、したるものたましいふたた神様かみさまのおちからによって、もと身体からだ相合あいがっして復生よみがへり、不死ふしものとなるとの神様かみさまのおおしへかたしんじてくなることをのぞむことで御座ございます。
聖書せいしょもうして御座ございますには『しゃきゅうものとして復活ふくかつし、われへんぜん、つるものきゅうするもの不死ふしるべければなり』〔コリンフ前書十五の五十二、五十三〕。


問 ひと身体からだつちほうむられてまへばみんはいしてどろになってまうもので御座ございますが、そのくさってつちになってまったもとからだたましいまた一所いっしょになるとふことはまことうけがたいことでは御座ございませんか。

答 なにすえたましいもと身体からだがっするともうしましても、身体からだはいして出来できつちたましいとががっすると意味いみでは御座ございませぬ、畢竟つまり神様かみさまのおちからによって、身体からだ腐敗くさってがっしてまった其土そのつちよりふたたもとよう身体からだ出来できそれたましいがっして完全かんぜんひととなることで、まことひとわかにく奥密おうみつなることなので御座ございます。せい使徒しとパエル此事このことくさが、つちかれてくさった種子たねからめざすことにたとへてもうされましたには『なんぢところものなずばきざらん』〔コリンフ前書十五の三十六〕と。


問 それではたれでもかれでもおはりには復活ふくかつするもので御座ございますか。

答 左様さう御座ございます、およんだるものたれ一人ひとりとして復活ふくかつしないものいので御座ございます。其時そのとききてものれならばうなるかともうしますれば、其時そのときにはわたくしどもってるやうな此様こんあら身体からだきながらまたたあひだへんしてもっと完全かんぜん立派りっぱな、何時いつまでなぬようなものになるので御座ございます。聖書せいしょもうして御座ございますには『われみなねむらんとするにはあらず、しかれどもみなへんぜん、俄頃にわかまたたくひまに、すえらっぱときおいてす、けだしらっぱらん、しかしてしゃきゅうものとして復活ふくかつわれへんぜん』〔コリンフ前十五の五十一、五十二〕。


問 しゃ復活ふくかつするときすえるとしますれば、かい其時そのときにはかわってまいますので御座ございますか。

答 左様そう御座ございます、其時そのときにはこのこわれるようかいまたたひまへんして最早もはこわれるようなことのない立派りっぱあたらしいかいになるので御座ございます、聖書せいしょもうして御座ございますには『受造物じゅぞうぶつみづからもまた敗壊こわれよりかれて、かみしょ光栄くわうえいいうらん』〔ロマ八の二十一〕『われかれ(主)の許約やくそくりて新天しんてんしんすなはところつ』〔ペトル後書三の十三〕。


問 このかいなにもっほろぶるので御座ございますか。

答 もっほろぶるので御座ございます。


問 それではこのおわり復活ふくかつまでんだひとたましいうしてるので御座ございますか。

答 いことをおこなってんだひとならばそのたましい天国てんごくって、おはりくべき幸福しあわせいちけ、わるいことをおこなってしかあらためずにんだひとならばそのたましいごくっておはりおいくべきばついちけてくるしむので御座ございます。


問 何故なぜじんたましいぬとぐに完全かんぜん幸福こうふくくることが出来できないので御座ございますか。

答 それ神様かみさまのおさだめで、ひと善人ぜんにんにまれ悪人あくにんにまれ、かならいち神様かみさまおほやけなるおん審判さばきけてからのちでなければ、しっかそのおこない善悪ぜんあくさだまらないもので御座ございますから、おはり御座ございまする其様そんおほやけなるおん審判さばきまでほんかりむくいのみにとどまるので御座ございます、せい使徒しとパエルコリンフじんたっするしょうちしるしてりまするには『われみなハリストス台前だいぜんつべし、各人かくじんそのときおこなひしことあるいぜんあるいあくかなところけんためなり』〔コリンフ後書五の十〕と。
このことばもうされてりまするとほり、わたくしども誰彼だれかれべつなく神様かみさまのお審判さばきくるためいちおほやけなる神様かみさま法廷ほうていたなければなりませぬもので、其迄それまで善人ぜんにん悪人あくにんただかりむくいかりばつくるので御座ございます。


問 幸福こうふくいち仰有おっしゃいますのはふことなので御座ございますか。

答 幸福こうふくいちもうしまするのは神様かみさま一所いっしょることが出来できることなので御座ございます、せい使徒しとパエルこの幸福こうふくはじめせつのぞんでもうしましたには『われこの縲紲きづなより)かれてハリストスともらんことをねがふ』〔フィリッピ一の二十三〕と。


問 しゅみちわきまへ、神様かみさましんじながらも、それ符合ようおこないをなさずしてんだものたましいうなるので御座ございますか。

答 仮令たとおこないはなくとも、神様かみさましんじたひとなれば、そのたましいほろぶるようなことはいので御座ございます、して其様そんな人のたましいは、のちひととう其徳そのとくによってさいわいなる復活よみがえりるので御座ございます、それ御座ございますから教会ではつねんだ人々ひとびとたましいためえずとうをして、そのたましい救贖すくい神様かみさまねがっるので御座ございます、イエルサリムキリル其書そのしょうちしるしてりますには『せいにしておそるべきまつりおこなはるるとき(聖体礼儀のことで御座います)にとうせらるるたましいは、だいえきるものなり』〔みつしおり五調九章〕また聖大せいだいワシリイいたじゅんせつとううちふことがもうされて御座ございます、『ごくつながれたるたましい安心あんしんゆうとをるがためわれささぐるまつりしゅよみたまところなり』と。