祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓 (5)

聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓

祈祷と清醒の事

百六十二、 幾何いくばくの能力を有するありとも自ら何人なにびとよりもひくんことをつとめて日夜己をひくうすべし。れ真実のみちなり、此のほかみちあるなし。

百六十三、 もし我れ誰彼となく不適当に動作するを見る時は我れ其の不適当を批判するを得るか。さらば此れより流るゝ近者をするの議を如何いかんしてのがるべきか。――実に不適当なる行為はわれこれを不適当と認めざるを得ず、けだし然らずんばこれより生ずる所の害を我等いかにして避けんや。されどもかゝるおこなひを為す所の其人をすべからず、聖書に『人を議するなかれ汝議せられざるを致せ』〔ルカ六の三十七〕といふに依るも又我等は自ら己を悉くの人よりなほ罪なる者と認むべきに依るもかつ兄弟の罪を犯せるを我等は己の犯せるものと思ひてただ其の彼を誘惑したる魔鬼まきを憎むべきに依るもかくの如し。誰か他をあなしたらんには我等は其坑そのあなに陥りし者を責めずして彼をしたる者を責む、此処ここに於ても実にかくの如し。人の事を為すや其の見る者の為には適当ならざるが如くに見ゆるもそのす者の善意によりて行ふの場合あり。さればこれと同じく我等もまた其の罪を犯したる兄弟が既に己の謙遜と信認とに由り悔改をもて神の喜ぶ所となると否とを知らざることあり。ファリセイ人は己が自誉じよの為めに定罪せられて退しりぞけり。此を知りて我等はぜいの謙遜にのつとり自ら己を罪せん、義とせられんが為なり、又ファリセイ自誉じよを避けん、定罪せられし者とならざらんが為なり。

百六十四、 他人と共にするに愧耻きちの為めに心乱れ我が談の愚にして言語に交ゆるに意味なきわらいを以てするの時あり、いかにすべきか。――それ神をおそるゝのおそれはすべての心のみだれとすべての不順序と混雑とを避くべし。故に我等は談話に先だちまづ己を神をおそるるのおそれに固めて我等何故なにゆえ擾乱じょうらんするかかつしょうするかさいに己の心に於て穿鑿せんさくせん、けだし神を畏るるの畏れにしょうあるなければなり。聖書に愚者の事をふ『彼等はわらいに於てそのこえぐ』〔シラフ二十一の二十三〕と。かつ愚者のことばは擾乱して恩寵を奪はる。されども義人のことはいふあり彼のわらいは『わずかに微笑にとどまる』と。故にもし我等は己に神をおもふの記憶をおこまた我が兄弟けいていと談話するに謙遜と沈着なる思念とを以てすべしとの念を起しかつこれを回想して神の畏るべき審判を常に目前に有するある時はかくの如き心掛けはもろ〳〵の悪しき念慮を我が心よりはん、けだし沈黙、温柔及び謙遜のある処に神はやどり給へばなり。神の聖なる名を呼ぶことの我等に必要なるをまづ第一に想起せん、けだし神のある処にすべて善なる者のあるは魔鬼まきのある所にすべて悪なる者のあると同じく明々白々なればなり。

百六十五、 自由の交際に二種あり、いつ無耻むちより生ずるものにして萬悪の根本なり、またいつは快楽より生ずるものなり、しかれども此の後者もこれを数々する者の為めに全く有益なるにはあらず。さりながらたゞ其の堅固にして有力なる者はふたつながらこれを避くることをれども我等は己の荏弱じんじゃくの為めにこれを避くる能はざるにより其の兄弟にいざなひを致すの縁由をあたへざらんやうに注意して快楽より生ずる所の自由の交際を時あり少なくも許容することあり。されども戯笑にいたりてはこれに自由を許すべからず、其の戯笑を礼譲をもてすごさんが為めに思念を制すべし。けだし自から戯笑に自由を與ふる所の者は此れよりして淫蕩にも陥るを知るべし。

百六十六、 諂諛へつらいを欲するによりて人は高慢するに至る。されど高慢が乗ずる時は驕傲きょうごうを生ず。

百六十七、 神の機密の事はあるいは探問するを要するか。又罪人は機密にとうなる者として定罪せらるゝか。――ハリストスの体と血とをうけんが為めに聖堂にきたりてこれをうくるあらば此の〈機密の〉真理にうたがひなくしんを置くやうに己れに注意すべし。されども此の機密の如何いかんを好んで探問するなかれ『此れ我が体なり此れ我が血なり』といはれし如くそのまゝ信ずべし。主は罪を赦すが為めにこれを我等にあたへ給へり。〔馬太廿六の廿六、馬可十四の廿二〕。かくの如く信ずる者は罪せられざるも信ぜざる者は最早もはや罰せらる、我等はこれを信用す。故に罪人の如く己れを定罪ていざいしつゝくを自ら禁ずるなかれ、救世主に就く所の罪人は罪の赦しを賜はるを承認すべし。それ我等は聖書に於て信仰をもて救世主につき其の神なる声をきゝし者を見るなり、曰く『汝の多くの罪は汝に赦さる』〔馬太九の二、馬可二の五、ルカ七の四十七、四十八〕。故に汝は己を罪人と承認し亡びし者を救はんことを能くし給ふ者に就くべし。〔馬太十八の十一、ルカ十九の十〕。

百六十八、 我れに多くの不潔なる思念の生ずるあらんに我れこれを誰にでも言ふを自らづる時はいかに行為すべきか。――これ神につげての如くいふべし、いはく主宰よるとらざるとによりなんぢむねもとことを思念したるをれに赦し給へ、けだしなんぢ矜恤あはれみは世々にあればなり、アミン。

百六十九、 我れ淫慾に苦む、我れ如何いかに為すべきか。――出来るだけみずから己をつからすべし、然れども又己の力を量るべし、さりながらかれに自ら依頼するなく神の愛といんとに依頼すべし、又失心に沈むなかれ。けだし失心は萬悪の始めなればなり。

百七十、 かん貪財たんざい貪獲たんかく及び其他の欲のたたかひは我をみだす、我れ如何に為すべきか。――嗜甘の欲の戦ふ時は力をつくし神の為めに苦戦して身体に其の要求するだけをあたふるなかるべし。貪財〈貪獲〉に関してもまた同様に行ふべし。たたかひの汝をみだすある間は襦袢じゅばん又は土器に至る迄もぶんのものは一も断じて得るなかれ、且最小なる物に於て、苦戦すべし〈貪獲に向つて〉。さて神の助けによりこのたたかひに勝つ時は汝に要用なるものを神によりて獲よ。他の諸欲につきても亦かくの如く〈実験的反対をもて〉行ふべし。

百七十一、 たやすく発怒する所の兄弟につげん、もし汝はすべての人の為めに自ら死し多少の謙遜を有せんことを自らつとむるあらば平安を有するをべく多くの災難を免れん。汝の心は神の前に謙るべし、さらば神の恩寵はすべてに於て我等を保護せん。

百七十二、 もし汝は〈病弱の為め〉しょうと祈祷とを坐して行ふも感動と共に行ふ時はこれ汝の奉事の神意に適ふを妨げざるなり、けだし誰か立ちてこれを行ふも放心を以てするならば其の労は無に帰せん。

百七十三、 なんあるいは立つか或は坐するか或はぬるか汝の心を汝のしょうの勤めに於て儆醒けいせいせしむべし。日夜間断なく神にはしり着きて祈祷に己をゆだぬべし、然る時は霊魂を打贏うちまかす所の敵ははぢこうむりて退かん。

百七十四、 我が神を希望するの徴候は如何なるか、又罪の赦さるゝの徴候は如何なるか。――神を希望するの徴候は肉躰にくたいの為めに配慮するすべての念を己れより抛擲ほうてきして此世に何物をか有せんことを断じて思はざるにあり、けだし然らずんば汝はこれにのぞみを有して神に有するにあらざるなり。又罪を赦さるゝの徴候は罪を憎んでふたたび行はざるにあり。されども人、罪事を思ふて其心にこれを楽み或はこれを実際に行ふある時は是れ即ち罪は其人にいまだ赦されずしてなほ罪人と認めらるべき徴候なり。

百七十五、 定理の書を読むべきか。――汝が此等の書を研究せんことは我は願はざらん、何となれば此等の書は智識を上に挙ぐればなり、むしろ智識を下にへりくだらしむる諸老人のことばを学ぶべし。我がくいふは定理の書をいやしむが為めにあらず、たゞ汝にかんするのみ、けだし食物は種々あればなり。

百七十六、 聖書にいふ『君長たるもの汝に向ひて発怒するも汝の本所を離るゝなかれ』〔伝道書十の四〕。是れ何を意味するか。――是れ即ち思念をして汝に向つて発怒せしむるなかれ、これと談話するなかれ、すなはち神に依頼せよとなり、けだし彼れに〈思念に〉答ふるあらんと欲する時は彼の事を回想するに引入れられて彼は汝を祈祷の熱心より離れしむべければなり。

百七十七、 誰彼に論なく我を悪しくいふあるを聴く時は我れ如何に為すべきか。――直ちに祈祷に起ちて先づ某者の為に祈るべくついで己の為に祈りていふべし、曰く主イイスス ハリストスや此の兄弟と汝が無用のぼくたる我をあはれみ汝が諸聖人の祈祷をもて我等をあしきよりかばたまへ、あみん。

百七十八、 誰か他を悪言し始むるあらんに気付く時はすみやかに談話をやめ或はこれを他の更に有益なる談話にへんを要す、なほ此事に於て遷延せんえんするなかるべし、多言により〈再び〉悪言に陥らざらんが為なり。

百七十九、 悪言を楽んできくはこれまたおなじく悪言にして同様の定罪をうけん。

百八十、 無力の為めに生ずる天性自然の失心あり又魔鬼より来るの失心あり。もし汝はこれを弁別せんと欲せば左の如く弁別すべし、魔鬼に属するものは其の己れに休息を與ふるを要するの時に先だちて来らん、けだし人何にても為し始むるある時は事の三四分の一成らんとするに先だち彼は人をして事をすてゝ起たしむるなり。其時は彼に聴従すべからず乃ち祈祷を行ひ忍耐して事に勉励すべし、さらば敵は人の此事の為めに祈祷を行ふを見て彼と戦ふをやめん、けだし敵は祈祷に端緒を與ふるを欲せざればなり。

百八十一、 〈長老は〉兄弟につげて左の如く言ふべし『願くは誰も思念を隠さゞらんことを、けだしもし誰か思念を隠すあらば魔鬼はよろこんで彼のたましひめつすに尽力せん』と。然るに兄弟のうち誰か汝に自己の思念をつぐるある時は心中に呼んで左の如くいふべし『主よ兄弟の霊魂のすくひの為めに爾の意にしたがひて我れを教へ給へ我れ彼れにいふことを得んが為めなり又汝の言をいひて我が言をいはざらんが為なり』。

百八十二、 己を〈長老は〉悉くの人よりいやしく思ふべし。されどもこれと同じく汝は悉くの人のしゃにして汝がうくる所の位の為めに答責とうせきを與へざるべからざる者と思ふべし。

百八十三、 もし我れ誰なりとも何事をか為すを見て其を他の人に話説せんにれ彼を議するにあらず我等たがいに談話するのみといふならば此の時我のおもひに誹謗あるなきか。――人は此をいひつゝ此時に欲の動きを感ずるあらばこれ最早もはや誹謗なり。されども彼れもし欲より免るゝあらばこれ悪言にあらずして悪を成長せしめざるが為めに言ふなり。

百八十四、 誰か自由にして己れに罪と悪とを有するか又誰か自由ならずして有するか。――自由にして己れに罪と悪とを有するとは己の自由を悪にゆだねこれをもてたのしみこれとしたしむ者是なり。かくの如き者は「サタナ」と親睦しおもひに於てこれとたたかひさゞるなり。されども自由ならずして己れに悪を有する者とは使徒のことばに依るに〔ローマ七の廿三〕其の肢体に於て抵敵する反対の力あるを覚ゆるあり、且或る黒暗の力の己れを覆ふあれどもたゞ思念中にあるのみにして思念がこれと合同せずこれをもて楽まずこれにしたがはずかへりて反論、抵抗、逆言、抵敵して自から己を怒る所の者是れなり。

百八十五、 たいいつなれどもえだは多し、されども一肢を欠くあらば体は完全の体にあらざるが如く多くの徳行をもて其肢そのえだとする内部の人の事も亦同く然るを知るべし。もし其中そのうち一つを不足するあれば人は最早もはや完全の人にあらざるなり。されば己の本職を善く知り又其の才智の敏捷びんしょうなるに依りて他の諸の職業をも学ぶ所の職工は其の諸の職業の師とは名づけられずしてたゞ其の本職の師と名づけらるゝが如く此処ここに於てもかくの如くなるべしすべての徳行を有する所の人はそれに依りて認識せられそれによりて名称をうけて聖神の恩寵はそれによりておほいに其人を照らすなり。

百八十六、 聖物をいやしめ或は聖なる信仰をそしる者あるを見る時は熱心の故に彼に対して心のみだるゝあり。是れよろしきや否や。――匡正〈悪の〉は悪なる者により成らずして善なるものによりて成らんことは汝の既に聞く所なり。故にかく挙動する者を神を畏るゝの畏れをもて教誨きょうかいし温柔と寛忍とをもていふべし。されども自から心のみだるゝを見るあらば何もいふべからず。

百八十七、 我れ如何いかんすべきか我はたやすく欲にいざなはる。――欲と同盟を為すなかれ『汝の目をそらしてむなしきを見るなかれ』〔聖詠百十八の三十七〕汝の手をたんよりとゞめよ、さらば神は汝を欲より救ひ給はん。礼譲をもて己を行ふべく食と飲とを飽くまで味ふなかれ、さらば欲は汝にしづまりて汝は安きを得ん。


【188 から 201 まで未入力】