祈祷惺々集/我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓 (4)

我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓

祈祷の説教及其の注釈

四十、 多くの祈願と多くの年歳ねんさいて得たる所の者は長く久し。

アフ、 多くの年時と大なる労苦及び祈願をもて得たる所の者は堅固にしておほいに強く且長くひさしうして我等が終焉に至るまで我等と共にとどまらん。

四十一、 主を得たる者〈主を己れにやどしたる者〉は既に祈祷に於て自から言を発明するの必要あらざるべし、けだしかかる場合に於て『聖神は言ふべからざるの慨嘆をもて〈祈祷に於て〉我等の為めに代求すればなり』〔ローマ八の二十六〕。

アフ、 其の内部に神が自から住所すまひを建て給へる其者は祈祷の言を発明し又は思出すの必要あらざるべし。けだし其時全能なる且全く仁慈なる神は自から彼の智識を照らして祈祷に於て言はしむべく又心を奮熱して流涕感動の情にへざらしむ、而して霊魂をば強き希望と深き悲痛とにより言ふべからざるの慨嘆に進ましむべし。
ミンヌ 言意は其時智識は神の恩寵によりて祈祷者に祈祷を賜ふ所の者に高く飛揚すべし且彼れに黙示せられて其の祈祷に於て言ふべき所の言を慮るに及ばざるべし、けだし祈祷は其時彼れに於て虔恭と忠順と愛との奮熱なる情により言なしにそそがれ心よりいでて行くべければなり。

四十二、 祈祷の時に於て五官に属するのいかなる空想もうくるなかれ、狂信に陥らざらんが為めなり。

アフ、 慎んで祈祷の時にいかなる他の思念も妄想もうくるなかれ、汝に向はんとする所の言をきくなかれ、これに答ふるなかれ、もし其の言のいづれか信仰に関係するある時は特に然り。ただ祈祷し全然の希望をもて神にざいすべし、さらば神は汝の智識を眞理より離れしめざらん、た信仰をそこなふべき所の或る迷謬めいびゅうと或るほろびを致すべき所の異端とに陥らしめこれによりて正しき信仰の恩寵とたまものとを失はしむるを致さざらん。正しき信仰はこれ我等が神の言を断じて眞實なるものとして信ずるが為め又諸神父と同じくこれをえきに守らんが為めに要する所のものなり。
ミンヌ 祈祷して或る五官に属する所の物を神の物にするなかれ、信仰と承認の正しきより離れざらんが為めなり。
注、 されども余按ずるに此條は祈祷の時に於て五官にあらはるる幻像げんぞうを言ふならん、敵によりて生ずる象様しょうよう聲音せいおん又は光輝をいふならん。或者はこれを信じて発狂したりき。

四十三、 ねがひのきかるるを信ずるの信認は祈祷の時に心中に現るるなり。而して此の信認はもろもろのうたがひを一掃するなり、信認は明亮めいりょうならざるものをもっとも明亮にあらはす〈疑惑と揺動とをゆるさざるなり〉

アフ、 人は神を畏るるとすべての崇敬とをもて祈祷に立つや其の霊益の為に要する所のものを神よりうくることと又其の神に向ふの愛すべき心志を神が憐みて其のことばをうけ其のねがひに注意することを信ぜんを要す。潔く且つ謙遜にして堅く信ずるの心の徴候は人がすべて不信の微々たる閃光よりも免るを得て其の信ずる所のものを智識の目にて洞察すること恰も己の前にある所の物を太陽の光により肉眼をもて見るが如くし純一にこれを信ずるの時にあり。

四十四、 つとめて祈祷に励精して憐憫なるべし、けだし〈これが為めに〉修士は〈祈祷〉に於て百倍をうけん馬太十九の二十九〕さてこれに次ぐものは〈此の後福音経にいへる限りなき生命を継ぐことは〉次の〔世〕においてうけん。

イリ、 言意はもし祈祷すること百倍なる時はこれによりてたまものをうくることも百倍なるべく来世に於ては永生をがん。
アフ、 汝の祈祷が神に悦ばるるを得んとこれを愛する所の汝は自ら亦汝の力に応じてほどこしを行ふべし、何となれば慈悲なる修士はこれが為めに此世にありては百倍のほどこしを他人よりうくべく神よりは千倍の助けともろもろのたまものとをうけ、来世に於ては其の労に応じて萬倍永遠なる幸福と天國とをうくべければなり、福音経にいふが如く今此時に於ては百倍をうけて永き生命と天國とをがん〔ルカ十八 馬可〕。
ミンヌ 汝はぜんの為めに自分の腹を封ぜり、我れ〈神〉も報酬の日に於て汝をあはれまんが為めに我がふところを封ぜん。
又いふ敬虔なる者に恩恵を施すべし、さらばむくひをうけん。
又いふ自から貧者の涙を見てこれに憐みをあらはさずんば、汝は祈祷して何をかなしむか。

四十五、 火は心に臨みて祈祷を復活せしむ、されど祈祷が復活して天に昇るの後に火の霊室にくだるあり。

イリ、 言意は神出なる望は人の心に入りて彼に於て祈祷を奮興してこれを潔き思念により天に昇らしむべしつい彼處かしこより至聖なるしんの恩寵を霊室にくだして其の智と心とを照らしこれを洗浄して剛強なるものと為すこと使徒等にありしが如くならん。
ミンヌ 彼れがここに火と名づくるは心に奮興して智を天に高むる所の神出なる望をいふ。其時はつひに此世のもろもろの智慧よりももっとも高上なる所の霊室にかみしんの見えずしてくだるあらんこと見ゆる表徴をもて使徒等に降りしが如くなるべしとなり。

四十六、 或人いふ祈祷は死を記憶するよりなほ勝れりと、されども余は二性を一位に於て讃頌さんしょうせんとす。

イリ、 或人いふ祈祷するは死の記憶を己れに有するよりなほ勝れりと、されども神父はいへらく余はいつハリストス我が救世主に於て二性即ち神性と人性とを尊敬するが如く此の二者即ち祈祷と死の記憶とをいつの等級に置かん、いつの行列に立てん。
アフ、 或人いへらく祈祷は感動と虔恭とを與ふること死を記憶するより更に勝れりと、然れども我は二者を共にしょうし且尊重することなほハリストスに於て人性と神性の二つの性が分れず又混ぜずしてあはせらるるを讃美し且尊敬するが如くせん、けだし彼の二者は共に心霊を唯一の恩寵と聖徳とに導びけばなり。
ミンヌ 二者は神出なる感動に充てらるる心霊にひとしくぜんをもて働くとなり。

四十七、 快馬は通常みちほんするに従ひいよいよ熱していよいよていす。我れていといふは詩をとなふを指し馬とは勇ましき智識をいふ。かかる智識は遠くたたかひあらかじめ用意して〈前以てたたかひに〉他に全く勝つ能はざらしむるなり。

イリ、 彼が智識と祈祷とを比喩をもて馬と名づくるは馬のはるかに敵を嗅ぎ知りてげきさるるが如くかくの如く智識も勇ましく祈祷に前進して熱心にこれを行ひつつ剛強に且更に大なる活気をもて欲念に対し武装して彼をして己れに近づくを許さざるべきことを訓示するなり。
アフ、 良馬はけ始めてあたたまるあらんにいよいよればいよいよ熱してるを倍するなり。駆るとは祈祷にして馬とは剛強なる智識なり、彼れいよいよ歌ひいよいよ祈れば心霊は神出なるはたらきを起すにより内にますます熱してすべての誘惑に勝つべく又其の途上に於て敵が遮断せんとする悉くの妨礙ぼうがいに勝つべきの力をるなり、即ちこれ後来祈祷が備ひ且武装して敵を迎へんとする所の力なり、此力は敵を蹂躙じゅうりんし又其の姦計を破らんこと蛛網ちゅもうを破るが如くにして彼れに打勝つを得んとす。

四十八、 渇者の口より水を奪ふは酷なり、されども感動して祈祷する者の霊魂を祈祷の終るに先だち其のおほいに渇望して祈祷に立つより引離すは更にいよいよ酷なり。

アフ、 渇者の口より水を引離し彼をして其の疲らす所のかわきとどめしめざるは大なる無情残酷なり、然れども更にいよいよ無情にして残忍なる行為は感動したる愛神の霊魂をおほいに渇想して祈祷に立つより引離すにあり、即ち其の祈祷の終るに先だち其の心中の渇を止むるに先だちてこれを引離すにあり。

四十九、 火と水〈中心の温熱と涙涕と〉が摂理によりて盡きたるを見認みとめざる間は離るる〈祈祷より〉なかれ、けだし汝は犯しゝ罪の赦をうけんにかかる好時機を有すること汝の生涯中恐くはあるなかるべければなり。

イリ、 言意は汝の心の燃ゆるえんへいそくし涙の水のじんするを見認みとめざる間は己の祈祷に妨ぐるなかれ、けだし汝は己が全生涯に於て汝の大なる罪をてんにかくの如き時機に出逢ふこと恐らくはあらざるべければなり。
アフ、 心中に燃ゆる所のえんげんぜず涙のきざらん間は感動したる祈祷より退くなかれ。汝は生涯のうちに於て己の罪を洗ふが為にかかる好機會にた逢ふことあらざるべければなり。神はしばしば彼を〈心の燃ゆることと涙とを〉汝の幸福の為めにさへぎとどむることあり、これかくの如く神に感動せらるる行の汝の内部に生ずるによりなんぢ自ら高慢せざらんがためなり、されば汝は自から決して己れを放心し且冷淡ならしむるを敢てするなかれ。
ミンヌ 感動したる神出の涙と感動の火とが自から絶滅する〈汝の誇らざらんが為め摂理によりて〉あらざる間は祈祷より退くなかれ、汝は最早もはや他時に於ては断じてかくの如く有力なる代求的祈祷を有すべき機會の来るを知らざればなり。

五十、 祈祷の味を知りし者いつの吐露する言をもて智識を汚さんに最早もはや祈祷に立ちて通常の如く渇望する所のものに出逢はざること屡々しばしばなり。

イリ、 一言いちげんは或は其の不適當の為め或は其の自誇じこの為め或は其の誹議ひぎの為めに心を汚すことしばしばこれあり。
アフ、 祈祷の甘きをめて其味を知れる者が或は不注意にして己の口よりづる所の一言により或は他より偶然にきく所の一言いちげんにより其の智識を汚し最早これをして完全に祈祷に立つ能はざらしめ及び潔きをする能はざらしめ或は以前の感動と涙とに達することをも或は神に属するの望ましき味を通常の如くにりょうすることをも賜はらざることしばしばこれあり。

五十一、 ア〕智識は或は心の為に屡々監視し或は心に監督となること恰も君主の如く又ハリストスに有言なる犠牲を献ぐる大牧師の如し。

イリ、 智識は身体の感覚を整齊せいせいに保ちてこれを善に教ふる時は君主と名づけらる、然して内部の意念と感覚とを潔く且てんにして神に献ぐる時は主教又は大牧師と名づけらるるなり。
アフ、 智識は或は心を守りてこれにあしき希望の入るを許さず而して其の入りし者をひ且ほろぼすことなほ主人の其里と其領地とを守るが如くするあり、然して或は心を聖にして其の悉くの運動と共にこれを神に献ぐること大牧師の如くするあり、或は情慾の為に主教となり君主となるあり。後者は前者よりも更に高尚なり。
又、 智識はすべて己の内にある者と己がかたはらにあるもの、即ち心霊上の力と肉体上の感覚とを整齊せいせいに保ちて當然に管理する時は君主たり、然して祈祷に由りて潔く且てんなる意念と感覚とを神の犠牲に献ぐる時は大牧師たるなり。且や君主の職はそとにあるものを監視するにあれども大牧師の職はそとにあるものの為めにもうちにあるも者の為にも監視するにあり。

五十一、 カ〕神学によりて称号を得たる或者のいへらく聖なる上天の火は或者には其の己を潔うすることの未だ充分ならざるにより降りてこれが焼直をすれども他の或者をば既に完全の程度に達したるに因りこれを照明するなり。されば彼れと此れとの火は一は清浄にするの火と名づけ一は照明するの火と名づけらるるなり。ゆえに一は祈祷よりづることなほ火爐かろよりづるが如くわいと物質とより軽減を覚えて出で、〈然して他は〉既に照明せられ謙遜と喜悦の二祭服を擁して〈光の國〉より出づるが如し。されども此のふたつの行為のうちいづれもあるなうして祈祷より出づる者は外形にて祈祷したるも心神にてしたるにあらず。

アフ、 神学者グリゴリイのいふ如く智識が君主の如く立ち其心をもろもろの悪よりまもりてこれをいざなはしめざるを致す者には聖神天火の如く彼等の上に降りて其の欲を焼盡やきつくし其のわいをきよめてこれを罪の引誘によりてうくる所の凌虐りょうぎゃくより救はんとす。されども智識が儆醒けいせいし且清粛して大牧師の如く其の心と其のすべて善なる感動とを共に聖にしてこれを神に献祭する所の者をば神の恩寵のこれを照らすこと潔浄者の如くなるべく又これを光明なる者とならしむること完全者の如くなるべく剛強なる者とならしむること神の庭囿ていゆうに働くに堪ふる者の如くなるべくして其の家主に対するの愛にいよいよますます上進せしむるなり。かくの如くなれば此等の人々は天の大王の常にもっとも華麗なるほうとなり住所すまひとなるなり。そもそもかくの如きはたらきのあらはるるはあやしむに足らざるなり、けだし聖書に神を名づけて悪を蝕盡はみつくすの火といひ〔復傳律例四章〕及び焼盡やきつくすものといひ徳行を照らして心霊を楽ましむるの光と称すればなり。故に或者は祈祷より出づるや其の時神の恩寵にて其心を洗はれしこと浴場に於けるが如く清潔になりて欲の減じたるを覚ゆるなり、我等の既に述べたる如く神は即ち蝕盡はみつくすの火なることは此が為めなり。又他の或者は祈祷より出づること恰も照明し且環耀かんようする所の火に照らされ光明赫奕かくえきうちより出づるが如くなるべく又大なる謙遜と心霊の喜びとを被ることは其の主君たるハリストスの自から此の時に於て彼れに其の王衣を着せしめたる如くなるべし。されども此等の働きをいつも認むるあらずして祈祷より出づる者はただ身体は祈祷すれども其心は祈祷せざるなり、かくの如きはこれ直ちに不信なる猶太人といふべくして善良なる「ハリステアニン」にあらず。

五十二、 それ体の体とあひるるや其働きによりて変ぜらるるあらば潔浄の手をもて神の体に触るる者はいかで変ぜられざらん。

イリ、 もし手にて人の手をりし者はあくはたらきによりにはかに全く別人となるあらば潔き手をもて神の体にふるる者はいかんぞ変ぜられざらん。
アフ、 もし一の体が他の体に接してこれとあひるる時は其の沈着の性状を変じて熱愛の情となすならば奮熱の祈祷に於て神に近接する後、多くの屈膝くっしつの後、眞摯なる感謝と讃栄の後に自己の手を伸ばして主の至浄なる体をいだき且これをくる者、聖体禮儀のもっとも奇異なる機密に於て其の体と其の至浄なる血とをくる者はいかんぞ奇異に変ぜられざるべけんや、清められざるべけんや、照明せられざるべけんや。もし変ぜられざるあるはただ其の機密の晩餐に於て己の心に悪をいだける売主者イウダの如く不當にして此の機密に就く者のみなるべし。