米価騰貴と饑死人悪疫流行行倒人と騙取人物騒なる張札下賜金分配の不当備後一揆越後柏崎の一揆物騒なる世の中米価騰貴と疫癘流行六月の天候七月の日次八月の日次九月の日次困窮其きによりし乞食となる者多し小盗人の横行北越の徳政と貧民救助米価の変動河合郷左衛門死骸大坂に送らる党人評定所へ引出の警固大塩与党根本の取調市中の追剥米価騰貴と総嫁金相場十二月の米相場島津の家老出雲屋孫兵衛の処罰大坂騒動後の江戸の人気米価騰貴と買方制限米穀払底将軍より御救米を下さる米穀の代用に田螺を用ふ木葉松の皮抔食物とす落首江戸の人口狂歌岡翁助の書翰矢部駿河守より老中への進達書平山助次郎に加担を勧む平八郎の性癖吉見九郎右衛門の訴状平八郎の素行九郎右衛門病に托して加担を辞す東西町奉行より城代へ上進状大塩自殺に付上進大塩騒動に関する落首大塩一件戯薬法大塩一件相撲の番組○久太捨蔵ハ人名献立囃子大学章句作替へ勧進能作り替落し文の写米価調節の失敗焼失の町名並に家数
又昼夜の別なく、【行倒人と騙取人】大賊・小盗の為に、物を奪取らるゝ事も限りなき事なりといふ。四月中旬の頃、田簑橋の辺に旅人の行倒れ者有りしかば、其町内より訴出で桶に入れ、御定法通りに年齢・衣類・所持の品等を書記し、之を非人に守らせ有りしに、或日夕方に至り婦人一人出来り、「己が夫此間よりふと出でて帰り来らざる故、日々尋ね廻り候。此書付と年頃も衣類もよく符合する故見せられよといへるにぞ、桶の蓋を取りて死人を見せしかば、一目見るより大に愁歎し、「我が尋ね廻りし夫なり。私事は下京に住居する何某の借家にて、何と申す者なり。此死骸申受けたし」といへる故、番人より其由を婦人を連れて其町の会所へ届けしにぞ、「然らば其婦人の家主へ引合せぬる上にて送りやるべし」といへり。婦人之を聞て、「我が夫に相違なき事なれば、何卒極内々にて私へ給はり、私背負ひて此事内分に致したく、御覧の如く貧しき身分なるに、時節柄にて甚だ難渋なる暮しなり。家主・町内等へ御引合下され候ては、何かと費多く相成り迷惑致し候」とて歎きぬる故、其意に任せ、其女に背負せて渡しやりぬ、其明る日に至り北野辺の畠の中に、丸裸なる死骸と桶と打捨て有りしに、其桶の張紙其儘にて有りし故、其処よりして行倒れし町へ申来り、案外の事にて大に心配し、表立つては其町内の不念なる故、種々に相断り其事は内分になし貰ひて、死骸の取片付せしといふ。定めて同類有りてせし事なるべけれ共、婦人の身にて行倒れし死人を負ひ、其の衣類を剥取りしなど甚しき業といふべし。又貧【 NDLJP:118】に迫れる者共の中には、妻子を刺殺して自害をなし、夫婦子を抱きて川へ投身して死ぬる者など少なからずといふ。〈〔頭書〕四月出雲城下・筑後柳川等に大霰降り、目方四五十匁より大なるは百目に過ぐるといふ。人及び家をも損ぜしといふ。〉
御城代へ御老中ゟ之御逹書之写
其地町奉行跡部山城守組与力格之助・隠居大塩平八郎、不㆓容易不㆒届之企致し、及㆓乱妨㆒候節、御城内外堅固防禦等之儀、万端手筈宜敷由。畢竟指図行届き候故之儀と一段之事に被㆓思召㆒候。右之趣先づ不㆓取敢㆒可㆓相達㆒旨上意候。依㆑之如㆑此に候。恐々謹言。
四月朔日 松平伯耆守
水野越前守
土井大炊頭殿 松平和泉守
両御町奉行二月十九日巡見の積りなりしに、大塩が騒動にて其事なかりしにぞ、漸漸と五月七日巡見の積りなりしに、其前々日の事なりしが、堀江問屋橋の北南、其外辰巳屋休兵衛横町・高麗橋・西国橋、【物騒なる張札】其外新難波橋・中橋・戸屋町・天満樋上町等へ張紙をなす。其文言は、「大塩平八郎内談之筋をも不㆓相用㆒、至つて不自由なる米を過分に江戸表へ積下し、夫故当地は米価大に貴く成りて、諸人飢餓の苦しみをなす。此故に難波橋筋より西南先達て焼かざりし処、悉く焦土となすべし。奉行出張せば其儘に差置かじ。夫を恐ろしと思はゞ速に関東へ立退くべし。若し此張札
〔頭書〕五月十八日頃よりして、此度の五万貫文も亦、一人前六百五十文宛の割方となる。是にては先達て類焼の者に下されたる時の一貫文と同様の事にて、困窮至極の者計りに非ず、上よりして厳しく御糺あらば、是等の事は委しく相分りぬる事ならんに、如何なる事にや有らん訝しき事なり。斎藤町にても施行受けし者百五十九人なり。【下賜金分配の不当】何れも相応に商売をなし、男女の下人を召遣ひ、少しづつ人に金銀を貸しぬる身分にて、之を受けし者少なからず。是等に下さるも道に背き、是等の貰ひぬるも其理に当り難し。大坂中大抵斯様なる事にて、上より下さるゝ物なれば貰はぬは損なりと思へる心にや、いかにしても浅ましき振舞にして、
〔頭書〕四月上旬、【備後一揆】備後三原に悪党八百人余蜂起し、大塩平八郎門弟といへる幟を立て乱妨をなす。広嶋より大勢討手に向ひ、二百人余召捕へ静りしといふ。
〔頭書〕六月朔日、【越後柏崎の一揆】越後柏崎近辺へ一揆八百人計り蜂起し、農商共に大家を悉く乱妨し、金銀・米銭を奪取り、大勢の人を殺害し、松平越中守陣屋へ押掛け、門を打破り番人両人を殺し、其余即死壱人・手負五六人に至る。陣屋の方には一揆六人を討取りしといふ。陣屋へ切込みしは僅か七人にして、国賊を討つといふ幟を持ち、頻に鉄炮を打込みしといふ。され共鉄炮不鍛練の者共故、一人も之に当りし【 NDLJP:120】者はなかりしといふ。此外の幟は大塩平八門弟と記し有りしといふ。近辺の諸候より何れも多くの人数を出し、鉄炮にて打竦めしかば、直に平治せしといふ。発頭人は館林の家中、当時浜田の浪人壬生万といへる和学者なりしが、越中侯の陣屋にて討死す。此者の妻と二才になれる小児と召捕られ、入牢せしに、其妻小児を刺殺し、己れも自害せしといふ事なり。
又大塩平八郎未だ死なず、油掛町にて死たるは身代りの影武者なり。兼ねて内山彦三郎と心を合せ、諸人の難渋を救はんとて、自分は奉行を諫め、内山は中国・西国筋の諸侯を頼みて、【物騒なる世の中】米を漸々買出し来りしに、其米を直に江戸へ下して、当所の奉行を勤めぬる身分にて有りながら、その飢死するをも構ふ事なし。斯かる奉行は早く江戸へ引取るべしなどいひ、〈草履に赤紙をつけて東役所へ投込みぬ之は足本のあかき中に早く帰れといへる事の由。其外門前へも種々の張紙抔せしと云ふ。〉
内山も之が為にすねて引込みて出勤せず。かゝる事にて江戸は却て米沢山に成りて、相場も大に下落し、其外の国々も至つて安し。当所計りかく米払底に及び、高価に及びぬる事は、全く奉行の業なりと言触らし、二代目の大塩平八郎米価を
米仲買共等召捕られしと麦を取納めしとにて、【米価騰貴と疫癘流行】二百五十文位の米、二百三十二文位と成りしが、これも暫の間にて直に元の如き直段と成りしが、六月に入ると乍ち次第上りにて、五日肥後米一升三百廿文と成る、前代未聞の事共なり。疫邪益〻盛んにして、之が為に人死限り無く、千日の墓所計りに送る処、日々百四五十人になれ【 NDLJP:121】りといふ。余の墓所も是に准ず。此の如くなれば、非人・乞食に落ちて餓死する者其数を知らずといふ。〈当月朔日夜、伝法村出火、十三軒焼失、附火の由。同四日夜島内出火、三町余り焼失、之も盗賊の業なりといふ此節束奉行出馬なりしに、大いに人気立ちて騒々しく、己に事有らんとする位の勢ひなりしといふ。何につけても不評限りなき事なりといふ事なり。〉又中の島平戸屋敷塀に、米三百文に至らば堂島を焦土となすべき由、墨にて書散らせしといふ。七日には米屋々々の店毎に米の入りし半切、悉く明殻らにして少しも米を入れぬるはなく、米一升を強ひて買はんとすれば、三百五十文より四百文なりといふ。〈西国橋の欄干に大文字にて、「諸色高直にて万民困窮少からず。米商人・諸蔵留守居共の首を切台に載せ申す可き事」と書記しぬ。〉【六月の天候】同十四日頃より稲の様子も至つて宜しき故、米の直段追々に下落して、最上よりは五十匁計り下る。廿四日より夕立の催あれ共、雷鳴のみにて雨なし。廿六日申の刻小雨、直に止む。廿七日午の刻雨、直に止み暫く暴風吹き、申の刻少雨〈近国・近在は夕立多く、川々水つき至つて乏しき処、少々水出て一面の泥水と成る。備前・備中・作州・四国辺は、時々大雨にて、洪水一時に出で、昨年の如き大水なども一時の暴水故、田地の障りにはならずといふ。〉直に止む。当年は天気の都合至つて宜しく、土用に入つて旱り続き、稲株大に太り豊作の様子なり。廿八日申の刻雨、終夜降通しにて廿九日午の刻迄大雨、午後よりして折々少雨、申の刻に至りて止む。〈廿七日の小雨暴風ありしより、廿八日至つて涼し。単物にて寒き位なりしかば、又米価五十匁程貴くなる、全く姦人共の仕業なるべし。〉廿九日大塩が残党大西与五郎・大井庄一郎・吉見九郎右衛門・竹上万太郎・安田図書・美吉屋五郎兵衛并に妻、都合七人江戸召下しと成る。
七月二日より当国能勢郡・川辺郡・豊嶋郡等に一揆起り、【七月の日次】人数千九百人余り笹山・亀山・三田等各〻領分境を固め、当処より討手向ひ、麻田・桜井谷・小堀・根本・能勢・保科等の人数何れも猟師共を先手となして、一揆張本十三人を四日昼過に討取り〈何れも猟師共鉄炮にて打取り、武夫の打ちし織炮は一つも当りしはなく、又刀槍にて討取りし者も一人なし。猟師なくんば危し〳〵。〉残党散々に迯行くを大勢召捕り帰りしといふ。〈能勢一揆事長ければ別に委く記るす。〉気候少も申分なく稲株珍らしき程太り盛なるにぞ、十日過に至り米直段五六十匁下る。〈兵庫・灘辺にはこれ迄なしといひし米、諸国方仰山に持込み、売人のみにて買手なしといふ。かく沢山なる米を囲ひ占めて、昨年来多くの人を餓死させし事、天道・人事に背きし致し方悪むべき事限なし。〉十七日初相場、肥後米一石百七十匁となる。正米の売買は百五十目にても買手なし。これ迄なしと云ひぬる米の、何れより出来れるともなく、大坂にても沢山の様子にして、今日始めて一升に付百四十文の米を貧人求むることを得るに至る。十八九日又米を買占むる者有りて、又米一升二百以上となり、五六人召捕られ入牢す。されども直段は少しも下る事なし。廿一日卯の刻大【 NDLJP:122】雨・雷鳴、辰の刻止む。申の下刻より大雨。廿二日に至り、辰の刻より盆を傾くるが如し。廿三日終日雨、大塩が徒大西与五郎忰・吉見九郎右衛門が忰・庄司儀左衛門が、忰江戸へ召下しとなる。〈荘司儀左衛門は大坂にて死し、此者の忰なれば、先達て大井・美吉屋などと同時に召下しとなるべき事なり。然るに其噂をきかす。此度召下しとなりしは、竹上万太郎が忰ならんか。又一説に、大西が忰計りなりともいふ。〉廿八日時々少雨、暮過より終夜雨。〈〉当下旬相州小田原の沖へ異船来り、「水を切らせし故、水を求る」の由なれ共、騒々しき折節なれば之を取上げず、鉄炮にて打払ひしといふ。同時に薩摩へも異船来り、之も水を求る由なるにぞ、水を与へしに暫は沖に滞留し、夜に入りては地方迄の海中の浅深を見廻れるにぞ、鉄炮にて打払ひ三人を打取りしといふ。元船の大船三艘琉球の島に滞りて、様子を見合せ居たる由、怪しき船なりしといふ事也。
八月の日次八月朔日暫く狂風吹く。【八月の日次】〈〔頭書〕当朔日の大風にで、尾州白鳥祠を吹飛す。本社の下に穴あり、其辺の子供等其穴に石を投ずるにはるか底に到りて金声をなす故、社人・氏子等寄集り是を試るに、其深きこと井の如くにして計り難し。何分怪しく思ふにぞ、何れも申合せ火を灯し穴中に入しに、数十丈の下に種々の神宝並べてあり。一端これを取出し、又元の如くに之を納め置きぬ。其図別紙に記し置く、夫を見て知るべし何とも分り難き古物か。〉三日夜に入り風。四日曇、時々雨。夜中降続き初更雷鳴。五日巳の刻雨止み大水出づ。六日益〻甚し。七日微雨。八日時々雨。夜中降続き九日雨、午の刻大雷・大雨。十日洪水。十一日申の刻より曇り、初更より雨。十三日未明より少雨、午の刻より風雨烈しく終夜雨。十四日未明より雨、辰の刻より尤甚しく木を折り砂を飛ばし、終日止まず、夜に入り晴れ洪水出づ。中の島・堂島等地面低き処は大道も水浸しに相成り〈此大風にて近江・美濃・尾張・遠江其外諸国とも家蔵・樹木を倒し、田畠も散々に成り果てしとて、種々の風説をなす。近江にては米買占めの者、直段下落にて大損と成る故、神社・仏閣・湖水等へ死人を焼さし灰を蒔きて不作を祈りし故、かかる大風吹出しなど専ら風聞す。是も全く米相場する姦商共の、諸人をあやかす事と思はる。篤と其後に至り処々聞合せしに、田畠には何れの国にても、少しも障る事なしといふ、姦商の所作悪むべし。〉夫より日々米価を引上げ、又三百目余の直段となる。十五日曇、二更より雨。十六日未明より大雨・大雷、已後時々雨。十七日風。十八日曇、時々雨。廿一日申の刻より小雨。廿二日曇、巳の刻より小雨、午刻より大雨終夜降る。【九月の日次】廿八日時々小雨。九月朔日曇。二日将軍宣下に付、二条殿・近衛殿其外月卿・雲客東行ある。四日未明より微雨、辰の刻より大雨午の刻止む。七日未明より時々雨、丑の刻より大雨・雷鳴。八日時々雨。九日晴曇不㆑定、午の刻より風少々出づる。是迄姦商共米を買占め隠し置き、種々の風説をなして諸人を困窮せしめしか共、眼前に稲は至つて宜しく、早稲をば先達て取込み、中稲・晩稲も至つて満作なる事は、小児の目にも留る程の事なる故、姦商共も今は施すべき手段もなく、諸国よりして是迄なしといひし処の古米追々に登りぬる故、詮方なくて七八日の頃より米価下落するに至り、十三日頃は長州の古米一石に付、百三十五匁とな【 NDLJP:123】り、余の米直段も是にて知るべし。【困窮其きによりし乞食となる者多し】貧窮なる者共は是迄種々様々と積りをなし尽して、食物に鍋・釜迄喰ひはてぬれば、今更に米価下落せしとて、之を求めぬる手当もなきに、是迄は一つ有る処の衣類をも食に宛てぬれ共、又寒空に向ひぬれば、米の外に身を掩はずしてはなり難き時節に至りぬるにぞ、愈〻堪へ難くして、日々乞食となれる事なるべし。近来の乞食多き事其限なし。市中の往来群をなす程の事にて、食を乞へ共之を与ふる者も稀なるにや、飯櫃の洗ひ汁・肴の骨・腐れたる物・犬にやる物・柿の皮にても香の物の切端にても、湯にても茶にても、一口与へ命を助け給はれと、【小盗人の横行】昼夜叫び廻れる声の、哀れにも喧しく耳に立ちて堪へ難きに、小盗人共頻りに徘徊し、一町内にて二軒・三軒、多きは四五軒程も格子をはづし上げ、店を取り簀戸をはづし、天窓より入るなどありて、昼夜共騒々しき事共なり。
加賀の家中に叛逆人これあり、江戸に於て主人を毒殺せんとす。侯之を悟りて其食を喰はず、膳番・茶道等へ之を喰はせられしに、何れも吐血煩乱して死す。之に依つて直に厳しく吟味有りて其逆人を誅し、穏便に鎮りしといふ。され共加・能・越の三国の領分は一統徳政を申渡され、【北越の徳政と貧民救助】富める者共は申すに及ばず、京・摂其外他国より入込し商人共大いに難渋に及び、いかんとも詮方なしといふ。され共貧窮の者共へは一統に扶持を与へ、悉く之を扶助せらるゝといふ事なり。質屋などは株有りて運上ある者なれば、十分一にて取引せよとなり。其余の株も之に准ず。〈例へば百目にて置きし質物なれば、銀子十匁にて本人へ返し遺すべしとなり。正しき政事には非ず。〉
九月十三日・十六日・十八日、将軍宣下・御転任御祝儀等相済。〈京都へ御礼の御上使十月相済。〉
同月始め七八日頃より米価次第に下落し、百二三十目位なりしが、同廿日頃より米払底の由を言ひはやらせ、【米価の変動】又百五六十匁位となる。されども其頃よりして打続き天気の都合も至つて宜しく、米も少々づつ入津する様になりしかば、又下りて百四五匁となりしが、暫くは百目前後にてすわり居しが、又九十匁前後となりて、十一月下旬迄ありしが、又八十五六匁位となる。非人・乞食共多勢道路に倒れ死せる事、限なき中にも十才以下の子供尤多し。
大塩が一味河合郷左衛門、能登に隠れありしを加賀より捕手に向ひしかば、或る山【 NDLJP:124】中に逃入りしといふ。【河合郷左衛門死骸大坂に送らる】大勢にて其山を取巻き押詰めしかば、詮方なくして切腹せしかば、其死駭を塩漬となし、大坂へ来りしといふ。
大塩平八郎党の内、【党人評定所へ引出の警固】江戸表へ御著下の者共、細川越中守殿へ御預け相成り評定所へ引出の節、固め左の通り。
定詰足軽五人 定詰足軽五人 騎馬留守居代 清田七左衛門 上下七人 騎馬物頭 竹原九左衛門 上下九人 足軽五人 吉見九郎左衛門 御預人舁人四人足軽五人・小頭壱人
使番壱人 小性弐人 副士小性組 上妻源右衛門 騎馬物頭 垣屋喜蔵 上下九人 足軽五人 竹上万太郎 御預人舁人四人足軽五人・小頭壱人
歩行使番壱人 同小性弐人 副士小性組 武藤四郎左衛門 騎馬物頭 高田次武助 足軽五人正一郎 御預人舁人四人足軽五人・小頭壱人
歩行使番壱人 同小性弐人 副士小性組 次崎久兵衛 騎馬物頭 小嶋権兵衛 上下九人 足軽五人 安田図書 御預人舁人四人足軽五人・小頭壱人
歩行使番壱人 同小性弐人 副士小性組 吉村直助 津田源八 騎馬物頭 上下九人 足軽五人 大西興五郎 御預人舁人四人足軽弐人・小頭壱人
歩行使番壱人 同小性弐人 副士小性組 鎌田三左衛門 騎馬物頭 木村十左衛門 上下九人 足軽五人 美吉屋五兵衛 御預人舁人四人足軽五人・小頭壱人
歩行使番壱人 同小性二人 副士小性組 住田弥十郎 上下八人 定詰足軽五人 定詰足軽五人 留守居 後藤善左衛門 上下十一人 本道医師 外科医師
留守居下役一人 外使番三人 総人数弐百六十人。夜に入り候へば挑灯持九十二人外に物持有㆑之。
一、美吉屋五郎兵衛女房は入牢に相成候由。
十月に至りても米相場は九十目前後にて、格別の大狂なし。十一月十八日未明より辰の刻頃迄、雪少しくちらつきしかど、聊も地に積れる程のことなし。同廿八・九・晦日の頃南方の空大に光る、稲妻の如し。米の相場は矢張り九十目前後なり。【 NDLJP:125】同下旬大塩一件に付、【大塩与党根本の取調】江戸より御勘定吟味役等四五人著せられ、十二月二日東御奉行所へ大塩掛りの者共総召出にて、之を鈴木町御代官根本善左衛門殿へ、引渡に相成り、これ迄は親類預にてありし科人も、今日より入牢となりしが、同七日御代官へ呼出されて、何れも根本の取調べとなりしといふ。同九日風、初更地震あり。当冬は雪も先月の少雪計りにて、其後少しも降る事なく、霜は仰山に降れども至つて暖にして、十月初め頃の時候の如くなりしが、十日に至り寒気甚だしく、十一日寒に入りしかば、こは寒の印ならん。これ迄の暖気過しを人々大に恐れ、かくては来年もいかゞあらん、地震にてもゆりやせん、先年住吉・天王寺等の焼けぬる時、南方大に光りしが、かゝる兆にやあらん抔とて、何れも恐れしが、寒気強くなりぬるにぞ、人々心を安んずるに至る。同十六日の事なりしが、尼ヶ崎町竹川彦太郎といへる両替屋の丁稚弐弐金三百両革財布に入れ之をかたげ、玉木町加島屋安兵衛丁稚は手形にて二千両を懐中し、【市中の追剥】両人連立つて安土町炭屋安兵衛方に到り、夫より瓦町難波橋筋の少し西を通りしに、悪徒三人附来り丁稚を捕へ、耳元にて竹鉄炮を打ちしかば、大に驚き其所にへたりしを、懐中より切物を取出し、帯に括付けたる財布の紐を切り、之を奪取りしにぞ、丁稚大に叫びしと鉄炮の音とに驚き、近辺家毎に悉く門口を閉ぢぬ。其処の番人賊一人を捕へ、之と組合ひゐる処を一人の賊駈来り、番人数ヶ所手疵を負せ、組まれし同類をも殺し、己れも咽を突きしかども死せざる故、近辺にて未だ門口を締めずしてありし紙屋へ駈込み、助けくれよといひぬるを、大勢寄合ひ之を召捕へ、御番所へ差出せしといふ。今一人の賊は金を取りて相〔其か〕場を逃れしかども、四五日過ぎて順慶町にて召捕られしといふ。こは十六日の昼過の事なしりといふ事なり。白昼に市中に於てかゝる賊をなせること、時節とはいひながらも傍若無人の振舞にして、上に諸司もなきが如し、歎ずべき事なり。去る巳の年の米価貴かりし後は、【米価騰貴と総嫁】困窮せる者共の人倫をも弁へざる者の妻子と見えて、老若の別なく、何れも暮過より総嫁に出づる至つて多かりしが、其後打続き凶年なるにぞ、此者至つて多く、淋しき所・賑やかなる所の別なく、暮過よりしては大に群をし、上下の別なく往来の人を引留むる抔、甚しき事なり。公儀よりも厳し【 NDLJP:126】く御触有りて、町々にても大に征討をすれ共、これを停止する事能はず。追へば去り引けば又来りて、飯上へたかれる蠅の如し。先年も横堀にて総嫁を強く追払しかば、其遺恨にて材木小家に火をつけ、船場より天満堂島に到る迄、大坂過半焼失せし事もあれば、斯様の事を恐れぬるにや、強くも制止する事克はずして、愈〻甚しくなりぬるにぞ、往来する者も之に困れる程の事なり。又市中にても密に売女を引入れ、之を商ふ家々も沢山なる事なりといふ。浅ましき有様にはなりぬ。〈〔頭書〕玉水町加島屋久右衛門妻、出入する処の肴屋と不義をなして出奔す。町人風情とはいひながらも、是等は天下に知られし者にして、町人にては一二を争ふ程なる身分なりこの一事にても世間の風義の宜からめ事を思ひ計るべし。〉
近来金相場至つて宜しからず、大抵六十一匁前後なり。【金相場】これ正金にての相場なり。一朱金は百両に付五六百目も減ぜざれば通用せず。小判にては何程、二歩金にては何程、一歩にては何程、弐朱にては何ほど、銀一朱にては何程抔として、夫々の位に依つて高下有り。天下の宝に此の如くに甲乙有りて、下方にて私に相場を立つる事勿体なき事といふべし。十二月中頃迄は同様の事なりしが、相場少々宜しく成り、六十二匁八分より三匁三分といふこと一両日有りしが、直に下落し下旬に至りては、五十八匁八分より九匁二分といへる相場となる。諸人之が為に大損をなす。歎ずべき事なり。【十二月の米相場】米も亦少々上り気味にて廿三日仕舞相場、肥後米九十七匁五分なり。一石白米に仕立てぬれば百十匁余となる。昨年来に比すれば、価下直なる様なれ共、安き米には非ず。平年に比すれば凡二石の代銀なり。其外生木一掛四匁八分、香物一樽分九百五十文、塩一升五十八文位、総べて価下直なる物迚は少しにても有る事なく、世間一統大手詰りの様子なり。廿八日八つ過、暴に真黒に成りて少々みぞれ降り、暫くの間大風吹く。甲山の辺にて龍天上をなす。廿九日霰少しく降る。これ迄至つて暖なりしが、此一両日は時候に応ぜし寒気なり。
当正月に召捕へられて御預となり、【島津の家老出雲屋孫兵衛の処罰】薩摩の太主島津大隅守の執権職、出雲屋孫兵衛事、軽追放と成り、江戸十里四方・日光・東海道筋・山城・大和・河内・摂津・播磨・出雲御構ひにて泉州地へ追払はれ、家内の衣類・手廻りの物は妻子へ下し置かれて、其余は闕所なり。仰せ渡されし罪の次第は町人の身分にて帯刀を致し槍をつかせ、大勢の供【 NDLJP:127】廻りを引連れしと、無株にして質を取りしと、物を括りたると、〈こは砂糖を己れ一人の益になるやうになし、多くの間屋を難渋せしめ、何れも家督を奪はれし故、之が為に身上を潰せし者其数限りなし。外にも姦悪の事多しと雖も、あらはに之をいふ時は、薩摩の掛合ひとなれる故にや、物をくゝる事せしと計りの仰渡され下りし事にやといふ噂なりしといふ。〉の三ヶ条なりしといふ。前にもいへる如く、出雲にて不埒をなし、己が生れし国の住居さへなり難く、大坂に来りて姦悪をなせる曲者を、引入れるさへあるに、此者に何事も自由自在にあへかへさるゝこと、太守はいふに及ばず、一家中に於て、一人も人らしき智慧を持ちたる者なし、笑ふべし〳〵。彼家の弓矢も之にて思ひやるべき事なり。こは十二月廿九日の事なりし。
十二月上旬より天満天神の神殿へ、大麦・小麦何れも穂を出し実のりしを一株づつ、中国の辺より供へ、其国にては麦みな此の如くに時ならずしてよく出来しとて、こは全く豊年の兆なりと専ら言囃しぬ。予序有りしかばこれ見しに、大麦の方には長門国と有り、小麦の方には蔵人村惣兵衛と書記し有り。大麦は穂の勢も宜しけれども、小麦の方は余程萎れたり。こは好事の者
同廿四日、米仕舞相場肥後米一石九十七匁五分、越年米八十五万二千廿俵、昨年は漸く五十万には足らざりしに、之に比すれば当年は三十万俵余も多し。只来る年の豊ならん事を祈りぬるのみ。此夜五更の頃、高津新地出火にて二町計り焼失す。定めて附火ならんか、近来燃上る程には至らずと雖も、所々に差火する事其数限なしといふ。悪むべき事なり。
江戸ゟ来状之写
二月十九日大坂騒動後は、【大坂騒動後の江戸の人気】江戸地の人気も何となく強く相成り、兎角騒々敷く気立候人心に相見え申候。夫と申すも米次第に高直に相成候故、人気立ち候由に相聞え候。其米は代金一両に付一斗七八升に御座候。白米小売百文に付二合五勺ゟ六勺迄、依之猥に米屋へ勝手儘に買ひに参り候事不㆓相成㆒候。町々名主ゟ富の札の様なる切手、【米価騰貴と買方制限】一人前に一枚づつ相渡し候。右切手にて百文分二合五勺宛は買求め出来申候。其余は決して米屋にて売不㆑申、二人暮の者は二枚、三人暮の者には三枚と申す様に人別にて、名主ゟ毎日支配下町家へ切手相渡し申候。右に付一人前に百【 NDLJP:128】文分ゟ其余は求め候事出来不㆑申候。依㆑之市中難渋人多く、諸式直段何に寄らず騰り申候。当秋新米取続に相成候迄は余程長き事、此末如何に相成候こともやと、一同市中心配の事に御座候。
遠州稗原村村上庄司ゟ来状之写
大坂表も放火大騒動之由、八方の入口へ番所相建て、人は勿論書状等迄も一々御改有㆑之候と承り候間、態と差控へ申候。色々承候処、五人は五色の咄にて一向相分り不㆑申候。然る処に、町御奉行跡部様地役人勤番にて、御勝手相勤め被㆑申候人、此節帰国御座候て承り候処、最早静に相成候と承り候に付、御返事差上げ申候。大延引に相成候段、真平御用拾可㆑被㆑下候。御宅の儀如何と御案じ申上候処、御別条無㆓御座㆒と承り、安堵致し候。扨々大変之事之由に承り申候。
一、江戸表も米価高直にて、一同難儀之由に御座候。【米穀払底】米相対売は一斗九升、御屋敷へは一斗八升と申す事に御座候。町方にては一食にて居候人数多有㆑之候由。米払底に相成り金子出し候ても一切無㆓御座㆒候由、此方之屋敷へも春米屋二軒ゟ入候処、両人共に断りに相成り差支へ候て、御蔵宿へ相談致し、御扶持米を受取候様に相成り、飯米差支は無㆓御座㆒候。当方ゟ送候処、雨天故出帆無㆑之候。諸家様一同大困りに御座候。【将軍より御救米を下さる】扶持方代渡りの御屋敷も有㆑之候由に御座候。御救小家御取払に相成候処、町方御屋敷方之持場に行倒者数多有㆑之溜り候に付、御代官へ被㆓仰付㆒、板橋・千住・品川・新宿に御救小家建て、御手当被㆑下候由。公儀御代替に付、町方店借りの人へは一人に付き米一升八合づつ去月廿五日に被㆑下候由、難㆑有事に御座候。右は大層の事に可㆑有㆑之候。江戸表も大火は無㆑之、
一、当国も大困窮に相成り申候。【米穀の代用に田螺を用ふ】正月ゟ
一、江戸表も右様困窮之中、芝居は入り有㆑之候由に御座候。以上。
〔この処御代替の終の記事と重複に付き略す〕
【落首】
之やこの行くも帰るも米の沙汰知るも知らぬも大坂のせつ
矢部嬉しや〈大坂西御町奉行矢部駿河守なり〉 跡部騒動〈同跡部山城守なり〉 大炊に御世話〈御城代土井大炊頭なり〉
火矢でもあがれ
江戸にて十月一ヶ月に行倒人〈百五人〉・拾子〈五十三人〉・駈落〈十八人〉・盗賊〈百五十七人〉・湯屋著逃〈数不知〉。
市中表通計りにて、家数凡て廿八万八千軒程有り。【江戸の人口】此外に御救米下され候人数百廿八万七千八百人程。此内〈男五十八万九千八百人。女六十八万八千人。〉猶外に三千八百四十四人、座頭。三千五百八十人、神主。七千二百三十人、山伏。五万四千八百五人、出家 。新吉原町人数、一万五千七百人程、内男八千二百人、女七千五百人、遊女二千五百人。
右は昨申年十月の事にて、当年の事には非ず。今年は定めて大層なる事なるべし。
麦米を喰らひ尽してその上でくらひよくせよ世の中の金【狂歌】
とられたる程は取る気の山ならん五両けんあれ五両しんあれ
但し後藤昨年より二十万両公儀より御用金仰付けられ候事に付いてなり。
玉造与力岡翁助といへる親類の方へ遣候書面之写
【岡翁助の書翰】十八日岡翁助泊番の処、公用方ゟ今夕御門締め、差掛候御用向御座候に付、町人尼ヶ崎屋又右衛門御呼出に付、御門締少し及㆓延引㆒候段御沙汰御座候。然る処右尼又罷出不㆑申に付、初夜頃御門は締り申候。其後尼又ゟ御門継にて状箱参り候に付、当番同心へ申渡し、御門継為㆑致候事。初夜頃跡部山城守殿御組与力の内小泉円二郎・瀬田済之助急御用向にて、東御役所へ御呼出し、山城守殿公用人竹玄之助、小泉円二郎へ尋之儀申聞候へば、右円二郎逃出候に付、玄之助円二郎を抜討に切留候内、瀬田済之助逃出候間、玄之助槍にて追出候処、稲荷の方ゟ土塀打越え逃出で、行衛相分り不【 NDLJP:130】㆑申候。
十九日日の出頃、大塩平八郎家内不㆑残切殺、居宅へ火を掛け、御宮へ矢炮碌打込み、川崎辺の与力町家毎に炮碌打込み、蔵々へも火を付け、夫ゟ西町与力中火を掛け、天満十丁目筋并に町家段々に炮碌玉打込み、天神橋北詰浜側西へ行き、難波橋南へ渡り、鴻池・三井へ炮碌玉打込み、金四万両盗取り、町家大家之向は火を打掛け、淡路町二丁目へ参候頃、奉行ゟ御城代へ御頼み、御城代ゟ玉造御定番但馬守殿へ御頼に成り候て、与力・同心加勢御頼に付、一番手与力四人・同心三十人銘々鉄炮持参、二番与力三十目玉筒・五十目玉筒・百目玉筒銘々持揃へ、六人淡路町筋へ仕掛け申候処、大塩組地車に大炮仕掛け、三四匁位の小鉄炮持ち、各々玉造組の方へ打掛け申候。矢炮碌・棒火矢・又玉等追々打掛け、合薬玉・炮碌・棒火矢之類、車にて追々運付け候趣相見え申候。夫ゟ玉造方淡路町一丁目辻にて、同心共小鉄炮打掛け候処、二丁目辻迄追行き、此辻にて平人一人打取り、大鉄炮に付候者、士にては無㆑之候得共、余程慥なる者一人十匁玉筒にて打留め申候。其節跡之辻にて平人一人生取り召捕り申候。夫ゟ大塩方の者四方へ逃失せ、行衛相分不㆑申候間、東奉行所に銘々引取り申候。十匁筒にて打取り候者の首、東奉行家中切落し槍に突刺し、東役所へ持帰候。引取候節、玉造同心土車三挺・棒火矢三十本余・木の大筒二挺・小鉄炮二挺・合薬三十貫目取帰り役所〔へ脱カ〕差向。同日夕方、玉造組連中の三十目筒玉・仕掛け鉄炮東役所へ差向け候。鴫野口へ出張り候者、東方出候百姓召捕り吟味致し候処、懐中には又、
大坂異変に付、平山助次郎関東へ罷下り候に付、矢部駿河守様より御老中へ進達書写
昨廿九日夜六つ時過、【矢部駿河守より老中への進達書】跡部山城守組同心平山助次郎儀大坂表異変に付、山城守指図之趣を以て、同人ゟ私への書状致㆓持参㆒候間、一覧仕候処、山城守組与力大塩格之助父大塩平八郎重立ち、不㆓容易㆒企致し候由、右助治郎内密申聞け候に付、即刻御当地【 NDLJP:131】へ差立候間、面談之上委細承り候様申越し面会仕候処、一体同人は去る巳年已来平八郎学問之弟子に相成、致㆓読書㆒候処、去る中正月中、大久保讚岐守大坂町奉行之節、町目附と唱へ候役付申渡有㆑之、各〻は都て町奉行組与力・同心共勤め候事。並市中
風聞其外奉行手元隠密、【平山助次郎に加担を勧む】御用向為㆓取計㆒候役筋にて、近親之外同役等出会も不㆑致出来候に付、其後は平八郎宅へも不㆓罷越㆒候処、同六月中同人門弟山城守組同心渡辺良左衛門罷越し、自然異変等有㆑之節、忠孝之為には身命を抛候哉の旨申聞け、不審之儀とは存候へ共、素ゟ入魂故、右体之節は覚悟致候趣及㆑答候処、其後は折々何となく覚悟は宜しき哉之旨、門人共代る〳〵申参る。一体平八郎は平常軍論又は政談専ら致し剛気之者故、全く練武之心附にも有㆑之候哉と存じ罷在候内、当正月六日前書渡辺良左衛門並に同心近藤梶五郎清服にて罷越し、奉書紙へ認候書付持参、一覧之上承知候はゞ書判可㆑致旨申聞候へ共、漢文にて更に読み兼候間、良左衛門に為㆑読聴致候処、治乱を不㆑忘臨㆑事進退の懸け引等之儀を認候趣にて、外怪敷き儀も無㆑之、殊に不同意候はゞ忽ち可㆓討果㆒勢に付、任㆓其意㆒書判致候処、当月上旬、不㆑覚夜中窃に平八郎面談致度き儀有㆑之候旨申越候に付き、罷越候処火矢を削り、其外門人共集居り、昨年以来米穀払底に付諸民及㆓窮迫㆒、畢竟御政道不㆓行届㆒故之儀に付、御城代・町奉行に対し存寄り有㆑之候間、若し存立候節は一味可㆑致旨平八郎申聞け、如何とは存候へ共、於㆓其場㆒容易に異見等申聞け候共、可㆓取用㆒様子にも無之。即座に仇を可㆑成勢に有㆑之、素ゟ命を惜候
三月朔日
〔頭書〕以㆓手紙㆒致㆓啓上㆒候。然者別紙駿河守ゟ、達書一通為㆑持及㆓御逹㆒候。且大坂町奉行御組同心一人並に小者二人・三人共、御許様へ御預けに相成候積に付、右之心得を以て夫々御手当之上、堅固之人数等即刻駿河守宅へ御差出之儀、御取計有㆑之候様可㆑及㆓御逹㆒旨、駿河守申付け如㆑是に御座候。已上。
矢部駿河守内 中村順左衛門
三月朔日 品川半左衛門
加藤文三郎
右者跡部様ゟ矢部駿河守様へ口達有㆑之、即矢部様ゟ御老中へ進達の写也
乍㆑恐公儀御一大事之儀奉㆓急訴㆒候
東組同心 吉見九郎右衛門 【吉見九郎右衛門の訴状】近来天変地変打続き、民心不㆑安候に付、私晩学之師と相頼候東組与力大塩格之助父隠退にて、儒業罷在候大塩平八郎儀、忰格之助丁打稽古其外余事に托し、旧冬与ゟ火薬拵へ致し居候処、実は憂恐難堪候に付、孔孟之徳もなく湯武之勢位無之候得共、民を訪ひ候大義と唱へ可㆑申と、恐多も不㆑顧㆓公儀㆒奉㆓驚かし㆒、王道に帰し候様致度き旨、門人之内同組与力瀬田済之助・小泉淵次郎、同心之内渡辺良左衛門・河合郷左衛門・近藤梶五郎・平山助二郎・庄司儀左衛門・私並に河州守口村質商売白井幸左衛門・同州般若寺村庄屋橋本忠兵衛等へ追々密談致し、同志に申勧め候に付、私は勿論誰とても仰天恐怖不㆑致者無㆑之趣、【平八郎の素行】元来平八郎儀、気分高く剛陽勝れ候性質に付、平生門人教へ方厳敷く、長幼之無㆓差別㆒、折々大杖にて樧候得共、意念之不正を懲候に付、過を改め善に遷候様相成り、師弟之交誠実を尽し候に付、皆思に感じ恭敬厚く致し候故、申聞了簡之義に違候儀有㆑之候ても、一言之論談致し候者も無㆑之、素ゟ右密談請け候者共、学術未熟無術之者共にて、私儀は尚更弁へ候道も無㆑之、答へ方当惑、誠大胆なる存付と怖敷く存候処、漢高祖・明大祖之功業を解得為㆑致候条申聞、実以て不㆓同意㆒は勿論、右様之儀仮令学力有㆑之候共不㆓容易㆒儀、隠退の与力抔にて出来可㆑申様無㆑之儀に付、其場を飾り尤の様に言葉を合せ、其余の者共も多分同様に相聞候処、全は人を
談難㆓相成㆒候間、【九郎右衛門病に托して加担を辞す】自殺を以て相断候外無㆑之旨、追て及㆑談候処、種々申宥め、「候候はゞ外申談取計ひ方可㆑有㆑之哉、折角相察し居候段申聞け相帰候上、右之趣平八郎及㆑承候はゞ心付相止候儀も至り可㆑申哉」と存じ居候処、一両日相立ち良左衛門罷越し、平八郎へは「私にも病気之儀故、右一条過急の発立は難出来申聞候処、尤の儀、さ候はば緩々保養第一の旨」申居候間、其心得を以て事発覚の節は、早々立退き可㆑申旨良左衛門申聞候へ共、実は如何の示合に候哉、同人儀は難㆑遁儀も有㆑之哉、同意決心の旨申聞け、其余は無是非相随ひ候事哉。尚私病気寛養の儀、見舞旁〻格之助并儀左衛門等を以申越し、全く私差迫り違変も有㆑之候てはと不審にて、一儀露顕を危踏候故の儀と相察し、将又平八郎儀聊無㆓私心㆒、人を勧め又檄文を廻し、且所持の書藉を以て施行の儀も民心寄伏の為と窃に相察し申候。以前に違背有る間即忰へ可㆑娶積の養娘を自分妾に致し男子出産仕候に付、殊の外相歓び、此上にて弥〻一儀決心の旨私へも相咄し、屹と有間敷き抔申聞候。俗人にも相劣り候不行跡の儀、且後来望有㆑之儀顕然にて、最早叛謀の企を以て人を勧め候ては承知可㆑仕者無㆑之儀は勿論の儀に【 NDLJP:135】付、無欲天道を以て事を謀候様名分を立て、愚昧の者をたぶらかし、同志に引入れ、檄文中殊に明白に認載せ有㆑之、実に天下の御為を存じ候はゞ、如何様とも自分の及び候丈け、御忠節の奉㆑尽方も可㆑有㆓御座㆒哉、誠に以て言語道断奉㆓恐入㆒候次第にて、私儀病気を以て相避候得共、斯く御大事の儀不㆑奉㆓言上㆒は、御高恩何共可㆑奉㆑報候。且不届の罪難㆑逃候儀に付、此段奉㆓内訴㆒候。右に付き第一奉㆓申上㆒候は、御城并両御役所其外組屋敷等迄火攻の謀に付、右に乗じ市中人家へ火を掛け可㆑申。さ候はゞ乱時にて数万の人命に拘り候儀と、兼て御武備も御座候得共、火急に事起り候儀も難㆑計、時を〈[#底本では直前に返り点「一」あり]〉考候間。中々御油断難㆓相成㆒、御歴々様御危難の時節に御座候間、乍㆑恐密密急速御手当の上御取鎮奉㆓願上㆒候。右之趣急に奉㆓言上㆒度く、昼夜心を苦め罷在候得共、病悩難㆑堪一向執筆不㆓相叶㆒、山城守様へ可㆓申上㆒にも取次可㆑申者も無㆓御座㆒、色々配痛無㆑拠隔所見計ひ、托訴を以て遅々に及び候得共、奉㆓言上㆒候間、其段御赦免可㆑被㆓成下㆒候。尤平八郎儀右体火術用意不㆓一通㆒候に付、御深慮被㆓思召㆒候様奉㆑仰候。其余相随候前書名前の者、是非御召捕にも相成候節、私儀も同様御取計可㆑被㆑下候。無左候ては私ゟ密訴の儀相知れ候ては全く卑怯、一旦の義理を忘却仕候様相当り候も口惜く、即いづれの道死は決差仕罷在候へ共、私相果候はゞ御不審の内火急に事発覚可㆑仕も難㆑計、左候時は大乱に相成り、急訴も空敷き次第に付、御召捕迄時に臨み自滅可㆑仕も難㆑計御座候間、右寸忠を以て御赦免可㆑被㆓成下㆒候。病体も六かしく候に付、万一御憐愍を以て御留置又は御預に相成候共、乍ち落命に至り可㆑申儀必定の儀に付、此段御憐愍の上御評究被㆓成下㆒候様、重々奉㆓願上㆒候。将又至つて若年の忰英太郎と申す者、学文為㆓修行㆒先達てゟ平八郎方に寄宿致為㆑置候処、全く人質の積りにて候哉差帰し不㆑申、仕儀に寄り忰存亡に拘り候得共、御一事には難㆑換、万々一幸に落命も不㆑仕候はゞ、其余は血族の者共一同御仁憐の程奉㆓願上㆒候。何卒右密訴の儀は暫く御内含、外ゟ達㆓御聞㆒候様被㆓成下㆒、後日の御裁判重々奉㆓願上㆒候。已上
但し西御組与力内山彦三郎儀は、兼ねて平八郎心に合ひ不㆑申由に候処、彦三郎此度遠方御用に参り候哉に、沙汰も承り候間、遁れ不㆑申候はゞ、手初めに取懸り候儀も難㆑計奉㆑存候間、出立候差延べ御堅慮被㆓思召㆒候様奉㆑仰候。
【 NDLJP:136】 天保八酉年二月 九郎右衛門
此書付は九郎右衛門兼れて認め置き候也
去十九日好賊共市中及乱妨候儀申上〔候脱カ〕 跡部山城守堀伊賀守
二月十七日夜、【東西町奉行より城代へ上進状】山城守組同心平山助次郎、山城守手元へ罷越し密々申聞け候は、同組与力大塩格之助父隠居平八郎儀、同組与力右格之助並瀬田済之助・小泉淵次郎・同組同心吉見九郎右衛門・渡辺良左衛門・近藤梶五郎・庄司儀左衛門、先達て出奔仕候。元同心河合郷右衛門右助次郎申合せ、大胆なる巧を企て、棒火矢其外兵具用意致置き近在百姓共人数不㆓相分㆒申合、去十九日市中其外焼払ひ可㆑申旨不㆓容易㆒悪事仕り、右の者共並百姓共連判仕候処、唯今に至り何共恐入候次第、相心付候段助次郎申聞候間、虚実の程難㆑計内聞申付、同十八日御用日立曽の節、伊賀守へ右の始末申聞及㆓相談に㆒候内、右企相違無㆑之候哉にも相聞候間、両組打交り早速捕方相響可㆑申も難㆑計、依㆑之御用日立会相仕舞ひ帰宅後、右捕方の儀山城守には組与力荻野勘左衛門、伊賀守組与力吉田勝右衛門へ申渡し候処、山城守へ勘左衛門申聞候は、未だ虚実も不㆓相分㆒、殊に火器等用意候事に付、容易に捕方難㆓差向㆒、穏便の捕方に致し度き段中開候間、伊賀守へ申達し、七つ時前同組同心吉見九郎右衛門忰吉見英太郎・郷右衛門忰河合八十郎、右九郎右衛門兼ねて認置候書附並判摺の紙面相認め、伊賀守御役宅へ同様の趣申立候に付、早速山城守へ家来を以て内密申遣候処、此上は一時も難㆓捨置㆒、打合せ置候通り捕方早速差遣可㆑申候手配申合候。然る処右連判の者の内、瀬田済之助・小泉淵次郎泊り番にて、山城守御役宅当番所に罷在候間、同人へ一通り相尋候処、一事発覚と相心得候哉、両人共逃出候間、淵次郎は討果し済之助は塀乗越え逃去り申候。右の次第に付、伊賀守早速御役所へ相越候様申遣し則ち罷越候。其以前平八郎へ為㆑致㆓切腹㆒候か、若し不承知に候はゞ刺違候様、同人伯父同組与力大西与五郎へ山城守申付け遣候処、途中ゟ不快にて不㆓罷越㆒逃去候。済之助ゟ告げ為㆑致候哉、天満大筒・小筒相発候音相響き、夫より組屋敷辺焼立候に付、近辺殊の外騒勤、追追天満橋辺鉄炮打懸け、何れも白刃相携候者有㆑之、最早穏便の取計ひ難㆑仕に付、両組与力・同心共へ申付け、御鉄炮組同心打交り、鉄炮を以て可㆓打払㆒旨指図仕候得共、【 NDLJP:137】手足り兼候間遠藤但馬守へ被㆓掛合㆒、御定番与力・同心呼集め種々手当仕候内、弥〻酒長仕候に付、御手前様御人数御加へに相成り、天満橋向ひ相囲み、夫ゟ手薄の場所へ差向候処、天満橋向面の方焼立ち、船場辺へ相廻候に付、米倉丹後守組其外召連れ、伊賀守も罷出候処、内平野町辺徒党の者凡四五百人計り相見候に付打払候処、早速東横堀川向の方へ逃去り、右場所火勢強く燃立て申候。山城守儀も玉造与力・同心其外召連れ、引続き同様罷出候内、骨屋町にて面会仕候間、申合せ両手に相分り、同人儀思案橋相渡り、船場辺淡路町へ打向ひ、通筋見懸け次第打払候処、堺筋辻合にて山城守馬印を目当て、烈しく鉄炮打懸候間、此方ゟも一同打懸候内、但馬守組与力坂本鉉之助場合近く相進み、大筒・小筒指図仕候。名不㆑知浪人体の打留め、其雑人等打留め好賊散乱仕候間、場所に捨置候大筒其外武器類凡調べ、別紙の通り取上申候、伊賀守儀前骨屋町ゟ本町橋相渡り進行仕候処、難波橋筋に奸賊共罷在候間、但馬守組与力石川彦兵衛先立ち、雑人打払ひ、道筋に捨置候鑓・長刀等揚追行き候処、堺筋にて山城守出会申合せ、火中奸賊共行方相尋候処、相見え不㆑申、仍㆑之所々に相囲居候、御手前様御人数へは引取り、御城辺相囲候様に山城守指図仕り、京橋辺へ夫々警固人数差配仕候。猶両人共申合せ市中人気相鎮り候様取計ひ、召捕方専要に手配申付け、直様消方指図取掛候得共、右の騒動に人足相集兼ね、追々呼集め消防仕候処、残賊近辺に相見え候風聞時々有㆑之、市中不穏に付為㆓取鎮㆒、旁〻私共所々見廻り等仕候。翌廿日同様の取沙汰仕り、何分不㆑穏候に付、夫々人数等手当仕り、無㆓油断㆒消防仕候得共、牢屋敷焼失、度々及㆓再火㆒焼募候得共、御城内無㆓御別条㆒両御役宅別条無㆑之、同夜五つ半時頃御弓町にて火鎮め申候。類焼者御救米等被㆑下候手当仕候に付、此節の趣にては市中人気追々折合ひ、最早都合掛念仕候模様無㆓御座㆒候。
右前書に申上候坂本鉉之助儀、炮術鍛錬之上格別烈しき働仕候。石川彦兵衛儀も認出候程の打留は無㆑之候得共、烈しき場所先達ち仕候。其外何れも非常の働仕る儀は、追て取調可㆓申上㆒候得共、但馬守組の儀は何れも平日の心掛格別宜しく相見え候。巨細の儀は猶追々取調可㆓申上㆒候。以上。
西二月廿一日
【 NDLJP:138】 御城代宛
大塩平八郎父子居所相知れ、自殺仕候儀申上候。
跡部山城守堀伊賀守【大塩自殺に付上進】
今暁油掛町美吉屋五郎兵衛方に、大塩平八郎并同人養子大塩格之助忍び罷在候旨、伊賀守組与力内山彦三郎承込み、即刻同組同心共手配申付け、右五郎兵衛を他町へ
三月廿七日
騒動後処々方々へ張捨てありしといへる落首、聞きし儘を記す
此度大塩己れが所持せる処の書物、【大塩騒動に関する落首】悉く売払ひ、貧人へ施行せし故にや
大塩が持つたる本を売払ひこれぞむほんの始なりけり
朝岡助之丞といへる与力は、大塩が直に向ひにて、此家に石火矢を最初一番に打込みし故にや
向ひ浅岡お茶のみにお出で、大塩がこわうてよう参じませぬ。鉄炮かたげて槍しつし
大塩が船場へどつと打込みてその引塩の跡はしらなみ
乱妨狼藉をなして、其日より直に影を隠して悪徒の行方知れざる故、何時又乱妨なしに出来らんも計り難しとて、諸人安き心もあらざるに、御奉行よりは四方八方に手配をなして厳しく探し給へ其、少しの子掛りなくて、世間大に騒動をなしぬる故にや
【 NDLJP:139】 ちよつと出て颯と引きたる大塩が又も来るやと跡べ騒動
大塩は先年切支丹の仕置せし事故、彼書を見、邪法を諳んじてありぬる故、其邪法にて此度の騒動をなし、又よく姿をも隠しぬる者ならん抔とて、種々の風説ありしにや
わが為か人の為かは知らねども切支丹やら何したんやら
又天神橋南詰焼場に建てたる仮小屋に片仮名のイの字を書きて
イ判じ物 此の如しといふ。こは上はゆがみて下は直也といへる事なりとぞ。
又落し咄
昨年よりの饑饉にて諸人大に困窮し、飢に苦しめる事故、何卒して之を救ひやらんと思ひしに、思の外に火矢がそれて、貧乏人迄を丸焼にせしに、我を悪み恨みもせずして、大塩さん〳〵と何れももてはやしくるゝ程、我は至つて気の毒に思ひぬれば、何卒今より後はさんといふ事を薩張とやめにして、大塩ドンというてもらいたい
又
大塩南都へ落行きて、興福寺に在りと告ぐる者有りしにぞ、直に召捕に向ひぬれ共、興福寺より之を渡さゞる故、「何故かゝる大罪人を渡さずといふや」と咎めければ、「彼れは大罪人なれば此方にて仕置するなり」と答しにぞ、「何故にさはいへるぞ」と尋ねぬるに、「彼は仰山にしかを殺せし大罪人なり」といひしとぞ。〈大坂にて非人共を垣外と云ひ、天王寺・飛田・道頓堀の四ケ所に住する故、これを下略してしかといふ。大塩が勤役中此者共の悪党を大勢召捕りて仕置せし事あり。其事をいへるなるべし。〉
本家張本所 中斎堂製
【大塩一件戯薬法】
今川家伝 奸了円 大筒目 七十目 小筒目 十文目
一、抑〻此
功能。第一産後の婦人逆上する事妙なり。小児の恐怖或は見失ひ事、老人
用ゐ様 各〻前車の覆へるを水にて用ふ。但し向ふみずともよし。
禁物 妨事・をかべ・山城爪・伊賀栗・尼蛸・桜鯛。取罪所在々に有之候。
大塩が施行するとて本売りて跡が無本で何かわからぬ
二月十九日ゟ同廿一日迄大坂天満於川崎相摸興行、組合
【大塩一件相撲の番組】大橋焼落 焼橋縄張 普請方大勇 石火矢驚ろき 抜身鑓相生 岸和田早馬 尼ヶ崎手柄山 大手口陣まく 大筒小家難儀 施行頂き 材木高根山 ゑらい目ニ阿武松
学者
【○久太捨蔵ハ人名】
安穴京都中島文吉が作といふ
献立【献立】汁噂のじゆんさい 膾市中あへまぜちり〳〵 平皿よせどうふ一味同心二枚裏がへり 火事大筒打込百姓椀共引つりみそ 焼物大家大塩焼 小皿吹田神主守口代官吟味噌はし切落し 初献大きなる事したし物 二献目小泉塩漬 台引飛道具御取あげ 吸物納り安堵
奸邪異案〔巻七と重複につき爰に畧す〕
【 NDLJP:141】 二月十九日・廿日・廿一日 ねぬもの 商売 隙の内
うつぼ 枕たかう昼寝もころり御代の蔭 見附台 学天狗 引裂きてすつともたらぬ恨みかな 狂気 大しほ 兵器火 おとたかし人の心をくるはせる ぼうびや 玉音 絹多 もろ人のうち見る度に涙そふ みつ井 くら 尼君 たひらかに松の操のあらはれて ふせ儀 つかさ 放火僧 つみとがは筆にかくとも及ばじな 大平 おきち 落文 桜木にうるさき鳥の足のあと あと咲 若蘭 黒ぬし この頃は老やしぬると思はれて 灰かき はな 二人舞 木たくみのたくみてふ名も恐ろしゝ 大九 さくりやう しのぶ つゝめども更紗のきぬの色に出て みよしや 佐久間
逃足 はやし 【囃子】おそろしいめにあひ三弦 大筒音菊 あわてる小友 日野いりくら。 勿体ない琴 川崎おみや
天神八代 かねぐら山吹。
しことが笛 鉄たひすけ。 陣太鼓 倉からおだし。 舌鼓 大坂重みな。 気鉦 丸やけ礒露 見送り御出馬。 以上
語言絶狂士三首
一 貧 謀 米 大 臨 小 逆 徒
\ │ /
味 福 生 穀 祖 位 以 賊 塩
\│/
大─塩─平─八─郎 学 文 高 慢 羌 木 製 大 筒 発
/│\
違 均 山 無 祖 直 哉 坂 敵
/ │ \
忽 志 反 及 慕 乗 愚 騒 難
【大学章句作替へ】大格大塩全体今為㆓塩漬㆒父子焼苦 師弟子曰、大悪公儀誠而諸悪入㆑牢門也。於㆑今可㆑見㆓古今為㆑悪次第㆒者。火依㆓此度損㆒、而三芳次㆑之、悪者必由㆑之隠焉。則縛㆓乎其不_㆑叶矣。
大悪之道、在㆑恨㆓明徳㆒。在㆑欺㆑民。在㆑施㆓一朱㆒。
大平 衆気恐懼
市隠士曰、大平陽子之異書而諸奸入㆑党之門也。於㆑今可㆑見㆓諸人為㆑逆之次第㆒者。独頼㆓落文之存㆒、而瀬田次㆑之、逆者必由㆑是而罰焉。則庶㆓乎其不_㆑遁矣。
大平之道、在㆑暗㆓明徳㆒、在㆑苦㆑民、在㆑焼㆓於市中㆒。知㆑焼而后有㆑怨。怨而后能狂、狂而后【 NDLJP:142】能騒、騒而后能愚、愚而后能打。備有㆓混乱㆒、器有㆓鉄炮㆒。失㆑所㆓先後㆒、則近㆑敗。今之欲㆑暗㆓明徳於天下㆒者、先騒㆓其国㆒。欲㆑騒㆓其国㆒者、先焼㆓其家㆒。欲㆑焼㆓其家者㆒、先堅㆓其身㆒。欲㆑堅㆓其身㆒者、先邪㆓其心㆒。欲㆑邪㆓其心㆒者、先太㆓其胆㆒。欲㆑太㆓其胆㆒者、先売㆓其書㆒。売㆑書在㆑釣㆑人、人釣而后胆太。胆太而后心邪。心邪而后身堅、身堅而后家焼。家焼而后国騒、国騒而后天下乱。自㆓金持㆒以至㆓乞食㆒、壱是皆以㆑遁㆑身為㆑勝。其本腐而末宜者否矣。其所厚㆑智薄而其所㆑思者成。未㆓之有㆒也。
西二月十九日於㆓川崎舞台㆒晴天一日火事
翁
乱
鞍馬天愚
末広がり
火事大名 富田散財門 居ぐひ 永良比隙之助 米市 高井
靭さか 大汐漬之助 喜楽太 桑津に伊太郎 道生寺
大塩平八郎近郷・近在村々の神社、其外処々方々へ撤散らせし落文の写なり。こは乱妨の後淡路町の井の中により、【落し文の写】黄絹の袋に入りしを引上げしと云ふ。之を或人の密に写取りしを、借り得て記し置きぬるなり。
四海困窮致し候はゞ天禄長く絶たん。小人に国家を治めしめば災害並び至ると、昔の聖人、深く天下後世の君人の臣たるを御誡め被㆑置候故、東照神君にも鰥寡・孤独に於て、尤憐みを加ふべきは是仁政の基と被㆓仰置㆒候。然るに玆二百四五十年太平の間に、追々上たる人驕奢とて驕りを極め、大切の政事に携り候諸役人共、賄賂を公に授受とて贈貰致し、奥向女中の因縁を以て、道徳仁義もなき拙き身分にて立身、重き役に歴上り、一人一家を肥し候工夫のみに知術を運らし、其領分・知行所の民・百姓共へ過分の用金申付け、是迄年貢・諸役の甚しきを苦しむ上、右の通り無体の【 NDLJP:143】儀を申渡し、追々入用重ね候故、四海困窮と相成るに付、人々上を怨まざる者なき様に成行候得共、江戸表より諸国一同右の風儀に陥り、天子は足利家以来別して御隠居御同様、賞罰の柄を御失ひに付、下民の怨気何方へ告愬とてつげ訴ふる方なき様に乱候に付、人々の怨気天に通じ、年々地震・火災山も崩れ水も溢れるより外、色々様々の天災流行、終に五穀飢饉に相成候。是皆天ゟ深く御誡め有難き御告げに候得共、一向上たる人々心も付かず、猶小人・奸者の輩大切の政を執行ひ、只下を悩まし金米を取立つる手段計りに打懸り、実以て
但し此書付小前の者は、道場坊主或医者等より篤と読聞かせ申すべく候。若し庄屋年寄眼前の禍を畏れ、一己に隠し候はゞ、追つて急度其罪可㆑行候。
【 NDLJP:145】 奉㆓天命㆒致㆓天討㆒候。
摂河泉播庄屋年寄百姓並小前百姓共へ
右落し文仰山に之を仕込みて、処々方々へ撒散らせし事なれば、一々之を書認むる事能はざると見えて、一字づつ板に彫り、悉く之を植字になせしものと見えて、文字に大小不同有りて字並び定まらず。其中にても尤も目に立ちぬる文字は、処々にて書入れてあるといふ。之を彫刻せしは博労町の版木屋にて、斯かる事とは之を知らざる由なれ共、之を逃るゝ事克はずして、直に召捕られ入牢せしが、程なく宿下げとなり、手枷・足物にて町預けとなりて、厳重に番人之を守れりといふ事なり。
〔頭書〕数多撒散らしぬる落し文の中には、其末に
一つ米よせて二つにわけて見よ家中心もとけて安臣
右の如く書記せしもありしといふ事なり。
京都諸司代へ飛脚に為㆑持遣せしといふも、定めて此落文ならん。其故は京都にても、板木屋残らず御呼出にて、御吟味有りしに、之は素人のほりしものと見えぬ。決して板木屋にてはあるまじと申せしといひしとぞ。こは大に秘したる事なるべければ、一人の手にて彫らせぬるにもあらずして、定めて目立たざる様に所々に分ち、其中には素人にほらせ又書入などして、人の心付かざるやうに仕立上げしものなるべし。
騒動有つて後は、堂島の相場を上よりして押へ給へる事なければ、三月十日頃には二百三十目となる。【米価調節の失敗】
大塩平八郎乱妨の節行列の次第
旗 鎗 人足 同 人足 十匁筒 庄司儀左衛門 大筒 人足両三人 {{NDLJP3441757|行内塊=1|size=100%|槍} 槍 深尾次郎兵衛 } 白井孝右衛門同 茨田軍次 同江州辺浪人 志村周次
旗 木大筒 金助大塩格之助 大塩平八郎
旗 鎗 人足 同 人足 玉造与力
十匁筒 大井庄三郎 大筒 人足両三人 {{NDLJP3441757|行内塊=1|size=100%|槍般若寺村} 槍 高橋九右衛門 } 橋本忠兵衛同 梶岡源右衛門 同播州 堀井儀右衛門 【 NDLJP:147】
槍 阿部長助
同 曽我岩蔵
同 同忠治郎
地方 渡辺良左衛門 大筒 具足
瀬田済之助 長持人数百三十計 申十二月廿三日出産 今川弓太郎
地方 近藤梶五郎 小筒 葛籠二十挺 松本林太夫 十四歳
槍 西村利三郎
同 同木八郎
同 同七助
右の外、小筒鉄炮三十挺、皮葛籠・具足櫃等持㆑之、総人数凡三百人余引率、各〻槍・長刀抜身にて持ち、白木長櫃或焰消玉入箱・兵糧等に至る迄用意、尤張本人大塩平八郎鍬形付兜・黒陣羽織著用、徒党人各白鉢巻、鳶口等持㆑之。
○鈴鹿町〈家数百軒・竈数二百三十二軒・明家三十二軒・蔵一ヶ所・応室屋敷・蒔田居数。〉○長柄町〈家二十五・か六十三・明二十・蔵二〉○今井町〈家四十二・か六十三・明三十九・蔵二〉 ○反古町〈家廿二・か三十六・明十一・くら三・なや七〉○天満一丁目〈家五十四・か百八十一・明三十四・蔵二・なや五・道一大関用場。〉○同二丁目〈家三十三・か八十・明十四・蔵一〉 ○同三丁目〈家四十六・か百十・明二十八・くら一・道一〉○同四丁目〈家四十一・か百十二・明十六・くら三〉〇同五丁目〈家五十一・か二百五十一・明二十九・くら四・穴ぐら一〉○同六丁目〈家四十三・か百九十六・明十九・道二ヶ所・蔵四・穴ぐら一〉○同七丁目〈家四十七・か百七十六・くら□・穴ぐら□・なや三・道四・あき十一天王組会所〉○同八丁目〈家十八・か百三十三・あき十二・なや五・くら二・穴ぐら一〉〇同九丁目〈家四十八・か百二十九・あき十二・くら五・穴三・なや五〉○同十丁目〈家三十八・か六十三・あき十二くら十七・六三・なや五〉〇太鐘寺前〈家四・か十七・くら一・〉○典薬町〈家四十八・か百九十・明二十五・くら三〉○徳井町〈家十一・か百六十三〉○板橋町〈家五十軒か二百二十五・あき八十八〉○信保町〈家五十九・か二百二十五・あき四十二・道一くら一・なや一〉○〈御鉄炮〉〈家二十・か八十一・あき二十七〉○北森町〈家七・か五・明二・なや五〉 ○綿屋町〈家五・か八・あき九〉○高島町〈家二十九・か百四十八・あき十・くら三・穴一〉○大工町〈家二十九・か九十九・明十・くら一・〉○地下町〈家二十三・か四十三・あき三・道一・くら二〉○魚屋町〈家二十七・か百十七・明十五・くら一〉○龍田町〈家五十五・か二百七十三・明四十・くら十〉○壺屋町〈家二十九・か百九十・あ二・くら二〉【 NDLJP:148】○唐崎町〈家十八・か八十・あき五・くら二〉○岩井町〈家三十八・か百七十一・明十三・くら二〉○河内町〈家二十五・か八十九・あき九・くら二〉○しん町〈家二十四・か八十九・あき八・なや六・くら一〉○摂津玉町〈家四十八・か二百三十三・あき五十二・なや十七・くら五〉○大津町〈家十三・か七十七・あき三・なや五〉○又二郎町〈家十七か八十七・あき八・くら六・穴ぐら二〉○椋橋町〈家二十六・か六十六・あき八・なや三・くら三〉○宮前町〈家二十・か五十三・あき九・なや二・くら二〉○天神筋町〈家十六・か五十五・あ五・くら二〉○菅原町〈家二十五・か百三十五・あき五・なや二十二・くら七・穴二〉○川崎村〈家十・か二十五・明三・なやー〉○南森町〈家二十五・か八十三・あき八・道一・なや八〉 ○市之町〈家三十七・か八十八・明十九・くら六・穴五・なや七〉○金屋町〈家五十一・か二百五十五・くら六〉○うすや町〈家五十六・か百八十二・明三十四・くら二・なや二永井用場〉○滝川町〈家五十七・か百六十二・あき十二・くら七・なや三〉○鳴尾町〈家二十一・か八十二・あき十七・くら一〉〇東樽屋町〈家八・か二十六・あき五・くら一・道一〉○天神社地〈天神宮・神主屋敷二・社家七・くら七・家六十七・が九十九・あき三・くら三・穴二・七や十二〉○東寺町前〈家七十八・か百六十九・あき五十・くら一〉○北浜一丁目〈家四十四・か百三十八・あき二十二・くら二十一〉○内本町上三丁目〈家十五・か九十三・明十三・なや四〉○北浜二丁目〈家十七・か八十七・あき八・くら六・穴ぐら二〉 ○今橋一丁目〈家二十四・か七十二・あき八・くら十三・穴二十〉○同二丁目〈家二十・か四十三・明八・くら十九〉○高麗橋一丁目〈家三十八・か百廿六・くら十六〉 ○同二丁目〈家二十七・か九十・あき十四・くら八・穴七〉〇木靭町〈家十六・か二十八・あき五・くら四・穴三〉○本天満町〈家二十七・か五十〉○道修町一丁目〈家三十五・か百十六・あき八・くら十二・穴十四〉○同二丁目〈家二十一・か四十・あき三・穴二〉○平野町一丁目〈家三十一・か九十二・あき六・くら十四〉〇同二丁目〈家十七・か二十八・くら三・なや三〉○淡路町一丁目〈家三十七・か百十九・あき十・くら十六〉○同二丁目〈家二十六・か四十・あき五・穴一〉○瓦町一丁目〈家三十・か八十・明三・くら六・なや五〉○同二丁目〈家二十七・か八十四・あき二・くら三〉○備後町一丁目〈家十五・か四十四・なや七〉○太郎右衛門町〈家六・か七十九・くら一・なや二〉○備後町二丁目〈家十九・か五十一・くら一〉○同三丁目 東堀〈家二十・か六十三・明六・穴二・なや八〉〇同四丁目〈家十三・か二十一・あき一〉○安土町一丁目〈家三・か四〉○同二丁目〈家五・か六〉○上魚屋町〈家六・か十四〉○新築地〈家四・か五十六〉○京橋二丁目〈家十七・か六十二・明十九・くら一〉〇同三丁目〈家十二・か五十二・明十二・くら四〉〇同四丁目〈家十五・か七十九・あき十二・くら九〉○同五丁目 〈家十二・か二十九・あき七・くら六〉○同六丁目〈家十九・か六十七・くら十八・穴七・紀伊様屋敷〉○石町〈家十八・か二百十一・あき五十六・くら三・道一〉〇弥兵衛町〈家三十九・か百七十六・あき十三・くら四・座摩社拝所〉○谷町一丁目〈家八・か百二・明五〉○同二丁目〈家四十・か二百五・明三十二・くら二・なや四・道二〉〇内本町二丁目 〈家五・か百二〉○谷町三丁目〈家三十七・か二百二十九・明十五・なや十三〉○同二丁目〈家三十八・か百四十三・くら十四・穴二〉○内両替町〈家二十・か六十九・あき一くら十・六四・銀座〉○釣鐘上の丁〈家二十八・か百二十二・なや十二〉〇釣鐘町〈家三十・か百二十二・あき十・くら一・穴一・なや穴〉○近江町〈家二十七・か百二十九・な三・くら四・穴一・道一・石川屋敷〉○内平野町〈家二十四・か三十五・あき八・くら十七〉○北草屋町一丁目〈家二十八・か百十・な二十九・らー・なや六〉〇同二丁目〈家二十八・か八十三・あき五・くら二・なや七〉○船越町〈家二十八・か八十三・あき七・くら八・穴一・般越屋敷〉〇亀山町〈家二十五・か六十七・あき十〉〇大沢町〈家二十六・か百十四・あき十二〉○内平野町〈家二十八・か九十九・あき四・くら六・神明宮・神主屋敷〉○内淡路町一丁目〈家二十五・か七十八・あき十八・くら一・道一〉○同二丁目〈家四十・か二百五・あき三十二・くら二・なや四・道二〉○内本町二丁目〈家五・か百二〉○内淡路町三丁目〈家三十三・か百五十六・くら二〉○錦町一丁目〈家二十・か百二十一〉○同二丁目〈家二十八・か三十四・あき七・くら一〉○折屋町〈家三十四・か百十二・あき三・くら六〉〇内釜屋町〈家三十三か二百九十三・くら一〉〇豊後町〈家二十一・か八十・明四・くら一〉○松尾町〈家三十五・か九十七・蔵一〉○南革屋町〈家五十二・か百八・あき二・くら一〉〇北新町【 NDLJP:149】一丁目〈家二十・か八十三・あき十四・穴一・道一〉○同二丁目〈家十四・か六十六・あき十四〉○同三丁目〈家十六・か五十三・あき五・なや六〉○与左衛門町〈家に十二・が八十一〉○南新町〈家十八・か八十九・あき四・道一・本多蔵屋敷〉○同二丁目〈家九・か九十六〉○同三丁目〈家十四・か八十五・あき四〉○松江町 〈家三十二・か百三・あき九・なや五・道一〉○島町一丁目〈家廿七・か二百四十三・あき二十・くら一・道一〉
天保八酉二月十九日辰中刻天満・川崎より出火致し、西は堀川迄、夫より船場へ渡り中橋東へ上町へ渡り、南は本町迄残らず類焼致し、又翌廿一日寅の刻に火鎮まる。
東西
この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。