瀬田済之助信貴山にて縊す大塩動乱最初の模様瀬田済之助が妻召捕らる焼失後富豪の施行○のり立つハ引きたつコト信州上田の家老東照権現の御神体川崎へ遷御酒井雅楽頭登坂米価騰貴に付狼藉出牢者の乱妨党人近藤梶五郎切腹大塩の行方不明下層民大塩を崇拝す大塩一味の百姓町人騒動中見物す正念寺村の百姓召捕へらる大塩が用ゐし大筒水死人と大塩平八郎米価騰貴の為人気悪し大塩の使召捕られ江戸に送らる彦根の浪人召捕らる京都の防備徳島の社人売僧大塩の乱に依り盗賊横行大塩薩摩国に落ちしといふ風説南部屋吉蔵が闕所銀江の子島江の子島青楼の騒ぎ和歌山の刀屋大塩と間違へらる京都小倉屋敷の足軽と鉄炮大西与五郎瀬田藤四郎坂本源之助百騎衆具足を所持せず鴻池屋善右衛門と大塩辰巳屋久右衛門困窮人に苦めらる町人共より東町奉行留任の歎願書跡部山城守の手落の批評御払米を御救米と張札す類焼人へ施行施行金分配の不当美吉屋五郎兵衛と大塩平八郎美吉屋大塩父子を囲まふ平八郎父子自尽大塩を逃がせし批評大塩一件の原因の一説下層の民大塩を崇敬す西田青太夫大塩美吉屋に忍べる事露顕の理由城代の行動に付て批難す大塩召捕の状況大塩の隠家の模様大塩平八郎最後大坂城代の不法と其批評御定番遠藤但馬守城代の行動を非難す内山藤三郎受賞遠藤但馬守の手柄茨田軍次召取らる大塩騒動に付蔵米を城中に運搬す御蔵奉行の狼狽跡部山城守への褒詞
廿五日、大塩下人三平・森口の質家両人、伏見にて召捕られ送り来る。大塩平八郎は十八日夜妾子を刺殺せしといふ噂なりしが、此者の妾〈十八歳牧方近在の代官の女にて、格之助が妻の積りにて差越せしを、其事なく平八これを妾となし、昨年男子を生みしといへり。〉并に二才の男子に山田何とやらん腹心の者を附け、出入の者三人を添へ能勢の妙見へ七日已前に参籠せしめ、密に山田に命じ、「能勢の山奥にて二人ともに刺殺すべし」と命ぜしかども、山田之を殺すに忍びずしてある中に、此度大変起り、御吟味厳しくして能勢に居る事なり難く、京都へ忍び出でしに、遂に同処にて捕はれしといふ事なり。又小泉円次郎が切られし事、種々取沙汰有りしかども、【大塩動乱最初の模様】此者大塩腹心の者なりしに叛心を生じ、御奉行へ内通せんとせし故、瀬田これを切り自身も手負ひ逃げ帰りしといふ。此騒動に付き与力・同心早朝より残らず奉行所へ召されて、与力町には大塩が焼立てし時は、当人のむきは一人もあらざりしといふ。其日の未明より何となく大塩が屋敷騒々しく、鉄炮を打立て騒ぎしかど、近辺にては鉄炮方の与力の事なれば、米価高直の折柄なれば、京の方より一揆にて出来りしや。又例の肝癪にて家内をあばるゝにや〈毎々肝癪を起し、大に騒がしき事常なりといふ。〉抔いひてうつかりせしに、思ひ寄らず向の浅岡助之丞が家敷へ鉄炮を打込み、夫よりして外々を焼立てしと言へり。こは何の趣意にて斯る事するやと、大狼狽へにて途方を失ひしといふ。すべて此一条は朝岡・工藤等へ入込み、堂島中町福島屋忠二郎といへる者の咄なり。又同人の咄に、桑原権二郎不首尾にて盗賊方を召上げられし〔が脱カ〕、此度の騒動に就いて俄に帰役申付けられ、「若しや吉野山中に隠れぬる事も計り難ければ、其辺の百姓五六百を催し、山内一統鉄炮にて探すべし」といへる事なり。已に此間金剛山をも五百人の人夫を催し、鉄炮にて狩立てしが一人もあらざりしといふ。こは三月四日頃の事なりし。〈〔頭書〕山本・寺西抔いへる与力、闕所となるべき科人より金五百両宛の賂を取り、無事に計らひし事露顕し、両人共手錠にて総会所預けと成りしといふこは桑原が帰役を同じく、三月二日頃の事なりし。〉
【 NDLJP:89】瀬田済之助が妻は同勤工藤が女にて、【瀬田済之助が妻召捕らる】十八日夜小児を刺殺し、立派に自害せしといふ噂なりしが、之も偽りにして、三月五日奈良より召捕られ来る。荘司儀左衛門も其辺にて召捕られ、都合十四人連帰りしといふ。
阿波国にては、悪徒船にて同国へ落行き、深山に隠れ居るよし、専ら風説ありしにぞ、大勢にて其山を取巻き、鉄炮を打立て国中大騒動なりしといふ。
爰に別してをかしかりしは、山崎天王山の麓なる寺の納家失火ありしかば、誰いふ共なく、「大坂の悪徒天王山に楯籠り近辺を放火す」といひしにぞ、あわて狼狽へて其由を淀へ早速に注進せしかば、淀一家中人を払つて駈出し、大騒動をなせしといへり。
与力町焼失の跡御吟味ありしに、悪徒の中にもいかゞ心得違へる馬鹿者なるや、家財雑具は申すに及ばず、古き鼠落迄も蔵へ積入れ、窓・戸前等の目塗迄十分になし、家を明殻にして焼失ひし者ありしといふ。かゝる大罪を犯しながら、本の家に帰り住まんと思へるにや、浅ましき心といふべし。
焼失の後、【焼失後富豪の施行】加島屋久右衛門一人前に百文づつ施行、十一万貫に余れり。加島屋作兵衛一人前に三百文の施行す、一万貫の銭なりといふ。小橋屋 千貫文の施行せしといふ。とても施行する程の事にてあらば、同じくは焼かざる已前に是をなさば、晴立ちし事なるに、施行しながら一向に乗立たぬ事なりし。【○のり立つハ引きたつコト】
焼失後上より御触有りて、
信州上田の家老、【信州上田の家老】下役の者を引連れ当処へ出来り、難波橋俵屋幾助といへる宿屋へ滞留。こは今度淡路町辺の町人を新に蔵元に頼みしに、一応にては承知せざりしにぞ、〈近年諸侯町人を賺す事甚しく、種々様々なる事申来りぬるにぞ、此者も容易に承知せざりし故なり。家の什宝にて至つて大切の品を持参りぬ。此宝をばいかなる事ありても他へ出し失ふ事なり難し、かゝる大切の什宝を預けぬるは、其信義をみせしめんとなるべし。〉主家の什宝を持参りて其家に預け置きぬ。十九日朝より俵屋の二階にて酒を飲みて居りしに、川崎の方に火事有りとて人々騒立つにぞ、己も二階より火の手上るを見て、「こは面白し、何卒大火になれかし。よき見物なり」【 NDLJP:90】とて、火事を肴になして大に酒を飲み楽みしに、追々其火広がりて次第に大火となり、鉄炮・石火矢を頻に打ち、劒・槍にて人を殺すなど言匍り、人々の走廻るを見て、益〻興に入つて面白がり、我を忘れて悦び居りし処へ、難波橋の橋迄悪徒押来り、空鉄炮を打ちしかば、大いに驚き俄に慄出し、己が具足櫃・挟箱等を蔵に持運ばせ、「直に蔵の戸を
三月五日丑の刻、東照権現の御神体川崎へ還御ある。【東照権現の御神体川崎へ遷御】同日松平周防守竹島一件落著の御触ある。同日何者の申触らせしにや、大坂に騒動起りしといふ噂あるを聞きしとて、丹州笹山より三百人の同勢にて馳参る。され共何事もなき事なれば、大坂へ入りぬるも如何しく思ひしにや、十三村にて宿を取り、六日の朝引取りしといふ。
同七日、【酒井雅楽頭登坂】播州姫路の城主酒井雅薬頭殿三千人の同勢にて登坂、八百人の供廻にて御城代へ御見舞、実は台命にて御城御固の由。〈先手西宮まで来りしかども、最早気遣ひもあるまじくと思はれしにや、又は市中又々騒々しくならんと【 NDLJP:91】思はれしにや、御城代より断りにて西宮より帰る。〉
大塩が乱妨後、【米価騰貴に付狼藉】米相場一日〔石カ〕百目といふ、されど売買なし。其後次第々々に米価騰りて三月五日頃は、一石に付百九十匁余となり、一升売二百文なりしが、明くる六日には二百廿四文となる。此日阿波座讚屋町にて米屋二軒を打潰す。其潰しぬる者共のいふ、「数多の米屋共を打潰しやらんと思へども、何分にも人気立ち難し。之にて先づ置くべし」といひぬるを、往来せる人の聞居たりしといふ事なりし。此日米屋何れも戸を締め米を商はざりしかば、小前の者の日々少々づつ米を調へて、其日の飢を凌ぎける者は大いに困りしとなり。
去る十九日松屋町の牢焼失致しぬる故、【出牢者の乱妨】軽き科人共は追放しに相成り、騒動静まりて後に帰り来れる者共は、其罪一等を許されぬる由を申渡されし事なりといふ。此者共道頓堀島の内辺にて、食物商ふ家々に入り込み、何に寄らず勝手次第に取喰ひ、此方共は暫し藪入りせしなれば、思ふ儘に気延しすとてあばれ廻れる由。其外処々へ盗入りしなどいふ噂あり。此者共の所為にやあらんといふ事なり。其外灘辺より兵庫に到る迄附火ありて、少しづつ焼失し、賊大に徘徊すと噂なり。定めて是等の所為なるべしといへる事なりし。
三月十日夜、【党人近藤梶五郎切腹】近藤梶五郎己が住みし屋敷の焼跡へ忍び来り、切腹して相果てしといから。焼残りたる雪隠の中にての事なりとぞ。見苦しき有様なり。
同十一日の事なりしに、道頓堀を大勢芸妓共を乗せ、三味線・大鼓等にて大騒にて浮れ行く船ありしかば、若き者共橋上より之を眺めて居たりしが、「かゝる時節をも憚らず不埒なる馬鹿者思ひしらせん」とて、三人にて石を持来り橋上より、船の直中へ投落す。之を見て其辺に在合ふ者共、銘々に手頃の石を拾ひ取つて打付けしといふ。定めて船中の者共大に怪我せし事ならん。されども隙取つては如何なる事にあひやせんと、大に恐れしと見えて、這々の体にて船を早めて逃去りしといふ。【 NDLJP:92】大塩が行方天下の諸侯に命じ、【大塩の行方不明】草を分ち海底をも探しぬれども、同中旬に至れども一向に知れ難し。彼素より与力の事なれば、定めて地理・水理の事をもよく弁へあるべし。辛苦艱難をなし飢に苦しみつゝ、陸を走り山を攀登りて逃れ廻らんよりは、糧を貯へ寝ながらにして、安心に千里を走る船にして海外に走去りしものならんか、さなくして斯様に手廻らざる程の事は有るまじく覚ゆ。彼も事を起せる程の曲者なれば、其逃るゝに道なきに迫らば石を抱きて海底に沈み、屍を見する程の事はあるまじく覚ゆ。若し此者陸地を走り召捕らるゝ事あらば、首伝りて恥を晒せる瀬田済之助等と同日の談なるべし。【下層民大塩を崇拝す】〈十九日道頓堀の山田屋何とやらんいへる者の家に走込み、具足ぬぎすて置きて出去りし者両人ありしといふ。専ら此者を大塩父子ならんと、噂せしかども覚束なし。〉○〈又米価高直にて、一統に倹約を事とする事故、普請などする者は至つて稀にして、先年の焼場天満・堂島・高津上町等にて、未だ建てざる所多く灰搔も得せで一面に草原となれる処多し。かゝる有様なれば、大工・手伝・其外働人等の仕事なく、何れも飢に苦しめる折柄、此度の大変にて卒に彼等が仕事出来て、幾人有つても引足らぬ程の事なるにぞ、此者共何れも大悦びにて、最早何程米高くなりぬればとて、大塩様の御蔭にて何れもひだるきめにあふ事なし。有難き事なりとて、あそこゝにて其噂せし由にて、三十人余も其当座に召捕られしといふ。至つて騒々しき事なり し。〉
〈此度大塩が為めに焼失ひし米、凡四五千石はあるべし抔いへる噂なりしが、其後に至り米価次第に上り、三月十日頃に至ては一石二百二十目の相場となる。相場は此の如くなれ共、さらば米を買入れんとする時は、一石二百三十目にても手に入り難しといふ。諸人只麦作のよからん事を祈りて、之を待つのみなりし。〔頭書〕三月十三日頃より米価益上り二百三十目となる。〉
牧方の上辺にのうねん村といへる所の庄屋・年寄抔、【大塩一味の百姓】五人の者頭立つて大塩に与みし大塩と一時に起り、五百人の百姓を従へ淀の城を攻むるの積りなりしに、大塩が手筈違ひぬるにぞ、是等が同意せし事も忽に相顕れ、大勢を召捕り来りしといふ。
こは天満なる瑞光寺が咄なり。【町人騒動中見物す】又同人がいふ、「大塩が屋敷火事なりといふや否や、直に権現様へ馳付け何か取片付をなせる内、火矢にて処々方々を焼立つる故、其有様を眺め居しに、町家の人々は常の火事の如くに思しにや、又こはき物見たしと思へるにや、其辺をあちらこちらと走廻れる者多かりしが、士たる者をば一人も見当らず。御奉行を始め与力・同心の類も其場処へ参れる者なし、けしからぬ事なりし。此の如くに乱妨仕次第なれば、次第にあばれあるき、わが寺も危く思ひし故、寺に引取り諸道具大抵外へ取除けしか共、寺は申すに及ばず其持出したる道具をも、一つも残らず焼失ひし」といふ。大塩は其夜渡辺の穢多村にて一宿し、三百両の金子を与へ、其明る日髪を剃りて坊主に形を変へて落去りぬ。此旨公辺へ知れぬる故、こ【 NDLJP:93】れに関はりし穢多共大勢召捕られしといへり。此事は世間にても専ら其噂せし事なりしが、其実を知らず。
正念寺村〈のうれん寺か正念寺か詳かならず。〉の百姓大勢召捕られ、【正念寺村の百姓召捕へらる】発頭人五人入牢にて、其余百五十人計り手錠にて村預けとなりしにぞ、此者共に飯をくはせるに、一村の婦女かゝりはてぬる事にして、大混雑なりといふ。
江州彦根には京都悲田寺より、大塩平八郎大和とやらん伊賀とやらんを経て、四五人連にて慥に江州へ出ぬる由を告げ来りしにぞ、山林其外道もなき嶮難の処迄も、人数を払つて固めしか共、其事あらざりしといふ。又京都の固め厳しき事なれば、彦根も上京して、其人数たらん事を所司代へ〈松平伊豆守〉伺はれしかども、「まづ其儀に及ばず、殊によりて此方より沙汰をなすべし」との答へなりしといふ。こは彦根藩中の者、新見家中小山三蔵が方に来りて談りしといふ。
大塩が用ひし石火矢の大筒、【大塩が用ゐし大筒】木にて作れるは森口にて拵へ、鉄筒は高槻侯より借り来りしと云ふ。此候大塩信仰にて常に目通せる事故、侯に直に願ひて借り得しといへり。其大炮の筒二の見の見当の処に、高槻の銘有りといふ。斯くて大塩なる事をば、定めて知らずして借し与へられしなるべけれども、今更申訳も立ち難からん、いかゞなれる事にや。
大塩平八郎もしや水死せし事もあらんかと、【水死人と大塩平八郎】其当座よりして川々はいふに及ばず、海底迄も日々探し廻れども少しも手掛の事なし。三月十三四日頃に水中にて、膨れかへりし死骸一つ見当りしかば、之を引上げて御奉行所へ持来りしか共、水膨れにふくれかへりし死骸なれば、何とも分り難ければ、大塩が妾の捕はれある事故、之を引出し、「此死骸平八郎にてはなきや、
三月半ば頃に至りぬれば、【米価騰貴の為人気悪し】米価次第に尊くなりて、悪き米一升二百五十文より外に出でるにぞ、貧窮の者は愈〻口を糊する事能はざるに至りぬるにぞ、非人・乞食の類【 NDLJP:94】ひはいふに及ばず、諸人餓死する者少なからずといふ。斯る有様なれば自ら人気も厚がましくなりて、屈強の若者十人も十五人も一群になりて豪家へ到り、「空腹にて堪へ難し、食を与へられよ」と云ふ。この者共にあしく当らば忽ち大変に及ふべき有様なるにぞ、何れも飯を与へ銭を与へ抔して、之に逆らはざる様にすといふ。何れも之に困りぬる様子なり。
大塩が騒動せし前日の事とやらん、【大塩の使召捕られ江戸に送らる】平八郎より飛脚を仕立て、彼が落し文に記しぬる様なる事を書記し、京都御所司代松平伊豆守殿へ遣せしといふ。飛脚の者は斯かる事なりとは夢にも知らずして之を持行き、直に召捕られ入牢せしが、程なく胴丸駕籠にて江戸へ送られしといふ。〈〔頭書〕京都江戸飛脚和泉屋何某とやらんに託し、六日切にて江戸なる薩摩・加賀・尾張御屋敷へ大塩より書状遣し、其中へ落文封込みありしといふ。和泉屋十九日の大塩が騒動に驚き、斯様の事とは知らずして、大塩が書状六日切に江戸へ差出せし由を御城代へ訴へ出しより、早く追駈けて其状取戻すべしと命ぜられし故に、三日切にて追駈けしか共間に合ひ難く、夫々の屋敷へ届きたる跡なりしといへり。〉
彦根浪人京都笹屋町大宮西へ入る処にて、【彦根の浪人召捕らる】何屋とか〈右浪人の親類なりとぞ〉のいへる者の方に、かゝり居しが、此者大塩が一味にして、何つにても大坂に火事ありと聞かば、速に走下るべしと約し置きぬるにぞ、火事の噂を聞くと其儘に走出でしが、最早間に合ざりしかば、途中より引返せしか共、其事顕れて直に召捕れしが、三日目に牢を出し、其町へ御預となり、公儀より番人附くといふ。こは此者をゆるめ置きなば、悪徒共の便り来れる事もあらんとての事なりといふ。
大塩が騒動後は京都の固め至つて厳重なりといふ。【京都の防備】膳所は侯在国にて、殊に三月・八月番の火消なり。常に修学院の上に出張を構へ、すはといはゞ馳出んと其用意厳重なりしに、二条御城近辺に聊の出火有りけるにぞ、直に合図の早鐘を撞きしかば、侯も大勢を引連れ大津迄馳出されしか共、素より聊の火なれば直に鎮りて、何の仔細もなかりしかば、大津より直に引返されしといふ。
二月廿三四日の頃とやらんに、【徳島の社人】阿州徳島の社人吉田に官職を受けに、上京して有りしが、此日官職受けに行くとて、宿屋にて若党・沓持外に下人一人都合四人連にて宿を出でしが、途中なる八百屋にて何か買物をなし、一寸座敷を貸しくれよとて此家にて鳥帽子・狩衣をつけて、御所の御築地へ入りしに、大塩が騒動に付、所司代より厳【 NDLJP:95】重に固め居る事なれ共、殿上人ならんと之を咎むる者もなかりしにぞ、此者藁草履をはき公家門に到り、沓をはきかゆる事もなくして、其儘にてのか〳〵這入りぬる故、之を咎め直に召捕られしといふ。大坂大変にて大いに騒動する折柄なれば、禁庭にても大塩が廻し者にやあらんなど取沙汰して、六門を閉ぢて大騒ぎにて、直に入牢し、宿屋八百屋は申すに及ばず、雇はれし者共迄何れも町預となりしといふ。此者更に怪しき者には非ず、吉田へ官職受けに来りしに相違あらされば、狂人に陥りしといふ。〈「頭書」此者社人にてはなし。阿波の家士にて松坂孫四郎といへる者なるが、高慢気違にて、自ら松田若狭守と改名して、かゝる所作をなせし事なりといへり。委しく阿波の屋敷にて此事を聞けり。狂人とはいひながらも、かゝる法外の事をなしたる事故、侯にも大に心配せられしといふ。大塩が騒動と混雑して、かゝる事など有りし事、をかしき事といふべし。〉
【売僧】三月半ば過ぎの事なりしが、兵庫辺の在に一人の妨主来り、或る百姓の大家に行きて、「大塩摩耶山に籠れり。金子入用なれば出すべし」とて、金百両騙り取る。早々に此趣地頭へ訴へ出で直に召捕らる。大坂与力内山藤三郎彼地に到り、大勢の百姓を召集め、山内は申すに及ばず寺々を探しぬれ共、跡形もなかりしかば其坊主を引立て帰りしといふ。〈二月十九日大塩焼打、家の人を追払ひ火矢を打込み候故、皆々大に恐れ其身其儘にて何れも逃出し候事故、何の家も大方は人なし。かゝる事なりしかば、大塩が党ならざる盗賊共大に時を得て、【大塩の乱に依り盗賊横行】心易き人の荷物をば退け遺す様をなして、表向にて奪ひ去る。偶〻是を見告めぬる程なる事有りと雖も、かゝるけはしき折柄なれば、銘々に打捨て置きて逃去りしにぞ、誰有つて之を咎むる迚もなければ、奪ひ次第取次第なりしといふ。大塩党始終人を払ひ置きて鉄炮・火矢を打立候得共、外にそれて鉄炮に当り、薄手・重手負ひし者有り。中には即死せし者、群集に踏殺され又は狼狽へて井戸の中へ陥りなどして死せし者も少々は有りといふ。此の如きの騒動なりしかども、白昼の事故怪我人は思ふ程にはなかりしといふ。〉
大塩へ立入候書林、施行の世話を頼まれ書物売捌き致し候迚御不審掛り、何れも町預けとなる。又其本を書林よりして買取候者も同様に町預けなり、其余大塩へ立入る者は申すに及ばず、少々にても
大塩が行方知れざるに付いては、定めて薩摩へ落付きて囲まはれし者ならん。【大塩薩摩国に落ちしといふ風説】已に天明の饑饉に米の買占をなし、大罪を犯さんとして事露顕に及び召捕られ、御仕置となりし京都の南部屋吉蔵へ、組せし張本人四宮帯刀といへる者、其節に逃れ走り【 NDLJP:96】しかど、厳しく御尋ありしに、とんと其行方知れざりしに、五六年を経て姓名をかへて、京都薩摩屋敷の留守居と成つて出来りしか共、同家の家来と云ひ、現在帯刀なる事はよく知れて有りぬれ共、公儀よりもいかんともなされ難くして、其儘になし置かれし事あれば、大塩も同様ならん抔と風説す。其時の事は之を知らざる事なれ共、当時にては薩摩も出雲の国よりして大坂へ出走して出来り、大に漂泊してありぬる処の至つて奸悪なる者を引込み、此者侯の気に入りて、勝手向の事は此者の心次第にて、之が為にしくじらされ、役を取上げられ、切腹等せし者も少からずといふ。万事此者の指図次第に侯を始め一家中、此者に混かへされ自由自在に振廻はさるゝ程の事にして、此者の為に大に人の痛みし事其数限りなし。此の如くにしみたれし薩摩なれば、公儀の大罪人を何しに囲まへる事あらんや、覚束なき事なり。されども大坂にても大塩が乱妨せるは、薩摩の加担せる故なりなど専ら風説し、江戸にても此変知れぬるや否や、大塩平八薩摩と一同に、大坂の城を攻むる抔と風説ありて、下方にては誠しやかに言触らし、大いに騒ぎしといふ噂なりし。
四宮帯刀・南部屋吉蔵等が事は田沼騒動の時にして、【南部屋吉蔵が闕所銀】此時も米一石二百三十目せしと云ふ。南部屋が闕所銀、京都市中町毎に銀三貫目宛二朱づつの利足にて、永永御借付になりしと云ふ、仰山なる闕所銀なりしといへり。又当正月廿九日、出雲屋孫兵衛召捕られしが、明る日より宿下げにて町預となる。家財は悉く封印付となり、帳面類は残らず御取上げにて、何か御調べの御様子なり。此者斯くなりしとて世間にて悦べる者計りにて、斯く有るべき事なりと言はざる者はなかりしが、二月十九日の騒動にて其噂も止みぬ。近来珍らしき奸悪の者にして、大に人の害になれる奴なり。斯かる不頼の無宿者を取込みて、之が自由にふり廻される程なる事なれば、大塩といへる名を聞いても、定めて怖ぢ恐れる事ならんと思はる。薩州の風儀も是にて知るべし。
江の子島江の子島の築地に、至つて麁末なる青楼有り。【江の子島江の子島青楼の騒ぎ】三月十七八〔日脱カ〕の頃、一人の客来りて、二日二夜も居続けをなして遊宴す。此客決して人に逢はず、芸妓の類を呼びて遊びぬれ共、燭台を灯させず、行灯の火さへ灯心を減じて僅か一筋になし、大【 NDLJP:97】に明りを厭ひ、夜中小便を催しぬれ共下に下る事なく、小茶屋の二階なれば小用処もなき故に、紙屑籠の中に小便をなし、戯に芸妓などの手を握れるに、其手しばしはしびれて覚えなき程の事なるにぞ、こは至つて怪しき客なり。定めて大塩が余類ならんと思ひしかば、其旨を町役人へ密に告げしかば大に驚きて、「夫は定めて然るべし、何分にも程よくあしらひて引留め置くべし」と言渡し、夫より其辺の仲衆荒し子共を招きて、出口々々を固めさせ置きて、雑喉場会所へ公儀より役人衆出張ある故、〈先月の大変後、阿波侯にても米屋を打潰し又米屋共不良の商ひなどなして世間騒々しき折柄なる故、御奉行所迄は至つて間遠なる故、当堀江三丁目・上難波町・阿波町・堂島・船大工町・雑喉場町・南尾屋町等の会所へ役人出張ある様になりぬ。〉此旨を訴へ出でし処、此日は工藤何某とやらん云へる役人当番なりしが、之を聞くと忽ち面色土の如くに変じ、其者の人相を尋ねし故、眉毛濃く面は下すぼりにしてしか〴〵の人相なりと答へしかば、大に慄ひ出し、「夫は至つて強き奴なり。今手先の者漸、四人ならでは此処へ有合さず、之にては如何共なし難し。
其方にて固めしといへる人数は何程なるや」と尋ぬるにぞ、「若き者共六人にて固めさせ置きし」と答へしに、「夫にては十人計りなり、覚束なければ大勢の人数を集めよ」といへるにぞ、「左様に隙取りぬる内に、若彼者を取逃し候ては其詮なし。早く来りて召捕り給へかし」と、頻に之を促せ共、兎角に出兼ねて大に隙取りしか共、漸々と其青楼へ出来り、手先の者を先へ追遣りぬるにぞ、手先の者拠なくして、こは〴〵二階に上らんとするを密に呼留めて、「其脇指をこゝに抜き置きて無刀にて上るべし。先方強者なれば脇指を奪取られ、却てあちらこちらに斬らるゝ事あらんも計り難し」といへるにぞ、【和歌山の刀屋大塩と間違へらる】之を抜き捨てゝ四人連立ち、漸々と二階へ上り、御上意なりと捕りかゝりしに、三人の者散々に投付けらる。其間に下より近辺なる若者共追々に走上り、棒にて散々に打居ゑ手取・足取して、此者の
先月騒動後の事なりしが、【京都小倉屋敷の足軽と鉄炮】京都小倉の屋敷米払底に相成りし由にて、早々米を登せぬるやう大坂蔵屋敷へ申来れるにぞ、船一艘に積みて此上は乗すに足軽・小頭を乗せ遣せしに、此者至つて鉄炮好きなるに、かゝる騒動後の事なる故、用心の為にとて鉄炮に玉薬を込めて之を袋に入れて持行きしが、如何なる過ちにてやらん、此火蓋の処へ火移りしかば、思ひかけすも、其玉を飛ばして大なる音せしかば、伏見迄の間に五ヶ所に番所を構へ、川陸共往来の人の荷物迄一々に之を改め、其余にも途中には悉く固の人数密み居る事なれば、すはや曲者有つて鉄炮を放せしとて、大勢の人数其船を取巻きぬるにぞ、種々申断れ共之を許さず、直に此者を召捕へて入牢せしめ、蔵屋敷留守居を御召出にて御糺し有りしに、夫に相違なき事なれば其旨漸々と御断り申上げ、其米船を登せる事は御許しを蒙りしか共、入牢せし者は御免なしといふ。
大西与五郎は大塩が伯父なる由、【大西与五郎】此者二月十九日御奉行所より、与力・同心一統に召されぬる時、病気と称して召に応ぜさりしかば、強ひて再び之を召されしにぞ、
瀬田藤四郎〈済之助が父也〉も二月十八日、【瀬田藤四郎】息子の嫁を引連れ、衣類其外路用等十分に用意して出奔す。之は大塩に深き恩義有る事ゆゑ之に与せしか共、所詮叶ひ難き事に思ひぬるゆゑ出奔せしといふ。出奔して其罪を逃れんと思ひぬる其心中、浅ましく未練至極のことなりといふべし。之も捕られて入牢す。又済之助は古き刺子の破れ【 NDLJP:99】垢附きしに、古き切れの引裂きしを帯となし、首縛りてありしといふ。大しみたれといふべし。
十九日乱妨の時、前にもいへる如く、御城与力に具足持ちたる者のなく、俄に借り具足せんとて御具足奉行に到りしに、御奉行家に有らざりしかば、処々方々尋廻りて、漸〻と京橋口にて尋ね当りて、具足の事を願ひしに、一存にてはなし難し、一応伺ひし上にて之を計らふべし抔いひて、ごて〳〵と隙取れるうちに、大塩が徒船場へ渡り追々と進み来れる故、拠無く西町奉行と共に淡路町筋へ出張し、五人進みて鉄炮を打ちしか共、余り間遠なる故、一つも向へ届きぬる玉なし。引続いて玉を込めんと、鉄炮の筒口を吹払はんとする時、一人の鉄炮立消えせし有つて、俄に思懸けなく玉を飛ばす。其玉其者の頬を
御城内にても百騎衆何れも具足櫃には、【百騎衆具足を所持せず】衣類・手廻の道具など計りにて、具足持ちし人は一向にこれなき事故、何れも大狼狽にて騒々しく見苦しき事なりしといふ。
浅ましき事といふべし。〈東西にて二百騎の中にて、具足を持ちし者漸く二人ならではなく、火事羽織の用意さへ有る人稀にして、何れも暴に病気引を騒動と見かけてせしと定めて臆病にて引きしも、其内には多く有りし事なるべし。〉
与力町にても何れも臆病未練にして、大塩を取放せし事をばいはで、世間にて児女輩のいへる如く、彼は先年切支丹の仕置せし時、其書物を熟覧せし事なれば、其邪法を以て身を隠せしものならんなど噂すといふ、可笑事なり。
【 NDLJP:100】鴻池屋善右衛門が一統は、【鴻池屋善右衛門と大塩】大塩が一番に焼立てし船場にての手始めにして、本家の蔵は三ヶ所迄焼失す。乱妨分けて甚しくありしといふ。善右衛門は行衛しれず、妻は蔵に逃込みて、石火矢にて打殺されしなど其節専ら風聞せしが、左様にてはなかりしに、其後に至り米買占せし故、闕所となれる由など風説し、又淀屋橋へは鴻池を打潰すといへる張紙せしといふ。其外いかなる事にや、鴻池の世評散々の事なりし。
大塩平八郎、鴻池・三井其外其辺を焼立て加島屋を焼き、両御堂を焼き、近江屋久右衛門・辰巳屋久右衛門・飾屋六兵衛等を焼打つといへる風説喧かりしかば、其目指せるといへる家々の近辺は、別けて大に狼狽へ騒ぎて、其後に至りぬれどて〔もカ〕暫くはうろうろとして、人々渡世の業を打捨て有りしにぞ、只さへ暮しかぬる程の者共なるに、【辰巳屋久右衛門困窮人に苦めらる】何もせでありし事なれば、其日の糧に尽きぬるやうになりぬるにぞ、辰巳屋久右衛門が借家に住める者共一統に申合せ、久右衛門方へ合力を頼みしかば、銘々へ鳥目弐〆文づつ遣せしといふ。此辺至つて貧窮人の多き所なる故、町内一統に申合せ、「銘々共が此度かゝる騒動によりて狼狽へ廻り、手仕事もえせで多くの日を暮せしことは、畢竟辰巳屋といへる者有りて、この家を焼打に来るといへるが故なり。我等が難渋に及べることは、全く久右衛門故の事なり。然るに其借家計りに合力して、此方共を捨置きては相済み難し。何れも一統に行きて其合力を受くべし」と言合せて、大勢久右衛門方へ押掛けぬ。然るに又難波なる同人が頼み寺の近辺に住める処の体、坊主共男女の別なく大勢連立ちて合力を頼来り、其辺大に群をなす事なれば、騒動に及ばん事を恐れて、四ヶ所の番人共を招き寄せ、門口を守りて人を制せしむれ共、更に手に合はずしていかんともなし難く、久右衛門方にても其求めに応ずれば又外よりも追々に出来り、其際限も有るまじく、之を強ひて断りなばいかなる大変に及ばんも計り難しとて、大に困り入りて途方にくれぬる事なりといふ。
東御町奉行当所被㆑致㆓永勤㆒候様、町人共ゟ西御奉行所へ願出候書付之写
一、近来米価高直にて、殊に去る申夏已来格別高直に相成候故、如何成行き可㆑申哉【 NDLJP:101】と不安心に存候処、【町人共より東町奉行留任の歎願書】東御奉行様種々御仁恵之御苦慮被㆑為㆓成下㆒、以㆓御蔭㆒他国に見競候へば、当地は米価下直にて、市中一同難㆑有奉㆑存候。其上極難渋之者取続難く相成候分は、以㆓御憐愍㆒度々御施之米銭被㆑為㆓下置㆒は、冥加至極難㆑有奉㆑存候。然る処此度悪党共不㆓存寄㆒及㆓放火㆒、市中騒動仕候得其、以㆓御威光㆒早速御取鎮め飛道具等不㆑残御取上に相成り、悪党共も追々御捕に相成候段、一同難㆑有安堵仕候。其上類焼・極難渋之者共多人数へ御憐愍之御救小家被㆑為㆓成下㆒、扶食等被㆑為㆓下置㆒候御儀、重々御仁恵之程難㆑有、乍㆑恐御礼奉㆓申上㆒候。猶乍㆑恐此上永御在勤被㆑為㆓成下㆒、奉㆑蒙㆓御仁恵㆒度、市中一同奉㆓願上㆒候。此段乍㆑憚各様ゟ宜敷御願上被㆓成下㆒度奉㆓願上㆒候。以上
酉三月 本町筋ゟ北久宝寺筋迄 町々年寄連印
総御年寄中
右者此間差上候願書写に御座候。早々御順達留ゟ御戻可㆑被㆑下候。以上
酉三月十七日 北久太郎町一丁目印
右廻状四筋合十九町順達。
今日火消年番、町々年寄西御役所々被㆓召出㆒於㆓御前㆒左之通。被㆑為㆓仰渡㆒候。
三郷町町人共総代高麗橋二丁目年寄 紙屋清七 外廿人
跡部山城守当表永勤之儀、町人共一同願立候趣神妙之至りに候得共、依㆑願永勤可㆑為㆓仰付㆒筋に無㆑之に付、願書差返候。尤御城代へ相達候上申渡候間、此旨可㆑令㆓承知㆒候。
右之通被㆓仰渡㆒、一同奉㆑畏候。仍如㆑件。
天保八西年三月十七日 廿一町年寄連印
右之通に御座候。尚又総年寄取次を以て、願書も御差返被㆑成候得共、此儀は最初御世話町々御印形御戻被㆑成候由、此段御通達申上候間、御承知之上早々御順達可㆑被㆑成候。以上
酉三月十七日 年番南本町一丁目迄年 〈〔頭書〕予が推量に違はず、総年寄より内意有りしといふ。南革屋町長浜屋五郎兵衛といへる者、かかるばか〳〵しき事を総年寄より沙汰せられて、困りたてぬる由、津山の屋敷にて語りしといふ。〉
天満堀川天神小橋西詰南側なる酒屋にて、御救米五合百八文といふことを、大文字【 NDLJP:103】に書記し、【御払米を御救米と張札す】門口に張付け有りて貧人共此米を買ひに到れり。斯様に張紙をして米商ふ処、
三月十一日類焼人へ、【類焼人へ施行】鳥目一貫文包み、御救を将基島に於て下し置かる。此鳥目は元来大家町人より、類焼困窮人へ救の為に公儀へ差出せし処の鳥目なり。此度焼失の竈数一万八千二百四十七軒なり。此内にて千三百六軒は明家なり。又極窮にて御救小家に入りし者三千二百人、之を凡そ千軒と積る時は、一万八千二百四十七軒の内にて、二千三百六軒を減じ、一万五千九百四十六軒となる。此内にて焼けても痛みにならざる者有り、又痛めても苦にならざる者有り、又難儀なれ共、能き親類の助けにて持ち堪ゆるあり、、又他人に金借りて、可なりに仮家にても建て、渡世出来ぬる者有り、又親類もなく他人も金を貸す者なく、さればとて御救小家へもえ入らずして難渋なる者有り。【施行金分配の不当】よく〳〵是等を取調べて、渡し方の割り様も之有るべき事なるに、予が心易くせる処の或る大家も〈鴻池三郎兵衛なり〉一貫文下されしか共、此人は之を辞して受けざりしが、鴻池の一統は何れも之を受けしといふ。鴻池さへ此の如くなれば、其余類焼せし大家へも同様に下されし事なるべし。之を下さるゝも道に当り難く、之を受くるも理に背きぬる事といふべし。よく〳〵取調べぬる上にて斯様なる者を省き、極く難渋人のみを選出して、せめて鳥目五七貫程づつも下し置かれなば、夫にては差当り雨露・飢渇を凌げるやうに、一時の助けにもなるべき事ならんに、いかなる思召しにや、不審の事なり。
大塩平八郎同格之助自殺之事
新靱油掛町土橋筋より、【美吉屋五郎兵衛と大塩平八郎】一筋西の辻を西へ入る南側角より二軒目に、美吉屋五郎兵衛といへる
大塩が此家に忍び居りしは二月廿四日よりなりとも、又当月廿四日に、尼ヶ崎の方より、親子共駕籠にて入込みしを、跡をつけ来り訴へしとも、此家の召仕よりして密に訴へ出しとも云ひて、取り〴〵なる噂なりしが、こは定めて二月騒動後は、上下共大狼狽に狼狽へて何れも大いに気後れし、【大塩を逃がせし批評】風の音・雨の音などにさへ驚き騒ぎぬる折柄なれば、定めて其間を考へて、其節に忍込みしものならんか。〈米をば袋に入れて、五郎兵衛密に之を持行き、飯は炭火にて自ら之をたき、薬には鰹節のかきたるを用意し有りしといふさもあるべし。〉其当座直に五郎兵衛は囚人となり、町内より昼夜番人を附置きぬる程の事なるに、いかに外なる入口より忍入りぬればとて、騒動後は別けて、何れの町にても番人繁く廻りて、厳重なる処へ入込みぬる事のなるべきや。若し又駕籠にて入込みしといへる事、実事なる事にてあらば、尼ヶ崎にも兼ねて其備へ有りぬる事なれば、いかに当時武道廃れ果てぬる世の中にて、尼ヶ崎の者共彼を鬼神の如くに恐れぬればとて、僅か両人のことなり、尼ヶ崎の一家中計りにて之を恐ろしく思へば、町人・百姓迄も加勢なさしめてなりとも、如何様にもなるべき事ならんに、おめ〳〵と其城下より駕籠迄かさしめて、密に其落著く処を見るに及ばんや。殊に人違にても苦しからざることは常法にて、御触書にも之ある事なれば、こは騒動の紛れに入込みし事ならんと思はる。又当処にても此家へ両人の忍びいる事前日に知れて、廿六日の七つ頃より所々の固をなして、之を取囲みながら、一人も座敷へ踏込みて之を生捕らんとする者なく、翌日迄も只其外を固め、火の手十分に上りて、最早其自滅せしを知りて、漸〻と水にて火を打消して、真黒に焼けたる屍を取出し、嗚呼がましく手柄顔するもをかしき事なり。又大塩も天下の大禁を犯し乱妨・狼藉をなし、大いに諸人を困窮せしむる程の悪事をな【 NDLJP:106】せる身にて、一味の者共悉く自害或は召捕られぬる事は、委しく五郎兵衛より聞きつる事ならんに、親子両人忍び居て何事をかなさんと思へるにや、をかしき事なり。是等の手振にても、其始めに此者共に乱妨・狼藉を十分になさしめて、之を取逃がせし事の拙かりし事を思ひ知るべし。今朝も火の手上るや否や、頻に半鐘を打立てて、「そりや大塩ぢや鉄炮ぢや」とて、世間大いに狼狽へて騒ぎ廻りし事なりし。又尼ヶ崎よりも奉行一散に大勢にて馳付けしといふ。予も其辺を通りしに、大層の群集にて、往来も六ケ敷き程なる事なりし。〈大塩平八郎は火鉢の中へ投炮碌を打込み、自害なして其火鉢の上に備向き、腹這ひ臥して真黒に焦れ居しといふ。炮碌玉のはぜぬる音大いに響きしより、又鉄炮を打てる迚騒ぎしといふ。〉
二月十九日の事とかや、百姓一人大塩が乱妨に後れ、何れも散り〴〵に落行きし跡にて、天満橋の上を救民と書記したる幟を持ち、うろ〳〵なして居たりしが、此百姓至つて弱々しく見えしにぞ、東奉行の徒士通り掛りしが、余りに弱々しく見えぬる故に、此旗をこは〴〵奪取りしかば、其百姓は早々逃去りしといふ。此男其旗を持帰りて、手柄面をなし頻に高言を放つにぞ、城州にも何れも〳〵後れぬる計りにて、聊の功もなきもの計りなるにぞ、之を大いに悦び、御城代へも其趣事々しく申上げしかば、御城代より、「此者大いに手柄せし事なれば、取立て召仕はるべし」と声かゝりにて、此者暴に五十石にて徒士頭に取立てられしかば、大いに臂を張りて傍若無人に振舞ひぬといふ。せめて其百姓を生捕るか但し首にても切来らば、少しは功立でしともいふべきことなれども、左様の事にてもなければ、可笑しき事なり。尤も戦場にて旗を奪取れるは大なる功にして、急度之を賞する事なれ共、是等はそれと同日の論にはあらず。
或る人の云く、〈[#底本では直後に「始めかぎ括弧」なし]〉「昨年秋の半ばよりしては米も大いに払底になりて、冬に至りても米一向に登る事なく、米価頻に尊くなりぬるにぞ、大塩より奉行へ申す様は、何卒御威光を以て当地町人共より、諸大名へ金を余分に貸し申さゞるやう仰付けらるべし。【大塩一件の原因の一説】さある時には諸大名何れも囲ひぬる米を売払ひて、其融通をなすやうになりて、追ひ追ひ当所へ米を積登せる様になりて、米も沢山になりて、自ら其価も下落するやうになりて、貧人饑餓の患なきに至るべしと申立てしかども、城州これを聞入れ【 NDLJP:107】ずして、却て之を叱り、与力
大塩が乱妨せし後三月半ば過に至り、鴻池善右衛門城州と馴合ひて、米の買占をなせしなど、専らに風説せし事なりし。かゝる事はよもやあるまじき事に思はれぬれ共、城州と鴻池との評判は世間にて散々に言囃しぬる事なりし。
大塩が乱妨にて焼立てられ、此度御救小家にて御救を蒙れる者共は、何れも飢渇に迫り、【下層の民大塩を崇敬す】口を糊する事もなり難き者計りにて、焼かれし御蔭にて御救ひに預れるも、大塩様の御蔭なりと思へる者計りにして、満足なる者は一人もなく、其外大工・手伝・日雇等は、密に大塩が乱妨によりて其仕事出来せし事を悦べる者多しといふ。
【西田青太夫】西田青太夫といへる与力は格之助が兄分なり。乱妨後も矢張奉行所へ日勤せしが、大塩親子自害せし翌日に至り奉行より、「遠慮差控すべし。されども程なく相済みぬるべければ、必ずしも短気なる振舞すべからず」と、申渡されしといふ。此者これ迄地方を勤めしが直に余人に其役を命ぜられしといふ。いかゞなれる事にや。大塩平八郎が美吉屋へ、隠れ忍ぶ事の知れし所以を委しく聞きぬるに、同人方の飯焚をなせる男は平野の百姓なるが、【大塩美吉屋に忍べる事露顕の理由】用事有りて、両三日の暇を貰ひて平野へ帰りしに、平野は御城代土井候の領知にて、則ち陣屋有り。然るに侯御城代を勤めらるゝ事故、同所の百姓共の中よりして、中間・小者の類を当処へ出来りて勤むる者多かるにぞ、此者共の中に、彼の美吉屋に勤め居る飯焚の親しき友多く候ひぬる故、平野へ帰りがけに、御城代の屋敷へ立寄りて、四方山の咄せしが、其中にして言へるやうは、「昨年来米価貴きにぞ、世間一統大いに難渋なる中にも、別けて我が勤むる家は倹約甚しく、朝夕は薄き粥にて昼一度は飯なれども、是を十分に食する事なり難く、日々空腹にて困りはてぬ。少しにても之を余分に喰ふ者有りぬれば、主人より大い【 NDLJP:108】に叱られぬ。此方の主人は至つて客き人にて、一合の米にても余分に入りぬれば、かゝる時節に米の入様多しとて、日々喧しき事なり。我等は飯焚の事故大いに困りはてぬ。何卒今年は豊かにて麦も程よく出来て、早く米価下落して、斯かるうるさき目に逢はざるやうに成りたき事なり。かゝるやかましき親父なるが、先月十九日騒動有りし後は、いかなる事にや、米一升計りも多く入りぬれども、入用多しとて之を咎むる事なし。されども節季に至りなば、定めてやかましくいへる事ならん。かゝる米価の貴き節の飯焚はうるさき者なり」などと、身の上咄をなし、別れをなして此者は平野の宿元へ帰りぬ。其跡にて一人いへるやうは、「彼が主人美吉屋五郎兵衛といへる者は、大塩平八郎方へ出入にて、則ち騒動の節に大塩が用ひし旗をば美吉屋が染めしとて、直に召捕へられしが、其後宿下げになりて、当時町預けの者なり。此者の内にて騒動後より、米一升づつ余計入りぬるに、一合にても米の多く入りぬるを咎めぬる程の者にして、之を咎むる事なきも不審なり。若しや大塩が徒を囲まひあるも計り難し。何にもせよ怪しき事に非ずや」と言へるにぞ、何れもさも有るべしと思ひしかば、此者共より役筋へ之を申出でしにぞ、直に平野へ人を走らせて其飯焚を呼来り、役人の前に連れて出でしにぞ、「汝しか〴〵の事を申せし由、愈〻左様なるや」と、問はれぬるにぞ、「いかにも其通り申候」と答へしかば、直に其者に縄をかけさせて、其方の主人五郎兵衛事は、奸賊の張本大塩方へ立入致し、乱妨の節彼が用ひし旗をば五郎兵衛が染めたる故、直に召捕りに相成りしが、其後町預けとなりて今に其儘にて、御不審を蒙れる者なり。然るに此者方にて、右騒動の後より米一升づつ多くいりぬれども、平日は聊か多く入りても、喧くいへる者にして、是を何共申さやる事甚だ以て不審なり。定めて大塩親子を囲まへるものならん。
御城代は重き職分にして、【城代の行動に付て批難す】大坂に於て主将たる事なれば、斯様なる事を聞出されしとて、自ら其家来に命じて、斯様の事をなせる者には非ず。市中の事は町奉行、在領は御代官、夫々の役分ある事なれば、夫々に命じて之をなさしむるべき事なるに、何れも沙汰なく自ら召捕へんとせられしは、其功を奪はんと思はれし事ならん。跡部城州には、此一件に付いて大いに恥辱を蒙りし事なれば、これを助け遣して、此人の手にて捕へらるゝ様になしやらば、少しは此人の恥をも雪ぐやうになりて、深く其恩に感ずべき事なるに、上として下を恵むの心なく、反つて之に恥を重ねしめて、自己の手柄になさんとせられぬる事は、余りに情なき心にして、西三十三ヶ国の御仕置を命ぜらるゝ身分には、似合ざる事といふべし。
斯くて大勢の人数、【大塩召捕の状況】新靱油掛町美吉屋を目指して、廿六日の未の下刻に何れも走付けしが、町奉行の手先与力・同心などとは違ひぬる上に、是等が如く四ヶ所の非人并猿・犬などを遣ふ事なく、何れも勝手知らざる夷中侍なれば、比所に五人あそこに七人と各〻手分をなして、三町も五町も間隔たりし処の出口々々は云ふに及ばず。町家の軒下又は家の内迄も入りぬるが、各〻鉄刀・木太刀・棒抔を持ちながら、何れも斯様なる捕物に馴れざる者共なれば、何とやらん騒々しく間抜けぬるに、跡よりも追々馳来れる侍共も同様なる有様にて、きよろ〳〵しながらに、「油掛町はどの辺なるや。美吉屋五郎兵衛が家は何れなるや」など、そこら辺りにて聞廻れる様、いかにしても怪しき様子なれば、其辺の家々はいふに及ばず往来せる人迄も、亦何事の出来ぬる事やらんと大いに恐怖せしといふ。此の如くに遠方より、美吉屋が家の四方迄も多勢にて取巻きながら、只一人も其家に踏込んで、之を捕へんとする者なくて、其日をも暮し、終夜此の如くにして其夜をも空しく明しぬ。明る朝に至りぬれ共、猶は踏込んで之を捕へんとする者一人もなかりしといふ。然るに今朝七つ過る頃、【 NDLJP:110】垣外の一人其辺を通りかゝりて此様子を見受けしが、「斯程仰山なる捕物あるに、我等を始め中間の者共へも御沙汰なきは如何なる事にや」と、いぶかしく思へるにぞ、其処へ到り之を能く見るに、与力・同心の類は一人もあらざる故、愈〻怪しき事に思ひしにぞ、之を尋ねぬるに、「美吉屋五郎兵衛方へ大塩平八郎忍び居る由、御城代の上聞に達し、召捕に向ひし」と答へしといふ。〈此垣外多く人に之を尋れぬれ共、町奉行へ沙汰もなくして之を召捕へて、手柄面せんと思ひぬる事故、只捕物有りと計りいひて、あらはに云へる者なかりしにぞ、あちらこちらにて多くの人に尋ぬる中に、中間が小者と見えて此事を口走りし者ありしとなり。〉此垣外この事を聞くと其儘一散に天満へ馳付け、内山彦三郎方へ到り、「しか〴〵の事なり、之を御存なるや」といへるにぞ、之を聞きて大いに驚き、其儘直に西奉行所へ馳付けて、御奉行の目通に出でて其事を申すに、御奉行にも之を知らずして大いに仰天せられ、「町中の事なるに、何故御城代より此方共へ一応の御沙汰もなくして、かゝる事には及びぬる事やらん。甚だ以て不審なり。定めて東奉行も同様の事なるべし。早く此趣を知らすべし」と申さるゝにぞ、内山がいふ、「最早暫しの猶予もなり難し、かく申す内にも、若しや大塩親子の者にて御城代の手にて召捕らるゝ様に相成りては、御支配地といひ御役前の御首尾にも係れる程の御事なり。宿元より直に彼所へ馳付けんと思ひしが、一応御届申さずしては相済み難くと存候故、一寸参上仕候なり。東御奉行へ御相談の上にて、其御指図を受けんとせば事延引に及び、後悔するに至るべし。私へは直に御暇給はるべし」と、言捨にして走出し、油掛町へ到りしに、四ケが噂の如く大勢にて美吉屋が宅を取囲みぬるにぞ、「いかなる事にてかくは固め給ふにや」と頭立ちし人へ尋ねしに、「大塩が此家へ忍び居る由、御城代の御聞に達し、召捕に向ひし」といへるにぞ、「左様にて候哉、我は西奉行組下の与力内山彦三郎といへる者なり、御免蒙るべし」といふ儘に、其中を走通り会所へ到り、直に五郎兵衛を呼出し之を吟味せしに、五郎兵衛も今は逃れ難くと覚悟を定め、有体に大塩を囲まひし事をいひ、「かゝる大罪人を知りつゝも隠し置きぬる事なれば、始めより我が一命をば投出してせし事なれば、如何様なる厳科にも処せらるべし」と、少もわるびれたる気色なかりしといふ。爰に於て直に五郎兵衛縄をかけさせて、内山は鉄砲・切火縄にて五郎兵衛が家に駈込み、大塩が隠れ忍べる座敷の庭に到り、「大塩平八郎親子の者【 NDLJP:111】此処へ忍び隠るゝ由上聞に達し、内山彦三郎が召捕に向ひたり。此処へ切つて出で存分に働くや。但し此方より踏込みて召捕るべきや、もはや逃れぬ処なれば覚悟すべし」と声かけしかば、内よりも之に答へしといふ。〈己等如きの手にかゝれる平八郎に非ずといふ。其外何とやらんいひぬるとも、かゝる騒々しき中ゆゑ委しくは相分らず。〉かくて彦三郎は手の者共に命じ、家の四方より打砕かんとせし処に、内にて鉄炮を放しぬる音二つ迄響き渡りしかば、〈〔頭書〕此鉄炮の音といへるは投炮碌を火鉢へ投込みし音なりといへり。此時の有様内山彦三郎が勢ひを大層に評判せしが、美吉屋隣の路次向ひの者戸口を締めて格子より覗き居しに、内山大音にて下知し、大塩がこもりし座敷の四方より掛矢にて打砕かせしに、何れも恐る恐る一つ打つては路次口へ二十人計りの人夫我一にと逃来り、又こは〴〵行きて一つ宛掛矢にて打っては又逆来る。此の如くなる事度々の事なりしが其度毎に人夫と共に内山も同じく逃出せしといふ。炮碌を大塩が火鉢にくべて其はぜし音に驚き、路次口へ逃げ退きし儘にて、火の屋根に焼けぬる迄もえ進まざりしといふ。〉何れも之に驚き、しばし猶予せし処に、暴卒に内より火をかけし事なるが、其火忽ちに燃上りて家根に焼抜けしにぞ、〈この火にて家の焼抜けしは五つ過の事なりし。〉火事なりとて処々に半鐘を打立てるにぞ、火消役の者共追々に馳付けぬ。中にも近辺の事なれば、総年寄川崎治左衛門の火消一番に馳付けしかば、之に命じて其座敷の四方より打砕かしむるに、兼てかゝる為に用意して、普請せし事と見えて、三重の締まりにて壁は松の三寸板にて、双方より土にて厚く塗り堅めし事なれば、【大塩の隠家の模様】容易には毀ち難かりしを漸々と打破りしに、内は一面の火にして中々寄付き難きにぞ、頻に水を打掛けて、格之助が自害して焼け爛れし屍を引出す。〈此時少々は息ありしが間もなくおち入りしと云ふ。〉○〈〔頭書〕格之助は大に狼狽へて逃出さんとせし故に、平八郎抜打に其肩先より八寸計切込みし故、其場にて倒れしを会所へ戸板に載せ連行きしに、火にて所々焦れながらも未だ息少々通ひしが、間もなくおちいりしといへり。〉早く平八が屍をも引出すべしとて、頻りに下知をなしぬれ共、黒烟甚しくして何の分ちも見え難かりしに、漸々と一本の足に探り当りしかば、著物の裾と共に之を引出さんとせしに、裾は火に焦れたる故途中より引ちぎり、【大塩平八郎最後】足はつるけて皮悉くむけて引張りし手に引付きぬ。されども之を引出す事能はず、其上火気熾んにして寄り付き難ければ、頻に水を打掛けて其屍を引出さんとするに、外よりして打砕きし事なれば、双方より壁倒れて屍の上に重りてありしにぞ、之を取払ひしに蒲団著ながら、寝処の中にて切腹して有りしに、壁其上に倒れかゝりし事なれば、之にて火を防ぎ、上に著し蒲団処々焼きし迄にて、下に敷きたるは少しも焼けざる程の事なり。され共髪は申すに及ばず面体も焼けぬれ共、平八郎なる事は明かに相分りしかば、両人の屍を駕籠に打込み、たん信濃町の会所へ持込みて【 NDLJP:112】後、高原へ五郎兵衛と共に連行きしといふ。御城代より召捕に向ひし大勢の人数は、前日よりして其辺を固めて夜通しをなし、夜明けて後火の手上りても、一人も踏込みて之を召捕らんとする者もなく、内山が踏込むを見ながら、尚一人も入込む事能はず、自害せし屍とは言ひながら、彦三郎が手に取られて何れもおめ〳〵と引取りしは、至つて見苦しき事なりといふ。町奉行には御城代の不法を憤れる中にも、城州には我が組下の与力、【大坂城代の不法と其批評】斯かる悪事を仕出し、大に恥辱を蒙りし事なれば、いかにもして我が手に召捕らんと深く心を苦しめぬるに、御城代の不法にして、終に西奉行の手に屍を取込まれし事なれば、本意なき事に思ひ、別けて恨み憤ると雖、主将たる御城代の計ひなれば理屈もいひ難く、胸を撫でて堪へらるゝといふ。此の如く其支配なる町奉行へも其沙汰なく、大人気なくも自己の手柄になさんと思へる程の小人なれば、御城内にては之をおくびにも出さゞれば、大御番始め御定番・御加番に至るまで、何れも之を知れる者なく跡にて其事を聞きて、何れも御城代の不法を憤らる。其中にても別して玉造御定番遠藤但馬守には、之を怒り憤り、「御城代の大任を蒙れる身に有りながら、下を引立てんとは思はずして、却て其支配地に家来を遣して其功を奪はんとす、言語に断ぜし振舞といふべし。若し自身の手先にて斯様の事を聞出さば、【御定番遠藤但馬守城代の行動を非難す】市中は素より町奉行の支配なれば、彼に命じて召捕らすべき事なり。然るに其事もなく、御城内にても誰にても此噂をもせず、いかに御城代なればとて我儘の仕方なり。両町奉行にも定めて口惜しき事に思ふべし。然し不法ながらも大塩父子を生捕になさば、まだしもの事なるに、前日より終夜取囲み夜明けて後、彼者自殺をなし、火の手上りても大勢の中より一人も踏込みし者なし。若し内山が走付くる事なくば、両人の死骸は悉く灰と成つて何とも分り難く、いつ迄も之を尋探す事ならんに、同人が走付けて手ばしかく屍ながらも引出せし故、両人共夫々に相分りて、何れも安堵するに至るは全く内山が功にして、之にて町奉行も少しく腹を癒せし事ならん。已に先月十九日騒動の節には、又しても相談々々とて幾度となく我を呼立て、大狼狽にうろたへ廻り、其節の悪徒大方捕はれとなりて、今は大塩父子と外に両三人残りぬる計りなるを、密に己れが手にて之を捕へ、手柄【 NDLJP:113】顔せんと我等に迄深く隠しぬる心根の浅ましさよ。先月騒動の節町奉行より、我が組下の与力・同心を借しくるゝ様にと、御城代へ願ひ出せし故、之を貸与へし時、我が用人与力・同心を召連れて加勢に出づる届に至りし時、与力共に向ひ、「其方共走向ひ如何して防がんと思ふや、其心得方を聞かん」と言はれしにぞ、与力共の答に、「かゝる事にて走向ひ候へば、防ぐ丈は之を防ぎ、叶はずと見ば討死せんと思ひ候。素より一人も生きて帰らんと思ひ候はず」と答へしかば、「其方共は討死せんと覚悟せし事なれば、死を厭ふ事なく共、跡に残りし妻子をばいかゞするや」と尋ねらるるにぞ、「こは存寄らざる御尋に預り申候。私共は必死と相定め候上は、少しも妻子の頓著なし。死せる跡にていかゞなれる事にや、其事は存不㆑申、併し御支配の御座候事故、其思召も定めて之ある事ならん。斯様の事隙取りては、悪徒放に乱妨すべし。御免を蒙り一時も早く罷越し申し度し」といひぬれ共、「先づ暫く待て、何れも其心得ならば甲冑にて赴くや」と尋ねらる。何れも口を添へ、「是より引取り甲冑著んとせば、愈〻手後れになるべし。必死と訳定めせし上は、甲冑して死ぬるも此儘にて死ぬるも同様の事にて、死するに二つなし。早く御暇給はれ」と言立てぬ。頓とはてしもなき事故に遠藤の用人より、「何分にも彼等が申通り早く御暇給はるべし」と、之を切上げ漸く立出でしといふ。かゝる事にて、総て何事も手後れに相成りしといふ。此の時土井侯の尋ねられし事、余り訳なき尋ねなれば、こは定めて彼等が心を引きみん為に、わざとに斯様なるばからしき事を、云はれし事ならんと思ひしに、此度の大塩を召捕らんとせられしにて、其腸を見抜きしとて、但馬守の申されしとて、其家中渋谷広蔵といへる者其事を咄しぬ。又遠藤より内山彦三郎を召され、【内山藤三郎受賞】「此度御城代の仕方、町奉行にも定めて快からず思はるゝ事ならん。然し其方が働き故、悪徒自害せしとは言ひながら、其屍を早く取出し、大塩親子の者なる事慥に相分り、町奉行の手に入りし事故、少しは快よく思はるゝ事ならん。若し其方も之を知らずして走付くる事なくば、前日より取巻きながら、明る朝家に火をかけ自害しても、尚踏込んで之を捕らんとする者一人もなき程の事なれば、両人の屍は悉く灰となりて、何者共分り難き事なるに、屍の夫々に分りぬるは全く其方が働故な【 NDLJP:114】り。此趣此方より委細に言上に及ぶべし。先づ之は当座の褒美なり」とて、刀一腰与へられしといふ。〈〔頭書〕此度の騒動に付、遠藤より坂本源之助へ抜付の刀一腰に銀七枚、外に与力六人へ白鞘刀一腰・銀五枚づつ、其外時服に金三百疋二人、上下一人、余は金三両・二両・一両・三百疋・二百疋・百疋等なり。此入用凡千両計りの事なりといへり。〉
此度の騒動につき、遠藤の評判世間にても至つて宜しく、已に十九日乱妨の節、御城代には大狼狽へにて、殿主台より石火矢を打たんと幾度も騒ぎ廻られしに、但馬守之を止め、【遠藤但馬守の手柄】「追々防の者を遣して、其御手当もある事なれば、程なく之を防止むべし。之より石火矢を打出さば大勢の人を損じ、愈〻騒動に及ぶべし。先々見合せ給へ」とて、之を止めて終に打たせざりしといふ。若し遠藤異見なく城よりも火矢を打出さば、大勢の人を損ずる上、諸人大に狼狽へ騒ぎ、以の外なる大変に及ぶべき事なりしに、こは全く遠藤の異見にて、諸人其難に遇はざりしにて称すべき事なり。又遠藤の組下大井伝次兵衛といへる与力の忰庄三郎といへる者、大塩へ一味せしにぞ、親伝次兵衛其外親類の者を呼出し、「其方忰庄三郎事は大塩平八郎へ一味の由、彼は定めて先達て勘当せしならん。さ有るべし」と申さるゝにぞ、何れも大に感服し、「いかにも勘当仕りし由」を申上げぬるにぞ、「然らば親伝兵衛其余親類共も申合せ、庄三郎を尋出し首討つて参るべし」と申付けられしといふ。之も其親に難のかゝらざる様にと、仁慈の計といふべし。其外玉造の与力・同心加勢を申付けられし時の言渡されし事など、大いに行届きぬる事なりとぞ。
茨田軍次御城代の手にて召捕られしかば、之を吟味あり。【茨田軍次召取らる】「何事も有体に白状すべし」とありしかば、「畏まり奉る。かく囚れと相成りし上は、偽り申すべき事に非ず。委細明白に申上ぐべし。私事は元来大塩と至つて懇意に仕候故、私を見込みしとて此度の儀に一味仕り候。其節に如何様なる事これある共、決して他言致すまじき由、神明に誓ひ候て血判仕候へば、如何様に御尋ある共、決して申上候儀にては更に御座なく候。有体と申すは此通にて、外に聊か申上ぐべき事
二月十九日騒動に付、【大塩騒動に付蔵米を城中に運搬す】難波御蔵より御城内へ向け運びし米、其日五百石、廿日にも亦五百石、夫より日々打続き都合三千石運び入れしといふ。平日には大切なる御米蔵故、少しく隔りし処はいふに及ばず、七丁も十丁も隔りし処に失火有つても、御蔵奉行は申すに及ばず、御城代・町奉行并に町火消など早速に馳付けて、御蔵を厳重に固むる事なるに、〈其外風少しく一荒甘水やきても大切の場処なり迚、直に走来るといふ。〉十九日の乱妨にて大坂はいふに及ばず、【御蔵奉行の狼狽】近郷・近在処々大騒動に及び、風説には、「市中はいふに及ばず、両奉行所を焼払ひ、難波の御蔵を奪取りて之に楯籠れる積なり」など専らに風聞ありしにぞ、御蔵奉行にも是を聞きし故恐れしにや、又大坂中悉く焦土になすといへる噂に恐怖れしにや、両御奉行ながら御城内へ逃込み、肝心なる蔵へ詰めぬる者一人も之なく、十九日の夜二更過に至りて、蔵奉行の指図なりしとて、組頭三人連にて出来りしが、僅か一時足らずの間うろ〳〵して居たりしが、御奉行の御用有る故に、引取らざればなりがたしといひて、立帰らんとする故、御蔵番の内より進出で、「かゝる騒々しき有様なるに、各〻御引取り有つては相成り難し、何分にも此処の守護せられよ」といひて、強ひて引留めしかども、事を左右に寄せて逃帰りしとなり。明る廿日には御救米の事に付、是非共に奉行出来らざれば成難き事あるにぞ、拠なく出来りしが、其用事済むと其儘取る物も取敢ず立帰らんとて、途中迄踏出しぬるを御蔵番の内より、一人追駈けて之を留め「かゝる騒々しき折柄なれば、昼夜〈○〔頭書〕難波御番にての一人といえるは、三浦儀右衛門といふ劒術者なり。〉御詰切にて厳重に御固めも之あるべき事にして、何に寄らず銘々共へ御指図もこれ有るべき筈なるに、早々御引取に相成候ては、万一何事にてもこれ有る時、小人数にて如何共なし難し、〈此蔵中に御蔵番漸々九軒ならではなく、若し変事の有る共此人一人より外には一命を抛うちて働かんとする者なし。〉何分にも此騒動鎮まる迄は御詰なさるべし」と、無理に引留めしにぞ、拠なく一時計り控居りしが、「我は御城代の御用有りて登城致さずしては成難たし。若し悪徒此処へ【 NDLJP:116】出来り乱妨するに至らば、其方達もそれ迄の運と思ふべし。御城代にも中々此御蔵などの御頓著にてはなし。故に此処は捨置きて入城致すべしとの御指図なり。故に我は之より直に入城すべし」とて、早々走帰りしといふ。是等は己の職分を打捨て候て、其臆病なる事論なし。され共かゝる者城内に逃込みぬるを其儘に膝元に差置き、肝心の糧を積置ける御蔵を守らす事なくして、いかゞせんと思へるにや。御城代を始めとして、各〻其持前の役々あり。然るに是等の臆病者を膝元に引付け置きて其任を失はしむる事、これ誰が罪ならんと思へるにや。御蔵奉行は之を論ずるに足らず、御城代の所作甚だ心得難き事共なり。前にもいへる如く、跡部城州評判取々の事にて、よき噂せる者とては更に之なき程の事なりしに、如何なる事にや、公儀よりして御褒詞有りしといふ。其文左の如し。
跡部山城守
其方組与力格之助隠居大塩平八郎儀、【跡部山城守への褒詞】不㆓容易不㆒届の企致し、放火・乱妨に及び候節、致㆓早速出馬㆒消防并捕方夫々及㆓指図㆒、悪徒共速に散乱相鎮り候次第、彼此心配・骨折候故之儀と、一段之事に候。不㆓取敢㆒此段可㆓申聞㆒との御沙汰に候。右水野越前守殿より御達し也。〈〔頭書〕跡部城州御褒詞の後、御時服三重を項戴し、六月に至りて六百三十石余の御加増ありて、三千石余の所領となられしといふ。〉
二月十九日大塩が徒、淡路町辺の大家へ火矢を打込み焼きしに、其辺に住める賤しき働人の家へも火移りて、丸焼となりぬ。其日より忽ち飢渇に及び、いかんともなし難き事なれば、夫婦相談し、悪徒を捕へて之を差出さば、定めて御褒美を下さるべし。其金にて家をも借りて商売をなさんとて、其場所へ走行き、悪徒方の雑人一人を打伏せ、散々に之れを打擲し、其足を以て、引摺りて御奉行の前へ連行きしにぞ、大に手柄なりとて称美ありしといふ。此者は勿論嚊の噂をもえらかりしとて、世間にて専ら評判せしといふ。実に此度第一の働きといふべし。
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