目次
【 NDLJP:62】
浮世の有様 巻之六
天保八年雑記
天保八丁酉年の大小を詠める
三五十七る田畠八正に十二ぶん二四もひが霜九六やさかづき
新玉の春を迎へぬれども、【天保八年正月の雑事】これ迄と違ひ世間一統に物淋しき事共なり。されども元日・二日共に天気至つて穏かにて、今年こそ豊年ならんと思はれぬ。三日雨、四日少雪、五日も同じく雪少し降る。六日・七日も同断なり。夜更けて雪多し。八日の朝に至りては地に積る事三寸計り、九日も少しく雪降る。十日快晴。十一日霙降る。四日の夜、淀屋様にての初相場を聞くに、肥後米一石百五十一二匁
〈旧冬仕舞相場は、百六十三匁五分也〉同八日堂島にての初相場百五十九匁五分、同九日五十七匁なり。【初蛭子】初蛭子も分けて賑やかなりしか共、何分にも盗賊の徘徊すること甚しき故、夜に入りて参詣する者とては至つて少なく、例年の如くにはあらざりしといふ。只諸人打寄りて咄しさ【 NDLJP:63】へすれば、諸色の高価なると、盗賊の噂と餓死人・行倒者の噂のみにして、余の咄しをなすことなし。
正月四日、【豊前小倉の火災】豊前小倉城中番所より火出でて、天守・矢倉は申すに及ばす、城は残らず外郭迄焼失す。実は家老・用人の中に三四人至つて悪しき者候より、家中にて之に恨ある者共申合せ、其者共を焼殺さんとて、城の内外共詰り〳〵迄に焰消を仕掛け置き、一時に火を放ちて之を焼立て、火の移らざる所をば悉く打潰し廻りしといふ。
〈〔頭書〕小倉は暗君・愚臣・姦悪の者共上下よく揃ひし家にして、昔より内乱の常に絶ゆることなし。近来領中へ課役・用金等を類に申付け、一統の困窮これを譬ふるにものなく、一揆の起れるも宜べなりといふべし。かくの如き程なれば、銀札も潰れ大に困窮に及ぶといふ。され共小倉の城は昔より、九州探題の処なるに、此度焼亡惜むべきことなり。〉
又一説に、百姓の一揆起り大勢一時に起り、城門を打破り放火せしとも、又家中の騒動と百姓の一揆と、暗に一時に起り立ちて、思ふ儘に放火をなしぬる故なりともいふ。何れにも悪政の然らしむる処にして、上の不徳といふべし。
【五穀成就御祈祷の御詠】 天保八丁西夏四月朔日、五穀成就御祈祷、五大社・十大寺へ仰付けられ候節御詠
雨にうき風に心を砕くかな民の仕業の只安かれと 今上皇帝
わが為に何を祈らん天つ神民安かれと思ふ計りぞ 仙洞法皇
夫れ武士の四民に冠たるや、【武士の本領を論ず】治乱ともに各〻其職分を守り、能く夫々に勤労を尽し、万民をして平易に居らしめて、何れも安堵せしむるを以ての故なり。此故に上よりして夫々の身分に応じ、平日多くの秩禄を給ひ、妻子・臣妾に至る迄、其秩禄に飽満ぬるに至る。これ皆君恩と先祖の武功とによる者なれば、何れも孝悌・忠信の端をも弁へ知りて、深く慎み思ふべき事なり。然るに近来武道大に衰へ、多くは其本意を忘れ、【武士道の弛廃】常に驕を放にして自己の身分をも弁へず、君より給ふ処の知行をば無用の事に費し、動れば頻に肩を怒らせ臂を張りて、農商の利を奪取りて、是を己が有とせんと思ふ輩も少なからずといふ。歎ずべき事にあらずや。斯かる輩の僻として、聊かの事にても常に反する事にても起りぬれば、其難を恐れて是を避け逃れ、其身の恥を少しも厭ふ事なき上に、先祖累世の屍迄を恥かしめて、児女の嘲を受くるに至る。浅ましき事と云ふべし。露計りにても男子らしき心有る輩は治乱ともに心【 NDLJP:64】を用ふべき事なり。別して乱に当れる時は、進みて敵に対し彼を切つて大功を立つるか、己れを切られて其節操を全うするの二つを思ふべきものなり。いか程に其命を惜み、世に長生して安逸に居らん事を思ひぬればとて、百歳の寿命を保ちぬるものにはあらず。此故に死に聊かの遅速ある計りの事なりと思ふべし。彼の異国に王たる秦始皇・漢の武帝等が死を憂ひ、生を貪らんとて種々の大戯を尽して、万世に不朽なる笑を残しぬるを鑑みても、是を思ひ弁ふるべき事なり。爰に神祖世を治め給ひてより昇平二百年に余れり。【二月十九日大塩反す】天保八丁酉年二月十九日大坂に於て、東御町奉行跡部山城守組下の与力に大塩平八郎といへる者あり。此者発狂の如き有様にて三四十人計りの党を結び、天満川崎よりして処々を乱妨・狼藉し、放火をなせし事ありしに、直に是を召捕る事能はず、彼をして十分に乱妨をなさしめたる上に、悉く是を取逃し、漸々と名るへ知れざる難人を緩三人鉄地にて打取りし迄なりし。一人の与力少々の党を結びて、【大塩の乱に付武士の臆病を嘲る】乱妨をなせるすらかゝる有様にて、二万軒に近き程家を焼失はせ、死人・怪我人二百七十余人に及び、天下の諸侯をして騒動せしむる事かくの如き大変に至る。若し又一城をも構へし者の叛逆を企てまじき者にも非ず、若しや左様の事にてもこれ有るに当らば、如何して是を討取らんと思へるにや、諸司の臆病未練なるは、皆これ天下の御威光に係りぬる程の事にて、少しく心有つては恐入るべき事に非ずや。始め大塩が川崎を乱妨せる時、其近辺へは一人も寄付く者なく、遥に道を隔てゝ此方にては、天神橋の南手を切落し、跡部城州には城中へ逃隠れ、西御奉行堀伊賀守は御役所の四門を閉し、是に狼狽塾して〈其節専ら東御役所へ逃行きて閉籠りしといふことなりしか共、矢張り西御役所に其儘居て門を閉せし事ならん。〉漸々と天満一円放火にて焼立て、船場上町へ渡り処々方々放火して焼立つる頃に至りて、漸く両御奉行共、出張せらるゝ程の事なりしといふ。浅ましき業といふべし。〈西御奉行堀伊賀守には、二月二日矢部駿河守に代りて出来られし事故、日数僅か廿日にも足らずして、此変に及べり。此度のてん発動此人の知られし事にてはなかるべし。〉若し一人にても少しく武夫の心有りて、兵道の端くれにても弁ふる程の者にてもあらば、【大塩征伐の手術を論ず】大塩が己れが家に放火し、其近隣を火矢にて焼立つる頃、僅か二三人にて御神廟の築山に登り、鉄炮にて彼を択み打にするに、何の難き事かあらん。彼は素より諸司の人々を侮り、白昼に斯かる狼藉に及べる程の事にして、【 NDLJP:65】肝心の討手さへえ向はざる程の事なれば、僅か二三人にて出来れる程の勇士あらんとは、夢にも心付かざる事なるべし。又さもなくば往来の人々を引留め、味方すべしとて槍を与へ、車などをも曳かせぬる程の事なれば、之に同意せし様にもてなして、不意に起きて彼を突殺すとも安かるべし。され共是等は忠義にして、其志鉄石の如き勇士にあらざれば能くせざる事なれば、其命を捨てゝ之をなさんと思へる者一人もあらずして、之をなし得る事の能はずと思はゞ、凡そ百計りの人数にて神速に其場処へ馳向ひ、此方よりも矢石を飛ばし、鉾矢備にて無二・無三に打入りなば、一挙に彼を討取るべし。彼は素より死地に有りて少しも要害の備もなく、只鉄炮・石火矢を便りにしてあばれ廻れるのみなれば、之を討取るに何の難き事あらんや。少しも恐るべき敵に非ず。殊に其日は西南の風烈しく吹きて、己れが放てる火に身を焦し、烟に噎び巻かれぬる程の事なるべし。味方は素より地の利を得、南には日本無双の堅城を控へ、前には淀川の固め有りて風火又其助をなし、後に少しも心掛りの危ぶみもなくして、一天下は悉く己が味方にて、何の恐れか之あらんや。進みて敵に向へばとて、悉く皆殺さるゝ者にはあらず。死せんと思へば生き、生きんと思へば殺さるゝ事、往古よりして其例ありぬる事を思ふべし。只彼を知り己れを知りてよく之を計らば、必勝の顕然たる事は、其戦はざる始に明瞭たる事なり。何をか恐れ何をか危ぶみ思へる事のあらんや。然るに只狼狽へ廻れるのみにして、聊の思慮分別もあらずして、斯かる天下の御恥辱を引出せし者は、何れも只死を恐れ命を惜しみ、恥を知らざるが故なり。浅ましき業と云ふべし。若し又敵を十分に危ぶみ、人数の程も見積る事もなり難きことゝ思はゞ、西の方四軒町の入口より、人数を鉾火備になして馳向ひ、南は神廟を固めて少しも動く事なく、只其粧を見せて鬨の声を揚げ、西備より一二町も隔てゝ、北の方へ一手の勢を備へて繰り掛りの形をなし、又は一向二裏などの変化の有様をなして、後を取切るやうなる形をなして敵を少しく繰くらば、主将大塩平八郎を打捨てゝ、首縊の士大将瀬田済之助を始め、一騎当千と頼み切つたる庄司・渡辺・近藤の類は、施行貰ひに出来りて首を斬らるゝことの恐ろしさに、拠なく附随ひぬる百姓等と共に、その後を取切【 NDLJP:66】られざる先にと、北の方へ大崩れになりて逃行くべし。処々に些かなる兵を伏置きなば、一人も漏さず之を生捕となすべし。併し斯く十分に乱妨狼藉をなさしめて之を捨置きしは、「其銳気を避けて其労るゝを討つ」といへる本文によりしものなり抔と、へらず口聞きぬる先生達も有るべけれ共、大塩を始めとして其徒を残らず取逃せし上は、少しも其道理にも当り難きことなり。武人此度何れも大狼狽へにうろたへ、大なる不覚を取りたりし事を恥ぢ思ひ、治に居て乱の忘れ難き事を知り弁へて、武士の武士たる所行に勤め基きて、これ迄の如くなる平日の奢を省き、よく倹約をなして、何れも武器の一つ宛をも持貯ふるやうになりなば、たとへ此後不時の変起る事あり共、浅ましく見苦しく大狼狽へにうろたへて、児女の嘲を受くる程の事には至るまじき事なり。
諸屋敷へ廻りし大塩が人相書の中に、【大塩の人相書の批評】鍬形付の兜を著し黒の陣羽織、其外は相分らずと有り。落人となりて世間を忍び隠るゝ程の身分にして、左様に異形なる様にて歩き廻れる者あらんや。心得難き人相書といふべし。又「悪党共所持致し候飛道具類、残らず御取上に相成候間、安心致し候様に」との御触有りしが、是も大塩が徒これを捨置きて、落失せし跡にて之を拾ひ集めたる物にして、一つとして取上げし物はあらざりしと云ふ事なりし。
高麗橋筋谷町の辺に、【大塩の乱に付豊島屋門蔵の咄】豊島屋門蔵といへる下宿を渡世とする者あり。此者天満の火事を聞くと其儘、直に東御役所へ走行きしに、門を閉ぢて敲けども明くることなく、誰有つて答ふる者もなかりしにぞ、詮方なくて引取り、夫より天満なる火元へ走付けしに、思の外なる大変なれば直に引返し、又御役所へ到りけはしく御門を敲きぬれ共、始めの如くにて更に答ふる者なければ、又すご〳〵と我家へ引取りしが、昼前に至りて又走行きしに、此時漸と御門開けて有りしにぞ、門内へ走入りしに、何れも大狼狽へに狼狽へ廻りて、騒々しき事なりしが門蔵が面を見ると其儘、「やれ門蔵かよく来てくれし。早くこゝに上りて玄関に在る鉄炮に玉薬を込めくれよ。御奉行には早朝より御城入にて未だ御帰なし」とで、何れも狼狽へ廻れる計りなるにぞ、門蔵は心得しとて、鉄炮を取上げ之に玉薬を込入れしに、筒の中錆付きしと見【 NDLJP:67】えて其玉途中に滞り、いかんともなし難かりしといふ。此事を右門蔵が外にて語りぬるを委しく聞きし故こゝに記し置きぬ。此騒動を見ながら、半日計りも入城をなして何の用が有るや、此一事にても其臆病未練にして、此度の難に遇ひて諸人思はざる苦しみを受けぬる事の、全く手後れし故なりといふ事を思ひ計るべし。兵書に云く、「上兵は謀を以て伐ち、其次は交戦つて伐つ。将と成りて謀なき者は匹夫をも搏つこと能はず」といへるは、かゝる事をいへる事ならんか。
宋高宗岳飛に問うて曰く、「何れの時か天下太平なるべきや」。答へていふ、「文臣銭を愛せず武臣死を惜まずんば、不日に天下太平ならん」。又張俊兵を用ふる事を問ひし時、「仁信智勇厳」と答へし事あり。岳飛は豪傑の士にして、数々大功を立てし程の者なる故、其言略にして意味至つて深し、よく孫呉が骨肉を得たるものといふべし。
大塩平八郎が乱妨狼藉せるを捕押へる事は、始にもいへる如く、袋中の鼠を捕ふるに等しきものなり。かくいへば此度の騒動近辺は、諸屋敷にして町家建連なり、【兵法を論ず】昔よりしていへる処の小路軍なれば至つて六ケ敷く決して、鉾火繰懸り、一行二裏などといふども、之を備へぬる場所さへもなし。いかんぞ之を川崎にして防ぐ事のなるべきや抔、思へる兵家者流の名家もあるべけれ共、こは只彼我の弁へなくし
て、鉾火 といへば〈[#図は省略]〉 繰懸りと如此 いへば〈[#図は省略]〉 一行二裏りと如此 いへば〈[#図は省略]〉
かくの如くなる備なれば、道幅狭くして人家建連りし処にては、決して備へ難き事なりと思ふべし。こは只其形に括らるゝものにして、兵に千変万化ありぬる事を知らざるが故なり。其千変万化ありと雖、其人に非ざれば士卒をして、よく手足の腹身に於けるが如くに使ひて、其用をなさしむること能はず。此の故に三軍の敗は狐疑の心より生じ、数万の兵を鏖にするも良将の方寸にあり。剛臆・智愚・勝敗の別有る事を知るべし。彼に白起が勇謀有るにもあらざれば、我に馬服子が真似にてもなせる程の者にてもあらば、夫にて事は足りぬべき事なるに、夫さへなくして悪党共、弓・鉄炮・槍・長刀等にて乱妨・狼藉し、そこら辺りを焼立て人数の程相分らず【 NDLJP:68】と、公辺迄を驚かし奉りしかば、将軍家にも百三十里を隔てし所にて、諸侯に命じ官府の四方を固めさせ給ひしといふ、恐入るべき事にあらずや。これ皆当所の諸司臆病未練にして、是を討取る事能ざる上に人数の見積さへ得せで、大狼狽にうろたへぬる臆病風を関東迄も吹かせぬる者なり。若し大塩が行方知れずして、此者手廻らざる間は飽く迄も国家の費え多く、公儀の御仕置も立ち難し。浅ましき事といふべし。予其在に与る者に非ざれば之を許するも益なき事にあれども、理の趣く処斯くの如くなれば、後の世に至りて子孫たる者の心得にもなれかしと、歎息しながらに之を記し置きぬるものなり。必ずしも異人に見せて、之を批評せらるゝ事なかるべし。
慶安の初、由井正雪なる者有り。【由井正雪と大塩平八郎】此者数百人の党を結び、及ばざる企てを工みしかども、其事忽ちに相顕れ正雪は自滅し、其党召捕へられて何れも御仕置となりぬ。之をすら叛逆人の如く云ひなして、後世に至りても大層なる事の様に心得ぬれば、大塩が此度の乱妨の如きは石火矢を打立てゝ、一万八千二百四十七軒焼きて、死人二百七十余人有り。何れも此乱妨を見る者はいふに及ばず、見ぬ者迄も是を聞恐し、大狼狽へに狼狽へて、天下悉く騒ぎ廻りて、之が為に国土の費ありし事挙げて数へ難き程なる事なりしかば、後世に至りては、当時大狼狽にうろたへて、大騒動せし事をば弁知る事なければ、大塩が如き者をも嘸仰山に思ひ計れる事なるべし。浅ましき事といふべし。三月十日の夜、此度騒動に付いて余りに其うろたへし様のをかしかりしかば、子が思ふ処を記し置く者なり。
【亀山の詐欺師】丹波なる亀山てふ処に言を巧みにし、正しき人の様をなして諸人に媚び諂ひ、己が身を立てんとて密かに姦悪を工みなして、衆人を偽り欺ける佞人ありぬ。此者先つ年より浪花津に出来りて、年久しく旅住居せしにぞ、斯かる正なき曲者なることをば露計りも知り侍らで、聊の故有るを以て彼者と親しく交りしにぞ、信実々々しげに我を謀り欺きて、思ひ寄らずも遂には吾家の宝の数を尽さしめ、其上に異人の貯へ持てる宝までも僕に之を借出させて、其宝をも悉く取収め、言を巧みにして、深くも偽り欺きて持帰りしにぞ、日を経て後に其欺きし事を悟りて、審に思ひ当り【 NDLJP:69】ぬるやうになりしかば、此三とせ余りは頻に胸を痛め、深く心を苦しめ侍べりしにぞ、僕に親しき家族はいふに及ばず、常に睦び交はれる他家の人々迄、共々に力を添へて種々に手を尽し侍れ共、彼曲者には素より黒き心以て、深く工む構へし事なれば、いか程に之を咎めて迫り込みぬるをも、「蛙の面に水」とやらんにて、露計りも恥らへる色さへなくて、そが上に尚も悪しき心逞くして、言を巧に欺きて逃れなんと謀りぬるにぞ、我も今は堪へ忍び難きの極に迫り至りぬるにぞ、暫しも捨置き難き事なれば、天たもつ八の年如月十日、まだ夜も明やらぬ頃よりして、宿を立出でて彼地へ到り、其罪を糺し、これ迄我を苦しめぬる報ひをなして、思ひ知らしむべしと、心猛々しく道を歩み行きしが、ふと去ぬる五日暁の頃、朝日山の端を出で候尺計りも立登れる様を夢みし事を思出せしかば、
茜さす日の出を夢に見てしこそ恵み有るてふ験なるらん
かゝる事など口吟み歩みしが、程なく長柄の渡しにかゝりぬるにぞ、
口ゆゑに橋は朽ちても人柱の己れにかへる後のいましめ
江口の里にて、西行法師が、歌詠みかはせし君てふ女の故事を思ひ出せしにぞ、【江口の里】
淵か瀬か昔知らねば知らねどもされどゆかしき君が古塚
高槻の城下を過ぐるとて、
浅間にも内を見越せる高槻の城は名に似ぬひく築にして
桜井てふ里の道のかたへに、楠公の暫し休らひ給ひしといふ松を見て、
誠あれば休ふ名さへ松と共に後の代迄も朽ちせざりけり
山崎にて八幡宮を拝し奉りて、
名にしおふわが日と本の弓矢神助けてぞたべ誠ある身を
長岡天満宮の御前を過ぎぬるに、梅の花盛りなるを見て、【長岡天満宮】
天満つる神の光りに梅の花も色香ぞまささる長をかの里
いつ来てもあかぬながめや長岡の宮居も山もいけも林も
光明寺の前を過ぐるとて、
弓取るといふぞをかしゝ熊谷はまことの道を知らぬ曲者
【 NDLJP:70】老の坂を越ゆるとて、
盗人においの坂道踏越えぬ思ひ知らさん憎きしゝくら
酒呑童子が首の神に祭られぬるを見て、
大賊の首を祭れる諸人は首斬られん事を祈りぬるかも
篠村なる八幡宮の神前に向ひて、
尊氏の願ぎて利を得し八幡の神の恵をいのりこそすれ
亀山にてよめる。
これ迄は我れを瓢と思ふともゆるしやはせじなまづ士
三歳余り義理も情けもかけやりぬ背に腹ぞ今は許ざし
明君上に在し、賢臣これを輔佐け奉れることは、天下の人のよく知り弁ふる事なれば、やつがれも其恵を蒙りなんと思ひて、遥々と来りぬるにぞ、
憂き事の迫り絶えせで辿り来しぞ恵を賜へ明らけき君
峠を越ゆる時に空一面に曇りて小雨降出でしかば、大に道を急ぎぬるにぞ、亀山へ著しは未の刻なりし。此日は初午に当りぬるにぞ、諸の役所々々を悉く閉し、一家中皆暇ありて、己が心々に遊び歩きぬ。又城内には鎮守に稲荷明神を祭りぬるに、雑人の参詣を許されぬる事故、城下はいふに及ばず遠き村々よりも、大勢の者共集ひ来りて、賑やかなる事なりし。予は妻が親里へ落著きしに、此家の主は保津村とて、十余町計り隔りし金比羅へ参詣せしとて、宿にあらざりし故、予は飯抔したゝめて暫し休息ひぬるに、大雨盆を傾けるが如く又篠をつくに似たり。宿の主も途中にて此雨に逢ひぬる故、之に降込められて漸々と日の暮るゝ頃帰り来りしかば、直に之に案内させしめて、【亀山の詐欺の一族をこらす】他の家族に到り、こゝにして子が遥々と来りぬる事の始め終りを詳らかに語りぬ。かくて明くる十一日の未明よりして、彼の佞人〈[#ルビ「ねぢけびと」は底本では「ねぢけび」]〉はいふに及ばず、彼に連なれる家族を相手として、之まで堪へ忍びたる憤怒の勢を振ひしかば、彼徒大に戦き慄ひ恐懼れぬる様になりて、彼曲者には忽ち養家を捨てゝ逃失せんとせしにぞ、かくては家の一大事なりとて、彼に連らなれる者共、之を尋ね出して連帰りしに、忽ち発狂せしかば、何れも之を取押へ置きて、頻に予に歎き詫び【 NDLJP:71】ぬれ共、【詐欺師発狂す】年久しく彼曲者に悩まされぬる事なれば、かゝればとて今更に之を許すべき事に非ざれば、当人をば捨置き其家に連らなれる者共を捕へて、厳しく責め悩ましぬ。され共彼曲者へ上より給ふ処、やう〳〵僅か十五石に三人扶持なるに、其が中を彼地に於て過半は引当になして金を借り入れ、其引当さへ二重・三重に処々の証文に書入れながら、之を渡さゞる程の事なるに、之が親類てふ者も漸く十五石を高になして、八石・四石位の身代の者共なれば、何れも詮方なく、困じ果てぬる様にて詫び願ぎぬるにぞ、強ひて之を取立てんとする時は、彼曲者の為に七軒の親類までをも家を失はしむるに至れる事なれば、余りに便なき業と思ひしにぞ、我が身にかゝりぬる苦しみをも顧みず、僅か四分にして其一つにも足り難けれども、親類の者より僅か計りの銀子を受取りて、其余は今年よりして、年毎に三石の米を受取りぬる事に定めて、当人をはぶき親類共七人の証文を受取りぬ。斯かる事に及べるさへ、彼や此と九日計りの日を費しぬるにぞ、急ぎ宿に帰りなんとて、十九日の朝とく亀山を立出でて巳の半頃に至りて、淀の下なる下津てふ処に到り、今井船の二番目を呼止めて、之に飛乗りして下りしが、橋本の少し上山崎の辺にて、ふと大坂の方に当りて烟立登れる様の、乗合ふ人々の目に留りぬ。何れも大坂へ帰る者共なれば、我が宿の辺りにやあらんか、又河内路にても有りやせん抔、種々に評しつつ下りしに、牧方にて飯酒など商ふ船出来りしかば之に尋ねしに、大坂の出火なりといへる事確に分りぬ。され共大坂の内にて何れなりといへる事は、定かならざりしに、鳥飼にて天満東与力町といへる事詳に相分り、堤上の人家何れも火事装束にて駈行きぬ。斯くてこの処をも過行くに火勢愈〻盛んに立登り、凡そ十町計りも焼広がりし有様なるに、【大坂火災の有様】頻に鉄炮・石火矢の音耳を貫き、赤川の東辺堤伝ひに大坂の方より、逃来る大勢引きも切らず。老人を背に負ひ幼子を懐に抱き、子供の手を引連らね、婦人両刀を帯し、槍・長刀を一つに引括り蒲団を傾け、婦人荷物を差荷へるなど有りて、其人毎に取乱せる有様哀れにて、目も当てられざる事共なるに、又川中には多くの船を漕ざ連ね、種々の雑具を積重ねて、逃来れる様の狼狽へぬる騒々敷事なりし。次第に大坂へ近付くに従ひて、鉄炮・石火矢の音甚しく、川崎より天満一【 NDLJP:72】面の火となり、天神橋の北詰も焼け南詰をば切落し、船場上町も一様に燃え上り、烈しき事限りなし。八軒家も焼抜け船の著きぬる家もなく、其上鉄炮・石火矢等にて川筋の往来もなり難しとて、桜の宮の上手にて船を止めて、人々を上げしにぞ、予も其処より船上りせしに、桜宮の辺には逃来れる者取分多く、何れも聊の荷物を堤の上に積上げて、呆れたる顔して火を眺むる有れば、恍惚として気抜けせし如き有り。泣き叫ぶあれば労れはてゝ打倒れる有り。病める人の哀れげなるなど、何れも目も当て難き有様なり。かくて其処を過ぎて網島へ入りぬるに、此処は分けて町幅も狭き処なる故、諸の道具を持ちて大勢の逃げ来れる事なれば、此処を通抜けぬる事の難き様に思はれしかば、野田橋を越えて片町を西へ走り、京橋を渡りしに、橋の南番場の入口には、与力・同心、槍・棒を持連り其処を固め、両刀を横たへし者をば一人も通す事なく、強ひて通抜けんとする者をば之を捕へて引戻し、散々に打擲するにぞ、予も危ぶみ思ひつゝも其側を馳通りぬ。此方の入口も同じく始の如く厳重に備へて、侍をば通さゞれども八軒家の方は一面の火にて、一歩も歩み難き有様なれば、混雑に紛れて足早に番場の内へ馳入りしに、番場には逃げ来りし者、一群々々に種々の道具を積み重ね、大に混雑する中を鉄炮・切火縄にて槍・長刀の鞘をはづせるを持ちて駈廻れる、如何なる事とも分き難く、一時も早く宿へ帰りなんと道を急ぎぬる故、之を問ひ極むる迄もなく道をはすかひに走りて、追手筋へ出でて西の方を眺めしに、火は此筋より遥か南へ焼抜けて、人数一面に黒み立ち鉄炮の音頻に聞ゆるに、そこの処を通抜けぬる事は難き様に思はれしかば。番場南へ本町筋へ出で、混雑の中を押分け鉄炮・槍にて馳廻れる中を通抜け、本町橋を渡りはすかひに馳帰りしに、淡路町の辺にて頻に鉄炮の音響き渡り、迯げ来れる大勢の有様面色土の如く慄ひ戦ぎ、足の踏む処さへ定かならざるにぞ、己は瓦町を西へ御霊筋を北へ京町橋を渡りて、横堀を北へ走りて漸々と宿へ帰りつきしに、加島屋久右衛門・加島屋作兵衛など石火矢にて焼討に来れりとて、宿の辺りは何れも諸の道具を取乱し、婦人・小児の類ひ悉く遠き処へ逃げ去りて、家々に主又は下男など面色土の如くに変じ、慄ひ〳〵も拠なく止まりて有りぬる様子なり。【 NDLJP:73】〈〔頭書〕町人の大家等は予ねて給金を遣し、斯の節には早速に駈著けぬる者共、其家の分限に応じ廿人も三十人もあり。此者共夫々の主家へ走著きしか共、何れも火矢・鉄炮の音に驚き火の勢ひに恐れ、己れ〳〵が家を思ひ、皆ぬけ〳〵に帰り去り、大家と雖も平日内にて召仕へる者の外には、一人も人なし。まして中以下の左様の手当もなき家には、外よりして見舞にも手伝にも来れる者なくて、大に困りぬる事なりしといへり。〉予が家も忰一人にて、外より出来れる者両人有るのみにて、諸道具を引散し妻は大切なる品を持ち、下女に包みを背負はせて南堀江なる知辺の方へ立退きしとて宿にあらず。【大塩平八郎貧人に恵む】「如何なる事にて斯くは騒々しき事なるや」と、之を問ひ極むるに、東組の与力大塩平八郎諸人困窮を憐み、己が家の什物を悉く売払ひ、金一朱宛一万人に施行し、町家にても鴻池・三井・米屋等の大家へも、【大塩騒動の原因】「施行して貧人を恵みくれよ」と頼みぬれ共、何れも之を諾はず。御奉行にも「闕所銀仰山に積みある事なれば、之を以て貧窮の良民を救ふやうになし給へ」とて、屢〻申立てぬれ共、其事御取上なくて御咎を蒙りしといふ。之に依つて平八郎御奉行を恨み憤り、与力・同心其外浪人の類纔に党を結び、施行の金貰はんとて出来りし百姓共を引留置きて、今朝五つ半頃己が家に火を放ちて、夫より組屋敷を焼払ひ、十丁目筋へ馳出て火矢にて焼立て、十丁目を南へ天神橋を渡らんとするを見て、橋の南を切落せしかば、此処を越ゆる事能はず、西へ下り難波橋を押渡り、【鴻池其他富豪の家に放火す】一番に鴻池・天王寺屋・平野屋、高麗橋筋にて三井其外を焼立て、平野町より淡路町を焼きぬ。此処にて其党三人計り打殺されしといふ。予は宿に帰ると直に忰に命じ、下女を差添へて妻を迎に遣し、青野光明寺の松原より小松四五本持帰りしを庭前に植ゑて後、飯十分にしたゝめて近辺心易き者共訪ひしに、何れも大騒動をなし狼狽へ廻れる様なれば、之を制し、「一人の大塩一端の憤に堪へず僅かなる党を結び、二三百の百姓原を引連れしとて、是等は烏合の者共なれば何程の事かあらんや。見よ〳〵程なく人数乱れて散々に成行きて、再び之を集むる事は成難く騒動も是迄にて済行くべし。彼素より一夫にして一城を保てる者にも非ざれば、落集れる巣穴もなかるべし。殊に附従へる百姓は施行貰はんとて出来り、殺伐せられん事を恐れ、拠なく附従へる者共なるべし。さすれば一陣破れて残党全き事は得べからず。必ずしも驚く事なかれ」と、人々を制し置きて宿に引取り、「何も騒ぐ事なく何かの取片付せよ」と、申置きて、炬燵にうたゝ寐せしが、其儘にして翌日朝まで熟睡す。「朝飯をたべ給へ」とて頻に呼起すにぞ、之に目を覚して起上り食を【 NDLJP:74】したゝめ、一面に取散らせし道具をば片付け、昨日下女が南堀江に預け置きし包を、早朝に僕に命じて取りに遣せしに、下女が背負ひ行きし包を屈竟なる僕が持兼ねて、道にてあまたゝび休らひて、漸々と持帰りしもをかし。外へ持出せし物とては加茂越後が跡付二つ持退き呉れぬると、忰が計ひにて、加島屋十郎兵衛へ具足櫃三荷と挟箱一荷を預けぬる計りなりしかば、内の片付は手疾しかく埓明きぬ。され共火は益〻熾んにして、少しも収まる事なく、次第に東南の方へ焼広がり、只今加島屋を焼打に来りし、どこそこを打砕き焼打つ抔とて東西に逃迷ひ、うろたゆる人々の有様、哀れなる中にもをかしき事なりし。予が家に出入する輩は、予が諸道具を取片付けて平気にてあるを、「余り大胆なる致し方なり」とて、数々狼狽へながらに諫めぬるも殊勝の事といふべし。廿日の二更過に至り、漸々と火は鎮まりしか共、世間の騒々しさは同じ事にて、大坂市中一様に震動し、婦人・足弱・老人の向は近きは今宮・天王寺、遠きは堺・平野・河内・大和の辺にて所縁有る方へ立退きしといふ。【婦女今宮大和等へ避難す】御当代に至りて、斯かる騒動ありし事は未曽有の事なりしかば、矢石に驚き火に焼立てられて、狼狽へ廻りしも理りと云ふべし。斯かる仰山なる騒動に及びしかば、諸国への聞えは尚大層の事にて、先づ一番に尼ヶ崎より一番手引続きて二番手馳来り、引続きて岸和田・郡山より馳来り、何れも番場に陣取して御城の固をなす。又町奉行より姫路・明石・薩摩・筑前・出雲等へ加勢を頼まれ、何れも御籾蔵の固をなす。【諸方より加勢来る】其外小屋敷の向も夫相応の用意をなす。長州へも御頼み有りしかども蔵屋敷の事故、左様の用意なしとて之を断りしといふ。追々に姫路・明石・龍野等より人数馳登り、亀山よりも使番・目附役等馳来り、御加勢の人数差向可申哉否哉を御城代に伺はる。
〈〔頭書〕高槻侯には在城の事故、六百人の人数を従へ、何れも甲冑を帯し、焰消十三荷・玉二十五荷、其外何かの手当をなし三島郷迄出張有りしか共、こなたより御城代御断にて引返へせしといふ。〉
御城代、土井大炊頭。西大御番、北条遠江守。東同、菅沼織部正。玉造口御定番、遠藤但馬守。京橋口同、米倉丹後守。山里御加番、土井能登守。中小屋同、井伊右京亮。【大坂城代以下諸役人名】青屋口同、米津伊勢守。雁木坂同、小笠原信濃守。御目附、中川半右衛門。同、大塚太郎右衛門。東町御奉行、跡部山城守二千五百石西同、堀伊賀守。御船奉行、本多大膳。御破損、森佐十郎・鈴木栄助・榊原太郎衛門、御弓奉行、上田五兵衛・鈴木次右衛【 NDLJP:75】門。御鉄炮奉行、石渡彦太夫・御手洗伊右衛門。御具足奉行、上田五兵衛・祖父江孫助。御金奉行、幸田金一郎・石渡彦太夫。御蔵奉行、島田三郎右衛門・比留間兵三郎。御代官、根本善右衛門・谷町一丁目池田岩之丞。堺御奉行、曲淵甲斐守。
斯くて町奉行より追々蔵屋敷へも御頼にて、【町奉行諸方に加勢を依頼す】土州・伊予松山大州・肥前井に蓮池・安芸・小倉等よりも固めに到る。備前へも御頼なりしに、病気なりとて断りしといふ。実は留守居始め、人人も申自を持てる者なく大に狼狽へ廻り、雲州抃へ数且足にても苦しからず、一領にても貸し給へとて、内々頼み来りしか共、雲州にもなくて之を断りぬるにぞ、詮方なくして暴に病気なりとて断りしといふ。【高松屋敷防備の模様】大家の蔵屋敷殊に平世武張りし様に聞きたるに以の外の事なり。大なる不覚といふべし。又高松屋敷には何時焼討に逢はん事も謀り難しとて、船の用意をなし門々を閉ぢて、大狼狽に狼狽へ、すはと云はゞ婦人・子供を兵庫の方へ落しやらんと、其用意をなし、若し奉行所より此方へも御頼みあらんも計り難ければ、其用意もせではなり難しとて、狼狽へながらに其手当をなすに、屋敷中にて鉄炮を持つ術さへも知らぬ者計りにて、やう〳〵蔵奉行平尾嘉右衛門といへる者、鉄炮少々打ちし事ありしとて、俄に此者に稽古をなし、頻にから鉄炮を放せしといふ、可笑き事なり。〈〔頭書〕此騒動の中にて諸屋敷より具足屋へ馳付け、古具足に至る迄争ひ買ふ有様見苦しく浅間敷き事なりしとぞ。〉【長州倉番の狼狽せる有様】又長州には前にいへる如く断りなりしか共、此上にも強ひて御頼あらば否む事もなり難からんと、其積りをなして騒ぎ廻りしにぞ、取逆せて頭痛し耳の遠くなりし者、心中、悸動して戦慄する者など有りと云ふ。別して大塩が此度の工みは、町人の豪家・蔵屋敷等を重に目ざしぬる由、専らの風聞なりしにぞ、何れも大狼狽へなる中にも、分けて諸屋敷の有様至つて見苦しかりしといふ。斯様の騒動なりしかば、逃行く人々にあへかれされて、堺辺にても家毎に諸道具を取片付け逃支度せしとなり。【城代以下の防備】斯かる騒動なれば、御城内にて御城代始め御定番・大御番・御加番・百騎衆に至る迄、夫々に持口々々を固め、追手先にも夫々に陣備へある。先づ一番に御城の人数の備、其外には尼ヶ崎・岸和田・郡山等の人数なりといふ。又其混雑する中にて、【和泉屋吉兵衛鉛献上】難波御蔵より兵糧米を馬にて御城へ運びぬる事、引きも切らず。其中にて長堀の和泉屋吉左衛門へ仰付けられ、鉛八千斤納めしといふ。【 NDLJP:76】〈鉛上納の事は和泉屋の出入播磨屋庄兵衛といへる者の咄なり。始めあわたゞしく鉛三千斤いひ来り、又二千斤又三千とて、都合にて八千斤なりといふ。然るに人足不足なれば、人を貸しくれよと申さるゝ故、拠なく人夫の内両人を残し置きしに、此者共に印の半被を著せ鉄炮を渡しぬるにぞ、「私共は鉄炮打ち候すべをも知らず、斯様なる役は勤め難し。御免しあるべし」とて、種々に之を断れ共更に許さず、無理無体に鉄炮を持たせ、此者共を先に押立つるにぞ、「然らば何卒跡になして連れ給へ」とて、種々に願ひ詫びぬれ共、之を許さずして先へ立たしめ、士は其跡に付いて馳廻るにぞ、恐とく堪へ難きにぞ、昼前に至り大に空腹になりしかば、「暫し帰し給はれ、仕度して参るべし」と断りぬれ共、之を許さず。一人に饅頭を十宛与へて、七つ過ぎ迄先に立て馳出行き漸々と暮前に到りて許し帰されて、始めて人心地なりしといふ。かゝる恐ろしき事に逢ひしはこれ迄に覚えざる事にて、此後とても生涯にも有るまじき事なりとて、身震して語りしといふもをかし。只御城よりといふ事にて、何れといへる事は聞かざりしが、定めて之は御鉄炮奉行なりしものならんか。〉
〈〔頭書〕堺筋唐物町北へ入る高見喜兵衛方へも、其方所持の焰硝悉く御城へ持運べとて、あわたゞ敷く使来り、残らす納めしといふ。〉
上福島に厩治郎八といへる者あり。【厩治郎八と大塩一件】此者御城代はいふに及ばず、同処の屋敷・近国の諸侯の館入をなし、馬入用の事有る時には何時にても其数を揃へて、其用を勤むる者なるが、十九日の朝天満・川崎の辺火事なりといへるにぞ、与力・同心に彼が旦那々々と唱へて出入る先々多く有りぬる故、早々身拵し、「御城には遥か隔りぬれ共、近来の火事は油断なり難し、若し火広がりて御城へ近付く事あらば、尼ヶ崎の馳出し有るべし。其心得にて馬を用意なし置くべし」といひ置きて、己れは天満与力町へ馳行きしに、町火消并に穢多村の火消共与力町の四方を取巻き、屋敷内へ入込みては色をかへ、「あな恐ろし、鉄炮を打ち、抜身の槍・刀など振廻る。命こそ大事なれ」とて逃出づる。何れも常の火事なりと思ひ、かゝる事とは露計りも知らざる事故、火消又は火事見舞等入込みては逃出し〳〵、先繰に此の如くなる故、何共分り難き事なれ共、怖物は見たしといへる譬の如くにて、大勢の人の押合ふ中をこは〴〵出抜けて四軒町の辺を窺ひ見るに、最早近憐を焼立て行列を正し、追ひ〳〵此方へ近づき来り、火矢を家々に打込み、抜身の槍・刀を振廻し、大なる旗六流を押立て歩み来れるにぞ、早々に逃出で与力町にては出入先一軒へもえ行かざりしといふ。され共こは定めて仲間合に何か申分有りて、かゝる事に及べるなるべし。名にしおふ大塩なれば、市中に出て悩す事はあるまじと思ひぬる故、其辺の町々にて心易き方々を見舞つゝ、夫より用事あれば之を調へんとて、船場へ渡りてあちらこちらと歩き廻れる中に、次の外なる大火となり、市中大騒動に及ぶ様になりしかば、「斯くては必ず尼ヶ崎より二番手の人数を出すべし。一番の用意は申付け置きたれ共、二番手の備は心付かであるべし。早く帰りて其用意せんと、馳帰りて其備へをな【 NDLJP:77】す処へ、「二番手の馬を拵へ早く屋敷へ来るべし」と申来れるにぞ、使に引添へ馬四匹引連れて、尼ヶ崎の屋敷へ馳行きて、二番備に加りぬ。〈〔頭書〕大坂の騒動によりて尼ヶ崎より馳出す。此度の変は常の出火と違ひぬる事故、何れも甲冑の用意を申付けられしに、一家中大方質に之あるにぞ、質屋へ掛合ひ、此度騒動に付き具足入用なれば暫くの間借しくるゝ様に相頼み、「事果ば直に返し渡すべし」とて種々に頼みぬれ共、質屋共これを諾はず、何れも困りはてぬるにぞ、其旨家老に達し、家老より質屋共を呼出し、「此方受合にて、事終らば速に上より料物を下し置かるゝやうに取計ひ遣すべし」と、家老の受合にて漸々と承知して、質屋より夫々へ具足を相渡せしといふ。武家に不似合不覚悟の至にて、笑ふ可き事なり。〔頭書〕大坂御城与力にも具足之なき者多く有りて、是非なく火事装束にて出でしかば、同心共も夫故具足を著る事もなり難く、何れも火事羽織なりしといふ。〉一備の人数四百五十人、人夫共に五百人計り。都合二備にて千人の人数なり。一番手は直に御城へ詰めて追手御門外南の方を固め、二番手は屋敷に控へて御城代の指図を伝へしが、【尼ヶ崎屋敷より人数を出す】廿日早朝より、「一番手と同じく御城を固むべし」と仰出されしかば、早天より馳出して二番手引添ひ、かぎの手になりて北向に陣取りしに、「京橋御門外の固めせよ」と有りしかば、直に陣を其処へ移し、漸々と陣取りし処へ、使来りて、「土手の外京橋の南詰を固めよ」となれば、又陣払ひして土手の外に出で、川に添ひて備へしに、又使来りて、「京橋を向ふに越えて備へよ」となれば、又ここを陣払せしが、余りに屢〻備を移させらるゝ事故、何れも呟きながら京橋を向ふに渡りしが、「此処は人家建連りし処にて陣場も悪しく、又此処に無理に備へを立てぬる共、又外へ移せと申来るべし。此上は敵に行逢ふ迄どこ迄も行くべし」とて、片町を東へ野田橋を越えて三十町計も踏出せし処へ、跡より三人連にて馳来り、「最早余程先刻の事なりしが、森口に吟味の筋ありて玉造口の与力・同心三十人計り鉄炮をかたげて参り居ぬれば、御心得の為に御知らせ申すなり」と言置きて引返す。こは敵なりと心得、同士討あらん事を思ひてなるべし。夫より尼ヶ崎の人数は森小路といふ処迄到りしに、何れも空腹になりて堪へ難き様になりぬ。互に顔を見合せて困りはてたる有様なり。物頭がいへるやうは、「我等もかく空腹にて堪へ難き程なれば、馬も定めて同様なるべし。飼葉の手当やある」といひぬれ共、夫さへ其手当なければそこら辺りを走廻り、漸々と豆を買出し、暴卒に是をたきぬるなど、大に周章て返りし事共なり。斯くの如くに彼此と陣取せしに、彼の三十人計り森口を目当に先へ行きしといひし玉造の与力・同心、跡より漸々と出来り、尼ヶ崎の陣所へ出でて森口へ参る由を断りぬるにぞ、「遥か先立つて森口へ行き給ひしと聞きし【 NDLJP:78】に、いかゞして後れられしにや」と尋ねければ、「道にて陣取りて遅れし由」を答へしにぞ、〈遥に先立出し者の跡に後るゝ故なし。こは何れも森口は大塩に故有る者多き由風聞せし事故、輩の巣穴の様に心得て、気後れして行きかねしに、尼ヶ崎の人数大勢にて押行くを見て、之を力にやうやうと出来りし者なるべし。さもなくて斯程に後れぬるやうなし。〉「然らば我等も共々に参るべし」といひぬるに、「何分にも此方共森口の吟味を申付けられて、出来りし事なれば、我等計り先づ入込み見申すべければ、御勢は入口なる藪の蔭に備へなして給はるべし。若し怪しき事あらば速に相図すべし。夫迄は暫し控へ給はれ」と云ひぬる由。こは何れも気後れて進兼ね、尼ヶ崎勢を便りに出来しが、是と共々に市中に入込みて吟味をなす時は、己等が前以つて、申付けられし詮なきに至りぬる故、大勢の味方跡に控へあるを便りに入込みしものと思はる。かくて尼ヶ崎の人数は、森口の入口迄進み藪の蔭に控へて見合せありしが、空腹弥増にて、何れも堪へ難くして困じはてぬ。【尼ヶ崎の人数森口に陣取る】暫く有りて玉造の人数出来りしが、此処には何も怪しき事なし。「水田に心当りの処あれば之より直に参るべし」と云ひぬるにぞ、「然らば我等も共に参るべし」と、其用意すと雖かく空腹にては如何せんと思煩ひぬるに、玉造も飢ゑに堪へ難しとて、大に難渋の様子にて、困りはてたる処へやう〳〵とうは荷船にて、破子弁当を持来りしかば、何れもこれにて飢を凌ぎ、〈かゝる騒動に腰弁当の用意もなく、飢に苦しめるなど拙き業といふべし。〉夫より二つの渡しを越えて水田の方へ赴きぬるに、「馬はかへつて邪魔になれば、此処にて帰りを待つべし」といひぬるにぞ、治郎八がいふ、「水田に到りて、又此処に帰り来ては大なる廻り道なれば、馬も共に従へ行きて、帰りには長柄の方へ帰り給ふべし。それとも馬の邪魔になりぬる様に思召さば、馬は是より長柄に牽行きて御待申すべし」と云ひしかども、是を聞入るゝ事なく、「何分にも是非々々此処に帰るべし。之に控へよ」と申しぬる故、一拠なく之に従ひ、二つ目の渡の南手にて相待ちぬれども、夜に入りても帰り来らず、【尼ヶ崎人数風雨に攻めらる】日暮よりして雨降出せしかども、雨具の用意もなくて頭より濡れびたしになりぬ。夜に入りしとて灯灯・松明の用意も無し、いかゞせんと思ひ煩ふと雖も更に詮術もなくて、早く帰り来られよかし」と、夫のみ思ひ居りしに、漸々と初更前に至りて追々に帰り来れども、宵闇にして道のはかゆかず、其上雨にびた濡れなれば、大に困じ苦しみぬ。然るに遥か南の方より、高張灯灯三十計り灯し連らね【 NDLJP:79】て出来れるにぞ、何れの手へ行きぬるにや目をとめて是を見るに、南なる渡場迄出来りて其処に立止り、更に渡場を越ゆる事なきにぞ、「如何なる事にや、之を見届け来れ」と申すにぞ、北の渡しを越えて南の渡しの北手より、川を隔てゝ眺むれば、葵と九噸との紋所なれば、早く此方へ渡り来むとて、額に呼び喚くと雖少しも動く事なく何とやらん答へぬれども、夫れも分かり難ければ、拠なく此方よりして渡しを越えて、「何故に最前より呼立つるに渡しを越えざるや」と咎めぬるに、「そこら辺りを無上に駈廻り大いに空腹に及び、一歩も歩み難し。何卒食物あらば与へ給はれ」と歎きぬるにぞ、渡しを引返して其由を告げしかば、何れも覚ある事なれば之を思ひやり、銘々弁当の余りを与へて之を食はしめしかば、漸々と此者共も力付きて、渡しを越えて此方へ出来りしかば、其明りを得てこれとも渡しを帰り来りしに、又下地の如くに、「京橋の南詰土手の前に備へよ」となれば、何れも詮方なく、濡鼠の如き様にて、【尼ヶ崎の人数と治郎八】終を雨浸になりて甘日の夜を明しぬるに、廿二は朝よりして取分大雨なりしかば、何れも大に困りはてぬ。治郎八は片町の辺駈廻り、漸と菰一枚貰ひ来り、之を引被りて居たりしが、何れもの困れる様の気の毒に思ひしかば、「我はこれより知辺の方に到りて、雨具の積りして見るべし」とて、暫し暇を乞ひ、八軒家の筋を横堀迄参りしに、今橋・よしや橋・高麗橋・平野橋も切落してありぬる故、やうやうと思案橋を渡りて、処々方々を走廻りて頼み廻りしか共、此度の騒動にて、何れも家内を引散らしある事故、買ふ事も借る事も六ケ敷く、やう〳〵と合羽四枚・菅笠三枚手に入りしかば、之を持帰りしに、重たる人々之を著て苦しさを堪へ忍びぬ。其日申の刻に至り、何れも陣払申付けられしかば、御城代の備を始め郡山・岸和田・尼ヶ崎の一番手も引きぬる故、二番手も之に引添ひ引取りて、已に天満なる屋敷に入らんとする時、跡より使走来り、「一番手には陣払の御沙汰ありしかども、二番手には引取れとの御沙汰なし。元の所へ立戻りて下地の通に備を立られよ」といへるにぞ、是非なくも元の処へ立帰りて備をなし、「何卒引取の儀を伺ひ給はれ」と頼みて、其沙汰を相待ちしに、遥に時過ぎて引取を許されて、やう〳〵と帰りしといふ。斯くの如き難渋せし事は、是迄遂にあらざりしとて、舌を巻いて其咄をなせしにぞ、【 NDLJP:80】世間にては此度の騒動につき、尼ヶ崎には大なる手柄ありし抔と専ら風聞せしにぞ、之を尋ねしに、難儀せし外に何の手柄らしき事とても聊か無かりしとなり。廿四日尼ヶ崎へ引取りしといふ。此日は悪徒等大勢同処へ入込みしとて、大騒動せしといふ。此度の騒動に付き、尼ヶ崎の雑費八千両計りなりしといへり。余の費ある是にて思ひやるべし。
姫路より馳せ登りし人数四百人計り、龍野より出来りしも四百人計りにて、三月の始め迄も滞留せしといふ。
高槻よりも人数馳著け、【高槻よりの人数】二番手も途中迄馳出で来りしか共、同家は家老始め家中の者大勢大塩が弟子となり、平八郎常に彼地へは入込み居りし事なれば、彼家中には大塩の同類これあらんも計り難しとて之を危ぶみ、御城代より之を断られしと、世間にて専ら風説なりしかども、諸侯の臣下たる者主人を捨てゝ、与力如きの悪事に与みし、大禁を犯せる者あらんや。高槻は亀山・膳所・淀・郡山と共に京都の火消加役の事なれば、定めてかゝる騒動なれば本城を守りて、京・摂の間を固めしものならんと思はる。
郡山には闇峠其外処々の道々を固め、【闇峠堺等諸所の防備】岸和田は和泉路を固め、堺御奉行には二百余人の人数にて大和橋へ出張し、紀州には往来は云ふに及ばず、所々の間道・山中に至るまで厳重に固めをなし、大坂よりの一左右次第にて加勢を出すべしと、専ら其手当あり。尼ヶ崎には異・横渡等に数挺の石火矢を伏せ、大勢にて処々の道筋を固め、京都町奉行には山崎迄出張し、亀山には東・西・南の要路を固め、京都よりの指図次第にて、人数を何時にても出すべしと其用意ある。淀・伏見等にも夫々の手配りあり。京都にては所司代を始め何れ禁廷を守護し、粟田口其外出口々々に人数を出し、夜は仰山に篝を焚き、寺々等門を閉ぢ、市中にては今にも敵の攻来れる様に心得て狼狽へ騒ぎ、諸道具を取片付けし者も多かりしといふ。其余近国の騒動是にて思ひやるべし。
大塩平八郎は東御奉行組下の与力なり。【大塩平八郎与力到仕後の行動】文政の頃切支丹・姦吏・悪僧盗賊等を誅罰し、其名四方に轟きぬ。此時の御奉行は高井越前守なりしが、此人江戸へ召返さる【 NDLJP:81】ると大塩も直に致仕するに至る。其頃年は漸く三十五六歳なりといふ。功成り名とげて身退きしなどとて、世間専ら之を惜しみて称美せし事なりしが、其後は己が心の儘に行ひて文武の師をなし、大勢の門弟を引受け之を教へ、其暇には近在は云ふに及ばず尾州辺迄も到りて、心の儘に暮せしといふ。一時其名高かりしにぞ、近在及び高槻の藩中・桑名・彦根等の藩中にも彼が門人となり、其教を授かりし者多く有りと云ふ。然るに近来風水等の変有りて、時候常ならざる故、米穀不作にて其価常に倍々せしに、昨年よりしては至つて米払底に及び、東国筋別して甚し。甲州・南部等に百姓の一揆起り大いに騒動す。何れも米価尊く飢餓に迫れるが故なり。世間何れも斯くの如き有様なれば、【平八郎貧民救助に志す】大坂とても同様の事にて、貧人飢に苦しみ、餓死する者少なからざる故、己れも家財を売払ひ、一人に金一朱づつ一万人に施さんと思立ち、鴻池・米屋・三井・加島屋等の富豪に到り、「飢饉にて諸人困窮甚しければ、何卒相応なる施行をなして諸人を救ひくるゝべし」とて、【大塩一件の原因】再三其事を頼みしと云ふ。され共何れも諸屋敷出銀の事など言訳して、其事を聞入れざりしにぞ、東御奉行の前に出でて、「金持の町人共へ相応の施行すべきやう、御威光を以て仰付けられ下されよ」と願ひしか共、其事成り難しとて之を取上げなし。又たとへ施行有りとても二升・三升の米にて、貧人共の取続ぎなるべきものに非ず。公儀御闕所銀数万両これ有る事なれば、之を出し町人共にも道理を悟し、何とぞして飢餓の良民共の食ひ続く程になしやり給ふべしなど、屢〻言立てしか共、之を少しも取上げなくて、却て其叱に逢ひて、目通を退けられし故、之を憤り党を結びて、十九日には両御奉行御巡見にて、川崎東照宮へ御参詣の処を待受けて、これ討取らんとの工みなりしに、一味の内にて、【平山民右衛門内通】平山民右衛門といへる同心其外両人迄、大塩に背き密に御奉行へ内通せしにぞ、奉行には大いに驚き、一家中を集めて種々評定ありしといふ。〈〔頭書〕大塩が勤役の頃、御闕所金六万両程有りぬ今は定めて之に信ぜし事なるべし。町人の大家に命じ金四万両計り出させ、凡十万両計りの金を以て貧人の食ひ続くる様に、一軒前四五百目づつ与ふべしさもなくして一升・二升の米貰ひしとて、命つなげるものに非ず、何卒麦作の出来始るまで取続くやうになしやり給へとて、再三申立てしにぞ、大に奉行の思はくに違へる事にて、其怒りに逢ひし故、かゝる大変を引出せしともいひて、種々の風説をなせしと。〉
十八日の夜は小泉円次郎・瀬田済之助とて、大塩一味の者泊番に出でしに、奉行には訴人有つて、此者共も大塩へ一味の者共なればとて、家来大勢に前後を囲はせ、瀬田【 NDLJP:82】を呼出して其詮議有りしに、「私は何事をも存ぜず、小泉に御尋あるべし」と申せしにぞ、小泉を呼出して其事を尋ねられしにぞ、円治郎はつと取逆上せしにや返答に詰り、さし俯き脇指の柄に手をかけしかば、御奉行の近習、抜打に首を切落せしとも腕を切落せしともいふ。瀬田は之を見るや否や、奉行所の勝手はよく知りぬ、庭に飛下り鎮守稲荷明神の屋根の上に登り、塀を飛下り逃帰り、早々事の漏れたる様子を平八に告げしといふ。至つて高き処より桃畑へ飛下りし事なれば、大に足をくじきからだを損ぜしといふ。
又瀬田・小泉の両人は、御奉行より臨時に召出されしとも、又小泉は泊番にて瀬田は明日いよ〳〵巡見あるや、様子密に聞来るとて大塩が遣せしとも、又瀬田を召されしに始の如く答へしかば、小泉を召されしに、返答に行詰りさしうつむきしかば、瀬田刀を引抜き、小泉が首を切落して、其混雑に逃れ出でし共、其風説区々のことなりし。〈〔頭書〕十九日には両御奉行御巡見にて、朝岡助之丞方にて御休息ある事なれば、此処にて討取るつもりなりしに、前夜の騒動にて止めになりし故、手筈大に相違せしないふ噂なりし〉
斯くて大塩平八は瀬田が告にて手段大に相違すと雖も、予ねて期したる事なれば、其夜家内の婦女を刺殺し、徒党せし者並に前以て施行貰はんとて、出来りし百姓・町人の類を引留め置きし者共と共に、〈此中に実に与せんとて、始より従ひし者も少しはあるべけれ共、多くは施行貰はんとて出来り、無理に引留められしにて、之を否めば忽ち切殺さるゝ事故、拠なく従ひし者多くありと云へる噂なりし。〉【大塩乱を起す】十九日朝五つ過ぎ頃、己が家に火をかけ近辺の屋敷へ向けて頻に鉄炮・石火矢を打掛け、家毎に三五人づつ走入りて、戸・障子・襖等を積重ね、之に火を付けて焼立つる。〈一両日前より、十九日には鉄炮の稽古をなすと近辺に沙汰せしとも、又廿日の積りなりしが手違にて事急に起りしとも風説紛紛たりし。〉此の如く乱妨に及び、両奉行の討手を待ちぬる様子なれ共、武士たる者は奉行を始めとして、【東照宮神体生玉へ遷座】一人も此辺に寄付く者なく、東照宮の御神体さへ堂島浜方八方の仲衆共に命じ之を取退かしめ、漸と奉行には途中に待受け之を守護し奉り、生玉の北向八幡へ移し奉りしといふ。〈〔頭書〕川口御番の北手には船二艘に石火矢二挺づつ仕掛けてありしといふ。大塩が手筈行届かすして、之を打つ事能はざりし事、市中一統大慶の事なり。若し此処にても之を打出すやうなる事なりせば大なる騒動ならんに、幸といふべし〉
一人の大塩采配を振りて白昼の狼藉をなし、其党僅か二三十人に過ぐる事なく、余は施行の金貰はんとて出で来り、拠なくて附従へる者共なり。東奉行の組下【 NDLJP:83】の与力斯かる狼藉をなす事なれば、【大塩追討の批評】東御奉行直に馳付け、召捕に何の仔細かあらんや。殊に其辺の地理東南共に大河に迫り、殊に東は堤にて南に天下無双の名城有り、西は市中績なれど西風烈しく吹きぬれば、己が付けたる火の為に焼立てられ、火炎に噎び苦しめる程の事なり。北一方野に近しと雖も、行先長柄の大河に迫りぬれば、川には船にて其備をなし、南西より攻立てなば速に召取られぬべし。されども彼れ六具にて身を固め、矢石を飛ばしぬる事故に生捕り難く思はゞ。此方も其用意して向へる事なれば、少しも恐るゝ事なかるべし。彼徒の重立ち候者一両人を打殺さば、其余は北の固めなき処より走り逃んとすべし。長柄辺に伏勢を置きて之を捕ふる事何の難き事あらんや。袋に入りし鼠を捕ふるに等しき事なるべし。一人の平八僅か四五十人の党を率ゐし事なれば、たとへ鬼神の勢ひ有りて、西の方へ切つて出づる共、我に数万の天兵有り、彼に於て更に逃れぬる道なく、吾に於て更に恐るゝの理なし。先んじて之を制する事能はずとも、橋の向へ越えて背水の固めをなさば、橋のこなたへ渡りぬる事あるべからず。いかに臆して狼狽へぬればとて、川崎の騒を見て天神橋の南を切落し、凶徒をして思ふ儘に狼藉なさしめめは、武道に疎き柔弱なる振舞といふべし。
如㆑此に気後して、其防ぎもなく天神橋を切落し、難波橋をも切らんと処々切掛けぬる処へ、天満を焼立て神君の御宮天満宮へも火矢を打掛け、十丁目筋を南へ行列を正して押来り、道筋を焼立て、天神橋を渡らんとせしかども切落しぬる故、市側を西へ下り、難波橋を南へ渡り二手に立分れ、一手は難波橋筋を南へ一手は浜側を西へ下り、中橋筋を南へ行き、今橋筋にて両方より押詰め、鴻池一統の蔵を引明け石火矢を打掛け、高麗橋へ出で三井・天王寺屋・平野屋・米屋等を焼払ひ、〈鴻池にて一揆の者共金子多く奪取り、高麗橋筋・中橋筋東へ入り、長浜屋佐七といへる刀屋には一揆の者十人計り入込み、能き刀を択取り、己が刀を捨置きて去りしといふ。こは百姓の類ひにて、重たる者とは思はれず。〉夫より南へ押行きしに、淡路町堺筋の辺にて、西奉行・京橋・玉造等の人数に出会ひ、双方より鉄炮を打懸けしに、【橋本忠兵衛討たる】一揆方の玉薬を持ちし者其辺にあらざりしにぞ、之にて手後れぬる処を、玉造口の同心坂本源三郎といへる者、一揆方の炮術者橋本忠兵衛を打倒し、【 NDLJP:84】首は西御奉行の手に討取り、其外名前知れざる一揆両人、内一人は御鉄炮同心開地庄五郎打留めしといふ。西御奉行には進んで自ら手下す勢ひなりしにぞ、家来是に励まされ、両三人も一揆を生捕られしに、東御奉行には始終逃廻られしといふ。
〈〔頭書〕東御町奉行跡部山城守殿は、御老中水野左近将監殿の舎弟なりといふ。夫れ故大いに威光をふられ、しにぞ、自ら与力・同心など恨を含むやうになりしといへり。此度の騒動にて大いに震ひ恐れ、玉造与力岡翁助と云へる者に、同心引連れ加勢致しくれ候やう頼まれしかども、「私の計ひになり難し」と答へし故、御城代へ仰上げられ御沙汰のうへ玉造にて与力四人・同心三十人、京橋にても同断、御借人となる。大塩が徒難波橋筋を渡り、一手は淡路町へ出でて西御番所を目当とし、一手は高麗橋を渡りて東番所へ志し、何れも石火矢・鉄炮を打立て進み来しに松山町の辺とやらんにて東御奉行と一町計りを隔てぬる程に成りしにぞ、大に震ひ恐れて居られしに、鉄炮の音に驚き忽ら落馬せられしより、附従へる家来を始め、加勢に来り之に附添ひし京橋口の与力・同心其儘に崩れ立ちて逃行きぬ。奉行には漸々起上り馬に乗りて、命から〴〵逃られしといふ。世間にて散散の悪評判のみなりし。〉亦京橋口より騎馬にて馳来り、大勢の人数引連れながら鉄炮の音に驚き、わな〳〵慄出し、「我等は京橋口を固むる役の者なれば、此処にて戦ふとも詮なし、之より引取らん」とて逃去らんとするにぞ、之に附添へる者共、「せつかくに町奉行に頼まれ此所へ出張しながら、此儘に引取りては後日の申訳なし。退くべからず」とて従はざる故、拠なく馬を立てゝ控へし処へ、鉄炮の音頻に響きぬるに驚き落馬せしにぞ、何れも此人打殺されしと思ひ誤りて、散々に逃失せしにぞ此者もやう〳〵と起きて這々逃去りしと云ふ。斯くて一揆方には頼切つたる火術の先生を討たれ、外にも両人打殺されしに驚きしにや、火矢・玉薬・具足・鉄炮・槍・刀・鎌・帷子等を其辺にてあちらこちらの井戸の中へ打込みて、群集せし騒動に紛れ、散散に逃げ失せぬ。此方にては一つの切取りし首を槍先に貫き、「一揆の張本人を討取りたり。何れも安心せよ騒ぐ事なかれ」とて走廻りしといふ。〈僅か三人鉄炮にて打殺され、夫にて一揆乱散りしにて、其始臆して手後となり大変に及び、諸人のかゝる難渋となりぬる事思ひやるべし。〉かゝる大騒動に及びぬれ共、一揆共格別に人を損ずる事なく、何れも老人・足弱を引連れ、帳面其外大切なる書類を持ちて、「早く立退くべし。遅き時は過ちあらん」といひて人を退け、夫にて退かざる者あれば、鉄炮・槍・刀にて追廻し、悉く人を払ひて焼立てしといふ。〈鴻池・三井等にては大勢の人数故逃後れたる者多かりしといふ。〉故に死人・怪我人の沙汰をば余りに聞かざりし。
予廿三日難波御蔵なる知己を訪らひ、夫より五十軒屋敷開地庄五郎方へ尋ねしに、家内諸道具を引散らし、主は打臥し家内は顔を腫してありぬ。予が尋ねしを悦びて、此度の騒動の恐しく狼狽へし様を語りぬ。先づ此騒動につきて、町奉【 NDLJP:85】行に人少なりとて、「玉造・京橋等の同心を貸し給へ」との御頼にて、何れも人数引足らず、あちらこちらと双方へ走廻り、十九日朝より廿日朝迄夜通に走廻り、漸々と廿日の五つ頃に至り、わが家も定めて焼けし事ならんと思ひて、家に帰りしに、思の外無難にて、遠方の者共大勢集り居て、道具夫々に取片付けあるを見て、心少しくゆるみしや、気を失ひて打倒れしにぞ、直に水薬等を用ひて漸々と蘇生りしが、又直に走出で此方彼方と走廻り、其夜も夜通をなし、只今一寸帰り来りし故少しまとろめと休ませじに、直に癖入て他愛なし」といふ。大小・鉄炮などあそこ此処に打捨てあり、淡路町にて橋本を鉄炮にて打留めしは庄五郎なり。仲間中の評判にも、家柄程有りて大なる手柄なりとて、大いに誉られしとて自慢咄をなす。〈この庄五郎は今宮村庄屋羽柴何とやらんいへる者の子にして、昨年此家の養子となりし者にて、十八歳位なりされ共世間にても専ら、坂本源三郎が橋本をば打留めし事を専らいひ、当人も外にて其事を慢じ語れば、庄五郎が打ちしは余人なるべし。〉又此騒動にて四方の固め厳しく帯刀せし者は、士・医・坊主に限らず山伏にても出入る事なく、【帯刀者の通行を禁ず】已に此家の女、東在なる門徒寺へ嫁しぬるにぞ、其寺の新発此家に火事見舞に来らんとて出来りしか共帯刀をせし故之を通さず。固めし者共の中に新発のよく知れる者共多く有りしかば、是等を頼みぬれ共、御法度なりとて許さゞりし故、すご〳〵跡戻をなせし程の事なるに、其固めの厳重なる中を甲冑を帯し槍を引提げ、馬上にて馳抜け、闇峠の方へ落行きし者一騎ありし由、えらき者なりとて舌を巻きて語りぬ。又門徒寺へ嫁ぎける婦人其側に在りしが、「此様子なれば少しも油断なり難し、此上騒動に及ばゝ御家内を引連れ、私方へ御出なさるべし。御囲ひ申すべし」と真顔になりていひくれしも、あわてたる事ながら真実の事といふべし。
〔頭書〕庄五郎 母のいふ、「今日より何れも甲冑を著候やう」、昨日仰出されしか共、今朝俄に、「先づ今日の処は見合すべし。町家の者共恐れて騒ぎ立つべし」との御触なり。何れも十九日より走廻り労れたり、只さへ働き六ケ敷きに、此上具足を著ては働きなり難し、いかゞせんとて、何れも之をくやみ居たりしに、やめになりて大いに安心せしと、真顔になりて咄しぬる。をかしき事なりし。
松本林太夫といふ者一揆党にて、【松本林太夫】藤井清吾といへる医師の親類にて、松本寛五とい【 NDLJP:86】へる医師の養子となり、学文の為に大塩へ寄宿して有りしが、此度の悪事に与せしか淡路町にて散々に乱れしかば、這々に逃走りて、白木綿にて鉢巻して槍を引提げしまゝ藤井方へ来りしを、早々に追出せしにぞ、詮方なくて夫より江の子島とやらんに石火矢の台拵へし大工を便り、此方に到りしにぞ、之を留置きしが間もなく召捕へらる。〈此者十日許已前に宿へ帰り来り、かゝる催有る事故大いにいやになりて、内へ帰らんといひしか共、之を許さずして、只学問を嫌ひての事故ならんと、親の思ひ誤りて大いに叱りつけて大塩へ追遣りしといふ。不便の事といふべし。〉此者を御吟味有りし処、「一揆等四つ橋にて何れも刀を川中へ打込み、林太夫が抱きし今川弓太郎といへる昨年十月生れの男子をも一処に、川へ投捨て、此の処より何れも散り〴〵になりし」と、白状せしといふ。事専ら世間にて取沙汰有り、川中を探して刀四腰と弓太郎が死駭上りしともいへり。
同廿三日八つ過ぎ頃より、天満の方なる焼地の様を見。焼失せし知辺をも訪はんと思ひしかば、難波橋をさして到りしに、橋の上はいふに及ばず、其辺大に群集をなす故、「いかなる事の有りしにや」と其辺にて之を尋ねしに、「一人の乞食大小・金銀を持ちし有り、之を捕へんとせしかば大小も金も橋より川へ打込し」といふ。其乞食を追廻し、之を召捕り過書町の会所へ引行きしにぞ、何事やらんと大勢の者共其辺に寄り集れるにぞ、天満橋に大勢立止りて遠く隔りしながらに、こなたを打眺めぬる有様なり。予は之を行過ぎて天満の方へ到りぬるに見物大勢にて、処によりては道はかどり難き処などありぬる程の事なりしかども、わざ〳〵来れる事なれば、隈々までも見尽すべしと思ひ、何処もかも見尽して帰りに、亀山の用場に立寄りしに、此所にも徒目附・水道などいへる役の者、其外足軽など大勢様子見届に出来れる上に、今日又松井義太夫といへる者かゝる騒動なれば、御城代へ御見舞の使者に来り、御加勢の人数を、差出すべきや否を伺ひに出来れるにぞ、用場詰の役人西垣丈助これを案内して、御城へ出で見附の処へ両人差控へ、御返答を相待ち居たる処へ、京橋の方より与力一人跣足にて息を限りに走来り、見附なる御番にて、「一揆大勢只今天満橋を押寄せ来れる故、此旨御注進申候なり」と、横になりて城内へ走入りぬるにぞ、松井と西垣面を見合せ、「一揆此処へ押寄来らば定めて騒動に及ぶべし。只御返事を聞く計りの事に両人此処に有りて詮なし、誰なりとも一人は帰るべし」といひぬ【 NDLJP:87】るにぞ、「然らば我れ帰るべし」とて、西垣には其様子をも見極めずして只一散に走帰りしが、帰りがけに船屋に人を走らせ、「船一艘用場の浜へ廻し来」と、諸道具を積みて逃仕度せんと其心構にて引取りし処へ我も到りしが、「先づ一揆も鎮りぬ、程なく悪徒も手廻りぬべし。最早気遣ひなし」といひしに、西垣がいふ、「只今一揆大勢にて天満橋を押渡り、御城を目掛けて攻寄する様子なり。少しも油断なり難し」といへるにぞ、「こはけしからぬ事かな。われ今天満辺を見物し、往来共に其辺を通りしに少しも怪しき事なし。一陣破れて残党全からず、彼輩何程心をあせりぬればとて、再び人数を集むる事難し。こは臆病者の大勢の人を見て、左様に見誤りし者ならん」といひ説きぬれ共、彼注進の事をいひて、予がいへる事をば諾ふ色なかりしが、果して何の怪しき事もあらざりし。「落人は薄の穂にも恐る」といへる事はあれども、かくまで狼狽へて一人の悪徒を恐れぬる例は、昔より未だ聞かざる事なり。此一事にても事てぬかりに至りて、大騒動に及びし事を思ひやるべし。
安治川・九条・富島・江の子島・幸町など、すべて海辺に近き処は、船にて大勢攻来りて、焼討をなすとて、誰いふともなく専ら風説をなし、風の吹く音を聞けるさへ大いに胆を冷して、毎日毎夜少しもまどろむ事さへなくて、大いに狼狽へ騒ぎしといふ。十九日には火矢にて家々を焼き、鉄炮を打ち劒戟を振廻せる事にて、御当家始りてより此方斯かる大変これあらざれば、市中の男女大に恐れ、別けて焼立てられし家家の者共は蔵を〆るの暇もなく、著の身其儘にて逃げ出でし事なれば、多くは丸焼になりしも理りなれ共、方角違にて遥か隔てし家々に諸道具を持出し、船に積出し蔵の中へ詰込み、目塗をなし閉付けし道具・敷居・鴨居迄打はづし、大あわてにあわてぬる故、損ぜし道具・紛失の品々も仰山の事なりしといふ。
廿二日京都に於て三人切腹せし者有りしが、其首は悉くなし、隠せしと見えたり。定めて発頭人ならん。吹田の神主は神崎庄屋の裏にて切腹し、廿三日荘司儀左衛門は山崎に於て、京都御町奉行の手に生捕られ当所へ送り来りし。近藤梶五郎は北在にて切腹し、甲山の奥信貴の山中などに三人・五人切腹の者有り。大塩が徒なるべしなど専らに取沙汰せしが、何れも実なき浮説なりしといふ。〈〔頭書〕吹田神主は大塩が弟にして宮脇志【 NDLJP:88】摩守といふ。大塩が落行きし事を聞いて己も逃れ難さ事を知りて、妻に暇を遣さんといひしに、志摩が母親其訳を知らざれば、これを拒みしにぞ、忽ち母親を殺害して出奔せしといひしが、二日計りも過ぎて神崎にて腹を切しといふ噂なりし。〉