↑前年 桓公十七年(紀元前695年) 翌年↓ < 巻の二 桓公 < 春秋左氏傳
【經】 十有七年、春正月丙辰、公、齊侯・紀侯に會して黄に盟ふ。二月丙午、公、邾の儀父に會して趡に盟ふ。夏五月丙午、齊の師と奚に戰ふ。六月丁丑、蔡侯封人卒す。秋八月、蔡季、陳より蔡に歸る。癸巳、蔡の桓侯を葬る。宋人・衞人、邾を伐つ。冬十月朔、日之を食するあり。
【傳】 十七年(周ノ莊王二年)春、黄[1]に盟ふとは、齊・紀を平がせ、且た衞の故を謀る[2]なり。(→莊公五年)邾の儀父と趡[3]に盟ふは、(隱公元年→)蔑の盟[4]を尋むるなり。
夏、齊と奚[5]に戰ふは、疆の事なり。是に於て齊人、魯の疆を侵す。疆吏來りて告ぐ。公曰く、『疆場の事は、慎んで其一を守り[6]て、其不虞に備へよ。姑く、備ふる所を盡せ。事至らば戰へ。又何ぞ謁はん』と。
蔡の桓公[#「公」はママ]卒す。蔡人、蔡季[7]を陳より召く。秋、蔡季、陳より蔡に歸るとは、蔡人、之を嘉す[8]ればなり。
邾を伐つは、宋の志なり。
冬十月朔、日之を食するあり。書せざるは、官、之を失ひしなり。天子に日官あり、諸侯に日御[9]あり。日官は卿に居て、以て日を底す[10]、禮なり。日御は日を失はず、以て百官に朝に授くるなり。
初め、鄭伯[11]將に高渠彌を以て卿となさんとせり。昭公、之を惡み、固く諫めしかど、聽かれざりき。昭公の立つや、其の己を殺さんことを懼れ、辛卯、昭公を弑して公子亹を立つ。君子謂へらく、『昭公、惡む所を知れり』と。公子達[12]曰く、『高伯は其れ戮せられんか。惡に復[13]ゆること已甚し』と。(→桓公十八年)
- ↑ 齊の地。
- ↑ 十三年、紀、齊を敗る。故に紀を齊に平がするなり。衞朔、齊に在り、齊、之を納れんと欲す、故に其事を謀る也。其後、齊、卒に紀を遷し、魯卒に齊に會して朔を納る。則ち齊魯の強弱具さに見ゆ。
- ↑ 魯の地。
- ↑ 蔑の盟は、隱公元年に在り。
- ↑ 魯の地。
- ↑ 一定の分界を守る也。
- ↑ 桓公の弟。
- ↑ 蔡人、之を嘉するを以て字を稱して告ぐる也。
- ↑ 日官日御は歴數を司どるもの。
- ↑ 底は至す也。其期度を推至する也。
- ↑ 先代莊公。
- ↑ 魯の大夫。
- ↑ 復は報復する也。