↑前年 桓公十八年(紀元前694年) 翌年↓ < 巻の二 桓公 < 春秋左氏傳
【經】 十有八年、春王の正月、公、齊侯に濼に會す。公、夫人姜氏と遂に齊に如く。夏四月丙子、公、齊に薨ず。丁酉、公の喪、齊より至る。秋七月。冬、十有二月己丑、我が君桓公を葬る。
【傳】 十八年(周ノ莊王三年)春、公、將に行くことあらんとし、遂に姜氏と齊に如く。申繻曰く、『女に家あり、男に室あり[1]て、相瀆すこと無きを、之を禮ありと謂ふ。此を易へば必ず敗れん』と。公、齊侯に濼[2]に會し、遂に文姜と齊に如く[3]。齊侯通ず。公、之[4]を謫む。以て(齊侯ニ)告ぐ。夏四月丙子、公を享し、公子彭生[5]をして公を乘せしむ。公、車中に薨ず[6]。魯人、齊に告げて曰く、『寡君、君の威を畏れて、敢て寧居せず、來りて舊好を脩む。禮成りて反らず。咎を歸する所無く、諸侯に惡し[7]。請ふ彭生を以て之を除かん[8]』と。齊人、彭生を殺す。
秋、齊侯、首止[9]に師す。子亹、之に會す。高渠彌相く[10]。七月戊戌、齊人、子亹を殺して、高渠彌を轘[11]にす。祭仲、鄭子[12]を陳より逆へて之を立つ。是の行や、祭仲、之を知れり。故に病と稱して往かざりき。人曰く、『祭仲、知を以て免れたり』と。仲曰く、『信なり[13]』と。
周公[14]、(周ノ)莊王を弑して王子克[15]を立てんと欲す。辛伯[16](之ヲ)王に告ぐ。遂に王と與に周公黑肩を殺す。王子克、燕に奔る。初め、子儀、桓王に寵あり。桓王、これを周公に屬す。辛伯諫めて曰く、『后に竝び[17]、嫡に匹ひ[18]、政を兩にし[19]、國に耦ぶ[20]は、亂の本なり』と。周公、從はざりき。、故に(難ニ)及ぶ。
- ↑ 古は、妻、夫を謂ひて家と爲し、夫は妻を謂ひて室と爲す。
- ↑ 水の名。
- ↑ 濼より歸らず齊に如く。
- ↑ 之は文姜をさす。
- ↑ 齊の公子にて多力の人。
- ↑ 彭生之を殺ししなり。
- ↑ 諸侯に對して外聞惡し。
- ↑ 請ふ彭生を殺して此恥辱の惡名を除かん。
- ↑ 衞の地。
- ↑ 子亹と高渠彌の二人、齊が己を討ぜんと欲するを知らざるなり。
- ↑ 轘は車裂なり。
- ↑ 昭公の弟子儀。
- ↑ 鄭人、祭仲を疾む、故に之を毀りて曰く、祭仲も亦當に高伯と同じく戮せらるべき者なり、特に知を以ての故に免れたるのみと。仲之を聞きて曰く、人の言は信なり、我唯だ智ある、故に往かざりきと。是れ鄭人、多智老奸を以て仲を目し、而して仲、甘受して辭せず、却て是れ得意の語氣あるなり。
- ↑ 黑肩。
- ↑ 莊王の弟子儀。
- ↑ 周の大夫。
- ↑ 妾、后の如き也。
- ↑ 庶、嫡の如く也。
- ↑ 寵臣、正卿の如き也。
- ↑ 都、國の如き也。