↑前年 桓公十三年(紀元前699年) 翌年↓ < 巻の二 桓公 < 春秋左氏傳
【經】 十有三年、春二月、公、紀侯・鄭伯に會す。己巳、齊侯・宋公・衞侯・燕人と戰ふ。齊の師・宋の師・衞の師・燕の師・敗績す。三月、衞の宣公を葬る。夏、大水あり。秋七月。冬十月。
【傳】 十三年(周ノ桓王二十一年)春、楚の屈瑕、羅を伐つ。鬮伯比、之を送りて還り、其御に謂ひて曰く、『莫敖は必ず敗れん。趾を舉ること[#「こと」は合字→今昔文字鏡]高し[1]。心固らず』と。遂に楚子に見えて曰く、『必ず師を濟せ』と。楚子、焉を辭す。入りて夫人鄧曼[2]に告ぐ。鄧曼曰く、『大夫[3]は其れ衆を謂ふには非じ。其れ、君の・小民を撫づるに信を以てし、諸司を訓ふるに德を以てし、莫敖を威すには刑を以てせんことを謂ふならん。(桓公十一年→)莫敖、蒲騷の役に狃れて、將に自ら用ゐんとす。必ず羅を小と(シテ輕ン)せん。君・若し鎮撫せずんば、其れ備を設けざらんか[4]。夫れ、固より、君の・衆に訓へて好く之を鎮撫せずんば、、諸司を召して之に勸むるに令德を以てし、莫敖を見て、これに、天の易[5]を假さゞることを告げられんことを謂ふならん。然らずんば、夫れ豈に楚の師の盡く行けることを知らざらんや』と。楚子、賴人[6]をして之を追はしむ。及ばざりき。莫敖、師に徇へしめて曰く、『諫むる者は刑あらん』と。鄢[7]に及び、次[8]を亂し以て其水を濟る。遂に次無く、且つ備をも設けずして、羅に及ぶ。羅と盧戎[9]と、兩つところより之に軍し、大に之を敗る。莫敖、荒谷に縊る。群帥、冶父[10]に囚はれ、以て刑を聽く[11]。楚子曰く、『孤の罪なり』と。皆、之を免す。
宋、多く賂を鄭に責む。鄭、命に堪へず。故に紀・魯を以て、齊・宋・衞・燕と戰ふ。戰ひし所を書せざるは、後れたればなり[12]。
鄭人來りて好を脩めんことを請ふ。(→桓公十四年)
- ↑ 意驕る也。
- ↑ 楚の武王の夫人。
- ↑ 大夫は伯比をさす。
- ↑ 君若し召し還して以て、之を抑へ遏めずんば、彼必ず備を設けずして、以て敗を取らん 。
- ↑ 易は慢易なり。自ら用ひ、羅を小として輕んじ、備を設けざるは、皆是れ易なり。
- ↑ 賴は國名、楚の與國。
- ↑ 鄢は水名。
- ↑ 次は序次。
- ↑ 盧戎は南蠻。
- ↑ 荒谷、冶父は皆楚の地。
- ↑ 群帥、責を負はんとするなり。
- ↑ 魯君、戰役に會する期に後れしなり。