↑前年 桓公十二年(紀元前700年) 翌年↓ < 巻の二 桓公 < 春秋左氏傳
【經】 十有二年、春正月。夏六月壬寅、公、杞侯・莒子と會し、曲池に盟ふ。秋七月丁亥、公、宋公・燕人と會して、穀丘に盟ふ。八月壬辰、陳侯躍・卒す。公、宋公に虚に會す。冬十有一月、公、宋公に龜に會す。丙戌、公、鄭伯に會し、武父に盟ふ。丙戌、衞侯晉・卒す。十有二月、鄭の師と宋を伐つ。丁未、宋に戰ふ。
【傳】 十二年(周ノ桓王二十年)夏、曲池[1]に盟ふとは、杞・莒を平がするなり。
公、宋・鄭を平がせんと欲し、秋、公、宋公と句瀆の丘[2]に盟ふ。宋の成ぎ未だ知る可からざるなり。故に又、虚に會す。冬、又、龜に會す。宋公、平ぎを辭す。故に鄭伯と武父に盟ふ。遂に師を帥ゐて宋を伐ち、戰ふ。宋、信なければなり。君子曰く、『苟も信・繼がずんば、盟も益なきなり。詩に云ふ、「君子屢〻盟ふ、亂是を用つて長ず[3]」とは、信なければなり』と。
楚、絞を伐ち、其南門に軍す。莫敖屈瑕曰く、『絞は小にして輕し。輕しければ則ち謀寡し。請ふ樵を采る者を扞ること無くして以て之を誘かん[4]』と。之に從ふ。絞人、(楚人)三十人を獲たり。明日、絞人爭ひ出で、楚の役徒を山中に驅る。楚人、其北門を坐りて、これを山下に覆[5]ひ、大に之を敗り、城下の盟を爲して還る。
絞を伐つの役に、楚の師、分れて彭[6]を渉る。羅人[7]之を伐たんと欲し、伯嘉[8]をして之を諜はしむ。三たび巡りて之を數へぬ[9]。(→桓公十三年)
- ↑ 魯の地。
- ↑ 句瀆の丘は即ち穀丘にして、宋の地。
- ↑ 小雅。
- ↑ 樵を采る役夫を護衞すること無く、敵の來り奪ふに任せて、以て絞人を誘うて出でしめん。
- ↑ 覆は兵を潛めて行きて敵を掩襲する也。
- ↑ 彭は水の名。
- ↑ 羅は國名。
- ↑ 羅の大夫。
- ↑ 三たび巡りて楚軍の多少を數ふる也、是れ伯嘉の勇を言ふ也。