↑前年 桓公十一年(紀元前701年) 翌年↓ < 巻の二 桓公 < 春秋左氏傳
【經】 十有一年、春正月、齊人・衞人・鄭人、惡曹に盟ふ。夏五月癸未、鄭伯寤生卒す。秋、七月、鄭の莊公を葬る。九月、宋人、鄭の祭仲を執ふ。突、鄭に歸る。鄭の忽・出でゝ衞に奔る。柔、宋公・陳侯・蔡叔と會して折に盟ふ。公、宋公に夫鍾[1]に會す。冬十有二月、公、宋公に闞[2]に會す。
【傳】 十一年(周ノ桓王十九年)春、齊・衞・鄭・宋、惡曹に盟ふ。
楚の屈瑕・將に貳・軫[3]に盟はんとす。鄖人、蒲騷[4]に軍し、將に隨・絞・州・蓼[5]と與に楚の師を伐たんとす。莫敖[6]之を患ふ。鬭廉曰く、『鄖人、其郊に軍す。必ず誡めじ[7]。且つ日〻に四邑[8]の至るを虞らん。君[9]は郊郢[10]に次り以て四邑を禦げ。我は鋭師を以て、宵、鄖に加へん。鄖は虞る心ありて其城を恃めば、鬮志あること無けん。若し鄖の師を敗らば、四邑必ず離れん』莫敖曰く、『盍ぞ師を濟[11]すことを王に請はざる。』對へて曰く、『師の克つは和に在りて、衆に在らず。商・周[12]の敵せざりしは、君が聞ける所ならん。軍を成し以て出でたるに、又何ぞ濟さん。』莫敖曰く、『之を卜せん。』對へて曰く、『卜は以て疑を決むるのみ。疑はずんば何をか卜せん』と。遂に鄖の師を蒲騷に敗り、卒に盟ひて還れり。
(桓公六年→)鄭の昭公[13]の北戎を敗りしや、齊人、將に之に妻はさんとせしを、昭公辭せしとき、祭仲、『必ず之を取れ、君、内寵多く、子、大なる援なし。將に立つことを得ざらんとす。三公子[14]皆君たるならん』と曰ひしかど、從はざりき。
夏、鄭の莊公卒せり。初め、祭[15]の封人仲足、莊公に寵あり。莊公、卿たらしむ。公の爲に鄧曼[16]を娶らせ、昭公を生めり。故に祭仲、之を立つ。宋の雍氏も、鄭の莊公に女はせ。雍姞[17]と曰ひ、厲公を生めり。雍氏の宗、宋の莊公に寵あり。故に祭仲を誘きて之を執へて曰く、『突を立てずば將に死なんとす』と。亦、厲公を執へて賂を求めたり。祭仲、宋人と盟ひ、厲公を以て歸へりて之を立てんとす。
秋九月丁亥、昭公、衞に奔り、已亥、厲公立ちぬ。
- ↑ 鄭の地。
- ↑ 魯の地。
- ↑ 貳、軫は國名。
- ↑ 鄖の邑。
- ↑ 皆國名。
- ↑ 楚の官名。即ち屈瑕也。
- ↑ 油斷あるをいふ。
- ↑ 隨、絞、州、蓼。
- ↑ 君は屈瑕をさす。
- ↑ 楚の地。
- ↑ 濟は益す也。
- ↑ 商は殷の紂王、周は周の武王。
- ↑ 昭公は忽なり。
- ↑ 三公子は子突即ち厲公、公子亹即ち昭公の次の公、子儀即ち子之、何れも其母寵あれば也。
- ↑ 祭は鄭の邑。
- ↑ 曼は鄧の姓。
- ↑ 雍は氏、宋の大夫。姞は姓。