↑前年 桓公十年(紀元前702年) 翌年↓ < 巻の二 桓公 < 春秋左氏傳
【經】 十年、春王の正月庚申、曹伯終生・卒す。夏五月、曹の桓公を葬る。秋、公、衞侯に桃丘に會せんとす。遇はず。冬十有二月丙午、齊侯・衞侯・鄭伯來りて郎に戰ふ。
【傳】 十年(周ノ桓王十八年)春、曹の桓公・卒す。虢仲[1]、其大夫詹父[2]を王に譖る。詹父、辭あり。王の師を以て虢を伐つ。夏、虢公出でゝ虞に奔る。(→桓公十年)
秋、秦人、芮伯萬を芮に納る。
初め、虞叔[3]、玉あり。虞公、これを求む。獻ぜず。既にして之を悔いて曰く、『周の諺にこれ有り「匹夫罪なし、璧を懷くは其れ罪なり」と。吾焉ぞ此を用ゐて、其れ以て害を賈はんや』と。乃ち獻ず。又、其寶劍を求めらる。叔曰く、『是れ厭くこと無きなり。厭くこと無くば、將に我に及ばんとす[4]』と。遂に虞公を伐つ。故に虞公出でゝ洪池[5][#「洪」はママ]に奔る。
冬、齊・衞・鄭・來りて郎に戰ふとは、我、辭ある[6]なり。(桓公六年→)初め、北戎、齊を病ましめ、諸侯之を救ひしとき、鄭の公子忽・功ありしを、齊人、諸侯に餼し、魯をして之に次でしめしに、魯、周班を以て鄭を後にせしかば[7]、鄭人怒り、師を齊に請ひぬ。齊人、衞の師を以て之を助けぬ。故に侵伐と稱せず。先づ齊・衞を書するは王爵なれば[8]なり。
- ↑ 王の卿士。
- ↑ 屬大夫。
- ↑ 虞は國名、虞叔は虞公の弟。
- ↑ 我を殺すにも至らん。
- ↑ 地名。
- ↑ 我直にして理あるを云ふ。
- ↑ 事、公の六年に在り。
- ↑ 王の爵位を以て之を次第する也。