↑前年 桓公九年(紀元前703年) 翌年↓ < 巻の二 桓公 < 春秋左氏傳
【經】 九年春、紀の季姜、京師に歸ぐ。夏四月。秋七月。冬、曹伯、其世子射姑をして來朝せしむ。
【傳】 九年(周ノ桓王十七年)春、紀の季姜、京師に歸ぐ。凡そ諸侯の女の行く、唯だ王后をのみ書す。
巴子[1]、韓服[2]をして楚に告げしめ、鄧と好を爲さんと請ふ。楚子、道朔[3]をして巴の客[4]を將ゐ以て鄧に聘せしむ。鄧の南鄙の鄾人、攻めて之が幣を奪ひ、道朔と巴の行人を殺す。楚子、薳章をして鄧を讓めしむ。鄧人受けず。夏、楚、鬭廉[5]をして師を帥ゐ、巴の師と鄾を圍む。鄧の養甥・聃甥[6]、師を帥ゐて鄾を救ひ、三たび巴の師を逐ふ。克たず。鬭廉、其師を巴の師の中に衡陳[7]し、以て戰ひて北ぐ[8]。鄧人、之を逐うて、巴の師を背にす。而して夾みて之を攻む。鄧の師大に敗れ、鄾人・宵潰ゆ。
秋、虢仲・芮伯・梁伯・荀侯・賈伯、曲沃を伐つ。(→莊公十六年)
冬、曹の大子・來朝す。之を賓するに上卿(ノ禮)を以てす。禮なり。
曹の大子を享す。初めて獻ずるとき、樂奏でられて歎く。施父[9]曰く、『曹の大子は、其れ憂あらんか。歎く所に非ざるなり』と。(→桓公十年)
- ↑ 巴は國名。
- ↑ 巴の行人。
- ↑ 楚の大夫。
- ↑ 巴の客は韓服なり。
- ↑ 楚の大夫。
- ↑ 二人は鄧の大夫。
- ↑ 衡陳は横陳なり。戰ひ走るの後、軍分れて二軍となりて止まる。鬭廉、横に其中間に陳したるなり。
- ↑ 楚師僞り走るなり。
- ↑ 魯の大夫。