↑前年 桓公八年(紀元前704年 翌年↓巻の二 桓公春秋左氏傳

訓読文

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【經】 八年春正月己卯きぼうじようす。天王てんわう家父かほ[1]をして來聘らいへいせしむ。夏五月丁丑ていちう、烝す。秋、ちゆつ。冬十月、ゆきふる。祭公さいこうきたり、つひ王后わうこうよりむかふ。

【傳】 八年(周ノ桓王十六年)春、よくほろぼ[2]。(→桓公八年
 ずゐ少師せうしちようあり。楚の鬮伯比とうはくひ曰く、『なり。あだざん[3]あり。うしなからざるなり』と。
 夏、楚子、諸侯しよこう沈鹿しんろく[4]がつす。くわう・隨・くわいせず。薳章ゐしやうをして黄をめしむ。楚子、隨をちて、漢淮かんわい[5]あひだぐんす。季梁きりやうふ、『之にくだらん。ゆるされずしてしかのちたゝかはん。われ(ガ兵士)をいからせてあだおこたらする所以ゆゑんなり』と。少師、隨侯に謂ひて曰く、『かならすみやかたゝかへ。しからずんば將に楚のうしなはんとす』と。隨侯之をふせぐ。(遙ニ)楚の師をのぞむ。季梁曰く、『楚人はひだりたつとぶ。きみ[6]は必ず左ならん。王とふことかれ[7]しばらく其みぎめよ。右にはこものけん。必ずやぶれん。へん敗れば、しうすなははなれん』と。少師曰く、『王にあたらざれば、てきあらざるなり[8]』と。(季梁ノ謀ニ)したがはず。速杞そくき[9]に戰ふ。隨の師・敗績はいせきす。隨侯のがる。鬮丹とうたん[10]その戎車じうしや[11]と其戎右じういう[12]少師をたり。秋、隨、楚とたひらがんとす。楚子、將にゆるさゞらんとす。鬮伯比曰く、『天其やまひれり[13]。隨には未だつ可からざるなり』と。乃ちちかひてへる。
 冬、王、虢仲くわくちう[14]に命じて晉哀侯あいこうおとうとびんを晉に立つ。(→桓公九年
 祭公さいこうきたり、つひ王后わうこうよりむかふ。れいなり。(→桓公九年

  1. 周の大夫。
  2. 曲沃、之を滅ししなり。
  3. 釁は瑕隙なり。德なき者寵せらるゝは、國の釁なり。
  4. 楚の地。
  5. 二水の名。
  6. 楚の君。
  7. 王に當ること無かれ。
  8. 王に當らざれば、對敵すと言ふに足らざる也。
  9. 隨の地。
  10. 楚の大夫。
  11. 戎車は君の乘る所の兵車。
  12. 戎右は戎車の右乘、即ち少師。
  13. 少師が獲られて死せるをいふ。
  14. 王の卿士虢公林父。