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【經】 六年春正月、(州公魯國ニ)寔に來る。夏四月、公、紀公[#「公」はママ]に成に會す。秋八月壬午、大に閲す。蔡人、陳佗を殺す。九月丁卯、子同生る。冬、紀侯・來朝す。
【傳】 六年(周ノ桓王十四年)春、(州公)曹より來朝す。書して『寔に來る』と曰ふは、其國に復らざればなり。
楚の武王、隨を侵し、薳章[1]をして成ぎを求めしむ。瑕[2]に軍して以て之を待つ。隨人、少師[3]をして成ぎを董[4]さしむ。闘伯比[5]楚子に言ひて曰く、『吾が、志を漢東に得ざるは、我則ち然しむるなり。(今)我、吾が三軍を張りて吾が甲兵を被り、武を以て之に臨まば、彼則ち懼れて協[6]せ、以て我を謀らん。故に間[7]し難きなり。漢東の國(ノ中)、隨を大と爲す。隨張[8]らば必ず小國を棄てん。小國離るるは、楚の利なり。少師侈れり。請ふ、師を羸め以て之を張らしめん。』熊率且比[9]曰く、『季梁[10]在り。何の益かあらん。』闘伯比曰く、『以て後の圖と爲さん。少師、其君(ノ心)を得たればなり[11]』と。王(伯比ノ謀ニ從ヒ)軍を毀ちて少師を納る。少師・歸りて、楚の師を追はんと請ふ。隨侯、將に之を許さんとす。季梁、之を止めて曰く、『天方に楚に授く。楚の羸きは、其れ我を誘くなり。君何ぞ急にする。臣聞く。「小の能く大に敵するや、小は道ありて大は淫なるときなり」と。所謂道とは、民に忠にして神に信あるなり。上、民を利せんと思ふは、忠なり。祝史の辭を正しくする[12]は、信なり。今、民餒ゑて、君、欲を逞しくし、祝史、矯舉[13]して以て祭る。臣、其の可なることを知らざるなり。』公[14]、曰く、『吾が牲牷[15]は肥腯[16]に、粢盛[17]は豐備なり。何ぞ則ち信ならざらん』對へて曰く、『夫れ民は、神の主なり。是を以て聖王は先づ民を成して、而る後に力を神に致す。故に、牲を奉げて以て告げて、博碩[18]肥腯と曰ふは、民力の普く存するを謂ふなり、其の畜の碩大蕃滋なるを謂ふなり、其の瘯蠡[19]を疾まざるを謂ふなり、其備腯[20]咸く有るを謂ふなり。盛[21]を奉げ以て告げて、絜粢豐盛[22]と曰ふは、其の三時[23]害あらずして、民和し年豐かなるを謂ふなり。酒醴を奉げ以て告げて、嘉栗[24]の旨酒と曰ふは、其上下皆嘉德[25]ありて、違心無きを謂ふなり、所謂馨香[26]ありて、讒慝無きなり。故に其三時(ノ事)を務んめ、其五教[27]を脩め、其九族[28]を親しみ、以て其禋祀[29]を致す。是に於てか民和して、神、之に福を降す。故に動けば則ち成ることあり。今、民各〻心ありて、鬼神、主に乏し[30]。君、獨り豐かにすと雖も、其れ何の福かこれ有らん。君・姑く政を脩めて、兄弟の國を親まば、庶はくは難より免れん』と。隨侯懼れて政を脩む。楚敢て伐たず。(→桓公八年)
夏、成に會するは、紀來たりて齊の難[31]を諮謀するなり。
北戎、齊を伐つ。齊侯、師を鄭に乞はしむ。鄭の大子忽、師を帥ゐて齊を救ふ。六月、大に戎の師を敗り、其二帥、大良・少良[32]・甲首[33]三百を獲て、以て齊に獻ず。是に於て諸侯の大夫、齊を戍る。齊人、之に餼を饋る。魯をして其班を爲さしむ。鄭を後にす[34]。鄭忽、其の功あるを以てや怒る。故に郎の師[35]あり。(→桓公十年)公の未だ齊に昏せざりしとき、齊侯、文姜を以て鄭の大子忽に妻はせんと欲せしに、大子忽・辭せり。人、其故を問ふ。大子曰く、『人各〻耦[36]あり。齊は大なり、吾が耦に非ざるなり、詩に云ふ「自ら多福を求む[37]」と。我に在るのみ。大國何をか爲ん』と。君子曰く、『善く自ら謀を爲せり』と。其の戎の師を敗るに及びてや、齊侯又之に妻はせんと請ふ。固く辭す。人、其故を問ふ。大子曰く、『齊に事無かりしとき、吾猶ほ敢てせざりき。今、君命を以て齊の急に奔り、而して室[38]を受け以て歸らば、是れ師を以て昏するなり。民其れ我を何とか謂はん』と。遂にこれを鄭伯に辭せり。
秋、大に閲するは.車馬を簡ぶるなり。
九月丁卯、子同[39]生る。大子生るるの禮を以て之を舉ぐ。接するに大牢を以てし[40]、士を卜して之を負はしめ、士の妻之を食ひ、公と文姜宗婦[41]と之に命く。公、名を申繻[42]に問ふ。對へて曰く、『名に五あり、信あり、義あり、象あり、假あり、類あり。名を以て生るゝを信と爲し[43]、德を以て命くるを義と爲し[44]、類を以て命くるを象と爲し[45]、物に取るを假と爲し[46]、父に取るを類と爲す[47]。國を以て(名ト)せず、官を以て(名ト)せず、山川を以て(名ト)せず、隱疾[48]を以て(名ト)せず、畜牲を以て(名ト)せず、器幣を以て(名ト)せず、周人は諱を以て神に事へ、名は終ら[49]ば將に之を諱まんとす。故に國を以てすれば則ち名を廢し、官を以てすれば則ち職を廢し、山川を以てすれば則ち主を廢し、畜牲を以てすれば則ち祀を廢し、器幣を以てすれば則ち禮を廢す。晉は僖侯を以て司徒[50]を廢し(テ中軍トナシ)、宋は武公を以て司空[51]を廢し(テ司城トナシ)(魯ノ)先君獻武[52]は二山[53]を廢せり。是を以て大物[54]は以て命く可からず』と。公曰く、『是れ其の生るゝや、吾と物[55]を同じくせり』と。之に命けて同と曰ふ。
冬、紀侯來朝せしは、(桓公ニ因リテ)王命を請ひ以て成ぎを齊に求めんとするなり。公、『能はず』と告げき[56]。
- ↑ 楚の大夫。
- ↑ 隨の地。
- ↑ 少師は隨の官名。
- ↑ 董は督察する也。
- ↑ 楚の大夫、令尹子文の父。
- ↑ 協は協力一致する也。
- ↑ 間は離間する也。
- ↑ 張は自ら侈る也。
- ↑ 楚の大夫。
- ↑ 隨の賢臣。
- ↑ 少師、隋侯に信用せらるる故、今未だ吾が謀計に墮ちずとも、後必ず吾が術中に墮ちん。
- ↑ 辭を正しくするは、虚僞にて君の美を稱せざる也。
- ↑ 矯舉は詐りて功德を稱する也。
- ↑ 公は隨公。
- ↑ 牲は牛、羊、豕なり。牷は純白完全なり。
- ↑ 腯も肥ゆるなり。
- ↑ 黍稷の供物。
- ↑ 博は廣き也、碩は大なり。
- ↑ 瘯蠡は皮膚病。
- ↑ 豐備と肥腯。
- ↑ 盛は供物。
- ↑ 穀としては潔清、器に在りては豐滿なり。
- ↑ 三時は春夏秋。
- ↑ 嘉は善也、栗は冽也、酒の清冽なるをいふ。
- ↑ 嘉德は善德。
- ↑ 馨は香の遠く聞ゆる也。
- ↑ 父義、母慈、兄友、弟恭、子孝。
- ↑ 九族は。外祖父、外祖母、從母子、妻父、妻母、姑の子、姉妹の子、女の子、己の同族をいふ。
- ↑ 禋祀は、まつり。
- ↑ 民心一致せずして、和同して以て神の爲めに穡を力むる者無く、神の主と爲る者鮮し。
- ↑ 齊の難は、齊、紀を滅さんと欲するを云ふ。
- ↑ 大良少良は官名なり、或は云はく、人名なりと。
- ↑ 甲を被る者の首。
- ↑ 餼即ち芻米を饋るに、齊人、自ら其次第を立つるに便ならざるを以て、魯人をしてその次第を立てしめしが、魯人、周の爵に從ひて之を配付せしなり。
- ↑ 郎の師は、公の十年にあり。
- ↑ 耦は相應の相手。
- ↑ 大雅文王篇。福を求むるは己に由る、人に由るに非ず。
- ↑ 室は妻。
- ↑ 桓公の子、莊公。
- ↑ 大牢は牛羊豕。大牢の禮を以て太子に接見する也。
- ↑ 宗婦は同姓の大夫の妻。
- ↑ 魯の大夫。
- ↑ 生時に徴あり、以て名となす者を云ふ。唐叔虞、魯の公子友の如き、是れなり。
- ↑ 德義の文字を取りて以て之が名となす也。文王の名は昌、武王の名は發なるが如し。
- ↑ 身體中、或る物と類する所あるを以て其物と同一の名をつくる也。孔子の首、尼丘に似るが故に仲尼と名づくるが如きをいふ。
- ↑ 伯魚生るゝ時、人、魚を饋る故に鯉と名づくるが若し。
- ↑ 父と日を同じくする等の理由によりて名づくるを類といふ。
- ↑ 隱も亦疾なり。
- ↑ 終るは死する也。
- ↑ 僖侯の名は司徒。
- ↑ 武公の名は司空。
- ↑ 獻公の名は具、武公の名は敖。
- ↑ 二山は具山、敖山。
- ↑ 國家の大物とは、官職、山川、畜牲、器幣の如き、皆是なり。
- ↑ 物は干支なり、即ち日なり。
- ↑ 時に齊と鄭と方に睦じくして、齊は必ず紀を滅さんと欲す、而して鄭忽は、饋を班ちて鄭を後にせられしを以て、亦魯を怨めり。若し紀の爲めに成ぎを王に請はば、恐らくは怨を齊に取ること益々深からん。是れ紀に代りて禍を受くるなり。故に能はずと告ぐるなり。