<< 大に進歩して成長せんと欲する「ハリステアニン」は己を凡その善に強ふべし、その在る所の罪より救はれて、聖神に満てられん為なり。 >>
一、主に就きて、永生を賜はり、ハリストスの第宅となり、聖神に充てられて、神の果を結び、純然にして責むべきなく、ハリストスの誡命を成すを得んと欲する者は、まづ第一に主を堅く信じて、其誡命の勧めに全く己を委ね、すべてに世を離るるを以て始めざるべからず、智はすべて如何なる有形物にも占有せられざらん為なり。また彼は信を以て主を希望して、主の惠と助とを常に待ち、いかなる時にも此の一事を其智の目的となして、不断祈祷に専ならんことを要す。其後彼はその居る所の罪の故に、もろもろの善行と主の悉くの誡命を行ふに己を強ひんことを要するなり。例へばいかなる人の前にも謙るに己を強ひ、おのれを何人よりも劣悪なる者と思ふて、人々の中誰よりも尊敬或は賞讃或は名誉を求めざること、福音経にしるせる如くして、唯一の主と其誡命とを常に眼前に有し、心の温柔を以て独り彼に喜ばれんことを願ふべし、主の言ふ如し、曰く『我に学べ、我は心温柔にして謙遜なればなり、汝等は其霊に安息を得ん』〔マトフェイ十一の二十九〕。
二、 これと同じく出来るだけ慈悲なる者となり。善良なる者となり、仁心なる者となり、善なる者となるに己れを慣らすこと主のいふ如くすべし、曰く善にして且慈なること『爾等の天の父の慈憐なるごとくすべし』〔ルカ六の三十六〕。またいふ『爾等もし我を愛さば我が誡を守れ』〔イオアン十四の十五〕、また『力を竭して窄き門より入れ』〔ルカ十三の二十四〕。殊に主の謙遜と生活と温柔と人々と交はりしことを以て亀鑑となし、これを記憶に保ちて忘れざるべし、常に信じ且求めて、祈祷を専ら務むべし、これ主の来りて彼に居りて、彼を其の悉くの誡命を行ふに全備せしめ、且これを堅めんが為にして、主も自から彼の霊魂の住所とならん為なり。かくの如くならば、今日任意ならざる心を強て為す所のものは、早晩任意に為し得べくして、堅固にして己を善に慣らし、常に主を記憶し、不断大なる愛を以て主を待たん。其時主は彼の此の如き任意と善なる勉励とを見、又主を記憶するに己を強ふると、意に反するも己の心を善と謙遜と温柔と愛とに不断導びき、能くするだけ全く盡力してこれをみちびくを見ば、我言ふ、其時主は其恩恵を彼に施し、聖神を彼にみたして、彼を其敵と彼に居る所の罪より救ひ給はん。其時彼は最早盡力も労もなくして主の悉くの誡命を実におこなはん、確言すれば主は自から其誡命を彼に於て行ひて、彼も其時神の果を純美に結ばん。
三、 さりながら主に就く者はかくの如く先づ第一に心の望に反するも己を善に強ひ、常に疑なき信仰を以て主の憐を待つべし、もし誰か愛を有せずんば己を愛に強ふべく、もし温柔を有せずんば、己を温柔に強ふべく、軽侮を忍耐すると、軽侮せらるるときは、大量なる者となると、賎しめ或は讒せらるるときは、怒らざらんことに己を強ふべし、言ふあり、曰く『至愛の者よ、己の讎を復すなかれ』と〔ロマ十二の十九〕、もし誰か霊神的祈祷を有せずんば、己を祈祷に強ふべし。かかる場合に於ては、神は人のかくの如く奮闘し、心の望に反するも盡力して己を制御するを見て、人に真実なる霊神的の祈祷をあたへ、真実なる愛と真実なる温柔と寛大の心と、真実なる善心とをあたへん、一言にていはば人の霊神上の果を充実せしめ給はん。
四、 もし誰か祈祷を有せずして、祈祷の恩寵を有せんが為にただ一の祈祷に己を強ふるも、温柔と、謙遜と、愛と、其他の誡命を成すに己を強ひず、これらの諸徳に進歩するを慮らず、労と盡力とを加へずんば、其任意と自由なる望とにしたがひ、其願に準じて祈祷の恩寵を或は一分與へられ、心神の慰安と喜楽を得るありといへども、品性に於ては依然として旧の如く存せん。彼は温柔を有せず、何となれば労を尋ねず、温柔なる者となるに己れを準備せざればなり、謙遜を有せず、何となればこれを求めずして、これに己を強ひざればなり、衆人に愛を有せず、何となれば祈祷を願ふも、これが為に自から慮らずして、盡力をあらはさざればなり。事を勤むるにあたり神に対して信と希望を有せず、何となれば彼は己を知れり、然れども己れにこれを有せざる所以を認めず、ゆえに主に於けるの堅き信仰と、主に対する真実の希望とを主に索めんが為に憂ひて労せざればなり。
五、 人はおのおの心の欲する所に反するも、祈祷に己を強ひ且責めんことを要する如く、希望にも、謙遜にも、愛にも、温柔、誠実及び正直にも、悉くの忍耐にも、且耐久にも己を強ふべく、録する所の如く、喜んで〔フェサロニカ前五の十六〕己を強ひんことを要す、又自から己を卑うして、己を以てまづしき者となし、及び末なる者と為すに己を強ひ、また無益なる談話を一もなさずして黙想し、心を以ても口を以ても常に神に属する所のことを言ふに己を強ひ、激せず、號ばざることに己を強ふること録していふ如くすべし、曰く『凡の苦很、恚憾、忿怒、誼譟、謗讟は凡の毒悪と共に汝等の中より去らるべし』〔エフェス四の三十一〕、又品性に於てはすべて主に似ることに己れを強ひ、凡の徳業と苦行と善にして美なる生活と凡そ交際に於けるの善良と凡ての温柔、謙遜と、誇らず、高ぶらず、自負せずして、誰の事も悪しく言はざるに己れを強ひんことを要するなり。
六、 大に練達なる者となりて、ハリストスに喜ばれんを願ふ者は、此のすべてのものに己を強ひんことを要す、主が此の時に於て彼の如何なる熱心と任意とを以て凡の善良と正直と慈憐と謙遜と愛とに己を強ひ、力を出して己を奨励するを見て、彼に己を全く賜はらん為なり、また主が自からこれより先彼に居る所の罪の故に彼が盡力すといへども守るあたはざる所のすべてを労と盡力となしに全く清潔真実に成さしめん為なり。其時徳行に於けるすべての練習は、彼の為に天性の如くなるべく、終に主は来りて彼に居り、彼も主に居りて、主は自から彼の霊果を成さしめつつ、自己の誡命を彼に於て易すく行はしめん。されどもし人は神より賜をうけざる間、己を一の祈祷に強ふるも、これと同様前文に掲げたる他の諸の徳行に己を強ひず、強て行はしめず、且慣らさざるときは、これらの徳行を純然に間然するなく、実に成就せしむるあたはざるべし。これに反して出来るだけ己れを善に準備することは祈祷と同じく肝要なり。けだし時として神の恩寵は彼の願と懇求とによりて、彼に来ることあらん、何となれば神は善にして憐憫なるにより、神に願ふ者に其願ふ所のものを賜はればなり。しかれども人は前に述べたる徳行を有せず、己をこれに習はさず、且準備せずんば、たとへ恩寵を受くるあらんも、受けし後これをうしなひ、高慢によりて失墜すべく、或は其與へられたる恩寵に於て進歩せず、又成長せざらん、何となれば全くの任意を以て主の誡命を行ふに己を委ねざればなり。けだし謙遜と愛と温柔と其他の主の誡命は神の為に居所となり、安息となるなり。
七、 ゆえに実に神を喜ばして、神より天に属する神の恩寵を受け、聖神により成長して、成全ならんことを欲する者は、主の悉くの誡命をおこなふに己を責め且強ひて、其意に反するも、心をこれに従はしめんことを要す、言ふあり、曰く『我爾が悉くの命を承け認めて皆之を正しと為し、悉くの詭の途を疾む』〔聖詠百十八の百二十八〕。或者は祈祷に大に進歩せざる間は、これを務むるに己を強ひ且責めん、これと同様もし徳行をすべて練習するに己を強ひ且責めんと欲するならば、善なる習慣に己を習はさん、かくの如くならば不断主に願ひ、且祈りて、願ふところのものを受け、神の甘味を嘗め、聖神に與かる者となるを得て、聖神は彼の謙遜と愛と温柔とに安息して彼にあたへたる賜を長ぜしめ、且花を開かしめん。
八、 神は自からこれらのものを彼に賜ふて、彼に真実なる愛と真実なる温柔とを教へん、先に彼は己をこれに強ひ、これを尋ね、これが為に苦心し且思慮したりしが、終に彼にあたへらるるなり。かくの如くなれば彼は神に於て成長し成全なるを得て、天国の嗣となるを賜はらん、何となれば謙遜なる者は決して陥らざればなり。すべての者より下に居る者は何処にか陥るべき。高慢は大なる屈辱なり。然れども謙は大なる卓越なり、尊敬なり、且高貴なり。ゆえに我等も心意に反すると雖も、謙遜と温柔と愛とに己を責め且強ひ、信と望と愛とを以て不断神に願ひ且祈りて其神を我等の心につかはし給はんことを待ち、且これを熟思せん、然る時は神と真実とを以て神に祈り且拝することを得ん。
九、 されば神はみづから我等に今盡力すといへども成す能はざる真実の祈祷を教へ、また寛大の心と善良とを教へ、主の悉くの誡命を哀みなく、強ふるなうして実に行はしめ、神の自から知る如く其果を以て我等に満たしむる所のものを教へ給はん。かくの如く我等は独り主の旨を知る神の神を以て神の悉くの誡命を行ひ、神が自から己に於て我等を成全にし、すべての汚穢と罪なる不潔とより清められたる我等に於て其意を達する時は、神は我等が霊魂を美なる新婦の如く、清潔にして間然するところなき者として、ハリストスにささげん、しからば我等も神と神の国に安息するを得て、神も我等に世々限りなく安んじ給はん。光栄は彼の宏恩と慈憐と愛とに帰す、けだし人間に如此の尊敬と栄誉とをたまひ、人々に天の父の子となるを賜ふて、彼等を己の兄弟と名づけ給へばなり。光栄は彼に世々に帰す。アミン。