邦文日本外史卷之一

源氏前記

平氏

大權武門に歸するの起原外史氏曰く、吾れ舊志きうしを讀み、鳥羽とばていの時、しば制符せいふくだして、諸州の武士の、源平二氏にぞくするをきんぜしを見る。曰く、大權の將門しやうもんせしは、其れ此時に有るか。よし淸行きよつら封事ほうじ【封事】醍醐の朝、延喜十四年二月、淸行、意見封事を上る宿衛しゆくゑい豪橫がうわううれひべしをむに及びて、乃制度のへい、其來ること久しく、たゞ此に始まりしに非ざるを知れり。

上世兵制
文武一途
けだし、我朝の初めて國を建てしは、政體せいたい簡易かんいにして、文武一なり。海內をげて皆兵にして、天子之が元帥げんすゐたり。大臣おほおみ大連おほむらじ之が褊裨へんぴたり。未だかつて別に將帥しやうすゐを置かざりしなり。豈復いはゆる武門武士と云ふ者あらんや。故に天下事なければ則み、事あれば則天子必ず征伐せいばつらうみづからし、しからざれば則皇子、皇后之に代り、あへて之を臣下にゆだねられざりしなり。是を以て大權、上に在りて、海內かいだい制服せいふくし、きて三かん肅愼しゆくしんに及ぶまで、來王らいわうせざるは無かりき。

中世兵制文官武官を分つ中世に至るに及びて、唐制たうせい模倣もはうし、官を文武に分ち、乃特に將帥を置き、六衛ろくゑい【六衛】左右の近衛、左右の衛門、左右の兵衛の將、天子の親兵しんぺいひきゐたり。而して兵部ひやうぶ、八省【八省】中務、式部、治部、民部、兵部、刑部、大藏、宮內の一に居り、左右さう馬寮めれうを建て、以て貢馬こうばやしなはしめたり。而して邊要へんえうの國は、諸郡に皆軍團ぐんだんあり、一國のていを三分して、其一を取り、五人をとなし、伍二を火となし、くわ五を隊となし、隊二をりよとなし、旅十をだんとなす。各首領しゆりやう【首領】大毅、小毅、主張、校尉、旅師、隊正等軍團組織あり。一火六馬とし、騎射に便なる者は、特に騎隊となす。皆守令しゆれい【守令】國司に任じて簡點せしむ。京を衛り邊をまもる。簿を按して差遣す。征伐を擧ぐる每に、沿道の諸國に、契敕けいちよく【契敕】符節の敕書もちゐて勘合せしむ。凡征行萬人に、乃將軍あり、副將軍あり、軍監ぐんかんあり、軍曹あり、錄事あり、三軍をぶる每に、大將軍一人あり。大將の出征には、必ず節刀せつたうを授く。軍に臨み敵に對する時、首領の約束に從はざる者は、皆專决を聽す。還る日、狀を具へ以聞いぶんす。勳位十二等を建て、功を論じ賞をむくいて、其兵をむ。凡そ其器仗きぢやう兵庫ひやうごをさめ、出納すゐたふするに時を以てし、皆之を兵部に管せしむ。中朝兵を制せしこと、大略かくの如くなりき。上世の旨に及ばずと雖も、其亂を防ぎ禍を慮るは、密なりと謂ふべし。

是故に事有らば則尺一しやくいち【尺一】詔版なり長一尺一寸を下せば、數十萬の兵馬立所にそなはる。而して平時は散じて卒伍に歸す。之が將帥しやうすゐたる者、或は文吏より出でて兵陣に臨み、事畢りて歸り、介冑を脫ぎて衣冠をる。未だ甞て謂ゆる武門武士と云ふ者有ざりしなり。藤原氏外戚ぐわいせきを以て、よゝ政權を執るに及びて、卿相けいさうの位、其族人に非ざれば擬せず。官、品流を論ずること、因習して俗と成る。庶僚しよりやう百揆ひやくき、槪其職をよゝにす。而して將帥の任は、つねに源平二家にゆだぬ。武門の起原是に於て始めて武門の稱あり

光仁、桓武の朝、疆埸多事なり。寶龜中に、廷議して冗兵を汰す。殷富いんぷの百姓、才弓馬に堪ふる者は、專ら武藝を習せて、以て徵發に應じ、其羸弱るゐじやくなる者は、農業にけり。兵農分る而して兵農全く分る

貞觀ぢやうくわん、延喜の後に至りて、百度弛廢しはいし、上下隔絕かくぜつす。奧羽關東の豪民、軍功を以て、六舍人とねりに至る者、或はながら鄕曲を制して、宿衛しゆくゑを勤めず。而れども守令之を能く制するなし。淸行の謂ゆる六軍貙虎くこに非ずして、諸國豺狼さいらうたる者と、所在皆是なり。平居はよろひを藏め馬をたくわへ、儼然げんぜんとしてみづから武士と稱す。武士の起原是に於て始めて武士の稱あり天慶より寬治に馴致す

源平二氏源平二氏しば東邊【東邊】奧羽を鎭ずるや、つねに此輩を用ゐて、以て功効を奏す。而して各習用する所ありて以て相隷屬れいぞくす。因襲いんしうの久しき君臣の如く然り。是より其後いやしくも事あらば、すなはち之を二氏に命ず。二氏各其隷屬れいぞくを發して之におもむくこと、物をふくろに探るが如し。復しやうを選み兵を徵することをわづらはさず。而して討伐たうばつ剿誅さうちう、立どころに辨ぜざるはなし。廟堂の上は務めて恬熈てんきを取り、其勢の積重してかへらざるを患へず。まさまさきて爪牙と爲して、以て相傾排けいはいするのみ。鳥羽の此令を下せるは、其弊を察せられしものの如くにして、弊の由る所を窮められず。之を救ふの術に於ては、盖しすでに疎なりき。

源平相箝制す是の時に當りて、源氏命をふせぐものあれば、平氏に勅して之を討たしめ、平氏制し難きものあれば源氏をして之をちうせしむ。更々相箝制かんせいして、以て控馭こうぎよの術を得たりとして、異日搏噬はくぜい攘奪じやうだつの禍、又此に基せしを知らず。古制を敗壞して一時に苟婾こうゆし、皆以て自ら困蹶こんけつを取るに足れり。

兵糧抑、戎事じふじは民命のかゝる所にして、兵食の權は一日も國につ可らず。先王の必之をみづからしたまふは其旨深し。今之を一二の宗族さうぞくに委ね、又其事を賤みて省みず。其品類を別ちて、之を朝廷の上によはひせざるに至る。甚しきは、則之を奴僕視ぬぼくしして曰く、「これ武門のみ、これ武士のみ」と。其功を論じ賞を行ふに及びては、或はをしみて與へず。嗚呼幾何いくばくぞや。其相ひきゐて以て自ら法度はつとの外に棄てざらんや。たゞ積威の約する所を以て、おさへてあへて發せざりし耳。保元ほうげん平治の際に至りて、乃きんに乘じて起り、潰裂くわいれつ四出し、復收む可からず。橫流の極、終に其千歲不拔の權を失ひて、之をさきに奴僕視せし所の者に授くるを致す。なげくにふ可けんや。吾外史を作り、はじめに源平二氏をじよするに、未だ甞て王家の自ら其權を失ひしを歎ぜずんばあらず。而れども國勢の推移する、人力の維持する所に非ざるものあり。世のへんに因りて以て得失を見、後の世を憂ふる者、まさに以て心を此に留むること有るべきなり。

(平氏系圖)

平氏系統平氏は桓武天皇より出づ。天皇の夫人多治比たぢひむね、四子を生む。長を葛原かつらはら親王と曰ふ。幼にして才名あり。長じて謙謹けんきん書史しよしを讀むを好み、古今の成敗せいばいを觀て、以て自らかんがむ。四ほんに叙し、式部卿しきぶきやうに任ぜらる。子を高見たかみ、孫を高もちといふ。高望に姓平氏を賜ひ、上總のすけに拜す。子孫よゝ武臣たり。其旗赤を用ゐる。

高望の子高望四子あり。國香くにか良將よしまさ良兼よしかね良文よしふみ、並に東國の守介かみすけ、或は鎭守府將軍ちんじゆふしやうぐんに任ぜらる。貞盛國香の子を貞盛さだもりといふ。材武ありて善く射る。左馬允さまのすけと爲る。將門良將の子將門まさかど、性桀黠けつかつなり。攝政せつしやう藤原忠平たゞひらりて撿非違使けびゐしたらんことを求む。忠平省みず。將門怒り、去りて東國にき、相馬さうまさと【相馬の里】下總りて、常陸、下總を劫掠ごふりやくす。時に國香、常陸大掾のだいじようたり。良兼下總介たり。皆將門と𨻶げきあり。天慶の亂承平中、將門つひに國香を攻殺す。將門の京師に在りしとき、甞て敦實あつみ親王【敦實親王】宇多帝子に詣る。從兵五六騎ばかりなり。たま貞盛も亦來りえつし、將門の門を出づるにふ。貞盛人に謂て曰く、「將門必事を天下に生ぜん。今日士卒をひきゐざりしを恨む。し士卒を率ゐたらば、當に之を擊殺すべし」と。是に至りて貞盛官をすてて東し、父のあたを復せんと欲す。良兼及び從弟の良正と、共に將門を攻む。利あらず。貞盛おもへらく、是私鬪なり。敕を受けて、之を討つにかずと。まさに京師に還り、請ふ所あらんとす。將門之を信濃に要擊す。貞盛大に敗れ、身を脫して京師けいしに入る。すでにして良兼卒す。將門乃下總にり、遂に常陸介藤原維幾これちかおそひ執へ、常陸を取る。興世王武藏守興世王おきよわう、兇險にして亂をよろこぶ。きて將門にきて曰く、「關東八州は沃饒よくぜうにして四塞なり。りて以て天下にたるべし。夫れ一州を取るもちうせられん。八州を取るも亦誅せられん。誅は一のみ。おもふに公いづくにかけつす」と。將門大に悅び、きて謀主となす。遂に下野、上總、武藏、相摸を攻めて、ことく之を下す。弟正平まさひら諫めて曰く、「帝王命あり、みだりこひねがふべからず。願くは之を熟圖せよ」と。將門曰く、「天我にゆるすに武を以てす。吾帝位を取る、たれか能く之をふせがん」と。乃僞宮ぎきうを下總の猿島さるしまに建て、文武百官を置く。

藤原純友初め將門まさかど、藤原純友すみともといふ者を友として善し。かつて同じく比叡山に登り、皇城をて曰く、「さかんなる哉、大丈夫まさこゝに宅す可らざらんや」と。遂にともに反を謀る。純友に謂て曰く、「他日志を得ば、吾は王族なり。當に天子と爲るべし。公は藤原氏なり、能く我が關白くわんぱくと爲らんか」と。是に至りて純友、伊豫のじようと爲る。任滿ちて還らず。海島に據りて盜をなし、以てはるかに將門におうず。ひそかに人を遣り京師に入り、火を坊市ばうしはなつ。京師戒嚴す。天慶二年時に天慶てんけい二年なり。

天慶三年三年、朝廷參議さんぎ藤原忠文たゞふみを拜して、征東大將軍せいとうだいしやうぐんと爲し、諸將を率ゐて東伐せしむ。東海、東山の兵をおこし、つのるに重賞を以てす。而して貞盛を常陸掾に任じ、兵を發して將門を討たしむ。將門之を聞きて、兵を率ゐ、貞盛を常陸にもとむれども得ず。乃其衆を散じて、獨り千餘人をて下野に至る。

藤原秀鄕下野に押領使あうれうし藤原秀鄕ひでさとといふ者あり。世〻大族たり。將門兵を起すに及びて、往きて之を見る。將門まさに髮をくしけづる。もとゞりり、出でて之を欵接くわんせつす。食を命じ共に食ふ。飯粒前につ。ひらひて之を食ふ。秀鄕、其輕卒にして、ともに爲すに足ざるを知りて、乃貞盛に從ひぬ。

貞盛、將門の備なきをうかゞひ、秀鄕と兵四千餘人を合せて、急に之を襲ふ。將門にはかに出でて之をふせぎ、大に敗る。貞盛勝に乘じてく攻む。將門之を險阻にいざなはんと欲し、走りて島廣しまひろ山に據る。貞盛其營をき、大に山北に戰ふ。將門見兵四百騎を以て死鬪す。貞盛兵をさしまねきて之にせまる。將門獨身出でて走る。貞盛叱咜しつたして追馳つゐちす。射て其右額に中つ。將門馬よりつ。秀鄕其首を斬る。天慶の亂平ぐ興世王以下、悉く誅に伏す。京獄けいごくけふす。八州皆定る。而して純友ついで平らぐ。忠文等皆みちより還る。貞盛功を以て從五位上に叙し、後從四位下に遷り、鎭守府將軍ちんじゆふしやうぐんに任じ、陸奧守むつのかみ兼ぬ。世呼びて平將軍へいしやうぐんといふ。

貞盛の子貞盛四子あり。季維衡これひら最勇なり。平致賴むねより、源賴信よりのぶ、藤原保昌やすまさと名をひとしくし、四天王してんわうと稱す。下野守に任ず。後わたくしに致賴とたゝかひ、てきせられて淡路にわたる。貞盛又從子維茂これしげを養ふ。亦勇敢維衡にぐ。維衡の曾孫正盛、武幹あり。時に平氏、源氏と並に武臣たり。而して源義家功を邊陲へんすゐて、宗黨そうとう尤强し。其長子義親、對馬守たり。九州を剽掠へうりやくし、官使を殺して、隱岐に流さる。逃れて出雲に歸り、吏を殺して貢賦こうふを奪ふ。勢甚だ猖獗しやうけつなり。是に於て正盛に詔して追討使つゐとうしとなし、驛鈴えきれいを賜ひ、兵をひきゐて之を討ち、義親と戰ひ、其首をりて、京獄に梟す。天仁元年時に天仁元年なり。

忠盛正盛、忠盛たゞもりを生む。忠盛、伊賀、伊勢の間に居る。人と爲り、一目すがめなり。大治中、山陽、南海に盜起る。忠盛追捕つゐほして功あり。白河、鳥羽とば、二上皇に事ふ。並に寵あり、得長壽院鳥羽上皇、得長壽院を建つるや、忠盛を以て役をたゞさしむ。役をはりて、但馬守に叙し、昇殿をゆるす。擧朝之をにくむ。豐明節會とよのあかりのせちゑ【豐明節會】十一月中の辰日之を行ふを以て、あんに乘じ、之をさんと謀る。忠盛曰く、「朝すれば則ちはぢかふむり、朝せざればけふとなす。其宗をはづかしむるは一なり」と。忠盛銀刀を帶して殿に昇る乃刀を帶びて入る。家人平家貞いへさだ、其子家長いへながかぶとちうして從ふ。これを訶止す。家貞對へて曰く、「主君戒心あり。臣將に之と同じく死せんとす」と。吏止むるを得ず。忠盛殿に昇り、闇にき刀をく。刀光外射す。衆大に畏れ敢て事を發せず。宴に及びて忠盛を召してまひを命ぜらる。衆歌ひて曰く「伊勢瓶子へいじ醋瓫すがめなり」と。盖し國音、瓶子は平氏に通じ、醋瓫はすがめに通ずればなり。忠盛之をぢて、宴を終へずして退く。主殿司とのものつかさを呼びて、刀を脫し之を授けて出づ。衆忠盛劍を帶び殿に上り、兵を以て自まもるを劾奏がいそうし、典刑てんけいを正さんと請ふ。上皇【上皇】鳥羽驚きて、忠盛を召して之を問ひ給ふ。對へて曰く、「臣の家人道路の言を聞き、臣に尾して來れり。臣をして知らしめず。唯陛下其罪をさだめよ。其佩刀はいたうの如きは、請ふ之を主殿司に問ひ玉へ」と。主殿司、刀を進む。木刀に銀を塗りしなり。上皇わらひて曰く、「忠盛意を用ゐるまことつとめたり。死を以て君をまもるは則武人の習ひのみ」と。遂に問ふ所なかりき。忠盛累遷して、正四位下刑部卿ぎやうぶきやうを以て、仁平中に卒せり。

忠盛の子忠盛たゞもり七子あり。淸盛きよもりつね盛、のり盛、いへ盛、より盛、忠重たゞしげ忠度たゞのりと曰ふ。而して淸盛最寵貴を極む。祇園女御初め忠盛の白河上皇につかふるや、上皇嬖姬へいきあり。祇園祠ぎをんのやしろの傍に居る。甞て夜みゆきするに雨ふること甚し。鬼の髮束鍼そくしんの如きをる。たちまちえ、乍失す。忠盛に命じて之を射さしむ。忠盛とらへて之を視るに、一老僧の麥稈むぎわらつかねて以て笠に代へ、火器をひつさげて行くこれを吹くなり。曰く、「將にともしびやしろたてまつらんとするなり」と。上皇忠盛の膽勇るべしと、ます寵あり。幸する所の宮人きうじん兵衛佐局ひやうゑのすけのつぼね、忠盛と私してはらめり、上皇即之を賜ひて曰く、「女を生まば則朕之を取らん。し男ならば、けい以て子とせよ」と。宮人免身して男を生む。淸盛是を淸盛となす。後更に妻をめとり、家盛、賴盛賴盛を生む。

淸盛出でゝ中御門なかみかど氏に依る。大治中、左衛門尉さゑもんのじやうに任ず。累遷して從四位下安藝守に至る。海に航して任におもむくとき、魚の其舟に入るあり。或人曰く、「家をおこすのしるしなり」と。

皇室是より先、鳥羽の太子ゆづりを受く。是を崇德すとく帝とす。帝の母璋子しやうし【璋子】大納言公實の女いとけなきとき、白河法皇に養はる。法皇之を鍾愛しようあいす。長ずるに及びて衰へず。頗る物議にわたる。崇德天皇鳥羽、是を以て崇德を子とし視給はず。たはむれに之をなづけて叔父兒をぢこといふ。鳥羽の寵姬を得子とくこ【得子】中納言長實の女といひ美福門院びふくもんゐんと號す。皇子體仁なりひとを生む。崇德をして養ひて太子とさしむ。四歲にして禪を受く。是を近衛このゑ帝とす。帝崩じて崇德位にふくせんことをこひねがふ。崇德の皇子重仁しげひと又長じて賢なり。中外望をぞくせり。而して美福、近衛の蚤世さうせいを以て呪詛じゆそに出づとし、乃ひそかに鳥羽にすゝめ、崇德の同母弟雅仁まさひとを立てらる。是を後白河帝とす。朝野駭然がいぜんたり。

藤原賴長崇德、憤恚ふんいして、左大臣さだいじん藤原賴長よりながを召して、之に語るに情を以てす。賴長慧黠けいけつなり。世惡左府あくさふと稱す。兄の忠道たゞみちと權を爭ひこゝろよからず。上皇をして位にふくせしめて、己れへいを專にせんと欲す。乃慫慂しようようして兵を擧ぐ。物情恟然きようぜんたり。

保元元年保元元年七月、法皇崩ず。即夜これを葬る。上皇遂に兵を擧げて、白河殿しらかはでんる。保元の亂爲義ためよし等、これにぞくす。法皇【法皇】鳥羽豫め變あるをはかりて、諸將のまさに召すべき者を遺命ゆゐめいす。淸盛あづからず。盖し忠盛の夫妻ふさい、重仁にたるを以てなり。美福曰く、「いづくんつよきこと平宗へいさうの如くにして、召さゞること有んや」と。遂に之を召す。淸盛其宗を擧げて召に應ず。叔父忠政たゞまさは獨上皇【上皇】崇德の宮に赴く。淸盛の義子基盛、撿非違使けびゐしたり。上皇の黨、源親治ちかはるを宇治にてとりこにす。已にして源義朝よしともに敕して白河殿を攻めしめ、淸盛等をとゞめて、宮をまもらしむ。少納言せうなごん藤原通憲みちのり奏して、淸盛をして同く往かしむ。淸盛の長子を重盛と曰ふ。父に從ひて其西門を攻む。西門の將源爲朝ためとも善く拒ぐ。我が先鋒の二將其れに射殺さる。淸盛曰く、「吾れ命を受くる必しも此門ならず」と。重盛がへんぜずして曰く、「敵をえらびて進むは、豈武臣の爲す所ならんや、兒請ふ之に當らん」と。淸盛兵士をして重盛を擁止し、ともに共に南門を攻めしむ。白河殿陷る。上皇出で走りて如意山によいさん【如意山】京都の東に入り、髮をりて南都に奔る。みちにして執へられて讃岐に遷さる。賴長流矢ながれやに中り、已にして自殺す。帝淸盛に詔して、爲義を捕へんとすれども獲ず。忠政【忠政】淸盛の叔父出でて淸盛に依り、降を乞ふ。ゆるさずして之を殺す。朝議因りて義朝をして爲義を殺さしむ。

淸盛を以て播磨守となし、太宰大貳だざいだいに超遷てうせんす。重盛以下賞を受くる差あり。始め甲第かふだい六波羅ろくはらおこす。

平治の亂
義朝
義朝、平氏の聲望せいばう己が上に出づるを視て、心常に之をにくむ。藤原通憲【藤原通憲】信西、淸盛の女をめとりて婦となす。亦義朝と𨻶あり。通憲、大議に參與し、釐正りせいする所多し。帝、位を太子に授く。是を二條帝とす。而して上皇【上皇】後白河なほ政を聽く。政、通憲に在り。上皇の嬖人を藤原信賴のぶよりと曰ふ。近衛こんゑの大將たらんことを求む。上皇之をゆるさんと欲す。通憲かず。因りて唐の安祿山あんろくざんの事跡をしてたてまつり、以て之をふうす。信賴慙恨ざんこんし、乃義朝と深く相結納し、ひそかに亂を作さんことを謀る。藤原經宗つねむね、藤原成親なりちか、藤原惟方これかたみな其謀にあづかる。謀旣に定まる。而れども淸盛を畏れて敢て發せず。

平治元年
淸盛熊野に詣
平治元年冬、淸盛、重盛、筑後守家貞等五十人を率ゐて熊野にまうづ。行きて切部きりべに至る。六波羅の使者來り吿げて曰く、「昨夜信賴、義朝、源賴政、源光基等と、兵五百を率ゐ、三條殿でん【三條殿】皇居を圍みて之を燒き、並に少納言通憲のていを燒く。殺傷算なし。遂に上皇及び主上を禁內きんだいいうし、少納言も亦害にふ」と。衆愕然がくぜんたり。淸盛曰く、「之をすこと如何いかん。宜しく熊野に到り之をはかるべきか」と。重盛曰く、「武臣天子のきうに赴く、何ぞ猶豫を爲さん」と。淸盛曰く、「よろひなきを何如せん」と。家貞曰く、「臣豫め是事あるを慮る」と。其擔を開きて甲冑かつちう五十を出す。器械きかい弓箭きうせんれにかなへり。衆乃結束して北にかへる。已にして源氏の兵阿部野あべのに要するを聞く。淸盛曰く、「彼は衆、我は寡。我れ且之を四國にけて、以て再擊を謀らん」と。重盛曰く、「失ふべからず。今を失ひてたずんば、彼まさに我よりさきんぜんとす。我寡にして敗るとも、何の恥か之あらん。今日の事、死あるのみ」と。淸盛曰く、「吾が志决せり」と。衆をひきゐてく馳す。未だ阿部野に至らざるに、一騎にふ。衆おもふ、源氏の使ならんと。騎至りて曰く、「六波羅より至る。六波羅の兵、を迎へてげんに阿部野にあり。請ふ速に歸れ」と。衆相喜慶し、踴踊して京師に入る。是の時に當りて、信賴自ら大臣大將となり、義朝以下皆官に拜せらる。信賴、衣冠乘輿に僭擬せんぎし、百官の上に坐し、庶政を聽斷す。百官敢て仰ぎ視る者莫し。藤原光賴獨左衛門のかみ藤原光賴屈せず。會議に因りて信賴をくじく。其弟惟方これかたつとめしめて、二宮にのみやを護り、以て淸盛を待つ。

淸盛旣に還る。信賴之を聞きて諸門の守兵しゆへいを益す。淸盛其備をおこたらせんことを謀り、乃名簿を信賴に致して、以て他なきを示す。淸盛、帝を拔かんと計り、乃惟方と謀を通じ、よる火を二條大宮にはなつ。守門の兵、まもりてて之を救ふ。天皇乃皇后と同車し、衣をかふむり、伏して藻壁門さうへきもんを出でらる。惟方從ふ。門者誰何すゐかす。惟方曰く、「宮人なり」と。門者、車中にともしびして曰く、「可なり」と。旣に出づ。重盛、騎三百をて途にむかえつし、天皇六波羅へ行幸奉じて六波羅に入る。百官あつまる。關白藤原基實も亦至る。衆、其妻は信賴の妹なるを以て之を疑ふ。或人淸盛に吿げて曰く、「關白至る」と。淸盛曰く、「此れ大臣なり、假令たとひ來らざるも、吾もとよりまさに召さんとす」と。衆、こゝろすなはちやすんず。已にして上皇、又仁和にんな寺に逃る。しかれども信賴等は乃大內にれり。

淸盛討賊帝、淸盛を召し、命じて賊を討たしむ。且之を戒めて曰く、「宜しくいつはりて退き走り、賊をいざなひて宮を出すべし。宮闕きうけつをして兵燹へいせんかゝらしむる莫れ」と。淸盛對へて曰く、「臣逆賊を誅すること、之をたなごゝろに指さすが如し。以て天心を勞する勿れ。後命のごときに至りては、臣甚だ惑ふ。然りと雖も敢て心をつくさずんばあらず」と。乃兵三千騎をろくして、重盛、敎盛、賴盛をして之に將たらしめ、兵を分ちて大內に赴かしむ。賊は承明しようめい建禮けんれいの二門を開き、陽明やうめい待賢たいけん郁芳いくはうの三門をとざし、白旗二十餘流よりうて、之を守る。我が兵望み見て色動く。重盛重盛兵をはげまして曰く、「年は平治なり。地は平安なり、而して我は平氏なり。天、吉兆を示す。勝を獲ること必せり。汝が輩努力どりよくせよ」と。乃其兵を分ちて二となし、一を大宮のちまたに留め、其一を以て待賢門にき、大に呼びて戰を挑む。信賴おそれて馬よりつ。重盛門をはいして入り、大庭おほには椋樹むくのきの下に至り、義平義平よしひらと大に紫震殿ししんでんの前に戰ひ、七たび櫻橘樹あうきつじゆめぐり、出でゝ大宮巷に至り、弓をつゑつきて以ていこふ。平家貞之を目して曰く、「平將軍再び生ずと謂ふべし」と。重盛兵をへてまた入る、義平呼びて曰く、「我は源氏の嫡子ちやくし、公は平氏の嫡子なり。宜しく與に死を决すべし」と。重盛曰く、「諾哉よいかな」と。乃進み戰ひ且退く。二卒の景安、家泰と、共に走る。義平及び鎌田政家かまだまさいへ之を追ひて二條のほりに至る。重盛ほりゆ。政家之をて、肩及びつ。甲堅くして入らず。馬を射る。馬倒れてかぶと墜つ。政家之にせまる。重盛ふせぐに弓を以てし、冑を取りて之をかふむる。景安至り、政家をちてたふし、義平に殺さる。重盛怒りて親らたゝかはんと欲す。家泰進みて義平と相搏ち、政家に殺さる。重盛かんを得て走る。是時に當りて、賴盛等、郁芳門を攻め、義朝と戰ひて退き走る。義朝の卒に、善く走る者八町二郞あり。鐵搭てつたふを以て其冑にこうす。賴盛、刀を拔きて搭をる。二郞あふぎ仆る。賴盛走る。源氏の兵、宮を空くして出づ。

敎盛のりもり、乃千騎を以て、よこより大內に入り、諸門をとざして之を守る。義朝よしとも義平よしひら獲る所無くして宮に還る。宮みな赤旗せきゝとなる。進退據る所を失ひ、進みて六波羅を攻む。淸盛、乃北臺に上りゆかに踞して指麾しきす。賊兵沓至たふしす。官軍逡巡しゆんす。賊勝に乘じて進む。、內戶に及ぶ。淸盛怒りて馬に上り、大に呼びて馳せ出でゝみづから敵陣を突き、兵をかへ交々かはる進む。賊遂に大に敗走す。淸盛乃大內に入り名簿を收め、笑ひて曰く、「きのふあたけふ取る、何ぞ速なる」と。乃兵を分ち賊を追ふ。義朝は關東に走り、信賴は仁和寺に至りて、哀を上皇に乞ふ。上皇爲に之を帝に請ふ。帝許し給はず。重盛曰く、「即之をゆるせ、彼れ何をか能く爲さん」と。淸盛曰く、「首惡誅せざる可らず。且帝の命を如何せん」と。乃敎盛をつかはし、兵を引きて仁和寺を圍ましめ、信賴及び其黨源師仲ひろなか、藤原成親なりちか等五十餘人をとらへ、信賴を六條かはらに斬る。重盛、敎盛、成親と姻あり。乞ひて之をゆるす。

帝、淸盛の戰功を賞し、其子弟の官爵を進む。義朝誅せらる尾張の人長田忠致をさだたゞむね、義朝を誅し、其首を獻ず。之を獄門に梟す。賴盛の將平宗淸むねきよ、亦義朝の少子賴朝よりともを捕へて至る。將に斬らんとす。宗淸むねきよ之をあはれみ、池尼いけのあまに因りて宥されんことを請ふ。池尼は賴盛の母、淸盛に於ては繼母まゝはゝたり。淸盛聽さず。尼怒りて曰く、「刑部卿げうぶきやう在らば汝いづくんぞ我が言をあなどるを得んや」と。重盛、賴盛と固く請ふ。乃死一等を减じ、伊豆に流す。義平、服を變じて京師に入り、淸盛を狙擊せんとす。淸盛之を覺り、捕獲して之を斬る。平氏の威天下に振ふ平氏の威天下に振ふ。

肥前の人日向通良ひなたみちよし亂をす。平家貞を遣し之を討ちたひらぐ。

是時に當りて、政、上皇【上皇】後白河に在り。藤原經宗、藤原惟方、帝に勸めて政を親らせしむ。兩宮こも惡し。上皇、淸盛を引きて自たすく。永曆元年永曆元年、上皇、淸盛を正三位に進め、參議さんぎに任ず。淸盛、乃上皇の旨を奉じて、經宗、惟方を收執す。帝甞て故近衛帝の后をれて中宮となす。世之を二代のきさきと呼ぶ。淸盛二人の諫めずして、帝を惡に陷るゝを以て罪となし、之をらんと欲す。前關白さきのくわんぱく忠通たゞみちすくく。乃死を宥し流に處す。明年、淸盛累遷して權中納言ごんちうなごんに至る。六年
淸盛等昇進
六年、遂に從二位に進み、權大納言に任ず。重盛正三位參議に至る。

永萬元年永萬元年、秋、帝崩ず。諸寺の僧徒葬に會す。延曆えんりやく園城をんじやうの二寺、禮を爭ひて鬪はんと欲す。上皇源賴政を召して自まもる。訛言あり、上皇、平氏をはかると。平氏大に驚き、兵を聚めて自守る。重盛曰く、「事必妄なり。請ふ、法住寺はふぢうじに往きて親ら之を驗せん」と。法住寺は、上皇の宮なり。乃往く。みちに上皇の來りて平氏の第に幸し、口づから解諭ときさとし玉はんと欲するに遇ふ。因りて扈還す。淸盛、病と稱し出でず。重盛入りて諫めて曰く、「大人宜しく出でゝえつすべし。吾が宗、功ありて罪なし。事何んぞにはかこゝに至らんや。大人愼みて之を辭色にあらはす勿れ。しからざれば則ざん或は因りて以て入らん。苟くも吾忠直を執らば、何渠なんぞ人言を畏れんや」と。淸盛之をよしとすれども、つひに出でず。上皇かへり左右に謂て曰く、「訛言誰か之を使せしむるものぞ」と。西光藤原師光もろみつすゝみて曰く、「天これをいはしむるのみ」と。衆敢てこたふる者なし。師光は阿波の人、甞て狡黠かうかつを以て、藤原通憲みちのりに愛使せらる。後髮を剃り西光さいくわうと稱す。院の北面たり、すこぶる寵あり。心、平氏の驕恣をにくむ。しば間につかへまつり、上皇に說く。

六條天皇是時太子嗣いで立つ。是を六條帝とす。帝いとけなし。政、復上皇に歸す。上皇の寵后滋子しげこ【滋子】兵部大輔時信の女は淸盛の妻時子の妹たり。憲仁のりひとを生む。上皇之を立てんと欲す。仁安元年仁安元年、淸盛を以て正二位に叙し、內大臣ないだいじんに任ず。二年二年、遂に從一位に至り、太政大臣だいじやうだいじんのぼる。隨身ずゐしん兵仗ひやうぢやうを賜ひ輦車にて宮に入るをゆるす。敕していふを播磨、肥前、肥後に賜ひ、大功田と爲してよゝつがしむ。重盛、從二位に叙し、權大納言に任ず。劔を帶して殿に昇るを聽す。次子宗盛、從三位に叙し、參議に任ず。三年三年二月、憲仁、ゆづりを受く。はじめて五歲なり。高倉天皇是を高倉帝とす。帝の母【帝の母】寵后滋子の兄、大納言時忠ときたゞ、衆に謂て曰く、「方今天下の人、平族へいぞくに非ざる者は、人に非ざるなり」と。是の時に當り、平族の朝官たる者、六十餘人。其采邑三十條州にまたがる。朝政ことく淸盛に决す。淸盛疾あり、詔して非常のしやを行ひて、以て之をいのる。淨海旣にして淸盛髮を削り淨海じやうかいと稱す。別第べつていを西八條におこして居る。わらは三百を選び、異服を服せしめ、京城の內外に散布し、誹謗する者を察してすなはち法に處す。京師目をそばだつ。上皇積みて平かなる能はず。嘉應元年嘉應元年、上皇髮を削り、法皇と稱す。平氏益々よこしまなり。

資盛重盛の次子資盛、數騎と出でゝかりし、途に攝政せつしやう藤原基房ふぢはらもとふさふ。馬よりりず。たゞちに其衛を衝く。衛士ゑじ捽みて之をおろす。重盛、資盛の無禮を責む。基房基房、衛士を縛送して以て謝す。重盛其ばくきて、勞して之を遺る。淸盛之を聞き、怒りて曰く、「今日に當りて、誰か敢て淨海の孫を辱むる者ぞ。必之に報いん」と。重盛諫めとゞむ。淸盛聽かず。三百人をせて、基房を路に要して其車を摧折さいせつし、從者のもとゞりを切る。帝因りてまつりごとめらるゝこと三日。重盛、資盛を追ひて伊勢に之かしむ。

承安元年承安元年、淸盛、其女德子とくこ【德子】建禮門院を進めて女御によごと爲し、遂にてて中宮とす。四年四年、右近衛大將うこんゑのたいしやうく。重盛奏し請ひて自ら之を拜す。治承元年治承元年、左近衛大將に轉じ、いで內大臣に拜す。小松の第に居る。弟宗盛、右近衛大將となる。已にして正二位に進む。朝臣擧りて平氏をねたむ。藤原成親なりちか、權大納言を以て法皇の執事となる。重盛、其妹を娶りて子の維盛を生む。又其女を娶りて子の婦とす。成親の子成經なりつね、敎盛のむすめを娶る。然して成親、殊に大將と爲るをこひねがふ。しかれども得ず。居常憤々ふんたり。成親即平氏を討たんとす遂に平氏をほろぼさんことを圖る。乃西光さいくわうともに謀り、行綱藏人くらんど行綱ゆきつなを饗し、ひそかに之に語りて曰く、「平氏の專恣なること、の目する所なり。吾れ院勅を受けて、ひそかに之を圖る。而して未だ將率しやうすゐを得ず。子は源氏のちうなり。なんぞ我將と爲りて、殊功を成し、顯位を取らざる」と。行綱之を諾す。成親遂に撿非違使けびゐし康賴やすより式部大輔しきぶのたいふ藤原章綱あきつなさきの近江守源成まさ等に結ぶ。又法勝寺の執行しゆぎやう俊寬しゆんくわんに結ばんと欲し、しば之に酒をのましめ、姬人をして侍せしめ、因りて間に乘じて之にく。鹿谷の會合鹿谷しゝがたにの別舘に會して事を計るや、宴たけなはにして馬いつす。坐者驚き起ち、あやまちて瓶子へいしたふす。成親曰く、「平氏仆る」と。西光曰く、「なんぞ其首をけうせざる」と。康賴進みて曰く、「首を梟するは、撿非違使の任なり」と。瓶を取りて之を柱上に懸く。一坐大に笑ふ。成親因りて策を建てゝ曰く、「祇園ぎをんの祭日、京市雜沓ざつたふすべし。此時に乘じて火を平氏の第にはなちて、く之を攻めば、以て逞しくすべし」と。乃行綱に布五十匹をおくり、諸將の向ふ所を部署す。未だ發せず。

西光の子師高もろたか、加賀守となる。其目代もくだい師經もろつね白山はくさんの僧徒とたゝかふ。僧徒來りて之を延曆寺にうつたふ。延曆寺の僧徒、之と兵を合せて京師に入りて、闕を犯す。重盛三千騎を以て宮門をまもり、擊ちて之をしりぞく。山徒服せず。かへりて再擧を圖る。法皇、平時忠をして往きて之を諭解せしむ。五月、師高、師經をめて之を流す。西光慙恨す。明雲終に叡山の坐主ざす明雲みやうゝんを法皇に間して、に處す。明雲素より淸盛と善し。淸盛爲に奏して之を救ふ。省ず。已にして山僧明雲を奪ひ還る。法皇怒りて、諸將士に敕して之を討たしむ。淸盛敕を奉ぜず、則更に成親に敕す。成親大に喜び、因りて兵をあつむ。

行綱自首行綱、自はかる事つひに成らじ、自首するにかずと。乃、夜馳せて西八條におもむく。淸盛福原に在りと聞きて、又赴き、まのあたり事を吿げんと請ふ。淸盛出でて之に面す。行綱曰く、「院中兵を集む。君其由を知るや」と。淸盛曰く、「山徒を攻めんと欲するのみ」と。行綱進みて其耳に附け、語りて曰く、「否々いな、事貴族にかゝる、嚮日きようじつ新大納言【新大納言】成親にはかに行綱を鹿谷しゝがたにに要す。謀云々。聞く法皇も亦親ら臨まんと欲す。法印はふいん靜憲じやうけん之を諫むるに因りて止む。事已に此に至る。敢て吿げずんばあらず」と。淸盛大におどろき、たゞちに京師に歸り、悉く子弟宗族を召し、撿非違使阿部あべ資成すけなりを遣し、院中【院中】後白河法皇の宮に就きて奏して曰く、「凶徒ありて臣の宗を滅さんと圖る。臣まさとらへて之をたゞさんとす。然れども事必もとあらん。是を以て敢て奏す」と。法皇、色を失ひ、答へらるゝ所を知らず。

西光乃西光をばくして至り、階下かいかひざまづかしむ。淸盛叱して曰く、「下奴げど、過分の寵をたのみて、無罪を構陷し、又敢て我が家を危くせんと欲す」と。西光笑ひて曰く、「なにをか過分と謂ふ。公の父但馬守は朝官のよはひするをづる所。公は其嫡子たり。常に高履たかあしだきて中御門なかみかど氏に伺候しこうす。人呼びて高平太たかへいたと曰ひき。十八九のころ、海賊二十人を捕へし功を以て、四位兵衛佐ひやうゑのすけと爲れるを、人以て異數となせり。而今いま太政大臣だいじやうだいじんに至る。是れ之を過分と謂ふのみ」と。淸盛大に怒り、をどり起ちて其面をる。痛く之を掠治して、實を得たり。命じて其口をかしむ。

又人をして成親を召さしむ。成親未だ事のあらはるゝを知らずして曰く、「平公山徒をゆるさんと欲して、吾をして法皇に請はしむるのみ」と。乃往く。西八條に及ぶころ、甲士の繹騷えきさうするを見て、心驚き、門に入るに及びて、平氏の士難波經遠なんばつねとほ妹尾兼康せのをかねやす耦進ぐうしんしてこれをとらへて、小室に囚し、將に昏を待ちて之を殺さんとす。成經、康賴以下、皆逮捕せらる。久しくして重盛至る。衆迎へてこれに謂て曰く、「大事あり。公來る何ぞおそき」と。重盛曰く、「是れ私事なり。何ぞ大事と言はんや」と。入りて淸盛に謂つて曰く、「大納言を殺さんと欲すと聞く。願くは之を再思せよ。兒豈姻戚を以て爾云はんや。彼れは名族たり。君の寵を受く。未だ私怨を用ゐて殺す可からず。往時少納言信西死刑を興行して、惡左府あくさふ【惡左府】賴長はかあばけり。二歲ならずして、信西の墓も、亦藤原信賴に發かる。善惡の應ずる、殃慶あうけい立どころに至る。願くは之を再思せよ」と。出でゝ經遠、兼康を見て、其亡狀をめ、因りて之を戒めて曰く、「愼みて我が公をして怒に乘じ、悔にいたらしむる勿れ」と。乃歸る。敎盛も亦成經の爲に固く請ふ。皆死を减ずるを得たり。

淸盛忿怒而して淸盛怒り自らへず。乃就きて成親を見る。成親首をる。淸盛呼びて之をあふがしめて曰く、「公のかほにくむべし。公は當に平治に死すべき者、內府ないふ【內府】重盛の請ひに因りて之をゆるす。祿位並にたかし。何を苦みてそむくぞ」と。成親曰く、「僕何ぞあづかり知らんや。事必讒口に出づるならん。僕、貴族に於て何の怨むる所ありて敢て倍畔せんや」と。淸盛、左右をかへりみて、西光の狀を取り來らしめ、乃自讀むこと二過して曰く、「猶あづかり知らずと言ふか。公の面憎むべし」と。其狀を以て成親の面になげうちて入り、經遠、兼康をして成親を拷掠がうりやくせしむ。二人重盛を畏れ、成親を庭に下し、其耳に附して曰く、「我が公かべへだく。君たゞ叫號けうがうせよ」と。二人地を擊つ。成親すなはち叫ぶ。淸盛曰く、「可なり」と。

淸盛述懷是に於て、淸盛乃甲を被り長刀を執り、出でゝ平貞能さだよしを召して曰く、「すみやかに將士を戒めよ。今擧朝の人、我をにくみて我をはかる。盖し、我が官爵の分をゆると謂ふのみ。在昔田村丸は微者びしやなり。東夷を下したる功を以て、大將に超拜てうはいす。他も此に類する者多し。豈獨淨海のみならんや。淨海の勤勞一日に非ざるなり。保元の變に我宗族大半新院【親院】崇德上皇に赴けり。且重仁しげひと親王【重仁親王】崇德帝の子は我父の覆育ふくいくせし所なり。而るに我は故院【故院】鳥羽法皇遺詔ゆゐしやうを思ひ、獨官軍にぞくし、終に亂逆に克ち平ぐ。平治の變に、信賴、義朝の猖獗しやうけつなる、吾にして自愛せば、事未だ知る可からず。めいを重んじ躬を輕んじ凶黨を夷滅して、以て經宗つねむね惟方これかた等を收むるに至る。しば大難ををかす。官家の爲にするに非ざるものなし。此を以て之を言へば、官家の恩宥おんいう、子孫に窮むと雖も可なり。今乃かろしく讒言を信じて族滅せられんと欲す。し吿ぐる者なければ、豈危殆きたいならずや。異日細人、再、言を進むる有らば、則、宣を下し我を討ち、我をなづけて賊とせん。悔ゆ可らざるなり。吾先づ發して之を鳥羽の宮に移さんと欲す。しからざれば此に幸するを請はんのみ。北面の奴輩どはい或は且我をふせがん。すみやかに將士を戒しめよ」と。

主馬盛國しゆめのもりくにといふ者あり。馳せて重盛に吿ぐ。重盛、大に驚き、急に駕を命じて之に赴き、第門に入る。族人皆甲をつらぬき、馬にくらし、旗幟きし列を成し、將に起たんとす。重盛、烏帽ゑぼし直衣なほしにて入る。宗盛其袖をたゝきて曰く、「公は何を以て甲をかうむらざる」と。重盛睨して曰く、「汝等何を以て甲を被る。敵人いづくに在りや。吾れ大臣大將たり。寇賊闕を犯すこと有るに非ざるよりは、則甲を被る可らざるなり」と。淸盛之を望み見て、にはかに起ちて黑衣こくえを表して出づ。しばえりを正うすれども、襟せまくして甲あらはる。重盛に謂て曰く、「吾れ西光の狀を察するに、成親等の如きは乃其枝葉のみ。まゝ群小彙進ゐしんして、覬覦きゆすること已まず。而してぎよするに輕躁の君【輕躁の君】後白河法皇を以てす。何ぞ至らざる所あらんや。我れ且、一邊に幸せんことを請ひて、以て事の定るを待たんと欲す」と。語未だ畢らざるに、重盛なんだ數行下る。之を久しくして言て曰く、重盛諫旨「重盛、尊貌を熟視するに、吾が家門すで衰運すゐうんに屬するを知れり。重盛これを聞く、世に四恩【四恩】天地、國主、父母、衆生の恩あり皇恩を最とす。抑我門は桓武葛原かつらはらの胤をかたじけなくすと雖も、而れども降りて人臣と爲り、中ごろ微にしてあらはれず。平將軍の功を以てすら、國守となるに過ぎず。刑部卿、內昇殿ないしようでんを聽されし時、萬人反唇はんしんせり。大人に至るに及びて、乃太政大臣にのぼる。兒の不肖を以て且大臣大將を辱くす。宗族朝廷にならちて、田園天下に半なり。恩をむさぼること極れり。官家のにくむ所たり。誰か宜ならずと謂はんや。而れども運命未だきず。讒人旣に獲たり。宜しく罪の當る所を論じて、退きて事の由をぶべし。則公家、あに威をはらさゞる有らんや。何ぞ必しも草々に爲さんや。兒、また之を聞く、『王事を以て家事を辭し、家事を以て王事を辭せず』と。况や善惡較著なる者をや。重盛六位より三公に至る。君恩に沐浴する、擧ぐるに勝ふ可からず。嚮背の决、自、在るあり。素より撫循ぶじゆんる所の士、重盛の爲に死を願ふ者、二百餘人あり。保元の亂に、源下野守、敕命を以て六條判官はんぐわんを斬りき。兒當時そのときに在りて、以て大逆無道、言ふに忍びざる者とせり。此れ大人親らる所に非ずや。忠ならんと欲すれば則孝ならず。孝ならんと欲すれば則忠ならず。重盛、進退、此にきはまる。生きて是うれひるより死するに若かず。大人必今日の擧を遂げんと欲せば、先づ重盛の首をねて、然る後發せよ」と。且言ひ、且泣く。坐を擧げて感動す。淸盛曰く、「淨海、衰老を以て此擧を爲すは、一身の爲に計るに非ず。たゞ子孫を慮るのみ。乃以て不可と爲さば、汝好く之を計れ」と。乃起ちて內に入る。

重盛顧みて、諸弟をめて曰く、「今日の事、縱ひ公をして老耄して事を發せしむるも、子等何ぞ匡救せずして、乃之を慫慂するや」と。出でて將士をいましめて曰く、「公に從ひて院に赴かんと欲する者は、重盛のかうべを刎ぬるを見て、然して後行け」と。乃小松の第に還る。

旣に夜となり、憂慮してく能はず。是に於て令を出し兵をして曰く、「大事あり、速かに來り會せよ」と。衆相吿げて曰く、「沈重の人、此の如き令を出すは、必ずよし有らん」と。是に於て爭ひて之に赴く者、一夕に二萬餘騎なり。而して西八條復一人無し。重盛、乃家貞、貞能をして往きて淸盛を護らしむ。淸盛問ひて曰く、「小松の第何に由りて兵をす」と。二人對へて曰く、「院、內府に宣して曰く、『汝が父、君思を忘れて、國家を亂さんと欲す、汝に命じて之を征伐せしむ』と。內府、きみの自ら急にするを慮りて、臣等をして來りまもらしめて曰く、君これを安んぜよ。重盛在りまさに身を以て請ふべし」と。淸盛、惶懼して曰く、「我が爲に內府にげよ。吾れ前途已に迫る。事を事とせず、唯卿、これを令せよ」と。二人還り報ず。重盛、漣然として曰く、「父をして此語を爲さしむ。吾罪大なり」と。乃みづから臨み兵を勞して曰く、「汝等召に應じて即來る。眞に平生にそむかず。而れども事謬傳に出づ。宜しくすみやかめ去るべし。後緩急有らば、幸にこれに狃ふなかれ」と。因りてことめ去る。法皇之を聞きて泣きて曰く、「重盛怨に報ずるに恩を以てす。人をして慙愧せしむ」と。

すでにして淸盛、武士をして西光を咼【咼】肉を削り骨に至るせしむ。並に師高もろたか師經もろつねを殺し、成親を備前に流す。後、人をして之を殺さしむ。成經、康賴、俊寬しゆんくわん硫黃ゆわう【硫黃島】薩摩はなつ。敎盛のりもり常に成經に餽遺す。成經之を二人に分つ。因りて乏からざるを得たり。

治承二年二年、中宮妊す。淸盛、身みづか嚴島いつくしま【嚴島】安藝の神にいのりて、皇子を得んことをこひねがふ。敎盛、乃重盛に因りて、赦令を下さんことを請ふ。成經、康賴、歸るを得。俊寬、終に島中に死す。安德天皇降誕十一月、中宮まさに產せんとしてなやみ給ふ。人或は成親、俊寬のたゝる所と謂ふ。衆僧をしてはらはしむ。法皇【法皇】後白河乃爲にきやうむ。つひに分身して皇子を生む。淸盛喜極りてき、金綿を獻じて之を謝す。法皇よろこばず、其謝書をなげうちて曰く、「朕を驗者けんじやとし視るか」と。三年三年、立ちて皇太子と爲る。淸盛、驕恣益〻甚し。重盛日夜憂惧す。一日淸盛誅せらると夢む。めて泣く。たま維盛至る。之に酒を飮ましめ、さかなに刀を以てす。因りて、維盛おもへらく、是小烏こがらすと。小烏は、平家傳家の寶刀なり。受けて之を視るに、乃無文刀にして、葬る時おぶる所のものなり。乃色を變ず。重盛曰く、「とがむる勿れ、公をして終をくせしめば、吾將に佩びんとす。今之を汝に賜ふ。汝後まさに之を知るべし」と。五月、重盛、熊野の祠にいたりて死を祈り、歸りて、瘍疾ようしつを獲たり。宋醫適醫の宋より至るあり。淸盛治せしめんと欲す。重盛辭するに、國體を失ふを以てす。且曰く、「兒の疾を獲るは、命なり」と。遂に治せしめず。法皇其疾を臨み視る。重盛薨去三月にして遂に薨ず、年四十二なり。法皇、攝政基房と議して、其封戶を收む。たま中納言闕けたり。淸盛の婿むこ藤原基通任に當る。而るに基房の子師家之に任ぜらる。はじめて八歲なり。

太政入道是時、淸盛、福原に在り。十一月、地大に震ふ。京師相驚きて曰く、「太政入道來らん」と。已にして淸盛、數千騎を以て京師に入る。基房入りて泣きて法皇に訴へて曰く、「淸盛來り怨を臣に修めんと欲すと聞く。果して竄流せられん。復左右に奉ずること能はざらん」と。法皇曰く、「朕と雖も亦自ら保んずる能はざるなり」と。明日、法印靜憲じやうけんをして、往きて淸盛をさとさしめ、且其意を問はしむ。淸盛見ず。昏に及ぶまで答ふる所なし。靜憲去らんと請ふ。淸盛、子の知盛をして出でて答へしめて曰く、「臣おいたり。復た君に事ふる能はず。此の如き耳」と。靜憲わしり出で、颺言して曰く、「賢相の明德なる、天に跼まり地に蹐す」と。淸盛之を聞きて、召し返へして之に面して曰く、淸盛述懷「子は鹿谷しゝがたにみゆきを諫め止むる者と聞く。吾れ是を以て子を見るなり。抑我が家、何ぞ官家に負く所あらんや。重盛新に死すれども、遊幸自如たり。獨老夫をあはれまざるか。重盛危を見て命を授くること數〻なり。官家之に越前を賜ひて曰く、『汝の子孫に傳ふ』と。而るに死すれば即うばはる。死者何の罪かある。且吾基通の爲に、中納言を請ふこと再三せり。而るに師家に超拜せしむるは何ぞや。凡そ淨海の如き者は、即過惡くわあく有りとも、まさいう七世に及ぶべし。今臣の餘命幾ばくもなきに、やゝもすれば誅せられんとす。身後の事知る可きなり」と。言をはなみだを垂る。靜憲も亦泣く。少焉しばらくありて說くに大義を以てし、且之を慰藉す。淸盛意すこぶけ、禮して之をる。旣にして帝に奏して、基房をおとし、代ふるに基通を以てし、師家以下四十三人の官爵をけづり、前太政大臣さきのだいじやうだいじん藤原師長もろながを流し、宗盛むねもりをして、衆を率ゐて法皇にいたらしむ。法皇問ひて曰く、「まさに遠地に流んとするか」と。宗盛曰く、「敢て然るに非ざるなり。しばらく鳥羽殿に幸して以て事の定まるを待ち玉へ」と。法皇を鳥羽殿に移す遂に之を鳥羽に移す。靜憲請ひて從ふ。淸盛乃人をして帝にまをさしめて曰く、「今後諸政は陛下之をみづからし玉へよ」と。即日福原に還る。

治承四年
安德天皇即位
四年二月、帝、位を皇太子にゆづる。世其淸盛の意に出づと稱す。淸盛の夫人時子旣に二位をはいし、髮を削り、二位尼と稱す。是に於て夫妻並に三宮さんぐう【三宮】太皇太后宮、皇太后宮、皇后宮じゆんぜらる。

三月、上皇じやうくわう【上皇】高倉嚴島いつくしまに幸して、淸盛の意を解かんことを希はんとす。發するに臨みて、法皇はふわうまみゆ。法皇の鳥羽とばうつさるゝや、中外の人、皆宗盛むねもりの其亡兄に若かざることをとがむ。宗盛しば淸盛を諫めて、乃法皇を八條烏丸に還し奉る。

五月、熊野の別當變をたてまつる。吿ぐるに以仁王もちひとわう【以仁王】後白河帝の第二子高倉宮と號すれいを下し、東國の源氏を擧げて、平氏を滅し帝を廢して自ら立たんと欲す。曰く、「事成らば重賞あらん」と。那智なち新宮しんぐうの僧徒も、亦之に應ずと。以仁王平家を滅さんとす淸盛大に驚き、兵を率ゐて京師に入り、公卿と共に議す。檢非違使けびゐし源兼綱みなもとかねつなを遣し、官兵を以て、高倉宮たかくらのみやかこましむ。まさわう土佐とさに徙さんとするなり。賴政兼綱の父賴政よりまさ、王の謀主たり。平氏未だ之を知らず。賴政急に王をして、先づ奔り圓城寺をんじやうじの僧徒にらしめ、而して自子弟を率ゐて之に從ふ。淸盛之を聞き、怒りて曰く、「吾、甞て賴政を奏して、三位さんみを授け、昇殿をゆるさしむ。何ぞ我れにそむくや」と。淸盛のしやう藤原忠淸ふぢはらたゞきよ、策を獻じて曰く、「叡山、南都の僧兵皆王に應ずと聞く。我れ前後に敵を防ぎ、曠日彌久、諸國の源氏來り會せば、勝敗未だ知る可からざるなり。よろしく速に院宣ゐんせんを山徒に下し、因りてくらはすに利を以てすべし」と。淸盛之に從ふ。山徒乃王にそむく。王、南都に奔る。宇治戰淸盛、子の重衡しげひら等を遣し、二萬騎を將ゐて、宇治河に追擊す。王、平等院びやうどうゐんに入り、橋を斷ちて軍す。僧徒善くたゝかふ。我が將平盛淸、兵を分ちて、河內より進み、敵の前路を遮らんと請ふ。足利忠綱下野の人足利忠綱あしかゞたゞつな、進みて曰く、「我が家甞て秩父氏ちゝぶしと、利根とね河をさしはさみ相挑む。未だ甞て流をわたりて戰ひを决せずんばあらず。今日の利、速に戰ふにあり、何ぞ猶豫を爲ん」と。乃手下三百騎を以て先づ渡る。令を下して曰く、「駿者を上にし、駑者を下にし、淺にりて、深にはなち、其步卒はたがひに相提挈し、或は溺るゝ者は、ゆはずを授けて之をたすけよ」と。令畢りて濟る。一人をもうしなはず。忠綱呼びて曰く、「我は藤原秀鄕ふぢはらひでさと六世の孫なり。なんぞ來りて死を决せざる」と。兼綱笑ひて曰く、「なんぢ名族を以て、乃平氏に驅役せらるゝや」と。對へて曰く、「平氏詔を奉じて亂賊を討つ。いづくんぞ從はざるを得んや」と。乃大に戰ふ。終に兼綱を射殺す。我が軍悉く渡り、擊ちて大に源氏の兵を破る。賴政及び子の仲綱等皆死す。王、南に出でゝ走り、流矢に中りて薨ず。南都の僧兵木津川きづがはに至り、之を聞きて引去る。重衡等凱旋し、首を闕下に獻ず。淸盛、忠綱を賞す。

福原に遷都淸盛、常に福原を愛し、又島を其南にきづきて、以て漕運さううん便べんにし、終にみやこを遷さんと欲す。六月遂に意を决して、帝、三宮さんぐう、百官をうながしてわたらしめ、帝を賴盛のていに奉じ、遂に之を己が第に徙し、兵をして法皇を守らしめ、宮城きうじやうを建つるを議す。地せまくして建つ可からず。乃かりに造る。物議囂然がうぜんたり。

賴朝兵を擧ぐ八月、源賴朝、以仁王もちひとわうの令を奉じて、兵を伊豆に擧ぐ。相摸の人大庭景親おほばかげちか擊ちて之を走らす。武藏の人畠山重忠、又擊ちて其黨三浦氏を破る。景親急騎にてかちを報ず。且曰く、「賴朝走り死す」と。已にして東人交々こも來りて、「賴朝未だ死せず、兵復振ふ」と吿ぐ。淸盛大に怒りて曰く、「其國の奴輩は、皆彼が父祖の家人けにん。而るに我れ彼れを東國に流す。是れ彼をして、たすけて我家をほろぼさしむるなり。何ぞ盜にかぎしゝに異ならんや」と。切齒せつしすること之を久くして曰く、「さきに吾をして池尼の請ひをゆるさゞらしめば、彼れいづくんぞ首領を保つを得んや。恩を忘れ利をはかりて、敢て我が子孫に敵す。其れ能く神明の罰を免れんや」と。重忠の父重能、弟有重と、福原にあり。進みて曰く、「東人獨、北條ほうでう時政、賴朝と婚す【時政賴朝と婚す】時政、女政子を以て賴朝に妻はす。其れ或は之に附かん。其他豈あへ流人るにんくみせんや。君、意と爲すなかれ」と。平氏の子弟、人々奮ひて東伐を願ふ。

淸盛宮に入て賴朝追討の勅を請ふ淸盛れんして入り、上皇にまみえて曰く、「陛下妙齡めうれい盖し未だ知るに及ばざるのみ。往時さき爲義ためよし義朝よしともと云ひし者あり、敢て凶逆を行ひて、法皇に敵せんと欲せしを、臣謀略を以て之を誅夷せり。而して義朝の少子に賴朝と云ふ者あり。此の豎子じゆし伊吹岳いぶきやまふもとに獲たり。まさらんとするとき、臣の繼母けいぼ爲に之を宥さんことを請ふ。臣、即召して之を見る。十三歲といふ。短身𣵀齒てつし、問ふこと有れば輙知らずと答へぬ。臣其幼稚えうちあはれみ、且自おもふ、源氏と宿怨しゆくゑんあるにあらず。たゞ君命を以てせしのみと。遂に之をゆるしき。今其配所に在りて、敢て不良を謀ると聞く。臣悔いうらむに堪へず。請ふ宣旨を得て之を討たん」と。上皇【上皇】高倉曰く、「法皇【法皇】後白河へ」と。答へて曰く、「主上はいとけなし、陛下は親父なり。决、聖斷に在り。何ぞたゞちに法皇にことをん。陛下、乃、源氏をかばふこと莫からんや」と。上皇わらひて曰く、「猶此言を爲すか」と。即宣旨を賜ふ。因りて「大將を誰に屬すべし」と問ふ。曰く、「臣が嫡孫ちやくそん維盛可なり」と。

維盛追討使即ち維盛これもりに命ず。右近衛中將を以て、追討使と爲し、而して忠のり之をたすく。高祖正盛、源義親よしちかを伐ちし故事こじを用ゐて、驛鈴えきれいを賜ふ。五千騎に將として、福原を發す。齋藤實盛さねもり、東事を諳ずるを以て嚮導きやうだうとし、行々兵ををさめて、駿河に至る。實盛曰く、「宜しく急に足柄あしがらえ武藏、相摸の兵を收むべし」と。藤原忠淸曰く、「今我が兵は皆京畿の新募しんぼなり、これを以て深く入る、未だ其可を見ず」と。維盛之に從ふ。實盛乃辭して西す。維盛曰く、「實盛無きも、吾なんぞ戰ふ能はざらんや」と。富士河陣忠淸を以て先鋒となし、進みて、富士河ふぢがはに軍す。此時に當りて、畠山重忠以下、皆賴朝にき、二十萬歸を以て、河東に至る。使者をして來りて書をおくらしむ。謾言多し。忠淸、維盛に勸めて、其使者を斬らしむ。相持して未だ戰はず。我が軍夜水禽みづとりたつを聞き、相驚きて以て敵大に至るとなし、人馬相踏藉して走る。維盛怒りて留り戰はんと欲す。忠淸固く諫む。乃西に歸る。平明、源氏の軍乃之を知り、一將をして來り追はしむ。伊藤某、殿戰して死す。維盛歸りて近江に至る。淸盛其京師に入るを許さずして曰く、「なんぢ王命を奉じて亂賊を討ち、兵を交へずして歸る。何の面目ありて來りて我を見んとするか。軍し利あらざれば、なんしかばねを原野に橫たへざる」と。因りて維盛を流し、忠淸を剄ねんと欲す。衆之を救解して止む。源義仲兵を起す是より先き、源義仲兵を信濃に起す。義仲幼にして孤なり。齋藤實盛取りて之をやしなふ。已にして之を木曾の人中原兼とほに屬す。是に於て宗盛、兼遠を召し、命じてすみやかに義仲を縛して來り獻ぜしむ。兼遠誓書をいたして、かへりて義仲を逐ふ。

是月、上皇再び嚴島いつくしまに幸す。淸盛從ふ。因りて上皇を要して書を作らしめ、源氏をたすけざるをちかふ。旣に還り、宮を夢野【夢野】攝津に造りて、以て法皇を奉ず。淸盛都を遷してより、上下之を苦しむ。山徒も亦しば舊都に復せんことを請ふ。淸盛、諸公卿を會して、兩都いづれ便べんなるを問ふ。公卿皆其むねこひねがひて曰く、「福原便なり」と。藤原長方獨左大辨藤原長方曰く、「平安便なり」と。淸盛色をして入る。衆長方の爲に之を危ぶむ。都を平安に復す已にして、淸盛即三宮以下を奉じて、都を平安に復す。衆大に悅ぶ。時に十一月なり。或人長方に問ひて曰く、「子何を以て能く相國にたがふか」と。答へて曰く、「悔ゆる心無からしめば、何ぞ人に問はんや。我因りて之をみちびきしのみ」と。淸盛もとより長方を重んず。是より先き、長方議を朝に建てゝ曰く、「亂人志を得るは、是れ天意てんいと人心との致す所なり。宜しく政を法皇にかへし、基房、師長等を召し還すべし。過を改め善に遷らば、庶幾こひねがはくは免れん」と。淸盛やうやく其言に從ふ。

怪異平氏の家、怪多し。淸盛甞て獨坐す。階下かいかに數百の人頭あり。合して一大頭と爲る。眼をいからして淸盛を視る。淸盛も亦眼を瞋らして之を視る。人頭漸く縮小して滅す。占者曰く、「爲義、義朝等の鬼なり」と。又鼠あり、廐馬の尾にすくふ。占者曰く、「小、大ををかし、うまを犯す。源、平にせまるの兆なり」と。

近江源氏都を復するの月、近江源氏の兵起る。翌月、知盛とももり資盛すけもり等を遣し、兵を將ゐ擊ちて之をたひらぐ。初め園城寺、賴政に黨して重譴を得。ます平氏を怨む。是に至りて、山徒と皆近江源氏に應ず。乃淸房を遣し、園城寺を攻め、燒て之を夷げ、僧八百人を殺す。南都征伐又南都の叛くを聞き、妹尾せのを兼康を遣し赴き攻めしむ。僧徒むかへ擊ちて之を敗る。又木丸ぼくぐわんを造り呼びて、淨海の頭と爲して、之を蹴擊す。淸盛積怒す。是月、重衡を遣し、兵數千騎を率ゐて之を擊ち、東大とうだい興福こうふくの二寺を燒き、僧數百人を殺す。而して諸道の源氏ます興る。

養和元年
高倉上皇崩
養和元年正月、上皇病みて崩ず。淸盛ます悔悟し、政を法皇にかへす。法皇ゆるさず。固く請ふ。聽す。乃美濃、讃岐を獻じて其邑となす。詔して宗盛を以て近畿を總管せしむ。二月、河內の人源義基を斬る。源行家兵を擧げて美濃に至るを聞き、知盛、みち盛、淸經、忠度等を遣して、之を伐たしむ。敵、板倉【板倉】美濃とりでる。我が兵めぐりて其後に出で、火をはなち攻めて之を㧞き、行家を走らす。淸盛又南海の兵をして東兵を控扼せしめ、而してかてを北陸、西海に徵す。西海の菊池氏、緒方をがた氏、皆源氏に應ず。肥後守平貞能さだよし、徃きて之を定めんと請ふ。法皇院廳官ゐんのちやうくわんをして貞能に從はしむ。洲股の戰已にして知盛、洲股すのまたに在りて病おこり、戍を置きて還る。源氏益振ふ。宗盛乃みづから大軍をひきゐて東伐せんと欲す。法皇之を許す。命じて諸武官をべ、官符を以て兵を徵し、日を刻して發せしむ。衆曰く、「此のかう必ず源氏をたひらげん」と。二十七日を以て行を發す。發するにさきだつ一日に、淸盛疾作る。宗盛行を止む。車馬六波羅に集まる。淸盛煩熱を病み、冷水に浴す。水輙く。叫號する聲門外に徹す。閏二月、疾大に篤し。族を擧げて枕を擁し、言はんと欲する所を問ふ。淸盛遺言淸盛大息たいそくして曰く、「生者せいしや必ず死す。何ぞ獨我のみならん。我平治年間より、功を王室に建て、天下を專制し、位人臣を極め、帝者ていしやの外祖と爲る。復何ぞ遺憾とする所あらん。遺憾とする所のものは、未だ賴朝の頭をずして死するのみ。吾死して後、佛に供するを以て爲る勿れ。誦經を以て爲る勿れ。たゞ賴朝の頭を斬りて、我が墓所に懸けよ。我が子孫臣隷、みな我が言にふくして、敢て怠りあること勿れ」と。淸盛薨ず病むこと七日にして薨ず。歲六十四。法皇に遺表ゐへうす。事必ず宗盛と議し玉へと。

淸盛旣に薨じぬ。宗盛むねもり、法皇を法住寺殿に奉還し、奏して曰く、「臣不肖ふせう、父の過を救ふ能はず、以て今に至る。今後將に唯聖旨せいしを是れ仰がん」と。法皇乃公卿を會し、兵食を調てうせんことを議す。重衡しげひら維盛これもり通盛みちもり忠度たゞのり等を遣し、美濃に入り、其戍兵をあはせ、源行家ゆきいへ、源義圓ぎゑんと水をはさみて戰ひ、義圓をり、行家を破り、行家の子行賴ゆきよりとりこにし、行家を追ひて、參河に至りて還る。

賴盛賴朝よりともしば書を賴盛よりもりに遺し、其舊恩を謝す。賴朝上書ひそかに上書して曰く、「臣敢て亂をすに非ず。乃亂をやすんずるのみ。陛下、尙平氏を棄てざれば、則請ふ兩ながら和を講じ、二姓並び仕ふること往昔の事の如くせん、其忠其否、えらぶこと陛下に在り」と。法皇書を以て宗盛に示す。宗盛むねもり答へて曰く、「臣が父終に臨みて、臣等に命じて曰く、『必ず賴朝よりともと死を决せよ』と。語、猶耳に在り。臣する能はず」と。藤原秀衡
城資良
是に於て請ひて陸奧の藤原秀衡ひでひらに勅して、賴朝よりともを擊たしめ、越後城資良じやうすけながに勅して、義仲よしなかを擊たしむ。資長は、平維茂これもち七世の孫なり。六月、資長弟長茂ながもちと、兵をあつめて南して、義仲を擊つ。利あらずして還る。八月、資長を越後守に秀衡ひでひらを陸奧守に叙し、うながして源氏を伐たしむ。資長復發す。疾おこりてしゆつす。九月、宗盛むねもり從弟いとこ通盛みちもり經正つねまさを遣し、北陸敗軍東、源氏と越前に戰ひて敗績はいせきす。經正つねまさ走りて若狹に入る。通盛退きて敦賀つるが【敦賀城】越前を保ち、經正を召す。未だ至らざるに、義仲の兵來り攻む。乃兵をきて西に還る。

壽永元年壽永元年九月、城長茂じやうのながしげ復南し、義仲を伐つ。復利あらずして還る。是月、宗盛內大臣ないだいじんに任じ、隨身ずゐしん兵仗ひやうじやうを賜ふ。騶從すうしようを具へて拜賀す。二年二月、從一位に叙せらる。

追悼使派遣四月、維盛これもり通盛みちもり忠度たゞのり等を以て追討使つゐたうしとなす。山陽、山陰、西海の諸國、及び參河以東、若狹以南の徵兵十萬餘人をひきゐ、北陸道に入りて、まさ義仲よしなかたひらげて、然る後賴朝よりともに及ぼさんとす。齋藤實盛齋藤實盛さいとうさねもり遣中にあり。大庭景尙おほばかげひさに謂て曰く、「平すたり、源おこる。なんぞ木曾に降らざる」と。景尙曰く、「東人吾輩の姓名を知らざるなし。興衰を以て節を變ぜば、人言を若何いかんせん」と。實盛曰く、「吾、徒に以て子を試みしのみ」と。入りて宗盛にまみえて曰く、「越前は臣の鄕なり。古に曰く、『にしきて鄕に歸る』と。臣、君恩を受くる久し。今老たり。唯一死以て君に報ずるあるのみ。君、なんぞ錦の直垂ひたゝれを賜はらざる。臣て以て歸らば、死すとも餘榮あらん」と。宗盛、之を憫み、其言の如くす。

燧城戰義仲、我軍の越前に向ふと聞き、將を遣して燧城ひうちじやう【燧城】越前を守らしむ。城は山にり、谿たにを帶び、最も要地たり。我が軍、谿水をへだてゝ近づく能はず。城將齋明さいめい【齋明】越前平泉寺の僧と云ふ者あり。書をつくり、之を矢に約し、以て我が軍に射て曰く、「源氏つゝみを築きて水をたくはふ。君、東山のふもとを决せば、たち所に涸れん。臣、内應を爲さん」と。我が軍之に從ひ、立所に其城を拔き、連戰皆つ。追ひて三條野に至る。敵將齋藤光平さいとうみつひら出でて戰ふ。實盛曰く、「我と同姓なり、寧ろ我に死せよ」と。ともに鬪ひて之をる。我が軍長驅して、越前を定め、進みて加賀に入る。源氏の兵退き、安宅渡あたかのわたしる。平盛俊もりとし、子盛綱もりつなをして水をこゝろみしむ。還り報じて曰く、「わたるべし」と。盛俊兵五千をて先づ渡る。大軍之に從ふ。遂にはやし富樫とがしの二城を拔きて之に據る。降將齋明、進言して曰く、「義仲越後にあり。越後、越中の界、寒原かんばらの險あり。君宜しく急に此をやくすべし。、敵をしてえしむる勿れ」と。乃盛俊をつかはして之に赴かしむ。般若野はんにやのに到る。敵已に寒原を踰ゆ、盛俊與に戰ふ。利あらずして退く。

砥並山戰維盛乃七萬騎を以て砥並山となみやま【砥並山】越中に軍す。忠度たゞのり三萬騎を志雄山しをやま【志雄山】能登に軍す。義仲五萬騎をて至り、行家ゆきいへをして忠度を攻めしめ、而して自ら維盛に當る。維盛險をたのみて備へず。義仲夜に乘じて來り襲ふ。維盛大に敗走す。義仲勝ちに乘じて之を追ふ。參河守知度とものりは淸盛の七子なり。五十餘騎と大に呼びて敵陣ををかし、うまたふれてかちす。敵岡田親義あり。來りて知度を擊つ。知度刀を擧げて其かぶとる。冑墜つ。因りて其首を斬る。親義の子重義、ついで至る。我が騎遮り鬪ふ。知度自屠りて死す。敵ます進む。右兵衛佐うひやうゑのすけ爲盛ためもり賴盛よりもりの次子なり。亦樋口兼光ひぐちかねみつに殺さる。維盛退きて佐良岳さらがたけ【佐良岳】加賀を保つ。

此時に當りて、忠度、盛俊と擊ちて行家を破る。而して維盛の敗れしを聞き、兵を引きて之と合し、退きて安宅あたかわたしに據る。忽、鞍馬十匹あり、水をわたりて至る。畠山重能はたけやましげよし、前軍にあり。之を視て曰く、「敵近づく」と。篠原戰乃、三百騎と篠原岳しのはらだけに登りて之を、使を中軍に馳せ、吿げて曰く、「源氏の兵悉くわたりぬ、臣將に先づ進まんとす。謂ふ、後繼ごづめを賜はれ」と。

義仲、樋口兼光を召し、岳頂を指さし、問ひて曰く、「汝彼一隊將は誰爲るをるか」と。曰く、「畠山重能なり。臣しば武藏に遊びて、其旗章を記す」と。義仲曰く「此れともに鬪ふべき者」と。兼光を遣し、與に鬪はしむ。殺傷相當る。維盛等、乃、進みて義仲に當り、戰ひ且退き、成合なりあひに至り、返り擊ちて大に戰ふ。大庭景尙、自呼びて鬪ふ。義仲曰く、「名士なり」と。騎をさしまねきて之を迎ふ。景尙十三騎を斬り、創を被りて自殺す。衆悉く退く。實盛獨留り戰ふ。敵將手塚光盛てづかみつもり呼びて其名を問ふ。實盛曰く、「汝我が首を斬り、木曾公に獻ぜよ。公は我を知るなり」と。進みて光盛にせまる。光盛の從騎之を遮る。實盛、騎をつかみ將に之を殺さんとす。光盛之を救ふ。三人相搏ちて馬より墜つ。實盛戰死光盛遂に實盛を刺し、頭を義仲に獻じ、其狀を吿げて曰く、「單騎錦を衣る。其語は東音なり」と。義仲曰く、「乃、實盛なる莫きや」と。兼光を召してこれを視しむ。兼光曰く、「是也」と。義仲曰く、「吾れ實盛年高きを知る。今其髮の黑きものは何ぞや」と。對へて曰く、「實盛甞て臣と東國に於て言ひて曰く、『白頭軍に從はゞ、吾まさに我が髮を𣵀せんとす。しかせざれば則以て壯者に伍し難し』と。盖し、其言をめるなり」と。乃、其頭を洗ふに、頭髮皆白し。義仲泣きて曰く、「吾れ幼孤のとき、此老に鞠育せらる。其をして來り歸せしめば、將に父とし、之に事へんとせしに、乃、恩を重んじ死に就く。義と謂はざるべけんや」と。尸を收めて之を葬る。義仲、復我軍を追ふ。平盛綱、藤原景高ふぢはらかげたか等十餘人之に死し、我が諸將敗れ歸る。法皇會議す。藤原長方ふぢはらながかた漢の匈奴きようどと和せし故事を引きて使を遣して、諸源の罪をゆるさんことを請へども聽されず。平氏書を山徒におくりて之を誘ふ。山徒從はず。

貞能西海を定む七月、平貞能さだよし、旣に西海を定む。降將菊池高直きくちたかなほ原田種直はらだたねなほ以下、兵千騎、糧十萬石をて至る。平氏みな喜ぶ。用ゐて東北を禦がんと欲す。美濃の人、來り吿げて曰く、「義仲已に近江に至る」と。是に於て、資盛すけもり知盛ともゝり重衡しげひら、貞能等と宇治、勢田を守る。又賴盛を遣し、之に繼ぐ。賴盛辭して往かず。しひて之を遣る。已にして源行綱ゆきつな等、四方より京師を窺ふ。山徒も亦義仲にくみす。宗盛、乃諸將を召し還し、貞能を遣し、行綱を攝津に擊つ。知盛五百騎を粟津あはづに次す。義仲の前軍と戰ひ、利あらずして退く。

義仲、進みて叡山に軍す。平氏都を去る宗盛大に族人を召し、議して曰く、「兵すくなし。我れ帝及び法皇を奉じて西國に奔り、以て再擧を圖らんと欲す。何如いかん」と。知盛進みて曰く、「不可なり。我が祖の桓武、實に此都をはじめ、後降りて武臣となる。今に於て八世なり、未だ甞て退き避けず。寧ろこゝに決戰せん。刀折れ、兵盡きて後まん」と。敎盛のりもり經盛つねもり等、皆以て然りと爲す。宗盛聽かず。人をして法皇にいたらしむ。法皇いまさず。宗盛大に收め、火を諸第にはなち、其子右衛門督うゑもんのかみ淸宗きよむね、其弟中納言ちうなごん知盛とももり右中將うちうじやう重衡しげひら、淡路守淸房きよふさ、其義弟ぎてい式部丞しきぶのじやう淸定きよさだ、丹波守淸邦きよくに、其叔父參議さんぎ經盛つねもり、中納言敎盛のりもり、薩摩守忠度たゞのり、經盛の子皇后宮亮くわうごうぐうのすけ經正つねまさ、若狹守經俊つねとし、敎盛の子越前守通經みちつね、能登守敎經のりつね、從五位下業盛なりもり、知盛の子武藏守知章ともあきら、經俊の弟敦盛あつもり、淸房の二弟經俊つねとし良衡よしひら、故基盛もともりの子左馬頭さまのかみ行盛ゆきもり等、及び攝政せつしやう藤原基通もとみち大納言だいなごん平時忠たいらときたゞを率ゐて西す。

賴盛
基通
權大納言ごんだいなごん賴盛よりもり、從ひて後れたり。鳥羽に及ぶ比、赤幟をてゝ東し、法皇にりて伏匿す。基通も亦還り走る。平盛嗣もりつぐ之を追はんと欲す。宗盛曰く、「之をけ。吾れ此不義の人を用ゐる所なし」と。因りて問ひて曰く、「小松中將【小松中將】維盛は何如」と。維盛曰く、「未だ來らず」と。宗盛曰く、「亦賴盛のたぐひか」と。

畠山重能乃、畠山重能兄弟を召して曰く、「汝の子弟、武藏にあり。汝なんぞ東せざる」と。二人對へて曰く、「臣等、平氏の恩を蒙る、此に二十年、危を見てのがるゝは、爲すに忍びず」と。宗盛曰く、「父子相幕ふは、貴賤となく一なり。父西にあり。子東に在りて、以て相殘滅するは、吾が心之を憫む、汝宜しくすみやかに去りて、賴朝に從ふべし」と。二人泣き辭して東す。

宗盛等關戶せきどに至り、顧みて數百騎の至るを見る。則、維盛これもりなり。其弟中將資盛すけもり中將淸經きよつね左小將させうしやう有盛ありもり侍從じじゆう忠房たゞふさ、備中守師盛もろもりを率ゐて來る。衆大に喜ぶ。維盛曰く、「吾れ妻孥さいどのこして來る。皆啼哭して我を牽く。吾是を以て後れたり」と。宗盛曰く、「衆皆家をひつさぐ、子何ぞ獨しかせざる」と。答へて曰く、「挈げて行くとも、終に庇ふ可けんや」と。相顧みて悽然たり。

經正經正、幼きとき、仁和寺にんなじ法親王に仕へ、其愛する所の琵琶を賜ふ。征行と雖も、未だ甞て携へざることなし。是の日、齎し返して、王に謁して曰く、「臣等事已に此に至る。願くは一たび別をついでて行くを得ん」と。因りて即席に數曲をだんず。王及び左右皆淚垂る。經正曰く、「臣、甞て此賜を守りて、以て子孫に傳へんと欲す。今行きてまさに死亡せんとす。寳器を併せて之を滅沒するに恐びず」と。乃、琵琶を奉還して去る。

忠度忠度も亦よど河より還り、其和歌の師藤原俊成ふぢはらとしなりいたり、夜門をたゝきて刺を通じ、面謁を請ふ。俊成、すこしく門をひらきて之を見る。忠度曰く、「兵興りてより、君門に數するを得ず。今まさに遠く別るべし。聞く『君勅を奉じて撰輯する所あらん』と。臣幸に一章を收むるを得ば、死すとも且不朽なり」と。乃、其歌集を鎧縫よろひのひきあはせより出だす。俊成泣きて之を受く。行盛行盛、俊成の子定家さだいへを師とす、又其集を遺して留別す。俊成、定家、後並びに撰集するに、二人の作る所を收むと云ふ。

是に於て族を擧げて、輿を奉じて西す。貞能平貞能、攝津より還るに會ふ。馬を下りて、ひざまづきて曰く、「諸公いづくかんと欲するや」と。宗盛故を吿ぐ。貞能、大に其不可なるを諫むれども聽かず。貞能、獨東して京師に入る。則諸第、皆燼せり。乃、夜、重盛の墓にいたりて、まうして曰く、「君豫め、今日あるを知るか。然れども願くは冥護めいごを以て恢復をはかれ」と。旦日墓をあばき、其骨を收めて西し、追ひて福原に至る。宗盛等方に將士を會し、議して曰く、「我が家は惜むに足らざれども、帝王神器を何如せん」と。皆泣きて對へて曰く、「臣等よゝ君恩を受く、隆替を以て志をへず。海をきはめ、天を極むるも、唯君のく所のまゝならん。鳥獸すら且恩を記す。まして人々に於てをや」と。宗盛喜び、乃、相率ゐて淸盛の墓を拜し、がくを墓前に張りて夜を徹す。天明に其宮殿諸第を燒き、平氏西海に趣く航して西海に赴く。

法皇、勅して平族百八十餘人の官爵を奪ひ、其邑を沒し、分ちて之を義仲等に賜ひぬ。後鳥羽天皇即位乃、高倉帝の第四子を立てゝ、位に卽かしむ。平氏之を聞き、其取り去らざるを悔ゆ。

平氏九州に入る遂に帝を奉じて、行在所を豐後に建つ。豐後の國司藤原賴輔ふぢはらよりすけの子賴經よりつね、州人緒方維義をがたこれよしと與に、院宣を傳へて、西海の兵を收む。使をして來り吿げしめて曰く、「公等宜しく此に止るべからず」と。時忠之をめて曰く、「正統の天子こゝに在り。なんぢ胡爲なんする者ぞ」と。維義、對へずして、三萬騎を以て來り攻む。乃、貞能、高直、種直等を遣して、之をふせぐ。敗れ還る。乃、箱崎に奔り、遂に山鹿にうつる。菊池、原田の諸族皆叛くを聞き、則又柳浦やなぎうらに徙り、宇佐宮に祈る。維義來るを聞き、終に航して遁る。淸經死す淸經、自終に免る可からざるをさとり、夜、舵樓に上りて、月をつゝ笛を吹き、海に投じて死す。

平氏屋島に據る時に長門の國は、知盛の管する所たり。其目代もくだい紀通資きのみちすけ、船百餘艘を献じて、以て讃岐の屋島やしまに徙らしむ。阿波の豪傑田口成能たぐちなりよし、千騎を以て來り附く。且、爲に四國をとなさとすに、順逆を以てす。來り屬する者多し。因りて屋島に行宮を建て、遂に山陽道をとなふ。

閏十月、源義仲、足利義淸、高梨高信、海野幸廣うんのゆきひろを遣し、來り犯さしむ。而して身之に繼ぐ。重衡、通盛、敎經、三百餘艘を以て迎へて、之を擊つ。水島戰水島城【水島城】備中に據る。源氏千餘艘を以て陸を負ふ。敎經、城の東北門より出でゝ、敵を挑む。敵、五千騎を以て來り攻む。敎經、いつはり走る。重衡、通盛、舟師を將ゐて、島の西南より、左右のよくはなちて之をめぐる。敎經、豫、舟を連ね板をき、以て進退に便し、親射て高信を殺す。北兵水戰を習はず。日蝕晦冥に屬し、我が兵之に乘ず。北兵遂に大に敗走す。追擊して義淸、幸廣を斬り、首を獲しこと千二百きふ

妹尾兼康初め篠原しのはらの戰に、せの兼康かねやす、敵將倉光成澄くらみつなりすみとらへらる。因りて成澄に仕へて親信せらる。今井兼平、義仲に謂て曰く、「彼れの瞻視常に異なり。之を殺すに若かじ」と。義仲聽かず。兼康從容として成澄に說くに、其鄕、妹尾の地の肥美の狀を以てす。成澄乃、義仲に請ひて、往きて之を收む。兼康、嚮導を爲し、先づ往く。其子宗康むねやす以下千餘人を會して、成澄を掩殺し、板倉【板倉】備中の寨に據る。義仲、將に備中に赴かんとす。聞きて怒り、今井兼平をして、來りて兼康を擊たしむ。兼康戰ひ且走り、屋島に赴かんと欲す。宗康、体肥えて行く能はず。兼康之を棄てゝ走る。行くこと里許にして、復、還りて之を視る。追兵せまり至る。乃、宗康を刄して、ころす。義仲、將に屋島を攻めんとす。賴朝の來りて己を討つを聞きて、則東に還る。

室山戰
【室山】播磨
十一月、敎盛、敎經、重衡等、源行家と室山に戰ひ、大に之を破る。山陽、南海の十餘州、來り屬する者多し。

是の時に當りて、義仲兵を縱ちて、京師を暴掠ぼうりやくす。亦事を以て法皇を怨望し、將士に謂て曰く、「汝、其凡人ぼんじんに敵するよりは、寧ろ、王者に敵せよ」と。法住寺戰遂に兵を擧げて反し、法住寺殿ほふぢうじでんを焚く。矢、乘輿に及ぶ。遂に帝を閑院かんゐんに、法皇を五條宮にうつし奉る。公卿、皆裸跣して遁る。義仲、乃將士に謂て曰く、「帝と爲り、院と爲るも、唯吾が欲する所。公となり、卿と爲る、唯汝が請ふ所のまゝのみ」と。乃、公卿以下四十九人の官爵を奪ひ、其妻の兄藤原師家ふぢはらもろいへを以て攝政となす。京師其暴に苦しみ、乃、平氏を思ふ。義仲旣に賴朝と𨻶あり。義仲書を屋島に貽りて平氏と合從せんとす其來り討たんことを恐れ、平氏と從を爲さんと欲し、書を屋島におくりて、其意を言ふ。宗盛之を許さんと欲す。知盛曰く、「義仲我をして其極に至らしむ。我乃之と和しなば、恐らく賴朝我を笑はん。公宜しく答へて、『天子いませり、汝冑をぎ、弓をゆるべ、自來りて降るを乞はば、吾れ則之を許さん』、と曰ふべし」と。宗盛之に從ふ。

壽永二年
平氏福原に城く
明年、山陽旣に定まりしを以て、帝を奉じて福原を復し、因りてきづく。山を負ひ海に臨む。兵を集めて之を守る。二月、敎盛、五百騎を以て、備中の下道しもつみちに屯す。たま讃岐の廳衆ちやうしう二千騎、叛きて源氏に應じ、船に乘りて下道を過ぎ、仰ぎて我營を射る。敎盛怒りて曰く、「此輩甞て我馬にまぐさかひ、我馬にみづかはんと云ひし者。今敢て亡狀此の如し」と。舸を飛して之を追ふ。廳衆淡路に走り、源義嗣よしつぐ、源義久よしひさに倚る。敎盛攻めて之をみなごろしにし、並に義嗣、義久を殺し、遂に河野通信かうのみちのぶ攻む。通信遁れて安藝に走り、緒方維義をがたこれよしと合し、東して備前に入り、今木城に據る。敎經、赴き攻め、一晝夜に之を㧞く。宗盛帝に奏して、敎盛を正二位大納言に進む。辭して拜せず。

東軍來り攻む是時、賴朝の二弟範賴のりより義經よしつね、義仲を討ちて之を殺し、終に院宣を以て、大擧して來り攻む。關東の將士悉く之に從ふ。期を刻して會戰す。知盛、重衡、東門を拒ぐ。貞能等、西門を拒ぐ。而して資盛、有盛、師盛等、兵七千をて北山を守る。義經、高騎を以て夜之を襲ふ。我が兵大に敗走す。資盛之を愧ぢて、獨、屋島に奔る。宗盛諸將をして之に代らしむ。皆往くを憚る。敎盛之に當らんと請ふ。即夜、通盛、盛俊と、往きて北山を守る。範賴、東門に至る。土肥どひ實平さねひら等西門に至る。藤原景淸ふぢはらかげきよつとめて西門を拒ぐ。敵入る能はず。重衡重衡、知盛、又東門の敵を擊ちて之をしりぞく。已にして、義經間道より來り襲ひて、火を縱つ。城つひに陷る。重衡、西に走る。東人莊家長しやういへなが追ひて其馬を射る。馬たふる。其騎、副馬に騎る。重衡呼びて之を取らんとす。騎聞かざるまねして走る。重衡自殺せんと欲し、遂に家長にとらはる。忠度忠度も亦岡部忠澄おかべたゞずみに追る。忠度紿あざむきて曰く、「吾は東兵なり」と。忠澄曰く「帽して齒を𣵀する者は、東兵に非るなり」と。忠度返り鬪ひ、忠澄をちて之をせ、三たび之をせども入らず。忠澄の僕來る。終に爲に殺さる。忠澄、其鎧を撿して歌稿を得たり。因りて其忠度たるを知れり。經正
【大藏谷】播磨
經正走りて大藏谷おほくらたにを過ぐ。莊高家しやうたかいへ呼びて、鬪を求む。顧み答へて曰く、「吾れなんぢと鬪ふをはづるなり」と。高家怒りて、之にせまる。經正、馬より下りて自殺す。其弟經俊、及び通盛、なり盛、師盛、淸定、淸房、盛俊等、皆死す。通盛の妻、其夫の死を聞きて海に投じて死す。敎經航して淡路に赴く。宗盛、帝を舟に奉ず。諸敗兵、舟を爭ひて溺るゝ者無數なり。知盛知盛初め武藏守と爲る。國人識りて之を追ふ。及ぶになんとす。其子の知章ともあきら、時に年十七。遮り鬪ひて、其一騎を斬りて之に死す。知盛間を得て遁れ、馬を下り舟に上る。舟せばくして馬をれず。則馬首を北して之にむちうつ。馬をどりて陸に上る。田口成能なりよし曰く、「良馬なり、其敵に獲られんより、寧ろ射て之を殺さん」と。知盛曰く、「吾れ此れに由りて免る。之を殺すに忍󠄁びず」と。馬、知盛を望みて三たびいなゝく。終に義經に獲はる。知盛、宗盛に謂て曰く、「子は死して父を救ふ。父は子を棄てゝ走る。他人をして此の如くならしめば、吾れ當に其面につばきすべし。今吾れ之を爲す。之を何と謂はんや」と。因りて歔欷してなんだを流す。

敦盛敦盛あつもりも亦知章と同齡どうれいなり。知盛の舟を望みて之を馳せ、熊谷直實にとらはる。是日直實、曉ををかして西門に向ふ。城上に笛聲あるを聞きしが、敦盛を獲るに及びて其腰に笛を揷めるを見る。おもふにさきに聞きし所のものは是なりと。乃首を義經に請ひ、其笛をあはせて、之を經盛におくる。義經、諸の首虜を以て、歸りて法皇に献ず。

重衡書を屋島に貽る法皇、人をして重衡を諭さしめて曰く、「汝書を宗盛におくり、神器をかへさしめば、則汝が死をゆるし、屋島に放ち還さん」と。對へて曰く、「臣の宗、よゝ勳を王家に建てゝ、而して子孫つひに君に棄てらる、以て此に至るは命なり。勝敗は豈臣一人にあづからんや。臣、不才にして纍囚と爲るに至る。假令、生きて還らしむるとも、はた何の面目ありて、宗族にまみえんや。宗族も亦必臣を以て、神器にかふるを肯ぜざるなり。然りと雖も、臣敢て敕を奉ぜずんばあらず」と。乃、書を作りて院宣使に從はしめ、屋島に至る。【時子】重衡の母時子書を得て悲み泣き、之を聽さんと欲す。宗盛書を法皇に上る知盛、執りて不可なりとし、宗盛に敎へ、答表を作らしめて曰く、「謹みて宣旨を領す。通盛以下旣に命を授く。重衡、豈獨生を欲せんや。神器のごときに至りては、須臾も聖体を離る可からざるなり。陛下尙貞盛、淸盛の遺勳を思ひ給はゞ、則辱なく龍駕を枉げて、西州に臨幸せよ。臣等、護るに西南四道の兵をて、以て亂賊を討たん。しからざれば、臣等三韓、契丹に赴くこと有らんのみ。命を奉ずる能はず」と。平時忠、院使を捕へはなきりて之をる。

重衡鎌倉に下る法皇怒り、重衡を以て賴朝に附して、誅せしむ。賴朝之を鎌倉に檻致せしめ、延きて見る。梶原景時かぢはらかげときをして、命をおこなはしむ。來りて重衡のかたはらひざまづく。重衡聽くを肯ぜず。遙に賴朝に語りて曰く、「重衡此に至るは命なり。公尙先人の德を記せば、則請ふ、速に死を賜へ」と。賴朝、乃之を狩野かの宗茂むねしげに屬し、湯沐を具へ、姬千手せんじゆをして浴に侍し、因りて其欲する所を問はしむ。重衡、髮をらんと欲す。賴朝、許さず。因りて酒をおくり、千手及びどう祐經すけつねを遣し、之を佐けしむ。祐經つゞみち、千手琵琶をだんず。重衡、杯を千手に屬し、朗吟して曰く、「燭はくらし數行虞氏ぐしの滂、夜は深し四面楚歌の聲」。賴朝、微行して、耳を戶外にそばだてゝ聞きてこれを憐む。更に名姬めいきわうを遣し、千手と更直せしむ。明年六月、南都の僧侶の請を以て、奈良坂に斬る。二女、髮を削り尼と爲ると云ふ。

初め重衡の虜となり、京師に入りしとき、維盛の妻孥、京師に在りて、三位中將虜せらるゝと聞きて、其維盛なりとおもふや、僕をして之を視しめしに、しからず。然れども師盛もろもりの首を見て、則憂恐す。維盛、屋島に在りて、亦家を懷ひて措かず。是歲三月、ひそかに出でゝ、京師に之きしに、みちふさがりて達せられず。是に於て高野山に赴き、偶、其舊臣の僧と爲れる者にひ、之に語るに情を以てせり。曰く、「先君【先君】重盛
維盛熊野に死す
、甞て賴朝に德せり。【內府維盛を疑ふ】父重盛甞て賴朝を赦す、故を以て吾も亦賴朝に貳心あるかと疑はる內府故を以て猜疑し、吾を賴盛【賴盛】志源氏に嚮ふに比す。吾れ故に遁れて此に至る。一たび熊野の祠にまうで、水に赴きて死なんと欲す」と。乃、與にともに詣で、那智の海に投じて死す。豫、隷人に命じ、還りて資盛に吿げしめて曰く、「唐皮からかはの甲、小烏こがらすの刀、貞能のもとにあり。公宜しく之を取るべし。萬一、こと平がば、幸に之を我が兒に傳へよ」と。小烏、拔丸初め平氏、小烏、拔圓ぬけまるの二刀あり。例に嫡長に傳ふ。賴盛忠盛に至りて、小烏を淸盛に傳へ、拔圓を賴盛に傳ふ。二家是よりあひにくめり。賴盛、時に京師にあり。是歲五月、賴朝、書を以て之を召す。且曰く、必宗淸を携へよと。賴盛即東に行く。宗淸從ふを肯ぜず。曰く、「臣禍福を辨ぜざるに非ず。獨、西海の諸公舊僚にはぢざらんや」と。乃賴盛を送りて、近江に至り、辭して西し、來りて屋島に至る。是月、貞能の弟貞繼、兵を伊賀に起し、平氏に應じ、二百人を集め、襲ひて州の守護しゆご大内惟能おほうちこれよしを破り、遂に近江に入り、源秀義ひでよしと戰ひて之を斬る。已にしてこれ能に敗られ、之に死す。三日平氏世呼びて三日平氏と曰ふ。

兒島戰平氏、山陽道を復せんと欲し、九日、行盛、兵二千を以て兒島に屯す。範賴十萬騎を以て來り攻む。我が軍敗れ還る。宗盛以下、日々悒々として樂まず。知盛曰く、「吾れさきに京師を守らんと欲すれども、公等從はず。今終に如何」と。宗盛、以て應ふることなし。

明年春、知盛、長門の引島にきづきて、門司關もじのせきを扼す。又兵を遣し、擊ちて土肥實平を備前に破り、兒島を復す。又擊ちて河野通信を破り、其族黨百六十人を斬り、首を屋島にいたす。宗盛之を撿す。

屋島戰時に源義經、阿波より來り攻むと聞く。而れども未だ確報を得ず。明日、高松里【高松里】讃岐に火起るを望む。田口成能曰く、「敵來り襲ふなり。請ふ、急に舟に御せよ。將士をして陸にふせがしめん」と。之に從ふ。義經果して襲ひ至る。我が兵、能く拒ぐ。義經火を行在に縱つ。我が兵盡く舟に上り、海陸こも射る。景淸、岸に上りて戰ひを挑む。美尾屋
景淸
美尾屋みをのや十郞と云ふ者、來り鬪ひて走る。景淸追ひて其しころつかむ。錏ゆ。之を薙刀なぎなたけ、あげて呼びて曰く、「吾は景淸なり。蓋ぞ來りて决せざる」と。敵敢て近づくものなし。我が兵踵ぎて上り、大に戰ひ、佯り郤きて舟に上り、以て義經を誘致す。ほとんど獲へんとして之を逸す。宗盛、敎盛を召して曰く、「我が兵しば義經を逸す。義經の兵數百騎に過ぎざるのみ。公の一戰をわづらはさん」と。敎經敎經、乃盛嗣もりつぐ、景淸等三十人と、陸に迫りて射る。敎經、勁弓、長箭、射て敵の精騎數十人を殺し、日暮に會ふ。義經軍を高松に退く。敎經八島に軍し、夜源氏を襲はんと欲す。盛嗣、江見えみ盛方もりかたと先を爭ひ、曉に徹するまで襲ふを果さず。天明に、義經七千騎を以て來り攻む。我が三十人步行して、短兵を持して接戰す。敵騎披靡す。敎經、因りて之を射る。戰ひ遂に利あらず。遂に舟に上りて退く。熊野くまの湛增たんぞう、河野通信、盡く源氏に屬す。源氏の軍、日に盛なり。平氏、乘輿を奉じて志度しどに避く。義經、復來り攻む。乃、退きて引島を保つ。已にして、長門、周防、悉く源氏に應ず。乃、箱崎に赴く。範賴、大衆を以て豐後に在りと聞きて、則かへりて壇浦だんのうら【壇浦】長門に泊す。

壇浦戰源氏の軍、海陸に充塞す。兵艦三千、四面より來り攻む。我れ五百艘あり。知盛船首に立ちて、諸將士に謂て曰く、「勝敗の决、今日にあり。汝が輩、進みて死する有れ。退きて生くるなかれ。心を一にして力をあはせ、必義經を獲て而して後已まん」と。景淸、盛國等、爭ひて决戰せんことを願ふ。田口成能田口成能、ひそかに欵を敵に通ず。知盛、宗盛に謂て曰く、「士氣ふるへり。獨成能疑ふべし。請ふ、斬りて以てとなへん」と。聽さず。固く請ふ。宗盛、乃、成能を召して之をつとめしむ。成能、唯々いゝす。知盛、刀をにぎり宗盛に目す、宗盛、終に斷ずる能はず。已にして大に戰ふ。我が兵奮擊ふんげきす。東軍しばしりぞく。成能、義經に降り、之に吿げて曰く、「平氏、帝を兵船にうつし、兵を帝船に徙す。敵を誘ひてはさみて、之を擊たんと欲す」と。義經、乘輿の在る所を知りて、軍を合せてく攻む。知盛、乃、帝船に赴く。諸嬪迎へて狀を問ふ。知盛、大に笑ひ、答へて曰く、「卿等當に東國の男子をるべきのみ」と。一船皆哭く。知盛手づから船中を掃除し、盡く汚穢の物を棄つ。時子、乃、安德天皇崩御帝をいだきて相約するに帶を以てし、劔璽を挾み、出でゝ船首に立つ。帝時に八歲なり。時子に問ひて曰く、「いづくくか」と。時子曰く、「虜、矢を御船に集む。故に將に他にうつらんとす」と。遂に與に俱に海に投じて死す。皇太后、いで投ず。東兵、其髮にかぎして之を獲たり。行盛、有盛、之を聞きて、皆力戰して死す。敎經、驍名素よりあらはる。敵爭ひ之を獲んと欲す。敎經、殊死して戰ふ。敵を殺す數なし。知盛知盛、呼びて曰く、「公盍ぞ早く自計を爲さゞる。多く雜兵を殺すと爲すなかれ」と。敎經曰く、「中納言、吾れ義經と死を决せんと欲するのみ」と。乃、進みて義經をもとむ。つひに之と遇ふ。敎經、かぶとを免ぎ、鎧袖を撤し、をどりて其船に入る。敵兵さへぎり鬪ふ。輙搏ちて之をたふし、直に義經に逼る。敵中、安藝あき家村いへむらといふ者あり。力三十人を兼ぬ。二力士を率ゐて、進みて敎經に當る。敎經蹴りて其一人を仆し、二人を挾みて、海に投じて死す。宗盛、淸宗と自裁する能はず。從士之を海におしおとす。泅ぎて遁る。敵兵かぎして之を獲たり。藤原景經かげつねは、景淸の從弟なり。之を見て曰く、「奴輩、敢て吾が君を辱かしむるか」と。進みて一人を斬り、箭に中りて死す。知盛聞きて切齒する久くして曰く、「吾れ以て死す可し」と。敎盛と皆自殺す。平家長いへなが等八人之に殉ず。壽永二年三月廿四日平氏滅ぶ時に壽永二年、三月廿四日なり。經盛、資盛、皆遁る、已にして自殺す。

宗盛父子、皇弟、皇太后、平時忠以下と、義經に從ひて東す。命ありて、宗盛以下を京師にとなふ。宗盛、輿中より四望す。淸宗、仰ぎ視ず。旣にむ。皆義經の第に抅す。宗盛、衣を解かず。いぬるに袖を以て淸宗をおほふ。守兵見て之を憫む。五月、鎌倉に送る。賴朝之を前舍に延き、庭を隔てゝ相見る。命をおこなふ者至る。宗盛、悚然として死をゆるされんことを請ふ。賴朝、魚をまないたき、刀を加へて之を示し、諷して自殺せしめんとす。宗盛、其意をさとらず。又送りて京師に還す。篠原しのはら【篠原】近江
宗盛殺さる
に至り、父子別に抅す。將に殺されんとするを知るや、乃僧を請ひて佛を稱して曰く、「吾、壇浦に死せざるは、淸宗あるを以ての故のみ」と。是に於て皆斬らる。宗盛、次子あり。副將と曰ふ。先に京師に斬らる。初め壇浦の敗に、時子衆に謂て曰く、「宗盛は故相國しやうこくの子に非ず。吾の再姙するや、相國其男を生むを期す。而して女生まる。吾れ相國の恨怒を恐れ、ひそかに人をして之を一傘工の男兒に易へしむ。宜なるかな、其重盛にかずして、以てこゝに至る」と。宗盛旣に死し、時忠等、皆流に處す。

義經
兵士殘黨
時に義經、賴朝と𨻶あり。逃れて西海に奔る。賴朝其平氏の遺黨と相依託して、亂を作さんことを恐るゝや、北條時政ほうでうときまさを京師に遺し、平氏の胤子の所在に伏匿する者を購ひ索めしめ、幼孩は之をいきながらうづめ、稍長ずる者は之を刄す。其母若くは保、往々隨ひて死す。啼哭よもに聞ゆ。六代維盛の子を六代ろくだいと曰ふ。其母に依りて大覺寺の側に匿れ、人に吿げられてざんに當る。其乳母、僧文覺もんがくに因りて宥を請ふ。賴朝、素より文覺を重んず。且重盛の己れに德するを思ふや、とくに之を宥す。髮を削りて文覺の弟子と爲る。文覺不軌をはかるに及びて六代もつみせられて死す。

忠房初め維盛の弟忠房、壇浦を遁れて紀伊に匿る。知盛の次子知忠、族人の西奔する時に當りて、甫めて三歲なり。乳母の子紀友方きのともかた携へて備後にかくれ、後伊賀に徙る。平氏の舊臣藤原忠淸たゞきよ、宗盛に先だつこと一年にして捕斬せらる。平貞能、髮を削り、重盛の骨を奉じて、常陸に隱る。忠淸の二子忠光、景淸は、平盛嗣等と各所に潜匿す。後八年、鎌倉土木の事あり。賴朝臨む。忠光忠光役徒にまじはり、賴朝を刺さんと欲す。魚鱗を眼に嵌して、以てすがめと爲り、ふごになひて出入す。賴朝、見てあやしみ、之を執ふれば、利刀を懷にせり。曰く、「平氏の臣忠光なり。故主のために仇を復せんと欲す」と。其黨を究問す。曰く、「獨盛嗣あるあり。聞くさきに丹波にあり。今いづくに之けるを知らず」と。復言はず。食飮を絕つこと、月餘にして死す。賴朝大に天下に索むれども、獲る所なし。

後五年、知忠、伊賀より還りて京師に入り、法性寺ほつしやうじの側に匿る。盛嗣、景淸之を聞きて皆至る。諸舊臣稍來り屬し、賴朝の妹婿前原能保まへはらよしやすを襲はんと謀る。能保之を覺り、兵をして圍み攻めしむ。我が兵二十餘人亂射し、敵を殺して死す。知忠友方と俱に自殺す。盛嗣盛嗣、景淸、遁れ走り、忠房紀伊に在りと聞き、往きて之に歸し、兵を擧げて湯淺城に據る。熊野別當べつたうに攻め破られ、忠房捕殺せられ、盛嗣、景淸、又遁る。

景淸賴朝、東大寺に慶するに會ふ。景淸、衆中にまぎれて、これを刺さんと欲す。事あらはれて捕へらる。これを和田わだ義盛よしもりしよくす。義盛、其不遜を苦しみ、之を辭す。乃、はち知家ともいへしょくす。景淸、終に食はずして死す。盛嗣、姓名を變じ、但馬の人氣比けひ道廣みちひろに仕へ、其厩卒となる。因りて其女に通ず。馬に浴する每に馳射の狀を爲す。道廣其の盛嗣なるを知れども問はず。旣にして道廣に隨ひて京師にゆきき、もとの妾家に遊ぶ。妾家之を源氏に吿ぐ。乃、道廣をして之を捕へしむ。道廣、カ士數人を遣し、其浴するをうかゞひて之を圍む。盛嗣、罵りて曰く、「奴輩、吾遁れんと欲せば、即遁れん。而れども主人をわづらはすを欲せず」と。出でて縛に就く。賴朝之を面讓して曰く、「なんぞ壇浦に死せざる」と。對へて曰く、「平氏の胤を擁して、以て舊業を復せんと欲するのみ」と。又問ひて曰く、「汝義盛に依ると聞く、これありや」と。盛嗣曰く、「しからず。さきに京に在りしとき、判官はんぐわんを圖りてげず、爾來頗る利刄銳鏃をまうけて、一たび之を將軍の身に試みんと欲するのみ」と。遂に斬らる。

平氏の評外史氏曰く。我が先王の、國を開き給ひしより、僭亂の臣なきに非ざるなり。而れども未だ社稷を危くせんことを謀りし者有らず獨一の將門まさかどありて、しかも平氏より出づ。豈其宗の大耻に非ずや。然れども能く之を討滅する者も、亦平氏より出でたれば、以て相償ふに足れり。且、將門、一たび誅に伏せしより、後世復神器を覬覦する者なし。彼れ其身を以て天下の大戒を標せんと謂ふべきなり

天慶の亂の源因抑々將門をして一檢非違使を得しめば、則未だ必しも甘じて反賊とならじ。故に天慶の亂は皆相門驕傲にして上下を壅塞せしが致す所なり

其事なきに當りては、朝廷の名爵を私門にめて、人の職を失ふをうれへず。其急なるに及びては、乃、にはかに朱紫を揭げ、天下に呼號し、天下の英雄をして、以て朝廷を窺ふこと有らしむ。源平興起の原因後世源平爭ひ起り功を以て其上にねがふ者は焉ぞ其此にもとづかざるを知らんや

淸盛の評世、淸盛の功は其罪を償はずと稱し、不臣の者をぐれば、輙、以て稱首とす。而して【相家】藤原氏淸盛藤原に學ぶ相家の不臣なるはすでに淸盛に什倍じふばいするを知らず淸盛は盖し視てこれを學びしのみ否らざれば則何ぞ遽に此に至らんや。詩【詩】小雅、裳裳者華の篇に曰く、『唯其れ之あり、是を以て之を似す』と。

相門の權を專にしてより、后は皆其女、天子は皆其女の生みし所。而して卿相は皆其子弟親屬なり。苟も其族類に非ざれば、じよして之を去る。皇族と雖も免るゝこと能はず。甚しきは則其主を易へ置くこと、猶奕棊を視るが如し。淸盛の爲す所、一として彼の己氏に似ざる者なし。而して加ふるに鷙悍を以てす。其意に曰く、「無功の人を以て猶權寵をほしいまゝにせしこと此の如し。吾れの王室に大造ある、何をしてか不可ならん」と。世、其㧞興の漸無きを以て、群起して之をとがむ。而れども之が師【師】藤原氏と爲る者有るを言はず。後白河天皇淸盛の勢を養成す且、淸盛のこゝに至る所以は、後白河帝の其勢を養成せしに由るのみ。夫れ名爵、公器は、私に用ゐる可からず。人臣にして名爵を私するは、是れ其君にそむくなり。人君にして名爵を私するは、是れ其先王に負くなり。先王の名爵を淸盛に濫授し藉りて以て其私を濟す而して其功をたの上にねがふの心を長じ制す可らざるに至るはた誰を咎めんや。然りと雖も平氏の勢を成すものは、獨、帝に始まりしにあらざるなり。初め忠盛、寵を白河、鳥羽に受け、しきりに官爵を進む。人以て不次と爲す。平氏の力を以て源氏を抑へ藤原氏の權を殺ぐ盖し朝廷其力にりて以て源氏をおさへぬ源氏を抑へたるは相家の權をぎし所以なり。源氏、滿仲みつなか賴光よりみつより、つねに相門の爪牙たり。攝政兼家かねいへの花山を騙しゝや、源賴信よりのぶ、實に道途を捍衛せり。降りて文治の際に至りて、朝廷、關白兼實かねざねの源賴朝を助けしを疑ひしも、亦其よゝ相黨援せしを以てせしに非ずや。是に由りて之を觀れば、平宗を延きて以て相門に抗せしめしは院政國論の相傳承する所其れ猶寬平の菅氏を擢任せしが如きか文武異なりと雖も其意は一なり。菅公の賢を以てして、猶權をしたふ意なき能はず。平氏は、重盛を除くの外、皆不學無術なり。其功にほこり、寵をほしいまゝにし、進みて止るを知らざるも、なんとがむるにらんや

假設たとへば、重盛、父に後れて死し、盡く其爲す所をはんして、子弟を戒飭し、王室を輔翼ほよくせば、則藤原氏にあとぎ、隆を比すと雖も可ならん。而れば源氏、何にりて以て起らんや。源平二氏の評論源氏名は暴亂を治むと爲して其實は王權を攘竊せしなり源平の罪未だ輕重し易からざるなり。且夫れ源氏の猜忍にして、骨肉相む、平氏の闔門かふもん、死に至るまで、懿親を失はざりしに比して、孰與いづれぞや。

世、平語を傳へ、琵琶に倚せて之を演ず。其音悲壯感憤にして、聽く者悽愴せざるは莫し。余甞て西、長門に遊びて、壇浦を過ぎ、平氏覆滅の所を觀き。又肥後にいたりて、其州に五家山あり。山谷深阻、平氏或は竄匿し、子孫今に至りて猶存する者あり。外人と交通せずと聞きぬ。夫れ平氏の王家に於る功罪相償へり。天必しも其後を剿絕せざれば、則是れ其れ或ひは然らん。

外史氏曰く。王權の武門に移りしは、平氏より始まり、源氏に成れり。而して之を基しゝものは藤原氏なり。故にほゞ王室、相家の系統を叙でゝ以て參觀に備へん。

盖し神祖【神祖】神武帝より後三十九世を、天智と曰ふ。是を中宗とす。天智の子大友【大友】弘文位に即く。而して天武叔父を以て篡立し、之に持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、帝大炊【大炊】淳仁に傳へらる。凡七世にして天武の嗣絕ゆ。光仁は天智の孫を以て、入りて大統を繼ぎ、之を其子に傳へらる。是を桓武帝とす。桓武の三子、平城、嵯峨、淳和、兄弟相及ぶ。仁明は嵯峨の子を以て之を繼ぐ。文德は仁明の子を以て又之を繼ぐ。文德、幼子なれども、藤原氏の故を以て、立ちて位に卽く。是を淸和帝とす。淸和の子陽成は、藤原氏に廢せらる。光孝は文德の弟を以て之に代へらる。光孝より下、宇多、醍醐、朱雀、村上、父子相繼ぐ。村上の子冷泉、圓融、兄弟相及ぶ。花山は冷泉の子を以て圓融に繼ぐ。一條は圓融の子を以て花山に代る。三條は又冷泉の子を以て、一條に繼ぐ。一條の子後一條、後朱雀、兄弟相及ぶ。後朱雀より下、後冷泉、後三條、白河、堀河、鳥羽、崇德、父子相繼ぐ。崇德より下源平語中に詳なり。帝王廿一世皆藤原氏の出崇德より上文德に至るまで二十一世、其藤原氏のしゆつに非ざりしものは宇多後三條のみ故に皆其權を抑ふるを計りて在位長からず能く志を遂げらるゝことなし。然して宇多以後三朝、攝關を置かず。政、天子にあり。白河以後旣に位を辭して、猶政を聽く。政、上皇にあり。其餘は皆藤原氏の成すを仰ぎたまへり【政を擅にす】攝關政を擅にするなり而して其政を擅にするは文德より始ると云ふ然れども、余おもへらく、藤原氏の驕專なる、其來る久し。獨、文徳の時に始りしに非ざるなり。鎌足鎌足かまたり、天智を助け、力を王室にいたし、其子不比等ふひと四朝【四朝】持統、文武、元明、元正の元老たり。文武、聖武、並に其女を娶りて、孝謙は其外孫女なり。而れども皆淫縱、みの押勝おしかつ、孝謙に嬖せられ、殆ど國家を危くす。實に不比等の孫なれば、則其家法知るべきなり。其後光仁、桓武、仁明、獨、藤原氏に出でず。而して平城より以下、文徳に至るまで、又みな其出なり。文德の外男左大臣冬嗣ふゆつぐは、不比等四世の孫たり。冬嗣の子良房よしふさ、又女を文德に納れて、淸和を生む。文德、長子の惟喬これたかを立てんと欲して良房をはゞか遂に淸和を立つ藤氏の積威一日に非ず則藤原氏の威人主を懾する一日に非ざりしこと又知るべきなり。淸和、生れて九歲にして位に即く良房外祖を以て政を攝す。其子の其經もとつね、陽成を廢して、光孝を立て、萬機を攝關す。攝關號の始攝關の號此に始まる。基經の二子時平ときひら忠平たゞひらあり。忠平は朱雀の朝に攝政す。其二子の實賴さねより師輔もろすけと並に三公に列す。是に於てか、天慶の亂あり。冷泉の二弟、爲平ためひら守平もりひらあり。村上、爲平を立てゝ、冷泉の儲貳まうけきみと爲さんと欲す。而して實賴等、其藤原氏の出に非ざるを以て、之を沮みて守平を立つ。是を圓融とす。是に於てか、安和の變あり。藤氏と帝室との關係を論ず師輔三子あり。伊尹これたゞ兼通かねみち兼家かねいへと曰ふ。兼家三子あり。道隆みちたか道兼みちかね道長みちながと曰ふ。皆兄弟政を爭ふ。伊尹の女、華山を生む。兼家の女、一條を生む。故に兼家道兼をして華山をすかし位を遜れしめて而して一條を以て之に代らしむ是れ其最甚しき者なり。後一條より下三帝、皆道長の女の生みし所、是れ其最寵榮を極めし者なり。道長の二子賴通よりみち敎通のりみち、相繼ぎて政を執る。而して賴通、師實もろざねを生む。師實、忠實たゞざねを生む。忠實、其長子の忠通たゞみちうとんじて、少子賴長よりながを愛す。是に於てか、保元の禍あり。忠通の三子基實もとざね基房もとふさ兼實かねざねあり。基實、基通もとみちを生む。基房、師家もろいへを生む。兼實、良經よしつねを生む。かはる朝政を源平の際に執る。兼實其論議るべき者は、獨、兼實あり。他は位に充つるのみ。其後一姓分れて、五攝家
【五派】近衛、九條、二條、一條、鷹司
五派と爲り、かはる攝關と爲る。而して其進退は復天下の事に關らず。錄するに足らざるなり。之をぶるに良房より下奕葉鈞をる、大抵務めて私門を營み國家の休戚を以て心に經せず而して其權を爭ふに當りては父子兄弟且相保たずして奔競從諛し朝を擧げて風を成せり宜なるかな大亂の是に基すること藤原の末路而して其終り王室と俱に衰へ、共に頽れ、徒に空名を存せり。哀まざるべけんや。

外史氏曰く。吾れ史をけみして、王覇の廢興せる所以を知るあり。源賴朝、甞ておほ廣元ひろもとを奏して、廳使ちやうし衛尉ゑのじやうと爲す。攝政兼實其不可を議して曰く、「儒家進仕の例に非ず」と。藤氏公卿の門閥論を嘲る嗚呼あゝ門閥を以て賢と爲し、格例を以て政を爲す。其才俊驅りて以て梟雄をたすけしめて、猶覺悟せずして此の區々を爭ふ。兼實すら且然り。其他知るべし。さきに相家をして國を憂ふるの心と變に通ずるの略あらしめば何ぞ王權の外移するを患へんやおもふに嚮者、天慶の亂も、亦藤原忠平の廳使を平將門に許さゞりしに由るなり。久い哉。相家の豪傑を沈滯せしむること。抑、將門は自與じよせんと欲せしなり。而して得失を以て榮辱と爲せり。賴朝は之を其下に與へんと欲せしなり。而して從違を以て損益を爲さざりき。又以て世變を觀る可きかな


邦文日本外史卷之一終



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この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。

 
翻訳文:

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