邦文日本外史卷之二
(源氏系圖)
源氏系統
貞純親王源氏は、淸和天皇より出づ。天皇の宮人王氏、貞純親王を生む。四品に叙し、兵部卿に任ぜられ、桃園親王と稱せり。親王二子あり。經基と曰ひ、經生と曰ふ。皆源氏姓を賜はる。
經基、武幹あり、騎射を善くす。親王は帝の第六子たりしを以て、世、經基を呼びて六孫王六孫王經基と曰ひき。天慶中、武藏介と爲る。平將門の反せし時、間行して、入りて之を奏す。因りて從五位下に拜す。藤原忠文に從ひて、將門を伐ち、又小野好古に從ひて賊黨藤原純友を伐つ。終に正四位下に叙し、鎭守府將軍に任ぜらる。子孫世武臣たり。其旗白きを用ゐる。
經基の子多田滿仲八子あり。長は滿仲、攝津の多田に生る。父の職位【父の職位】正四位下、鎭守府將軍を襲ぎ、關東の士心を得たり。安和二年
安和の變冷泉帝安和二年、中務少輔橘繁延、前相模介藤原千晴等、密に爲平親王を挾みて關東に奔り、亂を爲さんことを謀る。滿仲これに與る。已にして滿仲、繁延と𨻶あり。遂に自首す。攝政藤原實賴の旨を以て、弟滿季と與に繁延、千晴を捕へて之を流す。是時に當りて京師の騷擾、天慶の亂の如しと云ふ。
滿仲、甞て謂へらく、武臣天子を衛るに、利刀無かる可らずと。乃、筑前の良冶某を召し、鍛鍊すること六旬にして、二刀を得たり。鬚截、膝丸名づけて鬚截といひ、膝圓といふ。之を子孫に傳へぬ。滿仲、官左馬頭に至る。卒するに及びて、從三位を贈らる。
滿仲の子四子あり。賴光、賴親、源賢、賴信。源賢、僧となる。賴親、興福寺の僧と鬪ひしに坐して、流に處せらる。大和源氏子孫大和に居り、大和源氏と稱す。
賴光賴光、材武に名あり。東宮大進たり。永延中、攝政藤原兼家、新第を造り、之を落す。賴光、馬三十匹を遺りて、以て賓客に分つ。兼家の子道隆、攝政を襲ぐ。其弟右大將道兼、之と權を爭ふ。賴信、素より道兼に事へたり。賴光に謂て曰く、「吾が力能く道隆を刺し、我が主をして之に代らしめん」と。賴光、其口を掩ひて曰く、「妄言する毋れ。事敗るれば、肝腦地に塗れん。汝が主も亦豈晏然として止る可けんや」と。賴信、乃止む。賴光、三子あり。長は賴國、子孫世多田に居り攝津源氏攝津源氏と稱す。
平忠常の亂賴信、尤勇敢にして、善く兵を用ゐる。長元中甲斐守と爲る。會上總介平忠常、亂を作す。朝廷上野介平直方をして東海、東山の兵を將ゐてこれを討たしむ。三歲にして平ぐること能はず。乃、賴信を以て常陸介となし、之を伐たしむ。賴信、命を聞きて卽往く。人其兵の集るを待ちて進まむことを勸むれども聽かず。遂に子の賴義等を率ゐ、進みて鹿島に赴く。忠常舟を奪ひ、柵を海岸に列ぬ。濟る可からず。賴信、弱を示して之を怠らせんことを計り、使をして和を請はしむ。忠常肯ぜず。是に於て、衆を聚めて戰を議す。衆謂へらく、「其れ舟筏なし。宜しく海を循りて赴き攻むべし」と。賴信曰く、「不可なり。賊險を恃む。吾れ直に渡りて、其備へざるを攻めば、一戰にして下す可きなり。聞く、淺き處ありて騎渡すべしと。軍中豈之を知る者有らんか」と。高文といふ者あり。自之を知ると稱し、馳せて海に入り、行葦を立てゝ表と爲す。賴信、軍を麾きて之に從ふ。忠常驚怖し、出でゝ降る。賴信、忠常を斬る之を斬り、首を京師に効す。功を以て從四位上に叙し、上野、常陸介に任ず。賴信謝して曰く、「臣天威を藉り、刃に血ぬらずして强賊を降すを得たり。何の功か之れ有らん。臣老いたり、遠任に堪へず。願はくは改めて丹波を守るを得ん。敢て望む所に非るなり」と。許されず。
賴義子の賴義、沉斷にして武略あり。小一條院の判官代となる。每に獵に從ひ、善く弱弓を用ゐて猛獸を殪す。平直方、其材藝を奇とし、女を以て之に妻す。旣にして賴義、八幡神より劍を賜ふと夢み、其妻姙むことありて、子を生む。賴義喜びて曰く、「此兒、必我が家を興さん」と。因りて名づけて義家と曰ふ。長ずるに及びて八幡の祠前に冠し、八幡太郞八幡太郞と稱す。人と爲り英果にして射を善くす。征行ある每に、未だ嘗て從はずんばあらず。賴義相模守となる。州俗、武を好む。賴義、義家、撫するに恩威を以てす。豪傑爭ひ服し之が用を爲すを樂しむ。
(安倍氏系圖)
前九年戰
安倍賴時是時に當りて陸奧の豪傑安倍賴時、諸部落を併せて、六郡の酋長と爲る。國守、秋田城介と、兵を合せて之を伐つ。賴時、逆へ擊ちて大に之を敗る。白河關以北海に傳るまで、盡く叛き附く。朝議、賴義を以て陸奧守と爲す。義家及び次子の義綱と、兵を率ゐて赴き伐つ。大赦に會ふ。賴時、兵を解きて降り、賴義に臣として事ふ。賴義遂に鎭守府將軍を兼ぬ。
永承七年永承七年、任滿ちて、將に還らんとし、府に入りて事を視る。賴時、厚く其軍を犒ふ。旣にして罷めて國府に歸り、阿栗川に宿す。人あり、藤原光貞の營を襲ふ。初め賴時の長子貞任、婚を光貞に請へども聽さず。故を以て之に報ぜしなり。
衣川關是に於て、賴義、貞任を執へんと欲す。賴時、乃兵を擧げて反し、衣川關に據る。賴義奏して再任を請ひ、兵を發して之を伐つ。賴時の婿藤原經淸、平永衡、來りて官軍に屬す。或人、永衡、虜と私ありと吿ぐ。賴義、永衡を捕へてこれを斬る。經淸も亦自ら安んぜず。遁れて賴時に歸す。賴時の族富忠、勇にして衆あり。賴義、勅旨を以て諭し、官軍に應ぜしむ。賴時も亦親往きて之を說く。賴義富忠をして兵を伏せて要擊せしめ、賴時誅せらる賴時を獲て、之を誅す。而れども貞任の軍猶張る。貞任魁傑にして、善く兵を用ゐる。官軍數利あらず。歲比に飢に屬し糧食給らず。天喜五年天喜五年、賴義、奏して兵食を徵せんことを請ふ。其十一月、自兵千八百を將ゐて、貞任を河碕に伐つ。大風雪に會ひて、人馬凍飢す。貞任選兵四千を以て、鳥海の戰鳥海に戰ひ、左右の翼を縱ち、大に我が軍を敗る。我が軍餘る所僅に六騎なり。虜、急に之れを圍む。矢下ること雨の如し。賴義、義家みな馬を傷つく。從騎下りて之を授く。義家、藤原範明等と、縱橫に奮擊す。虜兵相警めて曰く、「八幡太郎なり」と。遂に退き去る。
源兼長
【出羽守】兼長賴義既に免れ、乃、奏すらく、「兵食の至らざる、遠近皆然り。且出羽守、臣と力を戮せず」と。是に於て、詔して出羽守を罷む。新守至るも、亦敢て來り援けず。貞任の勢益張る。【新守】源齊賴
賴義の再從兄弟經淸をして私符を以て官物を徵さしむ。令して曰く、「白符を用ゐよ、赤符を用ゐる勿れ」と。赤符は官符なり。賴義、益困しむ。對守せしこと數歲なり。康平五年康平五年、任滿ち、高階經重に詔して代り任ぜしむ。國民賴義を慕ひて、經重に服せず。經重已むを得ずして去る。
淸原光賴、武則是に於て、賴義必虜を滅ばさんことを矢ひ、人をして出羽の酋淸原光賴、及び弟武則に說かしめ、諭すに大義を以てせしむ。七月、武則、子弟以下萬餘人を率ゐて至る。賴義、三千人を以て【營岡】陸奥營岡に會議して、七陣と爲し、武則等を以て分ちて之に將たらしめ、而して自第五陣に將たり。進みて【萩埓】陸奥萩埓に至る。將に【小松】出羽小松柵小松の柵を攻めんとし、凶日を以て果さず。淸原氏の候騎、誤りて火を民家に失するに會ふ。柵中大に囂し。賴義、武則に謂て曰く、「機失ふ可らず。日に拘りて何をか爲さん」と。對へて曰く、「我が兵怒りて火の如し。宜しく此時に及びて之を用ゐるべし」と。乃騎兵を遣し、其衝路を絕ち、而して歩兵薄りて之を攻む。深江是則等、死士を以て險を冐し、柵に入る。虜大に擾る。貞任、弟の宗任をして、出でて戰はしむ。賴義、麾下を以て橫に擊ちて之を破る。虜の遊軍、又我第七軍を襲ふ。亦擊ちて大に之を破る。虜遂に柵を棄てゝ走る。乃、柵を焚きて退く。霖雨に會ひて留ること旬餘。磐井以南盡く宗任に應じて、我が糧道を侵奪す。賴義兵を分ちて赴き拒ぐ。九月、貞任我が兵の寡きを瞰ひ、精騎八千を以て來り襲ふ。武則、曰く、「我れ客兵にして、糧乏し。利速に戰ふに在り。彼れ坐ながら之を困しめんとせずして來り戰ふは、是れ自、首を授くるなり」と。賴義大に喜び、長蛇陣長蛇陣を爲し、逆へ戰ふこと半日、大に之を破る。走るを追ひて、磐井河に至りて曰く、「吾れ機に乗じて遂に其巢穴を擣かんと欲す」と。武則をして八百騎を以て、夜之を追はしむ。武則更に死士五十を揀び、間道より貞任の營を焚き、內外より合擊す。虜の軍大に亂れ、走りて衣川險衣川の險を保つ。賴義、義家、進みて之を攻む。河水方に漲る。武則等、戰利あらず。河岸樹有りて水を覆ふを見、武則、矯捷の者をして樹を攀ぢて河を踰え、火を虜の營に縱たしむ。貞任駭き走る。賴義追擊して、連に二柵【二柵】大麻生野、瀨原鳥海の柵を破り、進みて鳥海の柵を拔く。乃、將士を會して飮み、武則に謂て曰く、「吾れ此に至るを得しは、子の力なり。子吾が面目を視る奚若」と。對へて曰く、「臣、將軍の爲に鞭を執る。何の力か之れ有らん。將軍、忠を天子に盡し、野に暴露する十餘年、頭髪みな白し。天地爲に動き、將士爲に奮ふ。虜を破る河を決するが如し。今將軍を視るに、髪復半黑なり。即し貞任を獲ば、全黑とならん」と。賴義喜び、又進みて三柵【三柵】黒澤尻鶴脛、比與登利、出羽を破り、貞任を追ひて、厨川【厨川】出羽厨川柵の柵に至る。柵、水澤に據り、壘を高くし、塹を深くし、塹中に刄を植て、死を以て之を守り、我が兵數百人を殺す。賴義、人家を壞ち塹を堙めしめ、馬を下りて遙に京師を拜し、手に火を取り、號して神火と爲し、之を投ず。風起こるに會ひ、壘柵皆火となる。我が軍因りて急に之を圓む。虜、殊死して戰ふ。武則其一角を解く。虜逃れ走る。賴義撃ちて之を鏖にす。貞任、乃、獨身出でて鬪ふ。我が兵之を叢刺す。殊せず。之を巨楯に載せ、六人にて之を舁きて至る。賴義之を視るに、腰圍七尺、長之に稱ふ。賴義其罪を數へて之を斬る。貞任捕はれて斬らる其子千代其弟重任に及ぶ。經淸も亦縛せられて至る。賴義命じて鈍刀を用ゐて之を斬る。曰く、「猶よく白符を用ゐるか」と。宗任降る宗任等皆降る。賴義、柵中に虜の掠むる所の美女數十人あるを見、盡く分ちて將士に賜ふ。六年六年二月、人をして貞任以下の首を齎して、闕下に献ぜしむ。詔して正四位下に叙し、伊豫守に任ず。義家從五位下に叙し、出羽守に任ず。義綱を左衛門少尉と爲し、淸原武則を鎭守府將軍と爲す。八月、賴義、八幡の祠を鎌倉鶴岡に建てゝ戰功を賽す。
七年七年春、賴義、義家諸の降虜を以て入朝し、奏して有功の將士を賞せんことを請ふ。朝議未だ許さず。故を以て未だ任に赴かず。任國登らず。私資を以て貢賦を濟す。是の如くせしこと二年、賴義上書上書して重任を請ひて曰く、「臣聞く、人臣勲功を建てゝ、恩賞を受くることは、和漢古今同じき所なり。是を以て或は徒隷より起りて、金紫を係け、卒伍より出で、將相に至る者ありと。賴義、功臣の裔を以て恪勤の節を効すこと舊し。適東夷蜂起し、郡縣を侵盜し、人民を鈔略す。六郡の地、皇威に服せざる者數十年なり。近歲に及びて、日に益猖獗なり。賴義、永承六年を以て、任を彼州に受け、天喜中に至りて、兼て鎭府に帥たり。臣、鳳凰の詔を啣み、以て虎狼の國に向ひ、堅を被り銳を執り、身に矢石を受け、千里の外に暴露して、萬死の途に出入す。天子の威と、將卒の力とを籍りて、終に其功を奏するを得たり。其渠帥安倍貞任、藤原經淸等、皆誅戮に伏し、首を京師に傳ふ。其餘の醜虜安倍宗任等、手を束ねて歸降す。其巢窟を掃ひ、之を縣官に收む。叛逆の徒、皆王民と爲る。功績を錄することを蒙り、伊豫を守るを得たり。聖恩を忝くし、欽荷に暇あらず。而して餘燼を鎭服するを以て、猶奧地に留る。且、征戰の際、功勞有る者十餘人、爲に抽賞を請へども、未だ裁許を得ず。是を以て敢て任に赴かず。况や去歲九月、任符を賜はる。遲引の罪、已むを獲ざるに出づ。四歲の任、空く二稔を過ぎ、官物を徵納する能はず。而るに封家納官、督責雲の如し。仍りて私物を以て、且進濟を償へり。彼州の吏言を聞くに、頻年旱凶にして、田に秋實なく、民に菜色ありと。臣謹みて傍例を按ずるに、境に蒞むの年限を延べて、以て闔國の凋弊を救ふ者、其人寔に繁し。况や希世の功を致す者、寧ぞ殊常の恩無からんや。昔班超は三十年を以て西域を平げぬ。今賴義は十二歲を以て東夷を誅せり。遲速優劣は、採擇する難きに非ず。饒、千戶の封を受くる無きも、曷ぞ重任の典を許さざらんや。天恩を望み請ふらくは、臣が意を哀矜して、忝く允可を賜ひ、臣をして徐に與復の計を處し、以て辨濟の方を致すを得られんことを。臣、懇欵に任へず」と。
是より先、諸の降虜皆流に處せらる。義家、宗任宗任の勇を愛して、特に之を親信す。私する所の女子を問はんと、車に乘りて往く。獨宗任從ふ。心陰に報復を圖り、刀を拔きて車中を窺へども、其睡るを見て敢て發せず。後遂に心を傾けて之に事へきと云ふ。
義家、甞て藤原賴通が第を過り、陸奥の戰事を談ず。博士大江匡房、別室に在り之を聞きて曰く、「好男子、惜むらくは未だ兵法を知らず」と。宗任微に之を聞き、慍りて義家に吿ぐ。義家曰く、「其或は然らん」と。匡房の出づるを見て、之に禮し、遂に就きて學ぶ。
承暦三年
【美濃亂】源重宗、源國房、兵を構ふ承暦三年、美濃亂る。義家に詔して往きて之を定めしむ。亂人之を聞きて皆遁る。
延久三年延久三年、陸奥亂る。守源賴俊討ちて之を平ぐ。賴俊は賴親の孫、賴義の從姪なり。
永保二年永保二年、賴義卒す。
(藤原氏系圖)(淸原氏系圖)
後三年の戰三年、義家に詔して陸奥守と爲し、鎭守府將軍を兼ねしむ。初め淸原武則、二子あり。武貞、武衡と曰ふ。武貞、眞衡を生む。又藤原經淸の寡婦を納れて、家衡を生む。亦經淸の子淸衡を養ふ。而して眞衡を嫡嗣と爲す。家衡、淸衡、以下皆之に臣として事ふ。吉彥秀武其姑夫吉彥秀武、事を以て眞衡を怨み、兵を擧げて之に背く。眞衡赴きて之を攻む。秀武、人をして家衡、淸衡に說きて、其虛を襲はしむ。眞衡、乃、還り救ふ。已にして義家至ると聞き、迎へて之を饗し、復、往きて秀武を攻む。二弟又來り襲ふ。義家、兵を從へて其城に入り拒ぎて之を郤く。義家、自、出羽に赴きて、家衡を攻む。利あらずして還る。武衡喜び來りて、家衡に謂て曰く、「子は八幡太郎に克つ。吾曹の榮なり。當に與に力を戮すべし」と。遂に兵を合せ金澤柵金澤の柵に據る。義家大に怒る。
寛治元年寛治元年九月、自數萬騎を將ゐて之を攻む。柵を去ること數里にして雁行の亂るゝを望み見て曰く、「是れ伏有らん」と。兵を縱ちて搜り索む。果して獲て之を鏖にす。衆に謂て曰く、「兵法に言はく、『鳥亂るゝ者は伏なり』と。我れ學ばざらば則殆からん」と。遂に進みて柵を圍む。相摸の人權五郎景政
【敵】鳥海彌三郎鎌倉景政戰を挑む。敵射て其右目に中つ。景政箭を拔かずして己を射たる者を索め、終に之を射殺す。武衛險に據りて死闘し、多く我兵を傷く。又卒千任といふ者をして、義家を詬言せしめて曰く、「汝の父名簿を我に納れて、以て敵に克つを獲たり。簿、見に我に在り汝何を以て我に負くか」と。義家怒りて、之を攻めて、未だ下す能はず。
義家の弟義光、新羅三郞新羅三郞と稱す。亦勇智ありて技能多し。是の時右兵衛尉たり。京師に在りて、兄の軍利あらざるを聞き、奏して赴き援はんことを請ふ。許されず。遂に官を舍てゝ之に赴く。義光素より音を好む。嘗て笙を豐原時元に學ぶ。是の時、時元已に死せり。豐原時秋其孤子時秋、義光を送りて足柄山に至り、月明なるに會ふ。義光因りて笙を吹き、盡く學びし所を授けて訣別し、遂に陸奥に至る。義家喜び泣きて曰く、「吾れ汝を見る、猶先君を見るが如し」と。乃、與に倶に進み攻む。柵固くして拔けず。義家會食に因りて、勇怯の兩列を設け、以て戰士を勵ます。義光の從臣腰秀方、日として勇列に列らざるなし。吉彥秀武、降りて我軍に在り。進みて說く、「宜しく久きを持し、之を困しましむべし」と。義家之に從ひ、令を下して戰を休む。武衡、人をして來り言はしめて曰く、「我が軍、事無きを苦しむ。龜次我に健兒龜次といふ者あり。請ふ、一力人を得て之を角べん」と。乃、鬼武鬼武といふ者を遣す。勝ちて之を殺す。虜、愧憤して出でゝ戰ふ。
已にして虜、食盡き、羸兵を出して來り降らしむ。秀武曰く、「是れ糧を紓するなり。宜しく斬るべし」と。義家又之に從ふ。虜益窘しみ、義光に因りて降を乞ふ。聽さず。再、乞ひ、且、義光に、柵中に臨みて、要結を爲すを請ふ。義光往かんと欲す。義家之を止む。乃、秀方をして往かしむ。虜、刄を露して之を待つ。秀方夷然たり。武衡之に賂ふに金を以てす。秀方之を郤けて曰く、「我が輩將に旦暮之を分ち取らんとす。汝が賂を煩さゞるなり」と。刀を撫して出づ。時に天漸く寒く、軍士凍を恐る。一夜、義家令を軍中に出して曰く、「我が營を燒きて煖を取れ。今夜、虜の柵陷らん。復、營を用ゐざるなり」と。金澤柵陷る黎明に柵中火起り、家衡遁れ、武衡池水の中に潜る。義家之を獲て誚めて曰く、「而が父、吾が父に屬して功を樹て。吾が父請ひて官爵を授けたり。若、怨を以て德に報ずるは何ぞや。名簿果して安に在る」因りて千任を執へて其舌を抜き、武衡を斬らしむ。武衡哀を義光に乞ふ。義光請ひて曰く、「降る者は宜しく赦すべし」と。義家、色を作して曰く、「過を悔いて來り歸す。宗任の如き者、是れ之を降ると謂ふのみ。擒へられて活を求むるは、降るに非ず」と。遂に之を斬る。家衡は其下に殺さる。義家、武衡、家衡以下の首を献ぜんと欲して、奏して官符を下さんことを請ふ。廷議、其を私鬪なりと謂て許さず。故を以て將士を賞せず。遂に首を途に棄てゝ還る。
(源義肖像)義家、父祖の業を承ぎ、善く將士を撫す。其陸奥を征するや、前は九年、後は三年。東國の士民、皆其恩信に服し、相與に共に請ひて其子弟を留め、之を擁戴して、自其家人と呼び、義家を稱して八幡公と曰ふ。是時に當りて八幡公の威名、朝野に徧し。白河法皇、嘗て夢魘を患ひ給ふ。義家に詔して、其兵器を献ぜしめて、之を鎭む。義家一の玄弓を献じて御枕の上に建つ。卽、患無し。法皇問ひて曰く、「乃、東征に執る所なる毋からんや」と。對へて曰く「臣記せざるなり」と。法皇これを嗟賞す。然して義家の官位甚だ卑し。正四位下右衛門尉を以て天仁元年に卒す。年六十八。
六子あり。義宗、義親、義國、義忠、義時、義隆。義忠、最、名あり。官、檢非違使に至る。季父義光之を嫉み、義忠の臣鹿島某を誘ひて、陰に之を殺さしむ。初め義忠の叔父義綱、義家と相惡みて、兵を構ふ。詔して兩家の兵、京師に入るを禁ぜられて、事寢むを得たり。後義綱陸奥守を以て、擊ちて亂人平師妙を出羽に平ぐ。功を以て從四位上に拜す。其黨、頗廣し。此に至りて、朝議、義忠の死を以て、義綱の子義明に出づとし、兵を遣して之を殺さしむ。義綱、甲賀山に據る。源爲義に詔して、之を討たしむ。義綱、自、髠して降る。佐渡に流ず。義光の子孫、世甲斐に居る。因りて甲斐源氏と稱す。
爲義は、義親の子なり。義親、對馬守と爲り、罪を以て誅せらる。爲義幼にして孤なり。義家之を奇とし、以て義忠の嗣と爲さんと欲す。甲賀の捷に、左兵衛尉に拜す。時に年十四なり。其明年、義家卒す。爲義、遂に直に義家の後承ぐ。居ること五歳、南部の僧兵叡山を攻む。又爲義に命ず。爲義、十七騎と、栗子山に逆へ擊ちて、之を走らす。後十餘歲、累遷して檢非違使左衛門大尉と爲り、五位に叙せらる。
爲義、二十三子あり。長を義朝と曰ふ。尤、善く戰ふ。相模の鎌倉に居る。關東の家人盡く之に附く。下野守と爲る。第八子を爲朝と曰ふ。猿臂にして善く射る。幼にして諸兄を凌犯す。爲義之を患ひて、之を豐後に逐ふ。鎭西八郎と曰ふ自、九國總追捕使と稱し、妻の父阿曾忠國を以て鄕導と爲し、數菊池、原田の諸大姓と戰ふ。十五歲に比びて、遂に盡く九國を伏す。九國の守介交之を訴ふ。朝廷、太宰府に敕して之を討たしむれども、克つこと能はず。爲義坐して官を免ぜらる。爲朝聞きて之を病ひ、須藤家季等二十八人と倶に京師に至りて、罪を待つ。
是歲、近衛帝崩ず。帝は鳥羽法皇の寵姫得子の生む所たり。夙く禪を崇德上皇に受く。帝崩ずるに及びて、上皇、位に復せんことを願はる。法皇、得子と議して、帝の兄を立てゝ位に卽かしむ。是を後白河帝とす。帝の保元元年、法皇疾あり。得子を召して之に一筐を授け、戒めて曰く、「緩急之を啓け」と。七月、法皇崩ず。上皇、兵を起こして白河殿に據る。左大臣藤原頼長謀主となりて、四に兵を募る。京畿大に擾る。得子乃筐を啓けば、則、武臣十人の名を書せり。義朝之が首たり。卽、義朝を召す。義朝乃兵を率ゐて、族の賴政等と倶に高松殿を衛る。賴政は賴光五世の孫也。
安藝守平淸盛も亦召に應じ入りて衛る。
是に於て、上皇使者をして爲義を召さしむ。爲義辭して曰く、「臣老贏、復、平昔に非ず。長子義朝勇にして衆あり。而れども既に禁內に赴けり。餘子は獨爲朝用ゐる可し。君請ふ、之を用ゐ給へ、臣を以て爲す毋れ。且、臣、家に傳へし所の八甲、風の漂はす所を夢む。臣、心に之を惡む。往くも必利あらじ」と。使者之を强ふ。爲義已を得ずして、諸子を率ゐて之に赴く。上皇喜び以て判官代と爲し、邑及び寶劔を賜ひ、四子賴賢を以て藏人と爲す。因りて會して戰を議す。爲朝進み言て曰く、「臣、大戰二十たび。小戰二百たび。以て九國を芟鋤せり。少を以て衆を擊つは、毎に夜攻に利あり。臣請ふ、今夜、高松殿を襲ひ、其三方に火して、これを一面に要せん。其善く戰ふ者は獨、臣の兄義朝あり。然れども臣一矢もて之を斃さん。平淸盛輩の如きに至りては、臣鎧袖一觸せば、皆、自、倒れんのみ。則、乘輿必出でざるを得ず。臣乃矢を其從兵に加へ、輿を此に徒して、陛下を彼に奉ぜんこと、易きこと掌を反すが如し。則、東方未だ白けざるに、大事集らん」と。賴長曰く、「爲朝年少くして氣を負ふ。言ふ所皆鄙人私鬪の事なり安ぞ之を帝王の戰に施す可けんや。兩帝、國を爭ひたまふ、當に堂々の陣を用ゐるべし。南都の僧兵、召に應じて且に至らんとす。軍を成し以て戰ふも、未だ晩しと爲さざるなり」と。爲朝退き、竊に罵りて曰く、「唉、長袖、惡ぞ兵を知らんや。家兄謀あり。將に我が爲さんと欲する所に出でんとす。僧兵寧ぞ須つ可けんや」と。爲義、又策を進めて曰く、「本宮は垣溝單淺にして、地の據る可きなし。寡兵を以て此を保つは計に非ざるなり。陛下宜しく南都に幸し、宇治橋を撤して以て守るべし。卽し利あらずば、關東に幸せよ。臣、家人を糾合して、輿を奉じ闕に復せん。臣之を籌るに難からず」と。賴長聽さず。爲義退きて言て曰く、「吾れ死所を知らず」と。其六子、賴賢、賴仲、爲宗、爲成、爲朝、爲仲と、八甲を分ちて之を擐き、一を義朝に送る。爲朝軀幹大にして、服る可からず。乃、他の甲を服し、獨二十八人を以て西門を守る。餘子盡く父に從ひ、百騎を以て南西の門を守る。平忠政等の諸將は、兵數百を以て、分れて諸門を守る。
義朝、禁内に在り。關白藤原忠通以下、聚議して决せず。義朝數之を趣す。詔あり、義朝を階下に召して、計を問ふ。對へて曰く、「勝を一擧に取るは、夜攻に若くはなし。臣聞く、『南都の兵千餘、上皇の徵に應じて、已に宇治に次す』と。宜しく其未だ至らざるに及びて之を擊つべし」と。之に從ふ。詔あり、「戰勝たば昇殿を聽さん」と。義朝對へて曰く、「武臣義に赴く、生きて還るを期せず。臣請ふ、賜を拜して死なん」と。衣を攝げて昇る。藤原通憲奏して曰く、「彼の會祖、祖父甞て昇殿を聽さる。而して父は則未だし。子を以て父に先するは若何」と。詔して曰く、「問ふ勿れ」と。義朝感喜す。營に還るとき鞭を車傍に繋けて曰く、「我れ卽し戰死せば、誰か我が昇殿を得たるを知らん。此れ之を識すなり」と、乃、選兵四百を以て、白河殿を襲ふ。平淸盛も亦これに赴く。兵凡數千人なり。
上皇の謀者還り報ず。爲朝哂ひて曰く、「固より當に然るべきのみ」と。賴長、爲朝が用を爲さゞりしを恐れ。遽に拜して藏人とす。爲朝曰く、「吾れ何ぞ藏人を用ゐることを爲さん。吾れ鎭西八郞にて可なり」と辭して拜せず。將に戰はんとす。諸子先を爭ひて决せず。爲朝曰く、「戰に臨みて何ぞ兄弟を論ぜん。然れども吾れ嚮に不遜を以て罪を獲たり。故に先ぜんと欲すれども、敢てせず。唯、敵の勁くして當り難き處、輙我に命ぜよ」と。賴賢、賴仲、邀へて義朝を擊ちて、敗れ退く。
義朝随ひて之を攻む。平淸盛西門を攻む。其將伊東景綱、二子伊東五、伊東六と先づ進む。爲朝之を射、五の胸を洞し、六の袖に着く。淸盛慴懼して退く。獨、其騎山田伊行返り戰ふ。爲朝又射て之を斃す。馬逸して義朝の陣に入る。鏃、鞍を穿つ。大さ巨鑿の如し。部將鎌田政家、取りて之を献じて曰く、「八郞君の爲す所なり」義朝曰く、「彼れ弱齡、未だ當に此に至るべからず。詐り設けて以て敵を怖すのみ。汝之を甞試よ」と。政家、自、呼びて進む。爲朝曰く、「爾は吾が家人に非ずや」と。對へて曰く、「昔は主君たり。今は兇徒たり」と。射て其冑に中つ。爲朝大に怒りて、二十八騎と門を闢きて突出す。政家辟易して退き走る。義朝、二百騎を以て之に馳す。呼びて曰く、「吾れ宣旨を奉じて來る。汝盍ぞ速に降らざる。乃、弓を其兄に彎ゐんせんくや」と。爲朝曰く、「判官公院宣を受けて、爲朝等をして拒戰せしむ。且弓を其兄に彎くと、刃を其父に推すと、孰與ぞや」ど。因りて大に戰ふ。
義朝、馬を莊嚴院の門に立つ。爲朝之を望見して箭を注く。既にして之を舍てゝ曰く、「父此に在り。兄彼れに在り。焉ぞ其潜約する所ありて、勝敗互に相救護せざるを知らんや」と。乃、鳴鏑を注け、願て家季に謂て曰く、「吾れ且其魄を褫はん」と。家季曰く、「誤るなきを得んや」と。爲朝曰く、「第、吾が爲す所を觀よ」と。乃、射で冑臍を穿ちて、門扇を貫く。義朝大に驚き、乃、呼びて曰く、「八郞、射来だ精しと爲さず」と。爲朝曰く「敢てせざる耳。卽し許さるれば甲の鬲、胃の題、唯阿兄の命ずる所のまゝ」と。乃、大箭を注く。深巢淸國、進みて義朝を蔽ふ。弦に應じて倒る。義朝の兵、死傷最衆し、爲朝も亦二十三騎を喪ひ、猶固く守る。爲義、賴賢等また善く拒ぐ。
天、漸、明く。義朝使を馳せ、奏して火攻を用ゐんと請ふ。之を
聽す。乃、火を上風に
縱つ。烟焰宮を蔽ふ。宮中大に亂る。義朝等
皷操して、終に之を
陷る。上皇出でゝ奔り、
如意山に入る。爲義以下悉く之に從ふ。上皇
親諭して之を
散遣す。皆泣を揮ひて散ず。
爲義、將に東國に遁れんとすれども、病みて行く能はず。蓑浦に抵る。追兵來り薄る。諸子力戰して之を郤く。士卒盡くるに垂とす。乃、髮を削り、義朝に因りで降を請はんと欲す。爲朝、諫めて曰く、「上皇は、帝の同母兄なり。而して左府は關白の親弟たり。聞く、『上皇已に讃岐に遷り、左府も亦死せり』と。骨肉の恃む可からざる此の如し。大人盍ぞ鑑みざる。東國に赴き、其豪族に倚るに若かず官軍卽し來らば、兒爲に力を竭さん。力盡きて後に死せん。亦可ならずや」と。聽かず。遂に出でゝ降る。初め淸盛、敕を奉じて爲義を索むれ共得ず。會平忠政出でゝ降る。其叔父なり。素より與に隙あり。斬りて之を献じて、以て義朝を搖かす。詔あり。義朝をして爲義を斬らしむ。義朝數己れが戰功を以て其命を贖はんことを請ふ。帝怒りて曰く、「淸盛よく叔父を誅しぬ。義朝獨り父を誅する能はざるか。果して能はずんば將に淸盛に命じて之を斬らしめん」と。義朝憂懼して出づる所を知らず。之を鎌田政家に謀る。政家對へて曰く、「此れ臣が敢て議する所に非ず。然れども既に國讎たり。竟に誅を免れじ。其人に死せんより、寧子に死せん」と。義朝、意決し、政家をして誘ひて之を殺さしめ、自ら其首を奉じて闕に詣る。賴賢以下五人皆誅に伏す。
猶四弟あり。乙若、龜若、鶴若、天王と曰ふ。皆幼し。義朝、詔を以て人を遺し之を殺さしむ。鶴若、使者に謂て曰く、「抗闘する者は死に當らん。吾儕何ぞ科を同くせん。恐らくは汝謬り聞けるならん」と。龜若曰く、「家兄誤れり。吾輩をして存在せしめば、數百の士卒よりも多らん」と。乙若諸弟を諭して曰く、「汝が輩復言ふ勿れ、下野守既に父に忍ぶ。何ぞ弟に有らんや。是れ他なし。淸盛の計中に陷りて、自ら其羽翼を鍛てるのみ。事已に此に至る。生きて猶辱を蒙らんより、速に死して以て父に地下に從ふに若かず」と。首を駢て刄を受く。
爲朝、輪田に匿れ、將に鎭西に奔らんとす。平氏の將平家貞、之を要すと聞きて果さず。適疾ありて、民家に浴す。或人其身材魁偉なるを視て、之を官に吿ぐ。兵を遣して之を圍む。官、爲朝裸體にて柱を抉し、數人を擊殺して縛に就き、闕庭に至る。特に死一等を减じ、其臂筋を拔きて大島に流す。爲朝筋力减ずと雖も箭を用ゐるは長きを加ふ。曰く、「天子我に大島を賜ふ」と。遂に傍の五島を併有す。大島に流す舊臣稍々來り附く。後數年、狩野介に敕してこれを攻めしむ。爲朝射て其一艦を沒し、自ら逃れて琉球に入ると云ふ。義朝と藤原通憲と不和義朝の捷つや、賞して右馬權頭とす。義朝奏して曰く、「是れ先臣滿仲が拜せし所然して彼れは左、此れは右、且、權と曰ふ。臣未だ其榮を知らざるなり」と。是に於て、陞せて左馬頭とす。而して資望終に平氏に及ばず。
平氏素より少納言藤原並憲と善し。通憲、帝の乳母の子なるを以て、貴幸せられて事を用ゐる。義朝、女を以て其婦と爲さんと欲す。通憲、義朝を鄙み、之を卻けて曰く、「我が子は學生、子の女の偶に非ず」と。乃淸盛と婚す。
二條天皇
藤原信頼帝既に位を二條帝に禪り。而して猶政を聽く。嬖人藤原信賴、通憲と惡し。則、寖、義朝を引きて自援け、說くに甘言を以てす。義朝、深く之に結ぶ。平治元年平治元年平治の亂十二月、淸盛熊野に如く。信賴、乃、義朝に謂て曰く、「通憲、寵を恃みて、自、專にし、陰に淸盛と、子の家とを剪除せんと謀る。彼の專橫なる、上皇と雖も、亦之を厭ふ。吾れ事を發し、讒人を誅夷せんと欲す。子何ぞ相助けざる」と。義朝曰く、「吾れ殊功を建てゝ父の命を贖ふ能はず。親屬摧頽す。淸盛此時に乘じて以て我を陷擠せんと欲す。我れ之を知らざるに非ず。公此擧有り。敢て力を効さざらんや」と。信賴大に喜び、贈るに鎧仗名馬を以てす。義朝、又之をして賴政を招かしむ。
是に於て、義朝五百騎を以て、夜、三條殿を圍み、之を焚き、又通憲の第を焚く殺傷する所甚衆し。通憲殺さる通憲遁逃す。追ひ獲て之を斬る。信賴、帝及び上皇を挾み、大內に據る。義朝の第三子を賴朝と曰ひ、鬼武者と稱す。時に年十三。右兵衛佐たり。進みて義朝に謂て曰く、「淸盛等、將に還らんとすと聞く。盍ぞ逆へ撃たざる。乃、坐ながら之を待たんや」と。惡源太義平賴朝の長兄義平、鎌倉に在り。甞て其叔父義賢と隙あり。【大蔵】武蔵大藏に戰ひて之を斬る。人呼びて惡源太と曰ふ。是に於て、變を聞き、晨夜馳せ至る。信賴之に授くるに官を以てせんと欲す。義平辭して曰く、Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/213Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/214Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/215Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/216Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/217Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/218Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/219Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/220Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/221Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/222Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/223Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/224Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/225Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/226Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/227Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/228Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/229Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/230Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/231Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/232Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/233Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/234Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/235Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/236Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/237Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/238Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/239Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/240Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/241Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/242Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/243Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/244Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/245Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/246Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/247Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/248Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/249Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/250Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/251Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/252Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/253Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/254Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/255Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/256Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/257