邦文日本外史卷之二

源氏正記

源氏上

(源氏系圖)

源氏系統
貞純親王
源氏は、淸和天皇より出づ。天皇の宮人きうじん王氏わうし貞純親王さだずみしんわうを生む。四ほんに叙し、兵部卿ひやうぶきやうに任ぜられ、桃園もゝぞの親王と稱せり。親王二子あり。經基つねもとと曰ひ、經生つねなりと曰ふ。皆源氏姓を賜はる。

經基、武幹あり、騎射を善くす。親王はていの第六子たりしを以て、世、經基を呼びて六孫王ろくそんわう六孫王經基と曰ひき。天慶てんぎやう中、武藏介むさしのすけと爲る。平將門たひらまさかどの反せし時、間行かんかうして、入りて之をそうす。りて從五位下にはいす。藤原忠文たゞふみに從ひて、將門をち、又小野をの好古よしふるに從ひて賊黨藤原純友すみともを伐つ。終に正四位下に叙し、鎭守府ちんじゆふ將軍しやうぐんに任ぜらる。子孫よゝ武臣たり。其旗白きを用ゐる。

經基の子多田滿仲八子あり。長は滿仲みつなか、攝津の多田たゞに生る。父の職位しよくゐ【父の職位】正四位下、鎭守府將軍ぎ、關東くわんとうの士心を得たり。安和二年
安和の變
冷泉れいぜい安和あんわ二年、中務少輔なかつかさのせふたちばな繁延しげのぶさきの相模すけ藤原千晴ちはる等、密に爲平ためひら親王をさしはさみて關東に奔り、亂を爲さんことをはかる。滿仲これにあづかる。已にして滿仲、繁延と𨻶あり。遂に自首じしゆす。攝政せつしやう藤原實賴さねよりの旨を以て、弟滿季みつすゑともに繁延、千晴をとらへて之をながす。是時に當りて京師の騷擾、天慶の亂の如しと云ふ。

滿仲、甞ておもへらく、武臣天子をまもるに、利刀無かる可らずと。乃、筑前ちくぜん良冶りやうや某を召し、鍛鍊たんれんすること六旬にして、二刀をたり。鬚截、膝丸名づけて鬚截ひげきりといひ、膝圓ひざまるといふ。之を子孫に傳へぬ。滿仲、官左馬頭さまのかみに至る。しゆつするに及びて、從三位を贈らる。

滿仲の子四子あり。賴光よりみつ賴親よりちか源賢げんけん賴信よりのぶ。源賢、僧となる。賴親、興福寺の僧と鬪ひしにして、しよせらる。大和源氏子孫大和に居り、大和源氏と稱す。

賴光賴光、材武に名あり。東宮大進とうぐうのだいしんたり。永延中、攝政藤原兼家かねいへ新第しんていつくり、之をらくす。賴光、馬三十匹をおくりて、以て賓客に分つ。兼家の子道隆みちたか、攝政を襲ぐ。其弟大將道兼みちかね、之と權を爭ふ。賴信、素より道兼に事へたり。賴光に謂て曰く、「吾が力能く道隆を刺し、我が主をして之に代らしめん」と。賴光、其口をおほひて曰く、「妄言するなかれ。事敗るれば、肝腦かんなうまみれん。汝が主も亦豈晏然として止る可けんや」と。賴信、乃む。賴光、三子あり。長は賴國よりくに、子孫よゝ多田たゞに居り攝津源氏攝津源氏と稱す。

平忠常の亂賴信、尤勇敢ゆうかんにして、善く兵を用ゐる。長元中甲斐守と爲る。たま上總すけ忠常たゞつね、亂を作す。朝廷上野すけ直方なほかたをして東海、東山の兵をひきゐてこれを討たしむ。三歲にして平ぐること能はず。乃、賴信を以て常陸すけとなし、之を伐たしむ。賴信、命を聞きて卽往く。人其兵の集るを待ちて進まむことを勸むれども聽かず。遂に子の賴義よりよし等を率ゐ、進みて鹿島かしまに赴く。忠常舟をうばひ、さくを海岸に列ぬ。わたる可からず。賴信、弱を示して之を怠らせんことを計り、使をして和を請はしむ。忠常がへんぜず。是に於て、衆を聚めて戰を議す。衆へらく、「其れ舟筏しうばつなし。宜しく海をめぐりて赴き攻むべし」と。賴信曰く、「不可なり。賊險をたのむ。吾れ直に渡りて、そのそなへざるを攻めば、一戰にして下す可きなり。聞く、淺き處ありて騎渡きとすべしと。軍中豈之を知る者有らんか」と。高文たかふみといふ者あり。自之を知ると稱し、せて海に入り、ゆくあしを立てゝ表と爲す。賴信、軍をさしまねきて之に從ふ。忠常驚怖し、出でゝくだる。賴信、忠常を斬る之をり、かうべを京師にいたす。功を以て從四位上に叙し、上野、常陸介に任ず。賴信しやして曰く、「臣天威てんゐり、やいばに血ぬらずして强賊を降すを得たり。何の功か之れ有らん。臣老いたり、遠任ゑんにんへず。願はくは改めて丹波を守るを得ん。敢て望む所に非るなり」と。許されず。

賴義子の賴義、沉斷にして武略あり。小一條院の判官代はうぐわんだいとなる。つねかりに從ひ、善く弱弓を用ゐて猛獸をたふす。平直方、其材藝を奇とし、むすめを以て之にめあはす。旣にして賴義、八幡神よりけんたまふとゆめみ、其妻はらむことありて、子を生む。賴義喜びて曰く、「此兒、必我が家をおこさん」と。因りて名づけて義家よしいへと曰ふ。長ずるに及びて八幡の祠前しぜんに冠し、八幡太郞八幡太郞と稱す。人とり英果にして射を善くす。征行せいかうある每に、未だ嘗て從はずんばあらず。賴義相模守となる。州俗、武を好む。賴義、義家、するに恩威おんゐを以てす。豪傑爭ひ服し之が用を爲すを樂しむ。

(安倍氏系圖)

前九年戰
安倍賴時
是時に當りて陸奧むつの豪傑安倍賴時あべのよりとき、諸部落をあはせて、六郡の酋長しうちやうる。國守こくしゆ秋田城介あきたじやうのすけと、兵を合せて之をつ。賴時、むかちて大に之をやぶる。白河關しらかはのせき以北海にいたるまで、盡く叛き附く。朝議てうぎ、賴義を以て陸奧守と爲す。義家及び次子の義綱よしつなと、兵を率ゐて赴き伐つ。大赦たいしやふ。賴時、兵を解きて降り、賴義に臣としてつかふ。賴義遂に鎭守府ちんじゆふ將軍しやうぐんを兼ぬ。

永承七年永承七年、任滿ちて、將に還らんとし、府に入りて事をる。賴時、厚く其軍をねぎらふ。旣にして罷めて國府に歸り、阿栗あくり川に宿しゆくす。人あり、藤原光貞みつさだの營を襲ふ。初め賴時の長子貞任さだたふこんを光貞に請へどもゆるさず。故を以て之に報ぜしなり。

衣川關是に於て、賴義、貞任をとらへんと欲す。賴時、乃兵を擧げて反し、衣川關ころもがはのせきる。賴義そうして再任を請ひ、兵を發して之を伐つ。賴時の婿むこ藤原經淸つねきよ、平永衡ながひら、來りて官軍に屬す。或人、永衡、りよと私ありと吿ぐ。賴義、永衡をとらへてこれを斬る。經淸も亦自ら安んぜず。のがれて賴時に歸す。賴時の族富忠とみたゞ、勇にして衆あり。賴義、勅旨を以てさとし、官軍に應ぜしむ。賴時も亦親往きて之を說く。賴義富忠をして兵をせて要擊せしめ、賴時誅せらる賴時を獲て、之を誅す。而れども貞任の軍猶張る。貞任魁傑くわいけつにして、善く兵を用ゐる。官軍しば利あらず。歲しきりに屬し糧食らず。天喜五年天喜五年、賴義、奏して兵食をちようせんことを請ふ。其十一月、自兵千八百を將ゐて、貞任を河碕かはさきに伐つ。大風雪に會ひて、人馬凍飢とうきす。貞任選兵せんぺい四千をて、鳥海の戰鳥海とのみに戰ひ、左右の翼をはなち、大に我が軍を敗る。我が軍餘る所僅に六なり。りよ、急に之れをかこむ。矢下ること雨の如し。賴義、義家みな馬を傷つく。從騎下りて之を授く。義家、藤原範明のりあき等と、縱橫に奮擊す。虜兵相いましめて曰く、「八幡太郎なり」と。遂に退き去る。

源兼長
【出羽守】兼長
賴義既に免れ、乃、奏すらく、「兵食の至らざる、遠近皆然り。且出羽守、臣と力をあはせず」と。是に於て、詔して出羽守をむ。新守至るも、亦敢て來りたすけず。貞任の勢ます張る。【新守】源齊賴
賴義の再從兄弟
經淸をして私符しふを以て官物をさしむ。令して曰く、「白符はくふを用ゐよ、赤符せきふを用ゐる勿れ」と。赤符は官符くわんぷなり。賴義、ますくるしむ。對守たいしゆせしこと數歲なり。康平五年康平五年、任滿ち、高階經重たかしなつねしげに詔して代り任ぜしむ。國民賴義を慕ひて、經重に服せず。經重已むを得ずして去る。

淸原光賴、武則是に於て、賴義必りよを滅ばさんことをちかひ、人をして出羽のしう淸原光賴きよはらみつより、及び弟武則たけのりに說かしめ、さとすに大義たいぎを以てせしむ。七月、武則、子弟以下萬餘人を率ゐて至る。賴義、三千人を以て【營岡】陸奥營岡たむろのをかに會議して、七ぢんと爲し、武則等を以て分ちて之に將たらしめ、而して自第五陣に將たり。進みて【萩埓】陸奥萩埓はぎのばばに至る。まさ【小松】出羽小松柵小松のさくを攻めんとし、凶日きようじつを以てはたさず。淸原氏の候騎かうき、誤りて火を民家に失するにふ。柵中大にかまびすし。賴義、武則に謂て曰く、「失ふ可らず。日にかゝはりて何をか爲さん」と。對へて曰く、「我が兵怒りて火の如し。宜しく此時に及びて之を用ゐるべし」と。乃騎兵を遣し、其衝路しようろち、而して歩兵せまりて之を攻む。深江是則ふかえこれのり等、死士を以てけんをかし、柵に入る。虜大にみだる。貞任さだたふ、弟の宗任むねたふをして、出でて戰はしむ。賴義、麾下きかを以てよこさまに擊ちて之を破る。虜の遊軍、又我第七軍を襲ふ。亦擊ちて大に之を破る。虜遂に柵を棄てゝ走る。乃、柵を焚きて退く。霖雨りんうに會ひて留ること旬餘じゆんよ磐井いはゐ以南ことく宗任におうじて、我が糧道りやうだうを侵奪す。賴義兵を分ちて赴きふせぐ。九月、貞任我が兵のすくなきをうかゞひ、精騎八千を以て來り襲ふ。武則たけのり、曰く、「我れ客兵かくへいにして、糧とぼし。利速に戰ふに在り。彼れながら之をくるしめんとせずして來り戰ふは、是れ自、首を授くるなり」と。賴義大に喜び、長蛇陣長蛇陣ちやうだのぢんを爲し、むかへ戰ふこと半日、大に之を破る。走るを追ひて、磐井河いはゐかはに至りて曰く、「吾れじようじじて遂に其巢穴をかんと欲す」と。武則をして八百騎を以て、夜之を追はしむ。武則更に死士五十をえらび、間道より貞任の營を焚き、內外より合擊がふげきす。虜の軍大に亂れ、走りて衣川險衣川ころもがはの險を保つ。賴義、義家、進みて之を攻む。河水まさに漲る。武則等、戰利あらず。河岸かがん樹有りて水をおほふを見、武則、矯捷けうせふの者をして樹をぢて河をえ、火を虜の營にはなたしむ。貞任おどろき走る。賴義追擊して、しきりに二柵【二柵】大麻生野、瀨原鳥海の柵を破り、進みて鳥海とのみの柵を拔く。乃、將士を會して飮み、武則に謂て曰く、「吾れ此に至るを得しは、子の力なり。子吾が面目を奚若いかん」と。對へて曰く、「臣、將軍の爲にむちを執る。何の力か之れ有らん。將軍、忠を天子に盡し、野に暴露ばくろする十餘年、頭髪とうはつみなしろし。天地爲に動き、將士爲に奮ふ。虜を破る河を決するが如し。今將軍を視るに、かみまた半黑なり。し貞任を獲ば、全黑ぜんこくとならん」と。賴義喜び、又進みて三柵【三柵】黒澤尻鶴脛、比與登利、出羽を破り、貞任を追ひて、厨川くりやがは【厨川】出羽厨川柵の柵に至る。柵、水澤すゐたくに據り、るゐたかくし、せんふかくし、塹中に刄をて、死を以て之を守り、我が兵數百人を殺す。賴義、人家をこはち塹をうづめしめ、馬を下りてはるかに京師を拜し、手に火を取り、がうして神火しんくわと爲し、之を投ず。風起こるに會ひ、壘柵るゐさく皆火となる。我が軍因りて急に之を圓む。虜、殊死して戰ふ。武則其一角を解く。虜逃れ走る。賴義撃ちて之をみなごろしにす。貞任、乃、獨身出でて鬪ふ。我が兵之を叢刺そうしす。しゆせず。之を巨楯きよじゆんに載せ、六人にて之をきて至る。賴義之を視るに、腰圍七尺、たけ之にかなふ。賴義其罪をかぞへて之を斬る。貞任捕はれて斬らる其子千代ちよ其弟重任しげたふに及ぶ。經淸も亦ばくせられて至る。賴義命じて鈍刀を用ゐて之を斬る。曰く、「猶よく白符を用ゐるか」と。宗任降る宗任等皆降る。賴義、柵中にりよかすむる所の美女數十人あるを見、盡く分ちて將士に賜ふ。六年六年二月、人をして貞任以下のかうべもたらして、闕下けっかに献ぜしむ。詔して正四位下に叙し、伊豫守いよのかみに任ず。義家從五位下に叙し、出羽守に任ず。義つな左衛門少尉さゑもんのせうじやうと爲し、淸原武則を鎭守府將軍と爲す。八月、賴義、八幡のやしろを鎌倉鶴岡つるがおかに建てゝ戰功を賽す。

七年七年春、賴義、義家もろの降虜を以て入朝し、奏して有功の將士を賞せんことを請ふ。朝議未だ許さず。故を以て未だ任に赴かず。任國みのらず。私資を以て貢賦こうふす。是の如くせしこと二年、賴義上書上書して重任ちょうにんを請ひて曰く、「臣聞く、人臣勲功を建てゝ、恩賞を受くることは、和漢古今わかんここん同じき所なり。是を以て或は徒隷とれいより起りて、金紫きんしけ、卒伍そつごより出で、將相しやうに至る者ありと。賴義、功臣のえいを以て恪勤かくきんの節をいたすことひさし。たま東夷蜂起し、郡縣を侵盜しんたうし、人民を鈔略せうりやくす。六郡の地、皇威くわうゐに服せざる者數十年なり。近歲に及びて、日にます猖獗しようけつなり。賴義、永承六年を以て、任を彼州に受け、天喜中に至りて、兼て鎭府ちんふすゐたり。臣、鳳凰の詔をふくみ、以て虎狼こらうの國に向ひ、けんかふむえいり、身に矢石しせきを受け、千里の外に暴露して、萬死の途に出入す。天子の威と、將卒の力とを籍りて、終に其功を奏するを得たり。其渠帥きよすゐ安倍貞任あべのさだたふ藤原經淸ふぢはらつねきよ等、皆誅戮ちうりくに伏し、首を京師に傳ふ。其餘の醜虜しうりよ安倍宗任等、手を束ねて歸降す。その巢窟さうくつはらひ、之を縣官にをさむ。叛逆の徒、皆王民と爲る。功績を錄することを蒙り、伊豫を守るを得たり。聖恩せいおんを忝くし、欽荷きんかいとまあらず。而して餘燼よじんを鎭服するを以て、なほ奧地あうちに留る。且、征戰せいせんの際、功勞有る者十餘人、爲に抽賞ちうしやうを請へども、未だ裁許を得ず。是を以て敢て任に赴かず。况や去歲九月、任符にんぷを賜はる。遲引ちいんの罪、已むを獲ざるに出づ。四歲の任、空く二ねんを過ぎ、官物を徵納ちようなふする能はず。而るに封家納官ほうかなふくわん督責とくせき雲の如し。仍りて私物を以て、しばらく進濟しんさいつぐなへり。彼州の吏言りげんを聞くに、頻年ひんねん旱凶かんきようにして、田に秋實しふじつなく、民に菜色さいしよくありと。臣謹みて傍例ぼうれいを按ずるに、きやうのぞむの年限をべて、以て闔國かふこく凋弊てうへいを救ふ者、其人まことおほし。况や希世きせいの功を致す者、いづくん殊常しゆじやうの恩無からんや。昔班超はんてうは三十年を以て西域さいゐきを平げぬ。今賴義は十二歲を以て東夷を誅せり。遲速優劣は、採擇さいたくする難きに非ず。たとひ、千戶の封を受くる無きも、なん重任ちようにんの典を許さざらんや。天恩を望み請ふらくは、臣が意を哀矜あいきようして、忝く允可いんかを賜ひ、臣をして徐に與復の計を處し、以て辨濟べんさいの方を致すを得られんことを。臣、懇欵こんくわんに任へず」と。

是より先、もろの降虜皆に處せらる。義家、宗任宗任むねたふの勇を愛して、とくに之を親信しんす。私する所の女子を問はんと、車に乘りて往く。獨宗任從ふ。心ひそかに報復をはかり、刀を拔きて車中をうかゞへども、其ねむるを見て敢て發せず。後遂に心をかたむけて之に事へきと云ふ。

義家、甞て藤原賴通よりみちていよぎり、陸奥の戰事を談ず。博士はかせ大江匡房おほへまさふさ、別室に在り之を聞きて曰く、「好男子、をしむらくは未だ兵法を知らず」と。宗任ひそかに之を聞き、いきどほりて義家に吿ぐ。義家曰く、「其或は然らん」と。匡房の出づるを見て、之に禮し、遂に就きて學ぶ。

承暦三年
【美濃亂】源重宗、源國房、兵を構ふ
承暦三年、美濃亂る。義家に詔して往きて之を定めしむ。亂人之を聞きて皆遁る。

延久三年延久三年、陸奥亂る。かみ賴俊よりとし討ちて之を平ぐ。賴俊は賴親よりちかの孫、賴義の從姪じうてつなり。

永保二年永保二年、賴義しゆつす。


(藤原氏系圖)
(淸原氏系圖)

後三年の戰三年、義家に詔して陸奥守むつのかみと爲し、鎭守府ちんじゆふ將軍しやうぐんを兼ねしむ。初め淸原武則きよはらたけのり、二子あり。武貞たけさだ武衡たけひらと曰ふ。武貞、眞衡さねひらを生む。又藤原經淸の寡婦くわふを納れて、家衡いへひらを生む。亦經淸の子淸衡きよつらを養ふ。而して眞衡を嫡嗣ちやくしと爲す。家衡、淸衡、以下皆之に臣として事ふ。吉彥秀武姑夫こふ吉彥秀武よしひこひでたけ、事を以て眞衡をうらみ、兵を擧げて之に背く。眞衡赴きて之を攻む。秀武、人をして家衡、淸衡に說きて、其虛を襲はしむ。眞衡、乃、還り救ふ。已にして義家至ると聞き、迎へて之をけうし、復、往きて秀武を攻む。二弟又來り襲ふ。義家、兵を從へて其城に入りふせぎて之を郤く。義家、自、出羽に赴きて、家衡を攻む。利あらずして還る。武衡喜び來りて、家衡に謂て曰く、「子は八幡太郎に克つ。吾曹わがさうえいなり。當に與に力を戮すべし」と。遂に兵を合せ金澤柵金澤の柵に據る。義家大に怒る。

寛治元年寛治元年九月、自數萬騎を將ゐて之を攻む。柵を去ること數里にして雁行がんかうの亂るゝを望み見て曰く、「是れふく有らん」と。兵を縱ちてさぐもとむ。果して獲て之を鏖にす。衆に謂て曰く、「兵法に言はく、『鳥亂るゝ者は伏なり』と。我れ學ばざらば則あやふからん」と。遂に進みて柵を圍む。相摸の人權五郎景政
【敵】鳥海彌三郎
鎌倉景政かまくらかげまさ戰を挑む。敵て其右目うもくつ。景政箭を拔かずして己を射たる者を索め、終に之を射殺す。武衛險に據りて死闘しとうし、多く我兵を傷く。又卒千任ちたふといふ者をして、義家を詬言こうげんせしめて曰く、「汝の父名簿めいぼを我に納れて、以て敵に克つを獲たり。簿、げんに我に在り汝何を以て我に負くか」と。義家怒りて、之を攻めて、未だ下す能はず。

義家の弟義光よしみつ新羅三郞新羅しんら三郞と稱す。亦勇智ありて技能多し。是の時右兵衛尉うひやうゑいじやうたり。京師に在りて、兄の軍利あらざるを聞き、奏して赴きすくはんことを請ふ。許されず。遂に官をてゝ之に赴く。義光もとよりおんを好む。嘗てしやう豐原時元とよはらときもとに學ぶ。是の時、時元已に死せり。豐原時秋其孤子時秋ときあき、義光を送りて足柄山あしがらやまに至り、月明なるに會ふ。義光因りて笙を吹き、ことく學びし所を授けて訣別けつべつし、遂に陸奥に至る。義家喜び泣きて曰く、「吾れ汝を見る、猶先君せんくんを見るが如し」と。乃、與に倶に進み攻む。柵かたくして拔けず。義家會食に因りて、勇怯ゆうけふ兩列りやうれつを設け、以て戰士せんしを勵ます。義光の從臣腰秀方こしひでかた、日として勇列につらならざるなし。吉彥秀武よしひこひでたけ、降りて我軍に在り。進みて說く、「宜しく久きを持し、之をくるしましむべし」と。義家之に從ひ、令を下して戰を休む。武衡たけひら、人をして來り言はしめて曰く、「我が軍、事無きを苦しむ。龜次我に健兒龜次けんじかめじといふ者あり。請ふ、一力人を得て之をくらべん」と。乃、鬼武鬼武おにたけといふ者を遣す。勝ちて之を殺す。虜、愧憤きふんして出でゝ戰ふ。

已にして虜、食盡き、羸兵るゐへいを出して來り降らしむ。秀武曰く、「是れ糧をじよするなり。宜しく斬るべし」と。義家又之に從ふ。虜益くるしみ、義光に因りて降を乞ふ。ゆるさず。再、乞ひ、且、義光に、柵中にのぞみて、要結えうけつを爲すを請ふ。義光往かんと欲す。義家之を止む。乃、秀方をして往かしむ。虜、刄をあらはして之を待つ。秀方夷然いぜんたり。武衡之にまかなふに金を以てす。秀方之を郤けて曰く、「我が輩まさ旦暮たんぼ之を分ち取らんとす。汝がまかなひわずらはさゞるなり」と。刀をして出づ。時に天やうやく寒く、軍士とうを恐る。一夜、義家令を軍中に出して曰く、「我が營を燒きて煖を取れ。今夜、虜の柵陷らん。復、營を用ゐざるなり」と。金澤柵陷る黎明れいめいに柵中火起り、家衡のがれ、武衡池水の中にかくる。義家之を獲てめて曰く、「而が父、吾が父に屬して功を樹て。吾が父請ひて官爵をさづけたり。なんぢうらみを以て德に報ずるは何ぞや。名簿果していづくに在る」因りて千任をとらへて其舌を抜き、武衡を斬らしむ。武衡あいを義光に乞ふ。義光請ひて曰く、「降る者は宜しくゆるすべし」と。義家、色をして曰く、「過を悔いて來り歸す。宗任の如き者、是れ之を降ると謂ふのみ。とらへられてくわつを求むるは、降るに非ず」と。遂に之を斬る。家衡は其下に殺さる。義家、武衡、家衡以下のかうべけんぜんと欲して、奏して官符を下さんことを請ふ。廷議ていぎを私鬪なりと謂て許さず。故を以て將士を賞せず。遂に首を途に棄てゝ還る。

(源義肖像)義家、父祖の業を承ぎ、善く將士をす。其陸奥を征するや、前は九年、後は三年。東國の士民、皆其恩信に服し、相與に共に請ひて其子弟を留め、之を擁戴ようたいして、自其家人けにんと呼び、義家を稱して八幡公と曰ふ。是時に當りて八幡公の威名ゐめい朝野てうやあまねし。白河法皇、嘗て夢魘むえんを患ひ給ふ。義家に詔して、其兵器へいきを献ぜしめて、之を鎭む。義家一の玄弓げんきうを献じて御枕おんまくらほとりに建つ。卽、患無し。法皇問ひて曰く、「乃、東征にる所なるからんや」と。對へて曰く「臣記せざるなり」と。法皇これを嗟賞さしやうす。然して義家の官位甚だひくし。正四位下右衛門尉うゑもんのじやうを以て天仁元年にしゆつす。年六十八。

六子あり。義宗よしむね義親よしちか義國よしくに義忠よしたゞ義時よしとき義隆よしたか。義忠、最、名あり。官、檢非違使けびゐしに至る。季父きふ義光之をねたみ、義忠の臣鹿島かしま某をいざなひて、ひそかに之を殺さしむ。初め義忠の叔父義綱よしつな、義家と相にくみて、兵をかまふ。詔して兩家の兵、京師に入るをきんぜられて、事むを得たり。後義綱陸奥守を以て、擊ちて亂人平師妙もろたへを出羽にたひらぐ。功を以て從四位上に拜す。其黨、頗廣し。此に至りて、朝議、義忠の死を以て、義綱の子義明よしあきに出づとし、兵を遣して之を殺さしむ。義綱、甲賀山かうがやまる。源爲義ためよしに詔して、之を討たしむ。義綱、自、こんして降る。佐渡さどに流ず。義光の子孫、よゝ甲斐に居る。因りて甲斐源氏と稱す。

爲義ためよしは、義親の子なり。義親、對馬守と爲り、罪を以てちうせらる。爲義幼にして孤なり。義家之をとし、以て義忠のと爲さんと欲す。甲賀の捷に、左兵衛尉さひやうゑのじやうはいす。時に年十四なり。其明年、義家しゆつす。爲義、遂に直に義家の後承ぐ。居ること五歳、南部の僧兵叡山を攻む。又爲義に命ず。爲義、十七騎と、栗子山くりこやまに逆へ擊ちて、之を走らす。後十餘歲、累遷るゐせんして檢非違使けびゐし左衛門大尉さゑもんのだいじやうと爲り、五位に叙せらる。

爲義、二十三子あり。長を義朝よしともと曰ふ。尤、善く戰ふ。相模の鎌倉に居る。關東の家人けにんことく之に附く。下野守と爲る。第八子を爲朝ためともと曰ふ。猿臂ゑんぴにして善く射る。幼にして諸兄を凌犯りようはんす。爲義之を患ひて、之を豐後にふ。鎭西八郎ちんぜいはちろうと曰ふ自、九國きうごく總追捕使そうついほしと稱し、妻の父阿曾忠國あそたゞくにを以て鄕導きやうだうと爲し、しば菊池きくち原田はらだ諸大姓しよたいせいと戰ふ。十五歲におよびて、遂に盡く九國を伏す。九國の守介しゆかいこも之を訴ふ。朝廷、太宰府に敕して之を討たしむれども、つこと能はず。爲義坐して官を免ぜらる。爲朝聞きて之をうれひ、須藤家季すどういへすゑ等二十八人と倶に京師に至りて、罪を待つ。

是歲、近衛帝崩ず。帝は鳥羽法皇の寵姫ちようき得子やすこの生む所たり。はやゆづりを崇德上皇にく。帝崩ずるに及びて、上皇、位に復せんことを願はる。法皇、得子と議して、帝の兄を立てゝ位に卽かしむ。是を後白河帝とす。帝の保元ほうげん元年、法皇やまひあり。得子を召して之に一きやうを授け、戒めて曰く、「緩急くわんきふ之をひらけ」と。七月、法皇崩ず。上皇、兵を起こして白河殿しらかはでんに據る。左大臣藤原頼長よりなが謀主となりて、よもに兵をつのる。京畿大にみだる。得子乃きやうひらけば、則、武臣十人の名を書せり。義朝之がはじめたり。卽、義朝を召す。義朝乃兵を率ゐて、族の賴政よりまさ等と倶に高松殿たかまつでんまもる。賴政は賴光よりみつ五世の孫也。

安藝守平淸盛も亦召に應じ入りてまもる。

是に於て、上皇使者をして爲義を召さしむ。爲義辭して曰く、「臣老贏らうるゐ、復、平昔へいせきに非ず。長子義朝勇にしてしゆうあり。而れども既に禁內きんだいおもむけり。餘子よしは獨爲朝用ゐる可し。君請ふ、之を用ゐ給へ、臣を以て爲す毋れ。且、臣、家に傳へし所の八かふ、風のたゞよはす所を夢む。臣、心に之を惡む。往くも必利あらじ」と。使者之をふ。爲義已を得ずして、諸子を率ゐて之に赴く。上皇喜び以て判官代ほうぐわんだいと爲し、邑及び寶劔ほうけんを賜ひ、四子賴賢よりかたを以て藏人くらうどと爲す。因りて會して戰を議す。爲朝進み言て曰く、「臣、大戰二十たび。小戰二百たび。以て九國を芟鋤せんじよせり。少を以て衆を擊つは、つねに夜攻に利あり。臣請ふ、今夜、高松殿を襲ひ、其三方にして、これを一面にえうせん。其善く戰ふ者は獨、臣の兄義朝あり。然れども臣一もて之をたふさん。平淸盛輩の如きに至りては、臣鎧袖がいしうしよくせば、皆、自、倒れんのみ。則、乘輿必出でざるを得ず。臣乃矢を其從兵にくはへ、輿を此に徒して、陛下を彼に奉ぜんこと、易きことたなぞこを反すが如し。則、東方未だけざるに、大事らん」と。賴長よりなが曰く、「爲朝年わかくしてふ。言ふ所皆鄙人ひじん私鬪しとうの事なりいづくんぞ之を帝王の戰に施す可けんや。兩帝、國を爭ひたまふ、まさ堂々どうぢんを用ゐるべし。南都の僧兵、めしに應じてまさに至らんとす。軍を成し以て戰ふも、未だおそしと爲さざるなり」と。爲朝退き、ひそかののしりて曰く、「あゝ長袖ちやうしういづくんぞ兵を知らんや。家兄謀あり。將に我が爲さんと欲する所に出でんとす。僧兵いづくんつ可けんや」と。爲義、又さくを進めて曰く、「本宮ほんぐう垣溝單淺ゑんこうたんせんにして、地の據る可きなし。寡兵を以て此を保つは計に非ざるなり。陛下宜しく南都にかうし、宇治橋を撤して以て守るべし。卽し利あらずば、關東に幸せよ。臣、家人を糾合して、輿を奉じけつに復せん。臣之をはかるに難からず」と。賴長ゆるさず。爲義退きて言て曰く、「吾れ死所ししよを知らず」と。其六子、賴賢よりかた賴仲よりなか爲宗ためむね爲成ためなり爲朝ためとも爲仲ためなかと、八甲を分ちて之をつらぬき、一を義朝に送る。爲朝軀幹くかん大にして、服る可からず。乃、他の甲を服し、獨二十八人を以て西門を守る。餘子ことく父に從ひ、百騎をて南西の門を守る。平忠政たゞまさ等の諸將は、兵數百をて、分れて諸門を守る。

義朝、禁内きんだいに在り。關白くわんぱく藤原忠通たゞみち以下、聚議しうぎして决せず。義朝しば之をうながす。詔あり、義朝を階下に召して、計を問ふ。對へて曰く、「勝を一きよに取るは、夜攻に若くはなし。臣聞く、『南都の兵千餘、上皇のめしに應じて、已に宇治にす』と。宜しく其未だ至らざるに及びて之を擊つべし」と。之に從ふ。詔あり、「戰勝たば昇殿しようでんを聽さん」と。義朝對へて曰く、「武臣義に赴く、生きて還るをせず。臣請ふ、を拜して死なん」と。衣をかゝげて昇る。藤原通憲みちのり奏して曰く、「彼の會祖、祖父甞て昇殿を聽さる。而して父は則未だし。子を以て父にさきんするは若何いかん」と。詔して曰く、「問ふ勿れ」と。義朝感喜かんきす。えいかへるときむち車傍しやぼうけて曰く、「我れし戰死せば、誰か我が昇殿を得たるを知らん。此れ之をしるすなり」と、乃、選兵四百を以て、白河殿を襲ふ。平淸盛も亦これに赴く。兵凡數千人なり。

上皇の謀者てふじや還り報ず。爲朝わらひて曰く、「もとより當に然るべきのみ」と。賴長、爲朝が用を爲さゞりしを恐れ。にはかに拜して藏人くらんどとす。爲朝曰く、「吾れ何ぞ藏人を用ゐることを爲さん。吾れ鎭西八郞にて可なり」と辭して拜せず。將に戰はんとす。諸子先を爭ひてけつせず。爲朝曰く、「戰にのぞみて何ぞ兄弟を論ぜん。然れども吾れさき不遜ふそんを以て罪を獲たり。故にさきんぜんと欲すれども、敢てせず。唯、敵のつよくして當り難き處、輙我に命ぜよ」と。賴賢、賴仲、むかへて義朝を擊ちて、敗れ退く。

義朝随ひて之を攻む。平淸盛西門を攻む。其將伊東景綱いとうかげつな、二子伊東五、伊東六と先づ進む。爲朝之を、五のむねとうし、六のそでつくく。淸盛慴懼しふくして退く。獨、其騎山田伊行これゆき返り戰ふ。爲朝又射て之をたふす。馬いつして義朝の陣に入る。やじり、鞍を穿つ。大さ巨鑿きよさくの如し。部將鎌田政家まさいへ、取りて之を献じて曰く、「八郞君の爲す所なり」義朝曰く、「彼れ弱齡じやくれい、未だまさこゝに至るべからず。いつはり設けて以て敵をおどすのみ。汝之を甞試こころみよ」と。政家、自、呼びて進む。爲朝曰く、「なんぢは吾が家人に非ずや」と。對へて曰く、「きのふは主君たり。けふ兇徒きようとたり」と。射て其冑につ。爲朝大に怒りて、二十八騎と門をひらきて突出す。政家辟易へきえきして退き走る。義朝、二百騎を以て之に馳す。呼びて曰く、「吾れ宣旨せんじを奉じて來る。汝なんぞ速に降らざる。乃、弓を其兄にひきゐんせんくや」と。爲朝曰く、「判官公院宣ゐんぜんを受けて、爲朝等をして拒戰きよせんせしむ。且弓を其兄にくと、刃を其父にすと、孰與いづれぞや」ど。因りて大に戰ふ。

義朝、馬を莊嚴院しやうごんゐんの門に立つ。爲朝之を望見ばうけんしてく。既にして之を舍てゝ曰く、「父此に在り。兄彼れに在り。いづくんぞ其潜約せんやくする所ありて、勝敗互に相救護せざるを知らんや」と。乃、鳴鏑めいてきけ、願て家季いへすゑに謂て曰く、「吾れ且はくうばはん」と。家季曰く、「誤るなきを得んや」と。爲朝曰く、「第、吾が爲す所を觀よ」と。乃、射で冑臍ちうせいを穿ちて、門扇もんせんつらぬく。義朝大に驚き、乃、呼びて曰く、「八郞、射来だくはしと爲さず」と。爲朝曰く「敢てせざるのみゆるさるれば甲のむね、胃のひたひ、唯阿兄の命ずる所のまゝ」と。乃、大箭をく。深巢淸國みすきよくに、進みて義朝を蔽ふ。つるに應じてたふる。義朝の兵、死傷最おほし、爲朝も亦二十三騎をうしなひ、猶固く守る。爲義、賴賢等また善くふせぐ。

天、漸、明く。義朝使を馳せ、奏して火攻を用ゐんと請ふ。之をゆるす。乃、火を上風にはなつ。烟焰宮を蔽ふ。宮中大に亂る。義朝等皷操こさうして、終に之をおとしいる。上皇出でゝ奔り、如意山によいさんに入る。爲義以下悉く之に從ふ。上皇みづからさとして之を散遣さんけんす。皆泣を揮ひて散ず。

爲義、まさに東國に遁れんとすれども、病みて行く能はず。蓑浦みのうらいたる。追兵來りせまる。諸子力戰して之をしりぞく。士卒くるになんとす。乃、髮を削り、義朝に因りで降を請はんと欲す。爲朝、諫めて曰く、「上皇は、帝の同母兄なり。而して左府さふは關白の親弟たり。聞く、『上皇已に讃岐さぬきに遷り、左府も亦死せり』と。骨肉のたのむ可からざる此の如し。大人なんかんがみざる。東國に赴き、其豪族に倚るにかず官軍卽し來らば、爲に力をつくさん。力盡きて後に死せん。亦可ならずや」と。聽かず。遂に出でゝ降る。初め淸盛、敕を奉じて爲義をもとむれ共得ず。たま忠政たゞまさ出でゝ降る。其叔父なり。素より與に隙あり。斬りて之を献じて、以て義朝をうごかす。詔あり。義朝をして爲義を斬らしむ。義朝しば己れが戰功を以て其命をあがなはんことを請ふ。帝怒りて曰く、「淸盛よく叔父を誅しぬ。義朝獨り父を誅する能はざるか。果して能はずんばまさに淸盛に命じて之を斬らしめん」と。義朝憂懼いうくして出づる所を知らず。之を鎌田政家に謀る。政家對へて曰く、「此れ臣が敢て議する所に非ず。然れども既に國讎こくしうたり。つひに誅を免れじ。其人に死せんより、むしろ子に死せん」と。義朝、意決し、政家をして誘ひて之を殺さしめ、自ら其首を奉じて闕にいたる。賴賢以下五人皆誅に伏す。

猶四弟あり。乙若おつわか龜若かめわか鶴若つるわか天王てんわうと曰ふ。皆幼し。義朝、詔を以て人を遺し之を殺さしむ。鶴若、使者に謂て曰く、「抗闘かうとうする者は死に當らん。吾儕わがともがら何ぞとがを同くせん。恐らくは汝謬り聞けるならん」と。龜若曰く、「家兄誤れり。吾輩をして存在せしめば、數百の士卒よりもまさらん」と。乙若諸弟を諭して曰く、「汝が輩復言ふ勿れ、下野守既に父に忍ぶ。何ぞ弟に有らんや。是れ他なし。淸盛の計中けいちうに陷りて、自ら其羽翼うよくてるのみ。事已に此に至る。生きて猶はづかしめを蒙らんより、速に死して以て父に地下に從ふにかず」と。かうべならべて刄を受く。

爲朝、輪田わだかくれ、將に鎭西に奔らんとす。平氏の將平家貞いへさだ、之をえうすと聞きて果さず。たま疾ありて、民家に浴す。或人其身材魁偉しんざいくわいゐなるをて、之を官に吿ぐ。兵を遣して之を圍む。官、爲朝裸體らたいにてはしらを抉し、數人を擊殺してばくに就き、闕庭けつていに至る。特に死一等を减じ、その臂筋ひきんを拔きて大島おほしまに流す。爲朝筋力きんりよく减ずと雖も箭を用ゐるは長きを加ふ。曰く、「天子我に大島を賜ふ」と。遂に傍の五島を併有へいゆうす。大島に流す舊臣稍々來り附く。後數年、狩野介かのうのすけに敕してこれを攻めしむ。爲朝射て其一艦をぼつし、自ら逃れて琉球りうきうに入ると云ふ。義朝と藤原通憲と不和義朝のつや、賞して右馬權頭うまのごんのかみとす。義朝奏して曰く、「是れ先臣滿仲が拜せし所然して彼れは、此れは、且、ごんと曰ふ。臣未だ其榮を知らざるなり」と。是に於て、のぼせて左馬頭とす。而して資望しぼう終に平氏に及ばず。

平氏もとより少納言せうなごん藤原並憲ふぢはらみちのりし。通憲、帝の乳母の子なるを以て、貴幸きかうせられて事を用ゐる。義朝、女を以て其と爲さんと欲す。通憲、義朝をいやしみ、之を卻けて曰く、「我が子は學生、の女の偶に非ず」と。乃淸盛とこんす。

二條天皇
藤原信頼
帝既に位を二條帝にゆづり。而して猶政を聽く。嬖人へいじん藤原信賴のぶより通憲みちのりし。則、やうやく、義朝を引きて自たすけ、說くに甘言かんげんを以てす。義朝、深く之にむすぶ。平治元年平治元年平治の亂十二月、淸盛熊野にく。信賴、乃、義朝に謂て曰く、「通憲、寵をたのみて、自、專にし、陰に淸盛と、の家とを剪除せんぢよせんと謀る。彼の專橫せんわうなる、上皇と雖も、亦之を厭ふ。吾れ事を發し、讒人を誅夷ちういせんと欲す。何ぞ相助けざる」と。義朝曰く、「吾れ殊功を建てゝ父の命を贖ふ能はず。親屬しんぞく摧頽さいたいす。淸盛此時に乘じて以て我を陷擠かんさいせんと欲す。我れ之を知らざるに非ず。公此きよ有り。敢て力をいたさざらんや」と。信賴大に喜び、贈るに鎧仗がいじやう名馬めいばを以てす。義朝、又之をして賴政をまねかしむ。

是に於て、義朝五百騎を以て、夜、三條殿でんを圍み、之を焚き、又通憲のていを焚く殺傷する所甚おほし。通憲殺さる通憲のりみち遁逃とんとうす。追ひ獲て之をる。信賴、帝及び上皇をさしはさみ、大內おほうちる。義朝の第三子を賴朝と曰ひ、鬼武者おにむしやと稱す。時に年十三。右兵衛佐うへうゑのすけたり。進みて義朝に謂て曰く、「淸盛等、將に還らんとすと聞く。なんむかへ撃たざる。乃、ながら之を待たんや」と。惡源太義平賴朝の長兄義平よしひら、鎌倉に在り。甞て其叔父義賢よしかたと隙あり。【大蔵】武蔵大藏おほくらに戰ひて之を斬る。人呼びて惡源太あくげんたと曰ふ。是に於て、變を聞き、晨夜しんやせ至る。信賴之にさづくるに官を以てせんと欲す。義平辭して曰く、Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/213Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/214Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/215Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/216Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/217Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/218Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/219Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/220Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/221Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/222Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/223Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/224Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/225Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/226Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/227Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/228Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/229Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/230Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/231Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/232Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/233Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/234Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/235Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/236Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/237Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/238Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/239Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/240Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/241Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/242Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/243Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/244Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/245Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/246Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/247Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/248Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/249Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/250Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/251Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/252Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/253Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/254Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/255Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/256Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/257



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原文:

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。

 
翻訳文:

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。