邦文日本外史卷之一
大權武門に歸するの起原外史氏曰く、吾れ舊志を讀み、鳥羽帝の時、數制符を下して、諸州の武士の、源平二氏に屬するを禁ぜしを見る。曰く、大權の將門に歸せしは、其れ此時に有るか。三善淸行の封事【封事】醍醐の朝、延喜十四年二月、淸行、意見封事を上るに宿衛豪橫の患を陳べしを讀むに及びて、乃制度の弊、其來ること久しく、亶此に始まりしに非ざるを知れり。
上世兵制
文武一途盖し、我朝の初めて國を建てしは、政體簡易にして、文武一途なり。海內を擧げて皆兵にして、天子之が元帥たり。大臣、大連之が褊裨たり。未だ甞て別に將帥を置かざりしなり。豈復謂ゆる武門武士と云ふ者あらんや。故に天下事なければ則已み、事あれば則天子必ず征伐の勞を親し、否らざれば則皇子、皇后之に代り、敢て之を臣下に委ねられざりしなり。是を以て大權、上に在りて、能く海內を制服し、施きて三韓肅愼に及ぶまで、來王せざるは無かりき。
中世兵制文官武官を分つ中世に至るに及びて、唐制を模倣し、官を文武に分ち、乃特に將帥を置き、六衛【六衛】左右の近衛、左右の衛門、左右の兵衛の將、天子の親兵を將ゐたり。而して兵部、八省【八省】中務、式部、治部、民部、兵部、刑部、大藏、宮內の一に居り、左右の馬寮を建て、以て貢馬を蓄はしめたり。而して邊要の國は、諸郡に皆軍團あり、一國の丁を三分して、其一を取り、五人を伍となし、伍二を火となし、火五を隊となし、隊二を旅となし、旅十を團となす。各首領【首領】大毅、小毅、主張、校尉、旅師、隊正等軍團組織あり。一火六馬とし、騎射に便なる者は、特に騎隊となす。皆守令【守令】國司に任じて簡點せしむ。京を衛り邊を戍る。簿を按して差遣す。征伐を擧ぐる每に、沿道の諸國に、契敕【契敕】符節の敕書を須ゐて勘合せしむ。凡征行萬人に、乃將軍あり、副將軍あり、軍監あり、軍曹あり、錄事あり、三軍を總ぶる每に、大將軍一人あり。大將の出征には、必ず節刀を授く。軍に臨み敵に對する時、首領の約束に從はざる者は、皆專决を聽す。還る日、狀を具へ以聞す。勳位十二等を建て、功を論じ賞を酬いて、其兵を罷む。凡そ其器仗は兵庫に藏め、出納するに時を以てし、皆之を兵部に管せしむ。中朝兵を制せしこと、大略此の如くなりき。上世の旨に及ばずと雖も、其亂を防ぎ禍を慮るは、密なりと謂ふべし。
是故に事有らば則尺一【尺一】詔版なり長一尺一寸の符を下せば、數十萬の兵馬立所に具る。而して平時は散じて卒伍に歸す。之が將帥たる者、或は文吏より出でて兵陣に臨み、事畢りて歸り、介冑を脫ぎて衣冠を襲る。未だ甞て謂ゆる武門武士と云ふ者有ざりしなり。藤原氏外戚を以て、世政權を執るに及びて、卿相の位、其族人に非ざれば擬せず。官、品流を論ずること、因習して俗と成る。庶僚百揆、槪其職を世にす。而して將帥の任は、每に源平二家に委ぬ。武門の起原是に於て始めて武門の稱あり。
光仁、桓武の朝、疆埸多事なり。寶龜中に、廷議して冗兵を汰す。殷富の百姓、才弓馬に堪ふる者は、專ら武藝を習せて、以て徵發に應じ、其羸弱なる者は、農業に就けり。兵農分る而して兵農全く分る。
貞觀、延喜の後に至りて、百度弛廢し、上下隔絕す。奧羽關東の豪民、軍功を以て、六衛の舍人に至る者、或は坐ながら鄕曲を制して、宿衛を勤めず。而れども守令之を能く制するなし。淸行の謂ゆる六軍貙虎に非ずして、諸國豺狼たる者と、所在皆是なり。平居は甲を藏め馬を蓄へ、儼然として自武士と稱す。武士の起原是に於て始めて武士の稱あり、天慶より寬治に馴致す。
源平二氏源平二氏數東邊【東邊】奧羽を鎭ずるや、每に此輩を用ゐて、以て功効を奏す。而して各習用する所ありて以て相隷屬す。因襲の久しき君臣の如く然り。是より其後苟も事あらば、輙之を二氏に命ず。二氏各其隷屬を發して之に赴くこと、物を囊に探るが如し。復將を選み兵を徵することを煩さず。而して討伐剿誅、立どころに辨ぜざるはなし。廟堂の上は務めて恬熈を取り、其勢の積重して回らざるを患へず。方に且に延きて爪牙と爲して、以て相傾排するのみ。鳥羽の此令を下せるは、其弊を察せられしものの如くにして、弊の由る所を窮められず。之を救ふの術に於ては、盖し已に疎なりき。
源平相箝制す是の時に當りて、源氏命を梗ぐものあれば、平氏に勅して之を討たしめ、平氏制し難きものあれば源氏をして之を誅せしむ。更々相箝制して、以て控馭の術を得たりとして、異日搏噬攘奪の禍、又此に基せしを知らず。古制を敗壞して一時に苟婾し、皆以て自ら困蹶を取るに足れり。
兵糧抑、戎事は民命の繫る所にして、兵食の權は一日も國に去つ可らず。先王の必躬之を親らしたまふは其旨深し。今之を一二の宗族に委ね、又其事を賤みて省みず。其品類を別ちて、之を朝廷の上に齒せざるに至る。甚しきは、則之を奴僕視して曰く、「これ武門のみ、これ武士のみ」と。其功を論じ賞を行ふに及びては、或は悋みて與へず。嗚呼幾何ぞや。其相率ゐて以て自ら法度の外に棄てざらんや。特積威の約する所を以て、抑へて敢て發せざりし耳。保元平治の際に至りて、乃釁に乘じて起り、潰裂四出し、復收む可からず。橫流の極、終に其千歲不拔の權を失ひて、之を嚮に奴僕視せし所の者に授くるを致す。慨くに勝ふ可けんや。吾外史を作り、首に源平二氏を叙するに、未だ甞て王家の自ら其權を失ひしを歎ぜずんばあらず。而れども國勢の推移する、人力の維持する所に非ざるものあり。世の變に因りて以て得失を見、後の世を憂ふる者、將に以て心を此に留むること有るべきなり。
(平氏系圖)
平氏系統平氏は桓武天皇より出づ。天皇の夫人多治比莫宗、四子を生む。長を葛原親王と曰ふ。幼にして才名あり。長じて謙謹、書史を讀むを好み、古今の成敗を觀て、以て自ら鑑む。四品に叙し、式部卿に任ぜらる。子を高見、孫を高望といふ。高望に姓平氏を賜ひ、上總介に拜す。子孫世武臣たり。其旗赤を用ゐる。
高望の子高望四子あり。國香、良將、良兼、良文、並に東國の守介、或は鎭守府將軍に任ぜらる。貞盛國香の子を貞盛といふ。材武ありて善く射る。左馬允と爲る。將門良將の子將門、性桀黠なり。攝政藤原忠平に倚りて撿非違使たらんことを求む。忠平省みず。將門怒り、去りて東國に之き、相馬の里【相馬の里】下總に據りて、常陸、下總を劫掠す。時に國香、常陸大掾たり。良兼下總介たり。皆將門と𨻶あり。天慶の亂承平中、將門終に國香を攻殺す。將門の京師に在りしとき、甞て敦實親王【敦實親王】宇多帝子に詣る。從兵五六騎可りなり。適貞盛も亦來り謁し、將門の門を出づるに會ふ。貞盛人に謂て曰く、「將門必事を天下に生ぜん。今日士卒を率ゐざりしを恨む。即し士卒を率ゐたらば、當に之を擊殺すべし」と。是に至りて貞盛官を棄て東し、父の仇を復せんと欲す。良兼及び從弟の良正と、共に將門を攻む。利あらず。貞盛謂へらく、是私鬪なり。敕を受けて、之を討つに若かずと。將に京師に還り、請ふ所あらんとす。將門之を信濃に要擊す。貞盛大に敗れ、身を脫して京師に入る。已にして良兼卒す。將門乃下總に據り、遂に常陸介藤原維幾を襲ひ執へ、常陸を取る。興世王武藏守興世王、兇險にして亂を喜ぶ。往きて將門に說きて曰く、「關東八州は沃饒にして四塞なり。據りて以て天下に覇たるべし。夫れ一州を取るも誅せられん。八州を取るも亦誅せられん。誅は一のみ。顧ふに公安にか决す」と。將門大に悅び、延きて謀主となす。遂に下野、上總、武藏、相摸を攻めて、悉く之を下す。弟正平諫めて曰く、「帝王命あり、妄に冀ふべからず。願くは之を熟圖せよ」と。將門曰く、「天我に縱すに武を以てす。吾帝位を取る、孰か能く之を拒がん」と。乃僞宮を下總の猿島に建て、文武百官を置く。
藤原純友初め將門、藤原純友といふ者を友として善し。甞て同じく比叡山に登り、皇城を俯し瞰て曰く、「壯なる哉、大丈夫當に此に宅す可らざらんや」と。遂に與に反を謀る。純友に謂て曰く、「他日志を得ば、吾は王族なり。當に天子と爲るべし。公は藤原氏なり、能く我が關白と爲らんか」と。是に至りて純友、伊豫掾と爲る。任滿ちて還らず。海島に據りて盜をなし、以て遙に將門に應ず。潜に人を遣り京師に入り、火を坊市に行つ。京師戒嚴す。天慶二年時に天慶二年なり。
天慶三年三年、朝廷參議藤原忠文を拜して、征東大將軍と爲し、諸將を率ゐて東伐せしむ。東海、東山の兵を發し、募るに重賞を以てす。而して貞盛を常陸掾に任じ、兵を發して將門を討たしむ。將門之を聞きて、兵を率ゐ、貞盛を常陸に索むれども得ず。乃其衆を散じて、獨り千餘人を以て下野に至る。
藤原秀鄕下野に押領使藤原秀鄕といふ者あり。世〻大族たり。將門兵を起すに及びて、往きて之を見る。將門方に髮を梳る。髻を捉り、出でて之を欵接す。食を命じ共に食ふ。飯粒前に墮つ。拾ひて之を食ふ。秀鄕、其輕卒にして、與に爲すに足ざるを知りて、乃貞盛に從ひぬ。
貞盛、將門の備なきを窺ひ、秀鄕と兵四千餘人を合せて、急に之を襲ふ。將門遽に出でて之を拒ぎ、大に敗る。貞盛勝に乘じて疾く攻む。將門之を險阻に誘んと欲し、走りて島廣山に據る。貞盛其營を火き、大に山北に戰ふ。將門見兵四百騎を以て死鬪す。貞盛兵を麾きて之に蹙る。將門獨身出でて走る。貞盛叱咜して追馳す。射て其右額に中つ。將門馬より墜つ。秀鄕其首を斬る。天慶の亂平ぐ興世王以下、悉く誅に伏す。京獄に梟す。八州皆定る。而して純友尋で平らぐ。忠文等皆途より還る。貞盛功を以て從五位上に叙し、後從四位下に遷り、鎭守府將軍に任じ、陸奧守を兼ぬ。世呼びて平將軍といふ。
貞盛の子貞盛四子あり。季維衡最勇なり。平致賴、源賴信、藤原保昌と名を齊くし、四天王と稱す。下野守に任ず。後私に致賴と鬪ひ、謫せられて淡路に徙る。貞盛又從子維茂を養ふ。亦勇敢維衡に亞ぐ。維衡の曾孫正盛、武幹あり。時に平氏、源氏と並に武臣たり。而して源義家功を邊陲に樹て、宗黨尤强し。其長子義親、對馬守たり。九州を剽掠し、官使を殺して、隱岐に流さる。逃れて出雲に歸り、吏を殺して貢賦を奪ふ。勢甚だ猖獗なり。是に於て正盛に詔して追討使となし、驛鈴を賜ひ、兵を率ゐて之を討ち、義親と戰ひ、其首を斬りて、京獄に梟す。天仁元年時に天仁元年なり。
忠盛正盛、忠盛を生む。忠盛、伊賀、伊勢の間に居る。人と爲り、一目眇なり。大治中、山陽、南海に盜起る。忠盛追捕して功あり。白河、鳥羽、二上皇に事ふ。並に寵あり、得長壽院鳥羽上皇、得長壽院を建つるや、忠盛を以て役を董さしむ。役竣りて、但馬守に叙し、昇殿を聽す。擧朝之を憎む。豐明節會【豐明節會】十一月中の辰日之を行ふを以て、暗に乘じ、之を刺さんと謀る。忠盛曰く、「朝すれば則ち詬を蒙り、朝せざれば怯となす。其宗を辱むるは一なり」と。忠盛銀刀を帶して殿に昇る乃刀を帶びて入る。家人平家貞、其子家長と冑を衷して從ふ。吏これを訶止す。家貞對へて曰く、「主君戒心あり。臣將に之と同じく死せんとす」と。吏止むるを得ず。忠盛殿に昇り、闇に就き刀を㧞く。刀光外射す。衆大に畏れ敢て事を發せず。宴に及びて忠盛を召して舞を命ぜらる。衆歌ひて曰く「伊勢瓶子は醋瓫なり」と。盖し國音、瓶子は平氏に通じ、醋瓫は眇に通ずればなり。忠盛之を愧ぢて、宴を終へずして退く。主殿司を呼びて、刀を脫し之を授けて出づ。衆忠盛劍を帶び殿に上り、兵を以て自衛るを劾奏し、典刑を正さんと請ふ。上皇【上皇】鳥羽驚きて、忠盛を召して之を問ひ給ふ。對へて曰く、「臣の家人道路の言を聞き、臣に尾して來れり。臣をして知らしめず。唯陛下其罪を斷めよ。其佩刀の如きは、請ふ之を主殿司に問ひ玉へ」と。主殿司、刀を進む。木刀に銀を塗りしなり。上皇嘻ひて曰く、「忠盛意を用ゐる良に苦めたり。死を以て君を衛るは則武人の習ひのみ」と。遂に問ふ所なかりき。忠盛累遷して、正四位下刑部卿を以て、仁平中に卒せり。
忠盛の子忠盛七子あり。淸盛、經盛、敎盛、家盛、賴盛、忠重、忠度と曰ふ。而して淸盛最寵貴を極む。祇園女御初め忠盛の白河上皇に事ふるや、上皇嬖姬あり。祇園祠の傍に居る。甞て夜幸するに雨ふること甚し。鬼の髮束鍼の如きを覩る。乍覩え、乍失す。忠盛に命じて之を射さしむ。忠盛捕へて之を視るに、一老僧の麥稈を束ねて以て笠に代へ、火器を提げて行く〳〵これを吹くなり。曰く、「將に燭を祠に上らんとするなり」と。上皇忠盛の膽勇倚るべしと、益寵あり。幸する所の宮人兵衛佐局、忠盛と私して身めり、上皇即之を賜ひて曰く、「女を生まば則朕之を取らん。即し男ならば、卿以て子とせよ」と。宮人免身して男を生む。淸盛是を淸盛となす。後更に妻を娶り、家盛、賴盛賴盛を生む。
淸盛出でゝ中御門氏に依る。大治中、左衛門尉に任ず。累遷して從四位下安藝守に至る。海に航して任に赴くとき、魚の其舟に入るあり。或人曰く、「家を興すの兆なり」と。
皇室是より先、鳥羽の太子禪を受く。是を崇德帝とす。帝の母璋子【璋子】大納言公實の女幼きとき、白河法皇に養はる。法皇之を鍾愛す。長ずるに及びて衰へず。頗る物議に涉る。崇德天皇鳥羽、是を以て崇德を子とし視給はず。戱に之を目けて叔父兒といふ。鳥羽の寵姬を得子【得子】中納言長實の女といひ美福門院と號す。皇子體仁を生む。崇德をして養ひて太子と爲さしむ。四歲にして禪を受く。是を近衛帝とす。帝崩じて崇德位に復せんことを希ふ。崇德の皇子重仁又長じて賢なり。中外望を屬せり。而して美福、近衛の蚤世を以て呪詛に出づとし、乃密に鳥羽に勸め、崇德の同母弟雅仁を立てらる。是を後白河帝とす。朝野駭然たり。
藤原賴長崇德、憤恚して、左大臣藤原賴長を召して、之に語るに情を以てす。賴長慧黠なり。世惡左府と稱す。兄の忠道と權を爭ひ逞からず。上皇をして位に復せしめて、己れ柄を專にせんと欲す。乃慫慂して兵を擧ぐ。物情恟然たり。
保元元年保元元年七月、法皇崩ず。即夜これを葬る。上皇遂に兵を擧げて、白河殿に據る。保元の亂源爲義等、これに屬す。法皇【法皇】鳥羽豫め變あるを度りて、諸將の當に召すべき者を遺命す。淸盛與からず。盖し忠盛の夫妻、重仁に傅たるを以てなり。美福曰く、「安ぞ强きこと平宗の如くにして、召さゞること有んや」と。遂に之を召す。淸盛其宗を擧げて召に應ず。叔父忠政は獨上皇【上皇】崇德の宮に赴く。淸盛の義子基盛、撿非違使たり。上皇の黨、源親治を宇治にて擒にす。已にして源義朝に敕して白河殿を攻めしめ、淸盛等を留めて、宮を衛らしむ。少納言藤原通憲奏して、淸盛をして同く往かしむ。淸盛の長子を重盛と曰ふ。父に從ひて其西門を攻む。西門の將源爲朝善く拒ぐ。我が先鋒の二將其れに射殺さる。淸盛曰く、「吾れ命を受くる必しも此門ならず」と。重盛肯ぜずして曰く、「敵を擇びて進むは、豈武臣の爲す所ならんや、兒請ふ之に當らん」と。淸盛兵士をして重盛を擁止し、與に共に南門を攻めしむ。白河殿陷る。上皇出で走りて如意山【如意山】京都の東に入り、髮を削りて南都に奔る。途にして執へられて讃岐に遷さる。賴長流矢に中り、已にして自殺す。帝淸盛に詔して、爲義を捕へんとすれども獲ず。忠政【忠政】淸盛の叔父出でて淸盛に依り、降を乞ふ。聽さずして之を殺す。朝議因りて義朝をして爲義を殺さしむ。
淸盛を以て播磨守となし、太宰大貳に超遷す。重盛以下賞を受くる差あり。始めて甲第を六波羅に興す。
平治の亂
義朝義朝、平氏の聲望己が上に出づるを視て、心常に之を嫉む。藤原通憲【藤原通憲】信西、淸盛の女を娶りて婦となす。亦義朝と𨻶あり。通憲、大議に參與し、釐正する所多し。帝、位を太子に授く。是を二條帝とす。而して上皇【上皇】後白河仍政を聽く。政、通憲に在り。上皇の嬖人を藤原信賴と曰ふ。近衛大將たらんことを求む。上皇之を聽さんと欲す。通憲可かず。因りて唐の安祿山の事跡を圖して上り、以て之を諷す。信賴慙恨し、乃義朝と深く相結納し、陰に亂を作さんことを謀る。藤原經宗、藤原成親、藤原惟方みな其謀に與かる。謀旣に定まる。而れども淸盛を畏れて敢て發せず。
平治元年
淸盛熊野に詣平治元年冬、淸盛、重盛、筑後守家貞等五十人を率ゐて熊野に詣づ。行きて切部に至る。六波羅の使者來り吿げて曰く、「昨夜信賴、義朝、源賴政、源光基等と、兵五百を率ゐ、三條殿【三條殿】皇居を圍みて之を燒き、並に少納言通憲の第を燒く。殺傷算なし。遂に上皇及び主上を禁內に幽し、少納言も亦害に遭ふ」と。衆愕然たり。淸盛曰く、「之を爲すこと如何。宜しく熊野に到り之を計るべきか」と。重盛曰く、「武臣天子の急に赴く、何ぞ猶豫を爲さん」と。淸盛曰く、「甲なきを何如せん」と。家貞曰く、「臣豫め是事あるを慮る」と。其擔を開きて甲冑五十を出す。器械弓箭これに稱へり。衆乃結束して北に還る。已にして源氏の兵阿部野に要するを聞く。淸盛曰く、「彼は衆、我は寡。我れ且之を四國に避けて、以て再擊を謀らん」と。重盛曰く、「機失ふべからず。今を失ひて擊たずんば、彼將に我より先ぜんとす。我寡にして敗るとも、何の恥か之あらん。今日の事、死ある耳」と。淸盛曰く、「吾が志决せり」と。衆を率ゐて疾く馳す。未だ阿部野に至らざるに、一騎に遇ふ。衆意ふ、源氏の使ならんと。騎至りて曰く、「六波羅より至る。六波羅の兵、駕を迎へて見に阿部野にあり。請ふ速に歸れ」と。衆相喜慶し、踴踊して京師に入る。是の時に當りて、信賴自ら大臣大將となり、義朝以下皆官に拜せらる。信賴、衣冠乘輿に僭擬し、百官の上に坐し、庶政を聽斷す。百官敢て仰ぎ視る者莫し。藤原光賴獨左衛門督藤原光賴屈せず。會議に因りて信賴を折く。其弟惟方を勗めしめて、二宮を護り、以て淸盛を待つ。
淸盛旣に還る。信賴之を聞きて諸門の守兵を益す。淸盛其備を怠らせんことを謀り、乃名簿を信賴に致して、以て他なきを示す。淸盛、帝を拔かんと計り、乃惟方と謀を通じ、夜火を二條大宮に放つ。守門の兵、守を舍てて之を救ふ。天皇乃皇后と同車し、衣を蒙り、伏して藻壁門を出でらる。惟方從ふ。門者誰何す。惟方曰く、「宮人なり」と。門者、車中に燭して曰く、「可なり」と。旣に出づ。重盛、騎三百を以て途に迎へ謁し、天皇六波羅へ行幸奉じて六波羅に入る。百官萃る。關白藤原基實も亦至る。衆、其妻は信賴の妹なるを以て之を疑ふ。或人淸盛に吿げて曰く、「關白至る」と。淸盛曰く、「此れ大臣なり、假令來らざるも、吾固より將に召さんとす」と。衆、心乃安ず。已にして上皇、又仁和寺に逃る。しかれども信賴等は乃大內に據れり。
淸盛討賊帝、淸盛を召し、命じて賊を討たしむ。且之を戒めて曰く、「宜しく佯りて退き走り、賊を誘ひて宮を出すべし。宮闕をして兵燹に罹らしむる莫れ」と。淸盛對へて曰く、「臣逆賊を誅すること、之を掌に指さすが如し。以て天心を勞する勿れ。後命の若きに至りては、臣甚だ惑ふ。然りと雖も敢て心を盡さずんばあらず」と。乃兵三千騎を勒して、重盛、敎盛、賴盛をして之に將たらしめ、兵を分ちて大內に赴かしむ。賊は承明、建禮の二門を開き、陽明、待賢、郁芳の三門を關し、白旗二十餘流を樹て、之を守る。我が兵望み見て色動く。重盛重盛兵を勵して曰く、「年は平治なり。地は平安なり、而して我は平氏なり。天、吉兆を示す。勝を獲ること必せり。汝が輩努力せよ」と。乃其兵を分ちて二となし、一を大宮巷に留め、其一を以て待賢門に傅き、大に呼びて戰を挑む。信賴怖れて馬より墮つ。重盛門を排して入り、大庭の椋樹の下に至り、義平源義平と大に紫震殿の前に戰ひ、七たび櫻橘樹を匝り、出でゝ大宮巷に至り、弓を杖きて以て息ふ。平家貞之を目して曰く、「平將軍再び生ずと謂ふべし」と。重盛兵を更へて復入る、義平呼びて曰く、「我は源氏の嫡子、公は平氏の嫡子なり。宜しく與に死を决すべし」と。重盛曰く、「諾哉」と。乃進み戰ひ且退く。二卒の景安、家泰と、共に走る。義平及び鎌田政家之を追ひて二條の壕に至る。重盛壕を踰ゆ。政家之を射て、肩及び背に中つ。甲堅くして入らず。馬を射る。馬倒れて冑墜つ。政家之に薄る。重盛扞ぐに弓を以てし、冑を取りて之を被むる。景安至り、政家を搏ちて仆し、義平に殺さる。重盛怒りて親ら鬪はんと欲す。家泰進みて義平と相搏ち、政家に殺さる。重盛間を得て走る。是時に當りて、賴盛等、郁芳門を攻め、義朝と戰ひて退き走る。義朝の卒に、善く走る者八町二郞あり。鐵搭を以て其冑に鈎す。賴盛、刀を拔きて搭を截る。二郞仰ぎ仆る。賴盛走る。源氏の兵、宮を空くして出づ。
敎盛、乃千騎を以て、橫より大內に入り、諸門を關して之を守る。義朝、義平獲る所無くして宮に還る。宮みな赤旗となる。進退據る所を失ひ、進みて六波羅を攻む。淸盛、乃北臺に上り床に踞して指麾す。賊兵沓至す。官軍逡巡す。賊勝に乘じて進む。矢、內戶に及ぶ。淸盛怒りて馬に上り、大に呼びて馳せ出でゝ親ら敵陣を突き、兵を更て交々進む。賊遂に大に敗走す。淸盛乃大內に入り名簿を收め、笑ひて曰く、「昨予へ今取る、何ぞ速なる」と。乃兵を分ち賊を追ふ。義朝は關東に走り、信賴は仁和寺に至りて、哀を上皇に乞ふ。上皇爲に之を帝に請ふ。帝許し給はず。重盛曰く、「即之を宥せ、彼れ何をか能く爲さん」と。淸盛曰く、「首惡誅せざる可らず。且帝の命を如何せん」と。乃敎盛を遣し、兵を引きて仁和寺を圍ましめ、信賴及び其黨源師仲、藤原成親等五十餘人を捕へ、信賴を六條磧に斬る。重盛、敎盛、成親と姻あり。乞ひて之を宥す。
帝、淸盛の戰功を賞し、其子弟の官爵を進む。義朝誅せらる尾張の人長田忠致、義朝を誅し、其首を獻ず。之を獄門に梟す。賴盛の將平宗淸、亦義朝の少子賴朝を捕へて至る。將に斬らんとす。宗淸之を憫み、池尼に因りて宥されんことを請ふ。池尼は賴盛の母、淸盛に於ては繼母たり。淸盛聽さず。尼怒りて曰く、「刑部卿在らば汝安ぞ我が言を侮るを得んや」と。重盛、賴盛と固く請ふ。乃死一等を减じ、伊豆に流す。義平、服を變じて京師に入り、淸盛を狙擊せんとす。淸盛之を覺り、捕獲して之を斬る。平氏の威天下に振ふ平氏の威天下に振ふ。
肥前の人日向通良亂を作す。平家貞を遣し之を討ち夷ぐ。
是時に當りて、政、上皇【上皇】後白河に在り。藤原經宗、藤原惟方、帝に勸めて政を親らせしむ。兩宮交惡し。上皇、淸盛を引きて自援く。永曆元年永曆元年、上皇、淸盛を正三位に進め、參議に任ず。淸盛、乃上皇の旨を奉じて、經宗、惟方を收執す。帝甞て故近衛帝の后を納れて中宮となす。世之を二代の后と呼ぶ。淸盛二人の諫めずして、帝を惡に陷るゝを以て罪となし、之を斬らんと欲す。前關白忠通救ひ解く。乃死を宥し流に處す。明年、淸盛累遷して權中納言に至る。六年
淸盛等昇進六年、遂に從二位に進み、權大納言に任ず。重盛正三位參議に至る。
永萬元年永萬元年、秋、帝崩ず。諸寺の僧徒葬に會す。延曆、園城の二寺、禮を爭ひて鬪はんと欲す。上皇源賴政を召して自衛る。訛言あり、上皇、平氏を圖ると。平氏大に驚き、兵を聚めて自守る。重盛曰く、「事必妄なり。請ふ、法住寺に往きて親ら之を驗せん」と。法住寺は、上皇の宮なり。乃往く。途に上皇の來りて平氏の第に幸し、口づから解諭し玉はんと欲するに遇ふ。因りて扈還す。淸盛、病と稱し出でず。重盛入りて諫めて曰く、「大人宜しく出でゝ謁すべし。吾が宗、功ありて罪なし。事何んぞ遽に此に至らんや。大人愼みて之を辭色に形す勿れ。不ざれば則讒或は因りて以て入らん。苟くも吾忠直を執らば、何渠ぞ人言を畏れんや」と。淸盛之を善とすれども、竟に出でず。上皇還り左右に謂て曰く、「訛言誰か之を使むるものぞ」と。西光藤原師光、前みて曰く、「天これを言しむるのみ」と。衆敢て應ふる者なし。師光は阿波の人、甞て狡黠を以て、藤原通憲に愛使せらる。後髮を剃り西光と稱す。院の北面たり、頗る寵あり。心、平氏の驕恣を嫉む。數間に承り、上皇に說く。
六條天皇是時太子嗣いで立つ。是を六條帝とす。帝幼し。政、復上皇に歸す。上皇の寵后滋子【滋子】兵部大輔時信の女は淸盛の妻時子の妹たり。憲仁を生む。上皇之を立てんと欲す。仁安元年仁安元年、淸盛を以て正二位に叙し、內大臣に任ず。二年二年、遂に從一位に至り、太政大臣に陞る。隨身兵仗を賜ひ輦車にて宮に入るを聽す。敕して邑を播磨、肥前、肥後に賜ひ、大功田と爲して世襲しむ。重盛、從二位に叙し、權大納言に任ず。劔を帶して殿に昇るを聽す。次子宗盛、從三位に叙し、參議に任ず。三年三年二月、憲仁、禪を受く。甫めて五歲なり。高倉天皇是を高倉帝とす。帝の母【帝の母】寵后滋子の兄、大納言時忠、衆に謂て曰く、「方今天下の人、平族に非ざる者は、人に非ざるなり」と。是の時に當り、平族の朝官たる者、六十餘人。其采邑三十條州に跨る。朝政盡く淸盛に决す。淸盛疾あり、詔して非常の赦を行ひて、以て之を禱る。淨海旣にして淸盛髮を削り淨海と稱す。別第を西八條に興して居る。童三百を選び、異服を服せしめ、京城の內外に散布し、誹謗する者を察して輙法に處す。京師目を側つ。上皇積みて平かなる能はず。嘉應元年嘉應元年、上皇髮を削り、法皇と稱す。平氏益々橫なり。
資盛重盛の次子資盛、數騎と出でゝ獵し、途に攝政藤原基房に値ふ。馬より下りず。徑に其衛を衝く。衛士捽みて之を下す。重盛、資盛の無禮を責む。基房基房、衛士を縛送して以て謝す。重盛其縛を釋きて、勞して之を遺る。淸盛之を聞き、怒りて曰く、「今日に當りて、誰か敢て淨海の孫を辱むる者ぞ。必之に報いん」と。重盛諫め止む。淸盛聽かず。三百人を伏せて、基房を路に要して其車を摧折し、從者の髻を切る。帝因りて朝を輟めらるゝこと三日。重盛、資盛を追ひて伊勢に之かしむ。
承安元年承安元年、淸盛、其女德子【德子】建禮門院を進めて女御と爲し、遂に立てて中宮とす。四年四年、右近衛大將闕く。重盛奏し請ひて自ら之を拜す。治承元年治承元年、左近衛大將に轉じ、尋いで內大臣に拜す。小松の第に居る。弟宗盛、右近衛大將となる。已にして正二位に進む。朝臣擧りて平氏を妬む。藤原成親、權大納言を以て法皇の執事となる。重盛、其妹を娶りて子の維盛を生む。又其女を娶りて子の婦とす。成親の子成經、敎盛の女を娶る。然して成親、殊に大將と爲るを希ふ。しかれども得ず。居常憤々たり。成親即平氏を討たんとす遂に平氏を滅さんことを圖る。乃西光と與に謀り、行綱藏人源行綱を饗し、密に之に語りて曰く、「平氏の專恣なること、子の目する所なり。吾れ院勅を受けて、陰に之を圖る。而して未だ將率を得ず。子は源氏の胄なり。盍ぞ我將と爲りて、殊功を成し、顯位を取らざる」と。行綱之を諾す。成親遂に撿非違使平康賴、式部大輔藤原章綱、前近江守源成雅等に結ぶ。又法勝寺の執行俊寬に結ばんと欲し、數之に酒を飮しめ、姬人をして侍せしめ、因りて間に乘じて之に說く。鹿谷の會合其鹿谷の別舘に會して事を計るや、宴酣にして馬逸す。坐者驚き起ち、誤ちて瓶子を仆す。成親曰く、「平氏仆る」と。西光曰く、「盍ぞ其首を梟せざる」と。康賴進みて曰く、「首を梟するは、撿非違使の任なり」と。瓶を取りて之を柱上に懸く。一坐大に笑ふ。成親因りて策を建てゝ曰く、「祇園の祭日、京市雜沓すべし。此時に乘じて火を平氏の第に縱ちて、疾く之を攻めば、以て逞しくすべし」と。乃行綱に布五十匹を遺り、諸將の向ふ所を部署す。未だ發せず。
西光の子師高、加賀守となる。其目代師經、白山の僧徒と鬪ふ。僧徒來りて之を延曆寺に訴ふ。延曆寺の僧徒、之と兵を合せて京師に入りて、闕を犯す。重盛三千騎を以て宮門を衛り、擊ちて之を郤く。山徒服せず。還りて再擧を圖る。法皇、平時忠をして往きて之を諭解せしむ。五月、師高、師經を誚めて之を流す。西光慙恨す。明雲終に叡山の坐主明雲を法皇に間して、流に處す。明雲素より淸盛と善し。淸盛爲に奏して之を救ふ。省ず。已にして山僧明雲を奪ひ還る。法皇怒りて、諸將士に敕して之を討たしむ。淸盛敕を奉ぜず、則更に成親に敕す。成親大に喜び、因りて兵を聚む。
行綱自首行綱、自度る事竟に成らじ、自首するに若かずと。乃、夜馳せて西八條に赴く。淸盛福原に在りと聞きて、又赴き、面あたり事を吿げんと請ふ。淸盛出でて之に面す。行綱曰く、「院中兵を集む。君其由を知るや」と。淸盛曰く、「山徒を攻めんと欲するのみ」と。行綱進みて其耳に附け、語りて曰く、「否々、事貴族に係る、嚮日新大納言【新大納言】成親氏俄に行綱を鹿谷に要す。謀云々。聞く法皇も亦親ら臨まんと欲す。法印靜憲之を諫むるに因りて止む。事已に此に至る。敢て吿げずんばあらず」と。淸盛大に駭き、直に京師に歸り、悉く子弟宗族を召し、撿非違使阿部資成を遣し、院中【院中】後白河法皇の宮に就きて奏して曰く、「凶徒ありて臣の宗を滅さんと圖る。臣且に執へて之を鞠さんとす。然れども事必源あらん。是を以て敢て奏す」と。法皇、色を失ひ、答へらるゝ所を知らず。
西光乃西光を縛して至り、階下に跪かしむ。淸盛叱して曰く、「下奴、過分の寵を恃みて、無罪を構陷し、又敢て我が家を危くせんと欲す」と。西光笑ひて曰く、「何をか過分と謂ふ。公の父但馬守は朝官の齒するを愧づる所。公は其嫡子たり。常に高履を著きて中御門氏に伺候す。人呼びて高平太と曰ひき。十八九の比、海賊二十人を捕へし功を以て、四位兵衛佐と爲れるを、人以て異數となせり。而今乃太政大臣に至る。是れ之を過分と謂ふのみ」と。淸盛大に怒り、躍り起ちて其面を蹴る。痛く之を掠治して、實を得たり。命じて其口を裂かしむ。
又人をして成親を召さしむ。成親未だ事の覺るゝを知らずして曰く、「平公山徒を宥さんと欲して、吾をして法皇に請はしむるのみ」と。乃往く。西八條に及ぶ比、甲士の繹騷するを見て、心驚き、門に入るに及びて、平氏の士難波經遠、妹尾兼康、耦進してこれを捽へて、小室に囚し、將に昏を待ちて之を殺さんとす。成經、康賴以下、皆逮捕せらる。久しくして重盛至る。衆迎へてこれに謂て曰く、「大事あり。公來る何ぞ晚き」と。重盛曰く、「是れ私事なり。何ぞ大事と言はんや」と。入りて淸盛に謂つて曰く、「大納言を殺さんと欲すと聞く。願くは之を再思せよ。兒豈姻戚を以て爾云はんや。彼れは名族たり。君の寵を受く。未だ私怨を用ゐて殺す可からず。往時少納言信西死刑を興行して、惡左府【惡左府】賴長の墳を發けり。二歲ならずして、信西の墓も、亦藤原信賴に發かる。善惡の應ずる、殃慶立どころに至る。願くは之を再思せよ」と。出でゝ經遠、兼康を見て、其亡狀を讓め、因りて之を戒めて曰く、「愼みて我が公をして怒に乘じ、悔に抵らしむる勿れ」と。乃歸る。敎盛も亦成經の爲に固く請ふ。皆死を减ずるを得たり。
淸盛忿怒而して淸盛怒り自ら禁へず。乃就きて成親を見る。成親首を低る。淸盛呼びて之を仰がしめて曰く、「公の面憎むべし。公は當に平治に死すべき者、內府【內府】重盛の請ひに因りて之を宥す。祿位並に隆し。何を苦みて反くぞ」と。成親曰く、「僕何ぞ與り知らんや。事必讒口に出づるならん。僕、貴族に於て何の怨むる所ありて敢て倍畔せんや」と。淸盛、左右を顧て、西光の狀を取り來らしめ、乃自讀むこと二過して曰く、「猶與り知らずと言ふか。公の面憎むべし」と。其狀を以て成親の面に擲ちて入り、經遠、兼康をして成親を拷掠せしむ。二人重盛を畏れ、成親を庭に下し、其耳に附して曰く、「我が公壁を隔て聰く。君第叫號せよ」と。二人地を擊つ。成親輙叫ぶ。淸盛曰く、「可なり」と。
淸盛述懷是に於て、淸盛乃甲を被り長刀を執り、出でゝ平貞能を召して曰く、「亟に將士を戒めよ。今擧朝の人、我を嫉みて我を圖る。盖し、我が官爵の分を踰ゆると謂ふのみ。在昔田村丸は微者なり。東夷を下したる功を以て、大將に超拜す。他も此に類する者多し。豈獨淨海のみならんや。淨海の勤勞一日に非ざるなり。保元の變に我宗族大半新院【親院】崇德上皇に赴けり。且重仁親王【重仁親王】崇德帝の子は我父の覆育せし所なり。而るに我は故院【故院】鳥羽法皇の遺詔を思ひ、獨官軍に屬し、終に亂逆に克ち平ぐ。平治の變に、信賴、義朝の猖獗なる、吾にして自愛せば、事未だ知る可からず。命を重んじ躬を輕んじ凶黨を夷滅して、以て經宗、惟方等を收むるに至る。數大難を冐す。官家の爲にするに非ざるものなし。此を以て之を言へば、官家の恩宥、子孫に窮むと雖も可なり。今乃輕しく讒言を信じて族滅せられんと欲す。即し吿ぐる者なければ、豈危殆ならずや。異日細人、再、言を進むる有らば、則、宣を下し我を討ち、我を目けて賊とせん。悔ゆ可らざるなり。吾先づ發して之を鳥羽の宮に移さんと欲す。否らざれば此に幸するを請はんのみ。北面の奴輩或は且我を扞がん。亟に將士を戒しめよ」と。
主馬盛國といふ者あり。馳せて重盛に吿ぐ。重盛、大に驚き、急に駕を命じて之に赴き、第門に入る。族人皆甲を擐き、馬に鞍し、旗幟列を成し、將に起たんとす。重盛、烏帽直衣にて入る。宗盛其袖を叩きて曰く、「公は何を以て甲を被らざる」と。重盛睨して曰く、「汝等何を以て甲を被る。敵人何くに在りや。吾れ大臣大將たり。寇賊闕を犯すこと有るに非ざるよりは、則甲を被る可らざるなり」と。淸盛之を望み見て、遽に起ちて黑衣を表して出づ。數襟を正うすれども、襟呿くして甲覩る。重盛に謂て曰く、「吾れ西光の狀を察するに、成親等の如きは乃其枝葉のみ。間群小彙進して、覬覦すること已まず。而して御するに輕躁の君【輕躁の君】後白河法皇を以てす。何ぞ至らざる所あらんや。我れ且、一邊に幸せんことを請ひて、以て事の定るを待たんと欲す」と。語未だ畢らざるに、重盛泣數行下る。之を久しくして言て曰く、重盛諫旨「重盛、尊貌を熟視するに、吾が家門已に衰運に屬するを知れり。重盛これを聞く、世に四恩【四恩】天地、國主、父母、衆生の恩あり皇恩を最とす。抑我門は桓武葛原の胤を辱くすと雖も、而れども降りて人臣と爲り、中ごろ微にして顯れず。平將軍の功を以てすら、國守となるに過ぎず。刑部卿、內昇殿を聽されし時、萬人反唇せり。大人に至るに及びて、乃太政大臣に陞る。兒の不肖を以て且大臣大將を辱くす。宗族朝廷に駢び植ちて、田園天下に半なり。恩を叨ること極れり。官家の疾む所たり。誰か宜ならずと謂はんや。而れども運命未だ艾きず。讒人旣に獲たり。宜しく罪の當る所を論じて、退きて事の由を陳ぶべし。則公家、豈威を霽さゞる有らんや。何ぞ必しも草々に爲さんや。兒、また之を聞く、『王事を以て家事を辭し、家事を以て王事を辭せず』と。况や善惡較著なる者をや。重盛六位より三公に至る。君恩に沐浴する、擧ぐるに勝ふ可からず。嚮背の决、自、在るあり。素より撫循する所の士、重盛の爲に死を願ふ者、二百餘人あり。保元の亂に、源下野守、敕命を以て六條判官を斬りき。兒當時に在りて、以て大逆無道、言ふに忍びざる者とせり。此れ大人親ら睹る所に非ずや。忠ならんと欲すれば則孝ならず。孝ならんと欲すれば則忠ならず。重盛、進退、此に窮る。生きて是慼を觀るより死するに若かず。大人必今日の擧を遂げんと欲せば、先づ重盛の首を刎ねて、然る後發せよ」と。且言ひ、且泣く。坐を擧げて感動す。淸盛曰く、「淨海、衰老を以て此擧を爲すは、一身の爲に計るに非ず。徒子孫を慮るのみ。乃以て不可と爲さば、汝好く之を計れ」と。乃起ちて內に入る。
重盛顧みて、諸弟を讓めて曰く、「今日の事、縱ひ公をして老耄して事を發せしむるも、子等何ぞ匡救せずして、乃之を慫慂するや」と。出でて將士を敕めて曰く、「公に從ひて院に赴かんと欲する者は、重盛の首を刎ぬるを見て、然して後行け」と。乃小松の第に還る。
旣に夜となり、憂慮して措く能はず。是に於て令を出し兵を徵して曰く、「大事あり、速かに來り會せよ」と。衆相吿げて曰く、「沈重の人、此の如き令を出すは、必ず由有らん」と。是に於て爭ひて之に赴く者、一夕に二萬餘騎なり。而して西八條復一人無し。重盛、乃家貞、貞能をして往きて淸盛を護らしむ。淸盛問ひて曰く、「小松の第何に由りて兵を徵す」と。二人對へて曰く、「院、內府に宣して曰く、『汝が父、君思を忘れて、國家を亂さんと欲す、汝に命じて之を征伐せしむ』と。內府、君の自ら急にするを慮りて、臣等をして來り護らしめて曰く、君これを安んぜよ。重盛在り當に身を以て請ふべし」と。淸盛、惶懼して曰く、「我が爲に內府に語げよ。吾れ前途已に迫る。事を事とせず、唯卿、これを令せよ」と。二人還り報ず。重盛、漣然として曰く、「父をして此語を爲さしむ。吾罪大なり」と。乃親ら臨み兵を勞して曰く、「汝等召に應じて即來る。眞に平生に負かず。而れども事謬傳に出づ。宜しく亟に罷め去るべし。後緩急有らば、幸にこれに狃ふなかれ」と。因りて盡く罷め去る。法皇之を聞きて泣きて曰く、「重盛怨に報ずるに恩を以てす。人をして慙愧せしむ」と。
已にして淸盛、武士をして西光を咼【咼】肉を削り骨に至るせしむ。並に師高、師經を殺し、成親を備前に流す。後、人をして之を殺さしむ。成經、康賴、俊寬を硫黃島【硫黃島】薩摩に放つ。敎盛常に成經に餽遺す。成經之を二人に分つ。因りて乏からざるを得たり。
治承二年二年、中宮妊す。淸盛、身親ら嚴島【嚴島】安藝の神に祈りて、皇子を得んことを冀ふ。敎盛、乃重盛に因りて、赦令を下さんことを請ふ。成經、康賴、歸るを得。俊寬、終に島中に死す。安德天皇降誕十一月、中宮將に產せんとして難み給ふ。人或は成親、俊寬の祟る所と謂ふ。衆僧をして禳はしむ。法皇【法皇】後白河乃爲に經を誦む。卒に分身して皇子を生む。淸盛喜極りて哭き、金綿を獻じて之を謝す。法皇懌ばず、其謝書を抛ちて曰く、「朕を驗者とし視るか」と。三年三年、立ちて皇太子と爲る。淸盛、驕恣益〻甚し。重盛日夜憂惧す。一日淸盛誅せらると夢む。覺めて泣く。會維盛至る。之に酒を飮ましめ、好に刀を以てす。因りて、維盛意へらく、是小烏と。小烏は、平家傳家の寶刀なり。受けて之を視るに、乃無文刀にして、葬る時佩る所のものなり。乃色を變ず。重盛曰く、「尤むる勿れ、公をして終を令くせしめば、吾將に佩びんとす。今之を汝に賜ふ。汝後當に之を知るべし」と。五月、重盛、熊野の祠に造りて死を祈り、歸りて、瘍疾を獲たり。宋醫適醫の宋より至るあり。淸盛治せしめんと欲す。重盛辭するに、國體を失ふを以てす。且曰く、「兒の疾を獲るは、命なり」と。遂に治せしめず。法皇其疾を臨み視る。重盛薨去三月にして遂に薨ず、年四十二なり。法皇、攝政基房と議して、其封戶を收む。會中納言闕けたり。淸盛の婿藤原基通任に當る。而るに基房の子師家之に任ぜらる。甫めて八歲なり。
太政入道是時、淸盛、福原に在り。十一月、地大に震ふ。京師相驚きて曰く、「太政入道來らん」と。已にして淸盛、數千騎を以て京師に入る。基房入りて泣きて法皇に訴へて曰く、「淸盛來り怨を臣に修めんと欲すと聞く。果して竄流せられん。復左右に奉ずること能はざらん」と。法皇曰く、「朕と雖も亦自ら保んずる能はざるなり」と。明日、法印靜憲をして、往きて淸盛を諭さしめ、且其意を問はしむ。淸盛見ず。昏に及ぶまで答ふる所なし。靜憲去らんと請ふ。淸盛、子の知盛をして出でて答へしめて曰く、「臣耄たり。復た君に事ふる能はず。此の如き耳」と。靜憲趨り出で、颺言して曰く、「賢相の明德なる、天に跼まり地に蹐す」と。淸盛之を聞きて、召し返へして之に面して曰く、淸盛述懷「子は鹿谷の幸を諫め止むる者と聞く。吾れ是を以て子を見るなり。抑我が家、何ぞ官家に負く所あらんや。重盛新に死すれども、遊幸自如たり。獨老夫を憫まざるか。重盛危を見て命を授くること數〻なり。官家之に越前を賜ひて曰く、『汝の子孫に傳ふ』と。而るに死すれば即褫はる。死者何の罪かある。且吾基通の爲に、中納言を請ふこと再三せり。而るに師家に超拜せしむるは何ぞや。凡そ淨海の如き者は、即過惡有りとも、當に宥七世に及ぶべし。今臣の餘命幾ばくもなきに、動もすれば誅せられんとす。身後の事知る可きなり」と。言畢り淚を垂る。靜憲も亦泣く。少焉ありて說くに大義を以てし、且之を慰藉す。淸盛意頗る解け、禮して之を遣る。旣にして帝に奏して、基房を貶し、代ふるに基通を以てし、師家以下四十三人の官爵を削り、前太政大臣藤原師長を流し、宗盛をして、衆を率ゐて法皇に造らしむ。法皇問ひて曰く、「將に遠地に流んとするか」と。宗盛曰く、「敢て然るに非ざるなり。且く鳥羽殿に幸して以て事の定まるを待ち玉へ」と。法皇を鳥羽殿に移す遂に之を鳥羽に移す。靜憲請ひて從ふ。淸盛乃人をして帝に白さしめて曰く、「今後諸政は陛下之を親し玉へよ」と。即日福原に還る。
治承四年
安德天皇即位四年二月、帝、位を皇太子に禪る。世其淸盛の意に出づと稱す。淸盛の夫人時子旣に二位を拜し、髮を削り、二位尼と稱す。是に於て夫妻並に三宮【三宮】太皇太后宮、皇太后宮、皇后宮に准ぜらる。
三月、上皇【上皇】高倉嚴島に幸して、淸盛の意を解かんことを希はんとす。發するに臨みて、法皇に覲ゆ。法皇の鳥羽に徙さるゝや、中外の人、皆宗盛の其亡兄に若かざることを咎む。宗盛數淸盛を諫めて、乃法皇を八條烏丸に還し奉る。
五月、熊野の別當變を上る。吿ぐるに以仁王【以仁王】後白河帝の第二子高倉宮と號す令を下し、東國の源氏を擧げて、平氏を滅し帝を廢して自ら立たんと欲す。曰く、「事成らば重賞あらん」と。那智、新宮の僧徒も、亦之に應ずと。以仁王平家を滅さんとす淸盛大に驚き、兵を率ゐて京師に入り、公卿と共に議す。檢非違使源兼綱等を遣し、官兵を以て、高倉宮を圍しむ。將に王を土佐に徙さんとするなり。賴政兼綱の父賴政、王の謀主たり。平氏未だ之を知らず。賴政急に王をして、先づ奔り圓城寺の僧徒に倚らしめ、而して自子弟を率ゐて之に從ふ。淸盛之を聞き、怒りて曰く、「吾、甞て賴政を奏して、三位を授け、昇殿を聽さしむ。何ぞ我れに負くや」と。淸盛の將藤原忠淸、策を獻じて曰く、「叡山、南都の僧兵皆王に應ずと聞く。我れ前後に敵を防ぎ、曠日彌久、諸國の源氏來り會せば、勝敗未だ知る可からざるなり。宜しく速に院宣を山徒に下し、因りて㗖すに利を以てすべし」と。淸盛之に從ふ。山徒乃王に倍く。王、南都に奔る。宇治戰淸盛、子の重衡等を遣し、二萬騎を將ゐて、宇治河に追擊す。王、平等院に入り、橋を斷ちて軍す。僧徒善く鬪ふ。我が將平盛淸、兵を分ちて、河內より進み、敵の前路を遮らんと請ふ。足利忠綱下野の人足利忠綱、進みて曰く、「我が家甞て秩父氏と、利根河を夾み相挑む。未だ甞て流を亂りて戰ひを决せずんばあらず。今日の利、速に戰ふにあり、何ぞ猶豫を爲ん」と。乃手下三百騎を以て先づ渡る。令を下して曰く、「駿者を上にし、駑者を下にし、淺に操りて、深に縱ち、其步卒は迭に相提挈し、或は溺るゝ者は、弰を授けて之を援けよ」と。令畢りて濟る。一人をも亡はず。忠綱呼びて曰く、「我は藤原秀鄕六世の孫なり。盍ぞ來りて死を决せざる」と。兼綱笑ひて曰く、「汝名族を以て、乃平氏に驅役せらるゝや」と。對へて曰く、「平氏詔を奉じて亂賊を討つ。安ぞ從はざるを得んや」と。乃大に戰ふ。終に兼綱を射殺す。我が軍悉く渡り、擊ちて大に源氏の兵を破る。賴政及び子の仲綱等皆死す。王、南に出でゝ走り、流矢に中りて薨ず。南都の僧兵木津川に至り、之を聞きて引去る。重衡等凱旋し、首を闕下に獻ず。淸盛、忠綱を賞す。
福原に遷都淸盛、常に福原を愛し、又島を其南に築きて、以て漕運に便にし、終に都を遷さんと欲す。六月遂に意を决して、帝、三宮、百官を趣して徙らしめ、帝を賴盛の第に奉じ、遂に之を己が第に徙し、兵をして法皇を守らしめ、宮城を建つるを議す。地狹くして建つ可からず。乃權に造る。物議囂然たり。
賴朝兵を擧ぐ八月、源賴朝、以仁王の令を奉じて、兵を伊豆に擧ぐ。相摸の人大庭景親擊ちて之を走らす。武藏の人畠山重忠、又擊ちて其黨三浦氏を破る。景親急騎にて捷を報ず。且曰く、「賴朝走り死す」と。已にして東人交々來りて、「賴朝未だ死せず、兵復振ふ」と吿ぐ。淸盛大に怒りて曰く、「其國の奴輩は、皆彼が父祖の家人。而るに我れ彼れを東國に流す。是れ彼をして、胥けて我家を滅さしむるなり。何ぞ盜に鑰を借しゝに異ならんや」と。切齒すること之を久くして曰く、「向に吾をして池尼の請ひを聽さゞらしめば、彼れ惡んぞ首領を保つを得んや。恩を忘れ利を規りて、敢て我が子孫に敵す。其れ能く神明の罰を免れんや」と。重忠の父重能、弟有重と、福原にあり。進みて曰く、「東人獨、北條時政、賴朝と婚す【時政賴朝と婚す】時政、女政子を以て賴朝に妻はす。其れ或は之に附かん。其他豈肯て流人に黨せんや。君、意と爲すなかれ」と。平氏の子弟、人々奮ひて東伐を願ふ。
淸盛宮に入て賴朝追討の勅を請ふ淸盛輦して入り、上皇に見えて曰く、「陛下妙齡盖し未だ知るに及ばざるのみ。往時に爲義、義朝と云ひし者あり、敢て凶逆を行ひて、法皇に敵せんと欲せしを、臣謀略を以て之を誅夷せり。而して義朝の少子に賴朝と云ふ者あり。此の豎子を伊吹岳の麓に獲たり。當に斬らんとするとき、臣の繼母爲に之を宥さんことを請ふ。臣、即召して之を見る。十三歲といふ。短身𣵀齒、問ふこと有れば輙知らずと答へぬ。臣其幼稚を憫み、且自謂ふ、源氏と宿怨あるにあらず。特君命を以てせしのみと。遂に之を宥しき。今其配所に在りて、敢て不良を謀ると聞く。臣悔い恨むに堪へず。請ふ宣旨を得て之を討たん」と。上皇【上皇】高倉曰く、「法皇【法皇】後白河に禀へ」と。答へて曰く、「主上は幼し、陛下は親父なり。决、聖斷に在り。何ぞ直に法皇に禀ふことを爲ん。陛下、乃、源氏を庇ふこと莫からんや」と。上皇哂ひて曰く、「猶此言を爲すか」と。即宣旨を賜ふ。因りて「大將を誰に屬すべし」と問ふ。曰く、「臣が嫡孫維盛可なり」と。
維盛追討使即ち維盛に命ず。右近衛中將を以て、追討使と爲し、而して忠度之を翼く。高祖正盛、源義親を伐ちし故事を用ゐて、驛鈴を賜ふ。五千騎に將として、福原を發す。齋藤實盛、東事を諳ずるを以て嚮導とし、行々兵を收めて、駿河に至る。實盛曰く、「宜しく急に足柄を踰え武藏、相摸の兵を收むべし」と。藤原忠淸曰く、「今我が兵は皆京畿の新募なり、此を以て深く入る、未だ其可を見ず」と。維盛之に從ふ。實盛乃辭して西す。維盛曰く、「實盛無きも、吾寧ぞ戰ふ能はざらんや」と。富士河陣忠淸を以て先鋒となし、進みて、富士河に軍す。此時に當りて、畠山重忠以下、皆賴朝に附き、二十萬歸を以て、河東に至る。使者をして來りて書を貽らしむ。謾言多し。忠淸、維盛に勸めて、其使者を斬らしむ。相持して未だ戰はず。我が軍夜水禽の起を聞き、相驚きて以て敵大に至るとなし、人馬相踏藉して走る。維盛怒りて留り戰はんと欲す。忠淸固く諫む。乃西に歸る。平明、源氏の軍乃之を知り、一將をして來り追はしむ。伊藤某、殿戰して死す。維盛歸りて近江に至る。淸盛其京師に入るを許さずして曰く、「汝王命を奉じて亂賊を討ち、兵を交へずして歸る。何の面目ありて來りて我を見んとするか。軍即し利あらざれば、盍ぞ尸を原野に橫たへざる」と。因りて維盛を流し、忠淸を剄ねんと欲す。衆之を救解して止む。源義仲兵を起す是より先き、源義仲兵を信濃に起す。義仲幼にして孤なり。齋藤實盛取りて之を育ふ。已にして之を木曾の人中原兼遠に屬す。是に於て宗盛、兼遠を召し、命じて亟に義仲を縛して來り獻ぜしむ。兼遠誓書を効して、還りて義仲を逐ふ。
是月、上皇再び嚴島に幸す。淸盛從ふ。因りて上皇を要して書を作らしめ、源氏を右けざるを誓ふ。旣に還り、宮を夢野【夢野】攝津に造りて、以て法皇を奉ず。淸盛都を遷してより、上下之を苦しむ。山徒も亦數舊都に復せんことを請ふ。淸盛、諸公卿を會して、兩都孰か便なるを問ふ。公卿皆其旨を希ひて曰く、「福原便なり」と。藤原長方獨左大辨藤原長方曰く、「平安便なり」と。淸盛色を作して入る。衆長方の爲に之を危ぶむ。都を平安に復す已にして、淸盛即三宮以下を奉じて、都を平安に復す。衆大に悅ぶ。時に十一月なり。或人長方に問ひて曰く、「子何を以て能く相國に忤ふか」と。答へて曰く、「悔ゆる心無からしめば、何ぞ人に問はんや。我因りて之を導きしのみ」と。淸盛素より長方を重んず。是より先き、長方議を朝に建てゝ曰く、「亂人志を得るは、是れ天意と人心との致す所なり。宜しく政を法皇に復し、基房、師長等を召し還すべし。過を改め善に遷らば、庶幾くは免れん」と。淸盛稍く其言に從ふ。
怪異平氏の家、怪多し。淸盛甞て獨坐す。階下に數百の人頭あり。合して一大頭と爲る。眼を瞋して淸盛を視る。淸盛も亦眼を瞋らして之を視る。人頭漸く縮小して滅す。占者曰く、「爲義、義朝等の鬼なり」と。又鼠あり、廐馬の尾に巢ふ。占者曰く、「小、大を侵し、子、午を犯す。源、平に迫るの兆なり」と。
近江源氏都を復するの月、近江源氏の兵起る。翌月、知盛、資盛等を遣し、兵を將ゐ擊ちて之を夷ぐ。初め園城寺、賴政に黨して重譴を得。益平氏を怨む。是に至りて、山徒と皆近江源氏に應ず。乃淸房を遣し、園城寺を攻め、燒て之を夷げ、僧八百人を殺す。南都征伐又南都の叛くを聞き、妹尾兼康を遣し赴き攻めしむ。僧徒逆へ擊ちて之を敗る。又木丸を造り呼びて、淨海の頭と爲して、之を蹴擊す。淸盛積怒す。是月、重衡を遣し、兵數千騎を率ゐて之を擊ち、東大、興福の二寺を燒き、僧數百人を殺す。而して諸道の源氏益興る。
養和元年
高倉上皇崩養和元年正月、上皇病みて崩ず。淸盛益悔悟し、政を法皇に復す。法皇聽さず。固く請ふ。聽す。乃美濃、讃岐を獻じて其邑となす。詔して宗盛を以て近畿を總管せしむ。二月、河內の人源義基を斬る。源行家兵を擧げて美濃に至るを聞き、知盛、通盛、淸經、忠度等を遣して、之を伐たしむ。敵、板倉【板倉】美濃の壘に據る。我が兵遶りて其後に出で、火を縱ち攻めて之を㧞き、行家を走らす。淸盛又南海の兵をして東兵を控扼せしめ、而して糧を北陸、西海に徵す。西海の菊池氏、緒方氏、皆源氏に應ず。肥後守平貞能、徃きて之を定めんと請ふ。法皇院廳官をして貞能に從はしむ。洲股の戰已にして知盛、洲股に在りて病作り、戍を置きて還る。源氏益振ふ。宗盛乃親ら大軍を將ゐて東伐せんと欲す。法皇之を許す。命じて諸武官を統べ、官符を以て兵を徵し、日を刻して發せしむ。衆曰く、「此の行必ず源氏を夷げん」と。二十七日を以て行を發す。發するに先つ一日に、淸盛疾作る。宗盛行を止む。車馬六波羅に集まる。淸盛煩熱を病み、冷水に浴す。水輙沸く。叫號する聲門外に徹す。閏二月、疾大に篤し。族を擧げて枕を擁し、言はんと欲する所を問ふ。淸盛遺言淸盛大息して曰く、「生者必ず死す。何ぞ獨我のみならん。我平治年間より、功を王室に建て、天下を專制し、位人臣を極め、帝者の外祖と爲る。復何ぞ遺憾とする所あらん。遺憾とする所のものは、未だ賴朝の頭を睹ずして死するのみ。吾死して後、佛に供するを以て爲る勿れ。誦經を以て爲る勿れ。特賴朝の頭を斬りて、我が墓所に懸けよ。我が子孫臣隷、咸我が言に服して、敢て怠りあること勿れ」と。淸盛薨ず病むこと七日にして薨ず。歲六十四。法皇に遺表す。事必ず宗盛と議し玉へと。
淸盛旣に薨じぬ。宗盛、法皇を法住寺殿に奉還し、奏して曰く、「臣不肖、父の過を救ふ能はず、以て今に至る。今後將に唯聖旨を是れ仰がん」と。法皇乃公卿を會し、兵食を調せんことを議す。重衡、維盛、通盛、忠度等を遣し、美濃に入り、其戍兵を併せ、源行家、源義圓と水を夾みて戰ひ、義圓を斬り、行家を破り、行家の子行賴を虜し、行家を追ひて、參河に至りて還る。
賴盛賴朝、數書を賴盛に遺し、其舊恩を謝す。賴朝上書又間に上書して曰く、「臣敢て亂を爲すに非ず。乃亂を靖ずるのみ。陛下、尙平氏を棄てざれば、則請ふ兩ながら和を講じ、二姓並び仕ふること往昔の事の如くせん、其忠其否、簡ぶこと陛下に在り」と。法皇書を以て宗盛に示す。宗盛答へて曰く、「臣が父終に臨みて、臣等に命じて曰く、『必ず賴朝と死を决せよ』と。語、猶耳に在り。臣和する能はず」と。藤原秀衡
城資良是に於て請ひて陸奧の藤原秀衡に勅して、賴朝を擊たしめ、越後城資良に勅して、義仲を擊たしむ。資長は、平維茂七世の孫なり。六月、資長弟長茂と、兵を收めて南して、義仲を擊つ。利あらずして還る。八月、資長を越後守に秀衡を陸奧守に叙し、趣して源氏を伐たしむ。資長復發す。疾作りて卒す。九月、宗盛從弟の通盛、經正を遣し、北陸敗軍東、源氏と越前に戰ひて敗績す。經正走りて若狹に入る。通盛退きて敦賀城【敦賀城】越前を保ち、經正を召す。未だ至らざるに、義仲の兵來り攻む。乃兵を解きて西に還る。
壽永元年壽永元年九月、城長茂復南し、義仲を伐つ。復利あらずして還る。是月、宗盛內大臣に任じ、隨身兵仗を賜ふ。騶從を具へて拜賀す。二年二月、從一位に叙せらる。
追悼使派遣四月、維盛、通盛、忠度等を以て追討使となす。山陽、山陰、西海の諸國、及び參河以東、若狹以南の徵兵十萬餘人を率ゐ、北陸道に入りて、將に義仲を夷げて、然る後賴朝に及ぼさんとす。齋藤實盛齋藤實盛遣中にあり。大庭景尙に謂て曰く、「平替り、源興る。盍ぞ木曾に降らざる」と。景尙曰く、「東人吾輩の姓名を知らざるなし。興衰を以て節を變ぜば、人言を若何せん」と。實盛曰く、「吾、徒に以て子を試みしのみ」と。入りて宗盛に見えて曰く、「越前は臣の鄕なり。古に曰く、『錦を衣て鄕に歸る』と。臣、君恩を受くる久し。今老たり。唯一死以て君に報ずるあるのみ。君、盍ぞ錦の直垂を賜はらざる。臣衣て以て歸らば、死すとも餘榮あらん」と。宗盛、之を憫み、其言の如くす。
燧城戰義仲、我軍の越前に向ふと聞き、將を遣して燧城【燧城】越前を守らしむ。城は山に據り、谿を帶び、最も要地たり。我が軍、谿水を阻てゝ近づく能はず。城將齋明【齋明】越前平泉寺の僧と云ふ者あり。書を爲り、之を矢に約し、以て我が軍に射て曰く、「源氏隄を築きて水を貯ふ。君、東山の跡を决せば、たち所に涸れん。臣、内應を爲さん」と。我が軍之に從ひ、立所に其城を拔き、連戰皆捷つ。追ひて三條野に至る。敵將齋藤光平出でて戰ふ。實盛曰く、「我と同姓なり、寧ろ我に死せよ」と。與に鬪ひて之を斬る。我が軍長驅して、越前を定め、進みて加賀に入る。源氏の兵退き、安宅渡に據る。平盛俊、子盛綱をして水を試しむ。還り報じて曰く、「亂るべし」と。盛俊兵五千を以て先づ渡る。大軍之に從ふ。遂に林、富樫の二城を拔きて之に據る。降將齋明、進言して曰く、「義仲越後にあり。越後、越中の界、寒原の險あり。君宜しく急に此を扼すべし。、敵をして踰えしむる勿れ」と。乃盛俊を遣して之に赴かしむ。般若野に到る。敵已に寒原を踰ゆ、盛俊與に戰ふ。利あらずして退く。
砥並山戰維盛乃七萬騎を以て砥並山【砥並山】越中に軍す。忠度三萬騎を以て志雄山【志雄山】能登に軍す。義仲五萬騎を以て至り、行家をして忠度を攻めしめ、而して自ら維盛に當る。維盛險を恃みて備へず。義仲夜に乘じて來り襲ふ。維盛大に敗走す。義仲勝ちに乘じて之を追ふ。參河守知度は淸盛の七子なり。五十餘騎と大に呼びて敵陣を冐し、馬仆れて徒す。敵岡田親義あり。來りて知度を擊つ。知度刀を擧げて其冑を斫る。冑墜つ。因りて其首を斬る。親義の子重義、踵で至る。我が騎遮り鬪ふ。知度自屠りて死す。敵益進む。右兵衛佐爲盛は賴盛の次子なり。亦樋口兼光に殺さる。維盛退きて佐良岳【佐良岳】加賀を保つ。
此時に當りて、忠度、盛俊と擊ちて行家を破る。而して維盛の敗れしを聞き、兵を引きて之と合し、退きて安宅の渡に據る。忽、鞍馬十匹あり、水を濟りて至る。畠山重能、前軍にあり。之を視て曰く、「敵近づく」と。篠原戰乃、三百騎と篠原岳に登りて之を瞰、使を中軍に馳せ、吿げて曰く、「源氏の兵悉く濟りぬ、臣將に先づ進まんとす。謂ふ、後繼を賜はれ」と。
義仲、樋口兼光を召し、岳頂を指さし、問ひて曰く、「汝彼一隊將は誰爲るを知るか」と。曰く、「畠山重能なり。臣數武藏に遊びて、其旗章を記す」と。義仲曰く「此れ與に鬪ふべき者」と。兼光を遣し、與に鬪はしむ。殺傷相當る。維盛等、乃、進みて義仲に當り、戰ひ且退き、成合に至り、返り擊ちて大に戰ふ。大庭景尙、自呼びて鬪ふ。義仲曰く、「名士なり」と。騎を麾きて之を迎ふ。景尙十三騎を斬り、創を被りて自殺す。衆悉く退く。實盛獨留り戰ふ。敵將手塚光盛呼びて其名を問ふ。實盛曰く、「汝我が首を斬り、木曾公に獻ぜよ。公は我を知るなり」と。進みて光盛に薄る。光盛の從騎之を遮る。實盛、騎を攫み將に之を殺さんとす。光盛之を救ふ。三人相搏ちて馬より墜つ。實盛戰死光盛遂に實盛を刺し、頭を義仲に獻じ、其狀を吿げて曰く、「單騎錦を衣る。其語は東音なり」と。義仲曰く、「乃、實盛なる莫きや」と。兼光を召してこれを視しむ。兼光曰く、「是也」と。義仲曰く、「吾れ實盛年高きを知る。今其髮の黑きものは何ぞや」と。對へて曰く、「實盛甞て臣と東國に於て言ひて曰く、『白頭軍に從はゞ、吾將に我が髮を𣵀せんとす。否せざれば則以て壯者に伍し難し』と。盖し、其言を踐めるなり」と。乃、其頭を洗ふに、頭髮皆白し。義仲泣きて曰く、「吾れ幼孤のとき、此老に鞠育せらる。其をして來り歸せしめば、將に父とし、之に事へんとせしに、乃、恩を重んじ死に就く。義と謂はざるべけんや」と。尸を收めて之を葬る。義仲、復我軍を追ふ。平盛綱、藤原景高等十餘人之に死し、我が諸將敗れ歸る。法皇會議す。藤原長方漢の匈奴と和せし故事を引きて使を遣して、諸源の罪を赦さんことを請へども聽されず。平氏書を山徒に遺りて之を誘ふ。山徒從はず。
貞能西海を定む七月、平貞能、旣に西海を定む。降將菊池高直、原田種直以下、兵千騎、糧十萬石を以て至る。平氏咸喜ぶ。用ゐて東北を禦がんと欲す。美濃の人、來り吿げて曰く、「義仲已に近江に至る」と。是に於て、資盛、知盛、重衡、貞能等と宇治、勢田を守る。又賴盛を遣し、之に繼ぐ。賴盛辭して往かず。强て之を遣る。已にして源行綱等、四方より京師を窺ふ。山徒も亦義仲に黨す。宗盛、乃諸將を召し還し、貞能を遣し、行綱を攝津に擊つ。知盛五百騎を以て粟津に次す。義仲の前軍と戰ひ、利あらずして退く。
義仲、進みて叡山に軍す。平氏都を去る宗盛大に族人を召し、議して曰く、「兵寡し。我れ帝及び法皇を奉じて西國に奔り、以て再擧を圖らんと欲す。何如」と。知盛進みて曰く、「不可なり。我が祖の桓武、實に此都を肇め、後降りて武臣となる。今に於て八世なり、未だ甞て退き避けず。寧ろ此に決戰せん。刀折れ、兵盡きて後已まん」と。敎盛、經盛等、皆以て然りと爲す。宗盛聽かず。人をして法皇に造らしむ。法皇在さず。宗盛大に收め、火を諸第に縱ち、其子右衛門督淸宗、其弟中納言知盛、右中將重衡、淡路守淸房、其義弟式部丞淸定、丹波守淸邦、其叔父參議經盛、中納言敎盛、薩摩守忠度、經盛の子皇后宮亮經正、若狹守經俊、敎盛の子越前守通經、能登守敎經、從五位下業盛、知盛の子武藏守知章、經俊の弟敦盛、淸房の二弟經俊、良衡、故基盛の子左馬頭行盛等、及び攝政藤原基通、大納言平時忠を率ゐて西す。
賴盛
基通權大納言賴盛、從ひて後れたり。鳥羽に及ぶ比、赤幟を撤てゝ東し、法皇に倚りて伏匿す。基通も亦還り走る。平盛嗣之を追はんと欲す。宗盛曰く、「之を舍け。吾れ此不義の人を用ゐる所なし」と。因りて問ひて曰く、「小松中將【小松中將】維盛は何如」と。維盛曰く、「未だ來らず」と。宗盛曰く、「亦賴盛の比か」と。
畠山重能乃、畠山重能兄弟を召して曰く、「汝の子弟、武藏にあり。汝盍ぞ東せざる」と。二人對へて曰く、「臣等、平氏の恩を蒙る、此に二十年、危を見て遁るゝは、爲すに忍びず」と。宗盛曰く、「父子相幕ふは、貴賤となく一なり。父西にあり。子東に在りて、以て相殘滅するは、吾が心之を憫む、汝宜しく亟に去りて、賴朝に從ふべし」と。二人泣き辭して東す。
宗盛等關戶に至り、顧みて數百騎の至るを見る。則、維盛なり。其弟右中將資盛、左中將淸經、左小將有盛、侍從忠房、備中守師盛を率ゐて來る。衆大に喜ぶ。維盛曰く、「吾れ妻孥を遺して來る。皆啼哭して我を牽く。吾是を以て後れたり」と。宗盛曰く、「衆皆家を挈ぐ、子何ぞ獨否せざる」と。答へて曰く、「挈げて行くとも、終に庇ふ可けんや」と。相顧みて悽然たり。
經正經正、幼きとき、仁和寺法親王に仕へ、其愛する所の琵琶を賜ふ。征行と雖も、未だ甞て携へざることなし。是の日、齎し返して、王に謁して曰く、「臣等事已に此に至る。願くは一たび別を叙でて行くを得ん」と。因りて即席に數曲を彈ず。王及び左右皆淚垂る。經正曰く、「臣、甞て此賜を守りて、以て子孫に傳へんと欲す。今行きて且に死亡せんとす。寳器を併せて之を滅沒するに恐びず」と。乃、琵琶を奉還して去る。
忠度忠度も亦淀河より還り、其和歌の師藤原俊成に詣り、夜門を叩きて刺を通じ、面謁を請ふ。俊成、微く門を啓きて之を見る。忠度曰く、「兵興りてより、君門に數するを得ず。今當に遠く別るべし。聞く『君勅を奉じて撰輯する所あらん』と。臣幸に一章を收むるを得ば、死すとも且不朽なり」と。乃、其歌集を鎧縫より出だす。俊成泣きて之を受く。行盛行盛、俊成の子定家を師とす、又其集を遺して留別す。俊成、定家、後並びに撰集するに、二人の作る所を收むと云ふ。
是に於て族を擧げて、輿を奉じて西す。貞能平貞能、攝津より還るに會ふ。馬を下りて、跪きて曰く、「諸公何に之かんと欲するや」と。宗盛故を吿ぐ。貞能、大に其不可なるを諫むれども聽かず。貞能、獨東して京師に入る。則諸第、皆燼せり。乃、夜、重盛の墓に詣りて、白して曰く、「君豫め、今日あるを知るか。然れども願くは冥護を以て恢復を圖れ」と。旦日墓を發き、其骨を收めて西し、追ひて福原に至る。宗盛等方に將士を會し、議して曰く、「我が家は惜むに足らざれども、帝王神器を何如せん」と。皆泣きて對へて曰く、「臣等世君恩を受く、隆替を以て志を易へず。海を窮め、天を極むるも、唯君の適く所のまゝならん。鳥獸すら且恩を記す。况て人々に於てをや」と。宗盛喜び、乃、相率ゐて淸盛の墓を拜し、樂を墓前に張りて夜を徹す。天明に其宮殿諸第を燒き、平氏西海に趣く航して西海に赴く。
法皇、勅して平族百八十餘人の官爵を奪ひ、其邑を沒し、分ちて之を義仲等に賜ひぬ。後鳥羽天皇即位乃、高倉帝の第四子を立てゝ、位に卽かしむ。平氏之を聞き、其取り去らざるを悔ゆ。
平氏九州に入る遂に帝を奉じて、行在所を豐後に建つ。豐後の國司藤原賴輔の子賴經、州人緒方維義と與に、院宣を傳へて、西海の兵を收む。使をして來り吿げしめて曰く、「公等宜しく此に止るべからず」と。時忠之を讓めて曰く、「正統の天子此に在り。若胡爲者ぞ」と。維義、對へずして、三萬騎を以て來り攻む。乃、貞能、高直、種直等を遣して、之を拒ぐ。敗れ還る。乃、箱崎に奔り、遂に山鹿に徙る。菊池、原田の諸族皆叛くを聞き、則又柳浦に徙り、宇佐宮に祈る。維義來るを聞き、終に航して遁る。淸經死す淸經、自終に免る可からざるを度り、夜、舵樓に上りて、月を看つゝ笛を吹き、海に投じて死す。
平氏屋島に據る時に長門の國は、知盛の管する所たり。其目代紀通資、船百餘艘を献じて、以て讃岐の屋島に徙らしむ。阿波の豪傑田口成能、千騎を以て來り附く。且、爲に四國を徇へ諭すに、順逆を以てす。來り屬する者多し。因りて屋島に行宮を建て、遂に山陽道を徇ふ。
閏十月、源義仲、足利義淸、高梨高信、海野幸廣を遣し、來り犯さしむ。而して身之に繼ぐ。重衡、通盛、敎經、三百餘艘を以て迎へて、之を擊つ。水島戰水島城【水島城】備中に據る。源氏千餘艘を以て陸を負ふ。敎經、城の東北門より出でゝ、敵を挑む。敵、五千騎を以て來り攻む。敎經、佯り走る。重衡、通盛、舟師を將ゐて、島の西南より、左右の翼を縱ちて之を遶る。敎經、豫、舟を連ね板を布き、以て進退に便し、親射て高信を殺す。北兵水戰を習はず。日蝕晦冥に屬し、我が兵之に乘ず。北兵遂に大に敗走す。追擊して義淸、幸廣を斬り、首を獲しこと千二百級。
妹尾兼康初め篠原の戰に、妹尾兼康、敵將倉光成澄に虜らる。因りて成澄に仕へて親信せらる。今井兼平、義仲に謂て曰く、「彼れの瞻視常に異なり。之を殺すに若かじ」と。義仲聽かず。兼康從容として成澄に說くに、其鄕、妹尾の地の肥美の狀を以てす。成澄乃、義仲に請ひて、往きて之を收む。兼康、嚮導を爲し、先づ往く。其子宗康以下千餘人を會して、成澄を掩殺し、板倉【板倉】備中の寨に據る。義仲、將に備中に赴かんとす。聞きて怒り、今井兼平をして、來りて兼康を擊たしむ。兼康戰ひ且走り、屋島に赴かんと欲す。宗康、体肥えて行く能はず。兼康之を棄てゝ走る。行くこと里許にして、復、還りて之を視る。追兵薄り至る。乃、宗康を刄して、死す。義仲、將に屋島を攻めんとす。賴朝の來りて己を討つを聞きて、則東に還る。
室山戰
【室山】播磨十一月、敎盛、敎經、重衡等、源行家と室山に戰ひ、大に之を破る。山陽、南海の十餘州、來り屬する者多し。
是の時に當りて、義仲兵を縱ちて、京師を暴掠す。亦事を以て法皇を怨望し、將士に謂て曰く、「汝、其凡人に敵するよりは、寧ろ、王者に敵せよ」と。法住寺戰遂に兵を擧げて反し、法住寺殿を焚く。矢、乘輿に及ぶ。遂に帝を閑院に、法皇を五條宮に幽し奉る。公卿、皆裸跣して遁る。義仲、乃將士に謂て曰く、「帝と爲り、院と爲るも、唯吾が欲する所。公となり、卿と爲る、唯汝が請ふ所のまゝのみ」と。乃、公卿以下四十九人の官爵を奪ひ、其妻の兄藤原師家を以て攝政となす。京師其暴に苦しみ、乃、平氏を思ふ。義仲旣に賴朝と𨻶あり。義仲書を屋島に貽りて平氏と合從せんとす其來り討たんことを恐れ、平氏と從を爲さんと欲し、書を屋島に贈りて、其意を言ふ。宗盛之を許さんと欲す。知盛曰く、「義仲我をして其極に至らしむ。我乃之と和しなば、恐らく賴朝我を笑はん。公宜しく答へて、『天子在せり、汝冑を免ぎ、弓を弛べ、自來りて降るを乞はば、吾れ則之を許さん』、と曰ふべし」と。宗盛之に從ふ。
壽永二年
平氏福原に城く明年、山陽旣に定まりしを以て、帝を奉じて福原を復し、因りて城く。山を負ひ海に臨む。兵を集めて之を守る。二月、敎盛、五百騎を以て、備中の下道に屯す。會讃岐の廳衆二千騎、叛きて源氏に應じ、船に乘りて下道を過ぎ、仰ぎて我營を射る。敎盛怒りて曰く、「此輩甞て我馬に秣かひ、我馬に飮はんと云ひし者。今敢て亡狀此の如し」と。舸を飛して之を追ふ。廳衆淡路に走り、源義嗣、源義久に倚る。敎盛攻めて之を鏖にし、並に義嗣、義久を殺し、遂に河野通信を攻む。通信遁れて安藝に走り、緒方維義と合し、東して備前に入り、今木城に據る。敎經、赴き攻め、一晝夜に之を㧞く。宗盛帝に奏して、敎盛を正二位大納言に進む。辭して拜せず。
東軍來り攻む是時、賴朝の二弟範賴、義經、義仲を討ちて之を殺し、終に院宣を以て、大擧して來り攻む。關東の將士悉く之に從ふ。期を刻して會戰す。知盛、重衡、東門を拒ぐ。貞能等、西門を拒ぐ。而して資盛、有盛、師盛等、兵七千を以て北山を守る。義經、高騎を以て夜之を襲ふ。我が兵大に敗走す。資盛之を愧ぢて、獨、屋島に奔る。宗盛諸將をして之に代らしむ。皆往くを憚る。敎盛之に當らんと請ふ。即夜、通盛、盛俊と、往きて北山を守る。範賴、東門に至る。土肥實平等西門に至る。藤原景淸等力めて西門を拒ぐ。敵入る能はず。重衡重衡、知盛、又東門の敵を擊ちて之を郤く。已にして、義經間道より來り襲ひて、火を縱つ。城卒に陷る。重衡、西に走る。東人莊家長追ひて其馬を射る。馬倒る。其騎、副馬に騎る。重衡呼びて之を取らんとす。騎聞かざる爲して走る。重衡自殺せんと欲し、遂に家長に獲はる。忠度忠度も亦岡部忠澄に追る。忠度紿きて曰く、「吾は東兵なり」と。忠澄曰く「帽して齒を𣵀する者は、東兵に非るなり」と。忠度返り鬪ひ、忠澄を搏ちて之を伏せ、三たび之を刺せども入らず。忠澄の僕來る。終に爲に殺さる。忠澄、其鎧を撿して歌稿を得たり。因りて其忠度たるを知れり。經正
【大藏谷】播磨經正走りて大藏谷を過ぐ。莊高家呼びて、鬪を求む。顧み答へて曰く、「吾れ若と鬪ふを羞るなり」と。高家怒りて、之に逼る。經正、馬より下りて自殺す。其弟經俊、及び通盛、業盛、師盛、淸定、淸房、盛俊等、皆死す。通盛の妻、其夫の死を聞きて海に投じて死す。敎經航して淡路に赴く。宗盛、帝を舟に奉ず。諸敗兵、舟を爭ひて溺るゝ者無數なり。知盛知盛初め武藏守と爲る。國人識りて之を追ふ。及ぶに垂とす。其子の知章、時に年十七。遮り鬪ひて、其一騎を斬りて之に死す。知盛間を得て遁れ、馬を下り舟に上る。舟隘くして馬を容れず。則馬首を北して之に鞭つ。馬躍りて陸に上る。田口成能曰く、「良馬なり、其敵に獲られんより、寧ろ射て之を殺さん」と。知盛曰く、「吾れ此れに由りて免る。之を殺すに忍󠄁びず」と。馬、知盛を望みて三たび嘶く。終に義經に獲はる。知盛、宗盛に謂て曰く、「子は死して父を救ふ。父は子を棄てゝ走る。他人をして此の如くならしめば、吾れ當に其面に唾すべし。今吾れ之を爲す。之を何と謂はんや」と。因りて歔欷して涕を流す。
敦盛敦盛も亦知章と同齡なり。知盛の舟を望みて之を馳せ、熊谷直實に獲はる。是日直實、曉を冐して西門に向ふ。城上に笛聲あるを聞きしが、敦盛を獲るに及びて其腰に笛を揷めるを見る。念ふに嚮に聞きし所のものは是なりと。乃首を義經に請ひ、其笛を併せて、之を經盛に歸る。義經、諸の首虜を以て、歸りて法皇に献ず。
重衡書を屋島に貽る法皇、人をして重衡を諭さしめて曰く、「汝書を宗盛に貽り、神器を効さしめば、則汝が死を宥し、屋島に放ち還さん」と。對へて曰く、「臣の宗、世勳を王家に建てゝ、而して子孫卒に君に棄てらる、以て此に至るは命なり。勝敗は豈臣一人に關らんや。臣、不才にして纍囚と爲るに至る。假令、生きて還らしむるとも、將何の面目ありて、宗族に見えんや。宗族も亦必臣を以て、神器に易るを肯ぜざるなり。然りと雖も、臣敢て敕を奉ぜずんばあらず」と。乃、書を作りて院宣使に從はしめ、屋島に至る。【時子】重衡の母時子書を得て悲み泣き、之を聽さんと欲す。宗盛書を法皇に上る知盛、執りて不可なりとし、宗盛に敎へ、答表を作らしめて曰く、「謹みて宣旨を領す。通盛以下旣に命を授く。重衡、豈獨生を欲せんや。神器の若きに至りては、須臾も聖体を離る可からざるなり。陛下尙貞盛、淸盛の遺勳を思ひ給はゞ、則辱なく龍駕を枉げて、西州に臨幸せよ。臣等、護るに西南四道の兵を以て、以て亂賊を討たん。不らざれば、臣等三韓、契丹に赴くこと有らんのみ。命を奉ずる能はず」と。平時忠、院使を捕へ劓りて之を遣る。
重衡鎌倉に下る法皇怒り、重衡を以て賴朝に附して、誅せしむ。賴朝之を鎌倉に檻致せしめ、延きて見る。梶原景時をして、命を將はしむ。來りて重衡の傍に跪く。重衡聽くを肯ぜず。遙に賴朝に語りて曰く、「重衡此に至るは命なり。公尙先人の德を記せば、則請ふ、速に死を賜へ」と。賴朝、乃之を狩野宗茂に屬し、湯沐を具へ、姬千手をして浴に侍し、因りて其欲する所を問はしむ。重衡、髮を削らんと欲す。賴朝、許さず。因りて酒を餽り、千手及び工藤祐經を遣し、之を佐けしむ。祐經鼓を擊ち、千手琵琶を彈ず。重衡、杯を千手に屬し、朗吟して曰く、「燭は暗し數行虞氏の滂、夜は深し四面楚歌の聲」。賴朝、微行して、耳を戶外に側てゝ聞きてこれを憐む。更に名姬伊王を遣し、千手と更直せしむ。明年六月、南都の僧侶の請を以て、奈良坂に斬る。二女、髮を削り尼と爲ると云ふ。
初め重衡の虜となり、京師に入りしとき、維盛の妻孥、京師に在りて、三位中將虜せらるゝと聞きて、其維盛なりと意ふや、僕をして之を視しめしに、非らず。然れども師盛の首を見て、則憂恐す。維盛、屋島に在りて、亦家を懷ひて措かず。是歲三月、間に出でゝ、京師に之きしに、途梗りて達せられず。是に於て高野山に赴き、偶、其舊臣の僧と爲れる者に値ひ、之に語るに情を以てせり。曰く、「先君【先君】重盛
維盛熊野に死す、甞て賴朝に德せり。【內府維盛を疑ふ】父重盛甞て賴朝を赦す、故を以て吾も亦賴朝に貳心あるかと疑はる內府故を以て猜疑し、吾を賴盛【賴盛】志源氏に嚮ふに比す。吾れ故に遁れて此に至る。一たび熊野の祠に詣で、水に赴きて死なんと欲す」と。乃、與に俱に詣で、那智の海に投じて死す。豫、隷人に命じ、還りて資盛に吿げしめて曰く、「唐皮の甲、小烏の刀、貞能の許にあり。公宜しく之を取るべし。萬一、事平がば、幸に之を我が兒に傳へよ」と。小烏、拔丸初め平氏、小烏、拔圓の二刀あり。例に嫡長に傳ふ。賴盛忠盛に至りて、小烏を淸盛に傳へ、拔圓を賴盛に傳ふ。二家是より相惡めり。賴盛、時に京師にあり。是歲五月、賴朝、書を以て之を召す。且曰く、必宗淸を携へよと。賴盛即東に行く。宗淸從ふを肯ぜず。曰く、「臣禍福を辨ぜざるに非ず。獨、西海の諸公舊僚に愧ざらんや」と。乃賴盛を送りて、近江に至り、辭して西し、來りて屋島に至る。是月、貞能の弟貞繼、兵を伊賀に起し、平氏に應じ、二百人を集め、襲ひて州の守護大内惟能を破り、遂に近江に入り、源秀義と戰ひて之を斬る。已にして惟能に敗られ、之に死す。三日平氏世呼びて三日平氏と曰ふ。
兒島戰平氏、山陽道を復せんと欲し、九日、行盛、兵二千を以て兒島に屯す。範賴十萬騎を以て來り攻む。我が軍敗れ還る。宗盛以下、日々悒々として樂まず。知盛曰く、「吾れ嚮に京師を守らんと欲すれども、公等從はず。今終に如何」と。宗盛、以て應ふることなし。
明年春、知盛、長門の引島に城きて、門司關を扼す。又兵を遣し、擊ちて土肥實平を備前に破り、兒島を復す。又擊ちて河野通信を破り、其族黨百六十人を斬り、首を屋島に効す。宗盛之を撿す。
屋島戰時に源義經、阿波より來り攻むと聞く。而れども未だ確報を得ず。明日、高松里【高松里】讃岐に火起るを望む。田口成能曰く、「敵來り襲ふなり。請ふ、急に舟に御せよ。將士をして陸に拒がしめん」と。之に從ふ。義經果して襲ひ至る。我が兵、能く拒ぐ。義經火を行在に縱つ。我が兵盡く舟に上り、海陸交射る。景淸、岸に上りて戰ひを挑む。美尾屋
景淸美尾屋十郞と云ふ者、來り鬪ひて走る。景淸追ひて其錏を攫む。錏斷ゆ。之を薙刀に掛け、掀て呼びて曰く、「吾は景淸なり。蓋ぞ來りて决せざる」と。敵敢て近づくものなし。我が兵踵ぎて上り、大に戰ひ、佯り郤きて舟に上り、以て義經を誘致す。幾ど獲へんとして之を逸す。宗盛、敎盛を召して曰く、「我が兵數義經を逸す。義經の兵數百騎に過ぎざるのみ。公の一戰を煩はさん」と。敎經敎經、乃盛嗣、景淸等三十人と、陸に迫りて射る。敎經、勁弓、長箭、射て敵の精騎數十人を殺し、日暮に會ふ。義經軍を高松に退く。敎經八島に軍し、夜源氏を襲はんと欲す。盛嗣、江見盛方と先を爭ひ、曉に徹するまで襲ふを果さず。天明に、義經七千騎を以て來り攻む。我が三十人步行して、短兵を持して接戰す。敵騎披靡す。敎經、因りて之を射る。戰ひ遂に利あらず。遂に舟に上りて退く。熊野湛增、河野通信、盡く源氏に屬す。源氏の軍、日に盛なり。平氏、乘輿を奉じて志度に避く。義經、復來り攻む。乃、退きて引島を保つ。已にして、長門、周防、悉く源氏に應ず。乃、箱崎に赴く。範賴、大衆を以て豐後に在りと聞きて、則旋りて壇浦【壇浦】長門に泊す。
壇浦戰源氏の軍、海陸に充塞す。兵艦三千、四面より來り攻む。我れ五百艘あり。知盛船首に立ちて、諸將士に謂て曰く、「勝敗の决、今日にあり。汝が輩、進みて死する有れ。退きて生くるなかれ。心を一にして力を戮せ、必義經を獲て而して後已まん」と。景淸、盛國等、爭ひて决戰せんことを願ふ。田口成能田口成能、潜に欵を敵に通ず。知盛、宗盛に謂て曰く、「士氣奮へり。獨成能疑ふべし。請ふ、斬りて以て徇へん」と。聽さず。固く請ふ。宗盛、乃、成能を召して之を勗めしむ。成能、唯々す。知盛、刀を握り宗盛に目す、宗盛、終に斷ずる能はず。已にして大に戰ふ。我が兵奮擊す。東軍數郤く。成能、義經に降り、之に吿げて曰く、「平氏、帝を兵船に徙し、兵を帝船に徙す。敵を誘ひて夾みて、之を擊たんと欲す」と。義經、乘輿の在る所を知りて、軍を合せて疾く攻む。知盛、乃、帝船に赴く。諸嬪迎へて狀を問ふ。知盛、大に笑ひ、答へて曰く、「卿等當に東國の男子を睹るべきのみ」と。一船皆哭く。知盛手づから船中を掃除し、盡く汚穢の物を棄つ。時子、乃、安德天皇崩御帝を抱きて相約するに帶を以てし、劔璽を挾み、出でゝ船首に立つ。帝時に八歲なり。時子に問ひて曰く、「安に之くか」と。時子曰く、「虜、矢を御船に集む。故に將に他に徙らんとす」と。遂に與に俱に海に投じて死す。皇太后、繼いで投ず。東兵、其髮に鈎して之を獲たり。行盛、有盛、之を聞きて、皆力戰して死す。敎經、驍名素より著る。敵爭ひ之を獲んと欲す。敎經、殊死して戰ふ。敵を殺す數なし。知盛知盛、呼びて曰く、「公盍ぞ早く自計を爲さゞる。多く雜兵を殺すと爲すなかれ」と。敎經曰く、「中納言、吾れ義經と死を决せんと欲するのみ」と。乃、進みて義經を索む。卒に之と遇ふ。敎經、冑を免ぎ、鎧袖を撤し、躍りて其船に入る。敵兵遮り鬪ふ。輙搏ちて之を仆し、直に義經に逼る。敵中、安藝家村といふ者あり。力三十人を兼ぬ。二力士を率ゐて、進みて敎經に當る。敎經蹴りて其一人を仆し、二人を挾みて、海に投じて死す。宗盛、淸宗と自裁する能はず。從士之を海に擠す。泅ぎて遁る。敵兵鈎して之を獲たり。藤原景經は、景淸の從弟なり。之を見て曰く、「奴輩、敢て吾が君を辱かしむるか」と。進みて一人を斬り、箭に中りて死す。知盛聞きて切齒する久くして曰く、「吾れ以て死す可し」と。敎盛と皆自殺す。平家長等八人之に殉ず。壽永二年三月廿四日平氏滅ぶ時に壽永二年、三月廿四日なり。經盛、資盛、皆遁る、已にして自殺す。
宗盛父子、皇弟、皇太后、平時忠以下と、義經に從ひて東す。命ありて、宗盛以下を京師に徇ふ。宗盛、輿中より四望す。淸宗、仰ぎ視ず。旣に罷む。皆義經の第に抅す。宗盛、衣を解かず。寢るに袖を以て淸宗を庇ふ。守兵見て之を憫む。五月、鎌倉に送る。賴朝之を前舍に延き、庭を隔てゝ相見る。命を將ふ者至る。宗盛、悚然として死を宥されんことを請ふ。賴朝、魚を爼に措き、刀を加へて之を示し、諷して自殺せしめんとす。宗盛、其意を曉らず。又送りて京師に還す。篠原【篠原】近江
宗盛殺さるに至り、父子別に抅す。將に殺されんとするを知るや、乃僧を請ひて佛を稱して曰く、「吾、壇浦に死せざるは、淸宗あるを以ての故のみ」と。是に於て皆斬らる。宗盛、次子あり。副將と曰ふ。先に京師に斬らる。初め壇浦の敗に、時子衆に謂て曰く、「宗盛は故相國の子に非ず。吾の再姙するや、相國其男を生むを期す。而して女生まる。吾れ相國の恨怒を恐れ、密かに人をして之を一傘工の男兒に易へしむ。宜なるかな、其重盛に若かずして、以て此に至る」と。宗盛旣に死し、時忠等、皆流に處す。
義經
兵士殘黨時に義經、賴朝と𨻶あり。逃れて西海に奔る。賴朝其平氏の遺黨と相依託して、亂を作さんことを恐るゝや、北條時政を京師に遺し、平氏の胤子の所在に伏匿する者を購ひ索めしめ、幼孩は之を生ながら埋め、稍長ずる者は之を刄す。其母若くは保、往々隨ひて死す。啼哭四に聞ゆ。六代維盛の子を六代と曰ふ。其母に依りて大覺寺の側に匿れ、人に吿げられて斬に當る。其乳母、僧文覺に因りて宥を請ふ。賴朝、素より文覺を重んず。且重盛の己れに德するを思ふや、特に之を宥す。髮を削りて文覺の弟子と爲る。文覺不軌を圖るに及びて六代も坐せられて死す。
忠房初め維盛の弟忠房、壇浦を遁れて紀伊に匿る。知盛の次子知忠、族人の西奔する時に當りて、甫めて三歲なり。乳母の子紀友方携へて備後に匿れ、後伊賀に徙る。平氏の舊臣藤原忠淸、宗盛に先だつこと一年にして捕斬せらる。平貞能、髮を削り、重盛の骨を奉じて、常陸に隱る。忠淸の二子忠光、景淸は、平盛嗣等と各所に潜匿す。後八年、鎌倉土木の事あり。賴朝臨む。忠光忠光役徒に雜はり、賴朝を刺さんと欲す。魚鱗を眼に嵌して、以て眇と爲り、畚を荷ひて出入す。賴朝、見て恠しみ、之を執ふれば、利刀を懷にせり。曰く、「平氏の臣忠光なり。故主のために仇を復せんと欲す」と。其黨を究問す。曰く、「獨盛嗣あるあり。聞く前に丹波にあり。今何に之けるを知らず」と。復言はず。食飮を絕つこと、月餘にして死す。賴朝大に天下に索むれども、獲る所なし。
後五年、知忠、伊賀より還りて京師に入り、法性寺の側に匿る。盛嗣、景淸之を聞きて皆至る。諸舊臣稍來り屬し、賴朝の妹婿前原能保を襲はんと謀る。能保之を覺り、兵をして圍み攻めしむ。我が兵二十餘人亂射し、敵を殺して死す。知忠友方と俱に自殺す。盛嗣盛嗣、景淸、遁れ走り、忠房紀伊に在りと聞き、往きて之に歸し、兵を擧げて湯淺城に據る。熊野別當に攻め破られ、忠房捕殺せられ、盛嗣、景淸、又遁る。
景淸賴朝、東大寺に慶するに會ふ。景淸、衆中に雜れて、これを刺さんと欲す。事覺れて捕へらる。これを和田義盛に屬す。義盛、其不遜を苦しみ、之を辭す。乃、八田知家に屬す。景淸、終に食はずして死す。盛嗣、姓名を變じ、但馬の人氣比道廣に仕へ、其厩卒となる。因りて其女に通ず。馬に浴する每に馳射の狀を爲す。道廣其の盛嗣なるを知れども問はず。旣にして道廣に隨ひて京師に如き、故の妾家に遊ぶ。妾家之を源氏に吿ぐ。乃、道廣をして之を捕へしむ。道廣、カ士數人を遣し、其浴するを候ひて之を圍む。盛嗣、罵りて曰く、「奴輩、吾遁れんと欲せば、即遁れん。而れども主人を累はすを欲せず」と。出でて縛に就く。賴朝之を面讓して曰く、「盍ぞ壇浦に死せざる」と。對へて曰く、「平氏の胤を擁して、以て舊業を復せんと欲するのみ」と。又問ひて曰く、「汝義盛に依ると聞く、諸ありや」と。盛嗣曰く、「否らず。嚮に京に在りしとき、判官を圖りて遂げず、爾來頗る利刄銳鏃を儲けて、一たび之を將軍の身に試みんと欲するのみ」と。遂に斬らる。
平氏の評外史氏曰く。我が先王の、國を開き給ひしより、僭亂の臣なきに非ざるなり。而れども未だ社稷を危くせんことを謀りし者有らず。獨一の將門ありて、しかも平氏より出づ。豈其宗の大耻に非ずや。然れども能く之を討滅する者も、亦平氏より出でたれば、以て相償ふに足れり。且、將門、一たび誅に伏せしより、後世復神器を覬覦する者なし。彼れ其身を以て、天下の大戒を標せんと謂ふべきなり。
天慶の亂の源因抑々將門をして一檢非違使を得しめば、則未だ必しも甘じて反賊とならじ。故に天慶の亂は、皆相門驕傲にして、上下を壅塞せしが致す所なり。
其事なきに當りては、朝廷の名爵を私門に籠めて、人の職を失ふを恤へず。其急なるに及びては、乃、遽に朱紫を揭げ、天下に呼號し、天下の英雄をして、以て朝廷を窺ふこと有らしむ。源平興起の原因後世源平爭ひ起り、功を以て其上に邀ふ者は焉ぞ其此に基かざるを知らんや。
淸盛の評世、淸盛の功は其罪を償はずと稱し、不臣の者を擧ぐれば、輙、以て稱首とす。而して【相家】藤原氏淸盛藤原に學ぶ相家の不臣なるは、已に淸盛に什倍するを知らず。淸盛は盖し視てこれを學びしのみ。否らざれば則何ぞ遽に此に至らんや。詩【詩】小雅、裳裳者華の篇に曰く、『唯其れ之あり、是を以て之を似す』と。
相門の權を專にしてより、后は皆其女、天子は皆其女の生みし所。而して卿相は皆其子弟親屬なり。苟も其族類に非ざれば、鋤して之を去る。皇族と雖も免るゝこと能はず。甚しきは則其主を易へ置くこと、猶奕棊を視るが如し。淸盛の爲す所、一として彼の己氏に似ざる者なし。而して加ふるに鷙悍を以てす。其意に曰く、「無功の人を以て猶權寵を擅にせしこと此の如し。吾れの王室に大造ある、何をしてか不可ならん」と。世、其㧞興の漸無きを以て、群起して之を咎む。而れども之が師【師】藤原氏と爲る者有るを言はず。後白河天皇淸盛の勢を養成す且、淸盛の此に至る所以は、後白河帝の其勢を養成せしに由るのみ。夫れ名爵、公器は、私に用ゐる可からず。人臣にして名爵を私するは、是れ其君に負くなり。人君にして名爵を私するは、是れ其先王に負くなり。帝、先王の名爵を淸盛に濫授し、藉りて以て其私を濟す。而して其功を負み、上に邀ふの心を長じ、制す可らざるに至る。將誰を咎めんや。然りと雖も平氏の勢を成すものは、獨、帝に始まりしにあらざるなり。初め忠盛、寵を白河、鳥羽に受け、連に官爵を進む。人以て不次と爲す。平氏の力を以て源氏を抑へ藤原氏の權を殺ぐ盖し朝廷其力に倚りて以て源氏を抑へぬ、源氏を抑へたるは、相家の權を殺ぎし所以なり。源氏、滿仲賴光より、每に相門の爪牙たり。攝政兼家の花山を騙しゝや、源賴信、實に道途を捍衛せり。降りて文治の際に至りて、朝廷、關白兼實の源賴朝を助けしを疑ひしも、亦其世相黨援せしを以てせしに非ずや。是に由りて之を觀れば、平宗を延きて以て相門に抗せしめしは、院政國論の相傳承する所、其れ猶寬平の菅氏を擢任せしが如きか。文武異なりと雖も、其意は一なり。菅公の賢を以てして、猶權を戀ふ意なき能はず。平氏は、重盛を除くの外、皆不學無術なり。其功に矜り、寵を擅にし、進みて止るを知らざるも、曷ぞ尤むるに足らんや。
假設ば、重盛、父に後れて死し、盡く其爲す所を反して、子弟を戒飭し、王室を輔翼せば、則藤原氏に踵を接ぎ、隆を比すと雖も可ならん。而れば源氏、何に資りて以て起らんや。源平二氏の評論源氏名は暴亂を治むと爲して、其實は王權を攘竊せしなり。源平の罪、未だ輕重し易からざるなり。且夫れ源氏の猜忍にして、骨肉相食む、平氏の闔門、死に至るまで、懿親を失はざりしに比して、孰與ぞや。
世、平語を傳へ、琵琶に倚せて之を演ず。其音悲壯感憤にして、聽く者悽愴せざるは莫し。余甞て西、長門に遊びて、壇浦を過ぎ、平氏覆滅の所を觀き。又肥後に抵りて、其州に五家山あり。山谷深阻、平氏或は竄匿し、子孫今に至りて猶存する者あり。外人と交通せずと聞きぬ。夫れ平氏の王家に於る功罪相償へり。天必しも其後を剿絕せざれば、則是れ其れ或ひは然らん。
外史氏曰く。王權の武門に移りしは、平氏より始まり、源氏に成れり。而して之を基しゝものは藤原氏なり。故に略王室、相家の系統を叙でゝ以て參觀に備へん。
盖し神祖【神祖】神武帝より後三十九世を、天智と曰ふ。是を中宗とす。天智の子大友【大友】弘文位に即く。而して天武叔父を以て篡立し、之に持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、帝大炊【大炊】淳仁に傳へらる。凡七世にして天武の嗣絕ゆ。光仁は天智の孫を以て、入りて大統を繼ぎ、之を其子に傳へらる。是を桓武帝とす。桓武の三子、平城、嵯峨、淳和、兄弟相及ぶ。仁明は嵯峨の子を以て之を繼ぐ。文德は仁明の子を以て又之を繼ぐ。文德、幼子なれども、藤原氏の故を以て、立ちて位に卽く。是を淸和帝とす。淸和の子陽成は、藤原氏に廢せらる。光孝は文德の弟を以て之に代へらる。光孝より下、宇多、醍醐、朱雀、村上、父子相繼ぐ。村上の子冷泉、圓融、兄弟相及ぶ。花山は冷泉の子を以て圓融に繼ぐ。一條は圓融の子を以て花山に代る。三條は又冷泉の子を以て、一條に繼ぐ。一條の子後一條、後朱雀、兄弟相及ぶ。後朱雀より下、後冷泉、後三條、白河、堀河、鳥羽、崇德、父子相繼ぐ。崇德より下源平語中に詳なり。帝王廿一世皆藤原氏の出崇德より上文德に至るまで二十一世、其藤原氏の出に非ざりしものは、宇多、後三條のみ。故に皆其權を抑ふるを計りて、在位長からず。能く志を遂げらるゝことなし。然して宇多以後三朝、攝關を置かず。政、天子にあり。白河以後旣に位を辭して、猶政を聽く。政、上皇にあり。其餘は皆藤原氏の成すを仰ぎたまへり。【政を擅にす】攝關政を擅にするなり而して其政を擅にするは、文德より始ると云ふ。然れども、余謂へらく、藤原氏の驕專なる、其來る久し。獨、文徳の時に始りしに非ざるなり。鎌足鎌足、天智を助け、力を王室に効し、其子不比等四朝【四朝】持統、文武、元明、元正の元老たり。文武、聖武、並に其女を娶りて、孝謙は其外孫女なり。而れども皆淫縱、惠美押勝、孝謙に嬖せられ、殆ど國家を危くす。實に不比等の孫なれば、則其家法知るべきなり。其後光仁、桓武、仁明、獨、藤原氏に出でず。而して平城より以下、文徳に至るまで、又みな其出なり。文德の外男左大臣冬嗣は、不比等四世の孫たり。冬嗣の子良房、又女を文德に納れて、淸和を生む。文德、長子の惟喬を立てんと欲して良房を憚り、遂に淸和を立つ。藤氏の積威一日に非ず則藤原氏の威、人主を懾する、一日に非ざりしこと、又知るべきなり。淸和、生れて九歲にして位に即く。良房外祖を以て政を攝す。其子の其經、陽成を廢して、光孝を立て、萬機を攝關す。攝關號の始攝關の號此に始まる。基經の二子時平、忠平あり。忠平は朱雀の朝に攝政す。其二子の實賴、師輔と並に三公に列す。是に於てか、天慶の亂あり。冷泉の二弟、爲平、守平あり。村上、爲平を立てゝ、冷泉の儲貳と爲さんと欲す。而して實賴等、其藤原氏の出に非ざるを以て、之を沮みて守平を立つ。是を圓融とす。是に於てか、安和の變あり。藤氏と帝室との關係を論ず師輔三子あり。伊尹、兼通、兼家と曰ふ。兼家三子あり。道隆、道兼、道長と曰ふ。皆兄弟政を爭ふ。伊尹の女、華山を生む。兼家の女、一條を生む。故に兼家、道兼をして華山を賺し位を遜れしめて、而して一條を以て之に代らしむ。是れ其最甚しき者なり。後一條より下三帝、皆道長の女の生みし所、是れ其最寵榮を極めし者なり。道長の二子賴通、敎通、相繼ぎて政を執る。而して賴通、師實を生む。師實、忠實を生む。忠實、其長子の忠通を疎じて、少子賴長を愛す。是に於てか、保元の禍あり。忠通の三子基實、基房、兼實あり。基實、基通を生む。基房、師家を生む。兼實、良經を生む。更朝政を源平の際に執る。兼實其論議觀るべき者は、獨、兼實あり。他は位に充つるのみ。其後一姓分れて、五攝家
【五派】近衛、九條、二條、一條、鷹司五派と爲り、更攝關と爲る。而して其進退は、皆、復天下の事に關らず。錄するに足らざるなり。之を總ぶるに良房より下奕葉鈞を秉る、大抵務めて私門を營み、國家の休戚を以て心に經せず。而して其權を爭ふに當りては、父子、兄弟、且相保たずして、奔競從諛し、朝を擧げて風を成せり。宜なるかな、大亂の是に基すること。藤原の末路而して其終り王室と俱に衰へ、共に頽れ、徒に空名を存せり。哀まざるべけんや。
外史氏曰く。吾れ史を閱して、王覇の廢興せる所以を知るあり。源賴朝、甞て大江廣元を奏して、廳使、衛尉と爲す。攝政兼實其不可を議して曰く、「儒家進仕の例に非ず」と。藤氏公卿の門閥論を嘲る嗚呼門閥を以て賢と爲し、格例を以て政を爲す。其才俊驅りて以て梟雄を資けしめて、猶覺悟せずして此の區々を爭ふ。兼實すら且然り。其他知るべし。向に相家をして國を憂ふるの心と、變に通ずるの略あらしめば、何ぞ王權の外移するを患へんや。顧ふに嚮者、天慶の亂も、亦藤原忠平の廳使を平將門に許さゞりしに由るなり。久い哉。相家の豪傑を沈滯せしむること。抑、將門は自與せんと欲せしなり。而して得失を以て榮辱と爲せり。賴朝は之を其下に與へんと欲せしなり。而して從違を以て損益を爲さざりき。又以て世變を觀る可きかな。
邦文日本外史卷之一終