[1491]邦文日本外史卷之二十二
十九年
秀忠右大臣となる慶長十九年三月、大將軍、從一位に陛り、右大臣に遷る。天使就きて拜す。四月天使、江戶より歸り、駿府に過りて、內旨を諭し、前將軍を以て太政大臣と爲
【孫女】和子し、三宮に准じゆんす。辭して敢て當らず。又孫女を納れて中宮と爲さんことを諭す。乃詔を奉ず。
大野治長是の時に當りて、豐臣秀賴已に長じ、其臣大野治長等、陰に兵を擧げて其舊業を復せんことを謀る。治長、姿容あり。密に淀君と通ず。言ふ所聽かれざる莫し。
織田長益淀君の季父織田長益と議して、書を前田利長に遺りて曰く、「先君遺命あり。君盍ぞ來りて嗣君を輔けざる。城內甲仗豐足す。福島正則等の貯へし所の穀粟、積みて數萬石に至る。以て爲す有るに足る」と。利長、疾を以て之を辭す。其書を以
【兩府】駿府、江戶て來り、兩府に獻ず。五月、利長、卒す。子利光に命じて封を襲がしむ。秀賴の[1492]片桐且元傅片桐且元、常に秀賴を誡めて曰く、「德川太公は、義元の誼を失はずして、氏眞を納れ、信長の好を遺れずして、信雄を助けたり。先公、其然るを知る。故に終に臨みて孤を託す。君、務めて其驩心を失はずば、則以て長久なる可し。不らずば則禍將に測られざらんとす」と。秀賴頗る悟る。而れども群臣悅ばず。且元、數關東に使するを以て、其私有るを意ひ、稍これを猜防す。是より先、秀賴、方廣寺方廣寺を造りて、先志を繼ぐ。是に至りて、功を畢る。又巨鐘を鑄る。乃且元をして來り告げしめて、之を慶せんことを請ふ。期するに七月秀賴、親往くを以てす。
髙山友群是の歲、高山友祥、內藤如安等、蠻敎を奉ずるを以て、京師の獄に下る。前將軍吏二名を遣し、往きて栃倉勝重と議せしめ、友祥等を海西に放ち、餘黨を流す。是に於て、界浦に犯人あり。二吏、卒を率ゐ、往きて之を按ず。途に大阪を經。訛言あり。曰く、「且元秀賴の出づるを候ひ、東吏を導きて城を取らんとす」と。秀賴、惧れて出でず。二吏、既︀に界浦を按じ、遂に長崎に之く。
鐘の銘訛言乃止む。將に之を慶せんとす。其鐘銘忌諱に觸れ、呪咀する者に類す。上棟牌も亦、式の如くならず。林信勝、僧︀天海等、交之を言ふ。前將軍怒り、乃使を馳せて其慶を停めしむ。[1493]大阪の女使到る八月、且元、治長等來り謝す。女使二人、又淀君の命を奉じて至る。前將軍、二女使を召して之に謂て曰く、「右府は吾が孫女の婿なり。淀君も亦吾が婦の姊なり。吾れ豈相負かんや。吾れ右府を視︀ること猶子の如し。而れども右府の我を視︀ること猶仇讎の如し。聞くが如くば、『大阪日士を招き、甲を繕め、多く糧餉を峙む』と。吾れ未だ其何の謂なるを知らざるなり。今吾れ在れども、猶此の如し。况や後世をや。然りと雖、是れ右府母子より出づるに非ず。盖し姦人に詿誤せらるゝのみ。苟も非を悛め誠を諭さば、則國家無事ならん」と。復銘詞を問はず。二女大に喜び、遂に江戶に赴き、夫人に候す。
本多正純九月、本多正純、僧︀天海をして且元を責め、誠を輸すの實を以てせしむ。且元、
三策其旨を請ふ。答へず。且元、乃二女と偕に辭し去り、行之を思ひて三策を得たり。曰く、「淀君を納れて質と爲さん」曰く、「秀賴をして江戶に居らしめん」曰く「大坂を避けて他に徙らん」と。因りて密に啓して曰く、「母を德川氏に質とする者︀は、先公の甞て爲しゝ所なり。是を上策と爲す」と。或人、且元は君を賣ると譖る。淀君大に恚り、群臣と議を決し、且元を誅して兵を擧げんとす。且元、其
且元茨木に奔る邑茨木に奔る。遠近騒然たり。板倉勝重、書を飛ばせて來り報ず。十月朔、報、[1494]駿府に至る。前將軍方に諸︀子と散樂を觀る。【孺子】秀賴報を得て曰く、「孺子終に悟らざるか之を除かざるを得ず」と。乃樂を撤し、之を江戶に報げしむ。是の春、東の諸︀侯に課して、高田城高田に城く。是の秋、西の諸︀侯に課して、江戶を修む。是に於て、皆罷めて國に就きて、大阪に備へしむ。
秀賴も亦、秀賴兵を慕る益金を散じて兵を募る。關原の餘黨、若くは諸︀藩亡命の者︀、大阪に、四集す。十萬人號して十萬人と稱す。四に出で抄掠して軍須を貯ふ。東府の穀︀五萬石、其城下に在り。【城下】大阪板倉勝重、人をして大野治長に謂はしめて曰く、「之を道路に聞く、『諸︀公、將に旗鼓の事有らんとす』と。不腆弊邑の穀︀、敢て從者︀を犒はん」と。治長、辭して敢て取らず。勝重乃賈人をして京師に漕送せしめて、一兵をも勞せず。伏見の留守松平定勝、井伊直孝、勝重と議して、謀を大阪に遣し、悉く消息を知り、輙之を東府に報ず。淀、葛葉
【淀】山城
【葛葉】河內關を淀、葛葉に置きて、兵士の往來を撿す。尼崎の城主建部某は、關原の降將なり。池田氏と姻あり。前將軍、池田利隆︀に命じて其戚屬下間重景を遣し、兵を將ゐて援け守らしむ。片桐且元、已に降を我に納れ。將に茨木より界浦に赴かんとし、大阪の兵と尼崎の下に戰ひ、救を重景に求む。重景、其僞を疑ひ、救ふことを肯はず。且元敗走す。大阪の兵、始合にして[1495]捷ち、氣倍壯なり。大に守備を議す。其城は故秀吉の築きし所にして、天下の力を窮め、塹壘壯固にして匹なし。西北に水を帶び、東南に池澤多し。是に於て益塹寨を設けて守兵を置き、遂に間使を發して、秀賴諸︀侯を招く諸︀侯を招く。伊達政宗、之に小山に遇ひ、縛して江戶に送る。島津家久、其幣を郤け、馳せて駿府に吿げ、且、師の期を請ふ。淺野但馬守淺野但馬守は國富み兵强し。而して大阪と腹背を相爲す。議者︀以て大患と爲す。已にして大阪果して數使を遣し、其君臣を誘ふに利を以てす。但馬守答へて曰く、「我が父兄故太閤に報ゆる所以は足れり。吾が東府に於ける恩誼輕きに非ず。今故無くして之に倍きて、亂人に黨せば、不義孰かこれより大ならん」と。使者︀、猶來りて百計勸め說く。但馬守、乃其使を斬らんと欲す。惧れで止む。
前將軍、大阪府諸︀の報吿を得て、乃軍令を下して曰く、「伊勢、近江、美濃、尾張、越前等の兵は、急に淀、勢多を扼し、大和の兵は、自其地を守り、北陸諸︀國の兵は、大津、阪本に陣し、中國の兵は、池田に陣し、南海︀、西海︀の兵は、和泉の海︀濱に泊して、並に大軍を竢ち、輕しく戰ふ勿れ」と。東海︀、東山の將帥は、前將軍皆前將軍に隷し、關八州、及び陸奧、出羽︀の將帥は、將軍皆將軍に隷す。而して世子家光は少[1496]將忠輝、及び酒井忠重、其弟忠利等と、江戶を居守す。蒲生、最上氏以下、之に隷す。賴房、其傅中山信吉と、駿府を留守す。義直、其傅成瀬正成と、賴宣、其傅安藤直次と、皆軍に從ふ。義直、初め右兵衞督たり。賴宣は常陸介たり。並に從四位下に叙せらる。後並に從三位に進み、參議に任ぜられ、右近衞中將を兼ぬ。賴房、初め左衞門督たり。後、從四位下に叙し、右近衞少將に任ぜらる。是に於て、白旗を義直、賴宣に分賜す。諸︀の甞て豐臣氏の特恩を受けし者︀は、從ふを許さず。
十一日、前將軍駿府を發す前將軍、數百騎を以て駿府を發す。大阪、刺客を發し、京師に入りて駕を狙ひ、大阪の刺客且に二條城を焚かんと欲す。板倉勝重之を覺り、盡く捕へて獄に下す。二十二日、駕京師に至る。傳奏司、勅を傅へて勞問す。少將忠直は、二萬人を以て、前田利常は三萬人を以て、皆これに會す。居ること三日にして、諸︀將を召し、大阪の圖を開き、戰を議して曰く、「西南の兵未だ至らず。宜しく先鋒を以て戰を挑むべし」と。直孝、高虎井伊直孝、藤堂高虎、先鋒たり。松平忠明松平忠明、本多忠政之に繼ぐ。忠明は、奧平信昌の少子なり。外孫の故を以て、氏を賜ひて龜山に封ぜらる。是の歲、其兄忠正卒す。代りて其衆を領し、美濃の將士を統ぶ。是に於て、[1497]先鋒は南面より進み、北面は濟り難︀きを以て、伊奈黒政伊奈忠政をして、淀川を長柄に壅ぎ、大和川を鳥飼︀に壅がしめ、尋いで毛利、福︀島氏をして、之や助けしむ。
十一日、高虎、大仙陵大仙陵に至る。薄田兼相時に城將薄田兼相、山口弘定、平野を掠む。之を望みて走る。城將大野道見、天王寺を焚き、以て我軍を撓す。高虎、動かず。終に直孝と進みて住吉に陣す。城將堀氏弘、界浦を掠む。之を聞きて走り、高虎の軍前を過ぐ。前部渡部了、其伏あるを慮り、敢て擊たず。淺野但馬守淺野但馬守、兵を將ゐて紀伊を發し、行土兵の大阪に應ずる者︀を撃ち、來りて高虎と事を議し、還りて大鳥に陣す。
池田利隆︀池田利隆︀、二弟忠繼、忠雄と神︀崎川に至る。城昌茂、命を奉じて其軍を監す。二弟は下流を亂り、利隆︀は上流を渉り、進みて長柄川長柄川に至る。城將織田長益等、萬人を以て、天滿、中島を守る。利隆︀、濟らんと欲す。昌茂、之を止む。其夜、二弟復下流を渡り、守兵を遂ひて中島を取る。
將軍は、將軍江戶を發す前將軍の京師に入る日を以て、江戶を發し、程を兼ねて進み、十日にして伏見に至り、其明、二條に詣りて事を議す。
十七日、前將軍は住吉に陣し、將軍は平野平野に陣し、義直、賴宣は住吉住吉の北に陣し、[1498]少將忠直、前田利光は岡山に陣し、井伊直孝、藤堂高虎は天王寺に陣し、上杉、佐竹、相馬、秋田、堀尾、京極の諸︀將は平野の西に陣し、伊達、金森の諸︀將は今宮に陣し、淺野、蜂須賀、鍋島の諸︀將は今宮の北に陣し、池田、加藤、山內、森、有馬の諸︀將は中島に陣す。九鬼、向井の諸︀將は兵艦を以て傳法口に泊す。兵總て五十萬人。城の四面を環りて尺地を遺さず。前將軍、城中必悔︀ゆるを度り、人をして和を議せしむれども肯かず。已にして住吉の邏騎、夜、一卒を捕ふ。曰く、「藤堂の陣に適かんと欲して、誤りて此に至るなり」と。其懷を撿して秀賴の書を得たり。書に曰く、「二魁深く我が地に入る。子の計中れり。宜しく速に東國に欵を歸り、諸︀將をして其歸路を斷たしむべし。事成らば則封を加ふること約の如くせん」と。前將軍、書を覽て哂ひて曰く、「彼れ我を離間せんと欲す。謀何ぞ淺きや」と。高虎高虎を召して、書及び卒を賜ふ。高虎訊ひて其實を得、乃其手足の指を斬り、黥して秀賴と曰ふ額に黥鯨して秀賴と曰ふ。縱ちて之を歸す。城兵又池田利隆︀を誘ひて曰く、「事成らば封ずるに備前、播磨、美作を以てせん」と。利隆︀、使者︀を縛して之を獻ず。
兩將軍、終に進み取らんことを議す。阿部正之、安藤直次、永井直勝、小栗忠正[1499]等の數十人、巡使たり。大須賀氏の部下久世廣宜
阪部廣勝久世廣宣、阪部廣勝、罪を獲て出亡す。兵事に老するを以て、收錄せられ、是の役に皆巡使となり、令を諸︀軍に傳ふ。進退操縱、意の如くならざる莫し。
蜂須賀至鎭、攻めて穢多崎穢多崎を取る。九鬼守隆︀、向井忠勝、水軍を以て敵の候船數十般を奪ふ。鶴︀野、今福︀の戰上杉景勝、鷸野を攻め、佐竹義宣、今福︀を攻め、みな其柵を破る。城兵、道を分ち出でゝ拒ぐ。船に銃手を載せて、其中に出で、力戰して交綏く。已にして城兵、柵守り難︀きを以て、之を奔てゝ退く。將軍、片桐且元をして代りて入り、備前島に屯せしむ。其最城に近きを以て、屬するに礮手を以てす。
諸︀將、將に博勞淵の二寨を攻めんとす。北寨の下に洲あり。蘆葦を生ず。皆銃卒を以て之を守る。我軍先蘆洲を取らんと欲す。洲、多く兵を容れず。兵寡ければ、又守る可からず。右川忠總石川忠總は、實に大久保忠鄰の子なり。功を以て父を贖はんと欲し、乃請ひて手兵を以て往き、舟二隻を得て、鎗を以て棹と爲して濟る。敵の洲を守る者︀、皆走りて寨に上りて銃を發つ。忠總、仰ぎ攻むること連晝夜。九鬼氏、舟數十を給し、之を助けて北案を抜く。又蜂須賀氏の援兵を得て、遂に南寨を抜き、進みて土佐港、阿波坐港を取り、還りて首虜︀を効す。前將軍曰く、[1500]「忠世の孫に愧ぢず」と。
花房職之是に於て、諸︀將爭ひ進む。池田忠繼、蜆川に臨みて陣す。部將花房職之、野田、福︀島の二寨を望みて曰く、「旗を植てて烟なし。是れ已に逃れしなり」と。人をして之を伺はしむるに、一人をも見ず。乃濟る。中島の諸︀將、繼ぎ濟らんと欲す。城昌茂、城昌黃之を止めて曰く、「太公、我に命じて軍を護らしめ、其持重を戒む。公等我が言に逢ふは、乃太公の言に逢ふなり」と。諸︀將乃止む。已にして中軍、令を傳へて諸︀將の逗留するを責む。諸︀將答ふるに昌茂を以てす。前將軍、昌茂を召し林信勝をして孫武の傳を讀ましめ、「將の軍に任りては、君命も受けざる所ある」に至りて、乃昌茂を願て曰く、「汝、我が命に拘り、機を見て進まざるは何ぞや」と。因りて之を逐ふ。諸︀將に令し、進みて福︀島福︀島に入らしむ。淺野氏、兵船を以て海︀口に至り、其聲援を爲す。阿部正之阿部正之白して曰く、「西北の諸︀砦相踵ぎて陷沒す。川場、天滿の二寨は、脆薄にして水を背にす。必遁れん」と。其夜果して寨を焚きて退く。城將大野治房、道頓港道頓港を守る。亦驚き走りて城に入る。蜂須賀氏の兵追ひて其旗幕を獲たり。十二月、忠總、忠繼、淺野、鍋島、九鬼の諸︀將と、進みて川塲に入り、利隆︀等は進みて天滿に入る。[1501]東南の諸︀將も亦、進みて城に逼る。伊達政宗は川塲に至り、井伊直孝、藤堂高虎は生玉に至り、空壕に臨みて陣す。城兵諸︀橋を燒く城兵、外城の諸︀橋を燒き、獨淡路、本街、高麗の三橋を存す。石川忠總、城兵と高麗橋に戰ひ、敵をして燒くを得ざらしめんと欲す。諸︀巡使、之を救はんと請ふ。前將軍、叱して曰く、「止めよ。我が軍の城に登らんと欲するに、何ぞ橋を恃まんや。彼れ自出路を斷つのみ」と。忠總をして退舍せしめ、遂に諸︀將に令して曰く、「垣を設け牌を列ね、令を竢ちて進み、妄に鬪ひて一卒を損する勿れ」と。又天寒きを以て糧食を增す。本多正純、命を受けて、金工光次金工光次を以て介と爲し、書を城中に遺り、織田長益、大野治長をして和を議せしむ。將軍、之を聞き、來り請はしめて曰く、「圍合へり。請ふ、諸︀軍に令し、四面より齊しく登らん。天下の兵を以て、一城を攻む。何の抜き難︀きことか之有らん。和議若し成らば及ぶ可からざるのみ」と。前將軍曰く、「未だし」と。將軍懌はず。本多正信曰く、「太公必神︀算あらん。願くは少く之を竢て」と。藤堂高虎、私に書を城上に射て、南條光明南條光明を誘ひ、內應を爲さしむ。光明、期を約す。事覺れて殺︀さる。藤堂氏の兵、知らずして進み、井伊氏の兵、之に繼ぐ。
加賀、越前の子弟も亦進み、玉造玉造の貳城に逼る。故秀康の庶子直正直正先登し、幟を[1502]濠の上に建つ。而して城將眞田幸村、善く拒ぐ。我が兵死傷頗る多し。前將軍烟を望み、怒りて曰く、「奴輩、敢て我が令を破る」と。安藤直次安藤直次を願て、往きて之を收めしむ。將軍、令を破る者︀を罰せんと請ふ。前將軍曰く、「令を破る者︀も亦、得可からざるなり」と。兩公屢諸︀營を巡視︀す。前將軍、未だ甞て甲を衷せず。葵號の戰袍を被て馬に上り、十餘騎を從へて生玉口に至る。城兵望み覩て之を識り、銃を叢めて雨注す。衆爭ひて之を避けんと請ふ。前將軍顧ず。轡を按めて徐行す。横田尹松橫田尹松、後れて至り、衆を排して進みて曰く、「此公、矢石に當るを喜ぶ。矢石の來る、川塲より甚しきは莫し。請ふ、往かん」と。乃馬を控へて西し、城を去りて遠ざからしむ。他日、將軍、巡りて天滿に至り、有馬氏の堙樓に登る。城兵狙ひて大熕を發す。從者︀去らんと請へども肯かず。水野勝成水野勝成曰く、「元帥の師を巡るは、斥兵と異なり。當に專一處を視︀るべからず」と。乃肯ひて去る。後藤基次城將後藤基次曰く、「兩帥みな天授なり。豈徼倖す可けんや」ど。衆を抳めて妄に銃を發する勿らしむ。
六日、前將軍、徙りて茶白山茶臼山に陣し、將軍、徙りて岡山岡山に陣し、連珠砦を築きて相接す。壅河の功旣に竣り、隍水多く涸る。城兵大に驚く。我軍土豚を以て隍を[1503]塡め、竹牌を列ねて鐵楯を排し、距理を起てゝ地道を鑿り、而して銃を發して鼓譟すること、每夜三次、城兵をして休止するを得ざらしむ。前將軍、諸︀將に令し書を射しめて曰く、「降る者︀は賞あり」と。城中の人人相疑ふ。將軍、復城を凌ぎて齊しく登らんと請ふ。前將軍曰く、「吾れ聞く、『良將は戰はずして勝つ』と。且兵を損じて城を得るは、吾れ取る無し」と。復金工光次をして城に入りて前將軍再び和を議す和を議せしむ。城中衆議して決せず。和を願ふ者︀多し。大野治長等、議を建てゝ曰く、「德川翁は且夕の人なり。明歲は西吉にして東凶なり。且く和を約して以て後圖を爲さん」と。乃秀賴を勸めて和を請はしむ。前將軍曰く、「右府、誠に自艾めば、則吾れ復意を介する莫し。城內の客兵は、皆釋して問はず」と。因りて三事を約し和す三事を約す。曰く「周池を塡めん」曰く「大和に徙さん」曰く、「淀君を以て質と爲さん。必ず一に居れ」と。數日にして周池を塡むるを聽かんと答ふ。而して客兵の爲に食邑を加へんと請ふ。前將軍怒りて曰く、「之を釋すゝら已に多し。奚ぞ之を養ふに勝へんや」と。議して乃輟む。乃工に命じて益攻具を造る。
或人、井伊直孝に詣りて事を議す。直孝方に唾りて起き、目を摺りて出づ。或人曰く、「子、何ぞ懈るや」と。曰く、「我れ敵の出でゝ襲ふを慮り、夜は睫を交へず[1504]唯晝間、睡るを得るのみ」と城將大野治房、道頓港の敗を愧ぢて、之に報いんこと有らんと欲す。時に阿波の兵、本街橋の西に陣す。治房、衣、出でゝ之を襲ふ。阿波の兵亂れ、死傷頗多し。人乃直孝に服す。
是より先、天皇、大納言藤原兼勝、大納言藤原實條をして、來り勞はしむ。是に於て、復來りて詔旨を傳へて曰く「卿耋老を以て風雪を戎間に冐す。宜しく事を諸︀將に委ね、還りて京師に息ふべし。即和議を欲せば、將に秀賴に詔して之を成さんとす」と。前將軍、稽首して曰く、「臣、少より軍旅に慣ふ。且職分の存する所、獨逸︀す可からず。聖慮を勞する勿れ。和議に至りては、臣、自之を修めん。以て天詔を辱くするに足らず。秀賴をして詔を奉ぜしめば、則可なり。若し詔を奉ぜずば、適に其罪を增さん。臣、則之を誅夷せざるを得ず。是を以て敢て辭す」と。阿茶局乃女監阿茶をして京師に如かしめ、常光氏を迎ふ。常光氏は京極忠高の母にして淀君の妹なり。之をして城に入りて和を勸めしむ。工場を經て往く。工人千百、群を成して、諸︀の攻具を造る。飛橋、轒輼、みな千を以て數ふ。常光城に入りて、具に淀君に說く。淀君、初め秀賴と倶に城內を巡視︀す。守兵の頗壯銳なるを見るや、大に喜ぶ。天主閣より東軍を臨む遂に天主閣に上りて東軍を望めば、則極目みな[1505]兵なり。旌旗、天に際す。淀君、色動く。已にして備前島の兵、大熕を發し、閣の第二層︀に中つ。二女震死す。淀君始めて大に驚き、秀賴に勸めて和を成さしむ。而して會常光至る。則喜懼交集る。常光命を、傳へて曰く、「右府、必大阪に居らとん欲せば、則其舊封に於て、一も闕くる所無からん。特諸︀客兵を逐ひ、東軍をして外城を毀ち、周池を塡めしめ、以て和親の實を著︀せ」と。秀賴母子、諸︀將を召して議す。議未だ决せず。本多正純、人をして治長、長益に言はしめて曰く、「公上の議巳に成れり。子等遲疑せば、罪將に至らんとす」と。二人大に惧れ、急に後藤光次に因りて質を獻ず。治長質を獻す治長、其幼子を遣ららんと欲す。光次之を斥けて曰く、「稚弱なる者︀何ぞ用ゐん」と。乃其冢子を率ゐて還る。十九日、和成る。和成る約して周池を塡め、客兵を遂ふ。二十日、板倉重昌板倉重昌、入りて秀賴の誓書を監す。秀賴問ひて曰く、「兩公の何に呈す可きか」と。重昌私に對へて曰く、「太公に呈せよ」と。書を持ちて歸る。前將軍、目逆して問ひて曰く、「嚮に汝を遣すに、其呈する所を命ぜず。如何」と。重昌、狀を吿ぐ。前將軍喜びて曰く、「汝に非ずば辨ず能はざるなり」と。城將、我が和を恃みて懈るを度り、茶臼、岡山を襲はんと欲し、夜、人をして候ひ視︀しむ。其嚴備を見て乃止む。[1506]初め西藩、島津氏獨島津氏未だ來り會せず。二豐、二筑の將帥、密命を受けて亦發せず是に於て、舟艦三千餘艘を以て兵庫に至る。則和成りて已に四日なり。前將軍、人をして勞ひて之を罷めしむ。遂に圍を撤し、特勳舊の七將を留めて、塹を塡む塹を塡めしむ。本多正純、安藤直次、成瀨正成を以て、之を掌らしむ。諸︀侯爭ひて役を助く。伊達政宗、藤堂高虎等、請ひて曰く、「秀賴命を聽くも終に保す可からず。恐らくは後患を遺さん。今に及びて之を除くに若かず」と。前將軍曰く、「吾れ豐臣氏と、義を以て合ふ者︀なり。長湫の㨗後、和を聽して京師に入り、始めて征伐を助け、終に委託を受く。關原の役に、勢に乘じて大阪を壓する事、固より難︀きに非ず。今彼れ乃怨を以て恩に報ゆ。吾れ苟も之を除かんと欲せば、豈卿等の言を竢たんや。特に太閤の舊好を念ひ、以て之を保全するのみ。彼れ復我に負き、敢て不義を行はゞ、則自亡を取るなり。卿等且言ふ勿れ」と。大阪の諸︀將、前將軍を要擊せんと欲す。二十四日、前將軍、數十騎と、夜、行營を發し、曉に比びて
家康京師に入る京師に入る。衆以て神︀と爲す。
初め前將軍の京師を出づるや、林信勝等に命じて、御府、及び公卿の家の典籍典籍を索めて、五山の僧︀徒五山の徒に命じ、局を開きて校寫せしむ。大阪城中に在りても遙に其役[1507]を督す。使者︀、往來して絕えず。是に至りて功を畢へ、三本を爲り、其一を獻納し、二を駿府、江戶に置く。二十八日、入朝す。上皇、天皇、慰勞すること懇至なり。朝廷の爵を正す命じて朝廷の爵位を正し、諸︀の節︀會を興さんことを議す。
時に京師、流言あり、「池田利隆觀望を懷き、中島に逗留す。故に其尼崎の戍將且元を救はず」と。前將軍怒り、其封を奪ひて、其弟忠繼に與へんと欲す。利隆の老番氏明番氏明、來りて之を陳謝す。聽さずして入る。氏明、裾を牽きて號哭し、死を以て之を爭ふ。初め氏明の父大膳、圍人たり。長湫の役に池田輝政、父兄の沒せしを見て、戰死せんと欲す。【圍人】馬丁大膳、馬を控へて之を遏む。輝政怒り、鐙を以て其項を踢る。血、面に被れども縱たず。遂に其祀を存す。前將軍之を記す。其世忠節︀なるを嘉し、乃利隆を釋す。次年、忠繼母子、みな卒す。利隆に命じて備前の國事を攝せしむ。
伊達秀宗伊達政宗の長子
秀宗、幼にして大阪に質たり。關原の役に、始めて放還せらるるを得たり。政宗、嫌を避け、少子
忠宗を立てて嗣と爲す。是に於て、秀宗、軍に從ふ。前將軍、之を
愍み、封ずるに富田氏の舊邑
宇和島を以てし、十萬石を
食ましむ。筒井
定次の遺臣、多く募に應ず。
筒井定次死を賜ふ故を以て定次死を配所に賜ふ。
[1508]將軍、岡山に在りて、論功行賞又諸︀將士の功を論賞す。是の役に、井伊直孝の兄直勝、癈疾にして事に勝へざるを以て、代りて其軍を攝して功あり。將軍、遂に命じて其國を領せしむ。直孝辭して曰く、「直勝羸と雖、先臣の養士在るあり。君事ある每に臣これを攝して從ひて可なり。今庶孽を以て嫡長に先だつは、臣の安ぜざる所なり」と。又安藤直次に因りて力めて請ふ。將軍嘉賞す。而れども許さず。乃彥根十五萬石を賜ひ、別に邑を直勝に賜ふ。直孝初め直孝ありて民間に育はる。十一歲の比、强盜數十ありて、其家に入る。輙刀を抜きて一人を斫る。父直政、密に召見し、常に執る所の軍麾を以て之に授けて卒す。長ずるに及びて、召し用ゐて書院番頭と爲す。稍大番頭に進む。是に於て、旣に命を拜す。次日、入りて謝す。徐に進みて、執政本多正信の上に座す。坐者︀、洒然として色を變ず。旣に罷む正信に謂て曰く、「今日の狀、不恭に類︀するなり。然れども已に故侍從の後を承く然らざる能はず」と。正信曰く、「公、唯能く然り。是の命ある所以なり。吾れ窃に郞君の人を知るを慶ぶなり」と。
是に當りて、諸︀工卒已に外隍を塡め、遂に內隍に及ぶ。城中、之を詰りて曰く、「初め周池を塡めんと約せしは、西南の外壕を謂ふなり。今此に及ぶは、何ぞや」[1509]と。成瀨正成對へて曰く、「之を周と謂ふは內外を周くするなり。且和親已に成る何ぞ隍を用ゐることを爲さん。今內隍を存せんと欲するは、其意如何」と。城中爭ふ能はず。遂に晨夜、役を督し、歲を超えて畢り、獨牙城の一隍を餘す。
元和元年元和元年正月三日、前將軍、京師を發す。九日、將軍京師に入り、盡く諸︀侯を罷めて國に就かしめ、安藤直次をして岡崎に追及せしめ、功の竣りしを吿げ、且大阪再擧の計有るを吿げしむ。居ること五日にして入朝し、又五日にして、東す。二月、前將軍に中泉に會す。密議して往く。十四日、前將軍は駿府に歸り、將軍は江戶に歸る。
江戶の士小幡景憲小幡景憲と云ふもの罪あり。出亡して前田氏に仕へ、玉造の戰に衆に先だちて奮鬪す。城將大野治房之を識る。和成るに及びて潜に誘ふに厚利を以てす。景憲、佯り應じ、夜入りて治房に見ゆ。治房大に喜び、遂に再擧の計を吿ぐ。因りて期を約して遣歸す。景憲歸りて、板倉勝重、松平定勝に因りて之を將軍に啓す。將軍、前將軍と議し、知らざる者︀の爲して、其動息を候はしむ。大阪客兵を募集す大阪益客兵を召募し、間使を以て景憲を招く。勝重、定勝、これに謂て曰く、「兩公再來り諸︀軍、復集ること五十日を出でじ。其間城兵或は京師を侵し、至尊を挾みて東に[1510]鄕はば、則恐らくは力を費やさん。汝.勗めて之を沮め」と。景憲諾して往く。城中の諸︀將、師を出さんと議する者︀あり。治房兄弟、固執して聽かず。景憲の說を信ずるなり。人、治房に說きて曰く、「景憲は諜賊なり。請ふ、之を驗問せよ」と。治房驚き、甲を發して其舍を圍む。景憲笑語自如たり。治房、之を召す。即一奴を從へて入る。治房曰く、「人言果して聽く可からざるなり」と。乃之を界浦に置き、時來り見えしむ。
兩將軍、已に敵情を熟知す。而れども秀賴未だ之を知らず。三月、靑木一重、及び二女使をして來り請はしめて曰く、「兵荒の後、食祿給せす。請ふ、之を賑貸せよ」と。時に參議義直、將に故淺野左京大夫の女を娶らんとす。前將軍、二女使に謂て曰く、「右兵衞督、婚を成すこと近きに在り。吾れ亦將に往かんとす。東國の女子、禮節︀に嫺はず。汝等幸に往きて之を相けよ。婚畢らば則吾れ自京師に適きて、賑給の事を計らん」と。乃之を尾張に遣る。已にして京師の報至る。曰く
大阪兵を聚む十四五萬人「募兵大阪に聚る者︀十四五萬。兵勢前役に什倍す」と。前將軍笑ひて曰く、「多多益敗るべし。必之を禁ぜざれ」と。終に令を諸︀侯に下す。皆前役の如し。先井伊直孝、藤堂高虎に命じて、兵を率ゐ往きて京師を護らしむ。京師方に訛言あり、「大[1511]阪の兵來る」と。負擔して四走し、或は闕門及び公卿の宅に入る。板倉氏の僚屬兵備を爲さんと請ふ。勝重便服勝重曰く、「之を置け」と。乃便服して逃行し、平日に異ならず。上下倚安す。而して諸︀將至る。直孝は東寺に陣し、高虎は淀に陣す。去歲の役に山口重政山口重政、功を以て自ら償はんと欲し、箱根に至りて出づるを得ず。是に於て、間行して井伊氏に屬す。渡邊了藤堂氏の將渡部了、敵を住吉に縱つ。髙虎自疑はるゝを恐れ、甚了を誚む。舊臣も亦、了の新に進みて人に傲るを忿る。了、去らんと請ふ。許さず。
四月九日、前將軍、尾張に至り、大阪の使者︀を召して曰く、「吾れ聞く、『右府復兵を募る』と。兵多ければ則食乏し。固より其當のみ。吾れ將に往きて其虛實を驗せんとするなり」と。因りて使者︀を留めて遣らず。常光氏を遣して、再び兵を弭めんことを諭さしむ。居ること三日にして、義直の婚を成し、又三日にして、尾張を發し、十八日、京師に至る。常光氏、來りて秀賴の命を聽かざるを報ぐ。又後藤光次をして往かしむ。亦答へず。乃畿內、大阪の募に應ずる者︀を徇へ、其妻子を收め、降る者︀は之を宥す。
將軍、前將軍の尾張に至る日を以て、將軍江戶を發す江戶を發す。少將忠輝、黑田長政、加藤嘉明[1512]と、皆自請ひて從ふ。二十一日、伏見に至る。明日、來りて二條城に謁︀す。前將軍、二十八日を以て師を出ださんと欲す。將軍、兵未だ全く集らざるを以て少く之を竢たんと請ふ。前將軍曰く、「此役、當に野戰に決すべし。野戰多きを用ゐず。乃公、見兵を以て先往かん。汝、大衆を合せて之に繼げ」と。將軍曰く、「兒、此に在りて、大人をして先だゝしめば、世之を何と謂はんや」と。前將軍曰く、「吾れ老いたり。復事に遭ふ可からず。必衆に先だちて一たび樂戰せん」と。
正信本多正信、側に侍して曰く、「臣聞く、『軍の先後は地の遠近に在り」と。太公は京に在り。郞君は伏見に在り。其次已に定れり。太公甚道理なし」と。前將軍、乃止む。高虎藤堂高虎を召して、攻城の方略を諮る。高虎對へて曰く、「遠に利あり。近に利あらず。輕兵もて戰を挑み、其遠く出づるを竢ちて之を擊たば、則敗衄の餘復守志なからん」と。攻城の法定まる前將軍、掌を撫して曰く、「子が言我が口より出づるが如し」と。遂に諸︀軍の鄕ふ所を定む。
【高槻】攝津石川忠總は高槻を守り、池田利隆、池田忠雄は尼崎を守る。其餘の山陽、山陰の將士は神︀崎より進み淺野、蜂須賀以下、南海︀の將士は和泉より進む。而して大和伊勢、美濃の諸︀部は大和口より先進む。少將忠雄、伊達政宗、其帥たり。水野勝成水野勝[1513]成、其先鋒たり。前將軍、勝成を召して曰く、「我が大和口の先鋒は、汝に非ずして可なる者︀なし。汝大和の將士を統べ、命を用ゐざる者︀あらば、先斬りて後聞せよ。直孝、高虎と、策應を相爲し、其全勝を期し、愼みて一條槍の故態を作す勿れ」と。勝成感謝して出づ。井伊直孝、藤堂高虎、近江、伊勢の兵を以て中軍の先鋒たり。榊原康勝、松平康重、小笠原、仙石、諏訪、保科、丹羽︀の諸︀將と之に繼ぎ河內口より進む。
是より先、城兵、大和を侵す。大和の法隆寺法隆寺に工人中井正次と云ふものあり。前役に東軍の爲に攻具を造る。城兵之を怨み、法隆寺を圍みて之を焚く。二十六日大野治房も亦、郡山郡山に寇す。守將筒井定慶、守を弃てゝ遁る。水野勝成、進みて
【長池】山城長池に至りて之を聞き、部下に謂て曰く、「敵若し南都︀を焚かば、我が耻たらん」ど。疾く馳せて之に赴く。治房、至れども敢て逼らず。遂に退き走る。勝成、追躡して法隆寺に至る。淺野但馬守、兵五千を以て、北和泉に赴き、佐野に至るに會す。治房等、紀伊の土寇を誘ひ、其後に起らしむ。而して兵二萬を以てこれを逆ふ。亀田髙綱紀伊の將龜田高綱曰く、「平地の戰は、寡き者︀必敗る。宜しく退きて樫井に至り、林を蔽ひ蹊を塞ぎて陣すべし」と。但馬守、之に從ふ。明日黎明、治房治房の[1514]先鋒塙直次、岡部則綱、谷輪重政等、先を爭ひて進む。高綱、銃手を以て要擊し則綱を傷く。紀伊の將上田重安、直次と槍を接し、傷きて交退く。多胡某、射て直次を斃し、遂に則綱、重政を獲たり。治房、貝塚︀に在り。敗を聞きて走る。而して紀伊の土寇、亦平ぐ。但馬守、復進む。勝成、其部下を分ちて二隊と爲し、堀直寄、松倉重正を以て、左右の隊將と爲す。重正、吿げずして進む。直寄怒り居民を召して㨗路を問ふ。對へて曰く、龜背嶺「龜背嶺最㨗し。然れども昔物部守屋、此路に由りて敗を取りたり。武人相傳へて凶と爲すなり」と。直寄曰く、「吾れ旣に軍に從ふ。凶は其分なり。且守屋以て敗る。安ぞ吾れ以て勝たざるを知らんや」と。遂に嶺を踰え、重正に先だちて國分嶺に至る。已にして勝成、諸︀軍を引きて踵ぎ至る。少將忠輝、猶南都︀に陣す。
兩將軍、四方の兵漸集るを以て、遂に親出でんと議す。會大阪の細作、京師に入り、禁內及び二條を焚かんと欲す。板倉勝重、捕へて獄に下す。前將軍、故を以て行を停め、五月五日、前將軍發す乃發す。諸︀軍に令して、三日の糧食を持たしめ、米鹽酒漿一櫃を以て自ら從はしめ、肩與に駕して行く。將軍發す將軍、伏見を發す。上杉景勝、京師を留守し、男山に陣す。前田利光、少將忠直以下、皆從ふ。即日、前將軍は[1515]星田に舍し、將軍は角南に舍す。
城中、我が大軍の至るを聞き、乃戰を議す。後藤基次、薄田兼相、渡部尙、出でて平野平野に陣し、大野治長、眞田幸村、木村重成、長曾我部盛親、相繼ぎて出づ。兵各萬餘人。我が前鋒を邀へ擊たんと計る。後藤基次基次夜に乘じ、甲を潜めて南す。勝成、嶺頭に在り。諸︀將に謂て曰く、「炬火の北より來る者︀、道明寺に至りて滅す。是れ敵の我が不意に出でんと欲するなり」と。乃備を嚴にして竢つ。而して使を馳せて之を中軍に吿ぐ。直孝、高虎も亦、中軍に赴きて節︀度を取る。前將軍曰く「事我が意の如し」と。六日昧爽、將軍と倶に發して、平岡に至る。勝成、直寄、重正等を造して、道明寺口の戰道明寺に赴かしむ。基次に片山に遇ふ。重正、利あらず。直寄進みて其橫を擊つ。重正之に反る。兼相、尙、來りて基次を救ふ。勝成、尙を擊ちて之を破る。本多忠政、松平忠明、伊達氏の將片倉景綱と、基次、兼相を撃ちて亦之を破る。大野治長、眞田幸村等、道明寺より二萬騎を以て援ひ至る。景綱幸村と戰ひて利あらず。陸奥の銃隊之を承く。幸村郤く。是に於て、勝成、諸︀將と齊しく進みて合擊す。荻又市伊達氏の銃手荻又市、基次を射て之を斃す。水野氏の騎士河村新八河村新八、兼相を縱して亦之を斃す。本多、松平、丹羽︀氏、左右の翼を縱ちて[1516]大に治長を破る。治長、尙.皆走る。眞田幸村幸村退きて南阜を保つ。勝成、使を馳せて伊達政宗を促して曰く、「公自中軍に進みて、幸村の橫擊に備へよ。則吾れ其北ぐるを追ひ、隻騎も返さしめじ」と。本多忠政も亦、之を促す。政宗、兵疲れ丸盡くるを以て辭す。一柳直盛一柳直盛、越後の部下に在り。進みて前軍を援けんと請ふ忠輝肯かず。幸村、尙と遂に、更殿して退く。[1517][1518][1519]藤堂高虎、千塚︀より南道明寺に赴く。其二族將高刑、良勝、先進む。渡部了、自斥候を爲し、還り報じて曰く、「道明寺の囂聲、漸西して漸微なり。是れ敵已に敗るゝなり」と。乃鞭を擧げて左指して曰く、「矢尾、若江に敵あり」ど。高虎、人[1520]をして先部を遏め、斾を轉じて左せしむ。了曰く、「茲の地は沮洳たり。請ふ、別路に由らん」と。乃馳せて令を傳ふ。高刑、良勝顧ずして進む。矢尾堤に至りて敵將盛親の堤下に伏するに遇ふ。二人、之に死す。盛親、愈進む。了等、力戰し兵を收めて高阜に據り、馳せて高虎を促す。高虎、其二將を救はざりしを怒りて肯ぜず。井伊直孝、道明寺に赴き、亦轉じて左し、木村重成木村重成と若江堤に戰ふ。其將長阪某曰く、「先堤を得る者︀は勝たん」と。銃隊を督し、堤を奪ひて之に據る。槍隊、進まんと欲す。老臣菴原某曰く、「亟に槍を用ゐる勿れ。亟に槍を用ゐば、則敵近づきて勢竭きん」と。衆、冐して進む。利あらず、敵爭ひて之を蹙す。菴原乃麾きて進む。山口重政、次子弘隆と、奮戰して創を被る。長子重信、深く入りて二騎を斬り、進みて重成と鬪ひて死す。直孝の麾下繼ぎて進む。菴原、刺して重成戰死重成を殪す。安藤某、其首を取る。敵兵、みな潰ゆ。井伊氏の兵、北ぐるを追ふこと里餘。其游兵、盛親の幟を見て、橫さまに之に迫る。渡部了も亦、赤隊の來るを見るや、乃奮擊して盛親を走らせ、進みて平野橋を扼す。復人をして高虎を促さしめ、道明寺の敗兵を邀へんと欲す。高虎曰く、「斯の奴、死處に死せず。今何ぞ曉曉たること乃爾り。歸師を遏むる勿れ。宜しく速に兵を收むべし」と。[1521]會一監使の至るあり。了迎へて言て曰く、「陪臣、敢て請ふことあり。盛親遁ると雖、幸村等將に至らんとす。要撃して之を鏖にせば、則大阪の陷ること今夜を出でじ。之をして城に入らしめば、則明日の戰又將に力を費さんとす。臣之を策ること至熟す。和泉守の聽かざるを如何せん」と。監使之を然りとし、往きて高虎に說く。高虎答へず。日已に暮るゝを以て、益了を促して兵を收めしむ。了、遂に火を縱ちて退く。後、直孝、高虎の營に赴き、戰㨗を賀す。高虎曰く、「我に怯夫あり。多く我が良を喪ふ。是を憾と爲すのみ」とし直孝曰く、「僕、若江より矢尾に赴き、貴部の一將の席幟を樹てゝ敵を追ふを見たり。指揮甚觀る可し。斯人も亦死せりや否や」と。高虎嘿然たり。渡部了了、冑を免︀ぎ進みて曰く、「所謂席幟は卽臣なり」と。因りて其屬兵を呼びて曰く、「掃部君、褒詞あり。我が輩、徒に勞せず」と。然れども了、終に傲護を以て黜けらる。
是の日、
榊原康勝榊原康勝等、
菅江に至り、敵將木村
宗明を擊つ。康勝
瘍を患ふ。
膿流れて
鐙に至る。氣爲に
撓まず。奮戰して之を破る。小笠原
秀政等と進みて若江に赴く。
監軍藤田
信吉、之を
扼めて止む。少將忠直、其老本多
成重等と、四條
畷に陣し、井伊氏の後に在りて、皆事に
逮ばず。
[1522]兩將軍、先鋒の戰酣なるを聞き、中軍を以て之に繼がんと欲す。而して㨗報累に至り、首虜︀を馬前に効す。日已に暮る。前將軍は千塚︀原千塚︀に次し、將軍は道明寺道明寺に次す。令を下して曰く、「詰朝、城を攻めん。先鋒は戰ひ疲る。當に他軍を以て之に易ふべし」と。忠輝、忠直、みな逗留を以て旨を失ふ。本多成重、忠直の命を以て來り禀して曰く、「明日の戰、越前兵越前の兵は何れに陣するや」と。前將軍罵りて曰く、「惰夫晏起して事に逮ばず。尙何を言ふか」と。成重等、惴恐して還り報ず。且曰く、「君努力せよ」と。忠直乃其士に徇へて曰く、「明日我れ先登せずば、則先死せん。死を怖るゝ者︀は此より去れ」と。小笠原秀政小笠原秀政も亦、監軍に誤まらるゝを恨む。本多忠朝出雲守本多忠朝は、其戚屬なり。秀政、夜、往きて之に見えて曰く、「明日吾れ尺前ありて寸郤無けん」と。忠朝曰く、「子は我が心を得たり」と。初め忠朝の父忠勝忠勝、死に臨み、長子忠政に囑して、遺財を忠朝に分つ。忠朝曰く、「宗家は費用多し。吾れ已に分地を辱くす。敢て受けず」と。忠政固く之を予ふ。忠朝曰く、「且之を兄氏に寘きて、以て我が需を竢て」と。役に及びて、忠政、これを問ふ。答へて曰く、「旣に之を辨ず」と。大阪に在るに及びて其營處の沮澤多きを病へ、之を易へんと請ふ。前將軍曰く、「乃父は戰を爲すに、未だ甞て險易を問はず[1523]若何ぞ肖ざるや」と。忠朝慙恨す。故を以て終に秀政と死を約す。
將軍の部署︀旣にして前將軍、諸︀將を部署︀す。前田利光、右先鋒たり。本多康俊、本多康紀、遠藤、片桐、石川、蒔田等と、其右に在り。本多正信、土井利勝、酒井忠世、本多大隅、黑田長政、加藤嘉明、之に繼ぐ。少將忠直、左先鋒たり。本多忠朝、小笠原秀政、秋田、六鄕、淺野、丹羽︀、仙石等と、其右に在り。榊原康勝、松平康長、酒井家次、稻垣重種、之に繼ぐ。大將軍、親右軍に將たり。水野忠淸、靑山忠俊、松平定綱、書院番頭を以て、高木正成、阿部正次、內藤淸次、大番頭を以て、並に其前に在り。安藤重信、其後に在り。前將軍、親左軍に將たり。本多正純、植村家次、板倉重昌、本多信勝、內藤掃部等、之を衞る。參議義直、參議賴宣、其後に在り。井伊直孝、藤堂高虎、細川忠興と右軍の左に在り。水野勝成松平忠明、本多忠政、伊達政宗、少將忠輝と、左軍の左に在り。處分旣に定る。偵騎を遣して戰地を候はしむ。而して城中、未だ之を知らざるなり。大敗の後を以て、衆心恟惧す。會議して計を決す。曰く、「東軍來り逼ること二三日を出でじ。之を南郊に誘ひて、西より橫さまに之を擊たんと欲す」と。天未だ明けざるに、人をして出でゝ斥候を爲さしむ。候者︀、東南の聚落に常に無き所の如き者︀を[1524]望見し、或は以て曉霧と爲す。日出づるに及びて之を視︀れば、則皆軍隊なり。乃大に駭き、馳せ還りて急を吉ぐ。乃命を諸︀將に傳ふ。城兵の部署︀眞田幸村は茶臼山に陣して我が左に當り、大野治房は岡山に陣して、我が右に當り、森勝永、竹田永應、大野治長、及び七隊長は其間に陣す。明石守重等は別軍を以て、今宮に出づ。而して秀賴、親將として之に繼ぐ。鎧仗旌旗、皆極めて嚴整なり。城兵、銳を悉して出づ。其將帥、人人必兩將軍に當らんと欲す。將軍の候騎來る。左軍に白して曰く、「大兵出づ。請ふ速に斾を進めよ」と。前將軍叱して曰く、「敵、城を空しくしで出づるも、七萬に過ぎじ。何ぞ大兵と謂はんや」と。住吉に及びて、家康輿を捨てゝ往く乃輿を舍てゝ鞵を穿つ。左右、鎧を進む。之を斥けて曰く、「奴輩を誅するに、何ぞ鎧を以ゐることを爲さん」と。紵衣黃掛にして馬に上る。其騎と前軍の輜重と、相亂れて禁ず可らず。顧て橫田尹松に命ず。尹松進み呼びて曰く、「騎は左し、重は右せよ」と。道闕けて行く。人をして返り馳せて義直、賴宣に吿げしめて曰く、「速に來れ。戰將に作らんとす」と已にして右軍傳呼す、「將軍至れり」と。長政、嘉明長政、嘉明、出でゝ道傍に謁︀す。將軍、甲して冑せず。單騎二十餘卒を從へて師を巡る。二人を見て、馬を立てゝ之に揖す。二人進みて其銜を執りて曰く、「疇昔は敵遠く[1525]出でて、其逃れ入りしを憾む。而して今は又大に出でて、齊しく其首を授く。幕下の事、意の如くならざる無し」と。將軍、首肯して曰く、「今且に之を剪滅せん」と。本多正純本多正純、笋輿にて從ひ、柿蒂衣し、團扇を持ちて蠅を拂ひて過ぐ。長政嘆じて曰く、「何ぞ平日の威嚴に類︀せざるや」と嘉明曰く、「常に重くして、變に輕きは、德川氏の癖なり」と。佳癖と謂ふべし長政曰く、「佳癖と謂ふ可し」と。
將軍、行きて前部に至り、令を布きて歸る。兩軍旣に近づく。左先鋒の隊將本多成重、阜に上りて戰を候ふ。忠朝、秀政は、勝永、永應と、銃手を以て戰を挑む戰少しく利あらず。幸村、之に乘ず。成重、顧て我が軍を麾く。軍乃進む。忠直曰く、少將忠直「吾れ此より直に闇羅應に入るなり」と。因りて餐を呼び、立ちながら之を食ふ。一人は餐を捧げ、一人は冑を持つ。食ひ畢りて冑し、左右に謂て曰く、「我れ旣に食へり。必餓鬼道に堕ちず」と。騎して直に前む。軍、鬨して之に從ふ。忠昌忠直、弟忠昌、手づから二人を斬る。成重、吉田修理、荻田主馬と、左右より縱擊す。幸村敗走幸村の軍、終に敗走す。追ひて安井に至る。西尾久作西尾久作、幸村と鬪ひて之を斬る。忠朝、其軍の郤くを見て、愛馬百里に乘りて、馳せ且呼びて曰く、「出雲守此にあり。盍ぞ回り戰はざる」と。敵之を聞きて四集す。忠朝、鎗を執りて[1526]二人を殪す。一人、銃を以て之に迫り、射て其腹を洞す。忠朝眺りて馬より下り、刀を拔きて銃者︀を斬る。其圍、鐵檛を進む。乃左に檛を奮ひ、右に刀を揮ひて、八人を殪す。身も亦二十餘創を被り、溝を踰えて僵る。敵、其首を爭ふ。
忠朝、秀政戰死從騎大屋某、尸上に伏し、敵を扞ぎて死す。秀政も亦、躬自力戰して、終に之に死す。其長子忠修、攢槍の下に死す。少子忠眞、創を被りて死せんと欲す。其臣澁多見某、安積某、扶けて還る。右先鋒の隊將伴八彌、安見右近等、進みて治房の軍を衝く。書院番の三隊、繼ぎて進む。迭に勝敗あり。本多、遠藤の諸︀將、橫さまに之を擊つ。治房敗走治房敗走し、返りて稻荷に戰ひ、又敗る。纔に脫れて城に入る。
右軍已に前み、左軍稍郤く。直孝、高虎、願て左軍を助く。酒井、榊原の諸︀將、
安藤直次方に敗を承けて進み戰ふ。未だ决せず。直孝、高虎、橫さまに森氏の軍後を斷ちて之を破り、七隊長と遇ふ。利あらず。安藤直次、前將軍の令を以て至り、衆を督して返り撃ちて之を破る。勝成、所部を率ゐ、命を奉じて住吉に赴く。左軍の戰作るを望み、轉じて天王寺に向ふ。行敵兵を破り、而して川塲に趨き、明石守重と遇ふ。交綏きて北ぐ。大番の三隊、將軍の令を以て、守重を勝曼に邀へ擊[1527]ちて之を走らす。
時に兩軍、酣戰して、埃塵、大に起る。彼此紛拏して辨ず可らず。阿部正次阿部正次、以爲へらく、「東兵暑︀を冐して遠く來る。面目みな黑し。城兵は則否らず」と。乃令して曰く、「面の白き者︀は敵兵なり」と。因りて物色して數十級を斬る。諸︀隊、相傳へて之に傚ふ。斬獲算なし。秀賴、親出でんと欲し、城中、反者︀ありと聞きて果さず。又前將軍、數人を遺して和を議するを以て、大野治長等を召還す。治長等走り還る。城兵敗走敵軍みな後を顧る。我が軍乃之に乘じ、遂に大に之を敗る。首を斬ること一萬五千級なり。
前將軍は進みて茶臼山に上り、將軍は進みて岡山に上る。少將忠直は進みて川塲に至り、火を市舍に縱つ。城中に內應を爲す者︀あり。忠直の兵、乃高麗橋より京口門を破りて入り、幟を城上に植つ。忠直先登是を先登の第一と爲す。吉田修理、天滿より轉じて濟り、溺れて死す。水野勝成、忠直に繼ざて入る。忠直、兵を分ちて、諸︀樓櫓を焚き、終に天主閣に及ぶ。烟焔天を衝く。諸︀軍齊しく呼びて、皆門を破りて入る。秀賴、火を觀月樓に避く。淀君、及び夫人徳川氏以下、みな之に從ふ。池田利隆、尼崎を發し、路にて其烟を望み、乃馳せて神︀崎を[1528]濟り、敗兵を要擊して、多く首級を得。石川忠總、京極忠高、高知と、高槻を發し、敵將仙石某と、備前島に戰ひて之を敗る。毛利秀元、及び加藤明成、水軍を以て傳法港口に至る。松平乘壽は森口より、金森可重は岸和田より至る。皆首級を獲たり。淺野氏、蜂須賀氏、最後れて至る。其他遠地の侯伯は皆及ばず。
前將軍、
胡床に
據りて火の起るを望見す。左右に關原の事に
更る者︀あり。乃顧て之に謂て曰く、「吾れ復
㨗てり」と。巳にして將軍來り賀す。前將軍曰く、「汝の功なり」と。歸りて本營に陣せしむ。忠直來り
見ゆ。乃其手を執りて曰く、「
乃公の孫と謂ふべきなり」と。忠輝
見ゆ。顧ず。義直、賴宣、後軍より馳す。諸︀軍の
輜重、途に屬して爭ひ進むを見る。
賴宣賴宣曰く、「是れ軍旣に
㨗ちて
將に舍せんとするなり」と。已にして天主に烟
擧る。賴宣、
咄嗟して進む。義直、之に從ふ。茶臼山に至れば、則諸︀將の賀する者︀大に
聚る。賴宣、
涕を
攬りて曰く、「大人、
兒を後軍に置き、事に及ばざらしむ」と。松平正綱曰く、「君は十四歲なり。前途
修遠なれば、功を建てざるを患へざれ」と。賴宣、色を變じて曰く、「吾れ復十四歲あらんや」と。前將軍曰く、「汝此の言、以て
當に首功とすべきに足る」と。
[1529]時に秀賴、猶樓上に在り。大野治長、夫人を免︀れしめ、以て和を成さんと欲するや、諸︀姬侍をして擁して出ださしむ。葵章の衣を蒙り、亂兵中に窘步す。堀內氏久城將堀內氏久、これを觀て、進みて其前に當り、人を辟けて出でしめ、阪崎成正我が將阪崎成正を呼びて之を護送せしむ。治長、木村某を遣して追及し、本多正信に因りて其意[1530]を言ふ。正信來りて前將軍に啓す。前將軍喜びて曰く、「吾れ且遂に其夫と姑とを免︀れしめん」と。正信、又將軍に啓す。將軍叱して曰く、「盍ぞ乃夫と倶に死せざる」と。秀賴糒倉中に在りて命を乞ふ秀賴、遂に糒倉の中に入り、益使を發して命を乞ふ。而して日已に暮る。將軍、井伊直孝、及び安藤重信、石川正次等を遣し、精︀倉を守りて命を竣たしむ。八日、前將軍、本多正純及び加加爪某を遣し、往きて之を驗し、且言はしめて曰く、「事已に此に至る。復言ふ可きなし。太閤の舊好、吾れ竟に忘るゝ能はず。苟も母子皆出でんか、秀賴を高野に置き、淀君に給するに萬石を以てせん」と。治長入りて吿ぐ。出で答へて曰く、「謹︀みて命の辱きを拜す。當に往きて之を謝すべけれども、獨萬兵に目を注がる。願くは二與を得て往かん」と。直孝其詐なるを疑ひ、乃答へしめて曰く、「軍中唯一與あるのみ。右府は、請ふ、騎せよ」と。往復して决せず。直孝、重信に謂て曰く、「大旨仁恕と雖、禍︀を貽すの道なり。是れ我が輩に在るのみ」と。乃銃を倉中に發すること二たび。秀賴以下、絕つを知りて、秀賴等自殺︀す皆火を縱ちて自殺︀す。
前將軍、方に進みて櫻門に至り、以て秀賴の出づるを待つ。直孝等、來りて狀を來りて狀を吿げて罪を請ふ。前將軍歸る前將軍、之を領く。卽日、午時、遂に駕を命じて、獨板倉重昌[1531]を從へ、北して京師に歸る。曰く、「之を驅れ。大戰の後は當に雨ふるべし」と。從者︀信ぜず。已にして雨大に至る。上下沾濕す。淀に及びて、雨衣を取り、夜二鼓にして二條城に入る。而して大阪の諸︀軍一も之を知る者︀なし。
將軍、阿部、靑山、水野、高木の四將に令して、天王寺、玉造、靑屋、京橋の四門を守らしめ、又安藤重信に令し、西面四道の卒を留めて、以て城墟を修理せしむ。尸を岡山に收めて、軍神︀を祭る。將軍伏見に凱旋す九日、伏見に凱旋す。がいせん諸︀侯爭ひて殘黨を捕へて來り献ず。盛親を斬る十五日、長曾我部盛親を京師に徇へ、六條磧に斬る。後二旬、大野道見を磔す大野道見を界浦に磔す。大阪の將伊東長實、奔りて高野に在り。監使を得て自裁せんと請ふ。前將軍曰く、「治長等は國を誤り、盛親等は亂を煽す。皆宥さゞる所なり。其他豐臣氏の舊臣、忠を事ふる所に盡す者︀は、我れ皆之を假さん」と。長實、及び靑木一重、岩佐正壽等、圖を改めて仕ふる者︀數十人あり。古田重然を誅す古田重然、大阪に通ず。事覺れて誅に伏す。細川忠興の庶子、罪を父に獲て奔りて大阪に歸す。敗るゝに及びて捕へらる。幕旨、之を宥す。細川忠興忠興、之に死を賜ふ。冬の役に忠興、薩摩に備へしを以て來り會せず。夏の役興るに及びて、前將軍、近臣に謂て曰く、「忠興必衆に先だちて至らん」と。駕、星田に次するとき、忠興果して至[1532]る。七日の戰に與りて功あり。是に於て、西南の諸︀侯、後れ至る者︀相繼ぎて兩公に謁︀す。兩公、大阪の金を收め、井伊、藤堂氏に金馬の大鈑千枚に直する者︀、各二を賜ふ。六月、大阪を松平忠明に賜ひて、十萬石を食ましむ。松平忠明忠明、荒廢を修め田里を經し、期年にして殷富故の如し。
賞罰を議す十五日、前將軍、入朝して成事を吿げ、白金千兩を獻ず。二十八日、將軍、二條に來りて賞罰を議す。直孝、高虎に、各五萬石を加封す。後、並に三十萬石に至る。
水野勝成水野勝成、敎旨に違ひて、
輕しく自刄を接す。故に賞せず。後、
郡山に封ぜられ、遂に備後の
福︀山に
徙り、十萬石を
食む。
本多政朝本多忠朝、事に死す。子なし。兄忠政の子
政朝を以て封を
襲がしむ。
小笠原忠眞小笠原
忠眞、父秀政の封を襲ぐ。榊原康勝、
瘍劇しくして
卒す。大須賀忠次は、實は康勝の兄の子なり。命じて本姓に復し、其封を襲がしめ、大須賀氏の衆を以て、賴宣に屬す。藤田信吉の軍機を失ひしを責めて、其邑を收む。
池田忠雄池田忠雄に兄忠繼の封を襲がしめ、其奮封を以て、蜂須賀至鎭に賜ふ。少將忠直、從三位に遷り、參議に進む。前田、伊達、淺野氏、みな官爵を進む。前將軍の季女の蒲生氏に寡たりし者︀、再び淺野氏に
嫁ぎ、次年に至りて婚を成す。
[1533]閏月十一日、將軍、諸︀侯を率ゐて入朝し、白金萬兩を獻ず。二十七日、兩公、偕に樂を觀る樂を二條に觀る、振鉾、還城樂、延喜樂、太平樂の諸︀曲を奏す。天下、大に亂れて、伶官の耗散せしこと數百年。前將軍、招撫すること年あり。終に舊職に復す。朝廷の樂是より興る。
是より先、前將軍、貞永、建武の式目を參考し、林信勝等と議して、新式十三條新式十三條を定め、七月七日、諸︀侯を伏見に會し、之を頒ちて曰く、「文武の道は修めざる勿れ。佚遊群飮は禁ぜざる勿れ。法を犯す者︀は舍す勿れ。反を謀り若くは人を殺︀す者︀は吿げざる勿れ。諸︀國の民は其所を移す勿れ。私に城郭を築く勿れ。異を立てて黨を結ぶ者︀は吿げざる勿れ。私に婚姻を結ぶ勿れ。候伯會同するに衞從節︀に過ぐる勿れ。衣服の差を紊す勿れ。爵位なき者︀は興に乘る勿れ。諸︀將士は儉約を厭ふ勿れ。國主の人を任ずるに、其器︀を擇ばざる勿れ」と。又關白藤原昭實等と議し、朝廷式十七條朝廷の式十七條を定む。其略に曰く、「天子は宜しく寬平平遣遺に因りて、專古道を學び、傍和歌を習ふべし。見任の三公は宜しく諸︀王の上に班すべし。武家の官位は宜しく公家の員外に在るべし。廷臣の繼嗣は宜しく異姓を取るべからず。諸︀の服章は宜しく等を踰ゆべからず。才藝異等、若くは功勞を累ぬる者︀は、[1534]其超遷宜しく門地に拘るべからず。諸︀の僧︀官は宜しく濫授すべからず。諸︀の朝士の關白及び有司に違ふ者︀、諸︀の浮屠の妄に官達を冀ふ者︀は、皆宜しく流竄に處すべし」と。
是の月織田氏織田氏を大和、上野の諸︀邑に封ず。本多正信、豐臣廟豐臣氏の祖︀廟を毀たんと請ふ。前將軍、敢て私斷せず。終に諸︀王公と議して之を請ふ。詔ありて、祀典を廢して其頽廢に任せよ」と。
十九日、將軍、伏見を發し、八月四日、兩將軍歸る江戶に至る。是の日、前將軍、二條を發し、二十三日、駿河に至る。
初め少將忠輝少將忠輝、封を信濃に受け、寖驕縱なり。善く皷を擊つ者︀、花井某を嬖し、遂に之に政事を委ぬ。三將あり。驟諫むれども聽かず。乃之を駿府に訴ふ。忠輝馳せ至り、三將罪ありと誣ひて、死を賜ふ。越後に徙るに及びて益驕る。大阪夏の役に及びて、行きて森山に至る。從兵、將軍の牙騎と鬪ひて三人を殺︀す。長阪信政の嗣在り。已にして大和口に向ふ。花井の言を聽き、逗撓して進まず。前將軍、東に歸り、森山を過ぎ、實を驗して大に怒り、遂に人をして、往きて其罪を誚めしむ。二士あり。自誣ひて之を解く。前將軍、信ぜず。吏を遣して之を按[1535]じ、且其逗撓を詰る。花井、咎を山田將監に歸して之を逐ふ。次年、前將軍、忠輝の母茶阿茶阿を召して曰く、「少將驍健なり。吾れ其成立を期す。圖らざりき、荒惰乃爾り。又。擅に長阪血槍の弟を殺︀す。吾が在時に在りてすら此の如し。將軍の時知る可し。吾れ之を絕たざるを得ず」と。茶阿、惧れて之を越後に吿ぐ。忠輝惧れて來り謝す。見ゆるを許さず。將軍に遺命して之を伊勢に放ち、後、飛驒に遷す。遂に信濃に遷されて卒す。
十月、前將軍、關東に遊獵し、前將軍江戶に行く遂に江戶に如く。最上義光、大阪の役に先だちて卒す。其子家親嗣ぐ。庶兄義成、陰に大阪に應ず。事覺る。家親に命じて討ちて之を夷げしむ。
十二月、前將軍、駿府に歸る。途に伊豆の泉頭を經て、退老の地と爲す。期するに明年を以てこゝに營せんとす。是の冬、天下盡く平ぎしを以て、五畿、七道に
令して、壘砦を毀つ諸︀壘砦を毀たしめ、公使を發して諸︀國を巡察せしむ。三年に一巡す。又
武門の服章武門の服章備らざるを以て、明春の正會に因りて之を改む。
元和二年二年正月朔、侯伯、將帥、爵位に隨ひて衣冠を具へ、正を兩府に賀す。二十一日前將軍、田中に獵して家康疾む疾を得、留ること四日にして乃歸る。將軍、報を得て大に[1536]驚き、行を戒む。二月朔、駿府に至り、日夜看護して、衣帶を解かず。諸︀侯伯相踵ぎて來り候ふ。前將軍、自起たざるを知り、醫藥を却けて用ゐず。三月、天皇、廷臣二人をして、就きて前將軍を拜して太政大臣太政大臣と爲す。二十七日、前將軍疾を力め、衣冠して命を拜す。尋いで將軍をして天使を饗せしむ。四月、前將軍疾篤し、乃婦女を麾きて入侍するを許さず。十四日、諸︀侯伯を召し、諭して曰く「吾れ老いて病めり。家康遺言旦夕將に地に入らんとす。吾れ旣に天下を平定す。將軍、大政を執ること日あり。吾れ復後事を以て憂と爲さず。然りと雖、吾れ死して將軍或は政を失はヾ、則侯伯の其器︀に當る者︀、宜しく代りて天下の柄を執るべし。天下は一人の天下に非ず。吾れ何ぞ恨みんや」と。乃遺物を分賜し、罷めて國に就き以て後命を竢たしむ。初め諸︀侯各度る、不諱あらば、當に拘留せらるゝこと累年なるべしと。是に於て、皆意外に出づ。旣にして將軍を召して曰く、「吾れ諸︀侯に諭して曰く、『將軍政を失はヾ、善者︀之を取れ』と。汝、其政治を愼み、毫も私曲ある勿れ。而れども天下若し命に方ふ者︀あらば、親戚勤舊と雖、宜しく速に誅伐を加ふべし」と。將軍歔欷して退く。三家義直、賴宣、賴房を召し、誡むるに善く將軍に事ふるを以てす。其傅成瀨正成、安藤直次、中山信吉を召し、勗むるに輔導[1537]を以てす。十七日、疾革る。乃將軍を顧て曰く、「吾れ將に死せんとす。汝天下を何と謂ふ」と。將軍答へて曰く、「將に大に亂れんとす」と。前將軍曰く、「善し。吾れ以て死す可きなり」と。嫡孫家光を召して曰く、「汝、他日天下を治むる者︀なり。天下を治むる道は慈に在り」と。家康薨す乃薨ず。壽七十有五。【久能山】駿河久能山に葬る。
天皇、卹典を賜ふこと甚厚し。賴宣、就きて廟を建つ。初め榊原淸政榊原康政の兄淸政、故世子信康を輔くし故世子信康を輔く。世子敗るゝに及びて、官を弃てゝ出亡す。晩に康政に依る。前將軍、召して祿を賜ひ久能を守らしむ。尋いで卒す。長子淸定、留りて宗家に仕ふ。乃少子照久に父の職祿を襲がしめ、之を親近す。終に臨みて、其膝を枕にして絕ゆ。榊原照久將軍、因りて照久をして祀事を掌らしむ。僧︀天海︀請ひて廟を大權現と號す。[1538]三年三年、將軍、遺命を以て下野の日光山日光山に改葬し、就きて新廟を建つ。四月八日、事を畢ふ。【旣望】十六日旣望、主を正殿に移す。天皇、廷臣三輩を遣して宣命し、正一位を贈︀り、號を賜ひて東照東照と曰ふ是の日、將軍、江戶より來り、次日、こゝに祀る。梶井親王梶井親王尊純、禮を掌る後三世、益祠宇を修む。天下の候伯、諸︀外夷に至るまで、皆器︀材を献ず。而して親王、更來りて廟を護るを以て常と爲す。後三十年、詔して、大構現を改めて宮と曰ふ。
一代東照公逸︀事東照公、人と
爲り
沈毅にして大略あり兵を用ゐること神︀の如し。而して學を好み治を求む。人を愛して善く
容る。
[1539]事を處するには必百世の後を
規る。其朝廷に
事ふる恭順殊に至る。王國を
鎭護するを以て己が任と爲し、自儉約を執り、敢て
驕侈せず。最
稼穡の事を
重ず。至りて微細と雖、暗知せざるは無し。屢
遊畋に託して、疾苦を問ふ。其政を爲すに務めて士氣を養ひ、言路を開き、
巧侫浮華の習を防ぐ。公、幼にして尾張に質たり。
百舌を獻ずる者︀あり。
百舌島を退く郤けて受けず。左右故を問ふ。公曰く、「吾れ聞く、主將は小
慧なる者︀を取らず」と。其岡崎に在るとき、禁を犯す者︀二人あり。其一は
囿に
戈す。
【囿に戈す】鳥網其一は
濠に網す。皆拘繫せらる。
鈴木某牙兵鈴木某、之を諫めんと欲すれども、未だ路あらず。乃
故に自令を
矯め、
池禦の鯉を取りて、煑て之を食ふ。他日、公、池を觀て、守者︀に問ふ。守者︀、故を吿ぐ。公大に怒り、手づから鈴木を斬らんと欲す。鈴木入りて、目を張りて罵りて曰く、「
噫、暗主、禽魚を以て人に易ふ。
惡ぞ天下を
爲むるを得んや」と。公大に悟り、刀を
抛ちて入る。遂に前の二人を
釋し、鈴木を召して之を褒む。後、人に語りて曰く、「直言の功は一番槍に
愈る。敵を犯す者︀は、賞、
倖す可し。君を犯す者︀は、罰、測る可からざるなり」と。公、濱松に在るとき、
三士人三士人を召して事を命ず。其一人留りて請て白く、「臣間を承けて、敢て
白すことあり」と。一
疏を懷より出してこれを献ず。公、其疏
[1540]を讀ましめて之を聽く。每條
輙善と稱す。讀み
畢りて之に謂て曰く、「爾後、見る所あらば言ふを憚る勿れ」と。其人頓首して出づ。本多正信、侍坐し、啓して曰く、「彼れ何ぞ輕卒なる。且其言ふ所一も取る可きなし。君何ぞ之を褒むるや」と公、曰く、「否、吾れ其志を褒むるなり。且取る可き者︀なきを褒めば、則取る可き者︀至る」と。
[1541]公、甞て一士を官せんと欲す。土井利勝之を土井利勝に問ふ。利勝曰く、「彼れ常に臣の家に來らず。臣、未だ其如何を知らず」と。公懌ばずして曰く、「汝、我が家に宰たり。務めて人材を訪ふに在り。材者︀豈肯て權勢に附かんや。汝の言ふ所の如くば[1542]則耻を知り義を好む者︀なり。將に日に柔媚に趨らんとす。耻を知り義を好むは國家の元氣なり。元氣消亡して國家衰老す。其れ能く久しからんや。昔、酒井正親酒井正親神︀谷某、己に禮せざるを以て、我に謂て曰く、『彼れ眞に用ゐる可き者︀』と。因りて請ひて其俸を倍す。正親は公の爲に私を忘れ、士風を奬勵す。汝が輩、何ぞ類︀せざる」と。近臣を驗す又甞て將軍の近臣を諭す。大意に謂く、「天下の安危は將軍の心に在り。宜しくこゝに思を留むべし。節︀義を奬め、輕薄を擯け、士民を愛し、賞罰を信にし、賜賚濫なる勿れ。濫にすれば則士怠る。人を用ゐるは偏る勿れ。偏れば則國危し。國の臣あるは、猶木の枝あるが如きなり。枝偏大なれば則其根を蹶す。猶鷲鳥の爪翼あるが如きなり。其爪翼を愛するは搏擊を斯する所以なり。大賀彌四郞臣の用舍重ぜざる可けんや。足利尊氏の高師直に任じ、豐臣秀吉の石田三成を用ゐし、皆以て人の怨を取れり。我も亦誤りて大賀を用ゐて殆危禍︀に陷らんとす。懲︀毖せざる可けんや。凡そ天下の亂は、主將の欲を縱にして、宰臣の權を專にするに起るなり。民の膏血を浚へて、之を府庫に盈つるを目けて能臣と曰ふ是れ君の爲に怨を蓄ふるのみ。且才能を恃む者︀は、必舊法を以て迂拙と爲し、動もすれば之を更改せんと欲す。武田、上杉、今川、大內氏の衰亡せし所以は、皆[1543]之に由るなり。政は舊法に因るべし凡そ政は其舊に因るに在り。我れ甞て陸奥に赴き、源賴朝の榜牌を見たり。其辭に曰く、『國事みな泰衡の舊に因る』ど。吾れ頼朝の能く東陲を定めしを信ずるなり。介冑衣纓夫れ介冑の習は鐵の如く、衣纓の習は金の如し。金は以て虛飾を爲す可く、鐵は以て實用を爲す可し。國家將に衰へんとすれば、必衣纓の習を喜ぶ者︀あり。新法を建立して、其華飾を務むるは、是れ大蠧なり。我が家の法度は、みな祖︀考、かつ耆舊と議し、深く謀り遠く慮りて、其弊なきを期せり。變更する所ある勿れ。之を刀に譬ふれば、鍛鍊一成して之を子孫に傳ふ。子孫、各好尙を異にし、數冶工に附せば、則刀終に用ゐる可らす。凡故家に貴ぶ所は、其奮製を存し、舊臣を愛せよ舊臣を養ふを以てのみ。候伯將士、皆我と苦勞を同じくする者︀なり。子孫も亦、宜しく與に富貴を同じくすべし。故なくして之を滅絕する勿きは、其
忠の說祖︀先の忠に酬ゆる所以なり。凡所謂忠は、豈獨德川氏にのみ忠ならんや。乃天に忠なり。我も亦天に忠する者︀なり。故に天、之に授くるに大抦を以てす。然れども自其柄を有し、驕奢怠惰にして、生民を虐ぐれば、則天將に之を奪はんとす。故に吾れ岡崎に主たるときは、隣國の攻守を慮り、關東に主たるときは、三道の治亂を慮る。天下を定めて、四境の安危を慮る。未だ甞て一日も懈怠あらず。夫[1544]れ折衝禦侮︀して、王國を守るは、武臣武臣の職然りと爲す。武臣にして武を遺るゝは、是れ其職を窃むなり。惧れざる可けんや」と。公の少きとき、武田氏と兵を連ぬ。後に武備を講ずるに、武田の法多く其法を取る。或人說きて曰く、「武田の箭は必其鋌を甘くす。人に中りて抜け難︀からしむるなり。請ふ、之に傚へ」と。公、顰顣して曰く、「忍びんや、孰か天下の民に非ざる」と。因りて令して曰く、「德川の箭は必其鋌を固くす。人に中りて拔け易からしむるなり」と。公、幼時、今川氏に育はれたり。今川義元の墓、桶狹に在り。今川の墓を拜す公、過ぐる每に必下拜せらる。其仁、且義、盖し天性なり。
將軍、職を襲ぎ、一に其訓誡を奉じて、天下を綏撫す。五年五年夏、將軍、入朝す。福︀島正則の封を收む。福︀島正則の封を收む正則、關原の役に、功を負みて驕横なり。甞て公人伊奈今成を殺︀す。大阪の役に、陰に謀を城中に通じ、又擅に城郭を增築し、酷だ殺︀戮を嗜み、國民、生を聊ぜす。是に於て、將軍、井伊直孝と策を決し、鳥居忠政をして、正則に江戶の第に就き、命を傳へて之を津輕に放たしむ。其太僻を以て、改めて信濃に放ち、七萬石の邑を給し、其奮封を擧げて淺野氏に賜ふ。賴宣紀伊に徙る參議賴宣を紀伊に徙封す。食む所は故の如し。是より尾張、紀伊、水戶を稱して三家三家と爲[1545]す。諸︀侯、敢て抗禮するなし。義直は、慈仁なり。賴宣は雄豪なり。賴房は謙遜なり。賴房は特國に之かず。譜第の將帥に冠として、幕府を護る。
是の歲、立花宗茂立花宗茂を舊封に復し、松平忠明を郡山に徙す。大阪を以て鎭府と爲し勳舊の一將を遣して之を守らしめ、城代稱して城代と爲す、六年六年、京橋、玉造の兩戍
を置き、大番頭を遺して、部衆を率ゐて更戍らしむ。二條城と同じ。是に於て、伏見城を毀ち、伏見奉行獨奉行を置き、界浦、奈良、長崎、佐渡に比す。七年七年、將軍女を禁內に納れ女御に備ふ。中宮に進み、東福︀門院東福︀門院と稱す。是の歲、田中氏、嗣なくして國除かる。八年八年秋、最上家親の後嗣最上義俊義俊、族屬を統ぶる能はざるを以すて國除かる。
冬、本多正純を放つ本多正純、罪ありて、出羽︀に放たる。初め正純の父正信、老中たり。東照公甞て其封を增さんと欲す。辭して曰く、「臣恩眷を叨にして、矢石の勞なし。之に封土を加ふるは、誠に自安ぜず。願くは其臣に賜ふ者︀を以て、益材武を養ひて、以て天下を鎭平せよ。而して臣老を其間に送るを得ば、何の貺か之に若かんや」と。遂に二萬石を以て終ふ。東照公に後るゝこと五旬にして沒す。正純、甞て關原の役に於て、父を斬りて將軍の過を解かんと請ひ、頗得色あり。安藤直次安藤直次[1546]人に語りて曰く、「倫を傷ひ、以て名を要む。必終を全くせざらん」と。駿府の執事と爲るに及びて、興國寺城の工卒、誤りて公邑の民を殺︀す。邑宰、償を城主天野康景天野康景に求む。康景肯はず。乃正純に因りて之を訴ふ。東照公、素より康景の忠良なるを知り、輙く决せず。正純、康景を誣ひて、速に卒を斬りて之を償はしむ。康景、不辜を殺︀すに忍びず。乃封を弄てゝ出亡す。東照公、之を復せんと欲す。其病みて卒するに會ひて止む。世、之を寃とす。有馬晴︀信の阿媽港人を誅せしとき、正純の僚吏岡本大八、晴︀信の賞希きを揣るや、誑きて其貨を取る。事覺れて罪に抵り、獄中に在りて、晴︀信の陰事を吿ぐ。晴︀信、故を以て敗る。大久保忠鄰の寃も、世、亦以て正純父子の爲す所と爲す。正純、時に小山三萬石を食む。將軍の時に及びて、宇都︀宮十五萬石を食む。安藤直次曰く、「正純將に禍︀に及ばんとす」と。是の歲、使を奉じて山形に赴き、其壘を增し、擅に部屬を殺︀すを以て、封を收めて放たる。其子弟、前後みな死す。獨叔父正重の後存せり。
九年九年七月、
世子家光世子家光、京師に
覲す。將軍因りて上書して事を致す。世子、時に正三位
大納言たり。八月、入朝し、正二位に進み、
內大臣に遷り、征夷大將軍に任ぜらる。
[1547]是より先、參議忠直、功を負みて觖望し、數法を奉ぜず。又酒色を縱にして無辜を殺︀す。幕府、數密旨を以て、之を勗むれども悛めず。參議忠直を放つ是の歲、之を豐後の荻原に放つ。髮を削りて一伯と號す。
寬永元年寬永元年、其子光長光長を越後に徙封す。後三世に至りて、其下を馭する能はざるを以て、之を美作に徙し、五萬石を食ましむ。其弟忠昌、直正、みな大阪の役に功あり。忠昌忠昌、河中に封ぜられ、尋いで高田に徙さる。是に於て、之を越前に封じて、三十萬石を食ましむ。直正、初め大野に支封せられ、後出雲十八萬石に封ぜらる。一伯の敗に、本多成重、復慕府に歸り、列して諸︀侯と爲る。
三年三年八月、前將軍、將軍、共に入覲す。九月六日、天皇二條城に幸す天皇二條城に幸す。兩將軍、諸︀侯伯を率ゐて之を饗す。前將軍は太政大臣に遷り、將軍は右大臣に遷る。是に於て、義直、賴宣、忠長、並に大納言に遷り、賴房、及び前田利光、伊達政宗、島津家久、並に權中納言に累遷す。忠長は將軍の弟なり。是の歲、前將軍の夫人從二位淺井氏薨す淺井氏薨ず。
四年四年、蒲生忠卿、卒す。嗣なし。國除かる。後數歲にして弟
忠知、卒す。亦嗣なし。國除かる。白川十萬石を以て
丹羽︀長重を封ず。
[1548]七年七年九月、天皇、位を皇女に讓る。諱は興子、徳川氏の出なり。是を明正天皇明正天皇と爲す。將軍、酒井忠勝、松平信綱を遣して之を賀す。詔して、忠勝を以て少將と爲し、信綱を侍從と爲す。皆敢て拜せず。幕府に吿げて後受く。
八年八年、始めて少老職を置き、老中を副け、諸︀の雜事を掌らしむ。
九年九年正月二十四日、秀忠斃す前將軍薨ず。壽五十四。增上寺に葬る。
前將軍、位、從一位に至り、官、太政大臣に至る。正一位大相國を贈︀らる。臺徳と謚す。二代臺德公臺德公、人と為り、勤護和厚なり。朝延、外舅の故を以て、禮秩、等を異にす。而して公、益小心[1549]なり。逸︀事甞て禁內に在りて、獨便室に休ふ。或人、之を闚ふ。公の衣冠、肅然として惰容ある莫し。其東照公に事ふるや、心を盡して懽を承く。微細の事に至りても吝稟せざるはなし。關原の役に、公、事に及ばず。而して兄秀康弟忠吉、皆功あり。其歲、東照公、諸︀大臣を召し、問ひて曰く、「吾れ繼嗣を定めんと欲す。誰か可なる者︀ぞ」と。井伊直政は忠吉を右け、本多正信は秀康を右く。大久保忠鄰曰く、「冢子、資望已に定る。宜しく動搖すべからず。
守成ノ器︀且今より以往、撥亂の才は、守成の器︀に若かざるなり」と。東照公之を領く。公、之を聞きて、直政、正信に啣[1550]まず。而して忠吉忠吉も亦、忠鄰を韙とし、益之と厚し。江戶に來る每に輙其第に館︀す。公、同母の故を以て最忠吉を愛す。忠吉、疾病あり。公、親其館︀に往きて候ひ視︀る。使者︀、旦夕往來し、寢食は報に隨ひて加損す。又庶兄の故を以て最秀康を重ず。凡西の諸︀侯の會同する者︀、火器︀を齋すを得ず。秀康秀康、甞て江戶に赴くに、銃隊を具して碓氷關に入る。關吏、呵禁す。秀康曰く、「汝、越前宰相を知らざるか」と。公、聞きて驚き、吏に命じて問ふこと勿らしめ、自之を迎謝す。其卒するに及びて、悼惜殊に至る。東照公、甞て義直、賴宣、賴房を以て、公に屬して曰く、「我れ百歲の後、善く之を視︀よ」と。公、常に其言を念ふ。三家を愛重す故に特に三家を愛重す。凡公、宗族、功臣の喪を聞く每に、燕樂の時と雖、必容を變へ、涕を隕す。其出行するときは、卽駕を戒めて止む。則親徙御に而して之を罷めしむ。甞て行を戒む。漏刻、期を報ず。公方に食す。箸を舍てゝ出づ。信を守る曰く、「信失ふ可からざるなり」と。居常耽嗜する所なし。特に儒術を崇び、書及び歌を好む。諸︀の武技、みな其精︀を究む。而して臣下に傲らず。故を以て諸︀宿將、豪傑、皆馴服す。甞て其下に謂て曰く、「織田、豐臣の二子は、喜びて人に事へられたり。家君は則喜びて人を使ふ。異なる所以なり」と。故を以て諸︀政事、みな東照公に傚[1551]ふ。而して最人を選むことを愼む。將軍の幼きとき、忠世、利勝雅樂頭酒井忠世、大炊頭土井利勝、忠俊伯耆守靑山忠俊を以て傅と爲す。忠世は嚴を以てし、利勝は和を以てし忠俊は直を以てし、共に心を盡して輔導す。利勝、常に燕樂に侍す。間に乘じて說きて曰く、「願くは伯耆の言を聞き玉へ。不らずば則雅樂之を何と謂はん」と。將軍、輙悟る。酒井忠勝酒井忠利の子忠勝、扈從より側用人と爲る。公、又以て傅と爲す又大に職に稱ふ。
公旣に薨ず。諸︀臣、之を秘せんと欲す。忠勝、以て不可と爲し、卽夜、喪を發
家光す。是に於て、將軍、敎を下して盡く諸︀侯伯を召し、親出でゝ之に面して曰く、「前將軍薨ぜり。諸︀君或天下を冀望せば、則唯其欲する所のみ。然れども家光旣に軍職に係る。當に弓箭を以て之を授受すべし」と。諸︀侯、愕然として未だ答へず。伊達政宗伊達政宗進みて言て曰く「孰か德川氏の恩澤を被らざる。今日敢て異心を挾む者︀あらば、政宗請ひて先往きて之を蹂躪せん」と、衆、聲を同じくして對へて
大目附曰く、「誠に中納言の陳ぶる所の如し」と。乃退く。是の歲、始めて大目附を置く。專ら監察を掌る。
六月、池田光政池田光政を備前に徙封す。初め光政の父利隆は播磨に封ぜられ、叔父忠雄[1552]は備前に封ぜらる。皆元和中に卒す。光政、嗣ぎて因幡、伯耆に徙る。是に至りて、忠雄の子先仲と封を易ふ。是より先、臺德公の女、大阪に適ぐ。而して寡なり。改めて本多忠政の婦と爲す。女を生む。是に於て其女を以て光政に妻す。
加藤忠廣を放つ是の月、加藤忠廣、異圖あり。發覺して國除かれ、出羽︀に放たる。細川忠興を肥後に徙封し、忠興の舊封を割きて、小倉を小笠原忠臣に、中津を其兄の子長次に賜ふ。大阪の功を追賞するなり。後、幕府、加藤、福︀島二氏の遺胤を索め、召して之を祿し、以て其祀を存す。
忠長の封を收む十月、大納言忠長の封を收む。忠長、將軍と同母なり。幼字を國松と曰ふ。母氏に鍾愛せらる。將軍、世子となる時、內外流言あり、「幕府嫡を易ふる意あり」と世子の乳母春日局春日局、駿府に往きて之を吿ぐ。居ること數月。東照公、人をして將軍に言はしめて曰く、「久しく幼孫を見ず。盍ぞ來り見えしめざる」と。國松竹千代兩公子、乃來り見ゆ。公、世子を上坐に迎ふ。忠長踵ぎ昇らんと欲す。公曰く、「叱叱。汝敢て斯の坐に升らんと欲するか」と。坐定りて餻を供す。公其一を取りて左右に命じて曰く、「竹千代に進めよ」と。其一を取りて忠長に投與して曰く、「阿國之を喫せよ」と。衆望、是に於て定る。世子、大納言と爲りて、西城に在り。城壕に[1553]鳧多し。忠長手づから銃を發し、一鳧を獲て夫人に示す。夫人、悅ぶこと甚し。命じて之を宰せしめ、臺德公の入るを竢ちてこれを饗す。曰く、「阿國の獲る所なり」と。公悅びて之を啖ひ、向ひて曰く、「且何の處にて之を得しか」と。具に對ふるに實を以てす。公、哺を吐き、怒りて曰く、「何ぞ此の大恠事を得る。西城は誰の居る所と謂ふか」と。乃其從者︀を罪す。忠長、旣に長じ、元和中、甲斐に封ぜられ、寬永中、駿河、遠江を增封せらる。旣にして驕恣なり。驩を臺德公に失ふ。公之を擯けて國に就かしむ。公疾あるに及びて、畋獵して自如たり。將軍爲に之を召見せんと請ふ。許さず。公薨ずるに及びて、忠長戚容なく、殺︀を嗜み、喜怒常なし。是に於て、將軍旣に服を除きて、乃其封を收めて、之を高崎に置き、安藤重長城主安藤重長に附す。忠長悛めず。次年、重長、命を受け諷して忠長自殺︀自殺︀せしむ。是より駿河、甲斐、直に征夷府に隷す。府兵は是の時、大番、及び書院、扈從の兩番あり。更駿府を戍る。
十年十年、堀尾氏、嗣なし。國除かる。次年、京極氏を徙封す。後三年、亦嗣なし。封を收む。其胤子を召して、播磨の地六萬石を賜ふ。
十一年十一年、將軍、入朝す。從一位に進み、右大臣に遷る。初めて京師に町奉行を置[1554]き、市人の訟獄を斷ぜしむ。
十四年十四年、十月、故小西氏の餘黨、耶蘇敎を以て民を煽し、島原の亂肥前の島原に據りて亂を作す。將軍、敎を西海︀の諸︀侯に下し、板倉重昌板倉重昌を遣して其軍を監し、之を討たしむ。松平信綱尋いで松平信綱を遣し、水野勝成に命じて、謀を助けしむ。未だ至らず。
十五年十五年正月朔、重昌、戰死す。信綱、至るとき城陷る。賊の渠率十餘人を誅す。斬首すること四萬。耶蘇を禁ず耶蘇の禁を海︀內に申ぶ。
十六年十六年、始めて大老職大老職を置き、土井利勝を以て之と爲す。老中の連署︀を免︀じて、老中の連署︀を免︀じて、猶大議に參す。
十七年十七年、生駒氏、嗣なし。國除かる。
十八年十八年、將軍、長子家綱を生む。是の歲、始めて勘定奉行勘定奉行數員を置き、錢穀︀を掌らしむ。松平正綱の老を吿ぐるを以てなり。正綱は、實に郡吏なり。大河內秀綱の子にして、松平氏を冐す。理財に長じ、三世に歷事す。常に度支たり。嗣子信綱は、秀綱の庶孫にして、正綱に養はる。
二十年二十年九月、天皇、位を皇兄紹仁に讓る。後光明天皇是を後光明天皇と爲す。天皇の正保元年、將軍、次子綱重を生む。後、參議となり、甲斐に封ぜらる。二年、三子網吉[1555]を生む。後、中將と爲り、舘林に封ぜらる。
慶安四年慶安四年四月二十日、家光薨す將軍薨ず。年四十八、日光山に葬る。官位を贈︀ること前代の如し。三代大猷公大猷と謚す。大猷公、幼にして英偉なり。東照公、之を器︀とす。臺德公を戒めて曰く、「嫡を易ふるは亂の本なり。且竹千代後必明將とならん。宜しく速に儲貳に定むべし」と。其保傅を戒めて曰く、「父必其子の己に類︀するを求むるは、是れ協はざるの原なり。宜しく其器︀に因りて之を成就すべし。吾が三郞に於ける、終身の憾あり。汝が輩、將軍をして再憾みしむる勿れ」と。長ずるに及びて、聰明勇決にして、恩威並び行はる。東照、逸︀事臺德の世は、諸︀の巨藩、各自偃蹇す。其會同する者︀、將軍或は之を郊迎す。禮分未だ定らず。大猷公の時に及びて、甞て盡く天下の侯伯を大城に召し、自之を諭して曰く、侯伯を集めて之を諭す「我が祖︀考、卿等の力に因りて天下を定む。且其甞て肩を比べ等を同じくするを以て、故に禮待を加ふ。敢て譜第の將士に比せず。家光に至りては、則襁褓より已に天下に主たり。自祖︀考と異なる者︀あり。今已に統率の任に居て、事權を一にせざるは、宜しき所に非ざるなり。今より卿等を待すること、[1556]當に譜第と同じくすべし。若し心に厭かずば、其れ各國に之け。暇を給すること三歲。熟思して去就を決せよ」と。諸︀侯、みな送巡して曰く、「敢て命を聽かざらんや」と。公乃起つ。入りて內廳に坐し、次を以て諸︀侯を延き、佩刀を賜ふ。公便服にて盤坐し、腰に佩ぶる所なし。諸︀侯、刀を受けて拜す。公曰く、「刀を檢せよ」と。諸︀侯悚息し、刀を抽くこと寸許。輙退く。德川氏權勢定まる是より徳川氏の權勢益定る。然れども其皇室に事へて恭順なること故の如し。其再入朝するとき、朝廷、以て太政大臣と爲さんと欲す。公、固辭して曰く、「先臣甞て此職を叨にす。幸に首領を全くして沒することを得たり。臣敢て復せんや」と。公甚だ祖︀先を敬す。諸︀老臣、燕に侍して、間、言、東照公の事に及ぶ。公輙曰く、「少く之を竢て」と乃衣帶を改め盥漱し、然る後之を聽く。善く臣下の是非を摘察して輕しく之を口に發せず。黜陟の議あるに遇へば、輒曰く、「某の貌此の如く、性此の如し」と其知る所、諸︀老に過ぐ。久世廣宣の三子久世廣之廣之、側衆となりて、權寵あり。公、日、卒に之に問ひて曰く、「汝、今朝諸︀侯の贈︀遺を得しか」と。廣之拜して對へて曰く、「然り」と。贈︀者︀の性名及び其物件を問ふ。廣之條對す。公曰く、「未だ盡さゞるなり」と。廣之、簿記を懷より取りて之を撿するに果して然り。因りて惶汗[1557]して退く。更相吿げて相警む。堀田正盛堀田正盛、太田資宗等、春日局の緣故を以て、皆寵任せらる。皆橫邪に至らず。時に承平旣に久しくして、麾下の風習漸奢侈に趨り、往々自給する能はず。臺德公の薨ずる時、遺金を頒賜し、又周く其俸を加ふ。婚嫁喪葬、槩皆官より貸るを得たり。而れども猶困乏を吿ぐ。世子家綱世子生れし明年、敎あり。盡く麾の士人、及び諸︀吏を召す。衆、皆當に慶典あるべしと謂ふ。公、此日頭痛を患ふ。手巾を以て額を約し、杖に扶けられて出づ。衆に諭して曰く、「聞く、『汝等困乏極る』と。即明日緩急あらんか、出でて品川に次せんとするも、亦能くす可からざらん。是の如くば、則汝等、吾を何の地に置かんと欲するか」と。因りて大息して泣を下す。衆、能く仰ぎ視︀るものなし。酒井忠勝酒井忠勝、側に在りて颺言して曰く、「諸︀君、仁を恃み恩に狃れ、な上を奉ずる道を忘る。今より以往假貸を容れず。各自量度りて、公上の念を勞せしむる勿れ」と。衆、心服して罷む。已にして令を下す、「諸︀士の子弟、年長けて用に堪ふる者︀は、擧げて番士に充つ」と。因りて俸を賜ふ。新番又新番を置き、大番の子弟を以て之に充つ。又使を諸︀道に遣し、民の疾苦を問はしめ、數賑恤の典を擧ぐ。臺德公の時、靑山忠俊、罪を獲て遠江に放たる。公、政を親するに及びて、未だ之を復せらるるに及ばず[1558]して配所に死す。靑山宗俊乃其子宗俊を召して用ゐ、晩歲、邑を信濃に賜ふ。面諭して曰く、「吾が幼時より、汝の父、忠を盡し誠を輸す。吾れ騃にして意と爲さず。之をして配所に死せしむ。今悔︀ゆとも及ぶ無きなり。猶將に之を汝に報せんとす。庶幾くは其寃魂を慰めん。今より汝、我が子に事ふること、猶汝が父の我に事へしが如くなれ」と。君臣、みな嗚咽す。又大久保忠季に肥前の地八萬石を賜ふ。其子大久保忠任忠任に及びて終に奮封に復し、再小田原を鎭せしめ、以て父祖︀の寃を白にす。天下悅服す。
名臣朝に盈つ公の時に當りて、名臣、朝に
盈つ。肥後守松平
正之、
掃部頭井伊直孝、
大炊頭土井利勝、讃岐守酒井
忠勝、周防守
板倉重宗、伊豆守松平
信綱、豐後守
阿部忠秋等其最たり。公の世子たりし時より、信綱、忠秋、侍臣たり。公、甞て屋上の
乳雀を見、近臣に命じて往きて之を捕へしむ。屋、將軍の
燕室に係る。衆、敢て往くなし。
松平信綱乃信綱を
推めて曰く、「汝、年幼くして体輕し。宜しく往くべし」と。信綱勉︀强して命に應じ、夜、
潜に屋に
緣りて之を
索め、足を失して庭中に
墮つ。
謋然として聲あり。將軍、刀を
提げ、夫人、
燭を執りて出づ。信綱を見て、其來由を問ふ。對へて曰く、「臣、雀兒を観て之を
愛しみ。
窃に來り捕ふるなり」と。將軍
[1559]曰く、「否。是必主使する者︀あらん」と。
窮詰すること再四。而れども吿げず。將軍怒り、信綱を
巨囊中に
內れて、其口を
緘し、之を柱に懸けて曰く、「汝、實を
首げずば出づるを許さず」と。信綱、囊中より之を爭ひてに徹す。昌、將軍出でゝ朝を視︀る。夫人、信綱の志を
憫み、其
飢を慮り、
囊口を
胠き、
餕を以て之を
啗はしめ、復其口を緘すること初の如くす。日中、將軍、入りて復之を
詰る。終に辭を改めず。夫人、固く請ひて之を
縱す。將軍これを
目送し、夫人に謂て曰く「
孺子、能く是の如し。後必我が兒の
羽︀翼とならん」と。果して其言の如し。
[1560]信綱、警敏︀なること人に絕す。而して能く人に下る。公、甞て急に一城樓を改造せんと欲す。信綱、工を督し、一宵にして成る。白紙を以て壁に
糊す。新
堊の者︀の如し。
土井利勝利勝、之を讓めて曰く、「成らざれば則巳む。是れ人主をして難︀を下に責めしむるなり」と。信綱謝して曰く、「僕請ふ、終身以て戒と爲さん」と。信綱、甞
[1561]て京師に如く。朝旨、
徵求する所ありて、十餘條を
疏す。信綱
盡く其不可を辨じて還す。衆其敏︀を稱す。忠勝、之を
讓めて曰く、「列世恭順の旨、子、豈知らざるか。何ぞ必しも盡く之を
拒むことを爲さん」信綱、驚悔︀して
措くなし。公の始めて政を親するや、
敎を下して曰く、「大小の事盡く東照公の約の如くす」伊達政宗、狀を
上りて曰く、「東照公、曾て我を百萬石に封ず。願くは約の如くせん」と。幕議、之を
病ふ。利勝曰く、
掃部頭、能く之を
辨ふ」と。乃直孝に命ず。直孝、朝より退き、直に伊達氏に
詣り、
面のあたり政宗を見て曰く、「聞く『公、前代の約を擧げて封を請ふ』と。信なるか」と。曰く、「信なり」と。曰く、「所約は印信あるか」と。曰く、「有り」と。曰く、「盖し僞ならん」と。政宗曰く、「何ぞ僞と謂ふを得んや。吾れ且之を示さん」と。卽出して之を示す。直孝、受けて熟視︀して曰く、「是れ
故紙のみ」と。乃
扯裂して爐火中に投ず。政宗、
色然として
駭く。直孝笑ひて曰く、「此の約は、盖し一時の權宜に出づ。且事旣に往く。今乃持して利を
要む。何ぞ計の淺きや」と。政宗曰く、「老夫誤れり」と。因りて笑ひて止む。福︀島氏の封を收むるとき、群議决せず。
板倉勝重板倉勝重、直孝を
薦めて曰く、「掃部頭は人の足跡を
踐まざる者︀」と。乃直孝を召す。議遂に決を得。勝重、
[1562]京尹たること年久し。元和中、老を以て職を辭す。臺德公、優勞し、人を擧げて自代らしむ。勝重曰く、「臣の長兒に
若くは莫し」と。
板倉重宗乃
重宗に命ず。重宗、愼密廉平なり。世以て其父に
愧ちずと爲す。公、甞て疾ありて困劇し、遠近
疑惧す。旣にして愈ゆ。使を京師に馳せて之を報ず。重宗の答書至る。曰く、「臣、游獵すること數日にして歸る。以て奉答
稽緩を致す」と。公之を
覽て曰く、「京師の
驚擾知る可きなり」と。明日、忠勝、入りて其書を
覽て曰く、京師驚擾知る可きなり」と。侍者︀、其意を解するなし。忠勝の退くを竢ちて之を問ふ。對へて曰く、「周防守、務めて暇豫を示すは、衆情を鎭むるに非ずや」と。侍者︀乃服す。其上下一心
槩此の如し。忠勝、直孝、相
踵ぎて大老と爲る。信綱、忠秋、少老より老中に進む。
松平正之而して
正之、特に諸︀老の上に位す。正之は臺德公の
孽子たり。公の
侍婢孕める有りて出で、男を其鄕に生む。
邦俗、
端午の
節︀に、男兒ある者︀は
章幟を門に樹つ。婢家の
幟に
葵章を用ゐる。吏
詰りて其故を得たり。證左あり。遂に
以聞す。
保科正光、子なきを以て請ひて嗣と爲すを得て、名を
正之と命ず。大猷公立ちて未だ達せざるなり。公、甞て鷹を
驪鄕に放つ。群騎散じて自
息ふ。公、近臣數人と微行して邑中の佛寺に入る。寺僧︀、
誰何す。公曰く、「吾れ番衆なり。願
[1563]くは
少く此に
息はしめよ」と。僧︀、
與に坐して談る。公、其
壁畵の頗雅なるを視︀て、之に謂て曰く、「貴寺、僻に在り。何を以て是の
若きを得る。豈大
檀越あるか」と。曰く、「有ること無し。唯、保科氏あり。亦
貧乏にして爲すこと有るに足らず。吾れ聞く、『保科君は將軍の親弟なり』と。小民猶兄弟を
恤むを知る。貴人何ぞ情の薄きこと此の如き」と。公、色少しく變じ、從者︀を
目して辭謝して出づ。
頃して羣騎至りて將軍を
索めて、之を僧︀に問ふ。僧︀曰く、「
嚮に數少年ありて來り息ふ」と。騎曰く、「是將軍のみ」と。僧︀大に驚き誅を
惧る。居ること
何も無くして、敎あり。正之を山形二十萬石に增封し、松平氏を賜ふ。
驪鄕の寺に
香火の邑を給ふ。後、正之、徙りて會津を鎭し、四位中將に累遷す。性
敦實にして學を好む。公、特に之を親重す。
[1564][1565]公、終に臨みて、諸︀老を召し、世子家綱世子家綱を屬す。世子、職を襲ぐ。甫めて十一。天資仁恕なり。時に利勝已に卒す。正之以下、遺命を受けて幼主を輔佐す。敢て慶譲を爲さずして、其長を竢つ。大納言義直、公に先だちて卒す。賴宣、賴房、猶健なり。國流言多し。明暦三年大火明暦三年、江戶に災あり。歲を踰えて滅せず。城郭第舍、延燒して略盡く。物情恟然たり。信綱、忠秋、內外を指麾し、事皆立所に辨ず。忠勝等、協議して盡く諸︀侯を罷めて國に就き、各其民を撫せしめ、土木を經理し、盡く舊觀に復す。天下復動搖せず。旣にして親藩の老臣、前後みな卒す。而して將軍、政を親す。諸︀侯の質の城中に在る者︀を各第に還し、殉死を禁ず殉死を禁ず。家綱薨ず職に在ること三十一年にして薨ず。【寬永寺】江戶寬永寺に葬る。四代嚴有公嚴有と謚す。
是より後、寬永寺寬永、增上寺增上の二寺、德川氏の塋域と爲る。初め東照公、祖︀先に事ふるに甚謹︀む。後陽成帝、甞て公に賜ふに菊桐の章を以てせんと欲す。辭して曰く、「此れ已に足利氏に賜ふ。新田氏の榮に非ざるなり。臣自葵章あり。天恩苟も微勞に酬いんと欲せば、伏して願くは、臣の祖︀先を錄し給へ」と。乃詔して、上祖︀義重に義重、廣忠に贈︀官從四位下鎭守府將軍を、父廣忠に正二位大納言を贈︀らる。其歲、臺德公と偕に上野に獵し、土井利勝等をして新田、世良田、德川の諸︀邑に如き、其父老[1566]に問はしめて、義重、義貞の故址を得、一寺を建てゝ大光寺大光と曰ひ、以て詔書を奉じ、參河の大樹寺大樹寺と與に皆勅願寺に准ず。臺德、大献の二公、益祖︀先を敬す。故を以て後嗣親兩塋を拜するを以て常務と爲す。上野、三河の如きは、則使を遣して祀を修む。而して在職の中必一たび日光廟に詣づる以て重典と爲す。
嚴有公、薨じて嗣なし。弟中將、諱は綱吉、館︀林より入りて職を詔ぐ。二十九年にして薨ず。五代常憲公常憲と謚す。從子中納言、諱は家宣、甲斐より入りて職を紹ぐ。四年にして薨ず。六代文昭公文昭と謚す。世子、諱は家繼、職を襲ぐ。四年にして薨ず。七代有章公有章と謚す。嗣なし。賴宣の孫中納言、諱は吉宗、紀伊より入りて職を紹ぐ。大に曾祖︀の政を修め、精︀を勵して治を爲す。釐革する所多し。八代有德公天下號して徳川氏中興の主と爲す。三十年にして職を辭し、後六年にして薨ず。有德と謚す。世子、諱は家重、職を襲ぐ。十七年にして薨ず。九代惇信公惇信と謚す。世子、諱は家治、職を襲ぐ。
十代浚明公二十五年にして薨ず。浚明と謚す。浚明公以上、嚴有公に至るまで、官位に叙任すること槪常例あり。世子たる時は、正三位に叙し、大納言に任ず。大將軍を襲ぐに及びて、正二位に進み、內大臣、右[1567]大臣に累遷し、右近衞大將を兼ね、薨ずるに及びて、正一位大相國を贈︀り、謚を賜ふ。其軍職帶ぶる所皆同じ。大納言以前の叙任は、源氏、足利氏の故事の如し。而して天使就きて拜す。天下に布吿するは、大納言より始る。
初め有德公、後世の爲に深く慮り、世祿中に就きて、官俸の增减法を立つ。其二子を祿するに及びて、復封土を建てず。廩粟十萬石を給ひ、第を田安田安、一橋一橋に賜ふ。惇信公、亦例に沿ひ、其一子を祿し、淸水淸水に第し、皆省鄕と爲す。浚明公、嗣なきに及びて、今の公、一橋より入りて世子と爲る。名は十一代家齊將軍家齊と曰ふ。實に有德公の曾孫なり。職を襲ぐに及びて、復其政を修む。賢に任じ能を使ひ、百廢悉く擧る。在職最久し。左大臣に累遷し、終に太政大臣に拜す。固く辭して命を得ず。又世子世子家慶家慶を以て從一位內大臣に進む。是に於て、掃部頭井伊直亮、越中守松平定永をして、入朝して思を謝せしむ。
源氏、足利氏以來、軍職に在りて太政の官を兼ねし者︀は、獨公のみ。蓋し武門の天下を平治すること、是に至りて其盛を極むと云ふ。
外史氏曰く、吾れ甞て江戶に遊び、其城闕の壯、侯伯邸第の夥しきを觀る。旣にして東海︀を歷て尾濃の間に彷徨し、北は信越の諸︀山の綿亘重疊として來り、迤に[1568]京畿に赴くを望む。而して其南は沃野洪濶參遠と接す。眞に天下の衢路なり。千軍萬馬の馳驟せしを想見す。今、邸を布き第を列ぬる者︀、其初皆嚮背を此に決せしなり。
盖し、源氏以還、治ること少なく、亂るゝこと多し。群雄棊峙し、分裂梗塞せしこと、其幾百歲を閱せしを知らず。而して今吾れ緩帶垂索、粗を齎さずして行くは、則誰の力ぞや。世の論者︀或は大阪の事を病へて、東照公の徳を累すを爲す。
此れ時勢を知らざる論なり。吾れ曰く、「公の天下を取りしは、大阪に在らずして關原に在り。德川氏の天下を取るは小牧に在り關原に在らずして小牧に在り。夫れ公は織田氏の屬國なり。而して太閤は其將校なり。太閤は織田氏の將校を以て身を起し、乃其君の遺孤を欺き、之に加ふるに兵を以てせんと欲せり。諸︀同列、其力を畏れ、其惠を私し、逡巡して敢て爭ふものなかりき。而るに公、獨毅然として弱を扶け、强に抗し、野次の一戰に其驍將を得たりしは、固より以て姦雄の膽を破りて天下の心を服するに足れり。是の時に當りて太閤の據れる所は近畿の諸︀州に過ぎず。瓦合鳥集、人々觀望を懷けり。而して公は參遠膠漆の民を以てし、加ふるに甲信精︀銳を以てす。動舊忠義の士、雲の如く雨の如し。和親成らしめず、兩姓をして兵を構へしめば、[1569]天下の事未だ知る可らざるなり。
昔者︀、曹操、劉玄德に謂ふ、「天下の英雄は、唯君と我とのみ。袁本初の輩は論ずるに足らず」と。今太閤を以て柴田勝家等を視︀ぶるは猶操の本初に於けるが如し。而して其公を憚かりしこと、啻に玄德のみならず。宜なり、其辭を卑くして禮を厚くし、百方和を講ぜしは。是れ太閤の至計、以て速に天下を取りし所にして、天下の權は巳に德川氏に在り。何ぞや、我れ戰勝ちて、彼れ和を求む。求むる者︀は彼に在り。許す者︀は我に在り。我れ和せんと欲せば則和し、戰はんと欲せば則戰ふ。禍︀福︀一に決を我に取る安危禍︀福︀一に决を我に取る。我れ已に天下の權を有たざらんや。唯夫れ權我に在り。是を以て班爵の崇、封土の隆、之を天下侯伯の右に置かざるを得ず。太閤の末路、兵を外に連ね、士を內に亂る。而して之を能く定むること莫し。能く之を定めし者︀は公のみ。太閤一たび瞑して、天下を制馭する者︀は公に非ずして誰ぞ。是れ其勢智者︀を待ちて而して後知るにあらず。特に未だ釁有らざるのみ。
關原の事は、是れ群雄相聚り、天下を推して德川氏に貽る天下を推して德川氏に貽る者︀なり。何となれば、則彼れ自釁を開きて、我をして之に乘ぜしめたるなり。我れ天下に辭あり。天下[1570]誰か能く之を禁ぜん。是に於て、朝廷之に上將の任を授けて、天下の侯伯を統べしむ。會同朝聘、東に於てせざる莫し。則大阪は徒一候國の坐食するのみ。公旣に織田氏の孤に忍びず。寧ぞ復豐臣氏の孤に忍びんや。盖し以て善く之を處せんこと有るを思ふ。而れども彼に察せずして、專猜疑を挾み、再自釁を開きて其覆滅を速にす。公に於て何ぞ累はしからん。公、雄武老鍊なる、太閤と雖、其畏るゝ所に非ず。况や當時の群雄に於てをや。直に之を兒童視︀す。而して何ぞ驕婦騃孺に有らんや。而るを公、謀を蓄へ慮を積みて之を斃せりと謂ふは、皆事情を知らざる者︀なり。
公少より隣國に轉質し、已に艱虞を極む。其國に主たるに及びて、又境を勁敵に接し、百戰して鋒を爭ふ。寸攘尺取して繞に五州を定む。
三氏天下を取るの異同而して織田、豊臣氏は其間を以て近畿を奄有し、
暴に强大を致す。盖し公を以て遲鈍と爲さゞる無し。天の公を成す所以は乃是に在るを知らず。二氏の天下に於ける、唯速に之を得たり。故に速に之を失へり。
徳川氏盛業の原因公は未だ甞て天下を取るに急ならずして、
天下の釁每に以て公を開くに足る。
嗚呼、
是れ其長く天下を有ちて、
以て今日の盛業を基せし所以なるか。
[1571][1572]邦文日本外史卷之二十二終