<<今日我と共に楽園にあらん〔ルカ廿三の四十三〕>>
尊栄は大なり、仁愛は高し、慈悲の貴きことは言尽す能はざるなり、けだし主宰と共に楽園に入るは、たゞ単に入るに比ぶれば、大なる尊栄なり。然れどもこれ何事ぞ、我につげよ。盗賊は十字架より俄に天国に入る者とならんが為に如何なる事をなしゝや。余は此事を簡短に説明して、盗賊の高徳を示さんと欲するなり、汝欲するや否や。それ門徒中の長坐たるペトルが下に在て主を諱みし時にあたり、彼は高く十字架の上にありてハリストスを信認せり。我が此を言ふはペトルを非難せんとに非ず、然り、非難すべからざるなり。盗賊の心の高尚なると其の最秀でたる明哲とをあらはさんを欲するなり。彼は下婢の恐喝にさへ堪ふる能はざりしに、此は全民狂乱して繞り立ち、叫んで被釘者に千百の悪言を放つを見るや、信仰のおとしめ辱かしめらるゝを見るにも拘はらず、あらゆる卑下と妨害とを下に放棄てゝ、在天の主宰を承認めたり、言を発して、曰く『主よ汝の国に於て我を記憶え給へ』〔ルカ廿三の四十二〕。これらの言を我等注意なくして置かざらん、我等の主宰が衆人より先に楽園に導き入るゝを耻ぢ給はざりし盗賊を取りて己の師と為すを耻ぢざらん、全人間の中第一楽園の生活に堪ふる者となりし人を取りて己の師と為すを耻ぢざらん。然れども彼の言を逐一に研究せん、此によりて十字架の力を認めんが為なり。それ主はペトルとアンドレイにいひし如く『我に従へ、我れ汝等を人を漁る者となさん』〔馬太四の十九〕とは彼にいはざりき。又十二門徒につげし如く『汝等十二の位に坐してイズライリの十二族を審判かん』〔馬太十九の廿八〕とは彼につげざりき、且一言も彼に賜ひしことあらざりき。彼は奇跡を見ざりき、死者の起るをも、魔鬼の逐はるゝをも、海が主の命に従ふをも見ざりき、主の天国の談をもきかざりき、天国の名称さへ彼はいづくよりきゝ識りしか。然らば我等は彼の大なる智慧を了解せん。福音経に他の盗賊は彼を䙝讟せり〔ルカ廿三の三十九〕といへり、けだし他の盗賊もハリストスと共に釘せられたりき、これ『悪者と共に数へられん』〔イサイヤ五十三の十三〕といへる預言者の言に応ぜんが為なり。無智なる猶太人等は主の光栄を蔽はんと欲して、凡て成りしところの出来事を検査したり、然れどもすべての検査によりて眞実はます〳〵伸び、甚しき妨礙によりて大に明白になれり。それ他の盗賊は䙝讟せり、然れども福音者の一人は彼等両人イイススを詬れりといへり〔マルク十五の三十二〕。是れ亦至當なり、然れども此によりて右方の賊の明哲は更にいよ〳〵あらはるゝなり。恐くは彼も最初は悪言したりしならんも、其後俄にかく豹変しならん。故にいふ他の盗賊は彼を䙝讟せりと。見るや盗賊と盗賊を、彼等両人は十字架の上にあり、両人は悪の為なり、両人は強奪の所業の為なり、然れども両人に及びしは同じき運命にあらずして、一は天国を嗣ぎ、他は地獄に投ぜられたり、此の如く門徒と門徒等も、昨は同く門徒たり、然れども一は叛逆を謀り、他は勤労をあらはせり。一はファリセイに告て『我に幾何を與へんとするや、我汝等に彼を売らん』〔マトフェイ廿六の十五〕といへり。然れども他はイイススに就て『何処に過越の食を汝の為に備へんを欲し給ふや』〔同十七〕といへり。かくの如く此処に於ても盗賊と盗賊、彼等は同く盗賊なり、然れども一は悪言して、他はその口を塞ぎ、一は䙝讟せども、他はこれを責む、ハリストスの十字架に釘せられて罰をうけ、全民其下にありて悪言し、大声に叫ぶを見るといへども、此のすべては一も彼を遮り止むるあたはず、又其當然の頌讃を禦ぐことあたはざりき、却て彼は他の盗賊を大に責めて『汝は神を畏れざるか』といへり〔ルカ廿三の四十〕。盗賊の勇気を見るか。十字架の上にあるも己が技倆を忘れず、其の表信を以て天国を奪ふを見るか。彼いふ神を畏れざるかと。十字架の上に在て彼の勇気なるを見るか。彼の明哲を見るか、彼の虔恭を見るか。釘せられて釘の為に堪ふべからざる苦をうくるといへども、彼は己の自覚を失はずして、常識を守れり、かくの如く勇気なる明哲は驚くべきにあらずや。我は彼を見てたゞに驚くのみならず、実に亦彼を讃美するなり。けだし彼は己の苦みを顧みざるのみならず、己を舎て他を慮り、他を迷より救ひ、十字架の上にありて師とならんことを勉めたり。彼いふ汝は神を畏れざえうかと。こは左の如くいふと相似たり、曰く此世の裁判所を見るなかれ、見えざる者なり、他に裁判所あり、即賄ふ可らざる、誤る能はざるものなり。故に彼の罰せられたるを見るなかれ、天上に在ては如此ならず、茲に此世の裁判所に於ては罪なき者罰せられて、罪ある者免れ、義なる者にかゝりて、不義なる者これをまぬかるゝことしば〳〵これあり、けだし人類の多くは裁判の事件を或は我儘に或は心ならず顛倒し、時としては正義を知らずして自ら欺くあり、又時としてはこれを知るも、金の為に賄はれて、眞理を曲げ、罪なき者を罰することあり、然れども天上にありては毫もかくの如きことあらず、けだし神は義なる裁判者にして、其の裁判は光の如く発すればなり、暗きを有せず、蒙昧を有せず、何等の毀損もゆるさゞるなりと。これ此の盗賊は他の盗賊をして左の如くいはざらしめんが為、即彼此処に罰せられしに汝いかんして彼を弁解するやといはざらしめんが為に、彼の思を天上の裁判所に昇せ、恐るべき宝座と、賄ふべからざる裁判と、誤る能はざる裁判者とに昇せて、彼に畏るべき裁判を記憶せしめたるなり。其の意謂へらく彼処を見よ、さらば汝は非難の言を発せざらん、此処の人々と共にせず、却て高上なる裁判を驚き且認めん。彼いふ汝は神を畏れざるかと。盗賊の明哲を見るか、其の善智を見るか、其の教導を見るか、彼は俄に十字架より天に冲れり。見よ、彼は最早使徒の法を実行するなり、彼はたゞ己のみを見ず、却て他を迷より救ひて、眞理に導かんが為に、すべてを為し、悉くの方法を用ふ。けだし『汝は神を畏れざるか』といひしに加へて、『汝は同く罪せられたるに』といへり〔ルカ廿三の四十〕。完全なる表信を見よ。同く罪せられたるにとはいかなる義か。同じき刑罰をうくるをいふなり、けだし我等も共に十字架の上にあればなり。故に汝は彼を悪言しつゝ彼より先に自分を悪言するなり。罪中に在る者にして他を罪するは他より先に自分を罪するなり、かくの如く不幸の中に在りて他の不幸を責むる者も、他より先に自分を責むるにあらずや。彼いふ同じく罪せられたるにと、是れ彼は福音経に載する使徒の法を授くるなり、曰く『人を議するなかれ、議せられざるを致せ』〔マトフェイ七の一〕。『同じく罪せられたるに』と、盗賊よ、汝は何を為すか。同じく罪せられたるに、といふ時は汝はハリストスを汝等の同類と為すに非ずや。彼いふ否らず、我は己の言を修正せんが為に左の言を加へたり、曰く『我等は其為したる所に相當する者を受るなれば固より宣きなり』と〔ルカ廿三の四十一〕。これ汝をして同く罪せられたるに、といへる言をきゝて、彼はハリストスを擬して其罪の同類者と為すと思はざらしめんが為なり、此により彼は修正をなしていふ、我等は其為したる所に相當する者を受るなれば固より宣きなりと。十字架の上にあつて完全なる表信を為すを見るか。彼が此等の言を以て自分の罪を洗ひしを見るか、預言者の誡命を実行したるを見るか、曰く『汝は先づ汝の不法をいへ、義とせらるべし』〔イサイヤ四十三の二十六〕。誰も彼を強ひざりき、誰も彼にこれを為さしめざりき、されども彼は自ら己の原告とならんとするなり、故に此後他人は誰も最早彼の原告とならざりき。けだし彼は自から先じて原告者の資格を己にうけ、自ら己を罪人と認めていへり、我等は其の為したる所に相當するものを受るなれば固より宣きなり、たゞ此人は何の悪もなさずといへり。彼の大なる崇敬を見るか。かくの如く彼は自ら己を罪したる時、己の行をあらはしたる時、『我等は宣しきなり、たゞ斯人は何の悪も為したること無きなり』といひて主を弁解したる時に及び、敢て願を申出ていへり『主や汝の国に来らん時、我を記憶えたまへ』と〔ルカ廿三の四十二〕。彼は懺悔を以て己を罪の不潔よりきよめざらん間は、自ら己を罰して己を無罪者となさゞらん間は、己を証して自ら罪を被らざらん間は、これに先だちて『我を記憶えたまへ』といふを敢てせざりき。懺悔は十字架の上に於ても大に力を有するを見るか。至愛者よ、此を聞きて、断じて失望するなかれ、言尽されざる神の仁愛の大なるを想ひ、急ぎて罪を悛めて、己を潔うせよ。けだし十字架の上にある盗賊にさへ神はかゝる惠を賜ひしならば、まして我等己の罪を懺悔せんと欲する時は、其の仁慈を我等に賜はざらんや。故に我等も彼の仁慈を得んが為に己の罪を懺悔するを耻ぢざらん、けだし懺悔の力は大にして多くのことを為し得ればなり。視よ盗賊も懺悔して楽園の開かれたるを見たり、懺悔せり、故に彼は盗賊たりしも敢て天国を願ふの勇気を得たり。さりながら此時に至る迄彼は天国を願はざりき。盗賊よ、我につげよ、如何して汝は天国の事を憶出したるか、今や汝はいかなるか。汝の目前には釘と十字架とあり、讒誣と嘲弄と悪言とありと。彼いふ然り、然れども十字架は我が意にこれを以て天国の号標と為す、故に我は彼の釘せられたるを見て、彼を王と名づく、けだし臣民の為に死するは王に適當すればなり。彼は自らいへり『善なる牧者は其羊の為に己の生命を予ふ』〔イオアン十の十一〕と、かくの如く善なる王も臣民の為に己の生命を犠牲にせん。故に彼は己の生命を犠牲にしたるにより、我は王と名づくるなり。『主や汝の国に来らん時我を記憶えたまへ』。