聖金口イオアン教訓下/第16講話

第16講話

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<<何故なにゆえいつこのおいばつせらるゝも、おなじつみあるものばつせられざるか>>


なんぢはいはん一はこのおいばつせられ、かのおいばつせらる、されどみなこのおいばつせられざるは何故なにゆえなるかと。これ何故なにゆえなるか、これもしかくあらんにはわれみなほろぶべきによる、けだしみな定罪ていざいもとにあればなり。されどまた一方いっぽうよりこれをるならば、もしたれこのおいばつせられざりしならば、もっともおほくのものはいよ〳〵怠慢たいまんなるべく、おほくのものかみ先見せんけんなしといはん。けだし今日こんにち罪人ざいにんうちおほくのものばつせらるゝをるにかゝはらず、かくのごとおほくのものかみ藝瀆けがすならば、もしばつなからんにはかれなにをかいはざらん、其時そのときはいかなるあくにかたつせざらん。これためかみは一をこのおいばつすれども、ばつせざるなり、一をばつするはつみち、彼処かしこばつかろうし、あるいまったくこれよりまぬかれしめんがためなり、かつこればつするをもつほう生活せいかつするもの清潔せいけつにせんがためなり、されどこれにはんしてものばつせざるは、かれもしよくおのれかえりみるときは、悔改かいかいすべく、かみ恒忍こうにんぢて、このばつよりも、彼処かしこくるしみよりもすくはるゝをんがためなり。されどもかみ恒忍こうにんようせず、ぜんとしてほうとどまるならば、はなはだしき怠慢たいまんためおほいなるばつふくせん。さりながら識者しきしゃうちたれかいふあらん、ばつせらるゝもの公平こうへいしのばん、けだしかれなほいんとすればなりと、かくいふものあらんも、われこれこたへていはん、もしかみかれ後悔こうかいすべきをけんせしならばかればつせざらんと。けだしかみぜんとしてあらためざるべきをるも、其者そのもの忍耐にんたいするならば、してかみ久忍きゅうにん使ようせんとするをらば、其者そのもの現生げんせいおいても忍耐にんたいせざらんや、けだしかれゆうとき悔改かいかいためようすべければなり。さりながらいまかみかれこころうばひ、こうためには彼処かしこばつかろうし、おつをばこうばつするをもつおしへんとするなり。しかれども何故なにゆえかみことごとくの罪人ざいにんこれさゞるか。これ生存せいそんするところものにんばつによりおそれをのゝきてみづかおのれ完全かんぜん清潔せいけつにし、かみ恒忍こうにん讃揚さんようするによりても、寛容かんようづるによりてもほうをとゞめんがためなり。さりながらなんぢはいはん、かれなにかくごとくなさゞるにあらずやと。しかれども此事このことおいつみあるものは最早もはやかみにはあらずして、おのれすくひたいする如此かくのごときたすけをようするをほつせざるもの怠慢たいまんなり。それなんぢかみこれためすをしんぜんとほつするか、つゝしんけよ。むかしピラトガリレヤじん祭物そなへものこんぜしや、或者あるものきたりてこれをハリストスげたり、しかれどもハリストスこれにこたへていひけるは『これガリレヤじんはかくなんひしによりて、すべて一切いっさいガリレヤじんよりも罪人ざいにんなりしとなんぢおもふや。われなんぢらにしからず、なんぢくいあらたむるにあらずんばみなおなじくほろびんのみ』〔ルカ十三の二、三〕。またあるとうたふれて、あつせしもの十八にんありしに、かれことをもハリストスおなじくのたまへり。けだししゅは『ガリレヤじんはかくなんひしによりて一切いっさいガリレヤじんよりも罪人ざいにんなりしとなんぢおもふや、われなんぢらにしからず』とひて、生存せいそんせしものおなじくつみあるをあらはせり、しかれども『くいあらたむるにあらずんば、みなおなじほろびんのみ』といへることばもつて、生存せいそんせしものしょうじたるけん震慄ふるひおのゝき、くいあらためて天国てんこく嗣者よつぎとならんがために、しゅなんふをゆるたまひしをしめせり。汝はいはん、何ぞや、某々それそればつせらるゝはさらきものとならんとするがためなるかと。しからず、かればつせらるゝはこれがためにあらず、おのれつみためなり、さりながらときおいかれ注意ちゅういふかものためにはすくひたつするの方便ほうべんとならん、けだし某々それそれひしところのものをもつかれをおそらし、かれをしてぜんもっとも勉励べんれいするものとならしむればなり。主人しゅじんたるものかくごとすなり、一のぼくをたび〳〵ばつし、これをもつおそれしめて、もっとも清潔せいけつなるものすなり。ゆえひとあり、あるいせんさいほろび、あるいいえにありてあつし、あるいなんほろび、あるいかわおぼれ、あるいそのなんなりともめいおわるものあるも、かれ同様どうようまたかれよりなほしきものたりとも、なにもかくのごとなんにあはざるをときは、なんぢこれによりてこころみだすなかれ、おなじくつみあるものにしておなじくなんはざるは何故なにゆえなりやといふなかれ。さりながらこはの如く思ふべし、すなはちかみ一者いつしゃには彼処かしこばつかろうし、あるいまたまったくこれをまぬかれしめんがために、ころされかつあつせらるゝを許容ゆるすといへども、しゃには一もかくのごときをうくるをゆるさゞるは、前者ぜんしゃばつにより後者こうしゃさらぜんなるものとならしめんがためなり。されどもしなんぢつみとどまるならば、これおの怠慢たいまんにより、なぐさべからざるくるしみをみづか予備よびするものにして、かみふべからざるばついんしゃにあらざるなり。


またなんぢじん患難かんなんにかゝるをあるいすべ前文ぜんぶんところのものをうくるをるときも、これがため落胆らくたんするなかれ、けだしこうじんにもいとうるはしき栄冠えいかんそなふればなり。これようするになんばつろんなく、もし罪人ざいにんおよぶならば、つみおもきをかろうせん、されどもしじんおよぶならば、かれ霊魂たましいさら清明せいめいなるものとなさん、すなはちかれにも、またこれにも、患難かんなんによりておほいなるえきあらしむるなり、たゞわれ感謝かんしゃしてこれを忍耐にんたいせん、けだしもとむべきのことなり。