<<凡て此世に於て為す所の事の為に報あらん>>
我等の行為は現世のみにて限らるゝと思ふなかれ、凡て我等が此世に於て為す所の事の為には必ず審判と報酬とあるべきを信ずべし……。もし此れあらずんば、何故神はかくも大なる天を張り、地を下に敷き、海を濶うし、大気を漲らして、此の如き摂理をあらはし給ひしや、もし神は終に至る迄我等を慮るを欲せずんば、此のすべては何の為なるか。さりながら善良に生活したる者の中、幾多の人は、無数の災難に遭ひ、幸福といふものは一もうけずして世を逝りしも、他はこれと相反して、甚だ無法に生活し、人の財産を掠め、孤児寡婦を欺き且虐げ、富と、奢侈と、限りなき幸福とにて楽み、些少の害をもうけずして世を逝りしを見るか。さらばもし我等の行為は此世の生活と共に終るならば、何の時に、前者は徳行の為に賞をうけ、後者は無法の為に罰をうくべきか。もし神は存在し、実に存在するならば、人皆彼は義なりといはん、さらばもし義なるときは彼にも亦此にも、其価に随て報酬んとするに誰も異議なかるべし。さりながら神は彼と此とに其価に随て報ゆるとするも、此世に於ては誰もこれを受けし者なく、彼は罪の為に罰をうけず、此は徳行の為に賞を受けざりしならば、彼も此も當然の報酬をうくる時の更にあるべきことは明白なりとす。――さりながら神は我等の霊魂に此の不断に儆醒して眠らざる裁判者、即良心を立てしは何故なるか。けだし我等の良心の如く眠らざる裁判者は人々の間に一もこれあらざるなり、外部の裁判者は金にて賄することを得べく、諂媚にて軟ぐることを得べく、又恐れを以て故に縦さしむべく、其他彼等をして裁判の公平を枉げしむべきものは許多あるべし、然れども良心の裁判所は何もかくの如きものに従はされざるなり、金を與へんか、諂ひ或は嚇さんか、或は其他いかなる事を為すといへども、彼は思念に対して公正なる宣告を発せん、されば罪を行ひし者は他に誰も咎むるものなしといへども、彼は自ら己を罪せん。而して良心の此を為すは一次に非ず、二次に非ず、屡次これをなして、生涯の間にあるなり、されば多くの年月を経るといへども、彼は為しゝところのものを決して忘れず、罪を行ふ時も、又行ひし後も、痛く我等を責め、行ひし後は特にかくなさんとす。