- コレイの諸子の歌。
- 神は我等の避所なり、能力なり、患難の時には速なる佑助なり。故に地は動き、山は海の心に移るとも、我等懼れざらん〔一節至三節〕。
一。 預言者は彼に特有なる智慧をもて、爰に世事より聴衆を避けしめて高尚なる希望に導くなり。彼謂らく、武器・城壁・壘柵・財貨・戦術の巧妙・馬の多きこと、弓・箭・甲冑・戦友の群、分遣隊、体力、軍士の老練を我に示す勿れ、此等のことは皆蛛網及び蔭影よりも薄弱なるに由ると。爾若し勝たれぬ能力、変らざる避難所、勝たれざる城、堅牢なる墻壁を見んと欲せば、神に趨りて彼の能力を恃め。預言者が吾人の時としては遁走りて征服されしことを言ひ顕し、又時としては神の鞏固なること、吾人を扞禦ることとを示して『神は我等の避所なり、能力なり』と云へるや宜し。実に自他共に之を為さんことを要す、即ち時としては近づくべく、又時としては遠ざかるべきなり。然ればパウェルも眞理の言に反抗する者に対しては、時としては遠ざかり、又時としては之に対して起てり。ハリストスも亦斯く行ひて吾人を教へたり。吾人も斯く行はざるべからず、即ち時の事情を注意観察して祈願せざるべからず、是れ福音に言へるが如く、誘惑に陥らざるが為、又誘惑の吾人に及びたる時は、小胆ならず、凛然として起たん為なり。『患難の時には速なる佑助なり』。我は屡々前に述べたるが如く、今も亦云はん、何となれば神は患難の吾人に及ぶことを妨げざるも、其患難の至る時は、斯くして利益と経験とを吾人に得しめつゝ吾人に助くればなり。実に神の助くるは辛うじてにあらず、己が豊富なる佑助を以て患難の中に大なる慰藉を與ふるなり。神は吾人に患難の性質によりて要するが如き佑助にはあらで、乃ち患難よりも遙かに大なる佑助を與ふ。『故に地は動くとも、我等懼れざらん』。爾は神が如何に大なる佑助を與へ、又如何に豊富に與ふるを見るか。彼は、吾人は征服せられざらん、仆れざらんと云はざりき、乃ち総じて、人生に固有なることをも受けざるを顕しつゝ『懼れざらん』と云へり。是れ何故なるか。神の佑助の無量なるに由る。爰に預言者が地といひ、山といひ、又海の心と云ふは、自然物を指すにあらず、此等の名称の下に堪ふべからざる危険を意味するなり。言ふ意は、縦ひ吾人は万物を以て破壊する所のものと見るとも、堪へられざる混乱を見るとも、未だ嘗て在らざりし事に遭遇すとも、云はば、万有の互に相反くとも、山の移るとも、万物は其根底に於て動きて混乱すとも、如何程大なる混乱の生ずとも、斯る時に於ても吾人は打勝れざるのみならず、乃ち『懼れざらん』。而して此万有の主宰が吾人を助け、手を指し伸べて助くることは、吾人の懼れざる原因たるなり。吾人若し斯る場合に於て懼れずして大胆なる時は、敵の吾人を攻撃するありとも、反対者の吾人に対して武器を備ふるとも毫も懼れざらん。『其水は號り激くべし、其濤たつに依りて山は震ふべし』〔四節〕。預言者は万物混乱すとも吾人は懼れざらんと言ひて、次に神の能力に就きて、其能力は勝れずと云ふ。故に彼の『懼れざらん』と云へるや正し、而して常にありしが如く、今も或は萬有に於て、或は人々の間に生ずる事件に於て神の能力を示すなり。此言の意味は左の如し、即ち神は己の能力によりて万物を揺㨔震動し、之を変易す、神の為には万事は意の儘にして且つ容易なり。我は預言者が爰に諸敵の中にて最も巧妙なる勇ましき人々の群、無数なる多くの反対者を理解すと思ふなり。然れども彼謂らく、神の能力は其一手号により万事成全せらるるが如きものなりと。吾人は斯る主宰を有ちながら如何にして懼るるか。『河の流は神の邑、至上者の聖なる住所を楽ましむ』〔五節〕。『神は其中に在り、其れ撼かざらん、神は早朝より之を佑けん』〔六節〕。預言者は神の全能及び能力に就きて、神の為には万事容易なることを述べ、簡短なる言を以てイウデヤ人等に顕されたる仁慈を画きつゝ、神のイウデヤ人を照管することに移れり。斯くの如く強く、斯くの如く全能に、斯くの如く畏るべき所の者、万有を維持し、之を保全し、万物を揺㨔震動し、萬物を転覆し、之を変改する所の彼は、無数の善を以て吾人の市邑に充満せり。『河』は爰に高尚なる善の豊富潤沢にして、滔々と流出づることを意味す。預言者は恰も左の如く云ふが如し、水の源泉より流出づるが如く、凡ての幸福は吾人に注がるるなりと。河は多くの支流に分れて其流域を湿潤すが如く、神の照管も亦豊かに流出して萬事に進達し、之を充満しつゝ諸方より吾人を潤沢すなり。神の照管は吾人に安全及び勝たれざる佑助を與ふるのみならず、心霊上の喜をも得しむ。是に由りて預言者は『至上者の聖なる住所を楽ましむ』と云ふ。而して此場所を己の住所と名づくる所の其仁慈も亦少々たらざるなり。
二。 彼が『至上者』と云へるや空しからず。如何なる場所にても包容すること能はず、言ふべからざる程高き者は、吾人の市邑を己の住居と名づけ、諸方より之を守護す。『其中にあり』てふ言の意味は、彼が他の個所に於ても『視よ、我爾等に在り』〔マトフェイ福音二十八の二十〕と云へると同一なり。神は諸方より市邑を包容するが故に、市邑は毫も患難を受けざるのみならず、又毫も『撼かざらん』。而して市邑が常に最も速なる佑助を受くることは、其撼かざるの原因たり、即ち此『早朝』なる言は、猶豫せざる佑助、乃ち常に準備したる時及び適当なる時に於て速に助くる所の佑助を意味するなり。『諸民は騒ぎ』。他の訳者は『諸民は集れり』〔アキラ〕となす。『諸国は撼けり、至上者一たび己の聲を出せば地は融けたり』〔七節〕。爰に預言者は神の佑助と能力とを画けり。言ふ意は、些細なる危険にあらず、乃ち王及び諸民が諸方より攻撃して、吾人の一市を包囲みたる時、彼は啻に彼等より毫も患難を受けざるのみならず、攻撃者に打ち勝ちて之を散らせりとなり。『諸国は撼けり、至上者一たび己の聲を出せば』てふ表言は、恰も只一聲をもて諸市を征服したるが如きを意味するなり。此表言は感覚的なり、人事的なり、神は声と叫とを以てのみならず、一の手号及び同意をもて打勝つことを得れども、爰に聴衆を感覚的見解以上に高めんことを望みつゝ、以前の表言よりも高尚なる表言を用ひしなり。彼は神を常に武装さるる者と想像し、及び此等のことが寓意的に、具体的に、及び吾人に適合したる意味に於て述べられしことを示さんと欲しつゝ――爾等の知れるが如く、神は斯る何事にも必要を有せざるなり――彼は今啻に市邑と諸民および住所のみならず、神は其実質をも㨔かすことを表言しつゝ。『一たび己の聲を出せば地は融けたり』と附加へぬ。然れど聖書は数々人々をも『地』と名づく、例令ば『全地は一の言語のみなりき』〔創世記十一の一〕とあるが如き是なり。『萬軍の主は我等と偕にす、イアコフの神は我等を護る者なり』〔八節〕。エウレイ(ヘブライ)語に於ては『万軍』の代りに『サワオフ』とあり。視よ、如何に預言者が己の言を、地より天に、天使の無数の集会、天使長の集合、即ち至高の万軍に向くるかを。彼謂らく、軍隊・諸敵・征服せらるる人々に於て何事を吾人に示すかと。天国に於ける神の能力を想像せよ、即ち神は見えざる万軍の幾何を己の権内に有するかを想像すべし。預言者は他の個所に於て『能力を具へ、其言を行ふ者よ』〔聖詠百二の二十(詩篇百三の二十)〕と云へる如く、天使の権力を示しつゝ彼等を『万軍』と名づけたるや宜し。然れば嘗て一天使降りて十八万人を殺せり〔第四列王記略十九の三十五(列王記下十九の三十五)〕。神若し而く強からば、佑助の手を吾人の上に伸すことを欲せざらんや。彼は之を危ぶむ勿れと言ひ、是に由りて『我等を護る者なり』と附加ふ。神は之を能くし、又欲し給へば懼るる勿れ。然れど吾人若し不当ならば如何にせん。然れども神は吾人の列祖に対して仁慈なりき。是故に『イアコフの神』と附加へて左の如く云ふが如し、神は常に昔より、即ち始めより斯く行ふと。『来りて主の為しゝ事、其地に行ひし掃滅(一本には奇蹟とあり)を視よ。彼は地の極にまで戦を息めて、弓を折り、矛を折き、火を以て兵車を焚けり』〔九節十節〕。他の訳者は『火を以て盾を焚けり』となす。預言者は地と海と山及び霊的守護と彼等の顕し給へる佑助とに就きて言ひつゝ、其大なる喜と主に対する己の愛とによりて、此等の戦利品を示し、又神が彼等の為に保ちし所の勝利を報じつゝ、復び説話を観覧者に向く。預言者が『奇蹟』と言ひて勝利及び戦利品と言はざりしや善し。実に此時の事件は事物の普通の順序によりて生じたるにあらず、勝利を得たるにあらず、勝利を得たるは武器及び肉体の力によらず、乃ち神の手号に由りてなり、而して其事跡も主自ら彼等の先導者たりしことを示すなり。弱き者は強き者を、小数の者は多数の者を、窘迫せらるる者は窘迫する者を征服したり、而して此等のことの意外に行はれたるが故に、彼は奇異にして遭遇したること、及び全地に延蔓したる此事を正しく奇蹟と名づけたるなり。
三。 之を寓意的意味に於て現在に応用する者も誤らざりしならん。ハリストスは悪鬼との残酷なる戦争を鎮定して、平和を全世界に擴めたり。イサイヤは此事を画きつゝ『斯くて彼等は其剣をうちかへて鋤となし、その槍をうちかへて鎌となし、国は国に対ひて剣をあげず、戦闘のことを再び学ばざるべし』と言へり。ハリストスの降らざりし以前に於ては、人々皆武装し、何人も此業務を免れざりき、市は市と戦ひ、到処に戦闘の騒擾聞えき、然るに今や世界人類の大部分は平和の中にあり、衆人は安全にして職業を営み、地を耕し、海を航し、唯其小数の人々は他の凡ての者を保護するが為に軍職を帯ぶるのみ。而して吾人もし将に為すべきことをなし、罰を以て記憶の中に不要ならしめば軍人を要せざりしならん。預言者爰に神の怒を『火』と名づけ、又彼等が大勝利を得て己の武器と兵車とを焚き、イエゼキイリの告げしが如く応じたることを云ふなり〔イエゼキイリ書三十九の十〕。此事実は知識を得ることを好む者に著し。『爾等止まりて我の神なるを識れ、我諸民の中に崇められ、地上に崇められん』〔十一節〕。思ふに、是れ預言者は爰に異邦人に報ぐるものにして、恰も左の如く言ふが如し、主の能力と其全世界に顕しゝ権力とを識れ、唯爾等は之が為に平安なる者とならざるべからず、強壮なる霊を有せざるべからずと。『止まりて』てふ言は、爾等が奇蹟に導かれ、平安なる心を有しつゝ、衆人の主宰を認識せんが為に迷謬を棄て、生活の以前の状態より遠ざかり、吾人を囲繞める悪行の暗黒を脱すべしとなり。之が為には唯奇蹟を知るのみにては足らず、乃ち感謝の心をも有せざるべからず。イウデヤ人にも亦奇蹟ありき、而も其奇蹟は毫も彼等の救贖に益する所なかりき。見るが為には太陽の光線のみにては足らず、乃ち強壮にして清らかなる目を要するが如く、爰にも亦一の奇蹟のみにては足らざるなり。視よ、何によりて預言者は奇蹟より益を得んと欲する者に奇蹟のことを述べて、彼等を囲繞める悪を脱却せんことを勧むるを、是れ衆人をして神を識らしめん為なり。『止りて我の神』にして偶像にあらず、彫像にあらざるを『識れ』止まれ、我(神)亦爾等に多くの證據を示さん。『我諸民の中に崇められ、地上に崇められん』てふ言は之を示すなり、即ち我は行為を以て爾等に大なる者、且つ高き者と顕されんの意なり。神の本体は朽ちざるもの、且つ得も云はれざるものにして、自ら高し、然れども爾等は之を見ざるが故に、我は啻にパレスティナ及びイエルサリムに於てのみならず、爾等――異教人の間にも行為を以て之を爾等に示さん。然れば神はワウィロンに於ても、エギペトに於ても、曠野に於ても、全世界に於ても勝利を得、奇蹟を行ひつゝ讃揚せらる、是れ彼等をして到処に神を識ることを得しめん為なり。『萬軍の主は我等と偕にす、イアコフの神は我等を護る者なり』〔十二節〕。此何処に於ても大なる神、何処に於ても高き神は、常に我等と偕に在すなり。然れば斯る勝たれぬ主を有しつゝ、恐れ乱るゝ勿れ、願くは悉くの尊貴光栄は、今も何時も世々に、彼と始なきの父と生命を施す彼の神とに帰せん。アミン。
第四十五聖詠
1 伶長に「アラモフ」の楽器を以て歌はしむ。コレイの諸子の歌。
2 神は我等の避所なり、能力なり、患難の時には速なる佑助なり、
3 故に地は動き、山は海の心に移るとも、我等懼れざらん。
4 其水は號り激くべし、其濤たつに依りて山は震ふべし。
5 河の流は神の邑、至上者の聖なる住所を楽ましむ。
6 神は其中に在り、其れ撼かざらん、神は早朝より之を佑けん。
7 諸民は騒ぎ、諸国は撼けり。至上者一たび聲を出せば地は融けたり。
8 萬軍の主は我等と偕にす、イアコフの神は我等を護る者なり。
9 来りて主の爲しし事、其の地に行ひし掃滅を視よ、
10 彼は地の極まで戦を息めて、弓を折り、矛を折き、火を以て兵車を焚けり。
11 爾等止りて、我の神なるを識れ、我諸民の中に崇められ、地上に崇められん。
12 萬軍の主は我等と偕にす、イアコフの神は我等を護る者なり。
光榮讃詞