御役人
十人御目附 三枝帯刀様 御勘定組頭吟味 小野左太夫様
書留役 向山源太夫様 倉橋与四郎様
御勘定 宮川小十郎様 富見源三郎様 渡辺伊兵衛様
御徒目附 豊田藤五郎様 清水又八様
普請方 中村丈右衛門様 菊池惣内様 保田定一郎様 仁木郷助様
御小人目附 清水又市様 平野作十郎様 内山弥八様 松川小八様 平野西右衛門様 小倉勇蔵様
西御町御奉行 奥津能登守様
西御組与力 田坂直右衛門様 吉田勝右衛門様 安井新十郎様
覚
一、金何程 何屋誰
【 NDLJP:66】一、金何程 何屋誰
米相場之儀に付、其方共右御用金被㆓仰付㆒候旨、三枝帯刀、小野左太夫を以、御城代松平周防守殿へ、江戸表ゟ被㆓仰越㆒候。依㆑之此段可㆓申渡㆒旨、周防守殿被㆓仰聞㆒候。何れ共身分に応じ御用被㆓仰付㆒候儀、誠以冥加之至に候条、難㆑有奉㆑畏、御請印形仕、来る午正月十日切に、我等役宅へ可㆓持参仕㆒候。
巳十二月十六日
但半金当十二月廿六日納。今天保八酉迄七十七年に成也。
一、金五万両宛
今橋二丁目鴻池屋善右衛門 和泉町鴻池屋松之助 今橋壱丁目平野屋五兵衛 高麗橋一丁目三井八郎右衛門 玉水町加島屋喜斎 改久右衛門 瓦町一丁目鉄屋庄左衛門 内両替町布屋十三郎 新難波西之町倉野治郎左衛門 高麗橋三丁目油屋彦三郎 吉野屋町辰巳屋久左衛門 〆拾人
一、金二万五千両宛
今橋一丁目鴻池屋善八 江戸堀五丁目大庭屋治郎右衛門 上人町粋屋久右衛門 道修町一丁目川崎屋源兵衛 高麗橋一丁目袴屋弥右衛門 立売堀四丁目近江屋休兵衛 吉野屋町川崎屋四郎兵衛 大川町加島屋作兵衛 平野町二丁目泉屋新右衛門 今橋一丁目堺屋佐右衛門 伏見町加賀屋与兵衛 〆拾壱人
一、金一万五千両宛
高麗橋一丁目升屋九右衛門 高麗橋二丁目伊豆蔵五郎兵衛 播磨屋作兵衛 道修町一丁目袴屋仁兵衛 豊後町泉屋利兵衛 道頓堀大和屋治兵衛 高麗橋二丁目富山伊右衛門 海部堀中屋八兵衛 玉水町島屋市兵衛 道修町一丁目加賀屋与左衛門 備後町二丁目油屋治兵衛 〆拾壱人
一、金一万両宛
道修町一丁目小西吉右衛門 百間堀志布子屋与二郎 北浜二丁目塩屋孫左衛門 〆三人。
一、金五千両宛
安養�町一丁目大和屋利兵衛 島町長浜屋源左衛門 今橋一丁目日野屋九兵衛 同町天王寺屋五兵衛 今橋二丁目天王寺屋久右衛門 平野町二丁目終屋善左衛門 内平野町日野屋茂兵衛 同町日野屋甚右衛門 内平野町河内屋七兵衛 吉野屋町木津屋喜太郎 富田屋町平野屋又兵衛 船町助松屋忠兵衛 淡路町二丁目錫屋五兵衛 本町二丁目衣屋五兵衛 百間堀米屋長右衛門 小谷町吉野屋五兵衛
【 NDLJP:67】道修町一丁目鑰屋茂兵衛 同町内田屋惣兵衛 同町二丁目泉屋助右衛門 塩町銭屋太兵衛 内本町海部屋仁兵衛 立売堀南側四丁目西之町飛騨屋伊兵衛 堂島升屋平右衛門 同奈良屋茂右衛門 梶木町播磨屋九郎兵衛 白子町岩井屋仁兵衛 木挽町松屋清兵衛 同町松原屋源右衛門 新天満町吹田屋六兵衛 新靱天満屋市郎右衛門 百間堀錺屋六兵衛 鰹座大和屋彦三郎 九郎右衛門町北村六右衛門 尼崎町二丁目鴻池屋又四郎 内請路町和泉屋新助 四軒町平野屋仁兵衛 長堀東浜泉屋吉右衛門 〆三十七人。
覚
一、金何程 何屋誰
今度米相場之儀に付、御用之品有㆑之候間、書面之金高可㆓差出㆒候。日限之儀者、廿八日限に半金、残り金来る午正月十五日限に候。尤金銀之内にて可㆓差出㆒候。何れ共自分に応じ御用被㆓仰付㆒候儀、誠に以て冥加之至、難㆑有可㆑存候。以上。
十二月廿三日
一、金二万両
尼崎町二丁目鎰屋半右衛門
一、金一万五千両宛
釜屋町金屋庄助 今橋一丁目堺屋七左衛門 白髪町高津屋惣太郎 〆三人。
一、金五千両宛
新天満町鷲屋与七郎 京橋三丁目沢田屋太兵衛 北勘四郎町亀屋武兵衛 上中之島町長浜屋新六 尼崎町一丁目河内屋勘四郎 今橋二丁目紙屋治兵衛 尼崎町一丁目天王寺屋か� 新淡路町助松屋平蔵 北浜一丁目嶋屋市右衛門 平野町一丁目源江屋勘兵衛 同町小西長左衛門 南渡辺町河内屋又兵衛 近江町長浜屋治右衛門 高麗橋三丁目苧屋喜兵衛 道修町一丁目袴屋善兵衛 出口町岩田屋喜兵衛 堂島�町塩屋茂兵衛 北浜二丁目塩屋庄二郎 長堀十丁目板屋孫三郎 四軒町平野屋嘉右衛門 上人町天王寺屋忠兵衛 肥後島町山家屋権兵衛 順慶町一丁目金屋徳兵衛 播磨町鉄屋新六 吉野屋町川崎屋武兵衛 炭屋町高松屋惣右衛門 〆二十六人。
油町二丁目若林清九郎 淡路町一丁目伏見屋吉右衛門 北浜二丁目紅粉屋長兵衛 新靱町一物仁右衛門 北浜一丁目近江屋藤八 平野町二丁目海部屋善治 同町茨木屋安右衛門 長浜町樫木屋半右衛門 新靱古座屋次郎右衛門 相生西之町山城屋長兵衛 淡路町一丁目河内屋仁左衛門 北浜一丁目富田屋四郎五郎 梶木町千草屋惣十郎 高麗橋三丁目海部屋清三郎 道修町三丁目辰巳屋善右衛門 瓦町一丁目太刀屋庄兵衛 瓦町一丁目近江屋仁右衛門 同町近江屋八左衛門 瓦町二丁目近江屋与兵衛 油掛町虎屋喜兵衛 岡崎町泉屋源太郎 本天満町森本屋吉右衛門 呉服町升屋長右衛門 淡路町一丁目酢屋治右衛門 平野町一丁目河内屋茂兵衛 斎藤町米屋佐兵衛 今橋一丁目紙屋吉右衛門 島町二丁目播磨屋五兵衛 宗是町河内屋善六 淡路町二丁目大和屋加右衛門 通書町天王寺屋杢兵衛 今橋一丁目平野屋又右衛門 高麗橋三丁目油屋四郎兵衛 上人町油屋治兵衛 同町油屋善兵衛 通書町升屋治兵衛 尼崎町二丁目助松屋新二郎 同町肥前屋半兵衛 伏見町加賀屋七郎兵衛 備後町一丁目鉛屋吉左衛門 淡路町二丁目伊勢屋兵右衛門 同町一丁目小西角兵衛 道修町二丁目近江屋太右衛門 同町近江屋喜兵衛 梶木町天王寺屋伊右衛門 同町尼崎屋市右衛門 道修町一丁目奈良屋藤兵衛 内平野町小山屋吉兵衛 平野町一丁目加賀屋三郎兵衛 京橋四丁目伊勢屋久兵衛 内両替町布屋六郎兵衛 安土町二丁目布屋三右衛門 江戸堀三丁目伝法屋五左衛門 松本町山口屋伊兵衛 塩町四丁目山口屋庄兵衛 高麗橋三丁目苧屋佐兵衛 道仁町綿屋吉兵衛 石灰町松屋利兵衛 塩町四丁目小橋屋四郎兵衛 唐物町一丁目河内屋久左衛門 北久太郎町三丁目奈良屋忠兵衛 白髪町平野屋平左衛門 同町平野屋市兵衛 中津町平野屋吉兵衛 塩町二丁目銭屋弥三右衛門 禰宜町平野屋三右衛門 本町二丁目布屋嘉兵衛 順慶町四丁目山城屋三郎兵衛 同町亀屋仁兵衛 中筋町阿波屋吉兵衛 南瓦町二丁目河内屋吉右衛門 高津町綿屋伊兵衛 新難波東之町辰巳屋仁兵衛 同町辰巳屋喜兵衛 釜屋町釜屋庄助 茂左衛門町和泉屋利助 堂島三丁目近江屋助左衛門 同町升屋茂兵衛 堂島五丁目吉文字屋利衛門 船大工町伏見屋三右衛門 樋上町俵屋吉兵衛 天満船大工町堺屋利兵衛 樋上町鳥羽屋三郎兵衛 船大工町大塚屋市郎兵衛 天満九丁目蓮屋善右衛門 天満西樽屋町丸屋市兵衛 又治郎町綿屋三右衛門 長栖町文字屋文四郎
右之内三十人は御帰し被㆑遊候。〆五十八人。
覚
一、金何程 何屋誰
【 NDLJP:69】今度米相場之儀に付、御用之品有㆑之候間、書面之金高可㆓差出㆒候。日限之儀は、来る十六日限り、半金残り金来る廿九日限りに候。尤金銀之内にて可㆓差出㆒候。何れ共身分に応じ御用被㆓仰付㆒候儀、誠以て冥加之至、難㆑有可㆑存候。以上。
午正月四日
一、金五万両
内平野町米屋平右衛門
一、金一万両
瓦町一丁目炭屋五郎兵衛
一、金五千両宛
平野町二丁目和泉屋治郎衛門 塩町四丁目小橋屋利兵衛 備後町浜油屋新助 幸町一丁目津国屋九兵衛 鳥羽屋三郎兵衛樋上町 和泉屋甚吉 〆六人。
午正月五日被㆓仰付㆒候御書付、昨四日之通之日限。
一、金三千両宛
備後町一丁目鉄屋重右衛門 白子町綿屋武兵衛 塩屋平四郎 堺屋とよ 川崎屋仙蔵 北浜二丁目肥前屋又兵衛 船町泉屋長右衛門 斎藤町絹屋利右衛門 瓦町二丁目川崎屋八兵衛 南堀江阿波屋佐右衛門 梶木町松島屋安右衛門 大和屋宇之吉 北小幡町尼屋四郎右衛門 玉水町加島屋十郎兵衛 安土町一丁目炭屋安兵衛 備後町二丁目銭屋権兵衛 瓦町二丁目伊勢屋平兵衛 平野町二丁目海部屋善治 北久太郎町二丁目利倉屋与兵衛 百間町油屋吉兵衛 藤右衛門町播磨屋五兵衛 南本町二丁目高三喜兵衛 釜屋町大坂屋又二郎 本町二丁目奈良屋惣右衛門 鮫谷二丁目橘屋九郎兵衛 北久太郎町近江屋半兵衛 塩町三丁目八幡屋治郎兵衛 炭屋町川崎屋吉郎兵衛 南久太郎町三丁目菱屋宇右衛門 唐物町三丁目上半山本屋源右衛門 徳寿町金屋嘉兵衛 山本町河内屋源左衛門 西高津町毛綿屋源左衛門 同町毛綿屋四郎兵衛 本町二丁目奈良屋太郎兵衛 天神筋町綿屋甚兵衛 弥左衛門町安田屋半三郎 北富田町加島屋清三郎 天満九丁目蓮屋善右衛門 藤屋六郎兵衛 堂島中三丁目今津屋貞印 旅籠町綿屋幸七 小森町大和屋藤四郎 瓦町二丁目川崎屋三右衛門 〆四十四人
〆百七十四万六千両
一札
一、此度就㆓米相場之儀㆒、出銀被㆓仰付㆒、難㆑有奉㆑存候。私儀御大名様方仕送り仕罷在候に付、右出銀被㆓仰付㆒候を申立、為替金並御仕送り金等、相滞らせ申間敷旨、被㆓仰渡㆒、奉㆑畏候。御屋敷方は不㆑及㆓申上㆒、町方金銀取引通用不㆑滞様に可㆑仕候。此段心得違為㆑無㆑之被㆓仰渡㆒、奉㆑畏候。御請証文仍而如㆑件。
月 日 町人名判
御口上にて被㆓仰渡㆒候は、
此度御用金被㆓仰付㆒候に付、【三千両出金の能力なきものには用金を仰附ず】小身上之者へも可㆑被㆓仰付㆒哉と存、金銀を不通用に致候相聞え候。右御用金は、三千両以上不㆓出兼㆒者へ被㆓仰付㆒候儀にて、三千両以下之小身上之者へは不㆑被㆓仰付㆒事に候間、小身上之者共、安堵致、金銀不通用不㆑仕様、末々迄とくと可㆓申渡㆒旨、被㆓仰渡㆒候事。
午正月
於㆓南組総会㆒、御年寄中御口上にて、右之通被㆓仰渡㆒候。
此度御用金被㆓仰付㆒候儀、三千両以下之者へは不㆑被㆓仰付㆒候間、金銀引取通用不㆓相滞㆒様に可㆑仕旨、先達て被㆓仰渡㆒候処、御用金被㆓仰付㆒候哉と存、金銀取引・為替等不通用に仕、並先達而御用金被㆓仰付㆒候町人も、早速皆納仕候はゞ、又々御用金被㆓仰付㆒候哉と存、相延候趣、被㆑達㆓御聞㆒候。右御用金之儀は、右之外は最早不㆑被㆓仰付㆒候間、町人貯居候金銀取引・為替等通用不㆓相滞㆒様可㆑仕旨、並先達御用金被㆓仰付㆒候町人は、当月中に随分出精仕、早々皆納仕、猶又取引・為替等通用相調候趣、書付を以追々申上候処、正月十六日右之金子致㆓持参㆒候。被㆓仰付㆒船場町之内にて、二十四町御呼出、一町に金二千六十両づつ御貸渡被㆓仰付㆒候。夫れより追ひ〳〵右之通りに、出金を町々へ貸付被㆓仰付㆒。乍㆑併後々程金高減少被㆑遊候。三郷町中所々へ御貸付付〈[#底本では直前に返り点「一」あり]〉候。御買米被㆑〈[#底本では直前の返り点「レ」は返り点「二」]〉仰猶ほ右之町々之内、二度御貸付出候ところも有㆑之、右証文一札左のご【 NDLJP:71】とし。
差上申一札之事
一、私共町々へ、【金子を町町に融通して買米を仰付く】金千三百七十四両宛御渡被㆑下候間、何づく米にても、去年米の切手買入可㆑申候。尤も切手は五斗入・四斗入・三斗入と蔵々により、俵数不同有㆑之候間、四斗入は二百五十俵にて百石、三斗入は三百俵にて百石と相心得、何町誰方ゟ、何国米何石、代銀一石に付何程之切手、何枚買入候段、年寄連判之書付を以て、早々御届可㆓申上㆒は、以㆓切手㆒本紙に写、可㆓差上㆒旨被㆑仰、奉㆑畏候。
右之外に金六百八十六両宛御貸渡被㆑成候間、拝借金と名目を付、何れ成共借渡可㆑申候。先は借渡利銀之儀は、一少半迄は相対次第借付申べく旨、被㆓仰渡㆒、難㆑有、是又奉㆑畏候。御請証文仍而如㆑件。
宝暦十二壬午正月 何町町人代両人印
同町年寄誰印
覚
一、金千三百七十四両
○代銀八十二貫四百四十目。能登様御押切御印。
右は米相場之儀に付、其元ゟ出金之内、為㆓買米代㆒、書面之金高、於㆓御奉行所㆒、町内へ借用被㆓仰付㆒、難㆑有請取申処実正也。追而御奉行所ゟ被㆓仰渡㆒次第、返済可㆑申候。利分之儀は、銀一貫目に付一ケ月に一朱宛之積、毎年七月・十二月両度無㆓遅滞㆒相渡可㆑申候。為㆓後証㆒仍而如㆑件。
年号月日 如㆑前連印
何屋誰殿何屋誰殿 総年寄 六人連判
覚
一金六百八十六両
【 NDLJP:72】 此銀四十一貫百六十目。如前印。
右は米相場之儀に付、其元ゟ出金高之内、書面之金高於㆓御奉行所㆒、町内へ借用被㆓仰付㆒、難㆑有請取申処実正也。追而御奉行所ゟ被㆓仰渡㆒次第、返済可㆑申候。利銀之儀は、銀一貫目に付一ケ月一朱づつ之積に、毎年七月・十二月両度に無㆓遅滞㆒相渡可㆑申候。為㆓後証㆒仍而如㆑件。
年号月日 如㆑前連印
何屋誰殿
一、此度私共町内へ金子何程御渡被㆑下買米被㆓仰付㆒候故、何国米何石、代銀一石に付何程にて買入申候御事。
一、右米切手何枚御封印にて御渡被㆑成、奉㆓預置㆒候。乍㆑去銀子為㆓返用㆒、右切手質物差入候儀は、勝手次第に候間、質入に仕候はゞ、何町誰方へ質物に差入置候段御届可㆓申上㆒旨、並右米他国へ相払候儀、是又勝手次第に候間、左候はゞ、何国へ売払候筈に候条、米蔵出之仕度趣御届可㆓申上㆒旨、早速切手之封印御切可㆑被㆑下候旨、勿論出精仕、早く致㆓蔵出㆒売払候はゞ、為㆓御褒美㆒御貸金之方は其儘に御借居に被㆓仰付置㆒、追而金主へ相戻候節は、前
一、他国へ不㆓相払㆒米之分は、追て御沙汰有㆑之候迄、何ケ年も囲米に被㆓仰付㆒候間、ふけ搗之厭は、私共手当可㆑仕儀に付、追て新米に買替、可㆑然時節は、申出御指図を請可㆑申候。万一買替之時節に、若損銀有㆑之候共、其損失高は、御借付之別分を以相償候様に、心得可㆑申候。
右之通被㆓仰渡㆒候上は、買替之時節後れ致㆓損銀㆒候共、其段不㆑及㆓御沙汰㆒、一町にて償可㆑申候旨、将又売出し銀有㆑之分は、其町々之徳分に被㆓仰付㆒候旨、右之心得を以随分出精可㆑仕候。尤他国へ遣し売払候共、右同様に相心得可㆑申候。
一、米蔵出致候はゞ、蔵屋敷之切手持参仕候節、御奉行様より被㆓仰渡㆒候員米切手之【 NDLJP:73】由、可㆓相断㆒候。都て買米切手之儀は、米蔵出仕候上、蔵屋敷ゟ御奉行所へ差出候
様に、名代蔵元へ被㆓仰付置㆒候趣、此段被㆓仰聞㆒候由、
一、御貸渡金之儀は、先達て被㆓仰渡㆒候通、拝借金と名目を付、先々利銀之儀は、一歩半迄に、相対次第貸付可㆑申候。右は金子に致㆓附金㆒、拝借金と申なし、借渡候儀、決て仕間敷候。若右体之儀有㆑之於㆓相顕㆒は、急度御咎可㆑被㆓仰付㆒旨。
一、買米代、並御貸附金共に、銀一貫目に付、一ケ月一朱づつ之利銀、毎年七月・十二月両度に御取立、於㆓御奉行所㆒、直に金主へ御渡させ可㆑被㆑成旨。右之段被㆓仰渡㆒候趣、逸々承知仕、難㆑有奉㆑畏、御請証文仍而如㆑件。
年号月日 何町十人総代 何屋誰
何屋誰
同町年寄 何屋誰
右被㆓仰渡㆒候趣、私共奉㆓承知㆒、依㆑之奥印仕候。以上。
三郷総年寄
天今井与三右衛門 天中村左近右衛門 南渡辺又兵衛 南野里屋四郎左衛門 北永瀬七郎右衛門 北江川庄左衛門
御奉行所
二月十一日、【買米の蔵出し】御買米致候町々年寄・町人御召被㆑成、被㆓仰渡㆒候は、御買米早々蔵出致可㆑申候。尤蔵之儀は、町内にても、何方にても、勝手次第可㆑致候、蔵出致候はゞ、右之趣致㆓案内㆒、切手封印御切可㆑被㆑下候。其上詰替申候はゞ、此方より俵数見分に遣し、封印可㆑致由被㆓仰渡㆒候。
右之通に被㆓仰付㆒候に付、追々蔵出所々に借蔵致、詰かへ申候。然る処諸方借り蔵蔵屋敷高直に相成候に付、此度町々買米此節蔵出仕候に付、貸し蔵之分、敷銀格別高直に貸付候段。達㆓御聞㆒、不埒に不㆓思召㆒候。縦是迄相対を以貸付置候共、過分之蔵敷に候分、常体之通に引下げ候様に可㆑仕旨被㆓仰渡㆒、奉㆑畏候。此段町人共一統奉㆓承知㆒候。敷銀過分貸付候儀仕間敷候。
【 NDLJP:74】 二月廿一日
二月廿八日夜に入、御用金被㆓仰付㆒候町人共へ、於㆓総年寄㆒被㆓仰渡㆒候は、先達而御用金被㆓仰付㆒、追々致㆓出銀㆒候分、段々貸付被㆓仰付㆒相済申候。此上当分御用も無㆓御座㆒候に付、跡金勝手次第に可㆑仕由、猶又重而御用之儀有㆑之候はゞ、前広に可㆑被㆑仰由。江戸御役人様巳十二月三日大坂御著。
午三月七日御用相済、大坂御発駕、江戸へ御帰り。
原田清右衛門 御代官所
上州群馬郡
高六百石余 川島村〈江戸ゟ三十一里〉
高八百石余 北牧村〈江戸ゟ三十七里〉右二ケ村同国吾妻川通に有㆑之。去八日四つ時山津浪、溏岩・火石等夥敷押出し、川島村木工橋御関所、北牧村家居・田畑不㆑残流失仕。尤山手に少々家居相残候迄にて、流人数相知不㆑申、存命之者有㆑之間敷と推察仕候計にて、万一農業罷出候哉、又者馬草刈罷出候者は相残り可㆑申哉、相知不㆑申。縦相残罷有候とても、当時渇命及可㆑申候外無㆑之候旨、注進申出候。
七月
【 NDLJP:75】天明三年浅間の噴火一、中仙道軽井沢・沓懸・追分・板鼻、右四ケ所之儀者、【浅間山噴火】浅間山大焼震動雷電仕、当月七日夜ゟ大石並砂、凡一尺一寸程降積り候由、軽井沢之者之儀者、同日夜ゟ焼石砂降り懸り、家居燃上り、一宿不㆑残焼失仕候由、尤怪我人・死人等之儀難㆑計御座候由、委細之儀者猶又相糺可㆓申聞㆒旨、遠藤兵右衛門相届候間申上候。已上。
七月十二日
一、中仙道信州軽井沢宿、【軽井沢の被害】浅間山麓に御座候。去月廿九日、浅間山大焼にて震動雷電夥敷家居鳴渡り、百姓共追々立退候処、当月七日四つ頃ゟ土石夥敷降り懸り、年寄又八と申者之屋根へ、右之石と火玉落懸り即時焼上り、夫ゟ四五ケ所程一円に燃え上り、一宿不㆑残焼候趣に御座候。名主六右衛門と申者父子、水帳其外御用書物等取出度、命限り相働き外とへ取出候処、かむり候竹笠・蓙両度右土石落懸り打倒れ申候。漸く起上り逃去候由、六右衛門娘・妹・下女両人、何方へ参候哉、夜中之儀故不㆓相知㆒候。定而石に打れ相果候かと之儀に存候と、六右衛門申候。其外怪我人・死去人之程難㆑計御座候。
一、信州沓掛之宿者、【沓掛の被害】追分宿浅間山麓にて、前書之通軽井沢宿同様の大変に相聞候得共、宿中不㆑残何方へ逃去候哉、彼地陣屋へ一向否不㆓申出㆒候。様子相知不㆑申候由、手代共罷越見分等仕候儀も不㆓相成㆒候。
一、上州板鼻宿ゟ訴出候者、【上州板鼻宿の被害】五月廿八日・六月廿八日・当月五日、浅間山焼、吹㆓出灰・石子㆒霜程降り候処、当月六日暮六つ時ゟ八日未之刻迄、昼夜共震動雷電仕、無㆓絶間㆒石砂降申候。午之刻ゟ申の刻迄二時半程、闇夜之如く灯灯を灯して用事致申候。凡石砂深さ一尺一寸程降り積り、溜り一尺四五寸有㆑之候。駅家之分は御伝馬役相勤候者二分、其外裏屋小家数多押れ候旨訴出申候。畑作物は不㆑及㆑申青葉無㆑之、差当り馬の飼料無㆑之難儀仕候と訴出申候。
中仙道信州・上州四ケ宿、此度浅間山石砂ふり、就中信州三宿之儀者退転同前に相成候趣に御座候得共、今以焼静不㆑申、彼地に罷越候手代共、見分に罷越候儀も相成不㆑申間、追々委細之儀は追而可㆓申上㆒候得共、先右之段御届申上候。巳上。
【 NDLJP:76】 右御代官遠藤兵右衛門様ゟ御用番様へ御届之写也。
右、天明三癸卯年の大変なり。此節の有様之を譬ふるに物なく、別して吾妻川には崩れたる泥土の中に、人馬・鳥獣の別ちなく、家と共に山津浪に押流され、泥中の中に火燃えつゝ、人畜の別ちなく、泣叫びて流れ行く様哀にも恐しく、之を助くるに
御鹿狩御役人附
千住宿より小金原・日暮村御立場迄四里二十八町、御成道御普請之あり。【鹿狩】尤道幅三間、橋
新宿川御仮橋 長さ六十八間 幅三間。
松戸宿利根川御船橋 長さ凡百廿間、但し上州船廿七艘。
松戸宿松龍寺山迄新御殿御茶屋、此処にて狼烟を揚げ大造なり。
御普請総掛り 御郡代 久世丹後守
御代官 菅沼安十郎
同 大貫治左衛門
同 三河口太仲
同 竹垣三右衛門
御当日勢子人足、武蔵・安房・上総・下総・常陸凡そ十万人なり。
右五ケ国勢子人足七手に相分れ、【勢子の員数】一組に世話人二十人づつ付き、一の手世話人・幟等に至る迄白印にいたし、二の手は黒七組七色に相分て、東は銚子にて限り、南は房州境、北は取手布川を限り、遠方は一同に二里づつ連続なり。御立場北の方川越新田境御小屋四十坪余二行に建つ。是は前々日・前日、大御番頭・御書院御番頭・御小性御番頭・御旗本衆一万五千人余御詰、此口へ狗競を懸く。二十町余の御立場より太鼓にて懸引くなり。
【 NDLJP:77】 御立場小富士山と申し奉る〈高さ五丈余、山上八一四方に御上り口、小柴にて築立つる〉
小富士山八間四方の御矢倉〈高さ五尺四方御手幡五色の吹流し〉
御当日前夜千住宿ゟ御立場迄の間、高張を附け、十町の間に篝を焚く。
右五ケ国村々、幟一本・高張一本、名所を印し可㆑致㆓持参㆒御触れ、商人見物御免。
御当日御供諸大名衆・御旗本衆。
い印 小笠原近江守 馬十疋 三百七十七人【随従の大名旗本】
ろ印 松平下総守 同 三百八十一人
は印 近藤石見守 同二十疋 四百八人
御書院番頭
に印 浅野壱岐守 馬十二疋 四百二十七人
ほ印 諏訪若狭守 同 三百八十八人
へ印 長谷川丹後守 同 三百三十六人
と印 中坊近江守 同廿五疋 三百二十七人
ち印 駒木根大内記 同 三百九十五人
り印 勝田安芸守 同廿三疋 四百六十一人
御小性御番頭
ぬ印 安藤伊予守 馬二十疋 三百四十二人
る印 前田安房守 同廿五疋 三百八十五人
を印 大久保豊前守 同 三百十四人
か印 坪内美濃守 同十三疋 三百廿三人
よ印 松平信濃守 同十八疋 三百八十七人
た印 内藤甲斐守 同十二疋 三百六人
御先手御鉄炮頭
れ印一 牧野織部正 馬一疋 六十九人
【 NDLJP:78】 御先手御弓頭
れ印二 市岡丹後守 馬一疋 六十五人
れ印三 奥田主馬 同
御先手御鉄炮頭
そ印一 水野若狭守 馬 九十三人
そ印二 松平舎人 同 六十五人
そ印三 松平左金吾 同 六十九人
つ印 御使番十四人 同九疋 二百四十三人
な印一 伊沢内記 同一疋 六十二人
な印二 山本伊予守 同 百十一人
な印三 彦坂九兵衛 同 八十九人
御持筒頭
ら印一 室賀図書 馬一疋 百廿二人
ら印二 戸田蔵之助 同 百四十七人
御先手御弓頭
む印一 建部大和守 馬一疋 百二十人
む印二 内藤伊織 同
新御番頭
う印一 柴田修理 馬二疋 百五十人
う印二 中奥御番衆 同 五十八人
の印一 水谷兵庫 同 百五十人
の印二 松平小十郎 同 二百八十五人
く印 中奥御小性 同八疋 二百九十六人
百人組頭
ま印 津田山城守 馬一疋 二百四十八人
け印 渡辺平十郎 同 二百四十九人
【 NDLJP:79】 御徒歩頭
ふ印一 岡部内記 馬一疋 三十六人
ふ印二 深尾八太夫 同
ふ印三 馬場大助 同
ふ印四 丸毛勘右衛門 同
ふ印五 吉松治右衛門 同
御小十人頭
こ印一 鵜飼新三郎 馬一疋 八十八人
こ印二 土屋源四郎 同 八十七人
こ印三 桑山猪兵衛 同 八十四人
こ印四 新見長門守 同 八十一人
大御番頭
て印 菅沼織部正 馬十一疋 四百四人
あ印 建部内匠正 同九疋 四百三人
さ印 松平但馬守 同十三疋 六十四人
き印・一カ 御大目附 同十五疋 六十四人
き印・ニカ 御目附方 二百人
き印・三カ 御医師 五十人
前々日・前日御給〔詰カ〕の諸士方御焚出、松戸宿大坂屋庄兵衛方へ仰付けらる。尤も御当日御供衆は外焚出なり。
焚出人足
一、二尺釜六十、此焚人足六十人此湯廻し人足二十人【焚出人足】水廻し人足四十人 火焚人足二十人 洗ひ米廻し人足四十人 槙運び人足二十人 飯持出し人足二十人 飯荷持其外用意人足四十人
〆二百八十人
外に米洗ひ人足八十人、是は前々日米洗に付き焚出小屋へ運び人足の積りなり。
【 NDLJP:80】 飯一度分 百七十荷 此人足三百四十人但し新調の酒樽へ詰むるなり。
三月四日夜九つ時出御、五日夜九つ時還御。
御物数
【獲物】鹿五つ 御上 鹿一疋 松平伊豆守 同一疋づつ 御書院番勝田安芸守組 本間勘助 小倉永次郎 杉浦又左衛門 青野直吉 突留
同一つ 御勘定拓植又左衛門 生捕 同 御鳥見大倉又太郎 生捕突留 同 大御番松平下野守組 上田乙之助
同 中奥牧野内匠 突留 同四つ 御勘定奉行久世丹後守 同 同七つ 突留姓名不知
同一つ 御小性山木若狭守 同 同 御鳥見吉田金二郎同 同 同人 生捕
同二つ 宮井三左衛門生捕 同一つ 御納戸三淵伯耆守 同 四手組出役 生捕
同五つ 御犬嚙殺 同一つ 御勘定組頭金沢瀬兵衛 生捕 同 御勘定奉行久世丹後守 同
同 大御番
松平下野守組山本長左衛門 生捕 同 同人 突留 同 御小納戸吉沢内記 突留
同 御書院番頭
妻木佐渡守組安藤次兵衛 同 同 同
勝田安芸守組青木小左衛門 同 同 同本多安之助 組留
同 御代官三河口太仲 突留 同 御勘定金沢瀬兵衛 同 同 御小性組
山田肥後守組杉本五郎左衛門 同
同 御書院番駒木根大内記組 生捕 同 御代官三河口太仲 生捕 同四十六 姓名不㆑知 打倒
猪一つ宛 御小納戸天野権十郎 射留 同 御小性組
松平紀伊守組多賀大助 同 同 御書院番
勝田安芸守組久保田左近 同
同 御小性細井豊前守 同 御小納戸天野弥五兵衛 突留 同 御小性能瀬因幡守 同
同 御小納戸竹本次左衛門 同 御小性組子頭松平備後守 同 同一つ 姓名不㆑知 打殺
同 山名丹後守 突留 同 能瀬因幡守 同 同 手負行倒 同 姓名不知 突留 兎 柘植又左衛門 生捕 同 御勘定姓名不㆑知 御鳥見
雉子一つ 同断行倒 狸三つ 御鳥見大岩又太郎 打倒 狐三つ 同姓名不㆑知 同
【 NDLJP:81】 都合百十疋
〔姓名不知とは百姓の分なり〕
享和元辛酉年十二月四日夜八つ時前、小雨降雷鳴、天王寺塔三重目へ雷落ち、夫より雷火全堂へ移り、十七棟焼失。
同二年住吉炎上。
同年六月廿八日・同廿九日両日風雨烈しく、【摂津河内洪水】七月朔日より洪水摂・河に溢れ、村々二百余ケ所水入。
河州交野郡八ケ村 若江郡廿六ケ村 茨田郡十二ケ村 河内郡四ケ村 渋川郡十ケ村 摂州東成郡・西成郡にて十二ケ村 島上郡廿七ケ村
総村合二百三十七ケ村
総高十二万三千五百五十五石四斗三合
文政五壬午年三月、【英吉利船房州に来る】エゲレス船安房の沖に来る。漁船之を見付けて直に訴へぬるにぞ、近辺数里の間厳重に備立して、夫より漁人を以て、如何なる事にて来りしと尋ねありしかども、少しも分ちがたく、直に漁人を一人船に引込みし故、如何なす事やらんと、安き心もなかりしに、種々饗応なし薪水をきらせしかば、「之を恵み呉れよ」といへる事の模様にて分りしかば、其の如くして遣し給ひしとぞ。〈船は二艘にて近づきしは一艘のよし、其節の噂に、エゲレス、「これより江戸へ何程ありや」と尋ねしかば、「凡そ百五十里もあるべし」と答へしに「偽る事なかれ。十里ならではなし」といひし由、実に薪水をきらせしにや。又隙を窺ひに来りしにや其実計りがたしとぞ。〉
文政五年日本橋渡り初 同年六月五日、日本橋普請出来に付き、奥州南部領森岡哥戸村にて、高二千石計り持ち候百姓山崎清左衛門百四十三歳 同妻 嘉沢〔津カ〕百三十九歳 忰 源蔵百十二歳 同妻 さき百九歳 孫 源之丞九十八歳 同妻 かじ九十三歳 孫 清之助七十一歳 同妻 はな六十八歳 玄孫 清左衛門四十三歳 同妻 まつ三十九歳
是迄も長寿の人といへば、多くは奥州より出づ。其国大にして良の隅に当り、辺【 NDLJP:83】鄙なるが故に、人の心も自ら裕に情欲少き故なるべし。先年永代橋の渡初にも、百六十余・百五十余の夫婦百四十計りの子供夫婦を召連れて渡りしも、奥州の人なりしとぞ。
家光公御上洛の時、【百七十余歳の老人口取す】御馬の口取をなし、馬子唄を謡ひて上りしは、百七十余にて参河の国の人なる事は、昔より言伝へて人の知る所なり。或人、如何すれば其の如く長寿するやと尋ねしに、外に術なし。只麁食を節にして三里に灸するのみと、其灸は、
朔日左九右八 二日左十右九 三日同同 四日、左十一右十 五日左十右九 六日左右共九 七日左九右八 八日左右共八
壮年の時、人に教へられてより怠らずこれをすゑしとぞ。斯くのごとく灸すゑしとて、ことごとく長寿すべき者にはあらねども、一たび教へられぬれば、其事直を守る心正なるが故に、情欲の為に労することなく、無為めにして長寿を得しものなるべし。
本願寺の事 寛政より享和に至り、【西本願寺騒動】西本願寺に大騒動の事あり。此節の門跡といへるは、至つて愚人なるより事起り、祖師親鸞の掟に背き新義といへる事を始む。こは門主の過を拵へて、之を文政十一戊子四月、関東筋洪水の節、本願寺の材木所々へ伐出してありしが、矢矧【 NDLJP:85】の橋へ流れ掛りし故、橋落ちてこれが為に多くの人死失せしといふ。
同年の事なりしが、江州彦根領伊勢境の山より、本願寺普請に付き、材木を買ひて伐出せしに、如何に工夫すれども、五六丁余の所、田の中を引かざれば出でざる故、如何とも詮方なく、種々評定をなし、村役人共なしぬれ共、田も稲も損じぬれば上へ届け、「其段聞済の上にて引出さむ」といふになりぬ。然るに本願寺の家来いへるやうは、「上には定れる年貢滞なく出しさへすれば、夫にてよき事なり。刈捨てたる稲の損は本山より償ふべければ、之を届くるに及ばず。稲刈捨て出すべし」とて、【本願寺の狼藉】道筋一間余り五六町の所へ青稲を刈りて材木を引出す。此事彦根へ聞えぬるにぞ、「不埓なる狼藉、其者召捕るべし」とて其仕度ありしに、風を喰つて逃げ去りぬ。是迄も江州は門徒宗多き所にて、毎年年貢をば等閑に不納致し、頻りに本山へ金銭を持行くにぞ、役人中常々之を制すれ共、彼の宗徒の凝り固まりしは甚しき事にて、地頭の命令を用ひず、忍び〳〵に持出で遣りぬる事を深く憤りぬる折柄、斯かる事仕出しるぬにぞ、大に憤り、已来領内の者、本願寺へ金銭遣し候事は勿論、参詣致しぬる事も差し止められ、隠れて参詣せし者は、厳重の仕置せらるゝ様になりぬ。斯くて本願寺へ、「右狼藉は如何なる心得にや」とて、厳しき掛合に及ばれしに、一言の申し訳けなく誤り入りし事なりとぞ、左もあるべし。夫よりして「本願寺の者共、已来領内に入るゝ事相成らず」とて、厳しき法度立てられしとかや。この咄は備中新見留守居役小山三蔵といへるは、元来彦根藩の者にて、同人親類より申し来られしとて、この事を語りぬ。
本願寺普請に付きて、地築せむとて下地の焼土を取捨て、新に清き土入替へむと思へるにぞ、「東山豊国大明神の上手なる松ケ谷の土は、至つて宜しき土なり」といへる者ありしかば、「さらば其土にせむ」といふ事になりぬ。松ケ谷といへるは、大仏妙法院の御領にて、則ち宮様の上より豊国神君の上手をいへり。斯くの如くなれば、早速に、宮の坊官松井因幡といへる者に頼み入れて、「よき価に其土買取らん」といへるにぞ、「如何してよからむ」と決定成りがたく、此男元来明神を信じ、聊の事にても是に伺ひ、其指図にて決しぬる者故、此事を明神へ〈狐を神に祀れるなり。〉伺ひしに「此事至つてし〳〵【 NDLJP:86】宜しからず。思止まるべし」となりしかば、之を断りぬるに、本願寺にては、何分にも此所の土よしといへる事なれば、価を多く出しても苦しからずとて、過分の金を出して之を求めむといへるにぞ、因幡も欲にひかされて之を諾ひしに、夫より日々人夫出来りて土を取りしが、一人大なる壺一つ掘出す。「こは金の入りし壺なるべし。銘々分取にすべし」など云ひ争ひ、三人打寄りて其蓋を取らむとせしに、三人とも悶絶す。其節は都合七人して土を運び出せし由なるにぞ、四人の者は少し隔りてありしが、【明智の崇】此有様を見て、早速水を吹掛けなどして介抱せしかば、漸〻と息出しぬれども、一人も物いふ事能はず、からだもすくみて自由ならざるにぞ、これ只事にあらずとて何れも大に恐れ、三人を助けて早々に帰りぬるが、出入共因幡へ届けぬるにぞ、「病人ありて只今より引取れる由」を断りぬるにぞ、「如何せし」とて之を尋ねし故、右の始末を語りしといふ。因幡大いに驚き、「然らば暫く控へ居るべし」と、此者共を留置き、其所を見届けて後人夫をば返しぬるに、因幡も夫より病付きて、五体すくみ言ひがたく、大いに苦しめる様になりぬるにぞ、彼の明神へ人を走らせ伺はせけるに、「斯かる事ありぬる故悪しとて、止めぬるをも聞かでかくなり行きぬ。
明智の一類此所へ葬りしといふ事、逆叛人なるが故に、伝記に載する事なければ、【 NDLJP:87】今に之を知れる人なかりしが、左馬助が如きは智仁勇を兼備へし大将にて、古今に稀なる英雄なれば、今日に至りても其霊ありぬるも理りに侍る。其余の輩此所へ葬りしといへるも、不審なる事にはあれども、秀吉とは素より朋輩の事にて、此人、天のなせる人徳ありと雖も、大業の成りし事、全く明智が信長を害せしより
同年閏三月十二日の夜、本願寺材木小屋出火して、大方に仕上げ置きし材木を焼失ひぬ。【本願寺作事小屋焼失】火事の節には、其
四年前死失せし西本願寺は、彼の古義・新義の事に大騒動せし僧なりしが、斯かる騒動について過分の物入ありし事故、【本願寺の負債】大に借金をなし、一向に払ふ事なければ、何れよりも厳しく催促ある中にも、大仏妙法院宮様にては、賽銭引当に金借りて延引に及べるにぞ、妙法院の宮様よりは、
東本願寺焼火の夜より新嘗会始まりぬとて、洛中へ御触あり。これは天子二夜・三日の間、自ら神明の御祭をなし給ふ事にて、洛中・洛外此祭の間は、寺院の鐘をも禁ぜられ、若し失火ある時は、火元は勿論其町の年寄迄も、遠島になる事なりとぞ、已に二条殿にも、昔は御築地の内なりしが、此御神事に火を過つてより、今の如く今出川の御門外へ移され給ひ、百万遍も斯かる事にて洛中にありしを、今の如く白河辺へ移されしといふ。斯かる御掟ある事なるに、御所に御差支ありて、新嘗会御延引との御触を、火事直中に仰出されしといふ。如何なる御差支にや之を知らず。
浄土宗の鼻祖源空を師として、其流を汲みて一向の一派を立てぬる事なるに、先年も浄土真宗などいひ出でて、恩義をも打忘れ我慢に募る所よりして、師と頼みぬる浄土宗を相手として争論をなし、法外の事などあり。源空をば天子御帰依遊ばざれ、法事毎に贈号を増し給ひ、上人・大師等を経て六百年の忌に当れる時、菩薩位に至り、法事の節は、何にても天子の御施主なりといふ。【浄土宗との争論】彼の徒之を羨しく思ひて、五百五十回忌に大師号を願ひ出でぬるに、増上寺より之を拒み其事成り難く、大に面【 NDLJP:92】目を失ひし事なり。其節公儀よりの仰渡され左の如し。予彼の輩と敵々にあらざれば、之を嘲けること大人気なしと雖も、彼の宗の根本斯くの如くにして、世に害ある事多きにぞ、筆の序に書記しぬる者なり。
本願寺開祖年回に付、大師号願出候節之被㆓仰渡㆒左之通。
東西本願寺
興正寺
其外
此度親鸞聖人五百五十回忌に付、大師号之儀願候処、【親鸞大師号許可せられず】所司代申渡之趣、開祖遠回に付、大師号之儀追々被㆓相願㆒候処、範宴善信事者優婆寒〔脱カ〕同様之事に付、大師号被㆑願候儀者可㆑入〔被カ〕㆓憚入㆒事に候。
右之外御口達にて仰渡旨、源空上人ゟ勘気被㆑請候身分に付、清僧と難㆑申事に付、御差留は無㆑之候得共、親鸞上人と被㆑唱候事茂、遠慮可㆑然旨被㆓仰渡㆒候。
午四月
この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。