目次
 
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文政十三年地震
 
    座本   嵐切ツ太郎

昔咄と思掛けなき今度の大変天地震動昼夜烈しき虚空の物音  
 壁も瓦も落ちて砕けて殿舎もかたむき大地も裂けて吹出す泥水
頃は文政六月の始 大地震花洛聞書        由里続
神社仏閣は公家も町家も上下の騒動家に伝はる古物もみぢんと
 成つたる名家の蔵々倒れて已前に奇瑞を顕はす小鍛冶の長刀

由利出宰相不塚の呉方 斎南富士九郎
震動次郎家成    夫亦由留蔵
へたくた成平    目斗宇五九郎
うろたへ照手の前  桑原勇次郎
足元千どり     立たり居之助
家もとの垣平    由利田折助
慈真坊行典     びつくり佐四郎
大橋由留木左衛門  渡り兼太郎
壁もおちた     闇割田倉蔵
ふるひや万次郎   青井頬太郎
唐絨灰快子     其儘捨太郎
娘あしなえ     こけつまろびつ
砕由戸庄司     柱茂弓蔵
始終会々路     止む野尾松江
一統修理之進    地築能四郎
足弱仮居之助藪影  蚊ケ谷喰夕右衛門

藪の内群集兵衛   込ツ田蛇十郎
動々鳴戸之助    恐猪三郎
家蔵ひずみの三郎  雨賀森蔵
寺町一藤太     倒田平蔵
老母四つ葉井    片意地勇吉
みぢん古隼人    鳥辺野荒蔵
傾城亀山      丹波の琴治
庭にかり居姫    十方に呉松
永居の雪隠     不案新四郎
割手飛駄兵衛    大谷水八
奥方おどろき    沢久賀国奈郎
西陳大荒惣太    機から落太郎
八坂の塔六     多折茂仙蔵
故障の内侍     東寺の藤蔵
内蔵之助菱成    道具目無太郎
いがみの門太    御室仁王門
崩留三位師家    突張り幸四郎

長歌       這出道十郎

浄瑠璃      竹本切太夫
同        竹本蚊や太夫
三味線      音茂千吉

狂言作者 頭取

オープンアクセス NDLJP:39     破損之事誠に夥しと雖、其一二。

、大仏大石かけ、さし直し一丈余の石ころげ落つる。○耳塚五輪土中へうづもる。 ○三条大橋破損。○白川橋くづるゝ。○同茶屋つぶるゝ。○木屋町積木ことごとく崩るゝ。○大徳寺大にあるゝ。〈此外遠方の寺社の事は、未だ音づれをきかす。〉○総じて、神社・仏閣の石灯籠、又は玉垣、或は寺々の石塔、ことくたふるゝ。其外寺社、貴賤の家々破損之事は一々記すにいとまあらず。誠に都は大騒動、前代未聞の事どもなり。

右は遠方の人々都に御親類有之、日夜音信案じ給ふ人々のため、概略を書記したるなり。中々其騒動は都にのぼりて見分し給ふべし。

〈[#図は省略]〉

七月二日七ツ時ヨリ松原河原ニ於テ三夜之間夜通仕候間夕方にげ敷御出可被成候

ジドロサイク 大乱陀弥動不寝おゝらんだゆさぶね

〈[#図は省略]〉

乍憚口上 一此度地土路細工天地自然のからくりにて寺社の石灯籠鳥居は 不残ゆり落し土蔵は菱のごとくゆがめ築地高壁一時にゆりたを し古き家たいはいがまんの細工に取組三日めに至り出火用心の ため町中一統水鉄炮にて水気の立登り火事の沙汰も相納り家根 瓦修復に差掛り忽大工日雇の人間は一人にて二人前の働を御覧 に入れますれば豊に万歳の程奉祈上候 已上

     月 日        大婦志作

    ​文政寅とし七月新版​​ 大地震忠臣蔵九段目抜文句​​ ​

風雅でもなくしやれでもなく、 藪へ這入る山科の百姓。 そりや真実か誠かと、 八坂の塔のこけた評判。 詞もしどろ足元もしどろにみゆる、 ふりうりの商人。 思へは足も立兼ねて、ふるふ格子を漸々と、 四五日ゆり続けに水汲老人。 御見舞のおそいは御用捨、 ゑん国よりの書状。 ほんにかうとはつゆしらず、 ぎをんの鉾の折れた前評。 悪洒落文字これあげられぬとさし出す。 癪起した人へ万金丹。 ほしがる処は山々、 われ落つた名寺の瓦。 乗物かたへにまたせ只ひとり、 参内有御大身。 此程の心づかひ、 七月二日より毎日ゆりつゞけ。 たすきはづして飛んで出る、 びつくりした下女。 恥しいやら恐いやらどうも顔が上げられぬ、 鹿島のことぶれ。 オープンアクセス NDLJP:40谷の戸明けた鶯の梅見付けたるはゝを顔、 少し治まつた都の人気。 昔より今に至るまで、 伊勢の焼けたはしらせぢやと云ふ老人。 御尋ねに預り御恥づかし、 町家の天幸者。 水門・物置・柴部屋迄、 あけたての損じ 思ひよらぬ、 藪へ遁入る京の山猫。 ヲヽ夫にこそ手だてあれ、 河原へ畳敷さて出て居る町人。 思ひがけなき御上京、 見舞に登つたしつやみ。 用心厳しき、 四門に詰むる大勢。 今日参る事余の儀に非す、 催促がてら見舞に来る金貸し。 障子残らずばた 地震最中。 御用意なされ下さりませ、 神社に御千度が始まるの。 敷居と鴨居にはめ置いて、 割れた戸を無理に入れ寝る。 聞いてはつとは思ひながら、 伊勢きく上方の噂。 あすの夜船に下るべし、 京の臆病者。 様子に依つては聞捨ならぬ、 上に取引有る下の人。 開き見ればこはいかに、 雷かと思うた障子の内。 娘はわつとなき出し、 びつくりころ女共。 拳放れて取落す、 水汲丁稚の釣瓶。 仕様もやうもないわいな、 くへ込むだ所々の井戸。 うんと計りにがつばと伏し、 道行く老人。 尋常に座をくみ手を合せ、 寺々の和尚だち。 御深切の段千万忝く存じまする、 諸国より見舞人。 日本一の阿呆の鑑、 桑原々々というた人。 名残惜しさの山々を、 京半分見物して下る道者。


 地震にて損じた家は明けたまゝ戸ざさぬ御代と世直りやせん

此度の大地震にて、天子玉座を離れ、御庭に出御なりて、夜を明し給ふ程の事にて、一統道路に迷ひ、数百の変死これ有り、之を聞くさへも胆つぶれ侍るに、其中にて、斯かる戯れ言を板行になして、商ひて銭をむさぼる国賊あり。かゝる者共何んすれぞ此変に命を失はざりし事にや。憎むべし

 
                                        
 

                          鹿島常陸神

                        名代香取下総神

其方儀、往古より地震押への為、鎮座被仰付候処、一昨年越後国牧野備前守領分地震有之、老中領分之弁へ無之、猥に震崩し、人馬数多致死亡、既に公儀より、備前守へ拝借被仰付候程之儀、悪洒落文字去神代之勤功被思召、其儘に被差置候処、此度洛中大地震にて、奉帝都、且又二条御城所々令破損、御場所柄共不弁致方、其方あらん限は、右体之儀有之間敷筈之処、畢竟手ゆるく候故之儀、不束之儀に付、差控被仰付候。右伊勢神託に於て、出雲神出座、伊勢神申渡之、御目附西宮夷三郎。

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                           石野要人

                        名代那順野伊四郎

其方儀、鹿島常陸神為配下、地震横行之儀、為致間敷筈之処、中世已後数多地震有之、其方ゟ申付候甲斐無之迚、先年水戸中納言殿掘捨可申付候処、格別之御用捨にて其儘に被差置候処、右様之儀共致忘却、剰鯰を差免し置、越後並洛中共両度大地震相企候段、畢竟其方常々出しきに不申、瓢簞同様之心得方、重々不埒之儀に付、野見玄之介を以、こつぱひにも可致筈之処、常陸神より申立候筋も有之候に付、此度之御沙汰に不及、土中へ押込申付候。

 
                                        
 

                           川住儀八父隠居

                        大なまづ事地震

其方儀、往古於大海横行候に付、蒲焼にも可仰付之処、格別之以御憐愍、鹿島常陸神蟄居可在候処、其後も古歌の定をも不相守、刻限之差別も無之、種々之病等流行為致、諸人及難儀之段、不怪の儀に付、先年水戸家ゟ要人へ糺之砌、重くも可仰付之処、格別の趣を以て、其儘に被成置候得共、猶又相鎮可之処、近頃越後国並洛中及乱妨、地中ゟ土砂等吹出し、全く弥勒出世之年限をも不相待、泥海に可致心底に相聞え、旁〻不埒に付、改め鹿島常陸神へ相預け、奈洛へ蟄居申付候事。

 
                                        
 

                           赤井穂四郎

其方儀、近来毎夜徘徊いたし候に付、諸人怪み悪説申触らし、上方筋之地震も、其方不存旨陳じ候得共、却て世上には、右前表之趣申候。奢に長じ目立候光り方、明星をも蔑に致し、其上不行跡、天文方へ申渡、糺明可之処、高橋作左衛門牢死後、何も星家不案内之趣に付、其沙汰に不及、依之急度光り、

右於評判所々夫々申渡有之。此節地震番所にて写者也。

オープンアクセス NDLJP:42是は道修町近江屋忠衛門方に在りしを写し取る。是等別して不埒のしやれにて、恐入るべき事どもなり。

 
                                        
 

     亀山大変

一昨二日夕七つ過頃大地震、亀山の地震御殿向所々大損、河原町御番所打倒れ、三宅御番所高塀同断、其外町家三宅町にて八軒、柏原町十三軒潰れ申候。三宅御番所より東にては、一軒も無難之家無之、大方住居は不相成候由。其上怪我人多く、即死四人、河原町宇津根辺潰れ家余多の由、野原庄之進川添に有之長き米蔵打潰れ候由、誠に前代未聞之事に御座候。且地震夜中三四十度計も鳴動いたし、中にも両度程余程之地震御座候。今朝に至り鳴動不相止、誠に恐敷事に御座候。併し今朝は穏に相成、折々少々づつの響にて、漸く人心地に相成申候。先づ家中向は無別条、且御親類様方御無難に候間、御安心可成候。又々諸向御繕ひ、御普請御物入と相成、恐入候儀に御座候。猶追々可申上候。先づ只今迄承り候儀、荒増申上候。可恐々々。

  七月四日                     滝田庄太夫

 
                                        
 

     過届 一、町在崩家 四十一軒 一、死人  四人 一、怪我人  五人 一、損所  五十ケ所

右之外堤欠、道損じ、小家・土蔵数を知ざる位なり。余程の損耗なり。先達て認候は、御城下計り故、違候ゆゑ、此書付の通御写し、小林氏へ御見せ可下候。町在〆如此に御座候。右之通御承知可下候。其外少々の損じ、壁落などおびただしく候。前代未聞也。

  七月七日                    酒井左五衛門

 
                                        
 

御玉章拝誦仕候。如仰残暑強く御座候処、御挙家様御壮健被御凌、奉恐賀候。然者先頃当地大地震之様子被御承知、預御紙面有奉存候。其御地は、格別之オープンアクセス NDLJP:43地震も無之由、致承知、夫故御尋も不申上候。当地町家には、潰家四十軒計り、圧死人・怪我人等も少々有之候得共、一類中初、私宅格別之破損所と申すは無御座候間、乍憚御安慮可下候。右御礼為貴意此に御座候。恐惶謹言。

  七月十三日                   大竹吉右衛門

 
                                        
 

貴札拝見仕候。未だ残暑強く御座候処、益〻御壮健、奉恐賀候。随て私方皆々無異相勤候間、乍憚御休意可下候。扨又当月二日大地震に付、早々為御見舞御紙面、忝存候。先づ家中一統格別大損は無御座候得共、少々宛は家並に損申候。私方親類之内、別条無御座候間、是又乍憚御安心可下候。町家大荒にて、柏原・三宅両町にて、家数三十軒計り倒れ、其外家毎に大損、未だ地震相止不申、甚珍敷事に御坐候。其御地にては、御別条も無御座候様子承り候故、御尋も不申上、御無沙汰仕候。先は右御礼御答旁〻為貴意此に御座候。尚追々可申上候。已上。

  七月十九日                   樫田藤治

 
                                        
 

一筆啓上仕候。未だ残暑強く御座候得共、御家内様方御揃弥〻御壮栄可御坐、珍重御儀奉存候。随而当方無異罷居候間、乍憚御休意思召可下候。然者先達ては、京都ゟ当地殊之外大地震にて、当所城中家少々損所も有之候得共、けが人は無御座、町家多分大崩有之、即死・けが人も有之、未だ少々之地震日々三四度程有之、夫故兎角不安心に御座候、其砌は御見舞御紙面被成下、難有奉存候。御地は無御別条之趣、御同慶奉存候。早速御礼可申上筈に御座候処、盆前ゟ私儀不快にて、引籠罷在候に付、御報も延引仕候。此段御高免可下候。以御影拙家無異、私儀も此節にては追々全快仕候間、乍憚御安心思召可下候。且又養父一回忌、養母三年、当月廿日仏事仕度候間、遠方御苦労之御儀に御座候得共、御出被下候様奉願上候。別段申上候筈に御座候へ共、此度之幸便に付申上候。右申上度、御報旁〻如此に御座候。恐惶謹言。

  八月二日                    長谷川十内

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貴札拝見仕候。秋冷相催候処、被御揃益御安康被御座、珍重奉存候。随而小子宅何れも無事罷在候間、乍憚御安意可下候。其後は打絶え御安否も不相伺、何共背本意候条、奉恐入候。何分小生足痛も未だ聢と不仕、夫故気分不相勝、不計御不沙汰申上候。何分にも御高免被下度候。扨又去る二日、御聞及通、京地ゟ亀山、寔に前代未聞大地震、両三夜計り門住居にて夜明し仕候。其後迚も、枕高うして寝候事も出来不申、于今至り昼夜に七八ケ度宛日々ゆり申候。併し差したる儀では無御座候得共、何分最初之手ひどき地震に恐入、扨々困り入申候。右に付、早速御尋被成下、早々御返答差上可申之処、前段之有様、延引相成候。呉々御高免奉希候。先は右御受旁〻如此に御座候。恐惶謹言。

  七月廿一日                   西垣丈助

別紙申上候御内政様へ宜しく御伝声被下度奉願候。妻よりも御ふみ差上申度筈之処、益前より中暑、且地震びつくり仕候て哉、不スグレ龍在候、無其儀、私より右之段御断申上呉候様申出候。右之段御内政様へよろしく御断被仰上下度奉願上候。扨私儀も、六月出勤、漸々やう十日計り相勤め、直に引能能在候処、于今引籠保養仕居候に付、くはしき御事は見不申候得共、忰共見受候趣、

、柏原町家数八十七八軒之処、十八軒潰れ申候外は、不残大ゆがみ、其後追々之地震にて、五軒計り又潰れ申候。即死人三人、怪我人十人計りと申事に候。

、三宅町家数八十計之処、十二軒潰れ申候。いがみ、への字形に相成候家数廿四五軒計、即死人三人、怪我人十五六人と申事に候。其外町方家中共大体への字形に相成候家数夥敷事に御座候由。荒増承り候事申上候。已上。

 
                                        
 

浪華亀山の用場に出役の役人宍倉只衛門、主用に付、八月五日立にて、亀山へ到り、同八日に帰来りしが、彼地今以て昼夜に八九遍計り地震之あり、日々二つ三つはひどくこたゆる地震有りと云ふ、此度の地震にて、所々損ぜし有様目を驚かす事なりとて、詳しく其有様を語りぬれども、余りくだしければ、其二三を挙げて之をオープンアクセス NDLJP:45証すべし。

虫の知らせ柏原町醤油屋、此家の〔〈主人脱カ〉〕至つて好人物にて、家業を出精し、倹約を守りぬる故、商売大に繁栄し、積財する事多し。亀山より京都へ出づるに、大江坂といへる峠有つて、至つて道悪しく、人馬の常に往来に悩めるにぞ、此者財を散じて、衆人の為に其道を造り、又貧人等には相応の施しをもなしぬるに、近頃病臥して有りしにぞ、之が親類より娘を見舞〈病人の娘なり。〉として、七月朔日に差越しぬるにぞ、之を留置きて、介抱をなさしむ。二日の朝に至りて、此娘云へるやうは、「一寸御見舞に参りしなれば、滞留するの心組もなく、著替一つを持たざれば、今朝内へ還り、滞留の心積して程なく来るべし」とて、家に帰り、「今日は何とも心悪しくて、先の家に居る事心ならざれば、今日一日は内に有りて、明日より参るべし。今日の処は断りやりて給はれ」と、両親を頼みしに、両親これをうけがはずして、「病人の介抱させんとて留めぬるに、今日は行かじ抔いへるは、其方の気儘といへるものなり。病人の事なれば、嘸待侘びて有べし。早く参るべし」とて、無理に追遣りしに、間もなく大地震にて、病人・其娘、外にも家内一人、都合三人、此家崩れて即死せしと云ふ。其親大に後悔して、「かゝる事の心に徹して、行く事をいなみぬるを、無理に追ひやりて、親の手にて殺しぬるに等し」とて、大に歎げきぬるよし。

、三宅町茶屋鍵屋といへる有り、地震ゆると其儘、老人・夫婦・息子等散りになりて、裏表へ逃出でしに、嫁は懐妊にて月重りし事故、逃げ後れぬるにぞ、息子も之を案じ、門口迄跡戻りすると、家内の逃出づると一時なりしに、今一足の事にて、其家崩れ、妻はこれに打たれ手足共所々へ飛散り、腹破れて飛出しと云ふ。夫は一旦無事に逃出せしに、これを助けんとて、跡戻せし計りにて、命に別条はなしといへども、大いなる怪我をなして、廃人と成りしと云ふ。

、或家には、昼寝せんとて、夫婦と子供両人梁の下に休みしが、此日は分きて暑さの堪へ難くて、寝る事なり難かりし故、暑を避けむとて、主は子を抱きて表の方へ出でぬ。妻も引続き起出で、行水の料にせむとて、手桶取つて井の元へ行きぬ。右の子も母親の跡に附添ひて裏へ出でぬるに、井にかゝりて、未だ水を汲上げざオープンアクセス NDLJP:46る内に、地震にて其家崩れ、梁寝処へ落ちて、布団を貫きしと云ふ。これらは暗にして其難を逃れしにて、幸と云べし。

僥倖或家の家内、小児を寝させんとて、之に添臥し、小児と共に睡りて有りしに、地震ゆり出で、其家をゆり潰す。地震勢にてかくなりし事と見えて、両人の上に畳一畳裏返りて覆ひ懸りし故、潰れたる中に有りて、親子共命を全うせしと云ふ。是等の事にて、其幸・不幸を察し、其余は推量りて知るべし。

右大地震にて家を倒し瓦を飛ばし、何れも大に狼狽して心顛倒せし事なれば、「助けて給はれ」といへる声の、人の耳に入りて、是を救出せしは、遥に時過ぎし事なりと云ふ。

又此度倒れし家を見るに、瓦葺の家は悉く微塵に砕け落ちて、死人・怪我有りしが、藁葺の家は、多くは椀をふせし如くに成りて、形崩れざる家多しと云ふ。総べて天地の間に於て、物の十分なるは無く、火に良きは水に悪しく、此に良きも彼に悪しゝ。事々物々に一失一得有る事なれば、中庸を心として、常々工夫有りたき者なり。又兵家者流に於ても、種々の論有れども、山城に籠り嶮岨を固めとすれば、一夫之を守りて万夫も進み難きの徳有れ共、兵糧運送の難きと、水道を断切らるるの患有り。平城は是等のなやみなしと雖も、四方に敵受るの損有りて、何れも深き心得の有りぬる事なり。「山に寄り山によらず、水に寄り水に寄らず」といへるにも、味ある事なり。心してよし。

 
                                        
 

貴札拝見仕候。秋冷に相成候処、御家内様御揃弥〻御壮健被御凌、珍重之御儀に奉存候。然者、先頃此許大変に付、早速為御見舞御紙上被下、被御念候儀、忝次第に奉存候。誠に前代未聞之儀にて、何も仰天仕候得共、親類中無難にて、大慶仕候。其後兎角少々宛の儀日々四五度も有之候処、先一昨日頃よりは相鎮り申候。此段御安心可成下候。私儀も地震前ゟ腹合悪敷く、漸〻両三日以前ゟ快気仕候。夫故御礼答も大延引、此段御宥免可成下候。右御挨拶、乍延引斯に御座候。恐惶謹言。

オープンアクセス NDLJP:47  八月十二日                    梶村昌次

 
                                        
 

一筆啓上仕候。追々秋冷弥増候処、御全家被揃益御安康可御凌、珍重の御儀に奉存候。随て黄薇国在番中は、不相変数々預御紙上、辱仕合に奉存候。御蔭にて詰中無滞相仕廻引取申候。其砌は船中と覚悟究置候処、参候家来両人共船甚不得手、併し衆評難黙止旨相聞、其上地震之年柄、同役家内ゟもたと差留越し、私事も二月頃ゟ持病之攣痛甚敷く、駕籠にゆられ候も難渋故、片上ゟ成り共と存候得共、備中は震せず諸方ゟ申越、無拠陸地引取る都合に仕、夫故御館へ御尋申上候事も出来不申、近頃残念至極に奉存候。おはつ様へも宜敷く御断被仰上下候。先達ても珍敷御作拝見、絶感慨申候。地震も備中はゆり不申、先は京都・亀山が強き事と被存候。併し城中・家中先無難、委敷事は只右ゟ御承知〔衍カ〕下候事と被存候間、不申上候。○只右ハ只右衛門ナドノ略ナラン僕事も右駕籠に被当、呼吸寒迫、十間計り歩行仕候事も苦しみ、五七日は押して罷在、無拠引籠保養仕候。御存之通、少し宛の食事も望なく、肝癪計にえ申候。深見謙蔵と申す医師に掛り、段々療用仕、此節は先づ快方に向候。一旦は大差込参り体弱り、迚もと存じ、辞世迄仕候事、どうやらかうやら反古と相成候様にて、失面目候。併し先々右体故御安心可下候。小子耳のタブ後へ廻るに付、貧相と被仰笑候事有之。此度備中ゟ亀山へ、「大地震夢にも知らぬ因果者みゝのたぶをや何とみるらん」。備中へ三度詰に参りしが、あげくには笠岡と云処にて、論出来る、まかるとて、「旅の世にまた旅に来て旅に行くこれや三度の印なるらん。」大地震の川柳伝へては、「此上は奈良へ遷座の思召」。「あめつちの動く名歌は御感なし」。「阪元はなんとがよかろと公家評議」。亀山にかへりて松茸の少き事を聞き、「松茸が閉門するや大地震」。辞世のいれ荷のをかしければ「死る迄いれのくるこそ気疎けれじせい偽せとも成るもをかしき」実に此節は快方にて、執筆右之次第、乍憚御安意可下候。おはつ様御案被下間敷、被仰上下候。足下御戯書誠に以て奇々妙々、奉感吟候。尚珍敷事も候はゞ、為御聞下候。右は何か御礼、時候御安否相伺旁〻如此に御座候。恐々頓首。

オープンアクセス NDLJP:48  菊月十五日                    和田平右衛門

 
文政十三年諸国の大変
 
七月二日京都の地震と同刻に、肥後の阿蘇山崩れ津浪肥後国阿蘇山崩れ、人家・田畑悉く潰れ、人を損ずる事挙げて数へ難く、阿蘇の一郡大いに荒果てゝ、此崩れぬる勢に、海辺は大津浪にて、人も家も悉く流れ亡せしと云ふ。こは江戸堀木屋一郎右衛門が咄にて、則ち同人が親類の船も、彼地に居合せ、此大難に遇ひて、其船みぢんに砕けしと云ふ。斯かる大変の始末は、其後間もなく肥後の屋敷へ国元より出役せし役人有りて、これも船中にて難風に遇ひ覆らんとせし故、大に困窮す、程なく主用も済みぬれ共、かゝる有様なれば、国元へかへる事を案じぬるとて、委しく語りしと云ふ。外役人の船一艘覆りしが、これは水練達者なる故、海上を泳ぎて命助りしと云ふ。

〔頭註〕阿蘇一郡大に荒れしと云ひしかども、是は格別の事にて無かりしと云へり。

 
                                        
 

同五日・六日・八日・九日、防・長・芸の国々大風雨にて、船多く砕けて、大騒動せしと云ふ。浪華にては、九日午刻過より時々少雨降りしのみにて、只京都の響折々こたへ、少々づつの地震有るのみなりしが、此日彼地は別きて大雨にて、雨の大きさ茶碗の如く、風甚しくして、予が知れる人の乗りし船も打破れしが、幸にして助かり帰りぬる者など有りて、恐しき事共なり。

同二日、雲・伯・因・備の前州近来の大地震なりと云ふ。されども何も損ぜし処なしと云ふ。中国の地震これも京と同じく申の刻のよし。大抵咄を聞くに、浪華と同様のゆりと思はる。又備前・播州等は十八日洪水なりと云ふ。

〔頭書〕かくの如く諸国地震甚しき事なるに、作州は其中に在る国なるに、実に聊かの事にして、今のびりとせしは地震にてはなかりしやと、疑はしき程の事にて、是を知らぬ人多しと云ふ。

 
                                        
 

十四・五・六・七日、筑前大風雨にて、一国洪水の由、十八日出之相場飛脚に申来りしと云ふ。筑前斯くの如くなれば、筑後は余程地形も低ければ、猶甚しかるべしとなり。オープンアクセス NDLJP:49こは米相場する者の云へる事にて、二百十日・廿日共に、大坂にては何一つ申分もなく侍るにぞ、米相場引立て、人の金銀を奪はんとて、かゝる風説する事にや有らむかと、疑はしかりしが、後筑前屋敷にて聞侍るに、彼地七日七夜大雨降続き、地上の水一丈三尺にして、洪水の変を訟ふる飛脚さへ出し難く、漸く三日目に仕立てられしと云ふ。其節には水を渡れるに、人の乳上迄有りしと云ふ。大豆畑二万石計の処流れ失せしと云ふ。され共米に障れる程の事は無しといへり。

豊前小倉屋敷より申来れるに、「七月彼国風雨洪水にて、大に田地損ぜし」となり。豊後辺七月八日大風吹きしと云ふ。

 
                                        
 

七月十八日の洪水に、摂州高槻領も三ケ処切れ込み、物頭侍足軽等日々百五十程場所に幕を張り、陣笠・股引にて土・砂・石等を運び普請すと云ふ。

十月廿二日大風日暮より尤甚しかりしが、暴風此日遠江灘にて船百五十艘計難船し、鰤の番船など江戸湊にても覆りしと云ふ。

十一月廿三日大風昼夜烈しかりしが、此夜西の宮沖にて二十四五艘の船援り、人死多しと云ふ。西の宮計りにてさへ此くの如くなれば、外にも此類多かるべし。又米を積める船十艘大坂川口にては破船すと云ふ。

 
                                        
 

又十二月朔日夜丑の刻より、和歌山火紀州和歌山出火、内町・かくみ町中程畳屋裏より出火、折節東風強く、本町二丁目も焼抜け、夫より米屋町不残匠町半分、本町一丁目・二丁目不残大火、万町かしや町へ焼抜、内大工町半分焼、凡十五町の焼ぬけ、午の刻迄焼る、誠に近年の大火にて御座候。

  十二月二日午刻。

 右紀州飛脚より申来りしを記せるなり。

 
                                        
 

夫吾国は神国にして、往古より三種の神宝を以て天下を治め給ひ、神々万民を恵み守り給ふ事なるに、禰宜・社人の類大に道に背き、非人・乞食の如く鈴を振つて、人のオープンアクセス NDLJP:50門口に立ちて一銭・一握の米銭を乞へる事、神道者の乞食誠に浅ましき有様なりしに、文政五壬年よりして、右手に鈴をくゝり付け、左の手には太鼓・銅鉄子を持ち、腰に笛を挿し、脇の下に、方なる箱に紐付けて、之を首に懸けて脇ばさみ、夜中一人にて三四人の囃子をなし、祓読みて歩ける様、河原者の八人芸又は七化など云へるが如し。神道は正直を源とする事なるに、人をあやかし米銭を貪れる事、大に法に背きぬ。後に此業尤甚しく成つて、白昼に之を為し歩き、中には夫婦連に子供迄引連れ、可笑き囃子方にて人に思ひ付かせんとす。浅ましき業なり。此故に神慮にも叶はざると見えて、其年八月より大に疫癘流行し、暴かに吐瀉甚しく、急なるは半日、緩なるも三日め程には死失せぬ。ころり流行世俗三日ころりとて大に恐れあへり。之を大体始めにして、其翌年は丹後・紀伊・大和・伊勢・備中・伊予等に、百姓の一揆起り、七月に至り諸国に筍を生じ、世間至つて騒々しく、大いに人殺あり。同月廿二日、筑後にては、百目に余れる霰降りて地を埋むる程に至り、八月十七日江戸大風、石を飛ばし家を倒す。九月廿七日・十月廿四日、大坂大雨・大雷なり。是れ等を始めとして、年々世間騒々しく、天変地妖打続きぬるやうになりぬ。歎かはしき彼等が所行、神慮をも恐るべきことなり。

 
                                        
 

今年丹後丹波の間なる嶮難の山々岩石等を切聞き、丹後丹波間の水運開かる。両方へ流るゝ川々を、横に切開きて、其流を一つになし、運送自由なるやうになりぬ。され共険岨にて如何共なし難き処八丁有りて、之をば人馬にて運送すと云ふ。斯くの如くなれば、日本の地方東西二つに切れ離れて、漸く八丁の続きなれば、地脈の通ひこれ計なり。如此事神慮に叶はざるにや、伊勢の回禄、京都の地震等有るなるべしなどとて、専ら京都にては風聞すと云へり。米買占め

丹波の内保井谷といへるは、杉浦若狭守と云へる旗本の陣屋有り、米買占めの事にて一揆起り、九郎兵衛と云ふ者の家を打砕き、処々大に乱妨せしといへり。

十二月八日、江戸浅草御蔵前、同十日下谷とやらん余程大火の由。同廿三日・廿五日にも余程焼失せしと云ふ。

オープンアクセス NDLJP:51
 
                                        
 

歌は世につるゝものとて、古より云習はせ、童謡の前兆を示す事など諸書にも之を詳にす。近来流行れる歌に味ありて面白きは更になく、何れも遊里・芝居等より流行り出でて、愚劣なる流行唄皆々淫事をあから様にうたひぬる事の浅間しき事に思ひしに、又これに加ふるに痴人の独語を以てして、小長・男女の別なく、間抜たる音にて之を唄ひ、大に流行す。此痴人といへるは、靭太平浜なる干鰯仲仕にして、一人の母親あり。其詞に曰く、「伊三子は〈名を伊三郎と云ふ〉阿呆でも、親養ふわいなァ」、「虎屋の饅頭二文で買ふとは、ソリヤむりぢやいなァ」、「親の敵をうたいでおこかいなァ、なるものかいなァ、伊三子の腹ぢやもの」。大抵此類なり。されども皆筋立し事なり、大西の芝居にて此者の真似をなしてより、ます大流行となる。淫事を唱ふよりは増ならんと覚ゆれども、其音声余りに耳立てやかましき事どもなり。痴人の独語かく流行せる事大奇事と云べし。

 
文政十三年改元勘文
 
    庚寅改元勘文 附地震日記

     年号勘文

     年号事

天保切討  尚書曰、欽崇天道、永保天命仲虺之誥。

嘉享切繦  晋書曰、神祇嘉享、祖考是皇、克昌厥後、保祚無彊。明堂降神歌。

万徳切墨  文選曰、万邦協和、施徳百蛮、而粛慎致貢。檄蜀人。

保和切波  周易曰、乾道変、各正性命、合大和、乃利貞。上家伝。

安延切無形 礼記正義曰、武王承文王之業、故安楽延年。文王世子。

                         ​桑原​​  式部大輔菅原為顕​​ ​

     年号事

監徳切祴  尚書曰、天監其徳、用集大命、撫綏万方大甲上。

嘉延切甄  文選曰、寤寐嘉猷、延佇忠実。永命九年策秀才文。

オープンアクセス NDLJP:52万延切緜  後漢書曰、豊千億之子孫、歴万載而永延。

嘉永切璟  宋書曰、思皇享多祐、嘉楽永無史。楽志。

寛安切看  荀子曰、生民寛而安。致仕篇。

                         ​高辻​​  文章博士菅原以長​​ ​

     年号事

天叙切無形 尚書、有典勅我、五典勅我、五典五惇哉。○誤字あるべし。

嘉延切甄  芸文類聚曰、祥風協順降社自_天、方隅清謐嘉祚日延、与民優游享寿万年。

嘉徳切祴  春秋左氏伝曰、上下皆有嘉徳、而無違心

万和切摩  文選曰、布政垂恵、而万邦協和。

元化切瓦  晋書曰、元首敷浩化、百僚股肱并忠良。

                         ​唐橋​​  文章博士菅原在文​​ ​

 
                                        
 

     寛安            初難

寛安号有緩舒安佚之意。又安字在下之号有旧言之事。且音響亦不快之旨、旧難不少。毎度出現不採用〈[#底本では直前に返り点「一」なし]〉者、有其謂歟。宜群議

                                実堅

     寛安            陳

難申之旨非其謂。此号先哲亦難之。雖然字義非一隅、各有其所_当歟。音響之嫌疑亦声韵全同。前修文、有挙奏之輩。虞廷之嘉謨曰、寛而栗。孔門明訓曰、寛得衆、且夫文思安々者、尭天之徳容、安貞之吉者、坤地之元気、最於紀元各為佳字、被挙用何事之候波平哉。宜上宣

                                永雅

     寛安            重難

寛安之号、所陳申其謂、皇太后宮大夫藤原朝臣被難之旨、殆当然候。通声之俗難強、雖論、衆口所唱渉患難。両字連続之上者、音響殊不快候。爰按オープンアクセス NDLJP:53、雖怡然、於聖代者百歳叟可起、所謂野無遺賢是也。而為其書也、子類為其篇也、致仕既及度々群議、不登庸、亦宜矣。偏可閣候歟。

                                顕孝

     寛安之判

寛安之号、非存旨、此号之議暫可之、          斉信

     嘉延            初難

嘉延雖佳号、音響聊不優美歟。且嘉字嘉吉已後久不採用。以他号択可然候波牟哉。

                                永雅

     嘉延            初陳

嘉延之号、嘉吉之後不嘉字之旨、雖申難、言化字大化之後歴千余歳而被文化、已為美号、且芸文類聚之本文、前後審観太平之気象、況今当臘月、建斯新元、被旧号者、詩中所謂率土同歓、和気来臻。応験又奚疑乎。

                                基豊

     嘉延            重陳

嘉延号之事、被難申之旨、雖其理、権中納言源朝臣如陳答被称美引文者、古今通規也、殊於延字者、聖朝佳号不少、衆賢之所知、今更不申述、又音響之事、非大患者、何有用捨乎。一天下被通用之号、豈以小難哉、論大功者不小過、大美者不細琲、不小嫌採用歟。宜上宣

                                顕孝

     嘉延之判

初陳・再陳之旨趣、既是燦然。斯展翰林之勘文、熟誦音賢之詩詞、今属佳節、殊有其寄実。可義善之号候。              斉信

     嘉徳            初難

オープンアクセス NDLJP:54嘉徳号、後漢嘉徳殿不快之事不一、因之高祖父已来屢申難言、且徳字先々因仰之旨、前賢後哲多述所存、実有其謂。旁可此号歟。

                                基豊

     嘉徳            初陳

嘉徳号、嘉徳殿火災之事、強不年号之旨、難陳事旧訖。且徳字雖二代法言、厥後毎度被挙用之上者、無仔細乎。近至正徳数号、況引文畳字、而字義殊勝。尚書曰、予嘉乃徳、曰篤不忘。被採用何難哉。        実堅

     嘉徳            重難

嘉徳号、陳答之趣頗被其理之上者、不浅慮之難、畳字最雖崇、既先賢火災妖孽之難不少。殊徳之字旧難、更不僻言。況上下其以為難字乎。又引文諸候之儀也。雖先蹤、旁不庶幾候。        顕孝

     嘉徳            重陳

嘉徳号、権中納言源朝臣被難申旨趣、雖其謂、異朝不快号用我朝度々例也。却吉例多候。徳字雖旧難、皇太后宮大夫藤原朝臣如陳答、数度被用之上者、可巨難哉。且此二字就中神妙之間、古来不之選進、可此号之規矩哉。殊本文畳字先哲所執也。又按史記曰、長承聖治、群臣嘉徳、実可美号、被挙用然歟。

                                光成

     嘉徳            三陳

嘉徳号之論難、其説各有理。雖然如引文、上下嘉徳而民和、則何禍災之憂。史記曰、妖不徳遂修徳有成。且選元号畳字善。此号最可矣。宜上宣

                                資善

     万和            難

万和号、万字先賢多難之。且此号出久矣。而不登庸。窃意有其故歟。旁以不庶幾候。        実揖


     万和            陳

オープンアクセス NDLJP:55万和之号、被難之旨雖其謂、万和之二字出文選文、符合子聖代。五行大義曰、陰〔〈陽字脱カ〉〕欲化、万物和合也。然秋来地屡動、是陰陽不和也。当時四海昇平、万邦仰皇化者、万和号協吉、被採用然候歟。        家厚

     嘉享            難

嘉享号、考引文、晋家受命、明堂降神歌也。於即位紀元之号者、最為宜。今因変異而改元。取他号之宜者、以可挙用歟。        資善

     嘉享            陳

嘉享之号、難言之趣、細論之、則雖然。豈唯可受命之初乎。本文之中、克昌厥後一句、本周頌讚美文王之詞、続之以保祚無彊之句。如此之歌、毎唱詠之、以祈皇祚之悠久者、臣庶之常情也。且近者天明改元、被寛政。其引文非炎上之事。今復本文雖変異之故、被登用巨難波牟。

                                具集

     安延            難

安延号、此文之起、文王病事也。尤可憚哉。文応度既有其沙汰之由、経光記置候。加之、家父所存候間、旁難採用候。        光成

     安延            陳

安延之難、頗有其謂。雖然尚書註曰、以道惟安寧、王之徳謀欲延久、以之考之、不亦為佳号乎。宜群議。        実揖

     安延            重難

安延之号、権中納言藤原朝臣被陳申之旨、雖其理、聊此申別難。抑経典歴史其本文不少。而此引文僅用正義。若不人意歟。又延字在下近例、寛延之末有地動之事。於斯度先可之乎。        具集

     安延之判、

安延之号、両難能述其意。此外猶有議之事。宜選他号

                                斉信

オープンアクセス NDLJP:56     天保            難

天保雖佳号、与天方艱難之天方、音響相近、如何候波牟。        家厚

     天保            陳

難之趣雖其謂、字音相近者、於年号強不其沙汰之旨、先輩申候歟。況音訓共優美之由執申人々之候。天保二字、遠則天暦・康保、近則天和・享保、為聖代之嘉蹤。且書曰、天廸格保。是周公旦述皇天眷顧成陽〈[#底本では直前に返り点「二」なし]〉保安之詞也。又曰、天寿平格、保又有殷。文公且称殷代、国安而民治之謂也。皇天之保古愈灼、国家之禎祥更臻。宜登用哉        永雅

     天保            二陳

保天号。陳答其理最当矣。天清〔恐陰字〕万物之主宰也、保養也。以天徳養万物、則詩所謂符天保定爾之意、実美号之清選者乎。        実堅

     天保之判

天保取仲虺之誥之文以立元号。彼篇王者敬天安命之道至矣尽矣。聖経之要言、明主願可採用也。然則以嘉延・天保之両号奏聞波牟。        斉信

詔書

詔、感禎祥而建号、前史之所記。因変異而改元、後王之所則。朕謬以菲薄、曽為元首、恭守三器、謹御四海。雖夕惕乾々之心、雖鶏鳴華々之思、政令不節乎、教化不行乎、此歳東西或殃、累時民庶難穏。何図宗廟事、人火延及。京師告変、地震非軽。宮闈弥懐危懼、上下益加驚愕。朕之不逮、何以是裁。今会廷臣、与衆同議、年択嘉号、新発恩令。其改文政十三年、為天保元年。大赦天下。今日昧爽以前、大辟以下、罪無軽重、已発覚・未発覚・已結正・未結正、咸皆赦除。但犯八虐、故殺・謀殺・私鋳銭・強窃二盗、常赦所免者、不此限。又復天下今年半徭。老人及僧尼年百歳以上、給穀四斛〈[#底本では直前に返り点「一」なし]〉九十以上三斛。八十以上二斛。七十以上一斛。今也玄陰将蹤、青陽且布和。庶乗此時令、宜与物更始。普告遠近、俾朕意。主者施行。

オープンアクセス NDLJP:57  天保元年十二月十日

   二品行中務卿詔仁親王  宣

      従四位上行中務大輔卜部朝臣行学奉、

      正四位下行中務少輔卜部朝臣久雄行、


奥書

年号勘文一本、借京師友人、而忽卒写取畢。且黄昏窗闇不魯魚者也。別有宣下恩赦之次第之一本。入夜因使者到、返之訖。凡斯条之次第既具諸書。故返与亦無遣恨者歟。

  天保二年卯三月             源長渉(花押)

上卿   二条左大臣斉信公

     桑原式部大輔為顕卿

勘者   高辻式部権大輔以長卿

     高橋少納言  在久卿

一会伝奏 徳大寺皇太后宮大夫実方卿

奉行   柳原頭右中弁隆光朝臣

     二品行中務卿臣韶仁親王 有栖川宮

     従四位上行中務大輔卜部朝臣行学卿 藤井

     正四位下行中務少輔卜部朝臣久雄卿

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地震日記 (文政十三年)
 

  地震日記 渉云、此記可審具。然不九天重闕及二条城塁之頽仆者、恐忌諱也。記者深慮可想矣。

連日地震、国典所記皆為詳悉。而爾来諸書所記概多疎漏、為憾耳。去年大震、予親載在左記。今更刪其繁、作地震日地。  梅川重高記洛人

文政十三年秋七月​二日​​丁巳​​ ​、申下刻、地大震。従西北来其響如雷。自申迄卯十八度、官舎・民屋破壊頽仆、或有圧死〔者カ〕​三日​​戊午​​ ​辰刻、大震二度。至夜六度。至旦四五度。自己未庚酉凡毎時震、或微或甚。​七日​​壬戌​​ ​五度。​八日​​癸亥​​ ​、午刻・未刻・子刻各一度。寅刻大震一度、中震一度。​十一日​​丙寅​​ ​夜四度。初一度甚、此時亦所々破損。六月下浣以来至今日初雨。 ​十五日​​庚午​​ ​亥半刻一度。 ​十六日​​辛未​​ ​申刻一度。​十八日​​壬酉​​ ​暴雨。​十九日​​甲戌​​ ​暴雨洪水、音羽川崩溢。酉半刻大震。乙卯半刻強震、雨未止此日清水寺廊庶顛倒。〈七間二尺五寸。〉​二十二日​​丁丑​​ ​未刻一度。 ​二十五日​​庚辰​​ ​三度。 癸未夜大雨大雷。時々地震。​三十日​​乙酉​​ ​暮時一度。

八月戊〔三日子カ〕夜微震六度。後大震一度。​四日​​己丑​​ ​寅刻・午刻各一度。申刻三度。​五日​​庚寅​​ ​暮一度。​六日​​辛卯​​ ​丑時強震一度。亦微。​八日​​癸巳​​ ​旦二度。午時・申時各〻一度。小動二。戌半刻一度。​十日​​乙未​​ ​夜二度。​十三日​​戊戌​​ ​巳時震雷声。​十四日​​已亥​​ ​丑時震。

九月朔丙辰寅時一度、今日三度。​七日​​壬戌​​ ​丑刻一度。​十一日​​丙寅​​ ​戌刻一度。​十三日​​戊辰​​ ​夜二度。 ​十四日​​己巳​​ ​三度、夜一度。​十七日​​壬申​​ ​々剋一度、戌刻二度。​廿五日​​庚辰​​ ​四度。或小、或大。​廿六日​​辛巳​​ ​深霧、辰刻三度、巳刻二度、各〻号。

冬十月辛丑二度、夜自酉至戌三度、後亦二度。

十一月​六日​​庚申​​ ​戌下刻大震、後小動三度、亥上刻一度、後至旦三度。​廿六日​​庚辰​​ ​夜五度。昨今雪降。

十二月​四日​​戊子​​ ​暁一度。​十日​​甲午​​ ​詔書改文政十三年天保元年、依地震也。​廿六日​​壬子​​ ​酉時強震一度、至旦四度。 ​廿九日​​癸丑​​ ​午刻強震一度。

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本朝地震記
 
本朝地震記

此書は始めに地震の諸説を挙げ、次に神武天皇より以来文政迄、凡二千五百年余の間大地震の年月を記し、且文政寅年七月の地震の始末を記したれば、後世に残し置きて子孫の心得にもなるべき書なり。

葉月の始め庵の柱に寄りて、宝暦の古へのなゐ、其名残もとか〔十日カ〕まりときけば、今たび如何にや如何にと、我も人もおぢ恐れしに、僅三十日まりにて、やうに穏かなりしは、げに四方の海波豊けき大御代の御いさを高くもあるかなと、独言いふ折、柴の戸押して客の来入り、其一言を此巻の始めに書てよといふ。いともあいなきたゞごとにしてあれど、是がまに筆とるものは、

                        洛下隠士何がし誌

本朝地震記              平安城 豊時成編

夫地といふ文字、往昔は塞に作る。これ会意なり。史記・漢書に、墜に作る。震は動なり、亦怒なりとも謂へり。天は動く、四時を為し、地は静にして万物を養ふ。然りと雖、天は左に廻り、地はまた右に旋りて止まず。例へば人船中に在りて窓を閉ぢて坐すれば、其船の自ら行くを知らざるが如し。此故に天も動き、地も亦循環して、徐々そろ動く者也といへり。但し地の体は北を陽とし、南を陰とす。山岳多くは北にあり。天の体は南を陽とし北を陰とす。故に日輪は南にぐる。是天地円渾相連りし円なり。されば古語にも、地一尺減ずれば則一尺の天を生ず。本来面目無し、南北何れの所にかあらん。猶鶏卵の黄なるが如く、其形まんまるが故に、是を地球といふ。其周り大方は皆九万里といへり。又諺に、「六海三山一平地」といへり。是海は十分の六分、山は十分の三分、地は十分の一分、是故に塞をもつて地の字とするは、其あひたる意なり。されば地震するものは、陽気陰の下に伏して、陰気に迫り昇る事能はず、是に於て地裂動き震するに至る。これ陽気其所を失うて、陰気填がるゝが故なり。亦地中に蜂の巣の如き穴あり。然して後水くゞり、陽気常に出入す。陰陽是にて相和し其宜しきを得るを常とす。若し陽気滞りて出る事能はず、歳月を積重るに随ひ、地膨れ、水くゞる故に、井戸涸れ時候殊の外温きなり。之を譬オープンアクセス NDLJP:60へば、餅を炙るに火の為に張れ起るが如し。為に地震ふときは、蒼天も低くなり、衆星も大さ常に倍すと云へり。これ地昇り天降るにあらず、雨降らんとするときは、山を見るに甚だ近く見ゆるが如し。陽気陰を伏し、地を裂きて天に発出するが故に、地中震動す。是れ則ち地震なり。其始め震ふ者甚だ猛烈なり。是れ地中陽気一塊に発するの証なり。また次に震ふものは緩かなり、先の陽気地中に残れるが少しづつ発出の所以なり。されば一天中の世界なれ共、中華に震ひて本朝に動かず。日本震ひて唐土また動かず。一国中に限り他国に出でず。或は江戸静にして、浪速に震ひ、大坂豊にして、京都動く。是地中の陽にて地膨るゝと膨れざるとの故なり。地中に起りし陽気、其所より発せんとする故に、甚だしきものは地裂け、山崩るゝ事之あり。一村にありても、其あたりの多少あるは、是亦地の堅きと堅からざるとの故なり。凡そ初て大に地震する時は、海汀に沼涌上り、津浪山の如く泝る。奥州の洪水、遠州今切など是なり。又大地震の後、月を重ねて震ひ止まざるは、未だ陽気の出尽さゞる故なり。其甚しきものは、山焼出るといへり。されば我朝昔よりの地震を考ふるに、人皇の始め神武天皇より三百九十余歳を経て、孝霊帝五年乙亥の年、近江国地一夜に裂けて、湖となり、同時に駿河国富士山一夜の間に涌出し、豆・相・甲・武の四州震動すること夥しと雖も、富士も琵琶湖も神代よりある事は、已に赤人が歌、其外万葉集中の歌に詠めり。夫より六百六十余歳を経て、人皇廿代允恭帝五年丙辰七月廿四日地震して、宮殿・舎屋を破る。其後百九十余年を経て、三十九代推古帝七年乙未四月廿七日、地大に震ふ。後七十余年、同四十代天武帝白鳳四年乙亥十一月十日地震。同十三年戊寅十月四日、筑紫国地裂るゝ事三千丈余。其幅三丈計り、此時民屋夥しく壊れ、山岳大に崩る。同十九年甲申十一月七日、山崩れ河涌きて、諸国舎屋・寺塔破壊して、人民・六畜夥しく死す。此時伊予国の温泉破れて再び出でず。土佐国の田畑五十余万壊れて蒼海となる。此夜東方に鼓の如き鳴声あり。尤も震動昼夜止まず。此時伊豆の島二つに割れて、西北に分かる。島山増し加ふる事三百余丈。さきに鼓の如き響は、神此島を造り給ふ動きならんといひ伝ふ。それより廿二歳を経て、同四十二代文武帝慶雲四年丁未六月五日大地震。此時大空に、長さオープンアクセス NDLJP:61八丈・横三丈にて三面鬼の形の雲現はる。夫より三十四歳を経て、四十五代聖武帝天平十六年甲申正月七日に地震、美濃殊に甚し。百十三歳の後、同五十五代文徳帝斉衡三年丙子三月八日、畿内地震して民屋を倒す。同五十七代の帝陽成帝元慶三年己亥九月廿九日大地震。五年の後、同五十代光孝帝仁和三年丁未七月晦日の夜、大地震して、星隕つるゝ事雨の如し。夫より五十年を経て、同六十一代朱雀帝天慶二年己亥四月二日大地震。此時主上は殿を去り給ふ。清凉殿の庭上に五畳の幄舎を建て坐し給ふよし、平家物語に見えたり。夫より三十四年を経て、同六十四代円融院貞元々年丙子六月十八日大地震、古今未曽有の変異にて、二百余日震ふ。夫より六十五年を経て、六十九代後朱雀帝長久二年辛巳夏大地震、此時洛東岡崎法勝寺八角九重の大塔倒る。後四十五年を経て、白河院永保三年に建つ。夫より百三十四年を経て、同八十代高倉帝安元二年丙申四月八日地震、其音雷の如し。四年を経て治承三年己亥十一月七日にも地震。夫より九年、同八十二代後鳥羽院文治元年己巳七月九日午の時大地震。其時白河六勝寺倒る、八角の塔は上六重は振り落す。三十三間堂十七間の間倒る。皇居を始め、在々神社・仏閣・民屋の壊づる音、恰も雷の如く、立昇る塵埃は黒烟の如く天を蔽うて、日影を見る事能はず、山崩れ川を埋み、海をたゞよひ、浜にひたし、大地は稲妻の如く裂けて、水涌出で、磐石割れて谷に転び、人民・六畜死する事数を知らず。此時白河法皇は熊野へ御幸あつて御花参らせ給ふ折柄にて、触穢出来にけりと、急ぎ御与に召され、辛じて都六条殿に還幸なり、南庭に仮殿を設けて御座とし給ふ。主上は実興に御して池の汀に御幸なる。夫より九年を経て、建久五年甲寅閏八月廿七日地震。又六十一歳を経て、同八十八代後深草正嘉元年丁巳、鶴ケ岡八幡宮震動。七月廿三日大地震。夫より七十四歳を経て、同九十一代伏見帝永仁元年癸巳歳四月廿三日大地震、圧死する者三万余人。三十一年の後、九十九代後醍醐帝正中元年甲子十一月十五日大地震。此時江州竹生島半分破れて湖中へ没す。五十七年経て、一百代後円融帝、南朝永和二年丙辰四月廿五日、地震して民屋を倒す事あり。其後二十年を経て、百一代後小松帝応永九年八月・十三年正月・同十四年二月・同十七年庚寅正月廿一日、已上四ケ度大地震。此時天地オープンアクセス NDLJP:62ともに鳴響す。夫より廿一年を経て、百三代後花園帝永享四年四月十一日・同九月十六日地震あり。此時は尤甚し。夫より十七年を経て、文安五年戊辰地震。此年洪水・流行病、猶又飢饉にて、古今の凶年なり。夫より十五年を経て、康正元年乙亥十二月晦日地震大なり。夫より十一年の後、百四代後土御門帝文正元年丙戌十二月廿九日大地震。翌年応仁の大乱起る。夫より廿三年を経て、明応二年甲寅五月七日地震。同四年乙卯八月鎌倉大地震。又十四年の後、百五代後柏原帝永正七年庚午八月七日の夜大地震。其後七十五日打続き震動して猶止まず。 〈〔頭書〕此時堂社・仏院・楼閣・民屋顛倒すること其員を知らず。〉摂州天王寺石華表・石垣壊る、山々崩るゝ事夥し。同月廿七日遠州の海浜洪濤打来り、数千の在家・土地共に海に流れ、死する者一万余人、陸地三十余町海となる。是より今切と名附くと応仁記に見えたり。夫より三十七年を経て、百六代後奈良帝天文二年丙辰二月十三日夜地震、此時星隕ちて海に沈むと云ふ。同十三年地震。夫より廿八年を経て、百七代正親町帝天正十三年乙酉十一月廿九日大地震。夫より九年を経て、百八代後陽成帝文禄四年乙未七月三日、午時より天遽かに曇り、飈頻りに吹き、毛の雨を降す事夥し。同月十二日夜山城・大和・近江・丹波・河内・摂津夥しく地震す。伏見桃山城も所々破壊す。其外寺社・民屋・山岳の崩るゝ音宛も百千の雷の如し。此時洛東大仏壊る。夫より三十五年を経て、百十代後水尾帝明正七年庚午正月七日、相州小田原大地震。又十七年経て、後光明帝慶安元年戊子四月廿二日大地震。同二年江戸大地震。夫より十一年経て、百十二代後西院帝寛文二年壬寅五月朔日地震して、東山豊国の廟壊る。夫より廿二年を経て、百十三代霊元帝天和三年癸亥四月五日、下野日光山、同時江戸大地震あり。同十月大隅国地震して海陸となる。夫より廿年を経て、百十四代東山帝元禄十六年癸未十一月廿三日関東大地震。以後二百余日震ふと云へり。夫より三年を経て、宝永四年丁亥六月十八日、下野猿が股の土手大地に入る事数十丈。同年十月四日大坂大地震、圧死山をなすといふ。此時、紀州・三州・勢州・津々浦々青き沼涌上り、津浪起りて、死する者万を以て算ふ。同月廿二日富士山震動して、近国灰降る。夫より十八年を経て、百十五代中御門院享保十七年九月廿六日、肥前長崎昼夜八十余度震ふ。同十一年丙午三月十九日夜、オープンアクセス NDLJP:63越前勝山弁慶ヶ岳震ひ、凡十八間四方岩石二つ、二里八町の間飛んで大河を堰留め、洪水溢れ、人民牛馬死する事数を知らず。其時彼麓の二ケ村三百余軒沼の池となる。廿五年の後、百十七代桃園帝宝暦元年辛未二月廿九日京都大地震、破壊殊に夥しく、其後七月迄震ふといふ。同四月廿五日越後国高田地震、西の刻より丑の刻迄三十余度震ふ、山岳・人屋崩れて死する者一万六千余人。同六年大坂梅田墓所宝永四年に死したる者の五十年忌、諸宗より万灯供養あり。廿一年の後、百八十代後桜町帝明和三年丙戌正月廿八日、奥州津軽青森辺、大地震にて津浪あり、人民死する者数を知らず。近くは文化元年甲子三月、羽州秋田大地震、象潟山崩れ死亡多し。又文政五年壬午六月十二日、京都地震、此時江州八幡在殊に厳しきよし。同十一年子十一月十一一日、朝五つ時、越後国三条見附、長岡・与板・和木野町等、十里計り四方大地震、其時出火ありて横死の者三万余人、牛馬六千計り、神社・仏閣・大厦・民家の破壊其数算ふべからずといふ。凡往昔よりの地震猶は諸国に有るべけれ共、只書典に載せたるのみを記す。日時若し違ひあらば幸に之を許せ。扨も今年文政十三年庚寅七月二日、朝より一天晴にあらず曇るにあらず、俗にあぶら照といへるけしきにて、蒸炎昨日に増さり、凌ぎ難かりしが、漸くに七つ頃となれば、軈て暑気も少しは去るべきなりと思ひ居たる折から、雷声の如き他々と響くと等しく、夥しく地震出す。是は如何にと、衆人驚く間もなく、引続きたる大地震、見る家蔵の震動する事、宛も浪の打来るが如く、其上土蔵・高塀、或は石灯籠、又器物・道具の崩破る音、千万の雷頭上に落掛かるが如く、往来の人は大道に蹲り、家に有る者畳にひれ伏し、今や棟梁の為に圧死するかと胆を消し、人々生きたる心地なかりしが、甚しく震ふ事引続き三度、稍暫くして少し穏かになりしかば、家毎に畳を大道へ投出し、互に引連ね我一にこれに逃出し、誰云合ふとなく、須臾の間に洛中・洛外町々家裡に残る者稀にして、老若男女・貴賤尊卑の差別なく、皆々大道に膝を連ねしは、宝暦の昔はいざ知らず、八十年来珍らしき事なりけり。〈頻聚国史光孝天皇元慶三年八月五日地震の条に曰く、此夜大地震、京師人民出盧舎、居于街路と見えたり。〉扨京都の人家或は倒れ、又柱歪み、天井落ち、或は竈の壊れたる尤も多く、土蔵は殊更にあたり烈しくして、矢庭に震崩したる多く、其外四壁落ち大輪砕けて是が為怪我人数多あり。凡京中オープンアクセス NDLJP:64の土蔵に、一ケ所として満足なるはなく、されども誰か是を補はんといふ者なく、取除んと思ふ者もなくて、只大道にひれ伏し、神仏名号を唱ふ。適、主家又は近辺の縁家の安否を訪ふ者、皆陣笠・胸当にて奔走す。地震は初の如くにあらざれども、只くわい々と鳴つて震ふ事須臾に数ケ度、凡翌三日朝迄に百廿余ケ度震ふといへり。されば此夜は家々の馬提灯を灯して、大道に夜を明かす。かくて三日の朝は、雲晴れ渡り日光明かなれば、流石大道の住居も見苦しとて、銘々家裡に入つて、漸く僅かに其破壊を繕ふ。此日地震ふ事猶止まず。凡一時に七八度より十ケ度づつに及ぶ。此夕も七つ時より、同じく今宵も大道に夜を明かさんと、畳を連ね屏風を引き、上には雨覆をなし、町幅狭き所には、向ひより互に縄を張り、竹を渡し、上には筵又は合羽等を引覆ひ、皆々前夜の如く夜を守る。又恐怖の甚しきは、市中に居るはあぶなしとて、東山の野辺・或は鴨河原・西の野へ席を構へ、食器を運び出して難を避くる人も夥し。此夜暁かた僅に雨降ると雖、朝に至て晴る。地震ふ事少し、穏なりと雖、一時に六七度に及ぶ。此夜も猶大道に出ると雖、夜気感冐せん事を恐れて、前夜の如くにはあらず。然れ共皆々端近に囲繞して、きびしからんには、大道に逃げ出でん用意なり。是より日々震ふ事数少く、十四五日頃には一昼夜十五六度・廿度に及ぶ。扨京都の人家大小共破損せざるなければ、急に其修理をなさんとすれども、大工・左官は固より、手伝人夫に至る迄、迚も家々に充つる事難ければ、数度呼出しに及べども、容易に出来らず、適〻来ると雖、一日来れば二日来らず、二日かゝれば五日休むが故、修理も全からず、漸〻竹・材木をもて仮に突張し、或は縄もてつなぎ置くもあり、又は一向に人夫も来らざるは、止む事を得ず其儘になし置くも多し。是等は元来始めは満足と見えて、人に誇り顔にいひたる蔵抔、連日の震ひに追々破損し、思ひもよらず一時に崩れて、其響近鄰を騒がす。其後十七・十八日両日大雨ありしに、雨湿通りて、又も土蔵頽れ傾き、或は残りたる大輪落るも多し。故に人心何となく恐怖止まず、日夜安き心もあらずして、只安全をのみ願ひしに、元より泰平の大御代、殊更公にも諸社・諸山に御祈を命じ給ふよし、因りて七月の末つ方には、稍震ひの数も減じ、今八月初旬には一昼夜僅に五六度となりしは、最も有難き聖代と、万民挙つて喜びをオープンアクセス NDLJP:65なし侍る。あなかしこ。

此一帖は、些も世の弄びの為め記すに非ず。遠国辺境にては、様々に風評なすが故、京都に縁者又は知己ある人々は、日夜安心をなさゞる由を聞けり。因りて其のあらましを記し、猶遠境の人をして安からしめん事を願ふのみ。

 
 
 

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