座本 嵐切ツ太郎 | ||
昔咄と思掛けなき今度の大変天地震動昼夜烈しき虚空の物音 | ||
由利出宰相不塚の呉方 斎南富士九郎 |
藪の内群集兵衛 込ツ田蛇十郎 | |
長歌 這出道十郎 | ||
浄瑠璃 竹本切太夫 | ||
狂言作者 | 頭取 |
【 NDLJP:39】 破損之事誠に夥しと雖、其一二。
一、大仏大石かけ、さし直し一丈余の石ころげ落つる。○耳塚五輪土中へうづもる。 ○三条大橋破損。○白川橋くづるゝ。○同茶屋つぶるゝ。○木屋町積木ことごとく崩るゝ。○大徳寺大にあるゝ。〈此外遠方の寺社の事は、未だ音づれをきかす。〉○総じて、神社・仏閣の石灯籠、又は玉垣、或は寺々の石塔、こと〴〵くたふるゝ。其外寺社、貴賤の家々破損之事は一々記すにいとまあらず。誠に都は大騒動、前代未聞の事どもなり。
右は遠方の人々都に御親類有之、日夜音信案じ給ふ人々のため、概略を書記したるなり。中々其騒動は都にのぼりて見分し給ふべし。
〈[#図は省略]〉
七月二日七ツ時ヨリ松原河原ニ於テ三夜之間夜通仕候間夕方にげ〳〵敷御出可被成候
ジドロサイク
〈[#図は省略]〉
乍憚口上 一此度地土路細工天地自然のからくりにて寺社の石灯籠鳥居は 不残ゆり落し土蔵は菱のごとくゆがめ築地高壁一時にゆりたを し古き家たいはいがまんの細工に取組三日めに至り出火用心の ため町中一統水鉄炮にて水気の立登り火事の沙汰も相納り家根 瓦修復に差掛り忽大工日雇の人間は一人にて二人前の働を御覧 に入れますれば豊に万歳の程奉祈上候 已上
月 日 大婦志作
文政寅とし七月新版 大地震忠臣蔵九段目抜文句
風雅でもなくしやれでもなく、 藪へ這入る山科の百姓。 そりや真実か誠かと、 八坂の塔のこけた評判。 詞もしどろ足元もしどろにみゆる、 ふりうりの商人。
思へは足も立兼ねて、ふるふ格子を漸々と、 四五日ゆり続けに水汲老人。 御見舞のおそいは御用捨、 ゑん国よりの書状。 ほんにかうとはつゆしらず、 ぎをんの鉾の折れた前評。
【悪洒落文字】これあげられぬとさし出す。 癪起した人へ万金丹。 ほしがる処は山々、 われ落つた名寺の瓦。 乗物かたへにまたせ只ひとり、 参内有御大身。
此程の心づかひ、 七月二日より毎日ゆりつゞけ。 たすきはづして飛んで出る、 びつくりした下女。 恥しいやら恐いやらどうも顔が上げられぬ、 鹿島のことぶれ。 【 NDLJP:40】谷の戸明けた鶯の梅見付けたるはゝを顔、 少し治まつた都の人気。 昔より今に至るまで、 伊勢の焼けたはしらせぢやと云ふ老人。 御尋ねに預り御恥づかし、 町家の天幸者。
水門・物置・柴部屋迄、 あけたての損じ 思ひよらぬ、 藪へ遁入る京の山猫。 ヲヽ夫にこそ手だてあれ、 河原へ畳敷さて出て居る町人。
思ひがけなき御上京、 見舞に登つたしつやみ。 用心厳しき、 四門に詰むる大勢。 今日参る事余の儀に非す、 催促がてら見舞に来る金貸し。
障子残らずばた〳〵〳〵、 地震最中。 御用意なされ下さりませ、 神社に御千度が始まるの。 敷居と鴨居にはめ置いて、 割れた戸を無理に入れ寝る。
聞いてはつとは思ひながら、 伊勢きく上方の噂。 あすの夜船に下るべし、 京の臆病者。 様子に依つては聞捨ならぬ、 上に取引有る下の人。
開き見ればこはいかに、 雷かと思うた障子の内。 娘はわつとなき出し、 びつくりころ〳〵女共。 拳放れて取落す、 水汲丁稚の釣瓶。
仕様もやうもない
地震にて損じた家は明けたまゝ戸ざさぬ御代と世直りやせん
此度の大地震にて、天子玉座を離れ、御庭に出御なりて、夜を明し給ふ程の事にて、一統道路に迷ひ、数百の変死これ有り、之を聞くさへも胆
鹿島常陸神
名代香取下総神
其方儀、往古より地震押への為、鎮座被㆓仰付㆒候処、一昨年越後国牧野備前守領分地震有㆑之、老中領分之弁へ無㆑之、猥に震崩し、人馬数多致㆓死亡㆒、既に公儀より、備前守へ拝借被㆓仰付㆒候程之儀、【悪洒落文字】乍㆑去神代之勤功被㆓思召㆒、其儘に被㆓差置㆒候処、此度洛中大地震にて、奉㆑驚㆓帝都㆒、且又二条御城所々令㆓破損㆒、御場所柄共不㆑弁致方、其方あらん限は、右体之儀有㆑之間敷筈之処、畢竟手ゆるく候故之儀、不束之儀に付、差控被㆓仰付㆒候。右伊勢神託に於て、出雲神出座、伊勢神申㆓渡之㆒、御目附西宮夷三郎。
【 NDLJP:41】
石野要人
名代那順野伊四郎
其方儀、鹿島常陸神為㆓配下㆒、地震横行之儀、為㆑致間敷筈之処、中世已後数多地震有㆑之、其方ゟ申付候甲斐無㆑之迚、先年水戸中納言殿掘捨可㆑被㆓申付㆒候処、格別之御用捨にて其儘に被㆓差置㆒候処、右様之儀共致㆓忘却㆒、剰鯰を差免し置、越後並洛中共両度大地震相企候段、畢竟其方常々出しきに不㆑申、瓢簞同様之心得方、重々不埒之儀に付、野見玄之介を以、こつぱひにも可㆑致筈之処、常陸神より申立候筋も有㆑之候に付、此度之御沙汰に不㆑及、土中へ押込申付候。
川住儀八父隠居
大なまづ事地震
其方儀、往古於㆓大海㆒令㆓横行㆒候に付、蒲焼にも可㆑被㆓仰付㆒之処、格別之以㆓御憐愍㆒、鹿島常陸神蟄居可㆑被㆑在候処、其後も古歌の定をも不㆓相守㆒、刻限之差別も無㆑之、種々之病等流行為㆑致、諸人及㆓難儀㆒之段、不怪の儀に付、先年水戸家ゟ要人へ糺之砌、重くも可㆑被㆓仰付㆒之処、格別の趣を以て、其儘に被㆓成置㆒候得共、猶又相鎮可㆑有㆑之処、近頃越後国並洛中及㆓乱妨㆒、地中ゟ土砂等吹出し、全く弥勒出世之年限をも不㆓相待㆒、泥海に可㆑致心底に相聞え、旁〻不埒に付、改め鹿島常陸神へ相預け、奈洛へ蟄居申付候事。
赤井穂四郎
其方儀、近来毎夜徘徊いたし候に付、諸人怪み悪説申触らし、上方筋之地震も、其方不㆑存旨陳じ候得共、却て世上には、右前表之趣申候。奢に長じ目立候光り方、明星をも蔑に致し、其上不行跡、天文方へ申渡、糺明可㆑有㆑之処、高橋作左衛門牢死後、何も星家不案内之趣に付、其沙汰に不㆑及、依㆑之急度光り、
右於㆓評判所々㆒夫々申渡有㆑之。此節地震番所にて写者也。
【 NDLJP:42】是は道修町近江屋忠衛門方に在りしを写し取る。是等別して不埒のしやれにて、恐入るべき事どもなり。
亀山大変
一昨二日夕七つ過頃大地震、【亀山の地震】御殿向所々大損、河原町御番所打倒れ、三宅御番所高塀同断、其外町家三宅町にて八軒、柏原町十三軒潰れ申候。三宅御番所より東にては、一軒も無難之家無㆑之、大方住居は不㆓相成㆒候由。其上怪我人多く、即死四人、河原町宇津根辺潰れ家余多の由、野原庄之進川添に有㆑之長き米蔵打潰れ候由、誠に前代未聞之事に御座候。且地震夜中三四十度計も鳴動いたし、中にも両度程余程之地震御座候。今朝に至り鳴動不㆓相止㆒、誠に恐敷事に御座候。併し今朝は穏に相成、折々少々づつの響にて、漸く人心地に相成申候。先づ家中向は無㆓別条㆒、且御親類様方御無難に候間、御安心可㆑被㆑成候。又々諸向御繕ひ、御普請御物入と相成、恐入候儀に御座候。猶追々可㆓申上㆒候。先づ只今迄承り候儀、荒増申上候。可恐々々。
七月四日 滝田庄太夫
過届 一、町在崩家 四十一軒 一、死人 四人 一、怪我人 五人 一、損所 五十ケ所
右之外堤欠、道損じ、小家・土蔵数を知ざる位なり。余程の損耗なり。先達て認候は、御城下計り故、違候ゆゑ、此書付の通御写し、小林氏へ御見せ可㆑被㆑下候。町在〆如㆑此に御座候。右之通御承知可㆑被㆑下候。其外少々の損じ、壁落などおびただしく候。前代未聞也。
七月七日 酒井左五衛門
御玉章拝誦仕候。如㆑仰残暑強く御座候処、御挙家様御壮健被㆑成㆓御凌㆒、奉㆓恐賀㆒候。然者先頃当地大地震之様子被㆑成㆓御承知㆒、預㆓御紙面㆒難㆑有奉㆑存候。其御地は、格別之【 NDLJP:43】地震も無㆑之由、致㆓承知㆒、夫故御尋も不㆓申上㆒候。当地町家には、潰家四十軒計り、圧死人・怪我人等も少々有㆑之候得共、一類中初、私宅格別之破損所と申すは無㆓御座㆒候間、乍㆑憚御安慮可㆑被㆑下候。右御礼為㆑可㆑得㆓貴意㆒如㆑此に御座候。恐惶謹言。
七月十三日 大竹吉右衛門
貴札拝見仕候。未だ残暑強く御座候処、益〻御壮健、奉㆓恐賀㆒候。随て私方皆々無異相勤候間、乍㆑憚御休意可㆑被㆑下候。扨又当月二日大地震に付、早々為㆓御見舞㆒預㆓御紙面㆒、忝存候。先づ家中一統格別大損は無㆓御座㆒候得共、少々宛は家並に損申候。私方親類之内、別条無㆓御座㆒候間、是又乍㆑憚御安心可㆑被㆑下候。町家大荒にて、柏原・三宅両町にて、家数三十軒計り倒れ、其外家毎に大損、未だ地震相止不㆑申、甚珍敷事に御坐候。其御地にては、御別条も無㆓御座㆒候様子承り候故、御尋も不㆓申上㆒、御無沙汰仕候。先は右御礼御答旁〻為㆑可㆑得㆓貴意㆒如㆑此に御座候。尚追々可㆓申上㆒候。已上。
七月十九日 樫田藤治
一筆啓上仕候。未だ残暑強く御座候得共、御家内様方御揃弥〻御壮栄可㆑被㆑成㆓御坐㆒、珍重御儀奉㆑存候。随而当方無異罷居候間、乍㆑憚御休意思召可㆑被㆑下候。然者先達ては、京都ゟ当地殊之外大地震にて、当所城中家少々損所も有㆑之候得共、けが人は無㆓御座㆒、町家多分大崩有㆑之、即死・けが人も有㆑之、未だ少々之地震日々三四度程有㆑之、夫故兎角不安心に御座候、其砌は御見舞御紙面被㆓成下㆒、難㆑有奉㆑存候。御地は無㆓御別条㆒之趣、御同慶奉㆑存候。早速御礼可㆓申上㆒筈に御座候処、盆前ゟ私儀不快にて、引籠罷在候に付、御報も延引仕候。此段御高免可㆑被㆑下候。以㆓御影㆒拙家無異、私儀も此節にては追々全快仕候間、乍㆑憚御安心思召可㆑被㆑下候。且又養父一回忌、養母三年、当月廿日仏事仕度候間、遠方御苦労之御儀に御座候得共、御出被㆑下候様奉㆓願上㆒候。別段申上候筈に御座候へ共、此度之幸便に付申上候。右申上度、御報旁〻如㆑此に御座候。恐惶謹言。
八月二日 長谷川十内
【 NDLJP:44】貴札拝見仕候。秋冷相催候処、被㆑成㆓御揃㆒益御安康被㆑成㆓御座㆒、珍重奉㆑存候。随而小子宅何れも無事罷在候間、乍㆑憚御安意可㆑被㆑下候。其後は打絶え御安否も不㆓相伺㆒、何共背㆓本意㆒候条、奉㆓恐入㆒候。何分小生足痛も未だ聢と不㆑仕、夫故気分不㆓相勝㆒、不㆑計御不沙汰申上候。何分にも御高免被㆑下度候。扨又去る二日、御聞及通、京地ゟ亀山、寔に前代未聞大地震、両三夜計り門住居にて夜明し仕候。其後迚も、枕高うして寝候事も出来不㆑申、于㆑今至り昼夜に七八ケ度宛日々ゆり申候。併し差したる儀では無㆓御座㆒候得共、何分最初之手ひどき地震に恐入、扨々困り入申候。右に付、早速御尋被㆓成下㆒、早々御返答差上可㆑申之処、前段之有様、延引相成候。呉々御高免奉㆑希候。先は右御受旁〻如㆑此に御座候。恐惶謹言。
七月廿一日 西垣丈助
別紙申上候御内政様へ宜しく御伝声被㆑下度奉㆑願候。妻よりも御ふみ差上申度筈之処、益前より中暑、且地震びつくり仕候て哉、不㆓相
一、柏原町家数八十七八軒之処、十八軒潰れ申候外は、不㆑残大ゆがみ、其後追々之地震にて、五軒計り又潰れ申候。即死人三人、怪我人十人計りと申事に候。
一、三宅町家数八十計之処、十二軒潰れ申候。いがみ、への字形に相成候家数廿四五軒計、即死人三人、怪我人十五六人と申事に候。其外町方家中共大体への字形に相成候家数夥敷事に御座候由。荒増承り候事申上候。已上。
浪華亀山の用場に出役の役人宍倉只衛門、主用に付、八月五日立にて、亀山へ到り、同八日に帰来りしが、彼地今以て昼夜に八九遍計り地震之あり、日々二つ三つはひどくこたゆる地震有りと云ふ、此度の地震にて、所々損ぜし有様目を驚かす事なりとて、詳しく其有様を語りぬれども、余りくだ〳〵しければ、其二三を挙げて之を【 NDLJP:45】証すべし。
一、【虫の知らせ】柏原町醤油屋、此家の〔〈主人脱カ〉〕至つて好人物にて、家業を出精し、倹約を守りぬる故、商売大に繁栄し、積財する事多し。亀山より京都へ出づるに、大江坂といへる峠有つて、至つて道悪しく、人馬の常に往来に悩めるにぞ、此者財を散じて、衆人の為に其道を造り、又貧人等には相応の施しをもなしぬるに、近頃病臥して有りしにぞ、之が親類より娘を見舞〈病人の娘なり。〉として、七月朔日に差越しぬるにぞ、之を留置きて、介抱をなさしむ。二日の朝に至りて、此娘云へるやうは、「一寸御見舞に参りしなれば、滞留するの心組もなく、著替一つを持たざれば、今朝内へ還り、滞留の心積して程なく来るべし」とて、家に帰り、「今日は何とも心悪しくて、先の家に居る事心ならざれば、今日一日は内に有りて、明日より参るべし。今日の処は断りやりて給はれ」と、両親を頼みしに、両親これをうけがはずして、「病人の介抱させんとて留めぬるに、今日は行かじ抔いへるは、其方の気儘といへるものなり。病人の事なれば、嘸待侘びて有べし。早く参るべし」とて、無理に追遣りしに、間もなく大地震にて、病人・其娘、外にも家内一人、都合三人、此家崩れて即死せしと云ふ。其親大に後悔して、「かゝる事の心に徹して、行く事をいなみぬるを、無理に追ひやりて、親の手にて殺しぬるに等し」とて、大に歎げきぬるよし。
一、三宅町茶屋鍵屋といへる有り、地震ゆると其儘、老人・夫婦・息子等散り〳〵になりて、裏表へ逃出でしに、嫁は懐妊にて月重りし事故、逃げ後れぬるにぞ、息子も之を案じ、門口迄跡戻りすると、家内の逃出づると一時なりしに、今一足の事にて、其家崩れ、妻はこれに打たれ手足共所々へ飛散り、腹破れて飛出しと云ふ。夫は一旦無事に逃出せしに、これを助けんとて、跡戻せし計りにて、命に別条はなしといへども、大いなる怪我をなして、廃人と成りしと云ふ。
一、或家には、昼寝せんとて、夫婦と子供両人梁の下に休みしが、此日は分きて暑さの堪へ難くて、寝る事なり難かりし故、暑を避けむとて、主は子を抱きて表の方へ出でぬ。妻も引続き起出で、行水の料にせむとて、手桶取つて井の元へ行きぬ。右の子も母親の跡に附添ひて裏へ出でぬるに、井にかゝりて、未だ水を汲上げざ【 NDLJP:46】る内に、地震にて其家崩れ、梁寝処へ落ちて、布団を貫きしと云ふ。これらは暗にして其難を逃れしにて、幸と云べし。
一、【僥倖】或家の家内、小児を寝させんとて、之に添臥し、小児と共に睡りて有りしに、地震ゆり出で、其家をゆり潰す。地震勢にてかくなりし事と見えて、両人の上に畳一畳裏返りて覆ひ懸りし故、潰れたる中に有りて、親子共命を全うせしと云ふ。是等の事にて、其幸・不幸を察し、其余は推量りて知るべし。
右大地震にて家を倒し瓦を飛ばし、何れも大に狼狽して心顛倒せし事なれば、「助けて給はれ」といへる声の、人の耳に入りて、是を救出せしは、遥に時過ぎし事なりと云ふ。
又此度倒れし家を見るに、瓦葺の家は悉く微塵に砕け落ちて、死人・怪我有りしが、藁葺の家は、多くは椀をふせし如くに成りて、形崩れざる家多しと云ふ。総べて天地の間に於て、物の十分なるは無く、火に良きは水に悪しく、此に良きも彼に悪しゝ。事々物々に一失一得有る事なれば、中庸を心として、常々工夫有りたき者なり。又兵家者流に於ても、種々の論有れども、山城に籠り嶮岨を固めとすれば、一夫之を守りて万夫も進み難きの徳有れ共、兵糧運送の難きと、水道を断切らるるの患有り。平城は是等のなやみなしと雖も、四方に敵受るの損有りて、何れも深き心得の有りぬる事なり。「山に寄り山によらず、水に寄り水に寄らず」といへるにも、味ある事なり。心してよし。
貴札拝見仕候。秋冷に相成候処、御家内様御揃弥〻御壮健被㆑成㆓御凌㆒、珍重之御儀に奉㆑存候。然者、先頃此許大変に付、早速為㆓御見舞㆒御紙上被㆑下、被㆑為㆑入㆓御念㆒候儀、忝次第に奉㆑存候。誠に前代未聞之儀にて、何も仰天仕候得共、親類中無難にて、大慶仕候。其後兎角少々宛の儀日々四五度も有㆑之候処、先一昨日頃よりは相鎮り申候。此段御安心可㆑被㆓成下㆒候。私儀も地震前ゟ腹合悪敷く、漸〻両三日以前ゟ快気仕候。夫故御礼答も大延引、此段御宥免可㆑被㆓成下㆒候。右御挨拶、乍㆓延引㆒如㆑斯に御座候。恐惶謹言。
【 NDLJP:47】 八月十二日 梶村昌次
一筆啓上仕候。追々秋冷弥増候処、御全家被㆑為㆑揃益御安康可㆑被㆑成㆓御凌㆒、珍重の御儀に奉㆑存候。随て黄薇国在番中は、不㆓相変㆒数々預㆓御紙上㆒、辱仕合に奉㆑存候。御蔭にて詰中無㆑滞相仕廻引取申候。其砌は船中と覚悟究置候処、参候家来両人共船甚不得手、併し衆評難㆓黙止㆒旨相聞、其上地震之年柄、同役家内ゟも
【 NDLJP:48】 菊月十五日 和田平右衛門
文政十三年諸国の大変 七月二日京都の地震と同刻に、【肥後の阿蘇山崩れ津浪】肥後国阿蘇山崩れ、人家・田畑悉く潰れ、人を損ずる事挙げて数へ難く、阿蘇の一郡大いに荒果てゝ、此崩れぬる勢に、海辺は大津浪にて、人も家も悉く流れ亡せしと云ふ。こは江戸堀木屋一郎右衛門が咄にて、則ち同人が親類の船も、彼地に居合せ、此大難に遇ひて、其船みぢんに砕けしと云ふ。斯かる大変の始末は、其後間もなく肥後の屋敷へ国元より出役せし役人有りて、これも船中にて難風に遇ひ覆らんとせし故、大に困窮す、程なく主用も済みぬれ共、かゝる有様なれば、国元へかへる事を案じぬるとて、委しく語りしと云ふ。外役人の船一艘覆りしが、これは水練達者なる故、海上を泳ぎて命助りしと云ふ。〔頭註〕阿蘇一郡大に荒れしと云ひしかども、是は格別の事にて無かりしと云へり。
同五日・六日・八日・九日、防・長・芸の国々大風雨にて、船多く砕けて、大騒動せしと云ふ。浪華にては、九日午刻過より時々少雨降りしのみにて、只京都の響折々こたへ、少々づつの地震有るのみなりしが、此日彼地は別きて大雨にて、雨の大きさ茶碗の如く、風甚しくして、予が知れる人の乗りし船も打破れしが、幸にして助かり帰りぬる者など有りて、恐しき事共なり。
同二日、雲・伯・因・備の前州近来の大地震なりと云ふ。されども何も損ぜし処なしと云ふ。【中国の地震】これも京と同じく申の刻のよし。大抵咄を聞くに、浪華と同様のゆりと思はる。又備前・播州等は十八日洪水なりと云ふ。
〔頭書〕かくの如く諸国地震甚しき事なるに、作州は其中に在る国なるに、実に聊かの事にして、今のびり〳〵とせしは地震にてはなかりしやと、疑はしき程の事にて、是を知らぬ人多しと云ふ。
十四・五・六・七日、筑前大風雨にて、一国洪水の由、十八日出之相場飛脚に申来りしと云ふ。筑前斯くの如くなれば、筑後は余程地形も低ければ、猶甚しかるべしとなり。【 NDLJP:49】こは米相場する者の云へる事にて、二百十日・廿日共に、大坂にては何一つ申分もなく侍るにぞ、米相場引立て、人の金銀を奪はんとて、かゝる風説する事にや有らむかと、疑はしかりしが、後筑前屋敷にて聞侍るに、彼地七日七夜大雨降続き、地上の水一丈三尺にして、洪水の変を訟ふる飛脚さへ出し難く、漸く三日目に仕立てられしと云ふ。其節には水を渡れるに、人の乳上迄有りしと云ふ。大豆畑二万石計の処流れ失せしと云ふ。され共米に障れる程の事は無しといへり。
豊前小倉屋敷より申来れるに、「七月彼国風雨洪水にて、大に田地損ぜし」となり。豊後辺七月八日大風吹きしと云ふ。
七月十八日の洪水に、摂州高槻領も三ケ処切れ込み、物頭侍足軽等日々百五十程場所に幕を張り、陣笠・股引にて土・砂・石等を運び普請すと云ふ。
十月廿二日大風日暮より尤甚しかりしが、【暴風】此日遠江灘にて船百五十艘計難船し、鰤の番船など江戸湊にても覆りしと云ふ。
十一月廿三日大風昼夜烈しかりしが、此夜西の宮沖にて二十四五艘の船援り、人死多しと云ふ。西の宮計りにてさへ此くの如くなれば、外にも此類多かるべし。又米を積める船十艘大坂川口にては破船すと云ふ。
又十二月朔日夜丑の刻より、【和歌山火】紀州和歌山出火、内町・かくみ町中程畳屋裏より出火、折節東風強く、本町二丁目も焼抜け、夫より米屋町不㆑残匠町半分、本町一丁目・二丁目不㆑残大火、万町かしや町へ焼抜、内大工町半分焼、凡十五町の焼ぬけ、午の刻迄焼る、誠に近年の大火にて御座候。
十二月二日午刻。
右紀州飛脚より申来りしを記せるなり。
夫吾国は神国にして、往古より三種の神宝を以て天下を治め給ひ、神々万民を恵み守り給ふ事なるに、禰宜・社人の類大に道に背き、非人・乞食の如く鈴を振つて、人の【 NDLJP:50】門口に立ちて一銭・一握の米銭を乞へる事、【神道者の乞食】誠に浅ましき有様なりしに、文政五壬年よりして、右手に鈴をくゝり付け、左の手には太鼓・銅鉄子を持ち、腰に笛を挿し、脇の下に、方なる箱に紐付けて、之を首に懸けて脇ばさみ、夜中一人にて三四人の囃子をなし、祓読みて歩ける様、河原者の八人芸又は七化など云へるが如し。神道は正直を源とする事なるに、人をあやかし米銭を貪れる事、大に法に背きぬ。後に此業尤甚しく成つて、白昼に之を為し歩き、中には夫婦連に子供迄引連れ、可笑き囃子方にて人に思ひ付かせんとす。浅ましき業なり。此故に神慮にも叶はざると見えて、其年八月より大に疫癘流行し、暴かに吐瀉甚しく、急なるは半日、緩なるも三日め程には死失せぬ。【ころり流行】世俗三日ころりとて大に恐れあへり。之を大体始めにして、其翌年は丹後・紀伊・大和・伊勢・備中・伊予等に、百姓の一揆起り、七月に至り諸国に筍を生じ、世間至つて騒々しく、大いに人殺あり。同月廿二日、筑後にては、百目に余れる霰降りて地を埋むる程に至り、八月十七日江戸大風、石を飛ばし家を倒す。九月廿七日・十月廿四日、大坂大雨・大雷なり。是れ等を始めとして、年々世間騒々しく、天変地妖打続きぬるやうになりぬ。歎かはしき彼等が所行、神慮をも恐るべきことなり。
今年丹後丹波の間なる嶮難の山々岩石等を切聞き、【丹後丹波間の水運開かる。】両方へ流るゝ川々を、横に切開きて、其流を一つになし、運送自由なるやうになりぬ。され共険岨にて如何共なし難き処八丁有りて、之をば人馬にて運送すと云ふ。斯くの如くなれば、日本の地方東西二つに切れ離れて、漸く八丁の続きなれば、地脈の通ひこれ計なり。如此事神慮に叶はざるにや、伊勢の回禄、京都の地震等有るなるべしなどとて、専ら京都にては風聞すと云へり。【米買占め】
丹波の内保井谷といへるは、杉浦若狭守と云へる旗本の陣屋有り、米買占めの事にて一揆起り、九郎兵衛と云ふ者の家を打砕き、処々大に乱妨せしといへり。
十二月八日、江戸浅草御蔵前、同十日下谷とやらん余程大火の由。同廿三日・廿五日にも余程焼失せしと云ふ。
【 NDLJP:51】歌は世につるゝものとて、古より云習はせ、童謡の前兆を示す事など諸書にも之を詳にす。近来流行れる歌に味ありて面白きは更になく、何れも遊里・芝居等より流行り出でて、【愚劣なる流行唄】皆々淫事をあから様にうたひぬる事の浅間しき事に思ひしに、又これに加ふるに痴人の独語を以てして、小長・男女の別なく、間抜たる音にて之を唄ひ、大に流行す。此痴人といへるは、靭太平浜なる干鰯仲仕にして、一人の母親あり。其詞に曰く、「伊三子は〈名を伊三郎と云ふ〉阿呆でも、親養ふわいなァ」、「虎屋の饅頭二文で買ふとは、ソリヤむりぢやいなァ」、「親の敵をうたいでおこかいなァ、なるものかいなァ、伊三子の腹ぢやもの」。大抵此類なり。されども皆筋立し事なり、大西の芝居にて此者の真似をなしてより、ます〳〵大流行となる。淫事を唱ふよりは増ならんと覚ゆれども、其音声余りに耳立てやかましき事どもなり。痴人の独語かく流行せる事大奇事と云べし。
文政十三年改元勘文 庚寅改元勘文 附地震日記年号勘文
年号事
天保切討 尚書曰、欽崇㆓天道㆒、永保㆓天命㆒。仲虺之誥。
嘉享切繦 晋書曰、神祇嘉享、祖考是皇、克昌㆓厥後㆒、保㆑祚無㆑彊。明堂降神歌。
万徳切墨 文選曰、万邦協和、施㆓徳百蛮㆒、而粛慎致㆑貢。檄蜀人。
保和切波 周易曰、乾道変、各正㆓性命㆒、合㆓大和㆒、乃利貞。上家伝。
安延切無形 礼記正義曰、武王承㆓文王之業㆒、故安楽延㆑年。文王世子。
桑原 式部大輔菅原為顕
年号事
監徳切祴 尚書曰、天監㆓其徳㆒、用㆓集大命㆒、撫㆓綏万方㆒。大甲上。
嘉延切甄 文選曰、寤寐嘉猷、延佇忠実。永命九年策秀才文。
【 NDLJP:52】万延切緜 後漢書曰、豊㆓千億㆒之子孫、歴㆓万載㆒而永延。
嘉永切璟 宋書曰、思皇享㆓多祐㆒、嘉楽永無㆑史。楽志。
寛安切看 荀子曰、生民寛而安。致仕篇。
高辻 文章博士菅原以長
年号事
天叙切無形 尚書、有典勅㆑我、五典勅㆑我、五典五惇哉。○誤字あるべし。
嘉延切甄 芸文類聚曰、祥風協順降㆓社自_㆑天、方隅清謐嘉祚日延、与㆑民優游享㆑寿万年。
嘉徳切祴 春秋左氏伝曰、上下皆有㆓嘉徳㆒、而無㆓違心㆒。
万和切摩 文選曰、布㆑政垂㆑恵、而万邦協和。
元化切瓦 晋書曰、元首敷㆓浩化㆒、百僚股肱并忠良。
唐橋 文章博士菅原在文
寛安 初難
寛安号有㆓緩舒安佚之意㆒。又安字在㆑下之号有㆓旧言之事㆒。且音響亦不快之旨、旧難不㆑少。毎度出現不㆑被㆓採用㆒〈[#底本では直前に返り点「一」なし]〉者、有㆓其謂㆒歟。宜㆑有㆓群議㆒。
実堅
寛安 陳
被㆓難申㆒之旨非㆑無㆓其謂㆒。此号先哲亦難㆑之。雖㆑然字義非㆓一隅㆒、各有㆓其所_㆑当歟。音響之嫌疑亦声韵全同。前修文、有㆓挙奏之輩㆒。虞廷之嘉謨曰、寛而栗。孔門明訓曰、寛得㆑衆、且夫文思安々者、尭天之徳容、安貞之吉者、坤地之元気、最於㆓紀元㆒各為㆓佳字㆒、被㆓挙用㆒何事之候波平哉。宜㆑在㆓上宣㆒。
永雅
寛安 重難
寛安之号、所㆑被㆓陳申㆒雖㆑有㆓其謂㆒、皇太后宮大夫藤原朝臣被㆑難之旨、殆当㆑然候。通声之俗難㆑強、雖㆑不㆑足㆑論、衆口所㆑唱渉㆓患難㆒。両字連続之上者、音響殊不㆑快候。爰按㆓引【 NDLJP:53】文㆒、雖㆑為㆓怡然㆒、於㆓聖代㆒者百歳叟可㆑欲㆑起、所㆑謂野無㆓遺賢㆒是也。而為㆓其書㆒也、子類為㆓其篇㆒也、致仕既及㆓度々群議㆒、不㆑被㆓登庸㆒、亦宜矣。偏可㆓被㆑閣候㆒歟。
顕孝
寛安之判
寛安之号、非㆑無㆓存旨㆒、此号之議暫可㆑被㆑閣㆑之、 斉信
嘉延 初難
嘉延雖㆑為㆓佳号㆒、音響聊不㆓優美㆒歟。且嘉字嘉吉已後久不㆑被㆓採用㆒。以㆓他号㆒被㆑択可㆑然候波牟哉。
永雅
嘉延 初陳
嘉延之号、嘉吉之後不㆑被㆑用㆓嘉字㆒之旨、雖㆑被㆓申難㆒、言化字大化之後歴㆓千余歳㆒而被㆑用㆓文化㆒、已為㆓美号㆒、且芸文類聚之本文、前後審観㆓太平之気象㆒、況今当㆓臘月㆒、建㆓斯新元㆒、被㆑易㆓旧号㆒者、詩中所㆑謂率土同㆑歓、和気来臻。応験又奚疑乎。
基豊
嘉延 重陳
嘉延号之事、被㆓難申㆒之旨、雖㆑非㆑無㆓其理㆒、権中納言源朝臣如㆘陳答被㆓称美㆒引文㆖者、古今通規也、殊於㆓延字㆒者、聖朝佳号不㆑少、衆賢之所㆑知、今更不㆑及㆓申述㆒、又音響之事、非㆓大患㆒者、何有㆓用捨㆒乎。一天下被㆓通用㆒之号、豈以㆓小難㆒哉、論㆓大功㆒者不㆑録㆓小過㆒、大美者不㆑疵㆓細琲㆒、不㆑拘㆓小嫌㆒可㆑被㆓採用㆒歟。宜㆑在㆓上宣㆒。
顕孝
嘉延之判
初陳・再陳之旨趣、既是燦然。斯展㆓翰林之勘文㆒、熟誦㆓音賢之詩詞㆒、今属㆓佳節㆒、殊有㆓其寄実㆒。可㆑謂㆓義善之号㆒候。 斉信
嘉徳 初難
【 NDLJP:54】嘉徳号、後漢嘉徳殿不快之事不㆑一、因㆑之高祖父已来屢申㆓難言㆒、且徳字先々因㆑有㆓被㆑仰之旨㆒、前賢後哲多述㆓所存㆒、実有㆓其謂㆒。旁可㆑被㆑閣㆓此号㆒歟。
基豊
嘉徳 初陳
嘉徳号、嘉徳殿火災之事、強不㆑可㆑拘㆓年号之旨㆒、難陳事旧訖。且徳字雖㆑有㆓二代法言㆒、厥後毎度被㆓挙用㆒之上者、無㆓仔細㆒乎。近至㆓正徳㆒有㆓数号㆒、況引文畳字、而字義殊勝。尚書曰、予嘉㆓乃徳㆒、曰篤不㆑忘。被㆓採用㆒有㆓何難㆒哉。 実堅
嘉徳 重難
嘉徳号、陳答之趣頗被㆑尽㆓其理㆒之上者、不㆑能㆓浅慮之難㆒、畳字最雖㆑可㆑崇、既先賢火災妖孽之難不㆑少。殊徳之字旧難、更不㆑及㆑吐㆓僻言㆒。況上下其以為㆓難字㆒乎。又引文諸候之儀也。雖㆑非㆑無㆓先蹤㆒、旁不㆓庶幾㆒候。 顕孝
嘉徳 重陳
嘉徳号、権中納言源朝臣被㆓難申㆒旨趣、雖㆑有㆓其謂㆒、異朝不快号用㆓我朝㆒度々例也。却吉例多候。徳字雖㆑有㆓旧難㆒、皇太后宮大夫藤原朝臣如㆓陳答㆒、数度被㆑用之上者、可㆑無㆓巨難㆒哉。且此二字就㆑中神妙之間、古来不㆑棄㆑之選進、可㆑為㆓此号之規矩㆒哉。殊本文畳字先哲所㆑執也。又按㆓史記㆒曰、長承㆓聖治㆒、群臣嘉徳、実可㆑謂㆓美号㆒、被㆓挙用㆒可㆑然歟。
光成
嘉徳 三陳
嘉徳号之論難、其説各有㆑理。雖㆑然如㆓引文㆒、上下嘉徳而民和、則何禍災之憂。史記曰、妖不㆑勝㆑徳遂修㆑徳有㆑成。且選㆓元号㆒用㆓畳字㆒為㆑善。此号最可矣。宜㆑在㆓上宣㆒。
資善
万和 難
万和号、万字先賢多難㆑之。且此号出久矣。而不㆑被㆓登庸㆒。窃意有㆓其故㆒歟。旁以不㆓庶幾㆒候。 実揖
万和 陳
【 NDLJP:55】万和之号、被㆑難之旨雖㆑有㆓其謂㆒、万和之二字出㆓文選文㆒、符㆓合子聖代㆒。五行大義曰、陰〔〈陽字脱カ〉〕欲㆑化、万物和合也。然秋来地屡動、是陰陽不㆑和也。当時四海昇平、万邦仰㆓皇化㆒者、万和号協㆑吉、被㆓採用㆒可㆑然候歟。 家厚
嘉享 難
嘉享号、考㆓所㆑引文㆒、晋家受㆑命、明堂降㆑神歌也。於㆓即位紀元之号㆒者、最為㆑宜。今因㆓変異㆒而改㆑元。取㆓他号之宜者㆒、以可㆑有㆓挙用㆒歟。 資善
嘉享 陳
嘉享之号、難言之趣、細論㆑之、則雖㆑如㆑可㆑然。豈唯可㆑泥㆓受命之初㆒乎。本文之中、克昌㆓厥後㆒一句、本㆘周頌讚㆓美文王㆒之詞㆖、続㆑之以㆓保祚無彊之句㆒。如㆑此之歌、毎唱㆓詠之㆒、以祈㆓皇祚之悠久㆒者、臣庶之常情也。且近者天明改元、被㆑用㆓寛政㆒。其引文非㆑関㆓炎上之事㆒。今復本文雖㆑不㆑因㆓変異之故㆒、被㆓登用㆒不㆑可㆑有㆓巨難㆒候波牟。
具集
安延 難
安延号、此文之起、文王病事也。尤可㆑被㆑憚哉。文応度既有㆓其沙汰㆒之由、経光記置候。加㆑之、家父申㆓所存㆒候間、旁難㆓採用㆒候。 光成
安延 陳
安延之難、頗有㆓其謂㆒。雖㆑然尚書註曰、以㆑道惟安寧、王之徳謀欲㆓延久㆒、以㆑之考㆑之、不㆔亦為㆓佳号㆒乎。宜㆑任㆓群議㆒。 実揖
安延 重難
安延之号、権中納言藤原朝臣被㆓陳申㆒之旨、雖㆑有㆓其理㆒、聊此申㆓別難㆒。抑経典歴史其本文不㆑為㆑不㆑少。而此引文僅用㆓正義㆒。若不㆑満㆓人意㆒歟。又延字在㆑下近例、寛延之末有㆓地動之事㆒。於㆓斯度㆒先可㆑被㆑避㆑之乎。 具集
安延之判、
安延之号、両難能述㆓其意㆒。此外猶有㆓可㆑議之事㆒。宜㆑被㆑論㆓選他号㆒。
斉信
【 NDLJP:56】 天保 難
天保雖㆓佳号㆒、与㆓天方艱難之天方㆒、音響相近、如何候波牟。 家厚
天保 陳
被㆑難之趣雖㆑有㆓其謂㆒、字音相近者、於㆓年号㆒強不㆑及㆓其沙汰㆒之旨、先輩茂申候歟。況音訓共優美之由執申人々茂有㆑之候。天保二字、遠則天暦・康保、近則天和・享保、為㆓聖代之嘉蹤㆒。且書曰、天廸格保。是周公旦述㆘皇天眷㆓顧成陽㆒至㆖於㆓〈[#底本では直前に返り点「二」なし]〉保安㆒之詞也。又曰、天寿平格、保又有㆑殷。文公且称㆓殷代㆒、国安而民治之謂也。皇天之保古愈灼、国家之禎祥更臻。宜㆑被㆓登用㆒哉 永雅
天保 二陳
保天号。陳答其理最当矣。天清陽〔恐陰字〕万物之主宰也、保養也。以㆓天徳㆒保㆓養万物㆒、則詩所㆑謂符㆓天保定爾之意㆒、実美号之清選者乎。 実堅
天保之判
天保取㆓仲虺之誥之文㆒以立㆓元号㆒。彼篇王者敬㆑天安㆑命之道至矣尽矣。聖経之要言、明主願可㆑被㆓採用㆒也。然則以㆓嘉延・天保之両号㆒令㆓奏聞㆒候波牟。 斉信
詔書
詔、感㆓禎祥㆒而建㆑号、前史之所㆑記。因㆓変異㆒而改元、後王之所㆑則。朕謬以㆓菲薄㆒、曽為㆓元首㆒、恭守㆓三器㆒、謹御㆓四海㆒。雖㆑尽㆓夕惕乾々之心㆒、雖㆑致㆓鶏鳴華々之思㆒、政令不㆑節乎、教化不㆑行乎、此歳東西或殃、累㆑時民庶難㆑穏。何図㆓宗廟㆒有㆑事、人火延及。京師告㆑変、地震非㆑軽。宮闈弥懐㆓危懼㆒、上下益加㆓驚愕㆒。朕之不逮、何以是裁。今会㆓廷臣㆒、与㆑衆同議、年択㆓嘉号㆒、新発㆓恩令㆒。其改㆓文政十三年㆒、為㆓天保元年㆒。大㆓赦天下㆒。今日昧爽以前、大辟以下、罪無㆓軽重㆒、已発覚・未発覚・已結正・未結正、咸皆赦除。但犯㆓八虐㆒、故殺・謀殺・私鋳銭・強窃二盗、常赦所㆑不㆑免者、不㆑在㆓此限㆒。又復㆓天下今年半徭㆒。老人及僧尼年百歳以上、給㆓穀四斛㆒。〈[#底本では直前に返り点「一」なし]〉九十以上三斛。八十以上二斛。七十以上一斛。今也玄陰将㆑謝㆑蹤、青陽且布㆑和。庶乗㆓此時令㆒、宜与㆑物更始。普告㆓遠近㆒、俾㆑知㆓朕意㆒。主者施行。
【 NDLJP:57】 天保元年十二月十日
二品行中務卿臣詔仁親王 宣
従四位上行中務大輔臣卜部朝臣行学奉、
正四位下行中務少輔臣卜部朝臣久雄行、
年号勘文一本、借㆓京師友人㆒、而忽卒写取畢。且黄昏窗闇不㆑能㆑無㆓魯魚㆒者也。別有㆓宣下恩赦之次第之一本㆒。入㆑夜因㆓使者到㆒、返㆑之訖。凡斯条之次第既具㆓諸書㆒。故返与亦無㆓遣恨㆒者歟。
天保二年卯三月 源長渉(花押)
上卿 二条左大臣斉信公
桑原式部大輔為顕卿
勘者 高辻式部権大輔以長卿
高橋少納言 在久卿
一会伝奏 徳大寺皇太后宮大夫実方卿
奉行 柳原頭右中弁隆光朝臣
二品行中務卿臣韶仁親王 有栖川宮
従四位上行中務大輔臣卜部朝臣行学卿 藤井
正四位下行中務少輔臣卜部朝臣久雄卿
地震日記 渉云、此記可㆑謂㆓審具㆒。然不㆑書㆓九天重闕及二条城塁之頽仆㆒者、恐㆑触㆓忌諱㆒也。記者深慮可㆑想矣。
連日地震、国典所㆑記皆為㆓詳悉㆒。而爾来諸書所㆑記概多㆓疎漏㆒、為㆑可㆑憾耳。去年大震、予親載在㆓左記㆒。今更刪㆓其繁㆒、作㆓地震日地㆒。 梅川重高記洛人
文政十三年秋七月二日丁巳 、申下刻、地大震。従㆓西北㆒来其響如㆑雷。自㆑申迄㆑卯十八度、官舎・民屋破壊頽仆、或有㆓圧死日〔者カ〕㆒。三日戊午 辰刻、大震二度。至㆑夜六度。至㆑旦四五度。自㆓己未㆒至㆓庚酉㆒凡毎時震、或微或甚。七日壬戌 五度。八日癸亥 、午刻・未刻・子刻各一度。寅刻大震一度、中震一度。十一日丙寅 夜四度。初一度甚、此時亦所々破損。六月下浣以来至㆓今日㆒初雨。 十五日庚午 亥半刻一度。 十六日辛未 申刻一度。十八日壬酉 暴雨。十九日甲戌 暴雨洪水、音羽川崩溢。酉半刻大震。乙卯半刻強震、雨未㆑止此日清水寺廊庶顛倒。〈七間二尺五寸。〉二十二日丁丑 未刻一度。 二十五日庚辰 三度。 癸未夜大雨大雷。時々地震。三十日乙酉 暮時一度。
八月戊日〔三日子カ〕夜微震六度。後大震一度。四日己丑 寅刻・午刻各一度。申刻三度。五日庚寅 暮一度。六日辛卯 丑時強震一度。亦微。八日癸巳 旦二度。午時・申時各〻一度。小動二。戌半刻一度。十日乙未 夜二度。十三日戊戌 巳時震雷声。十四日已亥 丑時震。
九月朔丙辰寅時一度、今日三度。七日壬戌 丑刻一度。十一日丙寅 戌刻一度。十三日戊辰 夜二度。 十四日己巳 三度、夜一度。十七日壬申 々剋一度、戌刻二度。廿五日庚辰 四度。或小、或大。廿六日辛巳 深霧、辰刻三度、巳刻二度、各〻号。
冬十月辛丑二度、夜自㆑酉至㆑戌三度、後亦二度。
十一月六日庚申 戌下刻大震、後小動三度、亥上刻一度、後至㆑旦三度。廿六日庚辰 夜五度。昨今雪降。
十二月四日戊子 暁一度。十日甲午 詔書改文政㆓十三年㆒為㆓天保元年㆒、依㆓地震㆒也。廿六日壬子 酉時強震一度、至旦四度。 廿九日癸丑 午刻強震一度。
【 NDLJP:59】本朝地震記 本朝地震記此書は始めに地震の諸説を挙げ、次に神武天皇より以来文政迄、凡二千五百年余の間大地震の年月を記し、且文政寅年七月の地震の始末を記したれば、後世に残し置きて子孫の心得にもなるべき書なり。
葉月の始め庵の柱に寄りて、宝暦の古へのなゐ、其名残もとか〔十日カ〕まりときけば、今たび如何にや如何にと、我も人もおぢ恐れしに、僅三十日まりにて、やう〳〵に穏かなりしは、げに四方の海波豊けき大御代の御いさを高くもあるかなと、独言いふ折、柴の戸押して客の来入り、其一言を此巻の始めに書てよといふ。いともあいなきたゞごとにしてあれど、是がまに〳〵筆とるものは、
洛下隠士何がし誌
本朝地震記 平安城 豊時成編
夫地といふ文字、往昔は塞に作る。これ会意なり。史記・漢書に、墜に作る。震は動なり、亦怒なりとも謂へり。天は動く、四時を為し、地は静にして万物を養ふ。然りと雖、天は左に廻り、地はまた右に旋りて止まず。例へば人船中に在りて窓を閉ぢて坐すれば、其船の自ら行くを知らざるが如し。此故に天も動き、地も亦循環して、
此一帖は、些も世の弄びの為め記すに非ず。遠国辺境にては、様々に風評なすが故、京都に縁者又は知己ある人々は、日夜安心をなさゞる由を聞けり。因りて其のあらましを記し、猶遠境の人をして安からしめん事を願ふのみ。
この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。