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浮世の有様 巻之三
 
 
京都地震実録 (文政十三年)
 

古より天変地妖あり。其数多くして其災も亦大なりと雖も、就中なかんづく地震よりも甚しきはあるまじき事と思はれぬ。往古の地変其故如何となれば、昔よりして山の崩るゝも、津浪の来れるも、回禄の災あるも、多くはこれよりして、なり出る事あり。伝記に載する所、其四五を挙げて是を言はゞ、先づ日本紀に、「天武天皇七年、筑紫国地裂、広二丈、長三千余丈、民屋多仆壊。是時百姓一家有岡上。以其岡崩処遷、然家既全而不破。家人不岡崩家避。但後知以大驚焉。同十三年冬、山崩河涌、諸国舎屋・寺塔破壊、而人民六畜多死。伊予国温泉没而不出。土佐国田苑五十余万頃没而為海。是夕有鳴声、如鼓。聞東方。伊豆島西北二面、自然増益三百余丈、更為一島。如鼓音者神オープンアクセス NDLJP:9此島響也」。

清和帝貞観五年六月、大地〔震〕、翌年五月富士山焼く。

東山院宝永四年大地震、同十一月富士山焼く。近世に至りても、浅間・島原・象瀉・北越等の変、何れ地震せざるはなし。され共是等は皆王城を去る事遠き国々なり。王城の地にして斯かる変のありしは、人皇五十代桓武天皇遷都より九代の帝、光孝天皇仁和二年七月二日大地震打続き、中旬の頃には、洛中に鬼出でて人を取喰つて、七月一ケ月地震ゆり続き、晦日に至り大風吹きて、八月朔日より漸々穏になりしといふ。

此鬼は、目・口鼻・耳の類、悪くき相の数を尽し、之に加ふるに角を以てして、画きなせる鬼にてはなし。大江山・伊吹山・戸隠山の鬼といへるに同じうて、何れも其節に暴悪をなせる盗賊の事なり、怪む事なかるべし。又前太平記に、源頼光を悩ませしといへる土蜘蛛も、盗賊の事なり。頼光は其頃の武将なれども、昔は今の如くに大勢の臣下附纏ふ事にてもなく、事ある時は将軍一騎駈けをなし、平日あるけるにも、僅か四五人ならではつるゝ事なかりしと覚ゆ。〈頼光より七代を経て、土佐坊昌俊が堀川の夜討にても知るべし。頼朝の代官として、伊予守義経、天子守護の身分にて、其節義経の側には、愛妾の静一人にて、男子は厩の喜三太一人なり。これにて昔の様思ひやるべし。〉されば彼土蜘蛛も、頼光瘧を病んで労れぬる噂を聞き、側に人なき折を考へ、忍入りしを、頼光に見咎められ、手疵負ひて逃れ去りしを、彼四天王と呼ばれぬる勇士共の、跡を追ひて北野にて捕へ来りしなり。これより頼光の瘡愈えしといへるも、全く憤発より治せし事にて、これ迄蜘蛛になやまされぬるには非ず。時の武将にして主従五人和泉守保昌と共に、賊の大勢楯籠る山寨に入つて、これを退治する程の人、なにしにこれらの事あらんや。之に限らず、凡て其勇を称せんとて、却つて其人を辱かしむる事多し、心して見るべし。又陸奥の安達原の鬼といへるは、お ​に​​んな​​ ​の下略にして、女の事なり。官女などの罪あるは、古へ皆みちのくへ流されて、皆何れも賤の手業になれざるに、何一つ仕覚えし事なく、姿を取乱しやつれはて、食につきぬるが、旅人に取りすがれるなど、前後に家なき彼の黒塚の事なれば、物すごき事ならんと思はる。清少納言が枕草紙に、「物すごきものは、老女の濃く粧ひせしと、冬の夜の月なり」と書きぬれ共、姿あかつき、おどろなる髪取乱オープンアクセス NDLJP:10し、身につゞれまとひしが、飢ゑつかれ、人を見て喰ひ付きなば、首筋より水かけらるゝ心地すべく思はる。是等を土蜘蛛の類と又混ずべからず。

其後も地震度々有りし事なれ共、よく人々の知りぬるは、太閤秀吉公の伏見桃山の城に居給ひし時、大地震にて所々大いに崩れ、関白には門の扉をはづし、この上に坐して、漸々やうとしのがれし事あり。此節男女仰山に死に失せて、差当り女中に事を欠かれしにぞ、京都・島原・伏見・撞木町等にて、怪我なく死残りし遊女を抱へ込みて、女中に召し遣はれし事あり。此時京都にても、人家大いに破れ、三条・五条の橋も崩れて、死人・怪我人多かりしといふ。其後の大地震といへるは、宝暦元年の事にて、此時も大いに家蔵をゆり倒し、死人・怪我人多くありて、其跡六十日計り、日々幾度となくゆり続けしが、次第々々にかるくなりて、漸々と納りしとなり。かゝる先例も聞伝へぬる事なれば、「此度の地震此くの如くならば、今暫くはゆるべし、最早格別の事もあるまじく」と、八月の初よりは、人々地震に慣れて、平気にて日を送る様になりぬ。

 
                                        
 

寛政十年六月、薙刀鉾折る祇園祭の節、故無くして薙刀・鉾途中より折れぬ。山鉾の多き中にても、此鉾は取分け故有る事にて、是を引き出さゞる内には、余の鉾を引行く事成りがたき事なり。故に人々多くは心にかゝりぬる由なりしが、其年の七月二日申の刻、雷火にて大仏の焼失せしに、今年其年より三十三年に当りて、又祇園祭に其鉾の故もなくして、松原通りを引行く時、途中より折散りしが、七月二日に至り、月日刻限迄も変る事なくして、かゝる大変ある事、これ只事にあらず、大仏の祟れるにや。伊勢の別宮炎上せしも、かゝる前表を知らしめ給ひしにやなどと、種々の風説なり。

内侍所の穢浪華江戸堀一丁目中筋屋藤兵衛母は、京都の産れなる七十になれる母親の、近き頃より病にかゝりて臥しぬるに、二日の大変を聞き、心ならずとて、四日より京都へ上り、廿日に帰り来りしが、これが京都にて聞き来りしは、何か内侍所に穢れし事ありし故、普請新たに建替へしに、阿弥陀寺村藪の中を伐墾き、其土を取つて新たに清き土に仕かへしに、阿弥陀寺村といへるは、元来阿弥陀寺といへる寺オープンアクセス NDLJP:11これ有り、其藪は古へ墓地なりしとぞ。かゝる所なれば、五輪など掘出せるに、これを隠くして其土を入れし故、其祟ならんとて、今度新に上賀茂の河原より、土を運べる事なりとぞ。其真偽は知らざれども、聞きしまゝを記し置きぬ。

此日四条通り、不思議の難を免がる烏丸東へ入る薙刀・鉾の町にては、祭礼の節の物入の算用をなさんとて、鉾を預れる家に町人中集りて、其算用をなし、酒など飲みて居たりしが、今少しにて算用片付きぬる事なれども、此日は別けて暑さの堪へがたきに、各〻酒を飲みし事なれば、愈〻暑さの堪へがたければ、何れも「湯あみして来るべし。然かして夕飯をもたべ、夫より仕残りの算用をなすべし。夜に入らば少しは風も出て、冷しくなりて宜しかるべし」とて、各〻其家々に帰り、未だ湯あみをもせで有りぬる内に、右の大地震にて、薙刀・鉾の入りし蔵一番に崩倒る。若し何れも今暫く此処にあらば、一人も無事なる人はあるまじきに、何れも幸にして此難をのがれぬと云へり。〈こは賀茂丹後が旅宿とは、家四軒目に当る家の蔵の此蔵、三軒目の家へ倒れかゝり、三軒目の蔵は隣家に倒れかゝり、丹後も大いに狼狽せしとて、其有様を委しく同人よりきゝめ。町人共此蔵の中にて、算用してありしといふ。鉾の道具悉く微塵にくだけしといふ。〉かゝる大変なれば、宗廟の回禄、薙刀・鉾の折れしなど、其前表なきにしもあらず、と覚ゆれども、大仏の崇りに至つては、取るに足らざる愚昧の説と思はる。されども当時の様を委しく書残さんと思へる故に、かゝる用なき事迄も書附けぬ。かゝる大変に遭ひて死ぬも生くるも、其人々の運・不運にはあれ共、常に心落著きて、かゝる変に遭ふとも狼狽する事なくば、心神明らかにして、両眼よく物を分ち、これを避くるの道あるべし。縦令これらが為めに命を失ふ事ありとも、精神落著きて、狼狽する事なくば、見苦しく取乱す程には至るまじくと覚ゆるぞかし。後世語り伝へて人々の心得となすべし。されども此書は世間へは忌み憚る事をも記しぬれば、必ずしも他見する事なかるべし。

 
                                        
 

一、初めに京都よりの書状を一々に記しぬるも、これを照らし覧ば、自ら地震の有様を知るに足ればなり。亦其文面にて、人々の剛臆も顕れ、自然と心得べき事もありて、これを証せんと思へばなり。

一、文の中にも、門徒坊主が常住不変の浄土を思へるなど、心にもあらぬ嘘を殊勝オープンアクセス NDLJP:12らしく云越せるに、法華坊主が地震の直中たゞなかに、はや泣言なきごといひて無心をなし、そろ勧進の下拵をなしぬるも、つら憎きにぞ、これを後の世迄も、笑ひ草にと書附けて置きぬ。

一、本文の中に、予が聞ける事をも委しく記し置きぬ。これもそれも、よりにて確なる人に聞きて、少しも疑はしき事にはあらず。

一、亀山には親類多く、自ら人の往来も多き故、これも委しく記し置きぬ。其外所所の変ありしも、其国々の人に逢うて慥なる事のみを記す。

一、本文に云へる如く、所司代の一騎がけなりしは、よき心掛にて、さもあるべき事なり。大勢の家来一人もつゞく事なく、大うろたへなりし事を、京童の物笑ひとはなりぬ。夫れ士たる者は、常に忠義を事として、治に居て乱を忘るゝ事なく、文武に心身を練磨せば、事に臨んで狼狽する事はあるべからず。七万石の家中に、主を大切と思ひ、これに附添ふ人一人もなかりし事、恥づべき事にあらずや。これらを聞くに附けても、士たる者はよく心得べき事なり。

一、浅間焼・島原崩れ・北越の地震等、別記あり。是等とてらし覧ば、自ら心得となる事あり。常に是等をも見置きて、不時の変に遭ふとも、必ずしも心を取乱して、恥を受くる事なかるべし。

一、享保の浪華・天明の京都・江戸の文政の回禄等、別に記録あり。是等も常に心得て置くべし。

     京都の大変

一、京都の大火夜前八つ時ゟ、四条麩屋町南西角より出火、西へ四軒計り、東へ三四軒移り、東北風強く、麩屋町通り南へ焼広がり、両側共一丁計り焼失、五つ時火鎮まり申候。

  七月朔日 ​京飛脚​​  大七​​ ​

 
                                        
 

     同地震

一、当月二日未刻ゟ発、一既に洛外伏見街道町続近在、人家・土蔵崩れ、怪我人数不知、市中一統、往来又は地面広き所へ、板・畳等敷き、油火多く持難く行灯・提灯等にて明オープンアクセス NDLJP:13かしを取り、日覆・雨具掛け凌ぎ、飯事休候事六ケ敷候。東西本願寺、其外寺社大損じ、御所堺町御門ゆりくづれ、五条橋詰半丁余り大崩れ、誠に大騒動、荒増書記申候。

 右之通京都より申来り候。已上。

   七月四日 

 
                                        
 

一、昨二日七つ時ゟ大地震にて、夜九つ過迄相止み不申、尤諸商売勤まり難く、家々畳抔大道へ出し、大に騒候趣、只今京都より申来候。右に付飛脚方下り、諸用向今日は無之、此段御断申上候。

                      ​京飛脚​​  小和田屋利衛門​​ ​

一、伏見街道は、伏見の地震京橋乗場辺家損候趣。夫より海道板橋辺ゟ上、所々之家倒れ有之。黒門上町五六軒損有之、小児一人知れ不申由、一の橋より上、大仏正面迄、人家多倒れ、此内十七八歳の娘一人即死。五条橋東詰北がは焼餅や倒れ、怪我人有之。是より寺町三条ゟ上、猶急に有之由、寺々の塀門損じ多く、三条蹴上げ十七八軒倒れ、此内老人即死、八坂塔倒れ、猶又両御堂様少々損じ、並に仏光寺様同断。烏丸松原西北角両三軒倒れ、丹州亀山様御火の見大に損じ、醒井わつたや町浄土寺倒れ、七条御花畑半丁計りしをれ、今夕に至り未だ少々宛地震の気あり、老若男女にかゝはらず、大道に日覆致し、野宿同様。尤牛馬往来無之、死人之儀も多く有之趣に候へ共、未だ委しく相分り不申候。猶委敷事は追々相知れ申候。先荒増右之通書付、御覧に入申候。

  七月四日 小和田屋利衛門

一、京都の地震京都昨四日に至てもゆり止み不申由、尤夜四つ時迄同断。伏見表、又々昨四日両度大にゆり、大地ひゞきわれ申候由、申来候。

  七月五日 

一、当地之地震毎度預御尋忝奉存候。当二日申刻ゟ西刻迄に、大地震四度来り、諸方の土蔵一軒も不残及頽破、家建も大損じ、中々家内に居候事出来不申、皆々大道オープンアクセス NDLJP:14に日覆致し、二日夜より大道へ出、休息致候処、三日・四日も両日に大地震凡十四度も参り、大騒動前代未聞之事に御座候。今日抔も大分震ひ、七つ時分治り候模様也。併附合中には、怪我人等も無御座候間、此段御安心可成候。承り候処、一条堀川には蕎麦屋堀川に崩入り、客人六人即死、清水舞台前参詣人過分死失、其外所々にて死去之輩御座候由也。委敷儀は追々可申上候。

  七月五日 林鷹治郎

 
                                        
 

御翰忝奉拝見候、如貴命未残暑強候処、倍〻御壮健可御座之由、奉雀躍候。然者近火の儀に及御聞、尚又二日ゟ大地震の変動、当地別て強く有之、御見舞として御深切御尋、忝仕合に奉存候。追々御聞の通、大変驚入申候。乍併三十九年以前島原崩の節、下拙廿二才罷成候故、能存居申候。其節の模様に能似たる事にて、数日に及び可申考、次第軽く相成儀と奉存候処、是迄は考通り、今六日迄も少々宛、かすかに三五度有之候。只今模様に候はゞ、安心に至候哉と、皆々申居、町家さま風評仕候て不穏候。御察可下候。兼々御無音仕候て、時々御尋不申上、失礼御用捨可下候。何角万端過書町方御世話罷成、何分宜敷奉願上候。右御答御礼旁〻早々以上。

  七月六日 ​四条東洞院旅宿​​     賀茂丹後​​ ​

四日出の御文、六日に相とゞき、有がたく拝しけり。仰の如く当年は残暑つよくおはしまし候得共、いよ御両所様にも御きげんよく御便り承り、山々悦び入けり。次に此方皆々無事に相くらし居申候。憚ながら御きもじやすく思召可下候。扨又二日の地震の儀は、御地にても珍らしきやう仰下され、当地はけしからぬ大変にて、私方借家も甚だそんじ、心配仕候。町内にても家三げんたふれ、五条にても二けんたふれ、其外家たふれ申候事おびたゞしき御事にて、即死人先々四五十人計りは御座候よし、今に毎日少々づつゆり、心ならぬ御事に御座候。尤家・蔵のつぶれ申候事は、筆紙につくしがたく、尚々跡ゟ、又々くはしく申上けり。オープンアクセス NDLJP:15千切屋への御文さつそくに相とゞけ申上けり。申上度御事はたくさんに御座候得共、何か取込、まづは御礼御返事かた申上度、筆末ながら、恭衛様へも御申上下され候やう願上けり。先はあらめで度かりし。

  七月八日 ​伏見街道五条上森下町​​    津国屋 さい​​ ​

御文下され、有がたく存上りし。如仰暑さつよくおはしまし候得共、どなた様にも御きげんよく入らせられ、○慮もじハ慮外、しんもじハ親切ノ意御めでたくぞんじ上けり。此方みなぶじに暮し居申候間、慮もじながら、御心易思召下さるべく候。さやうに候得ば、二日七つ時の大地しんにて、家々所々そんじ、又々けが人もたんと御座候得共、此かたの辺は、けがもなく、悦入けり。御しんもじに御尋ね下され、かたじけなく悦入けり。あなた様にも、定めし御おどろき可成と存上りけり。しかし御けがもなく悦入けり。御無沙汰のだん、幾重にも御免るし下され候やう願上けり。先は御礼御返事まで申上けり。めで度かりし。

  文月十日 ​左門前​​  千切屋まちゟ​​ ​

 
                                        
 

     京都出火

一、出火九日夜四つ時、寺町頭鞍馬口下小家ゟ出火、四つ半時火鎮り申候。同暁七つ半時頃、新町一条下る有栖川宮様御役人長家ながやゟ出火、半時計り焼け、火鎮まり申候。昨十日迄、京都地震相止不申候。尤九つ時抔は余程きびしく、其外ゆり候事は度々の趣申参候。

  七月十一日 小和田屋利衛門

尚々彦根一向々々中地しんにて、何のあたりなきよし申参候。御同前に歓入まゐらせ候。大津も京都よりは、かろく候よし申候。

 
                                        
 

両度の御文のやう忝さ、御申のごとく残暑つよく候処、其御程、御揃ひ何の御障りなく、めで度ぞんじ上候。土用中御見舞申入候御返事、ことに其御元ゟも、うるか沢山に送り下され、忝く、長々と賞翫たのしみ可申やう忝存候。扨は去る二日の大オープンアクセス NDLJP:16地震、其御地はかろく御座候よし、安心いたし候。当地のやうす、追々御きゝ御案被下候よし、やま忝存候。誠に前代未聞の御事、はなしにもきゝ申さぬおそろしさ、中々筆におよびがたし。まづ御所方・堂上方・二条の城、すべて御築地廻り、土蔵は大かたそんじ不申はなくて、けが人・死人おびたゞしく、おひいろあはれなる咄ども承り候。此方家内中一人もけがなく、お竹方・お久方・其外えんるゐ中、無事に候まゝ、御安堵可給候。此方家もゆがみ、かはらおびたゞ敷ちり、天井など落懸かり、土蔵はかべ両方へひゞき落懸かり候ゆゑ、土落させ、まづ怪我の出来ぬ用心いたさせ候。職人手伝等やとひ申事一向出来がたく、是にはこまり入申候。蔵の内の諸道具、みな座敷へはこび出置き、あつさのせつさん困り入りたるものに御座候。其上大地震のち昼夜幾度となく、日々どろゆさ、二三日は何十遍と申ほどゆり申候。中々家の内に居候事あぶなく、屋敷内にあき地の有所は畳敷き、雲天井の所へ出居、夜を明し申候。町家など、町内の中などへ畳敷き、むかひ側ゟ細引はり、すだれ・のれん、夜分は蚊帳つり、家々のまへに野宿いたし候。町々の高張挑灯、家々のちやうちん夥しくとぼし、長さ一丁・二丁も続き、夫は美事にて、船のやうにみえ候よし、町内のせまき所は、近所の広き所、又は河原へ出かけ、家内ふしまりの所、又盗賊又は火つけのひやうばんにて、一向々々やかましく、拍子木おと、火の用心ふれ、武家よりも夜昼まはりしげく仰付られ、厳しき事にて、二条御城も石垣四五十間崩れ落ち、高塀倒れ、城内あらはに外廻りる見え申候由、大広間と申す千畳敷も、潰れ候との沙汰にて、其外寺々、土塀・廻り石灯籠・右碑の倒れぬはなく、北野神前のとうろうなど残らずたをれ候よし、大仏の石かけ三つ計大道へゆり出し、耳塚も上の台一つ飛散り候よし、〈上の屋限石計、目方四百貫目有と云ふ。〉一条戻り橋半分落ち、其近辺麺類屋座敷堀川の深みへ落ち込み、またあたご山大荒にて、寺院二三軒も谷底へ落ち、丹州亀山の天守落候よし、色々ひやうばんに御座候。今九日、去る二日ゟは八日めに相成候得共、いまだやみ不申候。今朝など、飛で出候やうな地震一つ御座候。当地には、か様な事無之所と存居候処、散々恐ろしき事にて、此節は人々腹中あしく、食事すゝみかね候やら、夜分とくとやすみ申さず、人気もうろといオープンアクセス NDLJP:17たし居申候。まづは御返事ながら、あら地しん御はなし申入候。どなた様よりも御そへ筆の様忝、まづ御案じ下されまじく候。めで度かりし。

  文月九日したゝめ         鷹司殿諸大夫宅は寺町御門之内也富島左近将監

愚子岩二郎・お竹・おひさへも御加筆のやう忝、申聞せ可申候。此方浪江へわけて御そへ筆のやう忝、まづ両人共無事に、此間の地震も、折節小児湯をつかひかけ申候処にて、大にびつくり、我等と両人にて小児かゝへ、裏の栗の木の根へ立退き、玄関前広く御座候ゆへ、二夜計りは玄関前にて暮し申候。恐ろし地獄遠きにあらず。余り長寿も入らぬもの、家も蔵もとんと当てにならぬ世の中に御座候。此節町々諸商売共止、にげ仕度のみに御座候。

尚々時期残暑御いとひ専一に奉存候。如何成宿世の因縁乎、年寄去年より度々の大難、此度は別而気落いたされ候てをられ候。皆様へ宜敷数御伝可下候。

 
                                        
 

     口上

五月は罷出、不相変御信心の御世話、辱奉存候。御母様へ御厚礼被申上被下度、御召使の御女中へも宜敷御礼頼上候。残暑強く御座候得共、御母様始、貴公様御安全、可御暮、珍重の御儀に奉存候。松栄様別紙同様宜敷頼上候。貫主ゟ宜申上候様被申付候。此地七月二日未之下刻・申之上刻地震にて、東西七間半・南北七間之台所、西へ三尺程傾き、内之諸道具不残取出、戸・障子はづし置候。二間半に二間の院代部屋つぶれ、瀬戸物類・茶漬茶碗・菓子椀・膳・椀の類破損仕り、庵者住居と雪隠二ヶ所潰れ、諸道具・小棟迄不残破損、井桁外へくへ、井中もくへ候哉、水大に濁り、二日之夜は朝迄一寸も寝ず、高張表へ四本、裏へ二本立て、三・四・五日・今六日迄、小地震打続き、漸今日は納候様に被存候。無怪我、御休意可下候。此後諸堂の修復再建、御見知之通無檀家、御朱印は居所計り、末寺は音妙庵・元政寺等之無檀地、掛る島もなき難渋に御座候。

一、此度は長崎へ唐船が四艘程も著船之由、毛せんなど若下直に候はゞ、二枚御寄附頼上度、色は何にてもよし、無地にてもよし、花色なぞもやう御座候てもよろしオープンアクセス NDLJP:18く、胡椒も少々頼上候。御母様松栄様に御相談可下候、頼上候。早々以上。

  七月六日                  ​伏見深草​​ 宝塔寺日旺代筆​​ ​

 
                                        
 

京都諸所の損害一、御所御殿廻り少々損じ候由、堺町御門崩れ、鷹司様・九条様・其外御公家様方、塀大損じ、御殿廻は聞不申候。二条御城石垣崩れ、東大手門崩れ、南手之中程にて石垣一尺計下り、四方之塀は皆々壁落ち御城内相見え、御所司・両御奉行所大損じ、獄屋敷獄家の壁落ち、科人見ゑ申候。北野天神鳥居落ち、奇妙成は、中程にて上之石留り有候。今一つ奇妙は、廻廊之内少も損不申候。其外瑪瑙之灯籠抔崩れ、西六条御殿廻大損じ、狩野家抔之結構成襖・上段之間抔之画も皆破れ、大台所大損、雑物入之蔵崩れ、本堂五寸こけ候由に申候。興正寺様塀崩れ、対面所崩れ、其外所々損じ、東六条は元ゟ焼地にて少之事、乍併枳殻御殿塀倒れ、御殿廻り大損じ之由、大仏殿誠に大き成塀之下之石こけ出で、耳塚上は落ち、台はゆがみ候。五条橋下辺大損じ、半丁計家崩れ、洛中・洛外蔵は不残、偶〻残る所之蔵は、壁割れて何之間にも合不申候。町家崩れ候処は数不知、けが人数不知、死人凡百人計と申事に御座候。其外しまり之出来できぬ家は数不知、宮・寺之筋れ候処は無之候得共、稀に御座候。大宮通雪たや町、浄土寺本堂へたり申候。何事も聞くと見るとは大に違ひ、左程には無之物に候得共、此度之損じは、人の噂よりも御覧になり候はゞ、大変に御座候。此頃にては、少々収り候得共、矢張えい山・愛宕等地鳴いたし、時々ゆり申候。二日・三日・四日は大道住居、又は野宿、藪の中へ宿り候など、いろに御座候。併やぶへ這入り候者は、蜂にさゝれ、蛇に喰はれなどせし者も沢山に御座候。地震最中人々のなきごゑ、何とも申しやうも無之事に御座候。

 上様にも、御所之内之広場へ、御出被遊候由、是は人の風聞に御座候。

                            ​  孫七​​ ​肥前屋

 
                                        
 

華墨被下、辱拝見仕候。然者当方大変に付、早速御尋被下候段、御深切之程忝奉存候。先以御本山様御別条無御座候段、難有奉存候。乍併御真影を御守護にて、御オープンアクセス NDLJP:19門跡様三日三夜之間、御白砂に被入候段、実に前代未聞之儀奉恐入候事に御座候。尤御殿廻りは、余程の御破損に御座候得共、先以て両御堂は御別条無御座候。扨又拙方之儀は、乍両人別条候得共、拙は胸痛之病性故、大に動じこまり入罷在候。乍併今日は少々宜き方にて御座候。尤今以てやはり一時々々には少づつ地震にて、昼夜に十二三遍は鳴動いたし申候に付、扨々不安心の物に御座候。大に病性にこたへ申候。娑婆と申所は、扨々不定のさかひにて御座候。早く常住不変の浄土へ参り度き者に御座候。か様の時は深く御慈悲を喜び能在候。扨両人も帰るなと被仰付候段、御同慶被下忝奉存候。扨拙も三日夕船にて下り可申と奉存候処、右之大変にて、尤も当方も五六間程の土塀倒れ、其外にも所々破損に付、夫々修復等も申付け、荒方直し置き不申候ては、出坂も難致奉存候に付何れ盆後早々の出坂に相成可申候。委曲御面会に御礼可申上候得共、先は御答旁〻如此に御座候。早早已上。

  七月七日                          ​西六条宏山寺​​    寛善坊​​ ​

扨千本通抔には、昨日頃に至り、六軒も家一時にたふれ、人も七八人も損じ申候由、扨々油師相成不申事、尤も御地も余程御珍敷地震之由、さぞ御驚と奉存候。昨夜承り候処、若州之方は十八ヶ村泥海と相成候由。所々大変に御座候事。

 
                                        
 

御状忝く拝見仕候。先以残暑甚敷御座候得共、弥〻無御障珍重奉存候。誠に承候得者、御地も少々地震ゆり申候様承り、嘸々御驚可成奉存候。扨又京都は、二日の七つ時、誠に古来稀なる大地震にて、大に驚入候。乍併家内皆々無別条逃申候間、其段乍憚御安心思召可下候。扨ゆり直し皆々あんじ、二日・三日・四日の夜は、加州屋敷の芝原にて、町内皆々同宿仕り、漸く昨日五日ゟ少々腹のびくも納り、夜前ゟ家内へ帰り居申候。誠に百歳之老人も是迄箇様の地震覚え不申由、扨神社・仏閣・人家・蔵入之損じ、誠におびたゞ敷事に御座候。御所辺は筋塀並にくゞり皆々こけ、誠に気の毒なる物に御座候。此方も少々戸袋・戸棚・へっつひ道具少々損じ御座候。子供抔は早々向屋敷へ逃候間、とんと怪我不仕候間、乍憚御安心可オープンアクセス NDLJP:20下候。右申上度、尊顔上万々御礼御咄可申上候。

地震之跡頓と染物出来不申、甚困り入申候。震後窃盗放火流行す亀甲佐殿染小家潰れ、大怪我いたされ、大困りにて御座候。頃日は盗人やら火付やらにて、頓と商売手に付不申候。

  七月六日                ​河原町​​  柿屋忠兵衛​​ ​

 
                                        
 

当二日七つ時より京都大地震に付、所々大損じ候事書記し難く、御所様始め神社・仏閣、外方町裏・裏屋敷少も損不申事なし。今に折々中位なるどろ・小どろ数〻覚え不申、誠に恐入候。然し下拙宅格別損じ不申候得共、土蔵さつぱり間に合不申、一ヶ所は四つに張裂け、誠に大難渋仕候。無難なる道具類預け度候にも、大方損じ土蔵計り也。漸く此節大抵なる土蔵へ預け、残りは宅へ成丈け入置候得共、火の用心致心配、一向職人などは仕事手に付不申様申居候。

一、酒屋樽損じ、酒流し候事。  一、紺屋藍つぼわれ候事。  一、瓦屋瀬戸焼所釜類、

右数不知、此節屋根瓦直し候にも、瓦屋に瓦破れ候て、とんとなし。京都にて土蔵倒れ候分計三万七千計。其外瓦大輪落損候は数に入不申、夫に此頃に成りて、折節たふれ候蔵御座候。家小屋たふれ候事、此数不知候得共、怪我人は数不知候得共、是右之割には少々なり。当町には一人もなし。今に少なる地震時々御座候。恐れ恐れ

  七月十一日                  扇谷権右衛門

 
                                        
 

御状忝く拝見仕候。御表益〻御安静に被御揃、珍重奉存候。然者金子一歩、外に金一朱、御見舞として送被下、干瓢沢山、不相変御厚志に御思召被下候段、難有受納仕候。家内共大に悦居申候。扨当地大地震、此ふじ節曽に参、定めし御聞之通、二日ゟ今日迄留り不申、八日昼前より八つ時分迄三べんゆり、夜九つ過より明迄七遍、九日昼後二遍、暮過より明迄三べん、十日昼前後夜三べん、十一日四つ時分三遍、昼まへ後二へん、暮五つ前二へん、夜更けて四遍、七つまへ大地震一べん。右之仕オープンアクセス NDLJP:21合故、先月廿九日四条大火ゟ七日迄、何事も出来不申。七日ゟ机出し候得共、右之仕合故、手に付き不申、右之中へ九日一条新町鞍馬口出火、十日丸太町・瓦町・高倉仏光寺上る処出火。箇様に何角取交候故、只うろと計り致居申候。

一、此度之荒は、北野天神御境内が第一と奉存候。石灯籠不残。石之鳥居、

北野の鳥居破損

〈[#図は省略]〉 此所よりはすに、雨方共をれたまゝ立て有。


 表の鳥居笠石開き、

一、祇園鳥居は別条なく、石灯籠百三十六無事なるはなし。

一、大仏宮、智積院、同家中門塀皆々崩れ。

一、耳塚、宝石飛び、火袋より下悉くねれぢたり。耳塚の石飛ぶ

右之外、御所様初、御城、石垣・高塀北南廿間余崩れ、西筋鉄門たふれ、其外寺町通寺寺、西東寺町塀に無事なはなし。

粟田・清水焼物釜不残潰れ、是は余程大金之由。五条坂茶碗の破た事大金

一、西本願寺蔵三つ、東本願寺東殿、高塀、其外大荒、町々家蔵の潰れ多く、京中蔵に無事なはなし。

一、熊谷平一郎殿、此間奉公に、安井前ゟ丁稚参り、其よく日、松原柳馬場南東角高塀つぶれ、下に敷かれ死す。親元に段々掛合金子三両出し、内証にて相済。右物入心遣ひ之段、気の毒に奉存候。御馴染故一寸申上候。箇様の類は沢山な事。

一、当月五日、御公儀へ死人の書上げ七百人余と申す事。右にて御察可成候。

一、愛宕・高尾は今に山鳴り、山には人なし、参詣人なし。

一、四十年まへ、八十年まへ、大地震有之候得共、此度の地震は格別にて、昔太閤桃山に御在城之砌、大地震にて、三条・五条の橋ゆり落ち、右之地震此方と申事、恐ろしき事、荒増申上候にて御察し。下拙共も、箇様の様子にては、盆後にも納り不申候。オープンアクセス NDLJP:22命有之候へば、何れとか可仕存罷在候。

一、此品麁末に候得共、御祝儀之印迄、御目に掛け申候。何分右之仕合にて、うろ仕居申し、何事も盆後可申上候。箇様之荒れに候得共、所々大寺・宮之本殿は無別条。町家にて蔵・石灯籠は皆々損じ、此節作事方一時に相成、手伝一人が五百文、大工・左官三人前・四人前出し候てもなし。宜敷物は作事方・油・らふそく・酒の類。併きはにて銭払はぬ者、多く有之様察入候。御案内之悪筆之上、此節は只手もふるひ、文面も分り兼ね可申、御察し御笑覧々々々。

  七月十二日                    ​三条寺町​​  中村長秀​​ ​

 
                                        
 

当月六日・九日両度之尊翰、昨十日落手拝読了。如貴諭,残暑難消御座候得共、貴様愈〻御安康可寺務、珍重之至に奉存候。随而、小生漸々無異消光候条、御案じ被下間敷候。扨当地当二日大地震に付、毎々態々御尋被下、御厚情之段奉謝候。当院ゟも早速にも申遣度候得共、誠以甚だ取込、何分行届不申候。扨野院儀も、兼而檀徒側ゟ御聞分も御座候哉、方丈築地不残、廟所向誠以大崩、不残こみじに相成り、其外門内・外高塀・門番所、其外供待、玄関の高塀及び便所、大庫裏・小庫裏、総瓦不残ずり落、土蔵は半崩、米蔵相崩、其外庭廻高塀は勿論、竹垣等、石垣迄、不相崩れ、今日に至り地震不相休、此上如何に相成候事哉と、日々不安心之至に御座候。留守中故甚以心配いたし候。乍併御表役人中追々参り見分、当八月法事前迄には、荒増は片付候様、掛合中に御座候。夫故誠以繁多にて困り入申候。其外山中常住向は不申及、諸院不残大小之崩れ御座候。一々中々以筆紙尽候。余は当院之御行事にて御知可下候。貴地は格別之儀無御座、先々御安心之御事に御座候。

  七月十三日                    ​明信寺中​​  麟祥院​​ ​

 
                                        
 

一、地震左之通、

十三日巳之刻大一。同亥子之刻、同断。同丑刻大三中。十四日・十五日は格別之響なく。十六日朝卯辰之間大一。

オープンアクセス NDLJP:23其余とんいたし候得共、さしたる儀も無御座候間、先づ安心仕候。右之段申上度、余は後音可申上候、已上。

  七月十七日                    林鷹治郎

一、今朝承り候処、昨日之大雨にて、伏見街道五条下る二丁目・三丁目は、水之深さ四尺余と申事にて、床に溢れ、二三人も死人有之候由。尤も同所東に音羽川と申す小川有、深さは矢張加茂川同様にて御座候処、昨日之大雨にて加茂川洪水にて、音羽川へ溢れ下り候水、自然と同所へ溢れ候事と承事に御座候。二条之御城西手石垣凡七八間通り崩れ堀に陥り、実に其響雷の如しと申す事也。二条は現に見聞いたし候人之物語にて、決して先日已来風評いたし候。丹後・但馬之荒之空談之類には無御座候に付、乍序一寸申上候。其余は昨日申上候通に御座候。

一、地震雨の次第左に、

昨夜亥子の刻、中一。今朝より暮に掛ては、一向覚え不申候。雨は昨宵連夜ゟ今昼迄、昼後は一端止候得共、兎角曇天にて困り入申候。併雨は先納り居申候。右大略申上度、余は追々可申上候。已上。

  七月十九日                    林鷹治郎

二白、昨日の大雨にも、当町内、其外懇意先、何も無難之由、御賢慮易思召可下候。併地震之上の大雨故、京中之人は実に青い面と申す事也、御推察可下候。

一、此間中之晴雨、地震は昨夜迄に申上候通り、其後は夜前九つ時迄曇天也、雨なし。子の刻より雨降り、通宵いたし、今四つ時に漸く止む也。併し曇天、夫より九つ時より少し雨、七つ前止み、只今にては晴候模様也。地震は、昨夜初更前大地震、一、同夜七つ時、中一、同七つ半、同断、今辰の刻大地震、〈二日已来之事也。〉同午刻、中一、同午下刻、同断、同未刻同断。先此通り、但びりは不絶御座候。今昼少し過ぎ雷鳴、内を明け両三度飛出し候事有之候。右申上度、早々已上。

  七月廿日                     林鷹治郎

 
                                        
 

扨先日より只心ならぬ有様之区へ、一昨十八日・十九日之大雨にて、所々大きに損じ、オープンアクセス NDLJP:24又当二日よりの損じたる家々、先人之住居は片付候得共、諸道具抔戸板を以て仮家拵へ候処へ、右之大雨にて難儀なる事、誠に気之毒の次第也。十八日・十九日は、昼夜に八九度づつ又々地震ゆる也。何共気味之悪き御事に御座候。清水の廊下少々すだり候よし、音羽山少々崩れ候由、承候。右に付、伏見街道は海道ぢやと申也、見に行く人も有之候得共、拙宅も御存之通り車之輪形にて、水大溜りの所へ、内へも少々は入さうにて、中々外へは出る事叶はず。西洞院通、又堀川、右両所は当四月の水にも同様之事に御座候。〔原註〕西洞院堀川等の水、四月と有れども、是は五月かと覚ゆ此時も、堀川と賀茂川と両川にて人死十八人有りしと云。先日も申上候通、地震之節は絵本に有候通之有様なれ共、此度は大雨之中之地震に候得ば、如何成り候哉と、互に顔見合す顔は、当世浮世絵書も及ばぬ有様、あわて廻る所は、鳥羽絵にならば書もならうか、下略、

  七月廿日                    半兵衛

 
                                        
 

一、地震、昨日は地響計りにて、格別無御座候様覚え申候。一昨夜初更二つ、中一。同四つ時迄小四つ、今未の刻中一、尤今朝五つより八つ時迄びりは八九遍程、今酉の下刻小一、びりは夕方より只今迄四五度計り。

  七月廿二日夜五つ過認む                林鷹治郎

廿四日中・小、合七つ。廿五日、中・小、合九つ。内二つは中之少増し。 右申上度早々已上。

  廿五日                     鷹治郎

廿六・七・八日も、昼夜度々之地震にて、廿九日明け七つ時ゟ、大雨・大雷鳴・電光甚だしく、夜明けて止み、廿九日は大悪日なれば、之にて事済せし事ならんと思ひ居りし処、申の刻ゟ又大雨・大雷、日暮に至り止みしかば、最早地震もよもや有るまじと思へるに、初更に至り中位なる地震にて、地鳴・山なり等も折々有り、晦日も同様にて、時々ゆら・ドウ・トントンと云ふ音して、地震有り、八月朔日に月も替りし事なれば、仔細あらじと思へるに、ゆさ・ドロ・トンにて午の刻地震。

一、地震之儀、今以相続き、日々少々宛御座候内、五日・六日に二つ計り宛中印有之、オープンアクセス NDLJP:25同八日度々有之内、中之大七つ有之、先此間中の玉にて御座候。今九日は辰中刻小、其後は格別之儀無之、右為御知申上度、如此に御座候。已上。

  八月九日                    林鷹治郎

 
                                        
 

寺町通り石薬師御門下る西側に、押小路家地震の為僥倖を得押小路大外記殿といへる殿上人有り。至つて貧窮の暮しにて、愍れなる有様なりしに、地震にて屋敷大破に及び、浅間しき有様なれども、是を普請する手当もなく、聊の金借れる方もなければ、詮方なくて、普請の事を公議へ願ひ出でられしにぞ、これを聞済まし有しか共、御所を始め、二条の御城の大破に及びしをも、直に御修復もなき程の事なるに、堂上一統大破にて、何れもこれを願ひ立てらるゝにぞ、急には取掛りがたくてや、其儘に為し置かるゝにぞ、押小路殿には、種々にして風雨を防がんとせられしかども、打続き度々の地震に悉く崩れ、今は突張つゝぱり以て之を持たす事もなり難く、居処さへもなき程に成行きしにぞ、大工を招き、「斯かる様に成行きしかば大いに困り果てぬ。此古木を用ひて、居処と飯焚所さへ有れば、夫にて宜しきが、何程にて出来なるや」と、尋ねられしに、之を積りて、しかの由答へしかば、夫にて普請の事申附られしに、斯かる困窮の事なれば、「先金を受取らではなり難し、渡し給へ」と云ひぬるにぞ、聊の手当とてもなき事なれば、古証文現はる詮方なくて途方に暮れられしかば、大工云へる様は、「斯くては外に詮すべなし。然し土蔵一ケ所無難なれば、これを売払ひ給はゞ、可なりの御住居にはなるべし」と申しぬる故、外に致方なければ、「しかすべし」と、其手積をなし、蔵の内より物取出し、反古など取調べられしに、智恩院の古証文一通あり。其文言に云ふ、「四条縄手に於て四町四面の地面、慥に預り候処実正なり、何時にても御入用之節には、返済可申由」なり。是迄数百年来此証文有る事を知らず、故に如何なる事共分かり難き事なれ共、斯かる証書の事故、早速所司代へ之を持出で、宜しく御計らひ被下候様願はれしに、所司代申さるゝには、「斯かる慥かなる証書これ有る上は、直に御掛合ひあるべし。若し故障の筋もあらば、其上は此方の計らひたるべし」と答へられしかば、右証文を以て、押小路殿より、直に智恩院に掛合有しか共、同寺にても一オープンアクセス NDLJP:26向申伝へし事もなく、是を知れる者更になしと雖、無相違証書なる故、旧記悉く取調べしにぞ、其事相分りぬ。こは古への事なりしが、縄手三条辺は大和小路とて、河原にて人家は申すに及ばず、畠さへこれ無く、至つて悪地なる故、之を発開する事もなかりしかば、旅人・乞食の類常に此所に行倒れぬるにぞ、其頃は押小路の領地なりしが、縄手三条辺昔は悪地なりし事聊の益とてなく、毎々行倒者の取片付けに困じ果てられしかば、幸ひ智恩院の近辺故、右地面を同寺へ頼み預けられしと云ふ。斯かる地面の事なれば、再び取返す心得もなく、其儘に打捨て、云伝ふる事もなく、今にては大いに繁昌の地となりしかども、後に至りこれを知る人さへなき様になりしなるべし。智恩院にても此事明白に分りしかば、「何時にても御返し申すべければ、御受取り有るべし」との答へなるにぞ、押小路殿には、夢見し如く、思ひ寄らぬ家督に有附き給ひぬ。然るに縄手三条下る所より祇園新地・四条芝居の辺、凡て京都川東にて、当時繁昌の所を引抜四丁余方、新に地頭替りし事なるにぞ、所の者ども、何れも寄合をなし、「堂上の領地となりては、已後何事に寄らず迷惑の事多くあるべければ、いづれも申合はせ地面買取るべし」とて、金子六千両より追々に直上げし、一万両迄附上しかども、押小路殿には是をうべなはず、此度改めて右の地面引当に知恩院へこれを預け、金子二千両借り度き由、掛合かけあはれしに、同寺にても、これまで数百年の間右地子を取収めし事なる故、早速に是をうべなひ、其金を出せしと云ふ。至つて繁昌の土地故、右二千両の借金は程なく相済み申すべき事にて、永々押小路家の家督とはなりぬ。地震なくば此事も知らで、これまでの如く貧困に暮さるべき事なるに、地震の大変に因りて、斯かる幸を得し人も一奇事と云ふべし。天保二辛卯の秋の頃にいたり、誠に困窮に迫り、如何ともしがたき所にて、かゝる幸を得られしと云ふ。近来珍らしき幸福なりとて、其噂高かりき。

禁裏御所、御門・御築地等壁落ち屋根損じ、所々これ有りと雖、格別大損じには非ずと云ふ。

仙洞御所、御築地悉く倒れ、大破損にて、御内を見透しぬる故、幕にて囲ひ有りと云ふ。女御御所は、格別損じなく、御築地も其儘にて有りぬる由。

オープンアクセス NDLJP:27有栖川宮、土蔵一ケ所崩れ、北の方の塀倒れしと云ふ。

京極宮・閑院宮、何れも大破損の由。

関白様・九条様・一条様・二条様・近衛様大いに損じ、其外堂上方一統大破にて、大い

に御殿を損じ、塀・門等の崩れざるはなし。六門悉く破損すと雖も、堺町御門・寺町御門尤も甚しと云ふ。寺町通寺々の門・塀、一として倒れざるはなく、其砕けぬる様を見るに、大道へ豆腐を打付けし如しと云ふ。本堂も大体ゆがまざるはなく、瓦を飛ばし、壁は大方落ちしと云ふ。二条御城西手の御門、下石垣三尺計り地中へゆり込み、御門は屋根くだけ散りて、人の尻餅をつきしと云へる様に成りて有りと云ふ。此門の北手四五十間計り、南手にて十四五間石垣崩れ塀倒る。又城の南面は、一統に七八寸計りも地中へゆり込み、石垣の半ばにて所々石飛出で、東の門崩れて有りと云ふ。塀・矢倉等悉くゆがみ土落ちて有り。右の如くなれば、城中も大破にて、黒書院〈千畳敷と云ふ。〉崩れしと云へり。其外近辺の屋敷悉く塀倒れ家損じ、城外広小路所々地裂け、大なるは一尺、小なるは三四寸、深さ大抵三尺計り有りとなり。地震ゆると其儘、所司代禁裏に伺候す所司代松平伯耆守〈丹後国宮津城主。〉には、馬に打乗り、御城内へ馳入られしが、家来一人も出で来らざるにぞ、夫より只一騎禁裏御所へ馳付け、六門をも乗越え、〈天明の大火に亀山侯には下馬札に火事羽織を打掛けて乗込まれしと云ふ。此度は其儘にて乗打せられしとなり。〉御台所御門前に馬を乗放して参内有り。天子の御機嫌を伺ひて出られしに、未だ口取さへ出で来らざりしとなり。夫より直に、仙洞御所へ参内有りしに、漸々と此所にて家来追々馳来りしと云へり。地震三更過より追々ゆるやかになりしかども、流言飛語にて人心恟々絶間なく震動する事なるに、明日朝に至り、何者とも知れず、「今日申の刻には、又もや大地震ゆり戻し有りて、京中くつかへるべし、若しさなければ火事有りて、悉く焼失せて残る家なし」など、専ら流言せし事なれば、前日の地震に何れも心顛倒へせし事なれば、老若男女上を下へと騒動し、神を祈り仏を念じ、泣き喚く声のかしましく、誠に哀れなる有様なりしかば、直に議奏・所司代等より触を出し、「右の如き噂致しぬる者有らば、直に召捕りて出すべし」と、厳しく仰渡されしに、其日何事もなかりしかば、少しは人々心を安んぜしか共、何分にも幾度といふ限りもなく、昼夜共に大小の地震震ひぬる故、何れも薄氷を踏む心地なオープンアクセス NDLJP:28るに、窃盗放火家も蔵もしまりなき事なれば、盗賊・火附大勢徘徊し、所々にて物を取られ、一日の内幾所となく附火つけび有りて、其騒々敷事、之を譬ふるに物なし。所司代・町奉行等より厳敷手当有りて、両三人計りは召捕られしか共、少しも始めに異なる事なければ、又々厳しき触有りて、「夜分無提灯にて歩行きぬる者は、士・町人に限らず一々召捕るべし」と也。此事所司代より殿下へも御達し有りて、たとへ宮家の御家来たりとも、無提灯なるは一々召捕らへらるゝ様に成りぬるにぞ、少しは穏かになりしと云ふ。され共地震止む事なく、世間至つて騒々敷き事なれば、町奉行より内々御頼の由にて、木村・小堀・角倉等よりも役人を出して、市中を巡らし非常を戒め、所司代は二日より七日迄禁裏へ詰切つめきりなり。其余禁裏・仙洞の御附きも終始詰切にて守護し奉ると云ふ。愛宕山は所々崩れ、坊二つ計りは谷底へつり付き、茶店の類一つも残れるはなく、嵐山も裂け、天龍寺の上なる山も同断にて、平地も所々裂けぬるよし、家蔵の破損挙げてかぞへ難し。

 
                                        
 

浪華福島鳥羽屋儀兵衛、折節上京にて本能寺へ滞留中、此地震に出遇ひぬ。同人の噂に、六日間陛下庭上に御し、所司代守護し奉る。七月七日広橋一位殿本能寺へ墓参にて、禁中の様子を御咄しあり。主上・上皇共、二日の地震をば御庭なる築山に出御ありて御避給ひ、公卿・殿上人も残らず御側に伺候す。所司代にも「近く参りて守護し奉れ」との勅命にて、御築山の元に坐して、昼夜の差別なく、七日迄座を動く事なし。七日に至り、「装束手丈夫に仕替申すべし」との勅命にて、其後暫休息すべき由勅命有りしと云ふ。天子にも七日迄庭上に座を鎮め給ひ、二三日は一向供御も召上らず、典薬より練薬・煎薬等を奉りて、是を召上がられ、御手水の節には、非蔵人四五人にて之を助け奉りし事なりとぞ。公卿百官何れも、二三日は練薬・洗薬等にて、しのぎ給ひしと語り給ひしと云ふ。

又少しも座を動き給はざりしとも云ふ。庭上に其儘はだしにて飛下り給ひしなどとて、種々の巷説あれども、これに従ひ難し。広橋殿本能寺にて物語せられしを、取りてこゝに記るしぬ。

〔頭書〕所司代には、近く参りて守護し奉れとの勅命故、玉座近き事なれば、円オープンアクセス NDLJP:29座を敷く事もなり難く、七日まで土の上に坐せられしと云ふ。二日地震最中、二条城に入りて、夫れより禁裏・仙洞へ参内の事、あつぱれ所司代を勤めらるゝほど有りて、かく有る可き事なり。然るに家中には大いに狼狽のみにて、一人も主につく家来の一人も無かりしは、如何なる事ぞや。平日何のために扶持せらるゝ事にや。かゝる騒動の中にて、若し主人に過ちあらば如何にせんと思へるにや、不覚悟の事どもなり。

かくて地震日々ゆり動く事、青蓮院宮の参内其数多き事なれば、京中の町人何れも、門中・河原等へ畳を持出で、幕・風呂敷・戸板等にて、己れが家の間口丈けの構へをなし、杙を打つて蚊帳をつりなどして、薄氷を踏む心地なるに、粟田青蓮院宮様、日暮過ぎて参内せんとて、供人もしろにどて、先へ高張を灯させ、寺町通を北へ、「脇へよれ、よけよ、控へよ」抔と、声荒らかに、供の者共掛けしかば、大道住居の町人共大いに腹を立て、「此騒動の中にて、人を払ふは、どなたなるや」と云しかば、「青蓮院の宮様なり。早く除よ」と云ぬるにぞ、「宮様にもせよ、如何なる御方にても、此騒動に左様の儀相成らざれば、其方より途を除けて早く通られよ。老人・子供・病人なれば、少しも動かし難し」と、口々に呼ばはりて、少しも頓著せざるにぞ、侍共大いに怒りぬるを、宮には、輿の内より、「よけて通るべし、人にあやまちさすべからず」とて、行過給ふに、所々にて蚊帳の釣手に引当り引掛りなどすれば、「こは産婦の今頻に悩めるなり、除けて通られよ」なぞ、声高に罵るにぞ、高張を倒し、輿を下げて、これをくゞりつゝ行過ぎ給ひしを、鳥羽屋儀兵衛本能寺より此様を見て有りしが、人も必死の場所に望み腹をきはめぬれば、何にても恐しき物なし、其節の人々の勢ひ甚しき事なりしとて語りぬ。

 
                                        
 

二日の地震よりして、日々数多の震動止む事なく、其間には、叡山・愛宕山等鳴動して、一統少しも心を安んずる事なきに、十八・十九両日共、一天滝の漲り落るが如くに大雨降り、雷鳴甚しく、如何に成行く事ならんと、皆々恐れをなしぬ。みる間に大道一面川の如く成りしが、賀茂川は素より、清水の滝の流れ、音羽川といへるに、オープンアクセス NDLJP:30一時に水漲り落ちて、伏見街道五条下る辺にては、四尺余平地の上に水流れ、地震にて損ぜし家に、大雨にて水内へくゞり、何処彼処どこかしことなく雨漏りて、これに困窮なる上、又もや洪水床の上二尺余に及びしかば、其狼狽これを譬ふるに物なし。併人死は僅か三人なりと云ふ。定めて怪我せし者も多からんと覚ゆ。堀川にては、本国寺藪へ切れ込みし故、下辺大に助かりしと云ふ。併し七条の辺は、何れも床の上へこえしと云ふ。併し家々の損じ大層の事なりとぞ。

 
                                        
 

伏見は、二日の地震にて家も処々損じ、其後日々幾度となくゆり動きぬれども、京都程にはなしと云ふ。十九日の洪水も、暴かに宇治川水高く、京都と両方よりの流れにて、暫しは水につかり、床上一尺余に及び、如何せんと騒動する内、槙の島より南へ切れ込みて、南一面の水と成りて、淀の方へ流るゝにぞ、淀にては床の上三尺にも及び、大変の事なるに、伏見は大いに水引いて、同所より淀の小橋辺迄は、裳をかゝげて川中を歩まれる程になりぬ。小橋より伏見迄五十丁の間は、常に水深く瀬強き事なれば、登り船には、何時いつにても小橋よりして引手をましぬる事なるに、其後は水少き故、伏見の乗場迄は船著け難しと云へり。

 
                                        
 

二日の地震にも、牧方の上手より所々堤等裂け崩れ、家・蔵等も倒れ、淀も同様なれども、伏見よりも手軽き様に思はる。鳥羽街道の堤三十間計り、三尺程地中へ揺込み、小家少々損ぜしと云ふ。其外芥川・江口等にても、小家塀抔ゆり倒れしに、近辺なる茨木・高槻等は少しも損ずる事なく、結句伊丹にては、石の鳥居・石灯籠・土蔵等をゆり倒せしと云ふ。西宮・尼ケ崎なども少々損ぜしと雖、これ等は未だ確かなる事を聞かず。

 
                                        
 

大坂にては、余程震動せしかども、十二年前卯六月十二日にゆりし地震よりは、少し手軽き様に思はる。其節の地震には、住吉の石灯籠・南都の春日の灯籠をゆり倒し、近江にては、人家・寺院等多く倒れ、地裂けて泥を吹出し、死人・怪我人有る事仰山なオープンアクセス NDLJP:31りと云ふ。此度に於ては、住吉・春日は云ふに及ばず、難波新地辺にては、誠に聊かの震ひにて、大坂は微震住吉・堺等は、尚更手軽き事にして、「今の〔は〕地震にては無かりしにや」と云へる程の事なりしとぞ。されども浪華にては、京都の響と見えて、八日の夜三更・五更と両度ゆり、十日午の刻一度、十一日夜四更一度、これは二日此方の地震なり。夫れより折々、地響の様にて幽かにびりする事折々覚ゆ、十九日酉の刻一度、廿日辰の刻一度、廿三日未の刻一度震ひぬれ共、格別の事にてはなし。〈廿九日寅刻より大雨・大雷電、辰上刻止む。〉 十八・九両日の大雨、京地に同じけれども、少しも雷鳴なし。大川筋常水より高き事五尺計りにて、聊かも水の患ひなし。同日池田川洪水、順礼橋流失、人死ひとじに・怪我人余程有つて、田地をも損ぜしと云ふ。福井と云へるは、勝尾寺の麓にて、地面も余程高き所なるに、床より上に水つきし事一尺余と云ふ。富田相村等も、床の上一尺余の水なりしと云ふ。

宇治も、地震にて所々損ぜし由。大津も微震大津は、格別の損もなく、地震も至つて軽く、大津と京との道の半ばよりして、大津方は何事もなく、京都の方は、家も倒れ大いに破損して有りと云ふ。

鷹が峯にては、幅一間余に長さ三十間余の所、地面引くりかへりしと云ふ。こは浪華江戸堀一丁目中筋屋藤兵衛親類の屋敷なり。其余家蔵一つとして無事なるは無しと云ふ。

 
                                        
 

十八日の洪水の節、清水本堂へ取掛かる所廊下少々すり落ちて、二間余りも損じ、地主権現も其節損ぜしと云ふ。廿二日祇園下河原七観音の本堂崩れ倒る。同日高台寺の庫裏倒れ、人死有りし由なれども、上向は内分にて済ませしと云ふ。十八日の洪水に、下津より少し下にて堤切込み、山崎一面の木浸しに成り、宝寺八幡宮辺の町家迄、床上三尺余の水なりしと云ふ。明信寺弟子宗愛が云へるには「地震にて破損せしを角力に見立て番付にせしに、御室は西の関にて、明信寺は関脇なりし」とふ。二条城の修復料又同人が咄に、「一条御城の修復二十五万両、御室の修復六万両と、大工棟梁中井岡次郎が凡その積なり」と云へり。余は是にて知るべし。京地大地震八十年オープンアクセス NDLJP:32已前に有りし時も、五十日計りゆり続きしが、次第に軽く成りて納りし由なり。此度の地震も、かゝる先例あれば、また暫らくは揺るべし抔云ひて、八月の差入さしいりにもなりしかば、皆々地震に馴れて、人気も落ちつく様になりぬ。此度地震の為に変死せし者四百三十八人なれ共、病人・産婦の類は、これに驚きぬるより変症を生じ、死せる者追々多く、小児は癇を発し、妊娠は悉く堕胎す。医と産婆と、これが為に日日奔走して寸暇なしと云へり。

 
                                        
 

浪華国島より上京して、富小路殿姫君小宰相典侍と申奉る、御局へ八年余も勤めし女有り。地震の際禁裏の実況此者御見舞見物旁〻此度上京して、禁裏・仙洞、其外所々方々、地震にて損じたる様を委しく見来りぬとて、委しく語れるを聞くに、二日の夜は、「天子始め奉り、御庭の住居なるに、漸々と夜気を避くる覆ひ出来しは、玉座のみ計りにて、太子・女御の御上には、傘差懸けて夜を明かしぬ」と云ふ。典侍及び諸公卿等は、其儘にて夜をし給ひしとなり。女御様御蔵一つ崩れしと云ふ。内侍所へ不浄の土入れしと云ふは実説にて、又百人余の人夫にて取捨等事なりとぞ、普請奉行の罪遁れ難き事なれども、天子もこれを憐れみ給ひて「これを罪する事なかれ」との叡慮の由。又「此度地震にて変死せし者共の弔をなし遣せ」とて、寺々へ勅命有りしと云ふ。

 
                                        
 

昔吉備公入唐の節、琵琶の怪説彼地より持帰られし紫錦藤にて作れる琵琶あり。 〈紫錦藤は阿蘭陀木にて、藤の大なるなりと云ふ。〉常の琵琶三つかけし如く大なるが、之を弾ずる時は、怪しき事有つて不吉なりとて、出雲大社へ奉納になりしと云へり。然るに当仙洞には、音楽を好み給ふ故、国造に命じ、此図を写さし献覧の上、其琵琶を取寄せ給ひ、長く留め置かるゝとて、三年に及びしに、大地震其祟にや抔、専ら風説あるにぞ、「早く取りに来れ」との勅命にて、大社より九月朔日是を受取りに上京せしと云ふ。これ等は王位軽るきに似たり。一つの琵琶何ぞ此くの如き変を仕出すに及ばんや、怪むべし。只其形白木の古びし如くにて、てんしゆに皮を当て、龍虎を其皮に画けるにぞ、龍虎の琵琶とも云ふとなり。

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此度の大地震不思議なる事三つ有り。三不思議北野天神の本社拝殿計りは少しも動く事なかりしと、西六条茶室の庭先、縁より一間余を隔てたる石灯籠の屋根、かむり笠の格好なるが、内へ飛込み、茶室の床の壁を横に打抜き、水屋へ落ちしが、下に茶碗ありしに、其上へ落掛りしに、其茶碗少しも損ぜずして、大なる屋根石其上にすわり有りしとぞ。余り不思議なりとて、其石を以て壁の破れに合せ見るに、きつしりとして、此石通抜けし外に少しの損じもなしといへり。又烏丸の出水には、東向の蔵の少しも損ずる事なくして、北向になりしと云ふ。此蔵は後年咄の種に其儘になし置くといへり。

地震追ひ少くなり、鳴動する事も次第に薄らぎぬる様になりて、或は二日・三日に一二度位の事なりしに、九月十一・十二・十七・廿三・廿六日等には、余程大なる地震にて、人々胆を消しぬといへり。十月の末に至れども、折り地震・山鳴等有りと云ふ。

十月六日酉の刻、同八日寅の刻、両度共七月二日以来の大地震にて、京・伏見・亀山等にては、大いに恐れ、大道へ畳持出し、暫らく其上に居て、一人家に有る者なかりしと云ふ。全く七月の地震にこりし故なるべし。され共暫しの間にて両度共相止みぬ。大坂にても余程の震ひなりし。

十二月廿八日酉の刻、少地震、同廿九日午の刻少地震す。大坂此くの如くなりしかば、京都も定めて震ひし事ならんと思はる。程過ぎてこれを聞きぬるに、七月二日已来の大地震なりしと云へり。

 
                                        
 

   出雲国大社琵琶 叡覧の事

    天奏柳原頭弁御書写

天日隅宮実物之内、琵琶一面、今般被叡覧、則令奏達候処、殊に御満足之御事候。宜申達御沙汰候、仍如斯、謹言。

   二月十八日 隆光

オープンアクセス NDLJP:34     国造北島館

    大社宝物琵琶上京之次第頭書

天日隅宮宝物之内、龍虎琵琶一面、御叡覧可在旨、文政十一戊子二月、天奏柳原頭弁殿ゟ書翰到来、早速佐草数之進・□弾正両人上京被仰付、諸事相伺候処、琵琶之事実委敷御尋之上、何分画図可差出旨、被仰渡、両使帰国有之、広瀬土佐之介 仰付、同九月二日ゟ、会所に於て書写奉り、同月下旬、使者高尾市雄を以て差出、奏達被在候処、頻に御勅望に仍而、関白殿より所司代へ被仰渡、関東へ御示合之上、御老中より国守へ被仰渡、同十二月朔日、佐草・□両使を以差出、早速奏達有之候処、正月六日長橋局へ持参可仕旨に付、両使持参差出候処、画図に御引合御叡覧被有候処、毛頭無相違、関白殿・親王方、其外御参内之公卿・殿上人、追々拝見被仰付、琵琶は勿論、画図之写方、甚被 御叡慮、画工之家名迄も、委敷可書出旨被仰付

主上始、御参内之公卿方御一統、御称美被在、実に和漢に稀成珍器、田舎に稀成画筆と云、旁〻御感心不浅旨、天奏ゟの御沙汰也。琵琶は神田大和之介へ目利被仰付、大内に御預り、御修復被仰付、追々御試之上、追て御沙汰可為在旨にて、両使へ御暇被下置、丑三月朔日帰宅也。猶琵琶之事実は、三代実録・禁秘抄等に詳也。

     目利書

槽 紫藤。  腹板 塩冶。  唐頭 花櫚。  海老尾 黄楊。転手  紫藤。  覆手 紫藤。

右は古代之作有之候処、 凡百八十年計前に、総体御修復相成候事と奉存候。乍恐右之通拝見仕候に付、奉申上候。 已上。

 文政十二年丑二月 神田大和之助

謹案三代実録貞観九年之条、冬十月四日己巳、従五位下掃部頭藤原貞敏卒。貞敏者、刑部卿従三位継彦之第六子也。少耽愛音楽、好学琴、尤善弾琵琶。承和二年為美作掾兼遣唐使准判官。五年到大唐上都。逢能弾琵琶者劉二郎。貞敏贈オープンアクセス NDLJP:35砂金二百両。劉二郎曰、礼貴往来、請欲相伝、即授両三調、二三月間尽了妙曲。劉二郎贈譜数十巻。因問曰、君師何人、素学妙曲乎。貞敏答曰、〔是〕我累代之家風、更無他師。劉二郎曰、於戯昔聞謝鎮西、此何人哉、僕有一少女、願令枕席。貞敏答曰、一言斯重、千金還軽。既而成婚礼。劉娘尤善琴笋。貞敏習得新声数曲。明年聘礼既畢、解纜帰郷。臨別劉二郎設祖筵、贈紫檀〔紫〕藤琵琶各一面。是歳大唐大中元年、本朝承和六年也。云々。

又禁秘抄玄上之条。累代宝物也。置中殿御厨子。根源様人不之。掃部頭貞敏渡唐之時、所渡琵琶二面、其一歟。紫檀直甲ヒタカフ也。大宋人云、紫檀者大様不六七寸、直甲之条不信云。但此甲非只物紫檀也。凡此琵琶、云体云声、不未曽有物也。云々。由是観之、三代実録中悉具せり。禁秘抄には、玄上のことありて、紫藤のことなし。されど古来より二面の宝器なれば、至霊も何れ劣らぬ御重玩は、いはでも実に有難きことなり。但玄上の事は種々異説もありて、猶炎上に半ば焼失のことも、諸書にみえたるに、此御器の依然と世に遺りたるこそ、いみじくも尊からめ。且此度叡覧に奉り、御寵栄に御秘庫中に蔵め給ふこと、大日須宮国造の県然たればなり。太平の御代かゝるためしは、唐・天竺にもなき目出度き国のいさをしならずや。出雲国造は、天穂日命の後胤なり。日本紀に、高皇産霊尊大己貴尊に勅して曰く、「汝が祭礼を当主つかさどる者は天穂日命是なり」と詔あり。穂日命より今に至る迄、不生不滅にして、父身退みまかれば衣冠正しく座せしめ、食膳常の如く備へ侍る時に、子は大門より出で大庭へ行き、神火を続ぐ。彼宮にて祭礼事畢りたりと告来るとき、父の国造北門より出だして葬の事をなす。嗣子は入替りて、酒宴をなすこと常の如くにてありける。其神火を以て膳夫調へ祭る。是によりて父の喪もなく、酒肉をつこともなく、五服の忌もなく、悲歎することもなく、誠に聖門の哀の道もなく、神道忌の法もたれたるに似たれども、凡そ身体髪膚は皆父母の遺体にして、譬へば木の実の生々窮まらざるが如く一体なるべし。されば後無きを不孝とするの戒めも、思ひ合せらるゝことにて、此理を能く考へ知り給はゞ、父母の孝より起つて、神慮にも人道にも背かざるべし。誠に殊勝の神勅遺風なり。仏家の種子を断つこそ、さぞな神オープンアクセス NDLJP:36慮にも聖教にもたがひぬべしと思はれ侍る。出雲国造の家官位を受けず然るに、国造は叙爵と云ふ事もなく、公侯貴人と雖、献酬の礼もなし。偶〻たま人其残瀝〔喰カ〕残を喰へば、唇欠け歯落つ、若し誤まつて沓を踏めば、忽ち足すくむ。国造之れを許すと云へば、則愈るとぞ。すべて神官の仕へ崇敬すること、実に神の如くにす。昔後醍醐天皇、御祈の為に官位を授給はんとて、尋仰られけるに、穂日命四十八世孫国造孝時勅答に、「夫れ国造は、辱くも天照大神の勅を受けてより以来、神々相続で、神火を鑽り、神水を稟けて、未だ流俗に混ぜず、神水は天穂の真水、今に至て源流断えず、神火は天照大神より受継うけついで、今日に至る迄消滅せず、而して此の身穂日命一体なり、故に往古より官位なし」と申し奉りし也。昔は一国造たりしが、孝時に三子あり、嫡子清孝多病にして子無し。二男千家の祖孝宗亦不肖にして父に従はず。千家と北島故に三男北島の祖貞孝家督を続ぐに定まりける。時に祖孝が母孝時を諫めて曰く、「清孝多病なりと雖嫡子たれば、願はくは一代神職を続ぎて後貞孝に神火を継がしめ給へかし」と、孝時これを諾し、建武三年清孝神火を継ぎて後に、父の命を背き、職を二男孝宗に譲る。貞孝後に奏聞を経て、父の譲状に任かせ、神火を相受く。是より両国造に分れ、年中の行事祭礼総べて月々代る行ふ也。

 
                                        
 
     地震之節役録

所司代  七万石   ​丹後宮津​​ 松平伯耆守​​ ​ 大御番頭 一万石   新庄主殿頭 大御番頭 一万五千石 内藤豊後守 条御殿預 四百石  三輪市十郎 御鉄炮奉行 三百廿石  松平市右衛門 御蔵衆 百五十俵 佐々竹三四五郎 同御蔵衆 百五十俵  石寺八蔵 同御門番 二百俵  石渡亀治郎 同御門番 百五十俵  水野藤十郎 御目附       間部主殿頭 御目附        木下左兵衛 御町奉行 三千五百石 小田切土佐守 御町奉行 二千石   松平伊勢守
禁裏御附 二千五百石 野一色信濃守 同    二百俵  堀尾土佐守。 仙洞御附 千石    永井筑前守 同     五百石  御手洗出雲守。 禁裏御賄頭 二百俵   比田川定次郎

オープンアクセス NDLJP:37             禁裏御所方並山城大川筋御普請御用兼帯御代官六百石、外 小堀主税

淀川過書船支配  二百俵   角倉為二郎 同御代官兼帯役 二百石  木村宗右衛門 桂川筋賀茂川堤奉行 廿人扶持  角倉帯刀 御代官大津町奉行兼帯 二百俵  石原清左衛門 御代官御茶御用掛兼帯 五百石   上林栄次郎 御茶御用掛り 三百石  上林又兵衛 伏見御奉行 一万石   本庄伊勢守
交代御火消 十五万千二百六十八石  ​郡山​​ 松平甲斐守​​ ​ 同     六万石 ​膳所​​ 本多下総守​​ ​ 同     十万三千石 ​淀​​ 稲葉丹後守​​ ​ 同     五万石  ​亀山​​ 松平紀伊守​​ ​ 同     三万六千石 ​高槻​​ 永井飛騨守​​ ​
御大工頭 五百石四十人扶持    中井岡治郎 同棟梁  百石    弁慶仁右衛門 同     三十八石  矢倉又右衛門 同     七十五石 池上直三郎

右之外北面・医師・与力・同心之類之を略す。御城内にも余程死人・怪我人ある由、されども是は深く秘して有る事なりとぞ。故に詳に知り難し。

 
                                        
 

     京都大地震之次第。是は早速に板行にて売歩行きし書附なり。

一、去る七月二日七つ時、大地震ゆり出し、其厳敷事言語に述べ難く、都は今も大地に入るかと疑はれ、家々の土蔵は潰れ、或は壁崩れ、又は裂割れて、凡そ京中の土蔵一ケ所も満足なるは有間じく、端々の家一時に崩るゝ音誠に夥しく、洛中・洛外家毎に畳を大路に投出したれば、吾一と屈蹲踞りて、其儘此夜を明したり。此日昼夜大小となく震ふ事、凡そ一時に、二十ケ度より三十ケ度づつ震ふ。故に老人・小児或は女、東西の広野又は東川原へ、逃出ること夥し。内に残る者は大路に畳を敷き、戸・障子にて囲ひ、こゝに蹲踞りて、三日・四日の夜を明かす。五日には少し又おだやかなり。然れ共今に一時に七八度より十二三度づつふるひ申候。

 
 
 

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