東照宮御実紀附録/巻廿一
【訴訟の裁断】一日奉行人等が御前に侍せし時、訴訟はいかに裁断するがよきと宣ひしに、いづれもろくなる様に裁断するをもて、よろしきかと心得侍るよし聞え上げしかば、さる事にてはなし、道理に於て勝たせたしと思ふ方に勝たするがよし、父子の訴ならば、父に勝たせたきは勿論なり、理非にかゝはらず父を勝たせ、君臣の訴ならば、君にかたするがよきと仰せけり、又訟を聴くに、理非明白にすべきはいふまでもなけれども、刑典に引当て、相違なからむやうになし給へと、将軍家へ御教諭あそばされしとなり、〈前橋聞書、武功雑記、〉
【立法の厳峻】法制を立つるには、峻急なるがよけれ、たとへば火のもえあがるが如くなるはよろしく、水の静に湛ふるがごときはあしきなり、烈焔の中は人々恐れてむかひ近づかねば、焼死するものなし、静湛の流は、浅深の程をわきまへず、心易くおもひあなづりて溺死する者あり、何事もはじめはおごそかに令して、後にやうやくゆるやかにせば、下々おそれ慎むで公法を侵さねば、おのづから刑法にかゝる者なし、はじめをゆるやかにして、後々程おごそかにすれば、おもひの外に、殺すまじき者を誅する事も出で来るものなりと宣ひしとか、こは古語に、法を建つるは厳なるがよし、三人の限も越ゆべからざるが如しといひ、また令を慢にして期を致すは、人をそこなふなりといふ語にも、いとよく似通ひし御辞とおもひ合せらるゝにぞ、〈三河の物語、〉
【万石以上の処分】万石より上のものは、たとへ罪科ありとも、先は死刑に処せずして配流せしむべし、家嗣がせむことは、たとひ半歳の小児たりとも、血統あらばその家を相続せしむべし、証人はとるべからず、永くとり置けば、親昵の情はなれて益なきものなりと仰せられき、〈武功雑記、〉
近世の将帥の事共御評論ありしとき、今川義元は臨済寺の雪斎和尚と相議して、国政を執行ひしゆゑ、家老の威権なし、さるゆゑに雪斎死せし後は、国政とゝのはず、関東の千葉邦胤は、わづか五六万石ばかりの地を領し、その家臣の原は二十万石程、原が臣の高木は三四十万石程を領せしとか、かく主人の権が次第に下におしうつりて、下が上に過ぎしゆゑ、国またおさまらず、よくその大小軽重をわきまへて、国政をおこなふべきなり、又足利将軍義政・武田勝頼・斎藤義龍など、父祖【 NDLJP:2-84】の政道を非に見て、己が一心のまゝに新法を建て行ひしゆゑ、遂に家国の滅亡にいたれり、およそ大小とも、祖先の旧法を変乱するものは、かならず災禍あるものなりと宣ひけり、【家康祖法を更へず】かゝる御心ゆゑ、君には元より御祖宗の旧章を崇敬まし〳〵て、妄に改め給ふことましまさず、改めずしてかなはざることは、いふまでもなし、おほかたの事は、改めてよしと思ひても、御祖宗へ対せられ、御不孝に当れば、まづそのまゝになし置かるゝとなり、さればにや、甲斐の国へ入らせ給ひし時は、信玄以来の法度をかへ給はず、たゞ租税のみ前時より少しくとれと仰ありて、寛宥の御沙汰なりしかば、国人も一同に悦服し奉り、関東へ移らせ給ひては、同じく北条が旧典をそのまゝ用ゐ給ひ、万事なだらかにめやすく御処置ありしかば、人心おのづから早く安むじけるとなり、古人の、政は人心を得るにあり、人心を失へば忽に乱る、おびやかすに威を以てすべからず、諭すに弁を以てすべからずといへるも、かゝる所を申しけるなるべし、〈故老諸談、武野燭談、〉
【家康不良の黜罰を勧む】土井大炊頭利勝、駿府へ御使に参りしとき、ある夜御前にめし、さま〴〵御物語ありし序に、此頃も関東筋にて新田を開くやと御尋なり、利勝、さむ候、よき場所を見立て、絶えず開墾すると申上ぐれば、新田二三万石も出来たらばいかゞと宣ふ、利勝、それは永世の御益なりと申す、また古田二三万石荒蕪せばいかにと仰せければ、利勝、是は大なる損失なりといふ、こゝにをいて君笑はせ給ひ、汝等は新田の出来るを喜び、古田の廃するをば何ともおもはぬかと宣へば、利勝、さる事には侍らず、古田をば荒蕪せしめず、新田も古田の妨にならぬ様にして、開墾いたすなりと申上ぐれば、かさねて、汝等老職をも奉はりてあれば、官事に心用うるは勿論なれども、人には心得違なしといふべからず、さる時は誰によらず、聞のがし見のがしにして捨置くことならず、その過誤の軽重によりて、あるは役義をめし放し、あるは遠慮閉門せしめではかなはざるなり、かゝる時に、そのもの先非をくい、善道にうつらば、旧悪をすてゝまた本のごとくめしつかふべし、もし又改革もせず、本の不良のまゝにすて置けば、それに取らせ置きたる領地は、みな古田の永荒といふものなりと宣へば、利勝思ひもよらぬかしこき仰ごと承りしとて、江戸へかへり、その旨申上げしかば、将軍家も殊に御感あり、其後江戸にして、二三万石ばかりの譜代大名一人・番頭一人、其外にも不良の挙動ありて御咎仰付けられ、別にそが【 NDLJP:2-85】子弟に旧知給はりし事ありしは、この尊旨のおもむきを遵行せられしならむと、人々かしこみけるとぞ、〈駿河土産、〉
【家康結城秀康に治国の要を説く】三河守秀康卿、結城の家継がれしとき、治国の要道を御指揮ありしとて伝へしは、まづ結城の家は旧家の事なれば、よくその家法を守られ、万事旧臣と相議し、上は下を疑はず、下は上へ忠誠を尽し、かたみに一体の思をなすべし、大臣にあはるゝ時は、よく礼容を厚うし、威儀を正しうせらるべし、己が行儀正しければ、下々おのづから正しくなる道理なり、朔・望には臣下をよび立て国務を議し、いつも家康に対せらるゝ如く心を持たるべし、目付の者は、たゞ家中の善悪を糺察するのみならず、自身より士民までの目付とおもはれよ、又国の機事を家長・目付の徒と議するに、人をはらひて深密にすべきは勿論なり、さるを奸臣の習にて、主人を誘き、家長・目付の密議を聞き出し下々にもらすは、いづれ近臣の中に内通するものありとしるべし、すべて主の過誤、又は家政の不正を諫むるものは忠臣なり、たゞ主の心にのみかなはむ事を希ふは、不忠のものとしるべし、下より上にむかひては、ものごといひにくきものなるを、いさゝかはゞからずいひ出づるは、その者局量なくては出来ぬ事なり、これ等につきて、臣下の賢否邪正を弁別せらるべし、こたび彼方へ召連れらるゝ近臣も、かの家従来のものとわけ隔てなく、同じ様にめしつかはれよ、さて又仁道もて賞罰を沙汰せられむ事肝要なり、有功を賞し、有罪を罰して、善道に赴かしめてこそ、仁道の本意なれ、されど人を賞するにしな〴〵あり、忠勤の者、又は軍功ある者又は才能あるものと、その所々をかね〴〵よく鑒察して、濫賞なからむ様にするは真の賞典なり、人を罰するにも、親族又は寵臣たりとも、公法を犯さば見のがさずして、かならずそれ〴〵罰を加ふべし、賞罰は国を治むる釘・くさびの様なるものなり、とにかく人言を納れ、私見を捨つる事、家門長久の基なれと、くりかへし仰せられし後、また卿の輔佐の臣をめし出し、かく仰せ諭されしからは、其方どもいづれも心を合せ和合して、一家の表鑑ともならむ様に心懸けよと、さとされしとなむ、〈明良洪範、〉
【幕府典礼の制定】関原の軍はてゝ、いまだ幾程もなきに、細川藤孝入道玄旨が、京の東山に隠れ居るよし聞召し及ばれ、永井右近大夫直勝に仰付けられ、玄旨につきて前代柳営の事ども御尋あり、この入道が家は、世々足利将軍家の管領として、旧規を存するのみ【 NDLJP:2-86】ならず、入道また和歌の誉世に高く、故実の事も兼ねて錬熟したれば、御答の趣をつぶさに書に記し、室町家式と題して、三巻の書を奉りぬ、また本多美作守信富といへるは、義輝・義昭の二代につかへ、足利家亡びし後、本国若狭に引籠りて在りしを、織田右府にめし出され、その後慶長八年三月、将軍宣下の御拝賀として御参内ありし時、信富世々の柳営に仕へて、かゝる旧儀心得てあるべければとて、奏者の役仰付けられ、御参内の供奉の列にくはへられ、当日の議注を拝観せしめらる、また曽我又左衛門古祐も、前代史官の家なればとて、これもめし出されて、将軍家の書礼式どもを商量し給ひ、蜷川新右衛門親長も、その祖親元以来、伊勢伊勢守が被官にて、足利家の旧典を心得たればとて、御家人にめし加へられ、彼是もて御一代の制度を建てしめられしなり、かく騒乱の中より、はやう前代の旧章まで御捜索ありて、武家の規法、これによらでかなはぬといふことを知ろしめし、とかく参攷損益し給ひて、万世不刊の大典を創設ありしは、かの織田右府・豊臣太閤が、たゞ武威につのり、万事苟旦にして、公武のけぢめもなかりしとは、日を同じうして論ふべきにあらず、実に千古の御卓見と申し奉るべき御事なり、〈武野独談、家譜、羅山文集、〉
【日蓮宗不受不施派】慶長四年、京にて日蓮宗の支派に不受不施の徒ありしが、在家と争論の事により、上裁を仰ぎし時、折しも豊臣家の奉行等人少なれば、彼僧どもを坂城の西丸にめしよせられて御直裁あり、さきに大仏供養の折、その徒出席をいなみ、施物をも受けず、また豊臣殿下薨ぜられし時、納経の沙汰にも及ばず、かゝる不法のふるまひせし上に、あまさへ配分の施物をも受けざるは、国恩をかしこしとおもはず、公法を蔑如にする罪軽からず、かゝる輩寺院に住せしめば、すべて僧中の風規にもかかはるとて、遠流に処せられしとぞ、〈落穂集、〉
慶長十五年閨二月、堀越後守忠俊が家老堀監物直次と、弟丹後守直寄と、訴論の事起り、上裁を仰ぐに至る、よて両人を駿城へめし、諸大名も列席せし上にて御親決あり、直寄申上げしは、監物国にありて、諸事奸曲をふるまふのみならず、浄土・法華両派の僧徒もあつめて宗論をせしめ、己れ是を裁断して、浄土僧十人を誅せし旨申す、【宗論の裁決】君障子を隔て聞召しおはせしが、此事御耳に入るとひとしく、御自ら障子を開き給ひ、殊に御けしきあしくて、其宗論の曲直は誰が聞き定めしと問ひ給へば、盛物承り、文学ある者に命じて是を裁判せしめ、非分の方を仕置申付けぬと申【 NDLJP:2-87】せば、仰に、宗論といふは天下の大禁なり、さるに公法を犯し、妄にこれをなさしめ、あまさへ己が私意もて決断し、僧徒を刑殺せし事、沙汰の限りなり、この一事もて、その余の暴虐はおして知るべきなり、此上何事も聞召すに及ばずとて、御障子たてゝ入御あり、監物は最上出羽守義光に預けられ、主の越後守忠俊は、家国を鎮撫する事あたはず、家臣をして騒擾せしむるに至るとて、領国収公せられ、岩城へ配流せしめ、直寄は罪なしといへども、旧知五万石を召上げられ、信州にて三万石給ひ、譜代に准ぜしめられしとぞ、〈天元実記、〉
【江戸の米廩】江戸の米廩に納めらるゝ所の米員あまりおほくて、おのづから欠米出来し、且は諸国よりの運費も莫大なれば、米廩の数を減ぜられば、何ばかりの御益ならむと、勘定頭より申出でしに、殊の外御けしきあしくて、廩数多ければ欠米多くて、益にならぬといふ事は、我元より是を知れり、さりながらよく考へ見よ、もし事変ありて、国々の米当地へ運輸する事あたはざるか、又は水旱の災ありて、都下の米価踊貴せば、当地に幅湊する五万の人民、みな飢に苦むべし、さらむ時のためをおもひてこそ、無用としりながらも、常々多く貯置かしむるなり、なみ〳〵の勘定役など勤むる者はともかくもあれ、汝等頭ともなりて、天下の会計をも掌る者が、さる浅薄の心得にしてかなふべきかとて、いたくいましめたまひしとなり、〈駿河土産、〉
駿河の島田の代官奉はる何がし、税米ののりめの出目を私するとて、百姓ども目安捧げて訴出でしかば、俄に米糜の口をとぢ、後の方の壁を切あけ、米二三俵取出さしめ、毛氈敷き、その上にてはからせて検覈し給ひしに、百姓どもの申す如くにてありしかば、代官には腹切らしめられしとぞ、〈聞見集、〉
【淀君大仏再建の助力を請ふ】慶長七年十二月、京本山の大仏焼失しぬ、是は其はじめ豊臣太閤、土もて製造せられしかば、一年の大震にて破裂せしかば、信濃の善光寺の如来を迎へて安置せしかば、太閤の薨後に、大政所淀殿の計らひにて、如来をば本国に返し、此度は鋳工に命じて、銅像にせむとて、鋳範を作り、熱銅をその中に注ぎしに、下地の材より火もえ出で、屋宇までも一時に灰燼となりぬ、其後淀殿より江戸の御台所〈崇源院殿〉の御方へ、内々仰越されしは、大仏は故殿下の営建せられし所なるが、かく不虞の変に逢ひぬれば、今更秀頼一人の力もて改造せむ事難し、願はくは関東より御助援ありて重建せば、殿下の遺志も空しからず、いとめでたかるべしとのことなれば、御【 NDLJP:2-88】台所より本多佐渡守正信もて伺はれしに、淀殿は婦人の儀なり、将軍はいまだ年若き事なれば、ふかき思慮もおはすまじ、汝は年頃老職をも勤めながら、かゝるえうなき事を、我所まで持来て議すべきや、沙汰の限りなりと仰せらるれば、正信大に当惑してありしに、かさねて仰せらるゝは、汝きかずや、南都の大仏は、かしこくも聖武大帝の勅願にて瓶建ありしを、平重衡が兵火にて焼失せし後は、俊乗坊・西行法師の二僧、相ともに募縁して重建せしとか、勅願所といへども、頼朝より再建の沙汰はなかりしなり、まして京の大仏は、太閤の物数奇にて建てられしなれば、今秀頼が自力もて重建せむは、ともかうもあれ、将軍より力をそへらるべき理なし、すべて日本国中の神社仏閣、いくばくといふ数を知らず、そが縁故をいひたつるごとに取あげて、一々に修理を加へ遣さむには天下の費用も、いかでこれをつくのはむや、是には勘考のあるべき事ぞ、まして大小の寺社、ともに新建とあるは、かならず無用の事なり、この旨よく〳〵将軍にも申し、同列共とも議し置くべしと仰せられしなり、又あるとき、山岡道阿弥・前波半入などの御談伴、御前に侍せし折から、天下の主たる者は、後世まで名の残ることをすべきなり、豊臣太閤は、京の大仏を建立ありし故今に其名が残り候と申せば、聞召して、太閤などはさる事を好みてせられたり、家康はたゞ天下安泰に治め、数代の後も紀綱・風俗頽敗せざらむ事を、常々思案して居るぞ、これ大仏を数体建立せむには勝らずやと仰せければ、かの二人、経国貽謀の盛慮深遠なるに仰感し、さるにてもえうなき事をいひ出せしとて、面赤めて退きしとなり、〈駿河土産、岩淵夜話、〉
板倉伊賀守勝重、京より参謁せし時、京の事どもつばらに問はせ給ひ、其方ほどあしき者はあるまじ、いかむとなれば、一人を助けて、千人を殺すやうなる仕法じやとて、御笑ありしとなり、〈永日記、〉
【治乱は天候と同じ】治乱は天気とおなじ様なるものなり、晴かゝりし時は、少し降るかとすれども晴るゝなり、降かゝりし時は、晴るゝかとみえても、遂に雨になるなり、世の治らむとする時は、乱るゝ如くにても、いつとなくおさまり、乱れむとするときは、しばし治る様にても、はてには乱るゝものなりと仰ありしなり、〈駿河土産、〉
【金銀貨の改鋳】金貨もそのがたみは、たゞ大判金又は砂金のみを通用して、いと不便の事なり、豊臣家の頃は、国々より、すねがね・こゝし金・はづし金等、さま〴〵の雑金を京にの【 NDLJP:2-89】ぼせ、銀と引かふる事にて、兌換するもの、これを査検するに、暇なきを苦めり、そのころ関東にては、金見役といふを設けられ、後世の一両判の如き大さを、黒判にして通行せられき、はじめ八州の主とならせられしとき、京の彫工後藤の族に、庄三郎光次といふをめし下し給ひしが、【後藤光次】このもの元より聡明にして、才幹ある者なれば、御側近くめし使はれ、寵眷なみ〳〵ならず、ある時光次に仰せられしは、われもし天下一統せむには、汝がのぞみ何にてもかなへてとらせむとありしかば、光次、某世に望みなし、たゞ今世に通行する所の黄金、大にして不便なれば、これを四分にして新鋳せしめば、何ばかりの国益ならむと申上げしかば、尊意にかなひ、御一統ありて後、小判金を作り出さしめ、慶長十年、又光次が建議によて、小判金を四分にして、壱歩判を鋳造ありしかば、天下いよ〳〵その軽便を観て、今二百余年の後までも、通貨とゞこほる事なし、又、銀も往古は諸国の銀礦より掘出せしを、灰吹にせしまゝにて通行せしかど、定価もなければ、世人なべて交易に艱困す、【末吉利方】慶長六年六月、大津の代官末吉勘兵衛利方建言せしは、銀価定らざるよりして、諸物の価もまた等しからず、今よりは官府にてその制を定め給へと申すにより、新に銀座を設けられ、利方もてその頭役となし、後藤庄三郎光次とおなじく、これを管轄せしめ、新に銀の品位を定め、丁銀・小粒銀を鋳出して通行せしめ、これまで世上にある所の灰吹銀・潰銀、及礦穴より掘出せしもの、みな座に持来り、新銀と兌換して、いよ〳〵さかむに鋳鎔ありしかば、是よりして天下の物価もおのづから一定し、金銀の通行いさゝか障礙なく、万民皆御仁政の貨幣の上までに及ぼし、いたらぬ隈なき膏沢のほど、かしこみ奉りけるとなむ、〈反古撰、聞見集、御用達町人由緒書、寛永系図、銀座始末、〉
【一里塚】路程の里数も、織田右府の時より、三十六町をもて一里と定め、一里ごとに堠を築かしめて表識せられしを、豊臣家にても弥遵行ありしが、君関東へ移らせ給ひし後、同じく一里毎に堠を築き、その上に、榎の木を植ゑしめ給ふ、〈この時松の木植ゑむと申上げしに、余の木を植ゑよと仰せしを承り違ひて、榎の木をうゑしといふ、〉又その頃、駄賃銭の定額なくて、行旅艱困するよし聞えたれば、衆に議せしめて、一里十六文、その余官道ならぬ所は、まし加へて賃銭定りしとぞ、一駄は四十貫目、乗懸は両荷二十貫目、乗主は十八貫、合せて四十貫、米一石も四十貫なりしとぞ、〈聞見記、〉
【角倉了以】河渠・運輸の事にも、御心を用ゐられしと見えて、その頃京に住せし角倉了以光好・【 NDLJP:2-90】その子与市郎立徳は、家代々豪富にして、水利に熟せしよし聞召およばれ、慶長十年春の頃、光好に命じて、丹波の世木庄殿田村より、保津をへて大井河に至るまでの水路、岩石おほくして通船なり難ければ、光好父子に命じ、新に水路を掘通さしめ、八月に至りて成功し、近境大にその利を得たり、又十二年、光好仰を奉はり、駿河の富士河を掘ひろげ、高瀬船を通じ、同国岩淵より甲州に運漕し、国民をして便利を得せしむ、同年又信濃国諏訪より、遠江の掛塚までを浚治して、天龍川の通船をして便よからしむ、十九年、かさねて富士川の淤塞せしを通ぜしむ、光好父子、かく度々河功の労を積みしうへに、浪花の役にも、城湟の水をきり落せしをもて、近江の代官命ぜられ、京の河原町ならびに淀川過書船の支配し、今に至り代々その職奉はる事となれり、〈家譜、武徳編年集成、〉
【朝鮮修交】朝鮮は、あがりての代には、全く我属国にして、条約を奉じ、貢船を納るゝ事なりしが、中古以来、本邦騒乱打続き、国の中だに政令の及ばざる事となりしかば、して異域不廷の罪など問ふにいとまあらず、はたかの国もさま〴〵変革し、三韓合して新羅の王氏一統の世となり、王氏の末に李世珪といへるが出で、今の朝鮮を開き、かたみに乱離打しきりしより、いつとなく両国疎濶にして、たゞ対馬の宗が家は、わづかの海程を隔てしゆゑ、絶えず隣舶の往来はありしなり、足利家の頃、折々かの使臣の来聘せし事ありしかども、旧来の体をうしなひて、隣国偶敵の様になりゆきしなり、しかるに文禄年中に至り、豊臣太習諸将に命じ大軍を起し、かの国に打入り、王城まで攻とり、前後七年が間、兵革うち連なりて、国中
琉球は、その国にて伝へし所は、開国の始に、天孫氏といへるがありて、数世相伝して尚氏に至るといひ、【琉球島津氏に属す】異朝にて隋の時に、朱寛といふをして、かの国を攻めしめ、男女五百人を虜にしてかへりしといふが、ものに見えしはじめにてその後、唐・宋・元の代々を経て、明朝洪武の時に至り、あらためて貢使を奉り、封爵を受けしより、その国代々のはじめには、異朝の冊封使を迎ふる事となりぬ、我国にてはその
【海外諸国と通商す】室町家の頃には、海舶の明国へ往来するに、かならず勘合の印ありて、彼是ともに是を左験として互市する事なりしが、天文の頃より、その事やみしかば、当今も勘合あるべしと仰ありて、慶長十五年の頃、明舶の来りし時、本多上野介正純に仰付けられ、林道春信勝にその由書翰にかゝしめ、今日本まさに治平して、朝鮮は来聘【 NDLJP:2-93】し、琉球は臣附し、
【天主教の渡来】天主教は、そのはじめ大西洋
此巻は御政事にあづかりし筋のことをしるす、
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