東照宮御実紀附録/巻廿一

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東照宮御実紀附録 巻廿一
 
織田・豊臣の両家は、いづれも草昧より起りて、数百年偕乱の国々を切なびけ、ほぼ四海統一の功をなせしは、近世の英豪といふべし、されども元より天性残暴にして、権謀機変をもてむねとせし故、治世安民の規模にいたりては、いさゝか見るに足らず、ひとりわが君には、御武略の千古に卓越し給ふのみならず、天授の英明にて、聖経の大旨を御心に御自得まし、よく経国の大体を弁へ、治平の要道に通達し給ひて、万機を執行はれしかば、天が下四海のうち、一民としてその御徳化にうるほはざる者なく、大統連綿として千歳動きなき御事は、武功・文略かね備へ給ひしと申し奉るべきにぞ、治政の要ある時の仰に、大国を治むるは、小鮮を烹るが如しといひしは、いと尤なる言なれ、おほよそ国家を治むるに、あまり鎖細に渡れば、かへりてその弊あるものなれと宣ひたるとか、こはよくも李老の真意を御領会ありて、かの大舜の、元首叢腔なるかな、股肱おこたるやと、いはれし聖語にも叶ひオープンアクセス NDLJP:2-83て、いとたうとく伺はるゝにぞ、〈武功雑記、〉

訴訟の裁断一日奉行人等が御前に侍せし時、訴訟はいかに裁断するがよきと宣ひしに、いづれもろくなる様に裁断するをもて、よろしきかと心得侍るよし聞え上げしかば、さる事にてはなし、道理に於て勝たせたしと思ふ方に勝たするがよし、父子の訴ならば、父に勝たせたきは勿論なり、理非にかゝはらず父を勝たせ、君臣の訴ならば、君にかたするがよきと仰せけり、又訟を聴くに、理非明白にすべきはいふまでもなけれども、刑典に引当て、相違なからむやうになし給へと、将軍家へ御教諭あそばされしとなり、〈前橋聞書、武功雑記、〉

立法の厳峻法制を立つるには、峻急なるがよけれ、たとへば火のもえあがるが如くなるはよろしく、水の静に湛ふるがごときはあしきなり、烈焔の中は人々恐れてむかひ近づかねば、焼死するものなし、静湛の流は、浅深の程をわきまへず、心易くおもひあなづりて溺死する者あり、何事もはじめはおごそかに令して、後にやうやくゆるやかにせば、下々おそれ慎むで公法を侵さねば、おのづから刑法にかゝる者なし、はじめをゆるやかにして、後々程おごそかにすれば、おもひの外に、殺すまじき者を誅する事も出で来るものなりと宣ひしとか、こは古語に、法を建つるは厳なるがよし、三人の限も越ゆべからざるが如しといひ、また令を慢にして期を致すは、人をそこなふなりといふ語にも、いとよく似通ひし御辞とおもひ合せらるゝにぞ、〈三河の物語、〉

万石以上の処分万石より上のものは、たとへ罪科ありとも、先は死刑に処せずして配流せしむべし、家嗣がせむことは、たとひ半歳の小児たりとも、血統あらばその家を相続せしむべし、証人はとるべからず、永くとり置けば、親昵の情はなれて益なきものなりと仰せられき、〈武功雑記、〉

近世の将帥の事共御評論ありしとき、今川義元は臨済寺の雪斎和尚と相議して、国政を執行ひしゆゑ、家老の威権なし、さるゆゑに雪斎死せし後は、国政とゝのはず、関東の千葉邦胤は、わづか五六万石ばかりの地を領し、その家臣の原は二十万石程、原が臣の高木は三四十万石程を領せしとか、かく主人の権が次第に下におしうつりて、下が上に過ぎしゆゑ、国またおさまらず、よくその大小軽重をわきまへて、国政をおこなふべきなり、又足利将軍義政・武田勝頼・斎藤義龍など、父祖オープンアクセス NDLJP:2-84の政道を非に見て、己が一心のまゝに新法を建て行ひしゆゑ、遂に家国の滅亡にいたれり、およそ大小とも、祖先の旧法を変乱するものは、かならず災禍あるものなりと宣ひけり、家康祖法を更へずかゝる御心ゆゑ、君には元より御祖宗の旧章を崇敬まして、妄に改め給ふことましまさず、改めずしてかなはざることは、いふまでもなし、おほかたの事は、改めてよしと思ひても、御祖宗へ対せられ、御不孝に当れば、まづそのまゝになし置かるゝとなり、さればにや、甲斐の国へ入らせ給ひし時は、信玄以来の法度をかへ給はず、たゞ租税のみ前時より少しくとれと仰ありて、寛宥の御沙汰なりしかば、国人も一同に悦服し奉り、関東へ移らせ給ひては、同じく北条が旧典をそのまゝ用ゐ給ひ、万事なだらかにめやすく御処置ありしかば、人心おのづから早く安むじけるとなり、古人の、政は人心を得るにあり、人心を失へば忽に乱る、おびやかすに威を以てすべからず、諭すに弁を以てすべからずといへるも、かゝる所を申しけるなるべし、〈故老諸談、武野燭談、〉

家康不良の黜罰を勧む土井大炊頭利勝、駿府へ御使に参りしとき、ある夜御前にめし、さま御物語ありし序に、此頃も関東筋にて新田を開くやと御尋なり、利勝、さむ候、よき場所を見立て、絶えず開墾すると申上ぐれば、新田二三万石も出来たらばいかゞと宣ふ、利勝、それは永世の御益なりと申す、また古田二三万石荒蕪せばいかにと仰せければ、利勝、是は大なる損失なりといふ、こゝにをいて君笑はせ給ひ、汝等は新田の出来るを喜び、古田の廃するをば何ともおもはぬかと宣へば、利勝、さる事には侍らず、古田をば荒蕪せしめず、新田も古田の妨にならぬ様にして、開墾いたすなりと申上ぐれば、かさねて、汝等老職をも奉はりてあれば、官事に心用うるは勿論なれども、人には心得違なしといふべからず、さる時は誰によらず、聞のがし見のがしにして捨置くことならず、その過誤の軽重によりて、あるは役義をめし放し、あるは遠慮閉門せしめではかなはざるなり、かゝる時に、そのもの先非をくい、善道にうつらば、旧悪をすてゝまた本のごとくめしつかふべし、もし又改革もせず、本の不良のまゝにすて置けば、それに取らせ置きたる領地は、みな古田の永荒といふものなりと宣へば、利勝思ひもよらぬかしこき仰ごと承りしとて、江戸へかへり、その旨申上げしかば、将軍家も殊に御感あり、其後江戸にして、二三万石ばかりの譜代大名一人・番頭一人、其外にも不良の挙動ありて御咎仰付けられ、別にそがオープンアクセス NDLJP:2-85子弟に旧知給はりし事ありしは、この尊旨のおもむきを遵行せられしならむと、人々かしこみけるとぞ、〈駿河土産、〉

家康結城秀康に治国の要を説く三河守秀康卿、結城の家継がれしとき、治国の要道を御指揮ありしとて伝へしは、まづ結城の家は旧家の事なれば、よくその家法を守られ、万事旧臣と相議し、上は下を疑はず、下は上へ忠誠を尽し、かたみに一体の思をなすべし、大臣にあはるゝ時は、よく礼容を厚うし、威儀を正しうせらるべし、己が行儀正しければ、下々おのづから正しくなる道理なり、朔・望には臣下をよび立て国務を議し、いつも家康に対せらるゝ如く心を持たるべし、目付の者は、たゞ家中の善悪を糺察するのみならず、自身より士民までの目付とおもはれよ、又国の機事を家長・目付の徒と議するに、人をはらひて深密にすべきは勿論なり、さるを奸臣の習にて、主人を誘き、家長・目付の密議を聞き出し下々にもらすは、いづれ近臣の中に内通するものありとしるべし、すべて主の過誤、又は家政の不正を諫むるものは忠臣なり、たゞ主の心にのみかなはむ事を希ふは、不忠のものとしるべし、下より上にむかひては、ものごといひにくきものなるを、いさゝかはゞからずいひ出づるは、その者局量なくては出来ぬ事なり、これ等につきて、臣下の賢否邪正を弁別せらるべし、こたび彼方へ召連れらるゝ近臣も、かの家従来のものとわけ隔てなく、同じ様にめしつかはれよ、さて又仁道もて賞罰を沙汰せられむ事肝要なり、有功を賞し、有罪を罰して、善道に赴かしめてこそ、仁道の本意なれ、されど人を賞するにしなあり、忠勤の者、又は軍功ある者又は才能あるものと、その所々をかねよく鑒察して、濫賞なからむ様にするは真の賞典なり、人を罰するにも、親族又は寵臣たりとも、公法を犯さば見のがさずして、かならずそれ罰を加ふべし、賞罰は国を治むる釘・くさびの様なるものなり、とにかく人言を納れ、私見を捨つる事、家門長久の基なれと、くりかへし仰せられし後、また卿の輔佐の臣をめし出し、かく仰せ諭されしからは、其方どもいづれも心を合せ和合して、一家の表鑑ともならむ様に心懸けよと、さとされしとなむ、〈明良洪範、〉

幕府典礼の制定関原の軍はてゝ、いまだ幾程もなきに、細川藤孝入道玄旨が、京の東山に隠れ居るよし聞召し及ばれ、永井右近大夫直勝に仰付けられ、玄旨につきて前代柳営の事ども御尋あり、この入道が家は、世々足利将軍家の管領として、旧規を存するのみオープンアクセス NDLJP:2-86ならず、入道また和歌の誉世に高く、故実の事も兼ねて錬熟したれば、御答の趣をつぶさに書に記し、室町家式と題して、三巻の書を奉りぬ、また本多美作守信富といへるは、義輝・義昭の二代につかへ、足利家亡びし後、本国若狭に引籠りて在りしを、織田右府にめし出され、その後慶長八年三月、将軍宣下の御拝賀として御参内ありし時、信富世々の柳営に仕へて、かゝる旧儀心得てあるべければとて、奏者の役仰付けられ、御参内の供奉の列にくはへられ、当日の議注を拝観せしめらる、また曽我又左衛門古祐も、前代史官の家なればとて、これもめし出されて、将軍家の書礼式どもを商量し給ひ、蜷川新右衛門親長も、その祖親元以来、伊勢伊勢守が被官にて、足利家の旧典を心得たればとて、御家人にめし加へられ、彼是もて御一代の制度を建てしめられしなり、かく騒乱の中より、はやう前代の旧章まで御捜索ありて、武家の規法、これによらでかなはぬといふことを知ろしめし、とかく参攷損益し給ひて、万世不刊の大典を創設ありしは、かの織田右府・豊臣太閤が、たゞ武威につのり、万事苟旦にして、公武のけぢめもなかりしとは、日を同じうして論ふべきにあらず、実に千古の御卓見と申し奉るべき御事なり、〈武野独談、家譜、羅山文集、〉

日蓮宗不受不施派慶長四年、京にて日蓮宗の支派に不受不施の徒ありしが、在家と争論の事により、上裁を仰ぎし時、折しも豊臣家の奉行等人少なれば、彼僧どもを坂城の西丸にめしよせられて御直裁あり、さきに大仏供養の折、その徒出席をいなみ、施物をも受けず、また豊臣殿下薨ぜられし時、納経の沙汰にも及ばず、かゝる不法のふるまひせし上に、あまさへ配分の施物をも受けざるは、国恩をかしこしとおもはず、公法を蔑如にする罪軽からず、かゝる輩寺院に住せしめば、すべて僧中の風規にもかかはるとて、遠流に処せられしとぞ、〈落穂集、〉

慶長十五年閨二月、堀越後守忠俊が家老堀監物直次と、弟丹後守直寄と、訴論の事起り、上裁を仰ぐに至る、よて両人を駿城へめし、諸大名も列席せし上にて御親決あり、直寄申上げしは、監物国にありて、諸事奸曲をふるまふのみならず、浄土・法華両派の僧徒もあつめて宗論をせしめ、己れ是を裁断して、浄土僧十人を誅せし旨申す、宗論の裁決君障子を隔て聞召しおはせしが、此事御耳に入るとひとしく、御自ら障子を開き給ひ、殊に御けしきあしくて、其宗論の曲直は誰が聞き定めしと問ひ給へば、盛物承り、文学ある者に命じて是を裁判せしめ、非分の方を仕置申付けぬと申オープンアクセス NDLJP:2-87せば、仰に、宗論といふは天下の大禁なり、さるに公法を犯し、妄にこれをなさしめ、あまさへ己が私意もて決断し、僧徒を刑殺せし事、沙汰の限りなり、この一事もて、その余の暴虐はおして知るべきなり、此上何事も聞召すに及ばずとて、御障子たてゝ入御あり、監物は最上出羽守義光に預けられ、主の越後守忠俊は、家国を鎮撫する事あたはず、家臣をして騒擾せしむるに至るとて、領国収公せられ、岩城へ配流せしめ、直寄は罪なしといへども、旧知五万石を召上げられ、信州にて三万石給ひ、譜代に准ぜしめられしとぞ、〈天元実記、〉

江戸の米廩江戸の米廩に納めらるゝ所の米員あまりおほくて、おのづから欠米出来し、且は諸国よりの運費も莫大なれば、米廩の数を減ぜられば、何ばかりの御益ならむと、勘定頭より申出でしに、殊の外御けしきあしくて、廩数多ければ欠米多くて、益にならぬといふ事は、我元より是を知れり、さりながらよく考へ見よ、もし事変ありて、国々の米当地へ運輸する事あたはざるか、又は水旱の災ありて、都下の米価踊貴せば、当地に幅湊する五万の人民、みな飢に苦むべし、さらむ時のためをおもひてこそ、無用としりながらも、常々多く貯置かしむるなり、なみの勘定役など勤むる者はともかくもあれ、汝等頭ともなりて、天下の会計をも掌る者が、さる浅薄の心得にしてかなふべきかとて、いたくいましめたまひしとなり、〈駿河土産、〉

駿河の島田の代官奉はる何がし、税米ののりめの出目を私するとて、百姓ども目安捧げて訴出でしかば、俄に米糜の口をとぢ、後の方の壁を切あけ、米二三俵取出さしめ、毛氈敷き、その上にてはからせて検覈し給ひしに、百姓どもの申す如くにてありしかば、代官には腹切らしめられしとぞ、〈聞見集、〉

淀君大仏再建の助力を請ふ慶長七年十二月、京本山の大仏焼失しぬ、是は其はじめ豊臣太閤、土もて製造せられしかば、一年の大震にて破裂せしかば、信濃の善光寺の如来を迎へて安置せしかば、太閤の薨後に、大政所淀殿の計らひにて、如来をば本国に返し、此度は鋳工に命じて、銅像にせむとて、鋳範を作り、熱銅をその中に注ぎしに、下地の材より火もえ出で、屋宇までも一時に灰燼となりぬ、其後淀殿より江戸の御台所〈崇源院殿〉の御方へ、内々仰越されしは、大仏は故殿下の営建せられし所なるが、かく不虞の変に逢ひぬれば、今更秀頼一人の力もて改造せむ事難し、願はくは関東より御助援ありて重建せば、殿下の遺志も空しからず、いとめでたかるべしとのことなれば、御オープンアクセス NDLJP:2-88台所より本多佐渡守正信もて伺はれしに、淀殿は婦人の儀なり、将軍はいまだ年若き事なれば、ふかき思慮もおはすまじ、汝は年頃老職をも勤めながら、かゝるえうなき事を、我所まで持来て議すべきや、沙汰の限りなりと仰せらるれば、正信大に当惑してありしに、かさねて仰せらるゝは、汝きかずや、南都の大仏は、かしこくも聖武大帝の勅願にて瓶建ありしを、平重衡が兵火にて焼失せし後は、俊乗坊・西行法師の二僧、相ともに募縁して重建せしとか、勅願所といへども、頼朝より再建の沙汰はなかりしなり、まして京の大仏は、太閤の物数奇にて建てられしなれば、今秀頼が自力もて重建せむは、ともかうもあれ、将軍より力をそへらるべき理なし、すべて日本国中の神社仏閣、いくばくといふ数を知らず、そが縁故をいひたつるごとに取あげて、一々に修理を加へ遣さむには天下の費用も、いかでこれをつくのはむや、是には勘考のあるべき事ぞ、まして大小の寺社、ともに新建とあるは、かならず無用の事なり、この旨よく将軍にも申し、同列共とも議し置くべしと仰せられしなり、又あるとき、山岡道阿弥・前波半入などの御談伴、御前に侍せし折から、天下の主たる者は、後世まで名の残ることをすべきなり、豊臣太閤は、京の大仏を建立ありし故今に其名が残り候と申せば、聞召して、太閤などはさる事を好みてせられたり、家康はたゞ天下安泰に治め、数代の後も紀綱・風俗頽敗せざらむ事を、常々思案して居るぞ、これ大仏を数体建立せむには勝らずやと仰せければ、かの二人、経国貽謀の盛慮深遠なるに仰感し、さるにてもえうなき事をいひ出せしとて、面赤めて退きしとなり、〈駿河土産、岩淵夜話、〉

板倉伊賀守勝重、京より参謁せし時、京の事どもつばらに問はせ給ひ、其方ほどあしき者はあるまじ、いかむとなれば、一人を助けて、千人を殺すやうなる仕法じやとて、御笑ありしとなり、〈永日記、〉

治乱は天候と同じ治乱は天気とおなじ様なるものなり、晴かゝりし時は、少し降るかとすれども晴るゝなり、降かゝりし時は、晴るゝかとみえても、遂に雨になるなり、世の治らむとする時は、乱るゝ如くにても、いつとなくおさまり、乱れむとするときは、しばし治る様にても、はてには乱るゝものなりと仰ありしなり、〈駿河土産、〉

金銀貨の改鋳金貨もそのがたみは、たゞ大判金又は砂金のみを通用して、いと不便の事なり、豊臣家の頃は、国々より、すねがね・こゝし金・はづし金等、さまの雑金を京にのオープンアクセス NDLJP:2-89ぼせ、銀と引かふる事にて、兌換するもの、これを査検するに、暇なきを苦めり、そのころ関東にては、金見役といふを設けられ、後世の一両判の如き大さを、黒判にして通行せられき、はじめ八州の主とならせられしとき、京の彫工後藤の族に、庄三郎光次といふをめし下し給ひしが、後藤光次このもの元より聡明にして、才幹ある者なれば、御側近くめし使はれ、寵眷なみならず、ある時光次に仰せられしは、われもし天下一統せむには、汝がのぞみ何にてもかなへてとらせむとありしかば、光次、某世に望みなし、たゞ今世に通行する所の黄金、大にして不便なれば、これを四分にして新鋳せしめば、何ばかりの国益ならむと申上げしかば、尊意にかなひ、御一統ありて後、小判金を作り出さしめ、慶長十年、又光次が建議によて、小判金を四分にして、壱歩判を鋳造ありしかば、天下いよその軽便を観て、今二百余年の後までも、通貨とゞこほる事なし、又、銀も往古は諸国の銀礦より掘出せしを、灰吹にせしまゝにて通行せしかど、定価もなければ、世人なべて交易に艱困す、末吉利方慶長六年六月、大津の代官末吉勘兵衛利方建言せしは、銀価定らざるよりして、諸物の価もまた等しからず、今よりは官府にてその制を定め給へと申すにより、新に銀座を設けられ、利方もてその頭役となし、後藤庄三郎光次とおなじく、これを管轄せしめ、新に銀の品位を定め、丁銀・小粒銀を鋳出して通行せしめ、これまで世上にある所の灰吹銀・潰銀、及礦穴より掘出せしもの、みな座に持来り、新銀と兌換して、いよさかむに鋳鎔ありしかば、是よりして天下の物価もおのづから一定し、金銀の通行いさゝか障礙なく、万民皆御仁政の貨幣の上までに及ぼし、いたらぬ隈なき膏沢のほど、かしこみ奉りけるとなむ、〈反古撰、聞見集、御用達町人由緒書、寛永系図、銀座始末、〉

一里塚路程の里数も、織田右府の時より、三十六町をもて一里と定め、一里ごとに堠を築かしめて表識せられしを、豊臣家にても弥遵行ありしが、君関東へ移らせ給ひし後、同じく一里毎に堠を築き、その上に、榎の木を植ゑしめ給ふ、〈この時松の木植ゑむと申上げしに、余の木を植ゑよと仰せしを承り違ひて、榎の木をうゑしといふ、〉又その頃、駄賃銭の定額なくて、行旅艱困するよし聞えたれば、衆に議せしめて、一里十六文、その余官道ならぬ所は、まし加へて賃銭定りしとぞ、一駄は四十貫目、乗懸は両荷二十貫目、乗主は十八貫、合せて四十貫、米一石も四十貫なりしとぞ、〈聞見記、〉

角倉了以河渠・運輸の事にも、御心を用ゐられしと見えて、その頃京に住せし角倉了以光好・オープンアクセス NDLJP:2-90その子与市郎立徳は、家代々豪富にして、水利に熟せしよし聞召およばれ、慶長十年春の頃、光好に命じて、丹波の世木庄殿田村より、保津をへて大井河に至るまでの水路、岩石おほくして通船なり難ければ、光好父子に命じ、新に水路を掘通さしめ、八月に至りて成功し、近境大にその利を得たり、又十二年、光好仰を奉はり、駿河の富士河を掘ひろげ、高瀬船を通じ、同国岩淵より甲州に運漕し、国民をして便利を得せしむ、同年又信濃国諏訪より、遠江の掛塚までを浚治して、天龍川の通船をして便よからしむ、十九年、かさねて富士川の淤塞せしを通ぜしむ、光好父子、かく度々河功の労を積みしうへに、浪花の役にも、城湟の水をきり落せしをもて、近江の代官命ぜられ、京の河原町ならびに淀川過書船の支配し、今に至り代々その職奉はる事となれり、〈家譜、武徳編年集成、〉

朝鮮修交朝鮮は、あがりての代には、全く我属国にして、条約を奉じ、貢船を納るゝ事なりしが、中古以来、本邦騒乱打続き、国の中だに政令の及ばざる事となりしかば、して異域不廷の罪など問ふにいとまあらず、はたかの国もさま変革し、三韓合して新羅の王氏一統の世となり、王氏の末に李世珪といへるが出で、今の朝鮮を開き、かたみに乱離打しきりしより、いつとなく両国疎濶にして、たゞ対馬の宗が家は、わづかの海程を隔てしゆゑ、絶えず隣舶の往来はありしなり、足利家の頃、折々かの使臣の来聘せし事ありしかども、旧来の体をうしなひて、隣国偶敵の様になりゆきしなり、しかるに文禄年中に至り、豊臣太習諸将に命じ大軍を起し、かの国に打入り、王城まで攻とり、前後七年が間、兵革うち連なりて、国中つぶさに侵掠されしかば、かの国にてわが邦を怨むこと骨髄に徹しぬ、慶長六年、宗対馬守義智はじめて謁見せし時、朝鮮はむかしより通交絶えざりしを、豊臣太閤ゆゑなくして干戈を動かし、怨を異域に構へしより、かの者どもわが国を讐敵に思ひ、多年の隣交も絶はつることゝなりし、さりとは残暴の挙動、此儘になし置きては、国体に於てもしかるべからず、汝この旨よく心得て、かの国に申通じ、重ねて通交のならむ様に計ふべし、さりながら万一不当の返詞どもして敵対せむならば、速に兵を出し征討すべしと仰下されしかば、義智かしこまり、帰国して家人に命じ、かの国へ三度までいひ遣せしに、宗義智の幹旋更に受引かざるのみならず、使人をも止めてかへさず、義智さまに思ひなやみ、上意を伺ひ、先年の戦に、かの国より擒り来りオープンアクセス NDLJP:2-91し朝鮮の者数百人、及薩州に捕はれし金光といふ、かの国王の一族をもかへし遣しけるに、金光帰国して、豊臣家滅亡し、当家今一統し給ひ、泰平の徳化遍く海内に行はるゝよし、つばらに語り聞かせしゆゑ、そが国王はじめて心とけて承服し、まづわが国の様伺ひ見むとて、慶長十年、僧松雲・孫武或といふ者二人を渡海せしめ、伏見にて謁見す、本多佐渡守正信・鹿苑院承兌もで修好の事仰下され、また十年の冬、かの国王へ御書をなし下さる、さきの二人帰国して、こなたの様を申しけるにや、十二年、かの国の使呂祐吉・慶暹・丁好寛の三使、はじめて来聘し、江戸・駿河にて参謁して、国王の書翰・献物を奉れり、こなたにてもおもたじしくもてなされ、さまざま御饗応の上、御返翰を授けられ、三使にも引出物あまた給ひて、その労をねぎらはれしが、使臣も御徳意の深厚なるに感じ奉ること大方ならず、是よりして信使の往来代々に絶えず今にいたりても、御代始には、必ず賀使来りて、両国聘聞の礼を行はれて、海内にしめさるゝは、全く当時の神慮もて、とかう御指諭ありしによる所なり、〈貞享書上、殊号事略、〉

琉球は、その国にて伝へし所は、開国の始に、天孫氏といへるがありて、数世相伝して尚氏に至るといひ、琉球島津氏に属す異朝にて隋の時に、朱寛といふをして、かの国を攻めしめ、男女五百人を虜にしてかへりしといふが、ものに見えしはじめにてその後、唐・宋・元の代々を経て、明朝洪武の時に至り、あらためて貢使を奉り、封爵を受けしより、その国代々のはじめには、異朝の冊封使を迎ふる事となりぬ、我国にてはその保元元の後、鎮西八郎為朝を伊豆の大島へ配流せられしに、為朝勇武をふるひ、近き島島を畏服し、遂にかの国に押渡り、その国人どもを切靡かす、其頃はかの天孫氏の末既に衰へしかば、国中みな為朝に降服す、為朝その王族の女をめとりて子をうむ、これ今の始祖とする舜天と聞えしは、全く為朝の子なり.これより世々尚氏とす、はるか年経て後、足利殿の代となり、永享の頃、普光院将軍、〈義教〉その弟大覚寺の義昭僧正を討たむとせられしに、義昭しのびて国々を逃げ隠れ、からうじて薩摩潟までたどり行きしが、この由京に聞え、将軍家よりその時の島津薩摩守忠国に、僧正を討つて出すべきよし仰下されしかば、忠国家人に命じ、日向の櫛間といふ所に隠れ居しを討ちて、その首京に進らせしかば、この勧賞として、琉球国を忠国に賜るよしの御教書をなし下されぬ、是ぞ島津が家にて、琉球を進退するの濫觴オープンアクセス NDLJP:2-92なり、豊臣太閤の時に至り、琉球より使臣を進らせて、天下一統せしを賀し、かつ年毎に薩摩と互市の事をはじめしが、幾程もなく明国より互市を禁ぜしかば、是より薩摩と通信を断ちし事、およそ十余年に及べり、然るに当家の御代となりても、なほ一の賀使をも進らせざれば、修理大夫義久より此由申遣せしに、有無の答にも及ばず、かくては人数を差むけ、かれが不廷の罪を正すべしとの御ゆるしを蒙り、慶長十四年三月、義久家人八千ばかりを兵艦に取のせ、彼の国に押渡し、大島・徳島などいふ島々を切とり那覇といふ所に着岸し、数日の戦に打勝ちて、遂に王城に攻入りしかば、彼国人敵すること能はず、中山王尚寧はじめ、三司官みな降参す、その五月、義久より注進に及び、やがて尚寧をめしつれ、駿府・江戸へ参観すべしと聞えしかば、御けしき斜ならず、義久が功を賞せられ、駿府より、琉球国永く薩摩に附庸せらるゝ由の御書をなし下さる、十五年七月家久、尚事を引具して駿府に参謁す、君、烏帽子・直衣めして引見せしむ、尚寧よりそが国産さま捧げて、不廷の罪を謝し奉る、よて申楽せしめて、家人をよび尚寧を饗せらる、その後江戸へもまゐり、同じ様に謝し奉りしかば、又御饗待ありて、こたび尚寧が一旦の罪はゆるされ琉球は元よりの領国なれば、他人をして国勢を執行はしむべきに非ず、尚寧はやく帰国して、先祀を奉じ、国政を沙汰すべし、また義久には、永く琉球の貢税を納れ、監使をかの地に渡し、政令を播すべし、且此度捕へ来りし琉人は、みなかへし遣すべしとの御沙汰なり、義久も尚寧も、御仁恩の深厚なるをかしこむ事大方ならず、やがて義久、尚寧を引具して帰国し、仰のまゝに計らひしかば、南海の風波重ねて起る事なく穏におさまり、是より琉球代々島津が附庸となり、こなたの御代始め、はたかれが襲封には、かならず慶賀・謝恩の使を進らせ、方物を献る事となりぬ、かく朝鮮も琉球も、とり盛意のまゝにまつろひ従ふ事、全く盛徳の海外異域までに及ぶ所なりと、天下みな仰ぎ尊まざる者はなかりしなり、〈駿府政事録、中山伝信録、琉球事略、武徳編年集成、〉

海外諸国と通商す室町家の頃には、海舶の明国へ往来するに、かならず勘合の印ありて、彼是ともに是を左験として互市する事なりしが、天文の頃より、その事やみしかば、当今も勘合あるべしと仰ありて、慶長十五年の頃、明舶の来りし時、本多上野介正純に仰付けられ、林道春信勝にその由書翰にかゝしめ、今日本まさに治平して、朝鮮は来聘オープンアクセス NDLJP:2-93し、琉球は臣附し、安南あむなむ交趾かうち占城ちやむぽむ暹羅しやむろ呂宋るすむ、其他西洋・南海の国々みな入貢す、かかれば明国にも前規の如く、勘合もて通商せられむよし、かの福建の総督陣子貞といふ者に、来舶に付きて仰遣されしが、いかなるゆゑにや、返簡も奉らでやみにき、こは彼の国辺海の地、先年倭寇の為に侵掠せられしを恐れて、書信をさへ通ぜざりしにやありけむ、されど南京商舶は年々に崎界に来り、交易することゝはなりぬ、又十六年の頃、明人駿府に来謁せしとき、長谷川左兵衛藤広に仰付けられ、この後外国の船いづれの地へ来るとも、悉く長崎へ送りて査検せしむべしと定められしなり、〈駿府記、武徳編年集成、〉

天主教の渡来天主教は、そのはじめ大西洋邏馬ろーまの地に起り、漸く西蕃の国々にひろごり、明の隆慶・万暦の頃に、西洋の人利碼竇といへるがありて明国に渡り、漢字をよみならひ、漢文もて蕃語を翻訳して、さまの邪書を編輯して、世に施せしかば、心なき明人ども、多くこれが為に証惑せられ、年を追ひて邪教を奉ずる者おほくなりしとか、大友宗麟我国にては天文の頃に当り、豊後の大友義鎮入道宗麟、鎮西の大藩にして、しかも封内豊饒なりしかば、諸蕃の商舶幅湊して互市する折から、海舶の中に邪教を奉ずる伴天連乗り来りいつしか邪教を勧め、これを信ずる者には、貿易の利潤を厚くせしにより、帰依するもの多く、宗麟も深く是を信じ、府内の丹生島といふ所に一宇を建立し、元より封内にある所の寺はみな毀撤し、経論を焚滅し、ひとへに邪教をのみ尊崇せしかば、鎮西はいふに及ばず、中国・畿内にもやゝ及べり、天正の初、摂州の荒木摂津守村重、織田右府に叛きし時、高山友祥村重が家長高山右近友祥、かねて邪教を信ずるよし、右府聞およばれ、ある伴天連をして、右近に利害を説かしめしに、遂に右近をして右府が味方に属せしめしかば、右府、其伴天連の功を賞せられ、江州安土の城下に道場を開かしめ、公然として邪教を唱へしにより、邪徒時を得ていよさかむに行はれしなり、当家草創のはじめには、軍国多事にして、いまだこれらの事に及ぶ暇あらず、慶長十六年八月、はじめて将軍家より、耶蘇は夷狄の邪法なるをもて、天主教を厳禁す厳禁せらるゝよし令せられ、十七年二月、駿河にて岡本大八といへる者、罪ありて獄に繋がれしが、有馬修理大夫晴信が陰事を計発するにより、二人を対決せしめしに、二人共邪徒に定まりしかば、大八は死刑に行はれ、晴信は領国肥前有馬の地を収公せられ、甲斐の郡内に配せられ、重ねて自殺せしオープンアクセス NDLJP:2-95めらる、また所司代板倉伊賀守勝重は帰京して、畿内にある所の邪教の道場を悉く毀撤すべし、長崎奉行長谷川左兵衛藤広は長崎にゆき、其地の邪徒を査検すべしと命ぜられ、旗下の士は五人づゝ隊をわかち、互に査検すべしと命ぜられしかば、これにより旗下の士原主水は出奔し、榊原加兵衛は蟄居せしめ、小笠原松之丞は放逐せらる、其四月、有馬晴信が子は、はじめより父の邪教を奉ずるに従はざればとて、新に日向県の地四万石給はり、父が旧領有馬に下り、邪徒捜索すべしと命ぜらる、又南禅守の崇伝長老に命じ、仏法と邪法との差別を文にかゝしめ、邪法を改めて仏法に帰せしめ給はむとて、遍く世に施し示され、西洋より来りし徒は、みな本国に送りかへさしむ、さきに右府に帰せし高山右近は、この頃薙髪し、南坊といひて、松平筑前守利常に属し、二万石領してありしが、改宗すべき由仰下されしといへども肯はざれば、同藩の内藤飛騨守如安とゝもに、一族悉く天港あまかはに放流せらるゝにより、捕へ出すべしと、利常の許に仰くださる、これよりさき、耶揚子伴天連耶揚子やよすといひしが、その徒の中にひとり反忠して、邪徒はたゞ宗門を弘むるのみに非ず、国家を傾けむ為なりと訴へ出でしにより、これは賞せられ、西城の下にて宅地賜はりて住せしむ、〈今のやよす河岸、住ぜー所なもて名とす、〉十九年三月、利常より高山・内藤の一類を京へ送り、細川忠興より加々山隼人佐等の邪徒百七十人めし取りて獄に繋ぐよし、板倉伊賀守勝重より駿府へ注進せしかば、山口駿河守直友・間宮権左衛門伊治、御使として上京し、高山等の巨魁は長崎へ遣し、西洋へ流し、残党七十余人は奥州津軽へ謫配せしむべしと命ぜらる、又泉州堺の地は、邪徒多きよし聞召し、駅書もて山口・間宮の両人に、かの地をも検覈し、且つさきに有馬直純命を蒙り、紀州より日州へ就封せむとするに、僕徒多く邪徒にして、ゆく事叶はざるよし聞召せば、堺の事はてば、肥前にゆき、その党を誅戮すべしと仰付けらる、おなじ七月、板倉勝重より、邪徒千人召捕へて、獄につなぐよし注進す、八月、山口駿河守直友帰謁して、肥前の邪徒悉く誅戮し、長崎にありし道場も、悉く破却せし由言上す、九月、駿府にて邪徒清安といへるもの、獄中にて門衛の者二人に邪教を勧めし事露顕し、清安が十指を切り、額に熔印おして追ひ放たる、十月、長谷川藤広より、高山・内藤等既に天港に流し、松浦肥前守隆信が家人もて、長崎・有馬辺の邪徒、家々を査検し、その画像を証とし、信仰の者は逮捕し、さまでなき者は、証状出さしめて、仏法オープンアクセス NDLJP:2-96に改めしめし由注進す、かく御心を労し給ひて、厳重に制禁せられしかど、多年の悪習一時に改むる事を得ず、大猷院殿御代に至り、島原の賊徒またこれをもて愚民を欺惑し、騒乱を引出せしかど、それよりいよ制令をおごそかにせられ、査験至らぬ隈なかりしにより、遂にその根株をつくし、枝葉をかりて、永く邪教の害を除かれしなり、〈駿府政事録、大友記、武徳編年集成、〉

此巻は御政事にあづかりし筋のことをしるす、

 
 

この著作物は、1959年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定の発効日(2018年12月30日)の時点で著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以上経過しています。従って、日本においてパブリックドメインの状態にあります。


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