東照宮御実紀附録/巻十三

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東照宮御実紀附録 巻十三
 
家康秀忠の子の嫡庶の別を正す

一年駿府より江戸へ渡らせ給ひしに、将軍家はじめ奉り、竹千代君及び国千代の方もまち迎へ給ひ、大奥へ入らせられて、御台所も御対面あり、御座に着せられし時、竹千代殿これへと、御手を取りて上段にのぼらせ給へば、国千代の方も同じくのぼり給はむとし給ふに、しゝ、勿体なし、国はそれにとて、下段に着せしめられ、御菓子進められし時も、まづ竹千代殿へ進らせ、次に国へも遣せと仰せらる、後に御台所に向はせ給ひ、嫡子と庶子とのけじめは、よく幼き時より定め置きて、ならはさゞればかなはぬ者なり、行すゑ国が堅固に生立たば、竹千代藩屏の臣たらむはいふまでもなければ、今よりその心掟し給へ、これ国が為なりと仰せられ、また将軍家の方を御覧じ、竹千代はよくもあの人のおさな生立に似たれば、一入わが愛孫なれと宣へば、将軍家も盛慮のかしこさを謝し進らせられ、御台所は何と仰せらるゝ旨もなく、たゞ面あかめておはせしとか、その頃御台所には、殊さら国千代の方をいとほしみ深くましければ、内々にては、何事も竹千代君より御権強く、近侍の者または女房なども、多く国千代の方にあつまり、えうせずば引越して儲位にも居給はむかなど流言どもありしが、この日の御もてなし格別なりしより、いづれもはじめて嫡庶の分おはします事を知り、人々のつかふまつりざまもあらたまりて、国本いようごきなく定らせ給ひしとぞ、〈落穂集、武徳編年集成、〉

江戸より駿河に参謁せし者ありしに、このごろ将軍には機務の暇には、何を業となし給ふと問はせらる、その者常々武道の御穿鑿のみなりと申上ぐれば、将軍軍法の事聞かれむとならば、榊原康政の戦法榊原式部こそよけれ、かれはおほくの人の中に、多人数使ふ事心得し者なり、よく彼に尋ねらるべし、一人一箇の武勇は穿鑿ありとも、何の益かあらむと仰せられしとぞ、〈寛永系図、〉

家康酒井家次を叱責すある年の正月、江戸より歳首の賀使として、酒井左衛門尉家次を駿府へ遣さる、家次見参の所、折烏帽子の下に綿帽子かぶりしが、いかゞしけむ、烏帽子脱げて綿帽子あらはれしかば、御気色悪しく、本多佐渡などは老年といひ、且もとよりおどけたる者なれば、綿帽子かぶる事もあれ、左衛門等が若年にて、その真似する事やはオープンアクセス NDLJP:1-140ある、我等が方は隠退の事なれば、ともかうもあれ、江戸にて諸大名列見の席などにて、かゝるなめげなる装しては、将軍へ対してその憚少からずとて、いたくむづからせ給ひしかば、折ふし阿茶の局御側にありて、昨夜左衛門風引きて、今朝の見参かなふまじといひ越せしが、初春の事にもあれば、つとめても拝賀に出でよ、そぞろさむくば、衣服を重ね綿帽子きても、苦しかるまじと申遣しける故なるべし、全くわらはが所為にて、左衛門が心づからなせしには侍らずと、御気色とりしかば、やがて御心解けて、さる事にてもありつらむと仰あれば、左衛門は辛うじて御前をまかでしとなり、〈続明良洪範、〉

駿河の阿部川に、遊女の住める市街あり、府城に近さをもて、旗下の少年ども、動もすれば花柳に耽り、遊惰にのみなり行くをもて、町奉行彦坂九兵衛光正、遊女町を二三里遠き所へ引移さむと申す、君九兵衛を召して、今まで城下に住める市人をこと所に移さばいかにと宣へば、さありては市人売買の度を失ひ、艱困すべしと申す、さらば阿部川の遊女も、うり物にてはなきか、さるを遠地に移さば、阿部川の者たづきなりがたからむ、これまでのごとくさし置けとの上意なり、家康遊女を城中に招くかくてかの地次第に繁栄するに従ひ、旗下の者はおのづから遊宴に長じ、窮困するよし聞えければ、その年の秋に至り光正を召し、此頃市中の躍の声城中にも聞えていと賑はし、我も見まほしと思ふなり、衣装など新に調ふるに及ばず、常のまゝにて躍をせさせよと仰下されしかば、駿河の市街を三に分ち、躍子・はやし方まで、城中に入りて思ふさまに歌舞し、赤飯・酒など給ひ、三箇夜興行ありしなり、その後阿部川の躍はいかにと尋ね給へば、遊女町ゆゑ除きぬと申す、君、年寄りては男子のむくつけき躍ばかりにては興にもあらず、女子の躍見たく思ふなりと宣ひて、俄に阿部川の町へ仰ごと下りて、遊女の中にも名ある者は、そが名をしるして奉れとありて、銘々こゝをはれと用意し、その夜にもなれば、とり御覧ありて後、高名の遊女どもをば板縁の上に召上げられ、一人づゝその名を御尋あり、暇給はる時は、御次にて菓子賜ひ、同朋福阿弥もて密に仰伝へられしは、此後とても俄に銘々が名さして召呼ばるゝ事もあるべければ、いづれもかねて心得置くべしとなり、かくて遊冶の輩この由聞き伝へて、遊女の内、いづれか上の御目留りになりて、召されむもしれず、御尋の時、いかなる事申上げむも計り難しと憚り恐れて、少しも身オープンアクセス NDLJP:1-141分あるものは、この後花街に通ふ事はやみしとなり、〈駿河土産、〉

宿直者の怠慢駿河にて宿直に当りし番士等、夜半過ぐるまで所々遊行し、辻相撲など見物してかへるに、一人づゝ残りて番する事なり、或夜ふと表方へ渡御ありしに、例の如く一人残り居しを御覧じ、如何にしてみな宿直を明けしぞ、その上余人はみな出でしに、汝一人残り居て何かせむ、臆病ならずばうつけものなるべしと罵らせ給へば、この後は一二人残らむとする者なく、みな遊行とゞめしとぞ、又城中にて年少の番士等打寄りて、座敷相撲とりし所へ、ふとならせければ、いづれも平伏してあり、その時、この後相撲をとらば、畳を裏返にしてとれ、福阿弥が見付けたらば、畳の縁が損ぜむとて、腹立つべしと仰せられ、別に咎めもし給はざりき、後に番頭等この事聞伝へ、おごそかに禁ぜしめしとぞ、〈駿河土産、続武家閑談、〉

按に、慶長十二年正月廿九日、相州中原へ御止宿ありしが、夜、行殿にありし所の御茶器、盗賊のために紛失す、よて其夜当番の者御科を蒙る、これは番衆その夜辻相撲見物に出で知らざるなりと、慶長聞書にも見えたり、当時かゝる事つねづねありしと見えたり、

落書御上洛ありて、二条城におはしませし頃、落書する者おほし、所司代板倉伊賀守勝重、これを捜索せむといふ、君そのまゝ捨て置くべし、抑いかなる事書きしぞ、みそなはさむとあれば、御所柿にたにざく様の物つけしを持出で、御覧に備ふ、

  御所柿はひとり熟して落ちにけり木の下に居て拾ふ秀頼

御覧じて、この上とても落書禁断すべからず、はしたなき事ながら、わがみて心得になる事もあれば、そのまゝにせよ、幾度も御覧あらむと仰せられしとぞ、〈古人物語、〉

慶長十年九月、広橋亜相兼勝卿・勧修寺黄門光豊卿両伝奏より、春日・若宮両社の木千折れたり、抑神木の枯るゝは、昔より国家の大事、兵乱の兆といひ伝ふる由申さる、君両社共に剏建より以来、あまたの星霜を重ねしことなれば、古木の折れまじきにもあらず、あながち恠異とするに足らず、将軍家へ申して、修植を願ふべしと仰付けられしとぞ、〈天元実紀、〉

父祖の情誼ある時本多佐渡守正信に仰せられしは、われ将軍家へ厚恩を常に施し置かせらるゝと宣へば、正信、天下を御譲ありしは、この上なき御恩なりと申せば、いや、家を子に譲るは、珍らしき事にもなしと宣ふ、こは君の御代に、何事もむづかしげにオープンアクセス NDLJP:1-142なし行ひたまはゞ、後にかへりて将軍家の御寛容を悦び、弥したしみ奉る者あらむかとの御下心なりしとぞ、黒田孝高入道如水が死期近くなりて、その臣下に種種の難題いひかけて苦しめしは、その子の長政を、わがなき跡にて、よく思はしめむとての所為なりといひしと、同じ様の御心用かと思はるゝにぞ、又はかなき事にも、さる上意ありしは、いづれの時にか御舟遊ありしに、天野五郎太夫を召し、鯉の調理命ぜられしに、鯉躍りて海に入らむとせし所を、魚箸もておさへて調じければ、いづれも其技の絶妙なるを誉めあへり、上意に、五郎太夫のたわけ者めと宣へば、本多正信、何ゆゑかく仰せらるゝかと伺ひしに、その身一代は名人の名をとれ、子孫に至りて、さる者なからむには、却りて子孫をして父に劣れりといはしめむ、誰も子孫を思はぬ者はあらじと仰せられしとぞ、〈古人物語、〉

投頭巾の茶入慶長十七年三月、将軍家江戸より駿河へ参らせ給ひし時、さま御もてなしありて、御茶進らせられし後、投頭巾の御茶入を贈らせらる、これは茶人の名を得し珠光といへるが、はじめて見て覚えず頭巾を落せしより名を得し、天下第一の名器なりとか、其頃御談伴の徒、将軍家も殊更かしこみ思召し給ふよし申上げしかば、汝等も将軍にねだりて、投頭巾の茶に呼ばれよとて、殊の外御気色よくて御はなしありしは、人の子をほしがるも、家康隠居家督の法を説く早く家を譲り与へ、その所行を見定め、安心して残の齢を過さむがためなり、さりながら家を譲るは容易ならず、子の才器にもより、年の程もあるものなり、その上には時勢人心をとくとかうがへて譲り渡すべきなり、家の重器などに至りては、家つがせざる前方にも、追々に譲り渡し子に安心さするもよし、おほよそ世の習にて、家譲るとなれば、何によらず一時に子に授け、己が身一つになりて隠所に引籠るを本意とし、人もこれを見て、心いさぎよき事とて誉むるなり、または秘蔵の器をば、隠居して後も持かゝへ、折々子に分ち与へて、その心をとる親もあり、抑わが若かりし程より、世の父子の様を見もしききもするに、はじめはかたみに慈孝深かりしも、隠家家督の後に至り、いつとなく不和になりしためし少からず、こは父子の情愛に於ては、もとよりかはる事はなけれども、人々年長けて後は、とかく成長の子を煩しく思ふと、又子たる者の老いたる親を大切と思はざるより、互に際出来て、他人にも不和に見ゆるなれ、さる折は親の方より道具の一つも譲り与へば、子も心落居て、他人の嫌疑も散ずべオープンアクセス NDLJP:1-143し、子をして不幸の名をとらせぬ様にせむこそ、親の本意なれと上意あれば、いづれも皆感歎して承る所に、また重ねて仰ありしは、隠居して後、実に子と中あしくなり、わが子へさま艱苦をかけ、隠居に似合はぬ奢侈を好み物数寄をし、莫大の費用を子に遺し、後には世のまじらひもならざる如く、貧困になり行く例少からず、父に不利なるは、子の仕様のよからぬゆゑとはいひながら、よくその本をたださば、親の過誤なれ、古語に、子を知るは親に如くはなしといへば、親としてわが子の善悪を見しらざるは大なる怠なれ、わが怠なりとも、既に家を譲り渡せし上は、わが心にかなはぬ事なりとも、おほかたはまづ忍むで居て、さま教戒諷諭して、ながく家を治めさせむ様にはかるべきなり、四民共に家継がせむ子は、よくよくその才器を見定めてこそ譲るべけれ、これ人々己が祖先へ対して第一の孝道なれ、殊更国郡の主たらむ者、いかにわが子不便なればとて、任にかなはぬ者に家を譲らば、家臣をはじめ、国民までも禍を蒙り、後には敗亡に至るなり、たとひ嫡子たりとも、不幸にして任にかなはずばこれを廃し、庶子の内か一族の内を択みて家督とすべし、この所に於て聊疑惑なく、断然として行ふを、国主の本意といふぞかしと仰せられしとなむ、〈岩淵夜話、〉

最上義光最上出羽守義光、はやうより心を当家に傾け、出羽よりはる書信を通じ、織田・豊臣の両家へも、当家を紹介して帰順せしなり、其後京・伏見にて危疑の間も、人より先に御館に伺公して守護し奉り、関原の役には、御味方して上杉景勝と戦ひ、忠勤なみならざりしかば、君にもいと頼もしきものに覚したり、この義光年老いて後、慶長十七年の頃、久しく病にかゝり、起居も自由ならねば、再び見え奉らで果てむは本意なしと思ひ、出羽よりはる病をつとめ駿府に参謁す、かねてこの由聞召しければ、本多上野介正純に仰付けられ、途中に出迎へしめ、御玄関まで乗輿を許され、進謁のときも御座近く召し呼ばれ、つぶさに病体を問はせ給ひ、御手づから御薬下され、早く封地にかへり、心のまゝに療養すべし、かへさに江戸にも立寄り、将軍にも拝謁せよと懇の仰ありしかば、義光も涙ながしてかしこみ奉りて退でし後に、御使もて夜の物布帛かず下され、やがて江戸に参り、台徳院殿にも見参し奉りしかば、同じ様に御優待ありて、賜物かずかづけ給ひ、且義光が長子家親、今在府の間、年来の国役三が一を免除せしめ給ふ旨仰下され、義光オープンアクセス NDLJP:1-144感恩に堪へず、かくて帰国の後、十九年正月、遂に身まかりしとぞ、〈武徳大成記、寛永系図、〉

藤堂高虎藤堂和泉守高虎も、太閤在世の時より、当家に心を傾け進らせ、殊に関原の前後には、忠勤を尽せし事大方ならず、かゝりしかば、こなたにもその精忠を察せられ、御家人と同じ様に、御心やすく思召し、何事も議し合されしなり、御老後には常に召して御談伴とせらる、その頃高虎も齢既に傾きて、両眼うとければ、御前わたりに侍らむ事恐れありとて辞し奉りしに、土井大炊頭利勝もて、君御晩年にならせられ、和泉と昔物語せさせ給はねば、いとつれに思召せば、目のうときは苦しからず、これまでの如くにまう上るべし、且行歩も思ふ様なるまじければ、御座所の御次まで乗輿を許され、渡殿の屈曲せし所々も、みな直道に作りかへしめられ、そが便よからむ様に構へられし由、仰下されしかば、高虎も御寵遇の懇到なるに感じて、老の涙をそゝぎつゝ、重ねてまうのぼりて、御談伴に候せしとなむ、〈藤堂文書、〉

夏月の頃、駿城にて天俄にかき曇り、神夥しく鳴り出でし折、御前に伺公せし御談伴の徒へ仰せけるは、何事にも用心のなき事はなし、地震など急遽に起るものなれども、かねて営造の様によりて、その難を遁るゝ事もあり、雷ばかりは何地へ落つるといふ定もなく、直に落つるも横に落つるもあれば、ふせぐべき術なし、避雷の法さりながら用心のなきにはあらず、人々いかに思ふと宣へば、各上意の如く、これのみ防ぐ術は候はずと申上ぐれば、さらば我教へて聞かせむ、大名などの家居広く住なす者はいふに及ばず、小家に住む者も、今日の如き迅雷にあへば、夫婦・兄弟それぞれ間を隔てゝ居るこそ第一の用心なれ、そのゆゑは、誰なりとも運命にて雷に打たれむに、その身一人打たれむは詮方なし、もし雷のはげしきを恐れ、家内一所につどひ居る所へ落ちたらば、一家種絶しになるなり、先年京の市人、雷の時、狭き家の中へ一族残らず閉籠り戸・障子を立廻し、火をたき香など焼きて居る所へ雷落ちて、座中おほかた打殺され、残る者もみな片輪になりしなり、恐るべき事ならずや、さるを此者はかねて隠悪ありしゆゑ、天罰にあたりしとも、又は前世の宿業なりとも人々いひしは、いとおろかなるいひ言なれ、雷に何の取捨があるものかとて、御笑ありしとぞ、そのころ尾・紀・水御三人の公達のかしづき等を召して、この後雷のはげしきときは、方々を一所に置き奉るなと仰付けられしとなり、〈駿河土産、岩淵夜話、〉

オープンアクセス NDLJP:1-145土屋忠直甲斐の土屋惣蔵昌恒が子は、昌恒が主の勝頼がために討死せし後、故ありて駿河国清見寺にありしを、一とせ駿河より江戸へ入らせられし時、清見寺へ立寄らせられ、御硯箱めせしに、この子硯箱持いでゝ奉れば、墨摺れと上意にて、御側に差置かれ、噺子の番組など書しるし給ひ、出立たせ給ふにのぞみ、この幼き者は誰が子なりやと御尋あれば、寺僧これは御敵なりし者の子なれば憚なきにあらず、さりとて今はつゝむべきにも侍らず、甲斐の土屋惣蔵が子なりと申上ぐれば、そは忠臣の子なり、われにくれよと宣ひ、御召替の御輿に乗らしめて召連れられ、江城の御玄関まで成らせられしに、台徳院殿出で迎へ給ふ所へ、御みづからこの童子の手を引きて、これは此度道中にて思はず掘出せし懐中脇差なり、忠臣の種なれば随分に秘蔵し給へとて授けらる、台徳院殿童子の袖をとらしめて、盛意をかしこみ謝し給ふ、これより御側に近侍し、寵眷浅からず、後に民部少輔忠直とて、いと才幹ある者になりしなり、又江城にて御鷹狩のかへさ、牧野伝蔵成里、大手門の番にあたりて平伏してあり、その頃のならひにて、成里が三男の五六をも携へて、同じくありしを御覧じ付けられ、御前近く召し、五六が年齢御尋ありて、年頃よりいと長大にて、行々壮勇の士ともなるべき相見えたり、今より将軍に近事して、忠勤を励むべしと仰ありて、成里をば伊予守に任ぜしめ、五六に伝蔵が名を譲らしめられしとぞ、〈武徳編年集成、〉

池田輝政卒す慶長十八年正月、池田三左衛門輝政みまかりぬ、その生前に常々愛宕の神を信仰せしが、いまだ卒せざる前かた、庭鳥の死せしが、一双庭上に落ちてありしを、いまいましく思ひしが、程なく卒しける由聞召して、死したる事の不便さよ、すべて愛宕など祈りて、天下がとれるものにてなしと上意ありし、この人も風雲の機に乗じては、いかなる志ありけむも計り難しと、思召ての御詞ならむと、時の人々評しけるとなむ、〈古人物語、〉

永井道存の逼塞越前少将忠直朝臣、讒人の言を信じ、其臣布施但馬を誅せしとき、表口よりは本多伊豆守富正、数寄屋口よりは永見伊右衛門、台所口よりは永井道存を討手に遣せしといふを聞かせられ、その道存とは何者ぞ、余の両人と同じく、かゝる所へ出づべき者かと宣へば、本多上野介正純、こは永井善右衛門が事にて候と申上ぐれば、御気色悪しく、善右衛門が事か、そは親の秀康が心にかなはで立退きし者を、そのオープンアクセス NDLJP:1-146子の使ふ事やあるべき、他所に口を糊する所はなきか、親が見限りし者を、子として養ふ理なし、わが生前に彼がつらをば再び見まじと宣ひしゆゑ、忠直朝臣が方にてもそのまゝ差置かれ難く、逼塞命ぜられしとなり、〈武功実録、〉

三家附家老尾・紀両家へ家老一人づゝ附けさせられむとて、松平周防守康重・永井右近大夫直勝両人、内々御気色給りしに、両人あながち辞し申しければ、其後は外々の者へも仰付けられず、折しも御持病起らせ給ひて、常の様にもましまさゞれば、安藤帯刀直次・成瀬隼人正正成両人打寄りて議せしは、こたび大御所には、両家のかしづきの事をおぼしなやみてましますと見えたり、何をつとむるも、上への忠節なれば、両人とも志を決して御請け申さむとて、われ不肖には候へども、此度の役に召仕はれむとならば、仰に従ひ奉るべしと申せば、殊に御気色よく、両人の申す所神妙に思召すとて、隼人正を尾張、帯刀を紀伊に附けさせられ、本城の御用もこれまでの如く仰付けらるべしとなり、中山備前守信吉も水戸へ附けさせられしなり、〈駿河土産、〉

按に、家譜によれば、成瀬・安藤が両藩のかしづきとなりしは、共に慶長十五年にして、中山が事は十二年なり、中山に御附命ぜられし時に、諸事成瀬・安藤と同じ様に心得べしとの命ありしなれば、安藤・成瀬もそれより以前かねて両家の事心得てありしと見えたり、

以上の二巻は駿府におはしませし折の事どもを記す、

 
 

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