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東照宮御実紀附録 巻一
 
かけまくも畏き東照神君、応仁よりこのかた、蓬のごと乱れ、瓜のごと分れし、百有余年の大乱を打平げ、久堅の天ながく、荒がねの地かぎりなき洪業を開かせ給ひし御事蹟は、つばらに本編に書記し奉りぬ、御嘉言・御善行の如きに至りては、悉く本編に載すべくもあらざれば、今諸書に散見する所の、疑はしきを去り、正しかるべきをつみとりて、藻塩草かきあつめ、本編の末に附し奉るにこそ、

家康の幼時抑まだ御幼称の御程より、あやしく、さとくおはしまして、なみの児童の及ぶ所にあらざる事は、いふべくもあらず、八歳にならせられし時、尾張の織田信秀が為に囚はれ、同国名古屋の天王坊といふにおはしませし時、熱田の神官、御徒然を慰め奉らむとて、黒つぐみといへる小鳥の、よく諸鳥の音を似するを献じければ、近侍等いと珍らしきものに思ひ、めで興じけり、家康異鳥を悦ばず君御覧じて、かれが珍禽を奉りし心えはさる事なれども、思召す旨あれば、返し下さるべしと聞え給へば、神官思ひの外オープンアクセス NDLJP:1-10の事にて持帰りぬ、其後近侍にむかはせられ、此鳥は必己が音の劣りたるをもて他鳥の音をまねびて、其無能をおほふなるべし、おほよそ諸鳥皆天然の音あり、黄鳥は杜鵑の語を学ばず、雲雀は鶴の声を擬せず、おのがじゞ本音もて人にも賞せらるれ、人も亦かくの如し、生質巧智にして万事に能あるものは、必遠大の器量なき者ぞ、かゝる外辺のみかざりて真能のなきものは、鳥獣といへども、大将の祝びには備ふまじきなりと宣へば、承りし者共、まだいとけなく渡らせ給ひ、ひろく物の心もしろしめさぬ御程にて、かゝる事思ひ至らせ給ふは、行末如何なる賢明の主にならせ給はむと、あやしきまでに感じ奉りぬ、後に聞けば、黒鶇は果して本音のなき鳥なりとぞ、後年に至り、豊臣太閤の諸将を評せられしにも、今川氏真・織田信雄など華奢風流の事はよくなし得たれど、秀吉の家康評武門の器にともし、徳川殿は何ひとつ技芸の勝れし事は聞えざれども、将に将たる器量を備へられしと感ぜられし事あり、いかにも御幼称の御程より、衆人に殊なる御本性におはしましたるならむと今更仰せがらるゝ事になむ、〈故老諸談、道斎聞書、〉

印地打五月五日、児童の戯とて、隊を分ち、石もて打あふを、俚語にいむぢうちといふは、石打といふ詞のよこなまりしにて、古くより児戯とせしは、全く戦国争闘の風、童部にもおし移りしなるべし、君は未いとけなくて、駿河の今川が許におはしける時、石打見そなはさむとて、近侍の者の肩に負はれ、阿部河原に出でませしに、一隊は三百人余り、一隊は百四五十ばかりなり、家康寡勢の有利を看破す人々みな多勢の方により来て見むとす、君、われは小勢の方に行かむ、小勢の方の人は、自ら志を一決して恐怖の念なく、隊伍もいとよく整ふものぞと仰せければ、かの侍、この君何を知ろし召してさは仰せらるゝぞと、いぶかしく思ひしが、程なく打合始まりしに、多勢の方、一支もせず敗走し、見物の者もそが方に行きしは、人なだれにおしすくめられ、辛うじて逃散りぬ、この事聞き伝へし者ども、御年の程にも似つかはしからぬ御聡明の御事かなと、感じ奉らぬはなかりしとぞ、〈故老諸談、太平夜談抄、〉

按に大勢の方は農民なり、微勢の方は武士なり、微勢の方必勝たむと仰せられしが、果して其の如くなりしといふ説もあり、

天文二十年正月元日、今川が館におはしませし時、かの家臣等義元が前に列座して拝賀す、君いとけなくてそが中におはしますを、いづれも怪しみ、いかなる人のオープンアクセス NDLJP:1-11子ならむといふに、松平清康が孫なりといふ者あれど信ずる者なし、其時君御前を立ちて、縁先に立たせられ、なにげなく便溺し給ふに、自若として羞作の様おはしまさず、これにより衆人驚歎せしとぞ、〈紀年録〉

駿府におはしませし頃、一日大祥寺といふ禅刹へ成らせられしに、鶏二十羽ばかり飼ひ置きしを御覧じ、住僧に、この鳥一羽われに与へぬかと宣へば、住僧、皆なりとも献らむ、菜圃啄みあらせども、おのれと生育いたし候へば、先そのまゝに飼置きぬと申せば、咲はせられながら、この法師は、鶏卵食ふ事は知らぬかと仰せられ、後に駿河御領国となりし時、彼住僧殊勝の者なりとて、寺領御寄附ありしとなり、〈君臣言行録、〉

鳥居忠吉の忠誠鳥居伊賀守忠吉は清康・広忠の二君に仕へ奉り、君の駿河に渡らせ給ひし時、今川が計ひにて、松平次郎左衛門重吉と共に御本国にとゞまり、賦税の事を奉行せしめられしかば、忠吉が子彦右衛門元忠をば、君の御側に参らせ置きて御遊仇とせしが、君は十歳、彦右衛門は十三歳なり、斯る折柄殊に悦ばせ給ひ、朝夕親み語らひ給ふ、その頃百舌鳥をかひ立て鷹の如く据えよと、彦右衛門に教へ諭し給ひけるが、据方よからずとて怒らせ給ひ、縁より下に突き落し給ひければ、御側にありあふ者ども、忠吉が忠誠を尽す余り、己が愛子までを参らするに、いかでかく情なくはもてなさせ給ふぞと諫め奉りしを、忠吉は後にこの事伝へ聞きて、なみなみの君ならむには、御幼稚にても某に御心を置かせ給ふべきに、聊其懸念おはしまさで、御心の儘に愚息をいましめ給ふ、御資性の濶大なるいと尊し、この儘に生立たせ給はゞ、行末いかなる名将賢主にならせ給ひなむ、某犬馬の齢已に傾き、余命いくばくもなし、御行末を見つがむ事難し、彦右衛門、汝は末永く仕へ奉り、万につけて疎にな思ひそとて、かへりて己が子の許へは厳しく申送りしとぞ、人みな忠吉が忠貞にして私なきを感じけり、〈鳥居家譜、〉

按に、鳥居が家譜には、伊賀守忠吉、駿府に附添ひ仕うまつりし様に記せしは誤に近し、忠吉はこの頃岡崎に残りて、御領の事奉行してありしなり、

尾張におはしませし頃、織田の家士河野藤右衛門氏吉、殊にいたはり奉り、常に百舌鳥・山雀などさまの小鳥とも献じ、御心を慰めければ、御手づから葵に桐の紋ほりたる目貫をたまひ、後々にもその厚意を忘れ給はで、関原の後に召出してオープンアクセス NDLJP:1-12御身近く召仕はれぬ、また同じ頃、鷹狩に出給ふに、鷹それて孕石主水が家の林中に入りければ、そが中に押入りて据上げ給ふ事度々なり、主水煩はしき事に思ひ、三河の忰にはあき果てたりといふを聞召しけるが、年経て後、高天神落城して孕石生擒になりて出でければ彼、わが尾張にありし時、我をあき果てたりと申したる者なれば暇とらするぞ、されど武士の礼なれば切腹せよとて、遂に自殺せしめられしなり、〈東武談叢、三河の物語、〉

家康の元服弘治二年正月十五日、御年十五、駿河国にて御首服加へ給ふ、今川義元加冠し、関口刑部少輔親永理髪し奉る、其年、尾州の織田信長、三河の城々を侵掠する由聞えければ、君、義元にむかはせられ、某、齢已に十五に満ちぬれど、いまだ本国祖先の墳墓を拝せず、あはれ願くはしばしの暇賜はり故郷にかへり、亡親の法養をも営み、且は家人等にも対面せまほしと仰せければ、家康駿府より岡崎に帰る義元も御孝志の深厚なるに感じ、仰の儘にゆるし聞えぬ、君大に喜ばせ給ひ、いそぎ三河へ御返ありて、御祖先の追善どもくさ執行はれ、御家人等もこぞりて悦ぶ事大方ならず、岡崎に渡らせ給ひても、本丸には今川より附置きし山田新右衛門など、城代としてありけるに、君、岡崎はわが祖先以来の旧城といへども、某いまだ年少の事なれば、これ迄の如く本城には今川家より附置かれし山田新右衛門をその儘据置かれ、某は二の丸に在りて、よろづ新右衛門が意見をも受くべきなりと仰せ遣はされしかば、義元大に感じ、朝比奈などいふ家長にむかひ、この人若年に似合はぬ思慮の深き事よ、行末氏真が為には、上なき方人なりとて喜びけるとなむ、〈岩淵夜話別集、〉

家康初めて信を足利将軍に通ず弘治二年、柳原兵部といへる者、良馬を献る、無双の駿蹄にして名を嵐鹿毛といふ、是を誓願寺の住僧泰翁もて、室町将軍家へ進らせらる、光源院殿感悦斜ならず、手翰及び短刀を贈らる、是ぞ当家より柳営へ通信ありし権与なり、〈武徳大成記、〉

按に、其頃京都将軍駿馬をもとめ給ひ、織田家へも命ぜられけれども、とかくさるべき馬も奉られざる由を聞召し、元三河の国大林寺の住僧泰翁、今は京の誓願寺の住職して、常に室町殿へも懇に参り仕うまつる由、聞召してやありけむ、其泰翁をして参らせられしなり、其時将軍家より下されし手書は、今も秘府に伝へたり、〈此泰翁縉紳家にもひろく交り知音多かりしかば、此後弥公家堂上の人々へも媒介せし功をもて、後に三河国岡崎の城下に寺地を賜ひ、奉翁院警願寺を建てたるなり、世俗伝ふる所の三河記等に、この嵐鹿毛を進らせられし事を、今川義元が執せし事の如く伝へしは、全く誤伝と知るべし、〉オープンアクセス NDLJP:1-13

今度早道馬事、内々所望由申候処、対松平蔵人佐申遣、馬一疋〈嵐鹿毛〉則差上段、悦喜此事候、殊更無比類働驚目候、尾州織田上総介方へ雖所望候、于今無到来候処、如此儀別而神妙候、此由可申越事肝要候、尚松阿可申也、

  三月廿八日     書判

     誓願寺泰翁

駿河におはしける頃、今川が計らひにて、御家人阿部大蔵定吉・石川右近某の二人に岡崎の留守させ、鳥居忠吉予め米銭を儲ふ鳥居伊賀守忠吉・松平次郎右衛門重吉二人は御領の事を奉行させ、賦税はみな義元押領せし間、忠吉ひとり辛苦して、年頃米銭どもあまた貯へ、兼ねて軍儲に備へ置きしが、御帰城ありしをまちつけて、忠吉喜びに堪へず、御手を引いて蔵ども開きて御覧に備へ、申しけるは、某多年今川の人々に隠してかくものせしは、我君はやく御帰国ありて御出馬あらば、御家人をも育ませ給ひ、軍用にも御事欠くまじき為に、かくは備へ置きぬ、某八旬の残喘もて朝夕神仏にねぎこしかひありて、今かく生前に再び尊顔を拝み奉る事は、生涯の大幸、何ぞこれに過ぎむやと、老眼に泪をうけて申しければ、君にも年頃の忠志、且資財までを用意せしを感じ思召し、さま懇に仰せ慰め給ふ、この時忠吉、銭を十貫づゝ束ねて、竪に積み置きしを指して、かく積み置けば何程重ねても損ずる事なし、世人のする如く横に積めば、割るゝものなりと聞え奉りしかば、後々までも此事思召し出され、銭を積むにはいつもその如くなされて、こは伊賀が教へしなりと、常に仰せられしとぞ、〈鳥居家譜、〉

岡崎に還らせ給ひし頃にや、一日放鷹に成らせ給ひけるに、折しも早苗とる頃なるが、御家人近藤何某、農民の内に交り、早苗を挿して在りしが、君の出でませしを見て、わざと田土もて面を汚し、知られ奉らぬ様にしたれど、とくに御見とめありて、彼は近藤にてはなきか、こゝへ呼べと仰あれば、近藤もやむことを得ず、面を洗ひ田畔に掛置きし腰刀を差し、身には渋帷子の破れしに縄を手縄にかけ、おぢおぢはひ出でし様、目も当てられぬ様なり、家康家士の貧窮を憐むその時われ所領ともしければ、汝等をもおもふものゝ育む事を得ず、汝等聊の給分にては、武備の嗜もならざれば、かく耕作せしむるに至る、さりとは不便の事なり、何事も時に従ふ習なれば、今の内オープンアクセス NDLJP:1-14は上も下もいかにもわびしく、いやしの業なりとも勤めて、世を渡るこそ肝要なれ、憂患に生れて安楽に死すといふ古語もあれば、末長くこの心持失ふな、聊恥づるに及ばずと仰ありて、御泪ぐませ給へば、近藤はいふもさらなり、供奉の者ども何れも袖を湿し、盛意の畏きを感じ奉りけるとぞ、〈岩淵夜話別集、〉

義元大挙西上せむとす永禄二年、今川義元大兵を起し、尾張の織田信長を攻亡し、上方に打つて上らむとて、国境所々にまづ新砦を構へ、大高の城をば鵜殿長助長持をして守らしむ、織田方にはこれを支へむため、大高に対城を構へ、丹家の城は水野帯刀・山口海老丞柘植玄蕃、善照寺の城は佐久間左京中島の城は梶川平左衛門、鷲津の城は飯尾近江守・同隠岐守、丸根の城は佐久間大学を籠置き防禦の備をなし、其外寺部・挙母・広瀬の三城をも取立て、大高の通路を遮りければ、城中糧食乏しくして、殆ど艱困に及ぶ、義元いかにもして城中に糧を送らむと思ひ、家のおとなどもを集め評議したれども、此事なし得むとうけがふ者一人もなかりしに、君纔に十八歳にましましけるが、かいしくも此事うけ引かせ給ひ、其年四月九日の夜半ばかり岡崎を出立たせ給ひ、松平左馬介親俊・酒井与四郎正親・石川与七郎数正先鋒うけたまはり、大高・丸根・驚津等の諸城を打越え、はるか隔りし寺部の城に攻懸らしめ、御みづからは精兵八百計に、輜重千二百駄を用意して、大高のこなた二十余町ばかりに控へ給ふ、先手寺部に押寄せ、木戸を破り火を放ち、そが光に乗じて颯と引上げ、また梅坪に押寄せ、同じ様に攻め戦ひ、二三の丸まで押入り、銃声夥しく聞えければ、丸根・鷲津の城兵等大高をば捨置き、皆寺部・梅坪の援兵に打つて出で、諸城ともに人少き由、細作かへりきて聞えあげしかば、時こそ至れと、急に兵を進めて、難なく糧を城中に送らせ給ひけり、君には思ふ様に仕済まして、御人数を集めて引上げ給ふ、鷲津・丸根の城兵かへり来て、たばかられしを悔ゆれどもかひなし、はじめ岡崎を打立たせられし時、酒井・石川等の老臣等、あながちに御出馬を止めけるが、更に聞入れ給はず、御帰城ありし後、老臣等いかにして此奇功を奏せられしと伺ひけるに、咲はせ給ひ、たゞ大高に兵糧を入れむとのみ思へば、丸根・鷲津其外の城兵ども、皆大高に馳集まりて妨げむとすべし、故に両城に押寄せ、敵兵をたばかり出し、そが虚に乗じて糧を入れしなり、近きを捨て遠きを攻むるは兵法の常にして、あながち奇とするに足らずと仰せられしかば、いづれもみな感歎し、今オープンアクセス NDLJP:1-15の御弱齢にてかく軍略に通ぜられしは、天晴末頼もしき御事かなと、かしこまざる者なし、大高兵糧入これ今の世までも大高兵糧入といひて、第一の御若年の御美誉にもてはやし奉る事にこそ、〈武辺咄聞書、〉

大高の城に兵糧を入れ給ひし後、今川義元より、西三河は御旧領なれば、御心のままに切取り給へとあつて、寺部・梅坪・広瀬・挙母・伊保等の城々を御手勢もて攻取り給ひ、勲功ある者共に分ち給ふ、御家の人々も、はじめて御武略の勝れ、あやしうをゝしくおはします事、御祖父の君〈清康君、〉に似させ給ひしとて、一同感悦し奉り、今川義元も大高の奇効を称して、龍馬の種が龍馬を生むとは、此君の御事ならむとてめで奉りしとぞ、〈武徳大成記、〉 今川義元、今度尾州表発向するに及び、君をば鵜殿にかへて大高城を守らせしに、義元はからずも桶峡間に於て織田信長が為に討たれし時、君にはその沙汰聞しめしつれど、虚実いまだ定かならず、かゝる所に御母方の御伯父なりし水野下野守信元より、浅井六之助道忠して、その由告げ奉りしは、義元既に討たれぬ、今川が持の城々皆明け退きたり、君にも早く其城を捨て、御本国へ帰へらせ給へと申す、御家人等も同じ様に勧め奉る、君聞召し、野州外家の親ありといへども、家康義元の敗死を聞きて岡崎に帰る当時織田方に属する上はその言信じ難し、もし其いふ所の実ならざらむには、故なくして当城を明け退き、人に後指さゝれむは、武門の恥辱是に過ぎず、道忠をば捕へ置きて、味方の一信を待つべしと仰ありて、今までは二丸におはせしを、俄に本丸に移らせ給ひ、偏に守禦の備をなし給ふ、しばしゝて岡崎の城守りたる鳥居忠吉が方より、事の様詳に聞え上げ、且今川より岡崎の城守らせし者共も引退く由なれば、さらば此城引払へと仰ありて、道忠を嚮導となされ、宵の間は道たどし、月待出で引取れと命ぜらる、諸人は一刻も早く引かむと思ふに、いと悠然として忩忙の様見え給はず、時刻にもなれば、道忠に松火を持たしめ、御先に進ましむ、古兵のいひし如く、夜中に敵国を押行くにはその習あり、騎馬を十町ばかり先に立て、歩行立には松火を持たしめずと仰ありて、艱阻の所毎に道忠松火を振るべしと定められ、上下三十人計の士卒を随へ、切所に一人づゝ残して、後れ来る者に知らしめ、路々一揆を追払ひつゝ、池鯉鮒に出でまして、遂に恙なく岡崎の城に還らせ給ひしなり、今川の人々この事承り伝へて、己が身に引くらべて恥かしき事にオープンアクセス NDLJP:1-16思ひ、織田信長も信義あつく末頼もしき大将たりと称し奉りけり、この歳御年十九にならせ給ひしとぞ、〈東遷基業、落穂集、岩淵夜話別集、〉

今川氏真に復讐戦を勧む岡崎に還らせ給ひ、先に今川より番衛せしめし者共、駿河に帰らしむるに臨み、彼等を御前近く召され、汝等かへり氏真に申すべきは、こたびの凶変、同じく驚き思召す所なり、さりながら信長今大利を得て、将驕り卒怠るの時なれば、其不意を伐たば味方勝利疑なし、一日も早く兵を進められむには、某も手勢引連れ、さび矢の一筋も射て、故吏部の旧恩に報ぜむと思ふ、よく此旨氏真はじめ諸老臣に申通ぜよと仰せけり、然るに氏真もとより天資闇弱にして、父が仇報いむ志もなく、たゞ平常の如く仏寺作善にのみ日を暮し、又三浦右衛門抔いふ姦臣を寵任し、譜第の老臣を疏遠にしければ、上下離畔して、国政も日にそひて頽敗す、其後も出軍の事度々仰せ勧められしかども、氏真酒宴乱舞にのみ耽りて何の心付もなし、このほど信長よりは、屢々水野信元をもて、講和を請はれしかば、氏真、父の弔合戦は孝子の至情より起れば、急遽に出でゝ其機を失はぬを肝要とすべきを、かく日月経ても其沙汰に及ばざれば、わが義元への志も是までなりとて、これより織田家と講和の議は起りしなり、〈東武談叢、落穂集、〉

水野信元が織田家に申し勧むるにより、尾張より滝川左近将監一益もて、石川与七郎数正が許に和議の事いひ送りしかば、老臣等召して此事いかゞせむと議せらる、酒井忠次いはく、当家只今の微勢もて織田・今川両家の間に自立せむ事難し、氏真元より闇弱にして酒色に耽り、父の仇報いむ志もなければ、家康今川と絶ちて織田に結ぶ其滅亡遠からじ、信長は当時並なき英傑にして、威名次第に遠近に及ぶ、信長と事を共にし給はゞ、行末当家の御為、是に過ぎたる事は候まじ、かなたより和議を乞ふこそ幸なれ、速に御承引あれと云、その時また御家人どもいづれも申しけるは、当家もとより今川の一族被官といふにもあらず、たゞ世々の旧好により、年頃その助援を受くるに似たりといへども、君いまだ御幼年にて駿府におはせし程、御領国の賦税はみな義元が方に収め、戦あるに及びては、いつも御家人をもて先鋒とし、そが死亡をも顧みず、いと刻薄なる処置は、尤怨ありて思なしと申すべしと、申す者多かりしに、君も戦に臨むで一命を殞すは、元より士たるものゝ常なれば、何ぞ悲むに足らむ、たゞわが身かの国の人質とせられて後、譜第の者をして、あへなく彼が為に討オープンアクセス NDLJP:1-17死せしめし事いくばくぞや、これぞわが身の終身の遺憾なれと仰せられて、御泪を浮べられしかば、諸人もみな士を愛する御志の至り深きを感じて、いづれも袖を湿しけり、かくて御盟約定りければ、尾州清洲におはして信長に面会し給ひ、今より後互に力を戮せ心を同じうして、天下を一統せむ由誓文に載せられ、清洲に至り信長と会盟す誓書をば読み終りし上にて、灰に焼きて神水となし、両家ご飲し給ひ、永く隣好を結ばせ給ひしとぞ、〈岩淵夜話、東遷基業、〉

尾洲へおはしましける時、信長も御道すがらの橋梁修理加へ、さま御まうけせらる、清洲の城へ渡御あれば、御行装を拝まむとて、かの国の者等城門の辺に立つどひていとかしがまし、本多忠勝此時本多平八郎忠勝は、年わづかに十四にて供奉せり、御馬前に御長刀もちて供奉しながら、三河の家康が、両国の好を結ばれむが為に来られしに、汝等何とてなめげなる挙動するぞと、大声にて罵りければ、皆その猛勢に恐れて忽に静謐せりとぞ、かくて信長は二丸まで出迎へ、先立して本丸へ入れ奉る時、植村家政植村新六郎家政、御刀かゝげて御後に従ひしを、信長の家人咎めて、何者なれば、こゝまで闌入せしといふ、家政、我は徳川が内に植村新六といふ者なり、主の刀を持ちてまかるをば、何故に咎めらるゝぞといへば、信長聞かれ、新六参りたるか、これは隠れなき勇士なり、汝等妄に不礼なせそとて、やがて盟約の議畢りて後、さま饗し奉り、新六をも其座へ呼出し、今日はじめて汝が勇気を見しに、昔の鴻門の会の樊噲にも超えたりとていたく賞美せらる、この新六が父新六某は、清康君を害し奉りし阿部弥七を討取り、その後岩松八弥が岡崎殿に鎗付けしを、即座に打とめ、一身二度の忠節を顕はしけるが、今の家政も、幼年より数度の戦功を励み、忠勤怠りなければ、後年その世々の勲功を賞せられ、御家号をも賜はるべきなれども、植村が氏称は他国にも聞え、当家の眉目にもなれば、御家号は賜らずたゞ御名の一字を賜りて家政とめされ、御軍扇并に一文字の御刀賜ひ、直参の徒三十騎を附けさせられしとぞ、〈武徳大成記、貞享書上、〉

家康氏真の怒を宥む今川氏真、織田家と講和ありし由伝へ聞きて大に怒り、使を岡崎へ参らせ、今度旧約を変ぜられ、尾張と和睦せらるゝ由なれば、駿府に留め置かれし北方及び御息をも害し参らせし上にて、御領国へ出馬して其事糺明せむといひ送りければ、その使を御前に召出されて仰ありしは、我年頃、故吏部の厚恩を受けし事大方ならオープンアクセス NDLJP:1-18ず、今何ぞこれを忘却せむや、されども尾張は隣国にして且強敵なれば、当分講和の体にもてなさでは、軍謀調ひ難きゆゑ、まげてその意に従ひしのみ、実の和議にあらず、いつにても氏真父の仇を報いむため、尾張へ出張あらむには、兼ねても度度申せし如く、先陣承り錆矢一筋射懸け申すべきは、相違あるまじと仰せられしかば、氏真も心解けて、暫しが程出軍の儀にも及ばざりしとなり、〈武徳大成記、落穂集、〉

此巻は御幼称の御時より、織田家と御講和ありしまでの事を記す、

 
 

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