東照宮御実紀附録/巻十五

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東照宮御実紀附録 巻十五
 
大坂夏陣

夏の御陣に既に御上洛あつて、今度の事を京にてはいかゞ評論するかと御尋あれば、日向半兵衛正成、いづれも関東は御大勢といひ、旗下の者も、みな御譜代重恩の人々なり、大坂方は、諸浪人共が、城中の金銀の多きを目にかけて集りしなれば、竹流たけながしの金多く取得たらば逃去らむのみ、いかで軍のなるべきと、京童までもかく申し候といへば、俄に御気色損じ、汝何を知りてさる事をいふぞ、卒爾の至り、推参なりと宣へば、半兵衛も赤面して御前を立ちしが、しばらくして又召出されければ、今度は御手刄にも逢はむかと思ひ定めて、恐れながら、やうと進み出でしに、打笑はせ給ひ、汝が先にいひし所はさる事なれども、軍機に暗きゆゑ、物のいひやうを知らず、城中の浪人ばら、竹流の金取つて立退かむといふは、誰も知りたる事ながら、もし城中に聞えて、そが逃げ去らぬ為に、諸人の人質など取らむ時は、城兵必死になりて防戦強かるべし、こなたの為には、いか程も敵の落行くがよければ、この後とても、かゝる事みだりに人にいふなと口堅め給ひしは、そのかみ鳶の巣の城攻の時、信長が、酒井忠次を誡め給ひしと同じさまの御事にて、誰も御思慮の周密なるを感じ奉りしとなり、〈翁物語、〉

諸士軍資に窮す御出陣の前方、昨今両年の御出陣によて、諸士一統窮困すれば、何とかや御恵賜もあらまほしと、本多上野介正純より、阿茶の局へ内議に及びければ、局も心得て、ある時、局笹粽を三方に載せて御前へ持出で、去年の御出馬、事故なくすませられ、その上近日尾張殿の御婚儀もあり、かれにつけこれにつけ、目出たき御事なり、かゝれば今度の御出陣に付きてり、御供一統へ、何ぞ賜物あらむかと申上げしに、俄に御気色損じ、諸人へ物賜はらむは、上にも元より思召あたる所なれども、この頃下されば、敵を恐るゝゆゑ、かねて諸士の心を取らむため、恩恵を施せしなど、人口あらむも計り難し、もし金銀なくて、出陣の支度が調はぬ困窮の者は、心まかせにとどまるべし、家康一人馳向つて軍すべし、昔より度々の軍に、強ち士卒の力を頼まず、みな一人の軍略もて勝利を得し事なれば、今更故なくみだりに恩恵施さむにあらずとて、以ての外の御様なれば、局もおもなくてたゞめでたしとばかりオープンアクセス NDLJP:2-16いひて、御前をまかでしとなむ、〈村越覚書、〉

家康城中の状を尋問す城中の落人を捕へ来りしに、御前へ召出して、さま城中の様を御尋問あり、この頃城中の米価は何程するぞ、又矢狭間一間に足軽何人、堀一問に士何人、其外の遊兵は何程、米廩の数はいくつあるなど、追々に詰問せしめ、その答へし所を目録にしるさしめて、これを会計せしめ、又城中にて餅をひさぐやと問はせ給へば、いかにも売候といふにより、餅にする白粉と小豆の価を尋ね給ひ、さて土をもて餅の形大・中・小三様に作らしめ、堅きとゆるき加減をわかち、この中いづれの如くなりと問はせ給へば、ゆるき方を指し、是程なりと申す、さては城中には、米も小豆も少きと見えたりとて、その者の髪を剃り落して、城に放ち入れしむ、其者城中に逃かへり、諸人にしかの由語りて聞かすれば、後藤又兵衛基次・大野修理亮治長等、大御所の餅の詮議は、今はじめて聞きたり、兎に角何をきくもなるまいぞとて、舌を振ひしとぞ、かゝれば城兵は、君の御思慮の深きに恐れ、いまだ戦はざる前方に、はや心胆を失ひしとぞ、〈翁物語、〉

此度の役に、将軍家御遅参なりとて、大にむづからせ給ひ、老年の我さへ既に打つて上りしに、将軍は何とて遅々せらるゝと仰ありしよし聞召し、将軍家も殊に御急にて、箱根よりは先鋒を打越して進ませ給ひ、御供方は、鳥の毛をも馬上にてひく程の事なり、さて伏見に着御ありて、本多上野介正純もて、その由仰上げ給ひしかば、家康秀忠の軽率を怒るまたむづからせ給ひ、大将軍かく弓矢の道にうとくてはなるまじ、たとひわが腹立つと聞くとも、大軍を率ゐながら、長途を急ぎのぼりては、総軍みな疲労して、戦の用に立つまじ、ざるを一騎がけに馳上られしは、いと軽忽の至なりと、いよいよ御気色あしかりしとぞ、〈小早川式部物語、駿河土産、〉

按に、冬の御陣に、将軍家駿河の清水に至らせ給ひし時、京より御使来りて、もし大坂より兵を畿内に出さば、君の御一手もて戦を始められむと仰せ進らせられしかば、将軍家俄に御道を急がせ給ひけるが、三州岡崎に至らせられし時、又御内書到着し、あまり御急ぎにては、士卒艱困すべければ、少しく御思慮を加へられよと仰せ越させ給ひしよし、駿府政事録等に見えたり、これ等の事を、かくことしく伝へしものならむかと忠はる、

将軍家は四月二十一日伏見に着せられ、その日二条へ渡御ありて御対面の折柄、オープンアクセス NDLJP:2-17君には来る廿八日に御出馬あるべしと仰出されしかば、将軍家、城和泉守昌茂を御使として、北国・奥羽の勢の上るを待たせられ、五七日過ぎて御出陣あらせられむかと聞え上げ給ふ、君、こたび城兵、寄手の着到を待合せて戦はむ心なれば、遠国の者が来るを待つまでもなし、見兵もて戦はむとて聞かせ給はず、よて将軍家重ねて二条に渡らせられ、御みづから諫め給へば、昨日和泉にも申せし如く、野合の戦は勢の多少によらず、家康秀忠先陣を争ふ且我老年に及び、是を限りの戦なれば、先陣はわれ打たむと仰せらる、将軍家の仰に、今度の戦の事は、家々の記録にもしるし、後世にも伝はるべきに、老年の父君を先立たてまつり、己れ後陣を打ちしとありては、天下後世に対しいかゞ侍らむ、是非某先陣承らむと宣ひし所に、本多正信進み出で、御父子の御中に、さる事あげつらひ給ふもいかゞなり、古法によらせらるべしといふ、古法はいかにと御尋あれば、正信が承りしは、味方少しにても敵地に近くあるを先陣と定む、将軍家既に伏見におはしませば、元よりの御先手にましますと申せば、佐渡は思ひの外の古法知りかなとて御笑あり、軍備を五日分に限るこれによて将軍家御先に定りぬ、其後本多上野介正純御軍儲を伺ひしに、何事も五日分と定め、供奉の者も、腰兵糧ばかりにて、小荷駄に及ぶべからず、白米三升・鰹節十・塩鯛一枚に、味噌・香の物を少し持たしむべしと仰付けられしを、例の大御所様の御功者だてを仰せらるゝかな、去年も百日計かゝりしものをとさゝやきしが、果して三日にて落城せしかば、御成算のいさゝか違はざるとて、人みな感服しけるとなむ、〈武辺雑談、武辺咄聞書、〉

其頃島津はじめ西国の者、密に大坂の援兵として海路を上る由、浮説とりなれば、使番を召され、大坂と木津と堺の間に、船がゝりする所はなきか、見て参れとの仰なり、使番畏りて立たむとするに、汝が見様はいかにと仰せらる、心得ずと申せば、心得ぬ者が直に行かむとせしは何事ぞ、凡そ船をつなぐ所は、見様のあるものなり、なみの浜には、船がゝりはならぬものにて、あるは入江、あるは入川などに懸るものなれ、陸より五間と漕出しては、追付く事かなはず、故にたゞの浜にはつなぐ事も乗る事もならぬものなれ、さる心得なくて、何を標準にして行かむとはいひしとぞと宣ひ、さてその使番かへり来て、仰の如く見侍りしに、船かくべき所はなしといひければ、されば西国より海路を上る者ありとも、船がゝりすべき所なければ心安しと仰せけり、この時将軍家の使番も参りしが、木津と仰せらオープンアクセス NDLJP:2-18れしをあやまりて、大和の木津に行きしが、遅くかへりしかば、殊に御気色あしく、若年の者の見習にもならかむと思ひて遣せしに、何ゆゑ遅かりつるとて、いたく御咎ありしとぞ、又七日の戦に、将軍家より御使進らせられ、只今城中の大軍みな押出したれば、御旗を進められよと申上げしかば、城中の者残らず出でたりとも、わづか七万計なり、さるを大軍といふ様なるふつゝかにて、将軍の使番がなるものかと、いたく咎められしとなり、〈翁物語、言行録、〉

先陣城近く押寄すべしとありて、追々兵を進む、両御所は、伏見城の舟入の櫓に渡御ありて其様御覧ず、その時井伊掃部頭直孝が旗奉行孕石豊後・広瀬左馬助二人、城下にて幟旗を伏せて通れば、直孝、般若野宮内といふ家人もて、両御所の御覧ぜらるゝに、何とて旗を伏せしや、早く建てよといへど、両人申すは、旗の事は奉行に任せらるべしとて聴かず、直孝また馬場藤左衛門して、是非建てよと下知すれど、二人きゝいれず、御城を打越し肥後橋を過ぎ、御城を既に跡に見なす頃になりて、はじめて旗を立てぬ、こは主将の渡御ある城へ旗をむくる事を憚りてかくせしなり、君御感ありて、将軍家へ向はせ給ひ、当城へ旗先の進むことを憚り、今になりて押立てしは、信玄の家風さすが直孝が許には、信玄の家風に馴れし古兵多ければ、軍陣の作法心得し事かなとて、御歎賞ありしとなり、〈村越聞書、〉 若江の戦に、木村長門守重成が先侍、鉄炮にて堤をかゝへければ、藤堂和泉守高虎、其手の軍監久貝因幡守正俊・高木九助正次両人もて御本陣に申すは、両陣の間に堤あり、味方小勢にて取兼ぬれば、早く二の手を進め給へといふを聞かせられ、御気色かはり、和泉程の者が、かゝる思慮なき事いふやうやある、敵が堤を取りたらばとらせて置くべし、堤をたよりに軍するは、和泉守に似合はぬ事哉と宣ふ所へ、井伊直孝が手より、小栗又一忠政馳せ来り、只今掃部が兵、敵と戦ひはじめしが、中に堤のあるを、味方にとり得ば勝利ならむと、掃部が年寄共は申す、いかゞせむかと伺へば、いかさま堤を取りし方然るべしと仰せらる、同時にかく御答のかはれば、いづれも御思慮の測り知り難き事と思ひあへり、又矢尾口にて、渡辺勘兵衛が、敵の長曽我部盛親と挑み合ひし時、高虎自身御本陣へ馳せ来り、早く御馬を寄せられよと申上ぐる所へ、横田尹松横田甚右衛門尹松、馬上より大音揚げ、御馬を寄せよといふは何者ぞ、たゞ御先手の若者共に払はせよとのゝしれば、高虎も又といふ事もオープンアクセス NDLJP:2-19なくて、己が陣に引返しぬ、後に畠山山城入道入庵を召し、関東の者は、みな武略に馴れしとはいへども、今の一言あるべきとも思はずと仰せければ、入庵承り、横田ならでは今の為方はなるまじ、天晴一言かなと歎美しけるとなむ、〈大坂覚書、〉

五月六日の夕方、本多上野介正純御前に出で、明夕の厨所、いづくに設けむかと伺ひしに、茶臼山と仰あり、正純、茶臼山はいまだ味方の取敷きたる所もなければ、あやしみながら仰のまゝにいひつけしが、七日の夜は果して茶臼山を御陣屋とせられしゆゑ、いづれも御先見の明晰なるに感じたり、又君の御供方と、将軍家の供奉人と、平野にて先を争ふ由、横田甚右衛門尹松申上ぐれば、君、わが従者、将軍を恐るゝかと問はせ給ふ、尹松心得て、仰の如しといふ、さらばわが人数は平野を右に見て押し、将軍の人数は平野を左に見て押すべしと御下知ありしかば、俄に行伍整然として乱れざりしとぞ、又七日の戦の前に、松平石見守康安・松平大隅守重勝水野備後守ちか長等が一所に屯せしを御覧ありて、松平伝三郎某を遣され、一隊づゝ、間を二十間程隔てゝ備ふべし、大将打つて出づれば、陣中乱るゝものなり、一隊づゝ丸くなりておりしけば、乱れざる者なりと仰せられしとぞ、〈永日記、翁物語、村越覚書、〉

六日の戦終りし後、将軍家より佐久間河内守政実、君よりは横田甚右衛門尹松を御使として、井伊掃部頭直孝が陣へ遣され、今日の様を問はしめらる、井伊直孝の奮戦政実かへり来て、掃部今日の戦に打勝つといへども、名あるもの数多討たせ、明日の御先手つとめむ事かなひ申すまじといふ、君には、掃部今日は出かしたとばかりの仰にて、政実が詞を聞召さぬ御様なり、やがて尹松かへりきて、定めて政実が申上げつらむなれども、掃部今日大利を得て死傷多く候へども、いさゝかひるむ気色なく、又も明日の戦を心がけ、総軍勇ましく見え候と申す、君さこそありつらめとて、御気色斜ならず、尹松重ねて申すは、只今申せし如く、掃部勇気盛には候へども、今日の戦に手の者数多打たせ、武具も損じ、馬も多く疵付きたれば、あの体にては明日の御先手覚束なし、されどたゞ先陣を操かへよとばかり仰付けられては、承引致すまじ、上より強ひてかへしめ給へと申せば、いよ御気色よく、さらば明日の先陣は、松平筑前守利常・本多出雲守忠朝に申付けよとて、仰の如くかへしめられしとなむ、〈大坂覚書、〉

家康の傲語七日の朝、御鎧はめさず、裾くゝりの袴に、茶色の羽織を着給ふ、藤堂和泉守高虎参オープンアクセス NDLJP:2-20謁して、何とて御具足を召し給はぬかと申せば、あの秀頼の若年者を成敗するに、何とて具足の用あるものぞと上意なり、高虎まかでし後に、松平右衛門大夫正網が御前に候ひしに、和泉事は上方者ゆゑ、心の底を見せまじとて、さきの答はしつれ、まことは年寄りて下腹がふくれしゆゑ、物の具しては馬の上下も叶はぬゆゑ着ざるなり、何事も年寄りては、若きときとは大にかはるものなりと仰せられしとぞ、〈駿河土産、永日記、〉

家康戦死の覚悟を説く常々の仰に、武を嗜むものは、戦場に赴くからは、かねて討死と心がけて、歯の白きものは黄色にならぬ様にし、髪にも香を焼こむべしと仰ありしをうけたまはり、此度供奉せしもの、いづれも香木少しづゝ懐にせしが、香炉なければ、五月七日にも、香焼こめし者は一人もなし、又軽きものも、着料の具足を作るに、胴・小手、其外は粗末にし、兜には念入るべし、討死の時、兜は首と同じく、敵の手へ渡るものなれば、随分心用ゐたるがよしと仰せらる、又木村長門守重成が首御覧に入れし時、香焼こめしとみえて、匂ひくゆりかゝりしかば、あの若者、にたがさる事を教へしと仰せられ、又髪はなでつけにてありしかば、さすがの長門も、何ゆゑ月代は剃らざりし、なでつけは首になりて、一段見劣するものなりと仰せられき、又河野権右衛門通重が得たりし首御覧に入れしが、これも新に髪をそり香をとめたり、武士の最期はかくあるべしと宣ひ、たが首かと御尋なれば、内藤監物と申す、これは城中の物頭勤むるものなりしかば、この首目利にたがひて、掘出しなりとて、御笑ありしとぞ、〈駿河土産、前橋聞書、武徳編年集成、〉

久宝寺通御のとき、天王寺辺に鬨の声聞えければ、尾張殿の人数を堺へ下して、茶白山の敵を追払はしめよと令せらる、御本陣へは、永井右近大夫直勝もて仰伝へられしは、旗下の人々馬より下り、西にむき、一面に鎗を持ち、折敷きてあるべしとて、御旗・御馬印は伏せさせ給ひしとぞ、又天王寺口より城中へにげ入る者多ければ、追とめむといふものありしに、そのまゝ捨置くべし、かゝるものによき武士はなきなり、雑人どもを多く入城せしめば、城中いよ混擾して、制馭する事あたはじ、何程にげ入るも苦しからずとて、捨置かせ給ひしとなり、〈寛元聞書、〉

御本陣に間者入りしといふ説おこりしとき、御障子を開かれ、御大声にて、わが家人等を見しらぬ事やあるとて、伺公の者の顔を一々御覧ありしとか、また将軍家オープンアクセス NDLJP:2-21の御陣にも、同じ事いひ出でしに、御刀取つて御次へ出でまし、間者ありときゝぬ、誰ならむと上意ありしかば、浮説はおのづからやみぬとなむ、〈前橋聞書、〉

尾張殿の御勢遅々せしを怒らせ給ひ、隼人めの腰抜め、なぜに兵衛をすゝめて早く参らぬぞ、はやく来む様に申せと、使番の者に仰付けらる、使番誰にてかありけむ、尾張家の陣にゆき、仰のごとく申しければ、成瀬正成家康を罵る成瀬隼人正正成うけたまはり、大御所の左様に仰せられしな、その大御所も、昔武田信玄が為には、度々御腰が抜けさせられしとのゝしりたり、後に隼人御本陣に参り、正成身不肖に候へども、尾張殿の後見うけたまはりて、一藩の指揮するものを腰抜などゝ仰せられしを、そのまゝにうけたまはり置きては、この後諸士の指揮がなり申さず候ゆゑに、かしこくも思ひのまゝの事申放せしなり、幾重にも御とがめ蒙らむといへば、聞召して、そは使番事に馴れざるゆゑなり、いつとても武道に疵のつく事は、聞のがしにはすまじきなりと仰せられしとか、〈大坂覚書、〉

越前少将忠直朝臣、六日の戦に、軍の手に合はざりしと聞しめし、大に怒らせ給ひ、かの家老どもを御本陣へめし、今日井伊・藤堂が苦戦せしを、汝等は昼寝して知らざるか、両陣の後を押つめば、城は乗とるべきに、大将は若年なり、汝等はみな日本一の臆病人ゆゑ、せむかたもなしと、散々にのゝしらせ給へば、家老ども何とも申上げむ様もなく、御前をまかでゝ、朝臣に其旨申せしかば、朝臣且恥ぢ且怒られ、明日の戦には我をはじめとして、鋒鏑に血をそゝぎ、城下に屍を晒さむと、血眼になりて下知せられ、七日のつとめてより、諸軍にさきだちて軍を進め、真田幸村が備を打破り、一番に城に乗り入りしかば、家康松平忠直の功を賞す御感斜ならず、朝臣御本陣に参謁せられしかば、朝臣の手をとらせ給ひ、今日の一番功名ありてこそ、げにわが孫なれとて、いたく御賞誉あり、又二条の城へ諸大名群参せしときも、朝臣をめし、汝が父秀康世にありしほど、忠孝をつくし、汝またこたび諸軍に勝れて軍忠を励む、これにより感状を授けむと思へども、家門の中ゆゑ、其儀に及ばず、わが本統のあらむかぎりは、越前の家又絶ゆる事あるまじとて、当座の御引出物として、初花の御茶入をたまはり、将軍家よりも貞宗の御差添たまはりしかば、朝臣も感恩の至を謝せられ、前度の恥辱をすゝがれけり、凡そ浪花の役に、越前家の武功、天下に並ぶものなかりしとなり、〈武徳編年集成、〉

オープンアクセス NDLJP:2-22松平忠輝の遅参越後少将忠輝朝臣は、軍期に後れ、戦終りて後、御本陣に参られしとき、本多上野介正純御前にまかり、只今忠輝朝臣参上の由申すといへども、外ざまを御覧じて何の御詞もなし、正純よて朝臣を御前近く進ましむれば、上総介今日は何として居たるとばかり仰せられ、堺の方に落人の見ゆれば、花井主水して追捕へしめよと宣ふ、正純うけたまはり、朝臣にはまづ陣所へ御帰りありて、火の事いましめ給へと申せば、朝臣は面あかめて、御前をまかでられしとぞ、この朝臣の大国を領し給ひながら、大事の戦期を失はれ、諸人の思ふ所もいかゞとおぼして、御憤斜ならざりしとなむ、〈武徳編年集成、〉

本多忠朝本多出雲守忠朝は、中務大輔忠勝が次子にて、武勇といひ門地といひ、君にもかねてやむごとなきものにおぼしめしけり、一年駿城火災ありし後、忠朝より所領の蠟燭千挺献りしを、いと見事なりとて、めでさせ給ひしが、その後御用ありて、其燭ともされしに、光明さまでなかりしかば、御気色損じ、千挺が百挺なりとも、光の明らかなるを吟味するこそ真実の心なれ、この蠟は出雲が人となりに似て、外辺のみかざれりと宣へば、この由忠朝うけたまはりて伝へて、心うき事におもひたりしに、また去年の戦に玉造口に向ひ、泥沼のありて、馬蹄の懸引よからずと申せしに、忠勝に似ぬ臆せし事よと仰ありしをも心にとめて、こたびは是非討死と思ひ定む、小笠原兵部大輔秀政は、忠朝の兄の忠政と同じく、岡崎三郎君の姫君に相すみて、かたみに親しき中なれば、六日の夜、秀政、忠朝が陣所に来り、けふ藤田能登守信吉が為に制せられて、軍に合はざりしは遺憾なれ、明日は晴なる戦して、汚名をすゝがむといひしかば、忠朝もかねて御気色蒙りし事どもいひ出て、夜更くるまで語りあひて別れけるが、七日の戦には、果して両人とも思ふまゝの戦して、遂に討死しけるこそあはれなれ、〈武事記談、武徳編年集成、〉

榊原康勝榊原遠江守康勝は若年なれば、藤田能登守信吉もて、その手の軍監とせらる、七日の戦に、康勝が攻口の前に潦池あれば、信吉が指揮にて、池を前にして備を立つ、康勝が家老伊藤忠兵衛、このまゝにては敵にあふ事かなはずとて、池をうちこして陣取りしかば、信吉、何とてわが軍令を用ゐざる、かくては遠州の進退もいかゞあらむ、早々元の如くせよといへど、忠兵衛きかず、戦はじまると直に敵と渡合ひ、首数七十あまり切つて御本陣にたてまつる、君には諸手より追々獲物献るに、榊原オープンアクセス NDLJP:2-23が手の注進なければ、心許なくおぼしめし、遠江は何としたる事ぞ、鷹の鳶を生みたるかと、度々上意ありしに、こゝに至り、諸手よりも殊更多く首数たてまつりければ、はじめて御心よき御様にて、鷹が鷹を生みしと宣ひけり、忠兵衛は二度めの戦に遂に戦死し、其子宮内もよき武者討ちて功名しぬ、戦終りて後いくばくならで康勝病死し、江戸にてその折の御吟味ありしに、藤田信吉申すは、某は池をうちこして軍を張出さしめしに、忠兵衛下知して又引入れしなど、あらぬ事どもいひ出でしかば、宮内大に怒り、かれが偽詐を具に申わけせしかば、信吉遂に罪に伏して、改易せられしなり、〈君臣言行録、〉

落城の朝、御旗・御長柄をば、住吉の辺に立て置くべしと命ぜられ、御みづからは、住吉と城との間のくれ林のかげに、山輿にめしておはしまし、松平右衛門大夫正綱をめして仰せけるは、城中のものは、わが旗幟を見て、わが住吉にあると思ふべし、味方既に勝ちたれば、此上は身を大事にするこそ第一なれとて御笑あり、安藤直次家康の飲器を用うかゝる所へ安藤帯刀直次馳せ来り、御勝利の様申あげ、御茶弁当に附き副ひし坊主に向ひ、直次、渇にたへず、何にても一杯のませよといふ、坊主、只今上様の御茶碗より外に、進らせむ飲器なしといふ、直次、上の御器なりとも、たまはりし跡にて、すゝぎたらばよからむ、ひらに飲ませよといふ、とかうする内に聞召しつけ、帯刀が喉の乾くといふに、なぜのませぬぞ、かゝるとき上下の隔があるものか、うつけめと叱らせ給ひ、速に飲ましめ給ひしとなり、さて其後茶臼山へむかつて、静に押させ給ふ所へ、庚申堂の辺にて、本多上野介正純が家人と、松平右衛門大夫正綱が家人と争論起り、鉄炮打合ひしを敵かと心得て、御先手の者立かへり鎗取らむとひしめくにより、四五百人ばかり御馬前になだれかゝる、君、かゝる時に長道具がいるものか、たゞ太刀打にせよと制し給へども聞き入れず、後陣動揺す追々後陣に崩れかゝり、永井右近大夫直勝が備をはじめ、尾・紀の御勢も色めき立ちてしづまらず、君はいさゝか常にかはらせ給はず、御馬を立ておはします所に、小栗忠左衛門正忠御先備より馳せ来り、そらくづれにて候と申せば、さてあやかしどもがうろたへて、そらくづれしつる事のうたてさよとて、殊に御憤怒の御様なりしが、やがて御陣定まりしかば、茶臼山へ進みのぼらせたまひしなり、〈大坂覚書、駿河土産、〉

茶臼山に御陣をするておはします所へ、諸大将追々参謁して、賀詞聞え上げたてオープンアクセス NDLJP:2-24まつる、畠山山城入道入庵進み出で、何事も思召のまゝなりと申上ぐれば、入庵が手を取らせ給ひ、又勝ちたるはとの仰なり、こは関原の御勝利を思召し出でゝの御事なりとぞ、紀州頼宣の英邁やがて尾張・駿河の両宰相参らせ給ひ御対面あり、頼宣卿には、今日御先手奉はらざるゆる合戦にあはす、残念の至なりとて、しきりに御涙にむせび給へば松平右衛門大夫正綱御側に在りて、常陸殿には、まだ御若年におはしませば、この後幾度もかゝる事に逢はせ給ふべし、さまで御歎に及ぶまじと慰めたてまつれば、頼宣卿御気色かはり、右衛門をはたと睨ませ給ひ、やあ右衛門、常陸が十四の年がまたあるべきかと宣へば、君御感悦の御様にて、常陸、只今の一言こそ、今日の手にあはれしよりも名誉なれと仰せらるれば、陪座の諸大名、いづれも感歎やまざりしとぞ、又本多佐渡守正信が、馬に打乗つて御陣へ上り来るを御覧じ、坂まで上れと仰あるに、なんでもない事と申して、御前近く騎つて参れば、藤堂和泉守高虎、佐州早かりしといへば、正信、高虎にむかひ、何がしが今日の武者振はいかにと笑ひながらいふ、正信が其日のいで立は、とろめむの羽織に、裏付の袴を着、五位の太刀はきしとぞ、かゝる所に城中に火もえ出で、黒煙となり上るを御覧じ、小出大和守吉英をめされ、あれをみよと宣へば、吉英、城の方を熟視して、両手をつき、さて笑止の御事なりといへば、汝が身に取りて、只今の申ぶりこそ殊勝なれと宣ふ、こは吉英は、豊臣家の旧恩うけしものゆゑそのむかしを忘れざるとて、是より御かへりみ深かりしなり、又俄に夏目を呼べとの仰なり、これは次郎左衛門吉信が三子、長右衛門信次が事なり、小身の事ゆゑ、旗・馬印もなければ、いづくに居るもしられず、使番諸所に馳せ廻り、からうじて尋ね出し、御前へ連れ来れば、むかし汝が父、味方が原の戦に、われにかはりて一命を抛ちしは、忠節のものなりと仰せ給へば、信次思ひもよらざる御賞詞をかうぶり、感涙をながして伏し居たり、かゝる御勝利に付きても、旧功の者の事をおぼし出で、御詞をたまふは、小出が豊臣家の旧恩わすれざるを賞せられしと、一つ御心より出で、たれも御仁厚の至り深くおはしますを感ぜぬものはなかりき、〈天元実記、古人物語、〉

本多忠光の改名本多唐之助忠光は、中務大輔忠勝には孫、美濃守忠政が三男なり、此度の役に御供願ひしかども、若年〈十四歳、〉なるをもてゆるされず、強ちにこひたてまつりて供奉し、此日の戦に、敵の首切りて御陣に参りしかば、汝若年にて、かゝる高名せしは、あオープンアクセス NDLJP:2-25つぱれ大将の器なり、今日よりは昔の勇将の名になぞらへて改称せよと上意ありしかば、さらば弁慶と称せむとこひしに、弁慶が如きは匹夫の勇なり、鎮西八郎為朝か、能登守教経などこそ膂力抜群にして、其名千載に高し、これにあやかり、能登と称し、忠字は汝が家の通称なれば、これにかなふ文字選び遣せとて、林道春信勝めして、そのよし仰付けらる、道春かしこまりて、たゞ忠義とつくるこそよけれと申上げしかば、すなはち能登守忠義とめされけるとぞ、〈武徳編年集成、〉

家康真田御宿の首を見る敵の首級とり御覧に備へしに、炎暑の折から損じたるも多かるべし、もはやもて参るに及ばず、されど真田が首と、御宿越前が首は御覧あるべしとて、真田が首を、忠直朝臣の家臣、西尾仁左衛門もて参り実検に入る、左衛門をば兼ねて見知らせ給はざれば、それは向歯かけてあるかと御尋にて、口を開き見しに、果して欠けたり、仁左衛門へ、勝負はいかにと尋ね給へば、仁左衛門とかうの御答に及ばず、たゞ俯伏して居たり、能き首取つたるはと仰にて、後に近臣に、勝負はなかりしと宣ふ、次に又越前家の野本右近、御宿が首を御覧に入れしかば、さて御宿めは年の寄つたる事かなとて、これも勝負はいかにと仰せらる、右近さむ候、越前事、天王寺表よりたゞ一騎来り、茜の羽織着し若党二人呼び、何やらむいひ付けて、二人とも後の方へ走りゆきぬ、某が近寄るを見付けて、鎗取つて馬より下る所へ、走りかゝり鎗付けしに、重ねて手向もいたさゞれば、其まゝうち取りぬといふ、汝はよき功名を遂げしと仰ありて、後に、御宿が若き折ならば、あの者などに首とらるる事にてはなきにと仰せられしとぞ、〈天元実記、〉

千姫秀頼母子の命を請う落城後、秀頼母子は蘆田曲輪に籠り、姫君御出城ありて、母子助命の事を、本多佐渡守正信もてこひたてまつられしに、御姫が願とあらば、それにまかすべし、秀頼母子をたすけ置きたればとて、なでう事かあらむ、汝岡山へゆき、将軍にも申してみ候へとの仰にて、正信岡山に参り、その由申上ぐれば、将軍家は御気色以の外にて、何のいはれざる事をいはずとも、なぜ秀頼と一所に果てざるぞと宣へば、正信うけたまはり、ともかうも大御所の思召に任せらるべしと申して、姫君の方へも参り、かくと申し、扨八日の朝にいたり、両御所御参会ありて、しばし御密談あり、諸人のうけたまはる所にて、将軍家にむかはせられ、必ず秀頼をば助命し給へ、こゝが将軍の分別所なりと宣へば、将軍家、仰はさる事なれども、数度の叛逆、此上オープンアクセス NDLJP:2-26はもはやたすけ難しと宣へば、老人のかくまでいふを聞かれねば、この上は力なし、心にまかせ給へとて、いと御不興の御様にて御座を立たせられしが、程なく井伊が備より、蘆田曲輪へ鉄炮打かけしかば、秀頼はじめ悉生害ありしよし聞えし、 〈天元実記、翁物語、〉

秀頼生害の後、ひそかに城中を御巡視ありて、御帰京あらむとて、かゝる大戦の後は、必大雨降出づるものなりとて、御路をいそがせらる、其頃晴天にておもひもよらざりしが、守口辺より空かきくもり、枚方の南よりは、大雨車軸を流し、雨皮なければ、御輿を下りさせ給ひ、簑をめして御馬にて打たせらる、下鳥羽の辺にて日暮れ両もやみければ、夜亥刻ばかりに二条城に着御あり、板倉内膳正重昌一騎御先に立ちて、御門をたゝきけれども、此頃の事にて、みだりに明けざれば、重昌父の伊賀守重勝が手の者かためたる、裏の御門より入れたてまつりしとなり、〈大阪覚書、古人物語、〉

家康豊国明神の廟を毀つ大坂落城のよし聞えしかば、京の東山にある豊国明神の社前へ、いづくよりか香資銀あまた備へけるよしにて、所司代板倉伊賀守勝重手の者つかはし点検せしめしに、相違なければ、そのよし御聞に入る、仰に、おほよそ人の世にありし程、智仁勇の三徳備はりしものならでは、死後に神にいつき祭らるゝ事はなき筈なりとて、太閤の影像は束帯をとり円頂になし、社頭も撤毀し、除地とすべしと仰付けられしが、北の政所より、崩れ次第になし給はれと、あながちに願はれしゆゑ、ねがひの如く御許しありしとなり、〈駿河土産、〉

二条にて諸大名拝謁の折、伊達政宗、この度大軍のうち、一人も異慮のものなかりしは、盛徳の至なりと申せば、かゝる勝利の後は、敵方みな死したれば、さる者ありとも知れざるなりと宣ふ、政宗、いかにも尊旨の如く、某が家臣のうちにも、逆徒に内通せし者ありけむも知れず、この上はなほ心付け侍らむと御受申す、又動功の人々へ御詞たまはりしに、松平伊予守忠昌末座に居しが、立あがりて、松平伊予守これに罷在候と、高らかに呼ばはりければ、御覧ありて、汝若年にてみづから高名せしは、抜群の働なりと御賞詞あり、忠昌は故黄門の二子にて、こたび越前家の先手に進み、城方念流左太夫といふ剛の者を討取りしなり、〈天元実記、武功実録、〉

今村正長七日の戦に、今村伝四郎正長一番館して、敵陣に馳せ入り血戦せしに、乗る所の馬鉄炮に中り、歩立になりしを見て、青山伯耆守忠俊が隊下近藤忠右衛門、己が馬をオープンアクセス NDLJP:2-27正長にさづくれば、正長これに乗りて敵陣に入り、首取りてかへりしが、又その馬も乗放しければ、再びかけ入りて終に其馬求め出し、敵の首一級にそへて近藤にかへしぬ、その年の十二月、正長を御前にめし、当日の戦功を賞せられ、むかし梶原景時が二度の蒐は、其子の源太景季を助けむがためなり、汝が二度のかけは、近藤が馬を取かへさむとてなり、義のあたる所、梶原にまさる事遠し、げに一騎当千の勇なりとて、めさせられし胴服を脱ぎて下され、其後又、千石の加恩賜はりしとぞ、此戦に正長が携へし鎗は、味方が原の役に、夏目次郎左衛門吉信が、君の御身代として討死せしとき用ゐしを、吉信が子長右衛門信次は、正長が伯母聟のちなみをもて、正長が行末の忠功、なき父にあやかれかしとて、正長に贈りしなり、今度かゝるはれなる働して、その鎗に恥ぢぬ程の武名をあらはせしとて、感ぜぬものなかりしとぞ、〈武徳編年集成家譜、〉

久米清吉久米清吉といひしが父の新四郎吉晴は、岡崎三郎君に附けられしに、君御事ありし後、世をうきものに思ひなし、引籠りて身まかりぬ、この清吉は天性気ばやなる者にて、御気色にかなひ、後に名を武兵衛と改む、大坂夏の御陣に使番奉はり、七日の戦には、五の字の指物さし、少し小高き所に打上り、軍の様見物して居たり、後に御陣崩のとき、逃げたりし者御穿鑿ありしに、清吉が事あやしみいふ者ありしに、たとへ旗本総崩になるとも、この清吉においては、逃ぐるものにてはなしと上意ありしとなり、〈勇士一言集、〉

家康桜井勝次を憶ふ大坂落城の後、二条城にて仰せけるは、むかし桜井庄之助勝次といひし者ありて、三河以来度々戦功をあらはしたり、卒せしときには、いと哀惜の余、落涙せしなり、其子は本多忠勝に属してありしが、この七八年ばかり、いづれに居る事を知らず、誰ぞしりたる者はなきかと御尋なり、本多美濃守忠政、その者かねて臣が家にありしが、ゆゑありて今日は田中筑後守忠政がもとにまかりぬと、うけたまはる由申上ぐる、よて忠政に召連れ来るべしと仰せて、其後駿府に参り謁せしに、汝が父は毎度戦功をあらはし、忠勝が病気の折は、いつもかはりて軍卒を指揮せしに、いと気幅ある武士にて、今に存命ならば、並々の者の及ぶ所にあらじと宣ふ、庄之助、勝成いと幼くして父にわかれ、何事も心得侍らざるに、只今の御詞にて、なき父の遺事迄御賞誉を蒙り、追慕の心いよたへがたしと申す、君、永井信濃守尚政オープンアクセス NDLJP:2-28を田中が許につかはされ、是まで数年勝成を扶助せし事を賞せられ、勝成をば召出され、後に書院番になされしなり、〈貞享書上、〉

小笠原忠政小笠原兵部大輔秀政・其子信濃守忠修・大学頭忠政三人、天王寺の戦に手痛き働して、秀政・忠修は討死し、大学は深手負しひかば、施薬院宗伯・山岡五郎景長もて御問訊あり、二人の忠死をあはれませ給ひ、はた忠政が疵平癒せむやうに手当せしめらる、その閏六月廿六日、二条にて舞楽興行ありて、諸大名に見せしめらる、折しも忠政疵いまだ全く癒えざれば遅参せしに、舞楽の刻限をしばし御見合ありて、忠政まうのぼりしを待たせらる、やがて忠政まうのぼり、御前へ出でしかば、加藤左馬助嘉明等の諸将の侍座せしところにて、御みづから忠政が疵を御検視ありて、これはわが鬼孫にて侍る、父の兵部、兄の信濃も討死し、この者も深手負ひて、いまだ全く癒えざれば、かく遅参せしなりと仰せられ、忠政が御前をまかでゝ拝覧所へまかるとひとしく、舞楽はじめよと仰せ伝へられしとなむ、〈貞享書上、〉

この巻は大坂夏の御陣の事どもをしるす、

 
 

この著作物は、1959年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定の発効日(2018年12月30日)の時点で著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以上経過しています。従って、日本においてパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、1929年1月1日より前に発行された(もしくはアメリカ合衆国著作権局に登録された)ため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。