東照宮御実紀附録/巻三
天正元年正月、武田信玄三州野田の城を責めける時、城将菅沼新八郎定盈よりかくと注進す、君、我やがて援兵を出さむまでは、味方の城々堅く持抱ふべし、すべて籠城は橋々との上意にて、直に軍を笠頭山まで進め給へり、後に本多豊後守広孝、はし〴〵と仰せられしは、いかなる儀なるかとうかゞひしに、まづ籠城の心得は、門を堅め弓銃を配り、敵を城門の橋まで思ふ図に引きよせ、俄に打立て射立て、敵の陣伍乱るゝ様を見すまして、門より打つて出で、一散して軽く引きとれば、城は持ちよきものなり、さるに籠城とだにいへば、まづ橋を引いて自ら居ずくまるゆゑ、兵力振はずして遂に攻落さるゝなりと仰せけり、後年伏見籠城の時、大阪勢責寄せしに、城中の松の丸の橋を引きたるよし聞しめし、籠城には、橋なき処にも橋をかけてこそあるべきに、懸来りし橋を引く程ならば、城はこらゆまじと仰せられしが、果して四五日過ぎて、落城の注進ありしとぞ、〈御名誉聞書、酒井家旧蔵聞書、〉
【 NDLJP:1-33】【家康信玄の死を惜む】同じ年四月、武田信玄入道病死せしよし、御城下にもとり〴〵いひ伝へしを聞しめし、御家人等に仰せありしは、もし此事実ならむには、いと惜むべきことにて、喜ぶべきにあらず、おほよそ近き世に、信玄が如く弓箭の道に熟せしものを見ず、われ年若き程より、彼が如くならむとおもひはげむで、益を得し事おほし、今一介の使もて其喪を弔はしめずとも、彼が死を聞きて喜ぶべきにあらず、汝等も同じ様に心得べきなり、すべて隣国に強将ある時は、自国にもよろず油断なく心を用ゐるゆゑ、おのづから国政もおさまり、武備もたゆむことなしこれ隣国をはゞかる心あるにより、かへりてわが国安定の基を開くなり、さなからむには、上下ともに安佚になれ、武道の嗜も薄く、兵鋒次第に柔弱になりて、振抜の勢なし、かゝれば今信玄が死せしは味方の不幸にして、いさゝか悦ぶ事にてなしと仰せあり、是より御分国の者共、いづれも御詞を学びて、信玄が死を、おしき事とのみ申あへりしとか、又ある時、人には向ふさすといふとなければ、その心がけも自ら薄くなるなり、信玄が世にありし程は、味方にとりて剛敵なれば彼をむかふさす標的として、常に武道をみがきしゆゑ、家卒までも甲州の戦には、いつも粉骨を尽せしなり、むかふさすといふことは、誰も忘れまじき事ぞと、常々仰せありしなり、孟子に、敵国外患なきものは国必ず亡ぶといひし詞に、いとよく似かよひし上意にて、かしこくも尊くも承るにぞ、上杉謙信も越後の春日山に在りて、信玄が死を聞きて、折しも湯漬を喰ひて居しが、箸を投すて、食を吐出して、さて〳〵残多き事哉、近代に英傑といふべきは、この入道のことなるを、今は関東の弓矢柱なくなりしとて、はらはらと涙を落せしといふ、謙信も信玄と常々争闘せしはさるものにて、天下の為に人物の亡謝するをおしみしは、同じ英雄の胸襟かくあるべしと思はる、こなたの盛慮も同様の御事と伺はるゝにぞ、〈岩淵夜話、武辺咄聞書、万千代記、〉
【乾城攻撃】天正二年四月、乾の城攻給はむとて、先陣和田谷まで進みしに、折しも大雨降つゞき、川水溢れ出で、その上敵兵御跡を切取るよし聞しめし、速に御勢を返されむとするに、野伏ども出でゝ御道を支ふれば、大久保七郎右衛門忠世殿して、三歳山といふところまで引上げられ、しばし後軍の来るを待ちて休らはせ給ふ所へ、玉井善太郎が股を鉄炮に打ぬかれて来る、君御馬をくだり善太郎に乗らしめむとす、善太郎勿体なしとてあながちに辞し奉る、七郎右衛門忠世も手を負ひ、忠世が同【 NDLJP:1-34】心【杉浦久勝】杉浦久三久勝も同じく手負ひ、退き兼ねしを見て、忠世己が馬を久勝に与へ、乗らしめむとす、久勝己が如きものは何人死したりとも、何事かあらむ、もし大将討たるゝならば、ゆゝしき大事なり、弓矢八幡照覧あれ、われは乗るまじといふ、忠世、乗度くばのれ、のるまじくは心儘にせよ、我が馬はこゝに拾置くとて、歩行立になりてゆく、よて児玉甚右衛門、久勝をかゝへて馬に乗せ引取りぬ、君このよし聞しめし、強将の下に弱兵なしとは、この事ならむとて、御賞感浅からず、この時光明山の住僧高継といへるが、御路の案内し奉り、寺中に立よらせ給ひしに、高継勝栗を進めければ、一つめし上がられて御けしきよく、光明山にて勝栗くひし事、これぞげにかうみやう勝栗なり、【かうみやう勝栗】行末目出度き吉兆なれと宣ひこれより後々までかうみやう勝栗とて、かの寺より奉る御嘉例となりしとぞ、〈柏崎物語、武徳大成記、落穂集、光明山書上、〉
按に、杉浦が家譜には、久勝がことを、味方が原の時のことゝし、忠正が馬、矢に中りしを見て、久勝己が馬を忠世にあたへ、みづから歩行立になりて、敵陣へ馳せ入り、敵一騎討とり、それが馬に乗つて還りしかば、御感状をたまはりしといへり、後年信州城攻の時、御軍令に背きしとて、台徳院殿切腹仰付けられぬ、君後にこのよし聞しめし、御けしき損じ、かゝる勇士は、たとひ軍令に背くとて殺すべきかはと仰せけるとぞ、
【 NDLJP:1-36】【家康大賀を誅す】よて弥四郎が妻子五人を念志が原にて傑にかけ、弥四郎は馬の三頭の方へ顔をむけ、鞍に縛り、浜松城下を引廻し、念志が原にて妻子の磔にかゝりし様を見せ、其後岡崎町にて生ながら土に埋め、竹鋸にて往来の者に首を引切らしめしに、七日にして死したりとぞ、小谷甚左衛門は、渡辺半蔵守綱めし捕へむとて行向ひしが、遁出でゝ天龍川を游ぎこし、二股の城に入り、遂に甲州に逃さりたり、倉地平左衛門は今村彦兵衛勝長・大岡孫右衛門助次其子伝蔵清勝両人してうち取りぬ、山田八蔵は御加恩ありて、禄千石を賜はり、返忠の功を賞せられしとぞ、後日に至るまで、度々弥四郎が事悔い思召すよし仰出され、我そのはじめ鷹野に出でむとせしに、老臣はとゞめけるを弥四郎ひとり勧めつれば、我出立ちしなり、これ等の事度々に及び、老臣等終に口を閉づる事となりゆきしならむ、近藤が直言にあらずむば、我家殆ど危し、恐れても慎むべきは奸佞の徒なり、おほよそ人の上としては、人の賢否邪正を識りわけ、言路の塞がらざらなをもて、第一の先務とすべしと仰せられしとなり、〈東武談叢、東遷基業、御遺訓、今村大岡山田家譜、〉
【長篠の役】長篠の竹前、広村の弾正山に御陣をすゑられけるに、御家人等武田の猛勢を聞おぢして、何となく思ひつくしたる様を見そなはし、【家康士気を励す】酒井左衛門尉忠次をめして、ゑびすくひの狂言せよと命ぜらる、忠次畏り、つと立ちて舞ひけるが、兼ねての絶技なれば、一座の者皆ゑつぼに入りて哄と笑ひ出でしにより、三軍恐怖の念いつとなく一散してけり、さて本多・榊原等をめし、軍議せしむるに、いづれも味方が原の例を引きて、いと御大事なりといふ、君、むかしは信玄なり、今は勝頼なるぞ、さまで心を労するに及ばずと宣ひしかば、諸人もいよ〳〵勇気百倍しけるとぞ、〈東武談叢、〉 同じ戦の前、信長が許におはしけるに稲葉一鉄入道、此度徳川殿の催促によりて兵を出し給へども、もし信玄死せりと偽りて、不意に打つて出づることもあらばいかゞせむといふ、君聞召し、信玄の死せしと思ふ事三条あり、【家康信玄の死去を信ず】第一は、昨今両年打続き、同じ月日に甲州にて万部読経を執行へり、二には、去年このかた、彼国の者共多く我方に参仕す、三には、穴山梅雪入道緑辺の事違約せり、これらをもておしはかるに、その死せしこと疑ふべくもあらずと仰せければ、信長稲葉に向ひ、汝何を知りてか要なき事をいひ出せるとて、いたくいましめらる、其後御陣に帰らせ給ひ、井伊・本多・榊原の三臣をめして、敵は多勢、味方は微勢なれば、戦もし難儀に【 NDLJP:1-37】及ばゝ、討死せむより外なし、【家康信康を岡崎へ還さむとす】よて信康をば岡崎に還さむとす、汝三人の内、一人は信康を守護して本国に帰るべし、囲もて定めよと仰あれば、三人何とも御請申さでありしかば、御気色損じけるを見て、康政進みいで、臣等いづれも御馬前にて討死せむは、兼ねて期したる事なれども、若殿に従ひて立帰らむ事は、上意に従ひ難しといへば、又何と仰せらるゝ旨もなく、やゝ御気色直らせ給ひ、御陣所の後の、ものしづかなる所へ三郎殿を招かせられ、さきの旨仰せられしかば、信康君、年若き某一人岡崎に帰りたりとも、何の益か待ら、むそれよりは父君こそ、御帰城あつて領国を守護し給へ、某は御身代して、こゝにて討死せむと宣ひて、中々聞入れ給はざれば、この儀もまた止みぬ、こなたにはかくまで持重しておはしませしが、戦に及むで甲州勢思ひの外に打負けて、味方大功を奏せられしは、元より天運にかなはせられし御事とは申しながら、戦に臨むで恐るといふ聖訓には、よくもかなへりと申奉るべき御事にぞ、〈久米川覚書、古老夜話、〉
【内藤正成信長の指揮を斥く】此戦に、信長より使もて、先手の指揮し給へといひ越されしかば、内藤四郎左衛門正成、かきの渋帷子きしまゝにて出向ひ、御指図かうぶりて軍すべき家康にてなし、某等も又家康に仰の旨申すまでも候はずといひはなちて、その使をば返しぬ、信長これをきかれ、徳川殿には末々の者まで、たゞ人ならずとて感歎ありしなり、又戦に及むで、甲軍の様を御覧じ、今日の戦、味方かならず勝利ならむ、敵陣丸く打かこむ時は攻めがたし、人数を布散して、多勢の様に見するは、衆を頼むの心あれば、かへりて勝やすしと仰せけるを、酒井忠次承りて、いたく感服せしとぞ、 〈紀伊国物語、前橋旧城聞書、〉
【家康甲州の軍を評す】国の主たらむものは、弓箭の作法よろしきをもて第一の要務とす、武田信玄はこれに熟せしゆゑ、兵鋒も亦つよし、我かの遺臣を使ひて見しに、別にかはれるふしはなけれども、たゞ弓箭の穿鑿ゆきとゞき、諸卒までも苟且のこゝろなきゆゑ、陣列も自ら剛強に見ゆるなり長篠の役にも、我と信長と両手十万ばかり、勝頼はわづか二万程なり、こなたは柵を三重にゆひけるに、勝頼何の思慮もなく攻めかゝりしゆゑ敗北せしなり、若其折、滝沢川の渡を前に当てゝ対陣せば、わが両手多勢といへども、十日と持こらへずして引退くべし、その時追討せば、十が八九は勝を得べきに惜しき事ならずや、さりながら、かく後々までも兵鋒の強かりしは、全く【 NDLJP:1-38】入道が時より三軍の調練よく届きし故なりとて、御感賞ありしとぞ、〈中興源記、〉
【勇に過ぎ仁に過ぐるを誡む】後年藤堂和泉守高虎、御前に伺候せしとき、武士の武をたしなむばいふまでもなけれども、あまり猛勇に過ぎては、かへりて怯弱に劣る事あり、そのかみ武田勝頼、常に血気にはやりし本性なるを、われとくより見透したれば、長篠の戦にわざと柵をふり、優にもてなせしを、例のいちはやきくせにて、ゆくりもなく切かゝりしゆゑ、たゞちに敗亡せしなり、元より怯惰ならば家臣の諫言をも用ゐ、かくもろくは亡ぶまじきものをと仰あり、又これにつきて思召すに、天下の主たらむもの、第一慈悲をもてよしとす、さりながら、慈悲の過ぎたるは刻薄に劣る事あり、譬へば家臣の内に弓馬の嗜なく、朝夕酒色に耽る類の者を見のがし置けば、おのづからその風余人にもおしうつり、兵鋒も次第に弱みもてゆくなり、ゆゑに心あらむ君は、かゝる者をきびしく刑戮し、衆人に目をさまさしめ、はじめて本心を得せしむるなり、汝いかゞ思ふと仰あり、高虎承り、いかにもかしこき仰の旨聞えあぐ、さらば夜話の折から、この旨将軍家へも言上せよとありければ、高虎折を以て此よし申上げしに、台徳院殿いたく感じ給ひ、武勇も慈悲も、過ぎてはあしゝとの御教諭こそ、子孫の末までも語り伝へて、烱鑑にせめとて、御自ら物にしるし置給ひぬ、高虎またこの由を申上げしに、将軍にはさる心づきなき人にはあらざれども、孝心の深きよりして、親の詞を反故になさじと思ひ、かくしるし給ふならむと宣ひ、御慎篤の御性質をいと御賞歎ありしとぞ、〈藤堂文書、〉
【奥平定昌の戦功】長篠の籠城すでに終りし後、奥平九八郎定昌をめし出され、定昌若年といひ、数日の間小勢もて大軍を引きうけ、窮城を保ちし事、誠にためしなき働といふべしとて、御感斜ならず、またその七人の家長等をめし出して、此度の忠節を賞せられ、汝等が子孫後代に至るまで、見参をゆるさるゝよし仰付けられ、今に奥平が家人、毎春謁見を給はるは、此時の例による所なりとぞ、定昌には作手・田嶺・長篠・吉良・田原の内、遠州刑部・吉比・新庄・山梨・高辺等の地若干下され、姉川の役に信長より進らせし、大般若長光の御刀をも下され、又信長より申さるゝ旨あるにより、第一の姫君もて定昌に降嫁せしめらる、その後定昌岐阜へ参り、信長に謁見せしに、信長もいたくその功を賞せられ、定昌が此度の動功、武士の模範ともなれば、向後武者之助と改名せよとて、己が一字を授け、信昌と名乗らしめ、そが上にもさま〴〵引【 NDLJP:1-39】出物せられしなり、〈貞享書上、〉
【家康敵将山県昌景を感歎す】甲州士の内にも、山県三郎兵衛昌景が武畧忠節は、わきて御心にかなひけるにや、一年本多百助信俊が男子設けしに、兎欠なればとて、心に応ぜぬよし聞しめし、そはいとめでたきことなり、信玄が内の山県は、大なる兎欠なり、彼の魂精の抜出でて、当家譜第の本多が子に生まれ来りしなるべし、大切に養育すべしと仰せつけられ、其子の幼名をも本多山県とめされ、台徳院殿の御伽にめし加へらる、後年石川数正が京都べ立去りし後、当家の御軍法を皆甲州流に改かへられし時、山県が侍どもを御前にめし、こたび汝等をもて、井伊直政に附属せしむ、前々の如く一隊赤備にして御先手を命ぜらるれば、若年の直政を山県におとらざらむ様にもり立つべしと仰付けらぬ、これらをもても山県をば厚く御感賞ま〳〵しける事、はかり知るべきにぞ、〈落穂集、〉
【鎗半蔵】大天龍の迫合に、近藤伝四郎某手負ひて、渡辺半蔵守綱を見かけ、汝我を助けよといへば、半蔵己が取つたる首を投げすてゝ、伝四郎を負ひ、三里ばかり引退きける由聞かせ給ひ、味方一人討たるれば、数千人が弱みとなるなり、味方を助くるは、七度鎗を合せたるよりも勝れりと仰ありて、今よりは守綱を鎗半蔵とよぶべしと仰せられしなり、またこの時斥候の者あまた命ぜられ、退口に及むで、己がじゝ馬どもを先にこし、歩立になりて引退きける内に、島田意伯もありけるが、仰に、意伯が馬もかしこにあるはと仰せられしが、この騒擾の間に、いかゞして見しらせ給ひし事と、あやしきまで御強記の程を感じ奉りけるとぞ、〈備陽武義雑談、武功雑記、〉
天正三年八月、遠州諏訪原の城責取り給ひ、改めて牧野城と唱へしむ、さて誰がこの城守るべきやと宣ふに、【牧野城の守備】大事の地なれば、いづれも容易に御受するものなし、時に松井左近忠次進み出で、某が守り奉らむと、かひ〴〵しく申上ぐれば、御けしき大方ならず、よて松平の御称号・御諱の字賜はり、松平周防守康親と名乗らしむ、こは周武王が殷紂王を牧野にて攻亡せし故事おぼしいでゝ、勝頼を殷紂に比し、康親を周武になぞらへ、かくは命ぜられしなりと伝へしはまことにや、〈貞享書上、落穂集、〉 天正三年八月、光明山・諏訪の原二城責とられ、又小山の城を囲まれしに、武田勝頼は過ぎし長篠大敗の後、甲を繕ひ死を弔ひ、重ねて二万の大兵もて後詰し、先陣已に岡部・藤枝まで進み来る、この時御人数を引上げられ、井呂崎の岡までいたらせ【 NDLJP:1-40】給ひ、【信康の武勇】信康を召し、是まで数に向ふ様にして引取りしが、この後は敵わが軍後にあり、おことは若年にして、いまだ戦陣にも習熟ぜざれば、こゝよりは我に先立ちて引退かれよとの給へば、信康君、いかで父君を跡になして引退かむやとて、かたみに御辞譲ある処へ、酒井忠次馳来り、只今急遽なり、両殿はともあれ、某はまづ引返さむとて、御先に引退けば、君も忠次につぎて兵を収めらる、其時信康君は敵の程合を見合せ給ひ、後殿してしづ〳〵と引かせ給ふ、君はこの様土台にて御覧じ、天晴ゆゝしき退口かな、かくては勝頼十万の兵もて攻め来るとも、打破る事あるまじと御賞賛ありて、牧野の城へいらせ給ひしとぞ、〈武徳編年集成、〉
違州二股の城攻められし時、本多平八郎忠勝は供奉し、内藤四郎左衛門正成は、その頃足痛により従ふ事かなはず、浜松城を守れり、折しも風雨烈しくて、夜中に軍をかへされ、浜松にいたらせ給ふに、忠勝まづ人をはしらせ、殿の御帰城なり、早く御門を明けよといはせけるに、正成関鑰を固うしてあけず、忠勝自らかへり来て、門をたゝき呼ばはれども、正成櫓にのぼり、この暗夜に誰なれば殿の御還などいつはるぞ、かしがまし、そこのかずば打殺さむとて、鉄炮に火縄はさみて指麾すれば、忠勝もいかむともすることあたはず、やがて君還らせ給ひて、四郎左、我が帰りたるはと宣へば、正成御声とは聞きつれど、尚いぶかしくや思ひけむ、狭間より挑灯を出し、たしかに尊顔を照して後、いそぎ御門を明けて入れ奉る、後に正成を御賞美ありて、汝が如き者に城を守らせ置けば、いとうしろ安し、いかなる詐謀の敵ありとも、抜とることかなふまじ、守城はかくありたき事と仰せられしとぞ、 〈砕玉話、〉
家康軍令の違犯者を厳罰す天正六年三月、武田勝頼遠州へ出張せし時、大須賀五郎左衛門康高が甥弥吉、御軍令にそむき、勝頼が旗本へ打いり高名せしかば、以の外怒らせ給ひ、弥吉恐れて本多平八郎忠勝が家に逃げ入りて、御免をねぎしかども御ゆるしなく、終に切腹仰付けらる、何事も寛仁におはしけれど、軍令にそむきし者などは、かく御宥恕なかりき、〈柏崎物語、〉
【家康上杉謙信の死を惜む】天正六年三月、越後の上杉輝虎入道謙信、春日山に卒せしよしを聞召して、武田入道が死せし後は、また謙信ほど弓箭とりまはす者は、今の世にはなかりしに、これもまたはかなくなりぬ、かく年を追ひて、名誉の弓箭取打続き死し絶ゆる事、世の【 NDLJP:1-41】為いとおしむべき事と仰せられしとぞ、この入道いまだ世に在りし程は、君の御英名をしたひ、はるかに越路より書翰を捧げ、慇懃を通じ、当家に力を合せ、甲斐の武田を打滅さむと約し奉りし事もありしゆゑ、わきてその死を惜ませ給ひしなり、【水谷蟠龍欵を家康に通ず】又水谷正村入道蟠龍斉といひしは、下野の結城が幕下にて、東国に名高き弓取なりしが、これも当時天下にこの君ならでは、共に関東を切平げむものあらじと思ひ、石野丹波といへる家人を進らせ、書翰を呈し、一度御馬を関東へ進められむには、その主晴朝を勧めて、御先手奉らむと申上げぬ、かく遠方の国々よりも、はやうより御風采をしたひ、帰属の心を抱くもの数多ありしといへり、〈落穂集、貞享書上、〉
【家康信康を誡む】武田勝頼大軍を率ゐ、遠州横須賀まで打つて出で、浜辺に陣どり、君御父子も御出馬ありて、入江を隔てゝ互に鉄炮迫合あり、信康君、鈴木長兵衛某一人めしつれ、敵陣近く乗よせ、其様見そなはして、いそぎ戦をはじめ給へと仰上げられしかば、君、彼は大勢、味方は小勢、殊更地利にもよらで戦をはじめば、勝つ事あるべからず、この後とてもおなじ様にこゝろ得らるべし、さりながら、年若き程のはやりかなる心には、さ思はるゝも理なりとて、軍を班されしなり、後に老臣に向ひ、三郎が弓箭の指図は過分の事なり、しかしこれは一人の思慮にはあるまじと仰せられしとなり、〈岩淵夜話別集、〉
【家康信康を諫むる者なきを歎ず】岡崎殿御事を信長より申さるゝ旨ありしとき、酒井忠次・大久保忠世両人も、御ふるまひのあら〳〵しき事ども、条件にしるして御覧に入れければ、三郎がかゝる所行あらば、定めて汝等二度も三度も諫を納れし上にて、尚聞入れねばこそ我に直訴するならむ、聖賢の上にも過誤なしとはいひがたし、まして年若きものゝ事をや、いかにと問はせ給へば、両人、さむ候、若殿にはをゝしき御本性におはしませば、若諫言など進めて、御心にかなはざらむには忽に一命をめさるべければ、今まで忠言進め奉るもの候はずと申せば、君、今の世に比干・伍子胥が如き忠臣なければ、諫を進めざるも理なれとて、又何と仰せらるゝ旨もなし、其後三郎君御生害あり、はるか年経て後、忠次老かゞまりて御前に出で、己が子のことねぎ奉りしに、【家康信康を追想す】三郎今にあらば、かく天下の事に心を労すまじきに、汝も子のいとほしき事はしりたるやと仰せければ、忠次何ともいひ得ず、ひれ伏して在りしとか、又幸若の舞御覧ありし時、両人にも見せしめられしに、満仲の曲に、己が子美女丸もて、主にか【 NDLJP:1-42】へて首切つて進らせしさまを御覧じて、両人にむかはせ給ひ、其事となく御落涙し給ひ、両人あの舞はと仰せられしかば、両人大に恐怖せり、又或時三郎殿のかしづき、渡辺久左衛門茂に向はせ給ひ、汝等は満仲が舞見ることはかなふまじと仰せられし事もあり、また関原の役に、あさとく御旗を勝山に進められし時、さてもさても、年老いて骨の折るゝ事かな、忰が居たらば是程にはあるまじと、独言の様に仰せられしとか、唐国にも漢の武帝が、衛太子の事ありし後に望子の台を築き、朝夕にその方ざまを望み見て、いさちなげかれしといふは悲しきことの、さりとは自らなせる事なれ、これは御父子の間に何の嫌疑もおはしまさず、たゞ少年勇邁の気すゝとくおはしませしを、信長の恐れ忌みしより事起れるにて、御手荒き御挙動のありしも、軍国の習にて、あながち深く咎め奉る事にあらず、さるを彼の両人、織田家の好計に陥り、かしこきまうけの君をあらぬ事になし奉りしは、不忠とやいはむ、愚昧とやいはむ、百歳の後までも此等の御詞につきて、御父子の御情愛をくみはかり奉るに、袖の露置く所なく覚え侍るにぞ、〈武辺雑談、東武談叢、実元聞書、〉
【信康の自裁】三郎殿、二股にて御生害ありし時、検使として渡辺半蔵守網・天方山城守通興を遣さる、二人帰りきて、三郎殿終に臨み御遺託ありし事共、なく〳〵言上しければ、君何と宣ふ旨もなく、御前伺公の輩は、いづれも涙流して居し内に、本多忠勝・榊原康政の両人はこらへかねて、声を上げて泣き出せしとぞ、其後山城守へ、今度二股にて御介錯申せし脇差は、たれが作なりと尋給へば、千子村正と申す、君聞召し、さてあやしき事もあるもの哉、其かみ尾州森山にて、安部弥七が真康君を害し奉りし刀も村正が作なり、【家康村正の刀を排す】われ幼年の比、駿河宮が崎にて、小刄もて手に疵付けしも村正なり、こたび山城が差添も同作といふ、いかにして此作の当家にさゝはる事かな、此後は御差料の内に、村正の作あらば、皆取捨てよと仰付けられしとぞ、初半蔵は三郎殿御自裁の様見奉りて、おぼえず振ひ出でゝ太刀とる事能はず、山城見かねて御側より介錯し奉る、後年君御雑話の折に、半蔵は兼ねて剛強の者なるが、さすが主の子の首打には腰をぬかせしと宣ひしを、山城守承り伝へて、ひそかに思ふやうは、半蔵が仕兼ねしを、この山城が手にかけて打奉りしといふは、君の御心中いかならむと思ひすごして、これより世の中何となくものうくやなりけむ、当家を立去り高野山に入りて、遁世の身となりしとぞ、〈柏崎物語、〉【 NDLJP:1-43】【持舟城を攻む】七年、駿河国持舟の城を責められし時、先鋒の松平周防守康親等を制し給ひ、城兵打つて出づるとも、味方をとゞめ、一人も出合ふまじと命ぜられ、わざと弱き様を見せ、城兵の引入る時附入にし、烈しく戦ひて攻め取られしとぞ、この時城将三浦兵部が首をば、康親が家人岡田竹右衛門打取りしを、竹右衛門己が親姻の一色何がしが功にせむと思ひ、一色に与へしを君御覧じ、いや〳〵兵部が首は竹右衛門が討取りしなり、余人の功にすなとて、御紋の旗と御具足を竹右衛門に賜はり、その功を賞せらる、この竹右衛門は大剛のものにて、度々軍功ありて、御感に逢ひし事もまたしば〳〵なりしとぞ、〈三河物語、貞享書上、〉
【高天神城の攻囲】高天神の城責められし時、城中より幸若与三太夫が御陣中に供奉せしよし聞きて、今は城兵の命、けふ明日を期しがたし、哀れ願はくは太夫が一さし承りて、此世の思出にせむといひ出でければ、〈陣中の風流〉君にもやさしき者共の願よなとおぼしめし、太夫を召して、そが望にまかすべし、かゝる時は哀なる曲こそよけれと宣へば、太夫城際近く進みより、たかたちを歌ひ出でたり城兵みな塀際によりあつまり、城将の栗田刑部丞も櫓に昇り、一同に耳を傾け、感涙を流してきゝ居たり、さて舞さしければ、城中より茜の羽織着たる武者一騎出できて、その頃関東にて佐竹大ほうといふ紙十帖に、厚板の織物・指添等とりそへて太夫に引きたり、かくて明日の戦に城兵皆いさぎよく戦ひて討死す、殊さら茜きし武者は、晴なる働して死しぬ、軍はてゝ後、敵の首ともとり〴〵御覧に備へし内に、顔の様十六七ばかりと見ゆるが薄粧し、歯くろめ、髪なでつけ、男女いづれとも見分けがたきがあり、君、その眼を明けて見よ、眸子上に見返して、まぶたの内に入り、白眼ばかり見えば女と知るべし、黒眼明らかにみえば男なれと宣へば、笄もて目を開き見るに、眸子明らかなれば、男の首に定む、後に聞けば、こは刑部最愛の小姓に、時田鶴千代といふ者にて、討死の様いと優にやさしかりしとぞ、いづれも御明識に感服しけるとか、又此城落ちむとせし時、二丸にて武者一騎輪乗する様をはるかに御覧じ、【横田尹松】俄に御先手へ仰伝へられしは、只今に城中より真先かけて乗出る武者あるべし、構へて支へとゞむべからず、若強ひて止めむとせば、味方損ずる者多からむと、御使番に命じ、乗廻して制せしめらる、やがてかの者城よりかけ出でければ、仰の如く路を開きて通しけり、これは甲斐の侍横田甚五郎尹松なるが、落城のよしを本国に注進【 NDLJP:1-44】せむため、城兵の討死をもかへりみずたゞ一騎大衆の中をはせぬけて、甲州へかへりしなり、この尹松後に武田亡びて当家に参り、処々の御陣に供奉し、度々戦功をあらはし、武名世に著し、五千石賜りて御旗奉行にまで進みしなり、〈落徳集、家譜、明良洪範、〉
天正八年七月の頃、浜松の城中にいつき祭る五社大明神の社を城外へ移されむとせしに、数万の蜂むらがり飛びて、諸人よりつく事ならず、御みづから社頭へまし〳〵、しばし御奉幣ありし後、扇子をもてうち払ひつゝ御下知ありしかば、蜂みな四散す、よて社の跡を清め、汚穢なからむ様にせよと命ぜられ、松を植えしめ、五社の松とぞ申ける、〈柏崎物語、〉
【家康甲府に入る】甲斐の府に入らせ給ひし時、信玄このかた大罪のものを烹殺せしといふ大釜あまたありしを、駿・遠・三に一つ〳〵引移せと命ぜらる、本多作左衛門重次この事承り例の怒を発し、【本多重次烹囚の釜を破る】殿の御心には天魔の入かはりしにや、かの入道が暴政をよしと思召し、ようなき物をあまたの費用もて引移させ給ふこそ心得ねとて、おのれ其釜とも悉く打砕き、水中に棄てけり、君大に打咲はせ給ひ、さてこそ例の鬼作左よと仰せられしとぞ、又馬場美濃守氏勝が娘、さる所に隠れ居る由聞召し、鳥居彦右衛門元忠に命じて捜索せしむるに、見えざるよし申してやみぬ、其後さきに隠れ居ると申せし者、かさねて御前へ出でし折から、又候此事尋給ひしに、【鳥居元忠】その者御膝近くはひより、まことはその娘、元忠が方に住つきて、今は本妻の如くにてあると申せば、あの彦右衛門といふをのこは、年若きより何事にもぬからぬやつなりと、高声にて御咲あり、其頃元忠同国黒駒において北条が兵と戦ひ、敵の首あまた討ちとりしを賞せられ郡内を賜りけり、此地は汝が鎗先にて取得しなり、我が与ふるにあらず、永く領せよと仰せられしとぞ、〈岩淵夜話、東遷基業、鳥居家譜、〉
按に、一説には、山県昌景が組の者に和田加助といふがありて、新に召抱られしに信玄が時、上州箕輪の城責に、峯法寺口にて働せし趣を御糺しありしが、相違の事ありて召放されぬ、元より武功の者なれば、鳥居元忠が方にひそかに養ひ置きしを、御聴に入るゝ者ありし時、彦右衛門めはきやうすい奴かなとのみ仰せられ、その後何の御沙汰もなかりしとぞ、又鳥居家譜に、元忠が女子、馬場美濃守氏勝が娘の設くる所と見えたれば、本文に元忠馬場が娘を迎へしといふも、拠所なきにあらず、
【 NDLJP:1-45】【家康兵器の惨酷を忌む】甲斐の者ども召出して、武辺の事御尋ありしに、武田が家法にて、矢を用ゐるに鏃をゆるく、篦を強くするは、敵に中りて鏃の肉の中にとゞまり、後々まで痛ましめむが為なりと申せば、武田が法はさもあれ、わが方にはさる事なせそ、敵なりとも盗賊いましむるとは異なり、当座に射中てゝ働く事叶はず、味方に利あればたれり、かゝる惨酷の事するに及ばず、わが方にては箆中を強く、鉄のぬけざらむ様にすべしと仰せられき、〈武功実録、〉
【甲州の政治】甲州御手に入りし時、平岩七之助親吉もて代官の職命ぜられ、奉行は成瀬吉右門正一・日下部兵右衛門定好、目付は岩間大蔵左衛門某なり、また甲州人もて沙汰聞の役とせられ、専ら国中の動静を告ぐべしと命ぜらる、その輩に教へ給ひしは、おほよそ国を治むるに、国人親附せざれば、何事も知れ兼ぬるものぞ、沙汰の二字は小石と沙と土の入雑りてわけかぬるを、水にて動し洗へば、土流れて小石あらはるゝなり、見えざれば洗はむ様もなし、主人のためにあしからぬ程の事ならば、聊物とりても苦しからじと仰せけり、又信玄以来の諸士の忠否を正し給ひ、武功の誉ある者は、其証状を奉らしめ、新にめし抱へられ、あるは本領安堵の御書を賜ふもあり、あるは旧地削らるゝもあり、【恵林寺の再建】又武田代々の香火院恵林寺は、右府が為に焼かれしを、形のごとく再建せしめ、歴世の霊牌ともをすゑ置けとて費用の金を下され、勝頼自殺の地にも、供養のため一宇を剏創せられ、かくとり〴〵䘏典を施されしかば、国人なべて御仁政をかしこみしたひ、心をよせ奉らざる者はなかりしとぞ、〈岩淵夜話、〉
【井伊直政の赤備】甲斐の一条・土屋・原・山県が組の者共は、おほかた井伊直政が組になされ、山県昌景が赤備、いと見事にて在りしとて、直政が備をみな赤色になされけり、この時酒井忠次に甲州人を召しあづけられむとおぼしめせども、それより若輩の直政を引立てむが為に、かれに附属せしむと宣ひければ、忠次承り、仰の如く直政若年なれども、臆せし様にも見え侍らねば、かの者共附け給はゞ、【酒井忠次の雅量】いよ〳〵勉励せむと申す、その頃榊原康政、忠次が許に来り、甲州人を半づゝ引分け、われと直政両人に附けらるべきに、直政にのみ預けられしは、口惜しくも侍るものかな、康政何とてかの若輩ものに劣るべきや、此後もし直政に出合はゞ刺違へむと思ひ、今生の暇乞に参りたりといへば、忠次、さて〳〵御事はをこなる人哉、殿には我に預けむと宣【 NDLJP:1-46】ひしを、我勧めたてまつりて直政に附けしめし也、さるを聞分けずして卒爾の挙動もあらば、殿へ申すまでもなし、汝が妻子一族を皆串刺にしてくれむずものをと、以の外にいかり罵りけるとぞ、〈武功実録、〉
此巻は武田信玄と御合戦よりはじめ、長篠御勝利の後、甲斐国御手に入りしまでの事をしるす、
この著作物は、1959年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定の発効日(2018年12月30日)の時点で著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以上経過しています。従って、日本においてパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、1929年1月1日より前に発行された(もしくはアメリカ合衆国著作権局に登録された)ため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。