本紙發兌之趣旨
本紙發兌之趣旨(『時事新報』掲載版)
編集抑モ我慶應義塾ノ本色ハ前記ノ如ク唯人ヲ教ヘテ近時文明ノ主義ヲ知ラシムルニ在ルノミ即チ生徒入社ノ初ヨリ卒業ノ時ニ至ルマテ其訓導ノ責ニ任スルノミニシテ爾後ハ全ク關係ナキモノナレトモ講堂有形ノ教授ヲ離レテ社中別ニ自カラ一種ノ氣風ナキヲ得ズ所謂無形ノ精神ニシテ獨立不羈ノ一義即是ナリ此精神ハ形以テ示ス可キニ非ス口以テ説ク可キニ非ラスト雖トモ創立ノ其時ヨリ本塾ノ全
斯ル事ノ有樣ニシテ漫然タル江湖ノ眼ヲ以テ觀ルトキハ我義塾ノ社中ニハ幾多ノ主義ヲ存シテ幾多ノ方向ヲ取ル者ノ如ク又其主義方向ノ多キハ却テ無主義無方向ノ如クニ認ル者モナキニ非サル可シ蓋シ我學友社中ノ一部ヲ以テ商人ノ眼ニ映スルトキハ商會ノ如クニ見ヘン、我社實ニ商人多ケレバナリ、又其一部ヲ以て政治家ノ眼ニ映スルトキハ我社中ハ政黨ノ如クナラン、社中實ニ政談客多ケレバナリ、或ハ我レヲ民權家ナリトテ嫌惡スル者アレバ又一方ニハ官憲黨ナリトテ謗ル者モアリ其趣ハ一線ノ源泉山間ヲ走レバ溪流ニシテ斷岸ヨリ落レバ則チ瀑布ナルモノヲ評シテ此水ハ溪ナリ瀑布ナリト鑑定スルニ異ナラズ水ハ元ト唯水ナレトモ觀客ノ地位ノ異ナルニ由テ評論ヲ異ニスル者ナリ漫然タル江湖其漫實ニ笑フニ堪ヘタリト雖トモ此妄評决シテ之ヲ一笑ニ附ス可ラズ處ヨク實ヲ生スルハ
本紙發兌ノ要用ニシテ止ム可ラサルノ理由ハ前既ニ之ヲ記シタリ今又向後ノ目的ヲ述ヘテ聊カ他ニ異ナル所以ノモノヲ示サン我同志社中ハ本來獨立不羈ノ一義ヲ尊崇スルモノニシテ苟モ其志ヲ同フセサル者ニ對シテハ一毫モ與ヘズ一毫モ取ラズ勤儉以テ一家ノ獨立ヲ謀リ肉体ノ生計既ニ安キヲ得ルトキハ兼テ又一身ノ品行ヲ脩メ附仰天地ニ耻ルナキヲ勉メテ人ノ譏譽ニ依頼セズ以テ私徳ノ獨立
然リト雖トモ方今政黨ノ團結ハ漸ク各地方ニ行ハルヽノ勢ナレバ諸黨各自カラ經營シテ互ニ相競ヒ漸ク歳月ヲ經ルノ其間ニハ衰弱シテ斃ルヽ者モアラン又新ニ大ニ起ル者モアラン又或ハ幾多ノ小黨相合シテ一大政黨タル者モアラン何レニモ國會開設ノ日ニハ必ズ二三ノ政黨ニテ我政治社會ヲ組織スルヿナラン日本ニハ先例モナキヿニテ預メ明言シ難シト雖トモ西洋諸國ノ慣例ナレバ先ツ斯ノ如クナル可シト信スルヨリ外ナシ扨コノ塲合ニ至テモ我輩ハ全ク他ニ異ナル所ノモノアリ何トナレハ則チ我輩ハ所謂政黨ナルモノニ非サレバナリ抑モ政黨トハ純然タル政治家ノ結合ニシテ其黨中ヨリ一名ノ長者ヲ推撰シ之ヲ首領ニ仰デ其黨派ノ意見ヲ天下ニ示シ專ラ當路ノ政黨ニ反對シテ政畧ノ得失ヲ述ベ其主義ヨク衆庶ノ所望ニ協フトキハ多數ヲ得テ政府ノ壇上ニ昇リ其首領ハ即チ新政府ノ首相ニシテ政權ハ擧テ其黨派ノ人ニ歸シ曩ノ當路者ハ罷テ落路ノ政黨タル可シ、又コノ昇進ノ政黨ガ既ニ政權ヲ得ルモ數年ヲ經ルノ間ニ人心ノ向フ所自然ニ變遷スルトキハ更ニ落路ノ黨派ニ交代ヲ促サレテ地位ヲ讓ラサルヲ得ス、斯ノ如ク一進一退ノ際ニハ互ニ力ヲ盡シテ先ヲ爭ヒ結局他ノ權ヲ奪テ之ニ代ラントスルノ活劇トモ云フ可キモノナリ其爭ヤ固ヨリ公明正大君子ノ爭ナリト云フガ故ニ敢テ之ヲ賤シムニハ非サレトモ我新聞社中ニ於テハ他ノ權ヲ取テ之ニ
右ノ次第ナルヲ以テ我社固ヨリ政ヲ語ラサルニ非ス政モ語ル可シ學事モ論ス可シ工業商賣ニ道徳經濟ニ凡ソ人間社會ノ安寧ヲ助ケテ幸福ヲ進ム可キ件々ハ之ヲ紙ニ記シテ洩ラスナキヲ勉ム可シト雖トモ他ノ黨派新聞ノ如ク一方ノ爲ニスルモノニ非レザレバ事物ニ對シテ評論ヲ下タスニモ故サラニ譏譽抑揚ノ節ヲ劇ニシテ一時人ヲシテ痛快ヲ覺ヘシムルガ如キ文章ノ波瀾ニハ乏シカル可シ唯我輩ノ主義トスル所ハ一身一家ノ獨立ヨリ之ヲ擴メテ一國ノ獨立ニ及ホサントスルノ精神ニシテ苟モ此精神ニ戻ラサルモノナレバ現在ノ政府ナリ又世上幾多ノ政黨ナリ諸工商ノ會社ナリ諸學者ノ集會ナリ其相手ヲ撰ハズ一切友トシテ之ヲ助ケ、之ニ反スルト認ル者ハ亦其相手ヲ問ハズ一切敵トシテ之ヲ擯ケンノミ人ノ言ニ云ク人間最上ノ强力ハ求ルナキニ在リト我輩ハ今ノ政治社會ニ
本紙發兌之趣旨(現行版『福澤諭吉全集』収録版)
編集 我學塾は創立以來二十五年、其名稱を慶應義塾と改めてより既に十五年を經たり。前後生徒を教育すること今日に至るまで三千五百名、其教則の如き、年を逐ふて變換するもの尠なからずと
抑も我慶應義塾の本色は前記の如く唯人を教へて近時文明の主義を知らしむるに在るのみ。即ち生徒入社の初より卒業の時に至るまで其訓導の責に任ずるのみにして爾後は全く關係なきものなれども、講堂有形の教授を離れて社中別に自から一種の氣風なきを得ず、所謂無形の精神にして、獨立不羈の一義、即是なり。此精神は形以て示す可きに非ず、口以て説く可きに非らずと雖ども、創立の其時より本塾の全面を支配して、二十五年一日の如く、如何なる世上の風潮に遭遇するも曾て動搖したることなきものなり。然りと雖ども二十五の星霜久しからざるに非ず、三千五百の社中多からざるに非ず。此年月の間に此社中の人々が各其志す所に從て其事を爲す、方向一ならんと欲するも固より得べからず。同窓の友誼こそ終身忘る可らざるも、社會の人事を處するに當ては、
斯る事の有樣にして、漫然たる江湖の眼を以て觀るときは、我義塾の社中には幾多の主義を存して幾多の方向を取る者の如く、又其主義方向の多きは却て無主義無方向の如くに認る者もなきに非ざる可し。蓋し我學友社中の一部を以て商人の眼に映ずるときは商會の如くに見へん、我社實に商人多ければなり。又其一部を以て政治家の眼に映ずるときは我社中は政黨の如くならん、社中實に政談客多ければなり。或は我れを民權家なりとて嫌惡する者あれば、又一方には官憲黨なりとて謗る者もあり。其趣は一線の源泉、山間を走れば溪流にして、斷岸より落れば則ち瀑布なるものを評して、此水は溪なり瀑布なりと鑑定するに異ならず。水は元と唯水なれども觀客の地位の異なるに由て評論を異にする者なり。漫然たる江湖、其漫、實に笑ふに堪へたりと雖ども、此妄評決して之を一笑に附す可らず。虚よく實を生ずるは人事の常にして、世人が斯く一部分の運動を見て我社の全面を卜するときは、遂に其名聲を成して、又遂には學塾中の少年輩をして實に方向に迷はしむるの害なきを期す可らず。
本紙發兌の要用にして止む可らざるの理由は前既に之を記したり。今又向後の目的を述べて聊か他に異なる所以のものを示さん。我同志社中は本來獨立不羈の一義を尊崇するものにして、苟も其志を同ふせざる者に對しては、一毫も與へず一毫も取らず、勤儉以て一家の獨立を謀り、肉體の生計既に安きを得るときは兼て又一身の品行を脩め、附仰天地に恥るなきを勉めて人の譏譽に依頼せず、以て私徳の獨立を固くし、一身一家既に獨立して私の根據既に定るときは、乃ち眼を轉じて戸外の事に及ぼし、人を教へて此獨立の幸福を共にせんことを謀り、我學問は獨立にして西洋人の糟粕を嘗るなきを欲し、我商賣は獨立して彼の制御を仰ぐなきを欲し、我法律は獨立して彼れの輕侮を受るなきを欲し、我宗教は獨立して彼れの
然りと雖ども方今政黨の團結は漸く各地方に行はるゝの勢なれば、諸黨各自から結營して互に相競ひ、漸く歳月を經るの其間には、衰弱して斃るゝ者もあらん、又新に大に起る者もあらん、又或は幾多の小黨相合して一大政黨たる者もあらん。何れにも國會開設の日には必ず二、三の政黨にて我政治社會を組織することならん。日本には先例もなきことにて
右の次第なるを以て、我社固より政を語らざるに非ず、政も語る可し、學事も論ず可し、工業商賣に、道徳經濟に、凡そ人間社會の安寧を助けて幸福を進む可き件々は、之を紙に記して洩らすなきを勉む可しと雖ども、他の黨派新聞の如く一方の爲にするものに非れざれば、事物に對して評論を下だすにも、
〔時事新報発兌の趣旨〕(『福澤諭吉著作集』収録版)
編集 我学塾は創立以来二十五年、その名称を慶應義塾と改めてより既に十五年を
本紙
右の次第なるを以て、我社固より
関連資料
編集- 「朝鮮の交際を論ず」(『時事新報』明治15年(1882年)3月11日)
- 「朝鮮独立党の処刑」(『時事新報』明治18年(1885年)2月23、26日)
- 「脱亜論」(『時事新報』明治18年(1885年)3月16日)
- 「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」(『時事新報』明治18年(1885年)8月13日)
- 「兵力を用るの必要」(『時事新報』明治27年(1894年)7月4日)
- 「土地は併呑す可らず国事は改革す可し」(『時事新報』明治27年(1894年)7月5日)
- 「改革の着手は猶予す可らず」(『時事新報』明治27年(1894年)7月6日)
- 「支那人親しむ可し」(『時事新報』明治31年(1898年)3月22日)
- 「支那人失望す可らず」(『時事新報』明治31年(1898年)4月16日)