本紙發兌之趣旨


本紙發兌之趣旨(『時事新報』掲載版)

編集
我學塾ハ創立以來二十五年其名稱ヲ慶應義塾ト改メテヨリ既ニ十五年ヲ經タリ前後生徒ヲ教育スルヿ今日ニ至ルマデ三千五百名其教則ノ如キ年ヲ逐フテ變換スルモノ尠ナカラスト雖トモ專ラ英米ノ書ヲ講シテ近時文明ノ主義ヲ採リ傍ニ和漢ノ字ヲ教ヘテ日常文書ノ技藝ヲ脩メ三五年ノ勉强ヲ以テ卒業スルトキハ去テ故郷ニ歸テ父祖ノ家業ヲ繼ク者アリ或ハ朝野ニ周旋シテ自カラ一家ヲ起ス者アリ又或ハ本塾ノ卒業ヲ以テ滿足セサル者ハ尙塾ニ留テ同志相互ニ切瑳研究スルアリ他ノ專門校ニ入テ更ニ業ニ就クアリ各其志ス所ニ從テ其爲ス所モ亦同シカラズト雖トモ概シテ二十五年間ノ成跡如何ヲ視レバ我學塾ノ舊生徒ニシテ今日社會ノ表面ニ立チヨク他ノ魁ヲ爲シテ事ヲ執ル者甚タ尠ナカラズ凡ソ今ノ諸官省ナリ地方廳ナリ又府縣會ナリ或ハ學校ニ新聞社ニ又諸工商會社ニ日本全國到ル處トシテ苟モ社會公共ノ事ヲ理スル其塲所ニ於テ我舊生徒ヲ見サル所ナシ蓋シ全國ノ男子一千七百万ノ中ニ我學友ノ數ヲ三千五百名トスレハ僅ニ五千中ノ一ニシテ誠ニ寥々見ルニ足ル可キ數ニ非サレトモ其實際ニ於テ寥々タルヲ覺ヘサルハ我學塾ノ教育ヨク人ノ子弟ヲ導テ有爲ノ人物ト爲シタル歟或ハ天資有爲ノ人物ニシテ偶然本塾ニ來ル者多キノ故ナランノミ
抑モ我慶應義塾ノ本色ハ前記ノ如ク唯人ヲ教ヘテ近時文明ノ主義ヲ知ラシムルニ在ルノミ即チ生徒入社ノ初ヨリ卒業ノ時ニ至ルマテ其訓導ノ責ニ任スルノミニシテ爾後ハ全ク關係ナキモノナレトモ講堂有形ノ教授ヲ離レテ社中別ニ自カラ一種ノ氣風ナキヲ得ズ所謂無形ノ精神ニシテ獨立不羈ノ一義即是ナリ此精神ハ形以テ示ス可キニ非ス口以テ説ク可キニ非ラスト雖トモ創立ノ其時ヨリ本塾ノ全
面ヲ支配シテ二十五年一日ノ如ク如何ナル世上ノ風潮ニ遭遇スルモ曾テ動搖シタルヿナキモノナリ然リト雖トモ二十五ノ星霜久シカラサルニ非ス三千五百ノ社中多カラサルニ非ス此年月ノ間ニ此社中ノ人々ガ各其志ス所ニ從テ其事ヲ爲ス、方向一ナラント欲スルモ固ヨリ得ヘカラズ同窓ノ友誼コソ終身忘ル可ラザルモ社會ノ人事ヲ處スルニ當テハ啻ニ方向ヲ一ニセサルノミナラズ或ハ全ク相反對スルモノモ尠ナカラズ宗教ノ信心ヲ異ニスル者アリ、政治ノ主義ヲ異ニスル者アリ、著書新聞紙ニ論説ヲ異ニスル者アレバ商賣工業ニ競爭ノ敵タル者モアリ甚シキハ國事犯罪吟味ノ法庭ニ於テ糺問セラルヽ者ト糺問スル者ト初テ相對スレバ四目相見テ両心愕然何ソ計ラン共ニ是レ舊同窓ノ親友タリシガ如キ奇談モアラン何レモ皆自然ノ勢ニシテ人間社會ニ免カル可ラサルノ數ナリ
斯ル事ノ有樣ニシテ漫然タル江湖ノ眼ヲ以テ觀ルトキハ我義塾ノ社中ニハ幾多ノ主義ヲ存シテ幾多ノ方向ヲ取ル者ノ如ク又其主義方向ノ多キハ却テ無主義無方向ノ如クニ認ル者モナキニ非サル可シ蓋シ我學友社中ノ一部ヲ以テ商人ノ眼ニ映スルトキハ商會ノ如クニ見ヘン、我社實ニ商人多ケレバナリ、又其一部ヲ以て政治家ノ眼ニ映スルトキハ我社中ハ政黨ノ如クナラン、社中實ニ政談客多ケレバナリ、或ハ我レヲ民權家ナリトテ嫌惡スル者アレバ又一方ニハ官憲黨ナリトテ謗ル者モアリ其趣ハ一線ノ源泉山間ヲ走レバ溪流ニシテ斷岸ヨリ落レバ則チ瀑布ナルモノヲ評シテ此水ハ溪ナリ瀑布ナリト鑑定スルニ異ナラズ水ハ元ト唯水ナレトモ觀客ノ地位ノ異ナルニ由テ評論ヲ異ニスル者ナリ漫然タル江湖其漫實ニ笑フニ堪ヘタリト雖トモ此妄評决シテ之ヲ一笑ニ附ス可ラズ處ヨク實ヲ生スルハ
人事ノ常ニシテ世人ガ斯ク一部分ノ運動ヲ見テ我社ノ全面ヲ卜スルトキハ遂ニ其名聲ヲ成シテ又遂ニハ學塾中ノ少年輩ヲシテ實ニ方向ニ迷ハシムルノ害ナキヲ期ス可ラズ去迚ハ本塾多年ノ精神ニ背キ有形ノ教育上ニモ容易ナラサル禍ヲ蒙ルニ至ル可シ默止ス可ラサルナリ依テ今コノ弊害ヲ未發ニ防クノ策ヲ案スルニ我ニ如何ナル主義アルモ毎日ニ語ル可キニ非ス毎人ニ告ク可キニ非サレバ今回社中ノ同志脇議ヲ遂ケテ義塾邸内ノ出版局ニ於テ毎日ノ新聞ヲ發兌スルヿニ决シタリ其名ヲ時事新報ト命シタルハ專ラ近ノ文明ヲ記シテ此文明ニ進ム所以ノ方略項ヲ論シ日ノ風潮ニ後レスシテ之ヲ世上ニ道セントスルノ旨ナリ即チ我同志ノ主義ニシテ其論説ノ如キハ社員ノ筆硯ニ乏シカラスト雖トモ特ニ福澤小幡両氏ノ立案ヲ乞ヒ又其檢閲ヲ煩ハスヿナレバ大方ノ君子モ此新聞ヲ見テ果シテ我輩ノ持論如何ヲ明知シテ時トシテハ高評ヲ賜ハルヿモアラン又全國ノ各處ニ布在スル我學友諸君モ之ヲ見テ果シテ我輩ノ精神ハ諸君ガ昔年本塾ニ眠食シ手ヲ攜ヘテ遊ヒ燈ヲ共ニシテ讀書シタル其時ニ比シテ毫モ獨立ノ旨ヲ變換シタルナキヲ證スルニ足ル可シ諸君ニ於テモ亦コレヲ變換セサルハ我輩ノ今日深ク信シテ疑ハサル所ナリ
本紙發兌ノ要用ニシテ止ム可ラサルノ理由ハ前既ニ之ヲ記シタリ今又向後ノ目的ヲ述ヘテ聊カ他ニ異ナル所以ノモノヲ示サン我同志社中ハ本來獨立不羈ノ一義ヲ尊崇スルモノニシテ苟モ其志ヲ同フセサル者ニ對シテハ一毫モ與ヘズ一毫モ取ラズ勤儉以テ一家ノ獨立ヲ謀リ肉体ノ生計既ニ安キヲ得ルトキハ兼テ又一身ノ品行ヲ脩メ附仰天地ニ耻ルナキヲ勉メテ人ノ譏譽ニ依頼セズ以テ私徳ノ獨立
ヲ固クシ一身一家既ニ獨立シテ私ノ根據既ニ定ルトキハ乃チ眼ヲ轉シテ戸外ノ事ニ及ホシ人ヲ教ヘテ此獨立ノ幸福ヲ共ニセンヿヲ謀リ我學問ハ獨立ニシテ西洋人ノ糟粕ヲ嘗ルナキヲ欲シ、我商賣ハ獨立シテ彼ノ制御ヲ仰クナキヲ欲シ、我法律ハ獨立シテ彼レノ輕侮ヲ受ルナキヲ欲シ我宗教ハ獨立シテ彼レノ蹂躙ヲ蒙ルナキヲ欲シ、結局我日本國ノ獨立ヲ重ンシテ畢生ノ目的唯國權ノ一點ニ在ルモノナレバ苟モ此目的ヲ共ニスル者ハ我社中ノ友ニシテ之ニ反スル者ハ間接ニモ直接ニモ皆我敵ナリト云ハサルヲ得ズ我輩ノ眼中滿天下ニ敵ナシ又友ナシ唯國權ノ利害ヲ標準ニ定メテ審判ヲ下タスノミ例ヘハ我輩ハ國會ノ開設ヲ贊成スル者ナリト雖トモ徒ニ其開設ヲ見テ之ヲ樂シムニ非ス又コレニ參與シテ權ヲ弄ハント欲スルニモ非ス唯國會ノ開設アラハ由テ以テ我政府ノ威權ヲ强大ニシテ全國ノ民力ヲ一處ニ合集シ以テ國權ヲ皇張スルノ愉快ヲ見ル可シトノ企望ニテ中心ニ之カ贊成ヲ爲シ國會論者ヲ友トシテ其反對論者ヲ敵トスルノミ或ハ内國ノ施政ニ就テモ徃々然ル可ラスト思フ所ノモノハ遠慮ナク之ヲ論駁スルヿモアラン、又然ル可シト認ル所ノモノハ大ニ之ヲ贊譽スルヿモアラン、其然ル可シ然ル可ラストテ之ヲ是非スルノ標準ハ他ナシ結局ニ至レバ亦唯國權ノ一點アルノミ然ルニ近來世間ノ新聞紙等ヲ見レバ黨派ノ議論漸ク喧シクシテ各自カラ爲ニスル所ノモノアルガ如シ我國ニモ既ニ國會開設ノ命アリテ數年ノ中ニハ立憲ノ政体トコソ爲ル可ケレバ自カラ政黨モ分ルヽヿナラン、權ヲ好ムハ通常人類ノ天性ナレバ進デ權力ヲ得ントシテ政黨ノ催シモ至極尤ナルヿナレトモ今ノ所謂政黨論者ハ其着眼スル所專ラ内國施政ノ一方ニ偏シテ其是非論駁ニ力ヲ盡シ甚シ
キハ之ヲ論スルニ其事ヲ問ハスシテ其人ヲ評スルニ忙ハシク却テ國權ノ利害如何ヲ問ヘバ漠然トシテ忘レタルガ如キ者ナキニ非ズ我輩ノ最モ感服セザル所ニシテ我輩ト思想ヲ異ニスルモノナリ
然リト雖トモ方今政黨ノ團結ハ漸ク各地方ニ行ハルヽノ勢ナレバ諸黨各自カラ經營シテ互ニ相競ヒ漸ク歳月ヲ經ルノ其間ニハ衰弱シテ斃ルヽ者モアラン又新ニ大ニ起ル者モアラン又或ハ幾多ノ小黨相合シテ一大政黨タル者モアラン何レニモ國會開設ノ日ニハ必ズ二三ノ政黨ニテ我政治社會ヲ組織スルヿナラン日本ニハ先例モナキヿニテ預メ明言シ難シト雖トモ西洋諸國ノ慣例ナレバ先ツ斯ノ如クナル可シト信スルヨリ外ナシ扨コノ塲合ニ至テモ我輩ハ全ク他ニ異ナル所ノモノアリ何トナレハ則チ我輩ハ所謂政黨ナルモノニ非サレバナリ抑モ政黨トハ純然タル政治家ノ結合ニシテ其黨中ヨリ一名ノ長者ヲ推撰シ之ヲ首領ニ仰デ其黨派ノ意見ヲ天下ニ示シ專ラ當路ノ政黨ニ反對シテ政畧ノ得失ヲ述ベ其主義ヨク衆庶ノ所望ニ協フトキハ多數ヲ得テ政府ノ壇上ニ昇リ其首領ハ即チ新政府ノ首相ニシテ政權ハ擧テ其黨派ノ人ニ歸シ曩ノ當路者ハ罷テ落路ノ政黨タル可シ、又コノ昇進ノ政黨ガ既ニ政權ヲ得ルモ數年ヲ經ルノ間ニ人心ノ向フ所自然ニ變遷スルトキハ更ニ落路ノ黨派ニ交代ヲ促サレテ地位ヲ讓ラサルヲ得ス、斯ノ如ク一進一退ノ際ニハ互ニ力ヲ盡シテ先ヲ爭ヒ結局他ノ權ヲ奪テ之ニ代ラントスルノ活劇トモ云フ可キモノナリ其爭ヤ固ヨリ公明正大君子ノ爭ナリト云フガ故ニ敢テ之ヲ賤シムニハ非サレトモ我新聞社中ニ於テハ他ノ權ヲ取テ之ニ
代ラントスルノ念ナシ或ハ社中ニモ人員少ナカラサルヿナレバ直ニ政權ニ參與シテ平生ノ伎倆ヲ呈セント欲スル者モアル可ケレバ時ニ應シテ本社ヲ去リ何カノ政黨ニ加入スルモ可ナリ又或ハ新ニ政黨ヲ團結スルモ妨ナシ假令ヒ之ヲ去ルモ唯我新聞社ヲ去タルノミニシテ等シク同窓ノ學友同學ノ社中ナレバ其友誼ハ死シテ而シテ後ニ止ム可キノミ又前段ニ政黨ニハ必ス一名ノ首領ヲ要スト云ヘリ然ルニ我黨ノ長者ハ福澤先生ナレトモ先生ハ本來靑雲ノ志ナクシテ今後モ生涯政治ニ參與スルヿナカル可シト明言シタル者ナレバ固ヨリ之ニ向テ政黨ノ首領タランヿヲ求ム可ラズ是亦我輩ガ此マヽノ有樣ニテ直ニ政黨タル可ラザルノ原因ナリ
右ノ次第ナルヲ以テ我社固ヨリ政ヲ語ラサルニ非ス政モ語ル可シ學事モ論ス可シ工業商賣ニ道徳經濟ニ凡ソ人間社會ノ安寧ヲ助ケテ幸福ヲ進ム可キ件々ハ之ヲ紙ニ記シテ洩ラスナキヲ勉ム可シト雖トモ他ノ黨派新聞ノ如ク一方ノ爲ニスルモノニ非レザレバ事物ニ對シテ評論ヲ下タスニモ故サラニ譏譽抑揚ノ節ヲ劇ニシテ一時人ヲシテ痛快ヲ覺ヘシムルガ如キ文章ノ波瀾ニハ乏シカル可シ唯我輩ノ主義トスル所ハ一身一家ノ獨立ヨリ之ヲ擴メテ一國ノ獨立ニ及ホサントスルノ精神ニシテ苟モ此精神ニ戻ラサルモノナレバ現在ノ政府ナリ又世上幾多ノ政黨ナリ諸工商ノ會社ナリ諸學者ノ集會ナリ其相手ヲ撰ハズ一切友トシテ之ヲ助ケ、之ニ反スルト認ル者ハ亦其相手ヲ問ハズ一切敵トシテ之ヲ擯ケンノミ人ノ言ニ云ク人間最上ノ强力ハ求ルナキニ在リト我輩ハ今ノ政治社會ニ
對シ又學者社會ニ對シ商工社會ニ對シテ私ニ一毫モ求ル所ノモノアラザレバ亦恐ルヽニ足ルモノナシ唯大ニ求ル所ハ國權皇張ノ一點ニ在ルノミ我輩ハ求ルナキノ精神ヲ以テ大ニ求ル所ノモノヲ得ント欲シテ敢テ自カラ信スル者ナリ
明治十五年(西暦一千八百八十二年)三月一日

本紙發兌之趣旨(現行版『福澤諭吉全集』収録版)

編集

 我學塾は創立以來二十五年、其名稱を慶應義塾と改めてより既に十五年を經たり。前後生徒を教育すること今日に至るまで三千五百名、其教則の如き、年を逐ふて變換するもの尠なからずといへども、專ら英米の書を講じて近時文明の主義を採り、かたはらに和漢の字を教へて日常文書の技藝を脩め、三、五年の勉强を以て卒業するときは、去て故郷に歸て父祖の家業を繼ぐ者あり、或は朝野に周旋して自から一家を起す者あり、又或は本塾の卒業を以て滿足せざる者は尙塾に留て同志相互に切瑳せつさ研究するあり、他の專門校に入て更に業に就くあり、各其志す所に從て其爲す所も亦同じからずと雖ども、概して二十五年間の成跡如何を視れば、我學塾の舊生徒にして今日社會の表面に立ちよく他のさきがけを爲して事を執る者甚だ尠なからず。凡そ今の諸官省なり、地方廳なり、又府縣會なり、或は學校に、新聞社に、又諸工商會社に、日本全國到る處として苟も社會公共の事を理する其場所に於て我舊生徒を見ざる所なし。蓋し全國の男子一千七百萬の中に、我學友の數を三千五百名とすれば、僅に五千中の一にして誠に寥々れう見るに足る可き數に非ざれども、其實際に於て寥々たるを覺へざるは、我學塾の教育、よく人の子弟を導て有爲の人物と爲したる歟、或は天資有爲の人物にして偶然本塾に來る者多きの故ならんのみ。
 抑も我慶應義塾の本色は前記の如く唯人を教へて近時文明の主義を知らしむるに在るのみ。即ち生徒入社の初より卒業の時に至るまで其訓導の責に任ずるのみにして爾後は全く關係なきものなれども、講堂有形の教授を離れて社中別に自から一種の氣風なきを得ず、所謂無形の精神にして、獨立不羈の一義、即是なり。此精神は形以て示す可きに非ず、口以て説く可きに非らずと雖ども、創立の其時より本塾の全面を支配して、二十五年一日の如く、如何なる世上の風潮に遭遇するも曾て動搖したることなきものなり。然りと雖ども二十五の星霜久しからざるに非ず、三千五百の社中多からざるに非ず。此年月の間に此社中の人々が各其志す所に從て其事を爲す、方向一ならんと欲するも固より得べからず。同窓の友誼こそ終身忘る可らざるも、社會の人事を處するに當ては、たゞに方向を一にせざるのみならず、或は全く相反對するものも尠なからず。宗教の信心を異にする者あり、政治の主義を異にする者あり、著書新聞紙に論説を異にする者あれば、商賣工業に競爭の敵たる者もあり。甚しきは國事犯罪吟味の法庭に於て、糺問せらるゝ者と糺問する者と初て相對すれば、四目相見て兩心愕然、何ぞ計らん、共に是れ舊同窓の親友たりしが如き奇談もあらん。何れも皆自然の勢にして、人間社會に免かる可らざるの數なり。
 斯る事の有樣にして、漫然たる江湖の眼を以て觀るときは、我義塾の社中には幾多の主義を存して幾多の方向を取る者の如く、又其主義方向の多きは却て無主義無方向の如くに認る者もなきに非ざる可し。蓋し我學友社中の一部を以て商人の眼に映ずるときは商會の如くに見へん、我社實に商人多ければなり。又其一部を以て政治家の眼に映ずるときは我社中は政黨の如くならん、社中實に政談客多ければなり。或は我れを民權家なりとて嫌惡する者あれば、又一方には官憲黨なりとて謗る者もあり。其趣は一線の源泉、山間を走れば溪流にして、斷岸より落れば則ち瀑布なるものを評して、此水は溪なり瀑布なりと鑑定するに異ならず。水は元と唯水なれども觀客の地位の異なるに由て評論を異にする者なり。漫然たる江湖、其漫、實に笑ふに堪へたりと雖ども、此妄評決して之を一笑に附す可らず。虚よく實を生ずるは人事の常にして、世人が斯く一部分の運動を見て我社の全面を卜するときは、遂に其名聲を成して、又遂には學塾中の少年輩をして實に方向に迷はしむるの害なきを期す可らず。去迚さりとては本塾多年の精神に背き、有形の教育上にも容易ならざる禍を蒙るに至る可し。默止す可らざるなり。依て今この弊害を未發に防ぐの策を案ずるに、我に如何なる主義あるも、毎日に語る可きに非ず、毎人に告ぐ可きに非ざれば、今回社中の同志脇議を遂げて、義塾邸内の出版局に於て毎日の新聞を發兌することに決したり。其名を時事新報と命じたるは、專ら近の文明を記して、此文明に進む所以の方略項を論じ、日の風潮に後れずして、之を世上に道せんとするの旨なり。即ち我同志の主義にして、其論説の如きは社員の筆硯に乏しからずと雖ども、特に福澤小幡兩氏の立案を乞ひ、又其檢閲を煩はすことなれば、大方の君子も此新聞を見て、果して我輩の持論如何を明知して、時としては高評を賜はることもあらん。又全國の各處に布在する我學友諸君も之を見て、果して我輩の精神は、諸君が昔年本塾に眠食し手を携へて遊び燈を共にして讀書したる其時に比して、毫も獨立の旨を變換したるなきを證するに足る可し。諸君に於ても亦これを變換せざるは我輩の今日深く信じて疑はざる所なり。
 本紙發兌の要用にして止む可らざるの理由は前既に之を記したり。今又向後の目的を述べて聊か他に異なる所以のものを示さん。我同志社中は本來獨立不羈の一義を尊崇するものにして、苟も其志を同ふせざる者に對しては、一毫も與へず一毫も取らず、勤儉以て一家の獨立を謀り、肉體の生計既に安きを得るときは兼て又一身の品行を脩め、附仰天地に恥るなきを勉めて人の譏譽に依頼せず、以て私徳の獨立を固くし、一身一家既に獨立して私の根據既に定るときは、乃ち眼を轉じて戸外の事に及ぼし、人を教へて此獨立の幸福を共にせんことを謀り、我學問は獨立にして西洋人の糟粕を嘗るなきを欲し、我商賣は獨立して彼の制御を仰ぐなきを欲し、我法律は獨立して彼れの輕侮を受るなきを欲し、我宗教は獨立して彼れの蹂躙じうりんを蒙るなきを欲し、結局我日本國の獨立を重んじて、畢生の目的、唯國權の一點に在るものなれば、苟も此目的を共にする者は我社中の友にして、之に反する者は間接にも直接にも皆我敵なりと云はざるを得ず。我輩の眼中、滿天下に敵なし又友なし、唯國權の利害を標準に定めて審判を下だすのみ。例へば我輩は國會の開設を贊成する者なりと雖ども、徒に其開設を見て之を樂しむに非ず、又これに參與して權を弄ばんと欲するにも非ず、唯國會の開設あらば、由て以て我政府の威權を强大にして全國の民力を一處に合集し、以て國權を皇張するの愉快を見る可しとの企望にて、中心に之が贊成を爲し、國會論者を友として、其反對論者を敵とするのみ。或は内國の施政に就ても往々然る可らずと思ふ所のものは遠慮なく之を論駁することもあらん、又然る可しと認る所のものは大に之を贊譽することもあらん。其然る可し然る可らずとて之を是非するの標準は、他なし、結局に至れば亦唯國權の一點あるのみ。然るに近來世間の新聞紙等を見れば、黨派の議論漸く喧しくして、各自から爲にする所のものあるが如し。我國にも既に國會開設の命ありて、數年の中には立憲の政體とこそ爲る可ければ、自から政黨も分るゝことならん。權を好むは通常人類の天性なれば、進で權力を得んとして政黨の催しも至極尤なることなれども、今の所謂政黨論者は其着眼する所、專ら内國施政の一方に偏して、其是非論駁に力を盡し、甚しきは之を論ずるに其事を問はずして其人を評するに忙はしく、却て國權の利害如何を問へば漠然として忘れたるが如き者なきに非ず。我輩の最も感服せざる所にして、我輩と思想を異にするものなり。
 然りと雖ども方今政黨の團結は漸く各地方に行はるゝの勢なれば、諸黨各自から結營して互に相競ひ、漸く歳月を經るの其間には、衰弱して斃るゝ者もあらん、又新に大に起る者もあらん、又或は幾多の小黨相合して一大政黨たる者もあらん。何れにも國會開設の日には必ず二、三の政黨にて我政治社會を組織することならん。日本には先例もなきことにてあらかじめ明言し難しと雖ども、西洋諸國の慣例なれば先づ斯の如くなる可しと信ずるより外なし。扨この場合に至ても我輩は全く他に異なる所のものあり。何となれは則ち我輩は所謂政黨なるものに非ざればなり。抑も政黨とは純然たる政治家の結合にして、其黨中より一名の長者を推撰し、之を首領に仰で其黨派の意見を天下に示し、專ら當路の政黨に反對して政略の得失を述べ、其主義よく衆庶の所望に協ふときは、多數を得て政府の壇上に昇り、其首領は即ち新政府の首相にして、政權は擧て其黨派の人に歸し、さきの當路者はやめて落路の政黨たる可し。又この昇進の政黨が既に政權を得るも、數年を經るの間に人心の向ふ所自然に變遷するときは、更に落路の黨派に交代を促されて地位を讓らざるを得ず。斯の如く一進一退の際には、互に力を盡して先を爭ひ、結局他の權を奪て之に代らんとするの活劇とも云ふ可きものなり。其爭や固より公明正大、君子の爭なりと云ふが故に、敢て之を賤しむには非ざれども、我新聞社中に於ては他の權を取て之に代らんとするの念なし。或は社中にも人員少なからざることなれば、直に政權に參與して平生の伎倆を呈せんと欲する者もある可ければ、時に應じて本社を去り何かの政黨に加入するも可なり、又或は新に政黨を團結するも妨なし。假令ひ之を去るも、唯我新聞社を去たるのみにして、等しく同窓の學友、同學の社中なれば、其友誼は死して而して後に止む可きのみ。又前段に政黨には必ず一名の首領を要すと云へり。然るに我黨の長者は福澤先生なれども、先生は本來靑雲の志なくして、今後も生涯政治に參與することなかる可しと明言したる者なれば、固より之に向て政黨の首領たらんことを求む可らず。是亦我輩が此まゝの有樣にて直に政黨たる可らざるの原因なり。
 右の次第なるを以て、我社固より政を語らざるに非ず、政も語る可し、學事も論ず可し、工業商賣に、道徳經濟に、凡そ人間社會の安寧を助けて幸福を進む可き件々は、之を紙に記して洩らすなきを勉む可しと雖ども、他の黨派新聞の如く一方の爲にするものに非れざれば、事物に對して評論を下だすにも、ことさらに譏譽抑揚の節を劇にして一時人をして痛快を覺へしむるが如き文章の波瀾には乏しかる可し。唯我輩の主義とする所は一身一家の獨立より之をおしひろめて一國の獨立に及ぼさんとするの精神にして、苟も此精神に戻らざるものなれば、現在の政府なり、又世上幾多の政黨なり、諸工商の會社なり、諸學者の集會なり、其相手を撰ばず一切友として之を助け、之に反すると認る者は、亦其相手を問はず一切敵として之をしりぞけんのみ。人の言に云く、人間最上の强力は求るなきに在りと。我輩は今の政治社會に對し、又學者社會に對し、商工社會に對して、私に一毫も求る所のものあらざれば、亦恐るゝに足るものなし。唯大に求る所は國權皇張の一點に在るのみ。我輩は求るなきの精神を以て大に求る所のものを得んと欲して敢て自から信ずる者なり。〔三月一日〕

〔時事新報発兌の趣旨〕(『福澤諭吉著作集』収録版)

編集

 我学塾は創立以来二十五年、その名称を慶應義塾と改めてより既に十五年をたり。前後生徒を教育すること今日に至るまで三千五百名、その教則のごとき、年をうて変換するものすくなからずといえども、専ら英米の書を講じて近時文明の主義をり、かたわらに和漢の字を教えて日常文書の技芸をおさめ、三、五年の勉強をもって卒業するときは、去て故郷に帰て父祖の家業を継ぐ者あり、あるい朝野ちょうやに周旋してみずから一家を起す者あり、又或は本塾の卒業を以て満足せざる者はなお塾に留て同志相互あいたがい切瑳せっさ研究するあり、他の専門校に入て更に業にくあり、おのおのその志す所に従てそのす所もまた同じからずといえども、概して二十五年間の成跡如何いかんれば、我学塾の旧生徒にして今日社会の表面に立ちよく他のさきがけを為して事をる者はなはすくなからず。およそ今の諸官省なり、地方庁なり、又府県会なり、或は学校に、新聞社に、又諸工商会社に、日本全国到る処としていやしくも社会公共の事を理するその場所において我旧生徒を見ざる所なし。けだし全国の男子一千七百万のうちに、我学友の数を三千五百名とすれば、わずかに五千中の一にして誠に寥々りょうりょう見るに足るべき数にあらざれども、その実際に於て寥々りょうりょうたるを覚えざるは、我学塾の教育、よく人の子弟を導て有為ゆういの人物と為したるか、或は天資有為の人物にして偶然本塾にきたる者多きの故ならんのみ。
 そもそも我慶應義塾の本色は前記の如くただ人を教えて近時文明の主義を知らしむるに在るのみ。即ち生徒入社のはじめより卒業の時に至るまでその訓導の責に任するのみにして爾後じごは全く関係なきものなれども、講堂有形の教授を離れて社中べつおのずから一種の気風なきを得ず、所謂いわゆる無形の精神にして、独立不羈ふきの一義、すなわちこれなり。この精神は形以て示すべきに非ず、口以て説くべきに非らずといえども、創立のその時より本塾の全面を支配して、二十五年一日いちじつの如く、如何いかなる世上の風潮に遭遇するもかつて動搖したることなきものなり。しかりといえども二十五の星霜久しからざるにあらず、三千五百の社中多からざるに非ず。この年月の間にこの社中の人々がおのおのその志す所に従てその事をす、方向いつならんと欲するももとよりべからず。同窓の友誼ゆうぎこそ終身忘るべからざるも、社会の人事を処するに当ては、ただに方向を一にせざるのみならず、あるいは全くあい反対するものもすくなからず。宗教の信心を異にする者あり、政治の主義を異にする者あり、著書新聞紙に論説を異にする者あれば、商売工業に競争の敵たる者もあり、はなはだしきは国事犯罪吟味の法庭に於て、糺問きゅうもんせらるゝ者と糺問する者と初て相対あいたいすれば、四目しもく相見て両心愕然がくぜん、何ぞ計らん、共にれ旧同窓の親友たりしがごとき奇談もあらん。いずれも皆自然の勢にして、人間社会にまぬかるべからざるの数なり。
 かかる事の有様にして、漫然たる江湖こうこの眼をもっるときは、我義塾の社中には幾多の主義を存して幾多の方向を取る者の如く、又その主義方向の多きはかえって無主義無方向の如くに認る者もなきに非ざるべし。けだし我学友社中の一部を以て商人の眼に映ずるときは商会の如くに見えん、我社実に商人多ければなり。又その一部を以て政治家の眼に映ずるときは我社中は政党の如くならん、社中実に政談客多ければなり。或はれを民権家なりとて嫌悪する者あれば、又一方には官権党なりとてそしる者もあり。そのおもむきは一線の源泉、山間さんかんを走れば渓流けいりゅうにして、断岸より落ればすなわ瀑布ばくふなるものを評して、この水は渓なり瀑布なりと鑑定するに異ならず。水はただ水なれども観客の地位の異なるによりて評論を異にする者なり。漫然たる江湖、その漫、実に笑うに堪えたりと雖ども、この妄評決してこれを一笑に附すべからず。虚よく実を生ずるは人事の常にして、世人せじんく一部分の運動を見て我社の全面をぼくするときは、遂にその名声を成して、又遂には学塾中の少年輩をして実に方向に迷わしむるの害なきを期すべからず。去迚さりとては本塾多年の精神に背き、有形の教育上にも容易ならざるわざわいこうむるに至るべし。黙止もくしすべからざるなり。よって今この弊害を未発に防ぐの策を案ずるに、我に如何いかなる主義あるも、毎日に語るべきに非ず、毎人に告ぐべきに非ざれば、今回社中の同志脇議を遂げて、義塾邸内の出版局において毎日の新聞を発兌はつだすることに決したり。その名を時事新報と命じたるは、専ら近の文明を記して、この文明に進む所以ゆえんの方略項を論じ、日の風潮におくれずして、之を世上に道せんとするの旨なり。すなわち我同志の主義にして、その論説の如きは社員の筆硯ひっけんに乏しからずと雖ども、特に福澤、小幡おばた両氏の立案を乞い、又その検閲をわずらわすことなれば、大方の君子もこの新聞を見て、果して我輩の持論如何いかんを明知して、時としては高評を賜わることもあらん。又全国の各処に布在ふざいする我学友諸君もこれを見て、果して我輩の精神は、諸君が昔年せきねん本塾に眠食し手を携えて遊び灯を共にして読書したるその時に比して、ごうも独立の旨を変換したるなきを証するに足るべし。諸君においてもまたこれを変換せざるは我輩の今日深く信じて疑わざる所なり。
 本紙発兌はつだの要用にしてとどむべからざるの理由は前すでに之を記したり。今又向後の目的を述べていささか他に異なる所以ゆえんのものを示さん。我同志社中は本来独立不羈ふきの一義を尊崇するものにして、いやしくもその志を同うせざる者に対しては、一毫いちごうも与えず一毫も取らず、勤倹もって一家の独立を謀り、肉体の生計既に安きを得るときは兼て又一身の品行をおさめ、附仰ふぎょう天地に恥るなきをつとめて人の譏誉きよに依頼せず、以て私徳の独立を固くし、一身一家既に独立して私の根拠既に定るときは、すなわち眼を転じて戸外の事に及ぼし、人を教えてこの独立の幸福を共にせんことをはかり、我学問は独立にして西洋人の糟粕そうはくなむるなきを欲し、我商売は独立しての制御を仰ぐなきを欲し、我法律は独立してれの軽侮けいぶを受るなきを欲し、我宗教は独立して彼れの蹂躙じゅうりんこうむるなきを欲し、結局我日本国の独立を重んじて、畢生ひっせいの目的、ただ国権の一点に在るものなれば、いやしくもこの目的を共にする者は我社中の友にして、之に反する者は間接にも直接にも皆我敵なりと云わざるを得ず。我輩の眼中、満天下に敵なし又友なし、唯国権の利害を標準に定めて審判をだすのみ。例えば我輩は国会の開設を賛成する者なりといえども、いたずらにその開設を見て之を楽しむにあらず、又これに参与して権をもてあそばんと欲するにも非ず、ただ国会の開設あらば、よっもって我政府の威権を強大にして全国の民力を一処に合集し、以て国権を皇張こうちょうするの愉快を見るべしとの企望きぼうにて、中心に之が賛成をし、国会論者を友として、その反対論者を敵とするのみ。あるいは内国の施政についても往々しかるべからずと思う所のものは遠慮なく之を論駁することもあらん、又然るべしと認る所のものは大に之を賛誉することもあらん。その然るべし然るべからずとて之を是非するの標準は、他なし、結局に至れば亦唯国権の一点あるのみ。然るに近来世間の新聞紙等を見れば、党派の議論ようやかまびすしくして、おのおのみずからためにする所のものあるがごとし。我国にも既に国会開設の命ありて、数年のうちには立憲の政体とこそ為るべければ、おのずから政党も分るゝことならん。権を好むは通常人類の天性なれば、進で権力を得んとして政党の催しも至極もっともなることなれども、今の所謂いわゆる政党論者はその着眼する所、専ら内国施政の一方に偏して、その是非論駁ろんばくに力を尽し、はなはだしきはこれを論ずるにその事を問わずしてその人を評するにいそがわしく、かえって国権の利害如何いかんを問えば漠然ばくぜんとして忘れたるがごとき者なきにあらず。我輩の最も感服せざる所にして、我輩と思想を異にするものなり。
 しかりといえども方今ほうこん政党の団結はようやく各地方に行わるゝの勢なれば、諸党おのおのみずから結営してたがいに相競い、漸く歳月を経るのその間には、衰弱してたおるゝ者もあらん、又あらたおおいに起る者もあらん、又あるいは幾多の小党相合して一大政党たる者もあらん。いずれにも国会開設の日には必ず二、三の政党にて我政治社会を組織することならん。日本には先例もなきことにてあらかじめ明言し難しと雖ども、西洋諸国の慣例なればかくの如くなるべしと信ずるより外なし。さてこの場合に至ても我輩は全く他に異なる所のものあり。何となれはすなわち我輩は所謂いわゆる政党なるものに非ざればなり。そもそも政党とは純然たる政治家の結合にして、その党中より一名の長者を推撰し、之を首領に仰でその党派の意見を天下に示し、専ら当路とうろの政党に反対して政略の得失を述べ、その主義よく衆庶の所望にかなうときは、多数を得て政府の壇上に昇り、その首領はすなわち新政府の首相にして、政権は挙てその党派の人に帰し、さきの当路者はやめ落路らくろの政党たるべし。又この昇進の政党がすでに政権を得るも、数年を経るの間に人心の向う所自然に変遷するときは、更に落路の党派に交代を促されて地位を讓らざるを得ず。かくの如く一進一退の際には、互に力を尽して先を争い、結局他の権を奪て之に代らんとするの活劇ともうべきものなり。そのあらそいもとより公明正大、君子の争なりと云うが故に、あえこれを賤しむには非ざれども、我新紙社中においては他の権を取て之に代らんとするの念なし。或は社中にも人員少なからざることなれば、直に政権に参与して平生の伎倆ぎりょうを呈せんと欲する者もあるべければ、時に応じて本社を去り何かの政党に加入するも可なり、又或は新に政党を団結するもさまたげなし。仮令たとい之を去るも、ただ我新聞社をさりたるのみにして、等しく同窓の学友、同学の社中なれば、その友誼ゆうぎは死してしこうして後にむべきのみ。又前段に政党には必ず一名の首領を要すと云えり。しかるに我党の長者は福澤先生なれども、先生は本来青雲の志なくして、今後も生涯政治に参与することなかるべしと明言したる者なれば、固より之に向て政党の首領たらんことを求むべからず。是亦これまた我輩がこのまゝの有様にて直に政党たるべからざるの原因なり。
 右の次第なるを以て、我社固よりまつりごとを語らざるに非ず、政も語るべし、学事も論ずべし、工業商売に、道徳経済に、およそ人間社会の安寧を助けて幸福を進むべき件々は、これを紙に記してらすなきをつとむべしといえども、他の党派新聞のごとく一方のためにするものにらざれば、事物に対して評論をだすにも、ことさらに譏誉きよ抑揚のふしを劇にして一時人をして痛快を覚えしむるが如き文章の波瀾はらんには乏しかるべし。ただ我輩の主義とする所は一身一家の独立よりこれおしひろめて一国の独立に及ぼさんとするの精神にして、いやしくもこの精神にもとらざるものなれば、現在の政府なり、又世上幾多の政党なり、諸工商の会社なり、諸学者の集会なり、その相手を撰ばず一切友として之を助け、之に反すると認る者は、またその相手を問わず一切敵として之をしりぞけんのみ。人の言にいわく、人間最上の強力は求るなきに在りと。我輩は今の政治社会に対し、又学者社会に対し、商工社会に対して、私に一毫いちごうも求る所のものあらざれば、亦恐るゝに足るものなし。唯おおいに求る所は国権皇張こうちょうの一点に在るのみ。我輩は求るなきの精神をもって大に求る所のものを得んと欲してあえみずから信ずる者なり。

関連資料

編集
 

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。