<< 兄弟は正直と愛と和平とにより、互に誠実を以て生存して、内部の思念と戦ふべし。 >>
一、 兄弟は互に大なる愛を守らんことを要す、彼等は祈祷せんか、或は聖書を読まんか、或は何の工作にか従事せんも、互に愛を基となすべし、かくの如くならば、彼等が自由なる任意は神の惠みをうくるを得ん。それ或者は祈祷し、或者は読み、或者は工作せんに、互に実意と正直とに居るあらば、彼等は皆此を為して益あらん。けだし如何にしるされしかを見よ、『汝の旨は天におこなはるる如く地にも行はれん』〔マトフェイ六の十〕。天使等は天に於て平和と愛とにより生存して、たがひに大なる一致に居り、かしこには高慢或は猜忌のあるあらずして、互の愛と誠実とのみなる如く、兄弟等も互にかくの如くにして居らんことを要するなり。それ三十人にして一事を為したらんには彼等終日終夜此を為しつづくることあたはざるべし、却て彼等の中或者は祈祷に六時間を送り、好んで読むべく、或者は熱心に役事すべく、又他の者は何の工作にか従事すべし。
二、 故に兄弟よ、もし何か為す所あらば、互の愛と喜びとに居らんこと肝要なり。工作する者は祈祷する者を左の如くいふべし、『わが兄弟の領する宝は共同のものなり、ゆえに我もこれを領す』と。また祈祷する者は読経する者を次の如くいふべし、『彼が読経に於て益する者は我が為にも益にならん』と。また工作する者は更に左の如くいふべし、『わが尽す勤労には共同の益あり』と。たとへば身の肢は多けれど、彼等一体を成して、互に相助け、肢々おのおの自己の職分を尽すが如し、然のみならず、目は全身の為に監視すべく、手もすべての肢体の為に働くべく、足も身体の諸部を自ら載せて行くべくして、他の肢は又外の肢と艱苦を共にせん、兄弟も互に如此なるべし。されば祈祷する者は工作する者を非難して、彼は祈祷せずといふこと無るべし。工作する者も祈祷する者を非難して『彼は祈祷をつづくれど我は工作す』といふことなかるべし、又役事する者も他を非難せざるべし。反ておのおの何をなすとも、神の栄のために為すべし。読経する者は祈祷する者を愛と喜びとを以て視て、左の如く思ふべし、『彼は我が為にも祈祷す』と。しかして祈祷する者は工作する者を次の如く思ふべし、『彼が為す所の事は共同の益の為になす』と。
三、 かくの如くなれば、大なる一致と平和と同心とは、衆人に平和の同盟を互に保たしむるを得べし、されば神の恩恵をおのれに誘引して、互に実意と正直とに居るを得ん。されどもすべての中に於て最重要なるは、時に随ひて祈祷を務むるにあること明なり。しかのみならず求むる所の目的は唯一なるべし、即宝と生命とを霊魂に有する、即主を心に有すること是なり。誰か工作せんか、或は祈祷せんか、或は読経せんか、彼の暫時に移らざる所得を有すべし、即聖神を有すべし。或人いへり、主は人々より一の顕然なる結果を促すのみにして、隠然なるものは神自らこれを成し給ふと。しかれども実際はかくの如くならず、これと相反して、誰か外部の人に依り己を防守する程は、いよいよ思念と角逐して奮闘せんことを要す、何となれば主は汝の自ら己を怒り、己の智と戦を作し、悪なる思念に同意せずして、これを以て楽まざらんことを汝より要求すればなり。
四、 さりながら罪と我等に居る所の悪を根絶せんことは、これただ神の力を以てのみ成就せらるべし。けだし自己の力を以て罪を根絶せんことは、人にあたへられず、且は能はざればなり。罪とたたかひ、抵抗して傷を負はせ、或はこれを受くるは、これ汝の力にあり、しかれども根絶するは神に属す。もし汝は自らこれを為すを能くせば、何の要ありて主は来り給はんや。たとへば目は光なくして視るあたはざらん、或は舌なくして言ひ、或は耳なくして聞き、或は足なくして行き、或は手なくして工作することはあたはざらん、かくの如くイイススなくんば救はるることも天国に入ることもあたはざるなり。されどもし汝は左の如く言ふならば、『見らるる如く我は放蕩者に非ず姦淫者に非ず、貪利者に非ず、ゆえに義人なり』といふならば、これ汝は最早一切を成全せりと思ふて、誘はるるなり。人の自ら防禦すべき罪の部分はただ三のみにあらず、其数千々なり。高慢、無忌憚、不信、猜疑、嫉妬、狡猾、偽善の如き何処より来るか。汝はこれらと竊に思念の中に於て角逐奮闘せざるべからざるに非ずや。汝の家に賊あらば、彼はやがて汝を打倒さん、然らばこは汝をして安然ならしめざるのみならず、汝自ら彼を突撃して、かれに傷を被むらしめ、或は傷を受けん、かくの如く霊魂も抵抗敵対防禦せざるべからざるなり。
五、 汝の自由なる任意は敵抗して労苦と憂愁とに居りつつ終に勝つを始めん、任意は倒れて又起き、罪は新にかれを貶せん、十次二十次戦に勝ちて、霊魂を貶せん、しかれども霊魂も亦漸々或一事に於て罪に勝たん。ゆえにもし霊魂が堅く立ちて何事に於ても弱らざらんときは、優勢を取り、決戦して、罪に勝つを始めん。しかれどももし此の時に注意して己を省みるならば、『成全の人となり成長の量に達して』〔エフェス四の十三〕充分死に克つに至る迄は、罪は猶全く人に勝たん。けだし録して言ふあり、『最後に滅さるる敵は死なり』〔コリンフ前十五の二十六〕。かくて人々は罪を負かして、其勝利者とならん。しかれども前文にいひし如く、もし誰か『我は放蕩者にあらず、姦淫者に非ず、貪利者に非ず、我が為にこれを以て足れり』と言ふ者あらば、これ斯の如き場合に於て彼は三の部分と戦へども、他の二十と戦はず、即罪が同じく霊魂と戦はんとする二十とはたたかはずして、反つて彼等に勝たるるなり。ゆえにすべてに於て戦ひ、且格闘せんことを要す、何となれば我等がしばしば言ひし如く、智は角力者にして、罪と競争し、思ひに抵抗せんが為に同等の力を有すればなり。
六、 されどももし反対の力は更に強うして、悪習は人に全く王たりといふならば、これサタナに従ひしが為に人間を罰する神を罪して不当となすなりサタナの有力にして或る強制の力を以て己に従はしむるときは、汝の意にサタナは霊魂より更に上にして、更に有力なりとなさん。しかれども終に我が言をきくべし。たとへば青年と童子と戦ふて童子が負かされんに、其負けたるが為に童子を非難するならば、これ大なる不当ならん。ゆえに余は断定す、智は角力者にして、かつ同等の力ある角力者なりと。ゆえに彼と戦ふ所の霊魂は、救援と防禦とを求め、これを得て救を受けん、けだし戦と苦行とは同等の力あるによりて為し得らるればなり。我等父と子と聖神を世々に讃揚す。アミン。