<< 信仰と謙徳の事 >>
小なる人よ、汝は生命を得んを願ふか、信仰と謙徳を己に守るべし、何となれば之により憐れみと助けと神より心中に告げらるる言とを得べく、同じく亦隠密にも顕然にも汝と共にする守護者を得べければなり、此の生命の供與を得んを願ふか。正直を以て神の前を行くべし、知識を以てするなかれ。正直は信仰を伴へども、思念の軽薄と転倒とは自負を伴ひ、自負は神より遠ざかることを伴ふ。
神の前に祈祷に立つときは、その思念は蟻の如くなるべく、地に匍匐する者の如くなるべく、水蛭の如くなるべく、唖[1]なる小児の如くなるべし。神の前に何か知識により言ふあるなかれ、嬰児の如くなる意思を以て彼に近づき、彼の前を行くべし、父がその嬰児たる子の為に有する父たる照管を汝に賜はらん為なり。言ふあり、『主は嬰児を守る』〔聖詠百十四の五〕。嬰児は蛇に近づき、掴んで之をその首に掛くるも、蛇は彼を害せず。他の人々が衣服に覆ひ包まるるも寒気はその全身に透る全くの冬を彼は裸体にて行き、厳寒氷凍の日に裸体にて座するも病まざるなり。けだし荏弱なる肢体を守る測る可らざる照管は、彼の正直の体を見えざる衣服を以て覆ひ、彼に何の害をも近づかしめざるなり。
今や汝は或る測るべからざる照管のあるを信ずるか、その軟弱と平生病あるとにより何等の害をも直に受くべき軟弱なる身は、之と反対なる者の間に照管を以て保護せられて、その勝つ所とならざるなり。主は嬰児を守る、然れどもただ此の身の小なる者を守るのみならず、世に智者と称せらるる者をも守る、故に彼らは己の智識を棄てて、彼の全く充分なる睿智に倚頼し、その望を嬰児に擬して、その後彼の学習の労を以ては感ずる能はざる智慧を既に学びぬ。神智を得たるパウェルは絶妙に之を言へり。曰く『此世に於て智なる者と意ふ者あらば智とならんが為に愚者となるべし』〔コリンフ前三の十八〕と。さりながら汝は信仰の尺度に達せしめんことを神に願ふべし、汝は此楽を心中に感ずるならば最早汝をハリストスより背かしむるものあらずと此時予に告ぐるを難んぜざるべし。又汝が毎時地に属するものより遠く捕へ去られて、此の劣弱なる世と世にある所のものの想起とより隠されんことも汝の為に難からざるべし。此事の為に懈らずして祈るべく、切に之を願ふべく、之を受くるに至る迄は大なる勉励を以て嘆願すべし。而して又弱らざらんことを祈るべし。もし先づ己を強ひ、信仰によりその慮りを神に托してその慮る所のものを神の照管に換ふるならば、之を賜はらん。神は汝が意思の全く純潔なるを以て自己に信任せずして、神その者に信任し、自己の霊魂に倚頼せずして、勉めて神に倚頼するの此自由を汝に於て見るあらば、彼の知るべからざる能力は汝に寓るべく、汝は彼の能力の疑なく汝と共にするを明に感ぜん、是即多くの者が之を己れに感じて火に赴くも恐れず、水中を行くも溺れんを懼れてその意に躊躇するを為さざる能力なり、何となれば信は心の感覚を堅むるによる、故に或る見えざるものが人を勧めて恐るべき事物の現象に注意せざらしむると、感覚の為に堪ふべからざる現象を看望せざらしむるとを人は自から感ずればなり。
蓋し汝は思ふならん、或者は彼の霊的知識を此の心的知識により受けんと。彼の霊的知識は此の心的知識を以て受くるを得ざるのみならず、感覚を以て之に触るることも、或は心的知識を熱心に研究する或者に之を賜はることも能はざるなり。もし彼らの中霊的知識に近づかんを願ふ者ありとも、此の心的知識とその機微の種々なる術計とその多くの複雑なる方法とを棄てて嬰児の如くなる思の状態に己を立てざる間は霊的知識に毫も近づく能はざるべし。返つて彼らの為に大なる妨害となるものは心的知識の習慣と理解とにして、漸々之を消滅せざる間は妨とならん。彼の霊的知識は純然無雑にして心的思念には照り輝かざるなり。霊智が多くの思念より自由を得て浄潔の独一醇正に達せざる間は、霊的知識を感ずる能はざるべし。視よ、此の知識の定法は彼の世の彼の生命を感ずるにあり、ゆえに彼は多くの思念を排斥す。此の心的知識は多くの思念の外他の智力の醇正を以て受くるを得べきものを識る能はざることは、主の言ひ給ひし如し、曰く『もし転じて幼児の如くならずば神の国に入るを得ず』〔マトフェイ十八の三〕。しかれども視よ多くの者は此醇正に達せずして、返つてその善良なる行為により天国に於て享くべき部分の守られんを希望することは、主が種々に形容し給へる福音の真福を了會するにより我ら之を確知するを得べくして、主は此の真福を以て各種の生涯に於る多くの変化を我らに示し給ひき、何となれば各人は神に進行する種々の途に於て悉くの方法により天国の門を自己の前に開くべきによる。
さりながらもし転じて幼児の如くならずば、誰も彼の霊的知識をうくる能はざるべし。けだしただ是時より彼の天国の楽を感ずるを得るなり。天国のことは人皆言ふ彼は霊的直覚なりと。此の直覚は思念の働を以て得らるべきにあらず、ただ恩寵により之を味ふを得べくして、人は己を潔うせざる間は、之を聞くだに充分の力を有せざるべし、何となれば誰も学んで之を得る能はざればなり。子よ、もし汝は人々より離れて沈黙し、信仰によりて生ぜらるる心の浄潔に達し、此世の知識を忘れて、之に触るるだもあらずんば、霊的知識は求めずして汝に得らるべし。言ふあり、塔を建てて之に油を注げよ、さらばその中に於て宝を発見せんと。されどもし心的知識の縄を以て縛らるるならば、此縄を脱するよりも鉄械を脱するは、汝の為に更に易しと予が言ふは不適当にあらざるべし。汝は誑惑の網より常に遠ざからざるべく、主の前に於る勇気と主に対するの希望とを如何にして有すべきを決して了解せざるべく、何れの時も剣の尖を往来し、如何にしても憂慮なくして居る能はざるべし。汝は主の前に宜しく生活すると憂慮なくして居らんことを弱きと正直とを以て祈祷すべし。けだし影の形に伴ふ如く、憐れみも謙遜に伴ふ。終りにもし此を学ぶを願はば劣弱なる思念に決して手を貸すなかれ。もしもろもろの害ともろもろの悪とすべての危険とが汝を囲繞して汝を嚇すありとも、之を念頭に掛くるなかれ、之を歯牙にも置くなかれ。
もし汝は汝を保護する為に全く充分なる主に一たび己を托し、その汝を照管するに信任して、主に随行するならば、復何事も掛慮するなかれ、己が霊魂に告げて次の如く言ふべし『予が己の霊魂を一たび付したる者は我が為に何等の事に対しても充分なり。予は此処にあらざるも彼は此を知る』と。その時は神の奇蹟を実に看破すべく、如何なる時にも神は近くして、神を畏るる者を救ひ、神の照管は見えずといへども彼らを如何に囲繞するを看破せん。しかれども汝と共にする守護者は肉体の目には見えざるにより、汝は彼を疑つて在らざるものの如く思ふべからず、けだし彼は汝を安んぜしめん為に肉体の目にも現はるること度々之あればなり。
人はすべて有形なる助と人間の希望を自から放棄し、信念と清き心とを以て神の跡に随ふならば、直ちに恩寵は彼に伴ひ、種々の助を以てその力を彼にあらはさん。先づ此の身体に関する顕然なるものにその力を洩し、その照慮を以て助けを彼にあらはすは之を以て神の照管の力を大に彼に感得せしめん為なり。顕然なるものを了解するにより神秘なるものにも信を置くは、その思想の幼稚とその生涯とに如何に適当なるや。けだし人は此事に意を致さずんば人の為に要用なるものを如何にして備ふべけんや、人に近づきて屡々危険に充たさるる多くの打撃が人のその事を思うこともせざる際に過去ることあり、これその際に恩寵は冥々に且最不可思議に之を彼より反拒するものにして、彼を守ること恰も鳥のその雛を養ひ、翼を張りて之に何の害をも近づかしめざる如くするなり。恩寵は人に害の接近したりしことと無害にして存したることとを人に目撃せしむるなり。神秘にして識る可らざるものに関しても恩寵はかくの如く人を教へ、解し難く悟り易からざる意思及び思念の狡獪をその目前にあらはす。ゆえに人は彼らの関係とその互の連合とその誘惑とその中何の思念に人は緝捕せらるると、彼らは如何に互に相生じて霊魂を害するとを易すく捜索するを得べし。而して又恩寵は魔鬼のすべての奸計とその悪念の潜まる匿所を人の目前にあらはして、之を辱め、未来を瞭解する才能を人に入れ、その正直の為に神秘なる光の照らしかかるは機微なる思念を理解するの能力を充分に覚知せしめんが為にして、もし之を確知せずんば、人は何を忍受すべきか、之を示すこと宛も指を以て示す如し。さればその時人は大なるも小なるもすべての事を祈祷に於て造成者に願はざるべからずとの意は此れより人に生ずるなり。
此のすべてに於て神に依頼せしめん為、神聖なる恩寵が人の意思を堅むるときは、漸々人は試惑に入るを始むべくして恩寵が人にその量に応ずる試惑を遣はすを許すは、人をして試惑の力を忍耐せしめん為なり。而して此らの試惑に於てその助の切に人に近づくは、人が漸々学んで智慧を求め、神に依頼してその敵を軽んずるに至る迄勇気ならん為なり。けだし人が霊界の戦に智慧を得て自己の照管者を認識し、自己の神を感じて、彼を信ずるに窃に確立せんことは、ただその堪ふる所の試験の力に依るにあらずんば能はざるなり。
恩寵は人の念頭に多少自負心が現れて人の己を高く見るや、直ちに人に対する試惑の益々烈しく且つ強まるに放任すべくして、人が己の弱きを認識し、走りて神の為に謙遜に捕へらるるに至る迄は、此の如くならん。此により人は神の子を信ずると望むとを以て成人の量に達し、高められて愛に至らん。けだし神の人に対する奇異なる愛は人がその望みを破壊せんとする境遇に居る時に認識せらるるなり、此処に神はその力を人の救に於て現はし給ふ。けだし人は安息と自由の中に在りては、神の力を決して認識せざるべくして、神もただその沈黙の地と野とに於てする、即人々と共に居り共に集まりて喧騒するを奪はれたる処に於てするの外、何処にもその働を現然とあらはさざりき。
道徳に着手するや、残忍にして猛烈なる患難の八方より汝に傾注するを怪しむなかれ、何となれば事の困難を伴はずして成就するものは、道徳とも思惟せられざるによる。けだし聖イオアンの言ひし如く彼が名づけて道徳と称せらるるも之が為なるなり、言へらく『道徳は困難を迎ふるを例とす、もし安息と連るならば、彼は非難に値す』福なる修道士マルクは言へり、『凡て行ふ所の道徳は神の誡命を実行するときは十字架と名づけらるべし』と。故に主の国に於てイイスス ハリストスに在りて生を渡らんと欲する者は皆窘逐せられん〔ティモフェイ後三の十二〕。けだし主は言へり、『我に従はんと欲する者は己を捨て、その十字架を負ひて我に従へ』〔マルコ八の三十四〕。安息に生きんことを欲せざる者は『我が為に己の生命を喪ひて之を得ん』〔マトフェイ十六の二十五〕。彼が汝に先だちて汝の為に十字架を供へたるは、汝自己の為に死を定め、その後己の生命をささげて彼に従はん為なり。
強きこと失望の如きはあらず、誰か之を征服するに右の手を以てせんか、或は左の手を以てせんか、彼は頓着せざるざり。人がその意中に希望の生命を奪ふときは、之より狂妄なるものはあらざるべし。何等の敵も彼には抵抗する能はざるべく、如何なる患難のことを聞かしむるも彼の念を弱らしめず何となればすべて遇ふ所の患難は死より軽くして、彼はその死を己れに受けんが為にその首を垂るればなり。もし汝は如何なる場所に於て如何なる行為を以て、如何なる時に何事をか成さんと欲するもその意思にて目的と行為と哀みとを預想するならば、汝の前に顕はるるすべての不便不利に抵抗するが為に何れの時にも勇気にして怠らざる者となるのみならず、彼の安息に突進する思念の為に常に生じて汝を嚇し且恐れしむる意思は汝の此らの思慮により汝より逃走せん。さればすべて汝と遭遇する困難なるものと不便なるものとは汝の為に便利にして容易なるものとならん。汝の所期に反対なるものは度々汝と偶会するあらん、然れどもかくの如きものの絶て全く汝と偶会せざることも亦往々之あるべし。
安息の望みは、如何なる時にも人々をして大なるものと善なるもの、又は道徳をも忘却せしむるは、汝の知る所なり。しかれども此世に肉体の為に生活する者らも、もし不快を忍耐するをその心に決せずんば、その願意を全く遂行するを得る能はざるべし。実験は此を証明するにより、言を以て此事を勧むるの要あらず、何となれば昔より今に至る迄人々の衰弱するは、他の何の為にもあらず、即此が為にして、ただに勝を奏せざるのみならず最良なるものをも奪はるるなり。故に簡短に之を言はんに、もし人は天国のことを軽んずるならば、是れただ些細なる此世の安楽の望によるなり。而して人にはただ此の一の望のみにあるに非ずして、烈しき打撃と恐るべき試惑とはすべてその望に専心注意する人の為に頻りに備へらるるも人の思想は此れと相適するなり、何となれば肉欲が之を制御するによる。
鳥は止まる所を狙ひつつ網に近づくを誰か知らざらん。境遇と場所と或は他の何事を以てか隠し掩はるるものに於る我らの知識も小なる鳥の知識に比して往々及ばざる所ありて、ただ之により魔鬼は最初より安息の約とその事の思念とを以て我らを捉ふるなり。
予は意の如く言を進行せしめんと欲して、此説教の為に最初予想したる目的より離れたり、何ぞや、我らは主の為に首途をなさんことを欲するすべての行動に於てその意に患難を預想して目的となし、行路の終をその始に仔細に確定するは、何れの時にも肝要なること是なり。人は主の為に或る事を始めんと欲するや、如何して度々左の如く問ふか、『此事に安息ありや、此行路を労なくして便利に過ぎ得べき方法あらざるか、或は此行路には身体を疲らすべき患難あらざるか』と。視よ、我らは何処にもあらゆる方法を講じて安息を強ひて求むるを。人よ、汝は何を言ふか。天に昇り彼処の国をうけ、神と体合し、彼処の福楽に安んじ、諸天使と交はり、永久不死の生命を受けんを願ふて、此行路に労苦の有りや無しやを問ふか。奇怪の事かな。此の暫時の世に属するものを願ふ者は、恐るべき海浪を渉り、過ぎ易からざる路を過ぐるを敢てして、その為さんと欲する所の事に労苦或は悲哀の有無のことは絶て言はざるにあらずや。之に反して我らは何れの所にも安息を探問す。さりながらもし如何なる時にも十字架の行路を心に想像するならば如何なる悲哀は此行路より易からざるか、思ふべきなり。
もし人は最初より患難労苦を軽んずる者とならずんば、決して戦に勝利を得る者あらざるべく、朽つべき栄冠をさへ受けずして、その願の讃美すべきに拘はらず、之を遂ぐるに至らざるべし、何を以ても神の事を務めず、賞賛すべき善行の一にも進歩せず、安息に引誘するの思を許して、自から之と親しみ、等閑、怠慢及び怯懦を生じ、之に由りて全く衰弱するに至らん、此事を全く信用せざる人ありや、恐らくはあらざらん。
心が道徳に奮熱し始むるその時は視覚、聴覚、鼻覚、味覚、触覚の如き外部の感覚も彼の天然の力に超ゆる稀有非常なる困難に勝を譲らざるべし。而して天然の刺激が適時にその働を顕はすならば、身体の生命は糞土より軽からん。けだし心が精神を以て奮熱し始むるときは、身は患難の為に憂へざるべく、畏れざるべく、恐れて縮まらざるべく、心は堅く、金剛石の如くなりて、あらゆる試惑に抵抗せん。我らもイイススの旨を奉ずる精神の奮熱を以て熱中せん、さらば我らが意中に怠慢を生ずべき何等の不注意も我らより逐払はれん、何となれば熱心は勇気と心霊の能力と身体の勉励とを生ずればなり。霊魂は魔鬼に向つて天賦の強き熱心を動かすならば、魔鬼に何等の力ありや。然して憤心は亦熱心の所産と名つけらる。もし憤心はその力を働かし、心中に於て恐れざるものとなれるすべての力に強きを加ふるときは、〈苦行者及び致命者らが忍耐を以て受くる殉教の栄冠も天然の刺激によりて生ずる此の熱心と憤心の二の働を以て得らるるなり〉人々は猛烈なる苦難の中に在りて怖れざる大胆なる者とならん。神は我らにもかくの如き憤心を與へて神を悦ばしめん。「アミン」。