<< 徳行の種類の説明、及び彼らは各々如何なる価値と如何なる特質を有するか。>>
身体的徳行は黙想により身体を物体的なるより浄むれども、心の徳行は霊魂を謙遜にし、之を粗き有害なる思ひより浄めて、慾の為に占有せらるるを免れしむるのみならず、特に直覚に専らならしむるなり。此の直覚は霊魂を殆ど才智を脱ぐに近づかしむべくして、之を非物的直覚とは名づくるなり。是れ即ち霊的徳行にして、思を地に属するものより昇せて、之を第一の霊的直覚に近づかしめ、その思をも又その言ふべからざる光栄の直覚をも神の前に立て〈是れ即ち神の性の大なることを思ふ想像の興起なり〉智を此世と此世の感触より離すなり。之により我等は彼の許与せられたる望みに堅く立ちて、之を遂ぐべきを保証せられん、是れ使徒の謂ゆる勧誘〔ガラティア五の八〕即保証にして我等に許約せられたる希望により心は想像を以て歓喜に導かるるなり。
神に依る身的生涯とは身体上の行為なり、身体上の行為と名づけらるるものは道徳上の実践を以て肉体を浄むるが為に顕然たる動作によりて行はれ、之を以て人は肉体上の不潔より浄めらるるなり。心的生涯とは審判の事、或は神の義と神の定制の事を念々思慮すると共に撓まず続行する心の作用にして、之と同く連綿とし断えざる心の祈祷と、個々に於ても一般に於ても全世界の中に窺はるる神の照管とその慮りの事を思ひ、神秘なる霊的範囲に慾に属するものを一も起らざらしめんが為に隠なる慾より己を保護すること是なり。是れ皆心の行為にしてこれを名づけて心的生涯とはいふなり。霊的実践と名づけらるべき生涯の此行為により心は益々精微になりて、天然に反する空しき生活と親しむより遠ざかる、然れどもその後時として喚起せられて肉体の需要と成長の為に造られたる五感に属する物を回想看視するを始むべくして、其物の助により体中の四元素に力を與へらるる所以を了解せん。
霊的生涯とは五感の與らざる実践なり。此事は神父等あらはせり。諸聖人の智は此生涯を己れに受くるや、物体観と肉身の肥大なるとは直ちに中間より奪去られて最早聡明なる智的観望始まるべく〈物体観とは元始天然の受造物を指す〉人は此の物体観より容易に高く挙げられて、寂然たる生涯の認識に到り達せん。これ明に説明する如く神に驚嘆するなり。是れ未来の幸福を楽むときの高上なる性状にして、不死なる生命の自由と復活の後の生命に與へらるるなり、何となれば人性は受造物に対する何等の念頭をも全く有せず、彼処に常に驚嘆して已まざればなり、けだし何か神と同じき物のあるあらば、智は或時は神を以てその物に引寄せらるべく、或時はその物自から之を引寄せん。さりながら受造物の如何なる美もその未来の革新に於ても、神の美よりは遠く降るならば、如何ぞ智はその看望に於て神の美より遠ざかるを得ん。然らば何物なるか、心を悲ましむるものは死するの免れざることなるか、或は肉体の重きか、或は親族の記憶、或は天然の要求、或は艱難、或は障碍、或は知れざる心意の高慢、或は人性の不完全、或は元行の囲繞、或は相互の面会、或は煩悶、或は人を疲らす身体の労苦なるか。全く然らず、此すべてのものは世に之あるに拘はらず、慾の覆ひを心の眼より脱して、未来の栄を達観する時は、思ひは直ちに高く昇せられて、狂喜大悦せん。神は此生命に於て如此の性状に界限を置いて、幾ばくか此に躊躇せしむるを為さざるのみならず、畢生の間人に此事を許与せられしならば、人は此世に於ても之を看望するより遠ざかる能はざるべし、矧んや前文に計算したるものの絶て有る無き処に於てをや。けだし此の道徳は界限を有せずして、生涯の為に之を賜はるならば、我等も真実実際に王門の内部に入らん。
此によるに如何して智は此の奇異神妙なる直覚を避け且之に遠ざかりて、或る他物の為に阻止せらるべけんや。禍なる哉、我等は自己の霊魂を知らず、如何なる生涯に召さるるをも知らずして却つて此の薄弱なる生命と、此の生存の状態と、世の患難と、世そのものと、世の悪弊と、その安楽とを何か価値あるものの如く思ふ。
然れどもハリストス、独一全能なる者よ、『力は汝にあり、心の路を汝に向くる人は福なり』〔聖詠八十三の六〕。汝主よ、我等の面を世に背けて汝を慕はしめ給へ。然らば我等は世の如何なるを知り、影を実体の如く信ずることの息むに至らん。主よ、死に先だちて、我等の心に勉励を更に起して、之を新にし給へ、我等が出発の時、我等此世に入り且出づるの如何なるを知らん為なり、然らば我等は最初汝の旨に依り生命に召されたるこの事を遂行すべく、次で聖書に約する如く汝の愛を以て第二の造成に備え給ひし大なる幸福を受けんとの願に満たさるる希望を感受するに至るべくして、我等は機密を信ずるにより、此記憶を守らん。