<< 驕傲の事。驕傲なる神の敵の試惑。 >>
その思ひを以て神の仁慈の前に高ぶり、傲然として神の仁慈を辱かしむる無耻の人々に対し、神意によりて起る誘惑は左の顕然たる魔鬼の誘惑にして、心霊の力に超絶するなり。即ち人々の有する智慧の力を奪はるゝと、その慢心を抑へん為に放たるゝ放蕩なる思ひを内部に感じて、安心を與へざると、速に怒ると、すべてに我意を張りて争論し、非難せんを欲すると、心に衆人を軽んずると、才智の全く迷ふと、神の名に対する愚にして笑ふに堪へたる誹謗、之を確言すれば涕泣に値する誹謗と、その思想は人々之を軽んじて、その尊敬を無視し、陰にも、陽にも種々の方法を以て之に耻を蒙らしめて魔鬼より侮辱せらるゝと、終に世と交際往来して、断えず喋々し、荒唐放言し、常に己の為に新奇を尋ね、且は偽預言をさへ捜し、己の力に過ぐる大なるものを約せんとすること是なり。視よ、心霊上の誘惑は此の如し。
身体上の誘惑に属するものは下の如し、即ち纏綿として久しきに亙り、人の易く治すべからざる病の発作と、悪者及び無法者と始終相会すること是なり、或は陵辱者の手に陥り、その心は俄に且常に故なくして神を畏るゝにより揺動すると、岩石高所又は之に類する処より墜落して、身体の為に恐るべき挫折を屡々受くると、終に神聖なる力と信の望みとを以て心を助くるものに乏しきを感ずる是なり。之を略言すればすべて能はざるものと力に超ゆるものとは彼等自己とその近者とを追ふなり。我等があらはしたる此のすべては驕傲の誘惑の数に属す。
此等の誘惑の始めて人に現はるゝは、その眼中に己を賢なりと思ひ始むる時なるべくして、かくの如き驕傲の意思を己に有するに準じて人は此等の悉くの不幸を経過せん。終にその誘惑の性質によりて汝の心意の機微の路を帰結すべし。もしその誘惑の或るものは先に述べたる誘惑と混ずるを見るならば、知るべし汝が此等を有する程は驕傲は汝に深く徹底するを。
又誘惑につきて帰結すべき他の方法をも聴くべし。すべて困迫なる事情と凡その患難とは、もしその際に忍耐せずんば、二倍の苦みとならん、何となれば忍耐は人に於て不幸を反拒すれども、怯懦は苦みの母なればなり。忍耐は慰安の母にして、心の広きにより常に生ぜらるゝ或る力なり。人は祈祷して退かざると涙を注ぐとにより得らるべき神聖なる賜なくんば、その患難に於てかくの如きの力を見んこと難し。
人を更に大なる患難に服せしむるは神の意なるときは人の怯懦の手に落つるを許し給ふ。怯懦は人を屈服せしむる煩悶の力を生み、之により人は心霊の圧潰せらるゝを感ぜん、是れ地獄を試みるなり、此により憤心は人を襲ふて、百千の誘惑は之より流れ出ん、擾乱、憤怒、冒涜、運命を訴ふると、思ひの転変して定まらざると、一方より他方に移ること等是なり。もし汝は此のすべての源因は何なりやと問はば余は答へん、汝の怠慢なりと。汝は自から之が為に療方を尋ぬるを慮らざりき、此のすべての為に療方は一なり、ただ此の療方の助けにより人はその心に慰藉を速に見ん。こは如何なる療方なるか。心の謙遜是なり。謙遜なくんば何人も此等の悪の障碍を破る能はずして、不幸の彼に勝を制するを直に発見せん。
怒るなかれ、予は汝に真実を言ふ。汝は心を尽して謙遜を尋ねざりき。もし欲するならば謙遜の範囲に入るべし、さらば謙遜は汝をその弊病より脱せしむるを見ん。謙遜に準じて汝はその不幸に於て忍耐を與へらるべく、忍耐に準じて、汝の患難の重きは軽くせられて、慰藉をうくべく、然して汝の慰藉に準じて、神に対する汝の愛は増々大ならん。義を愛する我等の父はその真実なる子の為に誘惑を取り上げずして、誘惑に於るの忍耐を彼等に與へ給ふ。されば彼等はその忍耐の手を以て此の悉くの幸福を受けてその霊を全うせん。願はくはハリストス神はその恩寵により我等心の感謝を以て彼を愛するにより、悪を忍耐せしめ給はんことを。「アミン」。