<<神を愛する事、世を避くる事、及び神に於て安んずる事。>>
神を愛する霊魂は己の為に安心を神に、神独りに於て求むるなり。如何なる外部の関係をも先づ自から解くべし、その時は心を以て神と連合するを得ん、何となれば物体と分離するは神と親與するに先立てばなり。麺麭は嬰児が乳養せられし後食用として與へらる、かくの如く神聖なる事に大に発達せんと企図する人も先づ自から世より遠ざからんを欲すること嬰児が母の懐と乳房より遠ざかる如くならん。身体上の働の心霊上の働に先だつは塵土のアダムに吹入られたる生気に先だちし如し。身体上の働を求めざる者は心霊上の働をも有する能はず、何となれば後者の前者より生ずるは、麦穂の麦粒より生ずる如くなればなり。然して心霊上の働を有せざる者は霊神上の賜をも奪はるるなり。
現世に於て真理の為に忍耐する苦痛は善の為に苦む者に備へらるる楽とは比較にもなる可らず。涙を以て種く者は喜の禾把を伴ふ如く、神の為に苦を受るは喜を伴ふ。汗を以て求めたる麺麭は農人の為に甘からん、義の為に為ししこともハリストスの知識を受けたる心に甘し。軽侮と貶黜とは善意を以て忍耐せよ、神の前に勇気を有せん為なり。人は如何なる無慙の言をも知識により忍耐して、此言を発せし者に自分は預め不義を為さざりし時は、たとひ此際己の頭上に荆冠[1]を加へらるると雖も福なり、如何となれば自分は知らざるも不朽に栄冠を加へらるればなり。
知識を以て虚栄を避くる者はその心に来世を感ぜん。世を棄てたり、と言ふも、或る需要の為に人々と争ひ己を安んぜんが為に何等の欠る所もあらざらんとする者は全く盲なり、何となれば全身を自由に棄てたれども、一の肢体の為に争ひ戦へばなり。現世に安息を逃るる者の智は最早来世を探知せり。しかれども貪利に縛らるる者は慾の奴なり。金銭を求むる事をのみ貪利と思ふなかれ、何にても汝の意思の繋がるものを求むるは貪利なり。身体を以て苦めども官能に自由を與ふる者を賞賛するなかれ、即聞くと、開て制し難き口と、迷へる目是なり。霊魂に規則を命じ、慈悲を以て救を立てんとするときは、他の行為により称義を求めざらんことに霊魂を習はすべし、一の手を以て為して他の手を以て濫費すと認められざらん為なり、けだし彼処には憐の深きを要すれども、此処には心の廣きを要すればなり。然れども知るべし負を負う者に罪を免すは義の行為に属するを、その時は到る処に安静と清明とを汝の心に認めん。義の路に入る時は凡ての行動に於て自由に就かん。
此事につきて或る聖者は次の如く言へり、曰く『慈悲者はもし正当ならざるときは盲なり、知るべし自己の尽力と労とを以て得たるものより他に與ふべくして、詐偽と不義と狡獪とを以て得たるものよりすべからざることを。』彼は又他の処に於て次の如くいへり、曰く『貧者に撒かんと欲せば自分のものにより撒くべし。之に反してもし他人のものにより撒かんと欲するならば、これ最苦き莠なり』と。予は之に加へて言はん、もし慈悲者は己の義よりも高く立たずんば彼は無慈悲なり、即慈悲者は己のものにより人々に施すのみならず、他の人々より受る所の不義は喜んで忍耐して彼らを憐まん。施を以て義に勝つならば、その時加へらるるものは義人らが受くる法下の冠には非ずして、福音的完全者の福音的栄冠なり。けだし己の所有により貧者に與へ裸者に衣せ、人を愛すること己の如くし、侮らず、罵らざる等の事は旧き律法も之を宣言せり、されど福音的摂理の完全は命ずること左の如し、曰く『凡そ汝に求むる者には與へ、汝の物を取る者には復之を促すなかれ』〔ルカ六の三十〕。ゆえに或る物品又は他の外部に属するものを不正に奪はるるを喜んで忍耐するのみならず、生命をも兄弟の為に犠牲となさんこと肝要なり。これ慈悲者なり、されどもただに施與を以て兄弟に慈悲をあらはす者は慈悲者にあらず。之に反してその兄弟を哀ましむるを見聞して心の燃ゆる者と兄弟の為に頬を打たるるや之に報ひて彼の心を哀ましむる程無耻の心を有たざる者も亦慈悲者なり。
儆醒の業を尊ぶべし、汝の霊に近く慰藉を見ん為なり。黙読を練習せよ、汝の智が常に神の奇蹟に昇せられん為なり。貧しきを忍耐すると共に之を愛せよ、その心を一に集中して高く飛ばざらしめん為なり。廣き生活を嫌へよ、その思を擾さず守らん為なり。事の多端を制して独り己の霊魂を慮れ、内部の安静を濫費するより之を救はん為なり。貞潔を愛せよ、祈祷の時神の前に耻ざらん為なり。その行に浄潔を求めよ、汝の霊魂が祈祷に於て照され、死の記憶により汝の心に喜を点火せん為なり。小なるものを戒めよ、大なるものに陥らざらん為なり。汝の業務に怠慢なるなかれ、其友の間に立つ時耻ざらん為なり、及び路の用意を為さざる者と認められ、随て友が汝を独り途中に棄てざらん為なり。其行為を知識にて導くべし、凡ての進行に非難をうけざらん為なり。其生活に自由を求めよ、暴風雨より免れん為なり。快楽を資くるものを以て己の自由を縛るなかれ、僕の僕とならざらん為なり。其衣る所は貧しきを愛せよ、汝に生ずる思を貶せん為、即心の高慢を貶せん為なり。燦爛を愛する者は謙遜なる思を得ること能はず、何となれば心は外部の状態の如くに其の内部に印せらるればなり。
空談を愛して浄智を求むるを能くせし者ありや。智が五感に誘引せらるる時は彼等と共に禽獣の食を食はん。然れども五感が智に誘引せらるる時は彼と共に天使の糧をうけん。
謙徳には節制とすべてに制限あるとを伴ふ、然れども虚誇は淫行の従者にして驕傲の行なり。謙徳は恒久の自制により直覚に達し、心霊を貞潔に飾らん。然れども虚誇は思慮の間断なき擾乱と動揺とにより遇ふ所のすべての者より不潔の財を集めて心を汚す。彼は又邪なる眼を以て物の自然を観て耻づべき想像を心に充たす、然れども謙徳は窃に直覚を以て己を制限して之を得たる者を讃栄に喚起す。
世に休徴と奇蹟と異能を行ふ者を黙識心通する者に比するなかれ。世に飢る者を飽かしめ、多くの民を神を拝するに帰せしめんよりは黙想の無為を愛せよ。己を罪の械繋より解くは奴隷を苦役より脱せしむるに愈れり。汝は三の成分の一致により、即体と霊と神との一致により汝の霊魂と相和するは、その教導を以て意見の異なる者を和せしむるより愈れり。グリゴリイ言ふ『神の為に神学を教ふるは善し、然れども人の為に之より愈るは神の為に己を浄き者と為すこと是なり』。熟達老練にして訥なるは其智の頴鋒により教道を川の如く流すよりも汝の為に愈れり、其思を神聖なる事に喚起して、慾の為に汝の霊中に仆れたるものを起すを慮るは死者を復活せしむるよりも汝の為に有益なり。
異能を行ひ、死者を復活し、迷ひし者の反正の為に労して、大なる奇蹟を行ひ、その手により多くの者は神を識るに導かれしも、此すべての後他の人々を復活せしめたる自分は憎らしく嫌はしき慾に陥り、自己を殺して、其行の顕然とあらはるや、多くの人の為にも誘惑となる者多し、何となれば彼等は猶心の病に在りて、その霊魂の康健のことを慮らず、未だ自から薄弱を免れざるに他の人々の霊魂を癒さんと此世の海に出発したればなり、ゆえに予が言ひし如く彼等は自己の霊魂の為に神に望を失へり。五官の薄弱は慾を常に猛烈ならしむる火焔を迎へて之に堪ふる力あらざるなり、ゆえに五官の為に戒慎するは更に必要なり、即すべて婦人を見ざること、安息に耽らざることと、金銀及び其他の物を求めざることと、他の人々を指揮せざることと、彼等に対して誇らざることは必要なり。
反論する技倆の汝に足らざるが為に人々汝を不学者と仮定するは、無耻の為に智者の一人とするより愈るべし。謙遜の為に貧しくなれ、無耻の為に富むなかれ。汝と反対の教を持する者をば自己の徳行の力を以て責めよ、言の説得を以てするなかれ。汝の口の温恭と安静とを以て悖逆者の無耻の口を閉ぢ、彼をして黙せしむべし。汝の素行の貴きを以て放肆者を責めよ、然して五官の耻なき者をば汝の目の節制を以て責むべし。
その生涯の諸日汝は何処に至るとも、己を旅行者と認めよ、交際に恣なるにより生ずる害より救はれん為なり。何れの時にも己を何も知らざる者と思ふべし、他の意見を自意の如く定めんを欲すとの疑察非難を避けん為なり。口を以て常に祈福せよ、然らば汝を悪言せざらん、何となれば悪言は悪言より生じ、祈福は祈福より生ずるによる。如何なる事に於ても己を教ふるに足らざる者と思ふべし、然らばそのすべての行為は智者と認められん。自から理会せざることを人に傳ふるなかれ、汝己を辱しめざらん為なり、汝の行為を参照するにより、汝の偽のあらはれざらん為なり。されどもし或る有益なることを人に告げんと欲するならば教へらるる者の様子にて言ふべし、権と無耻とを以てせず、豫め自己を罪して汝は彼より下きを示すべし、聴く所の者に謙遜の式を示し、彼等をして汝の言を傾聴して行為に着手せしめん為なり、さらば汝は彼等の眼中に尊ばれん。もし能くするならば此の如き場合には涙を以て言ふべし、自己にも汝に聴く者にも益を與へん為なり、神の恩寵は汝と共にせん。
もし汝は神の恩寵を受けて、天命と有形造物の命運を観察するを楽む、いはゆる知識の初等なるものを賜はりしならば、己を預備し、誹謗の霊に対して自から武装せよ。さりながら武器を持たずして、此方面に立つなかれ、恐らくは汝は埋伏して汝を誘惑する者により速に死せん。涙と不断の禁食は汝の武器となるべし。異端者の教を講ずるを自から戒慎せよ、何となればこは誹謗の霊を起して汝に敵せしむること屡々これ有ればなり。腹を満たすときは、神聖なるものの或る帰趣と旨意とを無耻に穿鑿するなかれ、恐らくは汝は悔ゆるあらん。汝に言ふ所のものを理会せよ、飽満せる腹を以て神の奥義を識るは能はざるものとす。神の照管のことに関する師父等の書を頻りに読みて飽くを知らざるべし、何となれば彼等は智を神の造物と神の為に於ける大法を窺ふにみちびきて、自から之を堅め、その精微を以て之を昭明なる思想を求むるに預備し、潔浄を以て神の造物を了解するに適せしむればなり。全世界に識らしむる為に神の遺詔し給へる福音を読むべし、萬姓諸族に於ける神の照管の力により路用[2]を己れに得ん為なり、及び汝の智は神の奇跡に潜心せん為なり。此の如きの講読は汝の目的と適合す。汝の講読は何の為にも擾されざる安静を以てすべく、肉体のことを多く慮ると浮世の動乱とを免れて自由なるべし、すべての感触より極て勝れる最美なる趣味を美なる了解によりその霊底に感ぜん為なり、霊魂が自から此に恒なるにより之を感ぜん為なり。練達なる人々の言は汝の為に神の言を売買する虚飾者の言とならざるべし、汝その生命の終に至る迄暗中に止まらずして、此等の言より生ずる利益を奪はれざらん為、及び戦時には狼狽する者の如く動揺を示さずして、看々善を尋ねつつ坑に陥らざらん為なり。
汝は如何に徹底せんと欲すとも、汝の為に内部に入りし證徴となるべきものは左の如くならん。向ふ所の目的を観てその真実を感ずる為に恩寵が汝の目を開き始むる時は、汝の目は瞬間に涙の川を注ぎ始め、汝の瞼はその多きを以て洗はるることただ一回のみにあらざるべし。その時感覚の戦は鎮まりて汝の内部に収縮せん。もし誰か此に反対して汝を教ふるならば信ずるなかれ。涙の外他の更に顕然たる證徴を身体に於て尋ぬるなかれ。されど智が受造物より一層高まる時は、その体にも涙あらざるべく、何等の感動も感触もあらざるべし。
『汝は蜜を得るか、足る程に食へ、恐らくは食ひ過して之を吐出さん』〔箴言二十五の十六〕。霊魂の性は動かし易くして軽快なり、時により霊魂は突出しつつ高く昇りて、その性よりも極て高きものを確知せんを渇望し、聖書を読み諸物を観察するに由て或は理会する所も往々之あらん、さりながら許されて己をその理会したる所のものと比較するならば、霊魂はその観察の度に於てその知識の到達する所のものより下く且小なることあらはれん、ゆえにその思念は恐懼と戦慄と畏怖の為に襲はるること、恰もその高上なる霊界の対象に触るるを敢てせしを自から耻ぢて再び己が虚しきに帰るを急がんとするものの如し。対象を以て暗示せらるる恐懼の故に何か畏るる念慮の霊中に惹起さるるあらんに、理性は霊の智覚に暗号し、沈黙を学びて耻ざる者とならしめん、滅亡を免れん為なり、超絶するものを尋ねずして、霊魂より高上なるものを穿鑿せざらん為なり。故に汝は理会し得べきことを與へらるるときは理会せよ、無耻を以て奥義に触るるなかれ、叩拝せよ、讃栄せよ、黙然として感謝せよ、蜜を多く食ふことの善からざる如く、神の言の穿鑿に耽るなかれ、恐らくは懸隔せる対象を視んを願ふや、未だ彼に近づかざるに、その路の不便の為に衰弱して、汝の視力は傷はれん。けだし或時は真実に代へて或る幻像を見ん、而して智も捜索の為に煩悶するときは其目的を忘れん。此によりソロモンは『垣の無き壊れたる城の如し』〔箴言二十五の二十九〕と美妙に言へり、忍耐なき人も実に此の如し。故に人はその霊魂を浄むべく、汝の性の外にあるものの為の配慮を自から抛擲して、その概念と感動に貞潔と謙遜の幕を掛けよ、さらば此によりて汝は天性の内部にあるものを発見せん、何となれば奥義の啓示は謙遜なる者に與へらるればなり。
もし汝はその霊魂を祈祷の行為に専にして、智を浄め、夜間の儆醒を守りて、光明なる智慧を得んと欲せば、世の観玩に遠ざかり、人々と面会するを絶つべし、たとひ有益に托すとも、汝と同性情同思想にして、汝と共に奥義を談ずる者の外は風習に依り友を己の庵に受るなかれ、外的談話を断絶し、解除して、之を全く廃したるが為常に心ならずして惹起さるる心的談話の混合を恐れよ。汝の祈祷に施済を結付けよ、さらば汝の霊は真実の光を観ん。けだし心が外物に擾さるることの止むに随ひ、智は神聖なる思想と行為とを理会するにより、通暁と驚愕とに達するを得るなり。けだし少しく勉励するならば、人間の集会を神と対談すると神の言とに換へ、一の談話を他の談話に換へんことは霊魂の為に常に速なるべし。ゆえに一の対談を他の対談に換へんと欲せば、直覚の機微なる路を汝に啓示する聖書と諸聖人の傳とを学ぶべし、たとひ最初は近きを暗ます物の為に愉快を感ぜずといへども、之を学ぶべし。
祈祷に立つてその規則を行ふときは、世に見聞したるものを思ふに代へてその通読したる神の書を思ふことを得べく、此思により浮世の事に就て記憶せし所のものを忘るるに至るべし、かくの如くして智は潔浄に達せん。読経は祈祷に立つとき霊魂に助けんと書されしも、霊魂は読経により祈祷を以て照明せられんと書されしも此の謂なり。而して読経は外的混合に代へて祈祷の各種類に糧を給するなり。ゆえに霊魂は読経を以て照明せられて怠らず擾されずして常に祈祷せん。
霊的対象を研究するは肉体を愛する者と腹を喜ばす者との為には不適当なること、恰も貞潔の事を談ずるは淫婦に不適当なるが如し。極めて薄弱なる体は膏粱[3]なる食物を厭ひ且は之に堪へざらん。浮世のことに占領せられたる智も神聖なる事の研究に近づく能はず。火は湿りたる薪に燃付かざらん、神聖なる熱愛も安佚を愛する者の心に燃付かざるなり。淫婦は一人に情誼を守らず、多くの事に絆さるる霊魂も神聖なる教訓に忠なるものとなりて存せず。自己の目を以て太陽を見ざる人はただ之を聞くのみにて、その光に触れざるにより、人にその光を説明する能はざるべし、霊神上の行の美を心を以て味へざる者も此の如し。
日中の需要の為に余有る時は、之を以て貧者に頒ち與へよ、而して行て勇気にして祈祷を献げよ、即神と談話すること子の父と談話する如くせよ、施済の如く心を神に近づくるものはある能はざるべく、又任意なる貧の如く安静を心に生ずるものもあらざらん。質朴の為に衆人が汝を無智と名づくるは、名声の為に賢明と名づけ才能の完全なる者と名づくるより愈れり。もし誰か馬に座し施をうけんとして汝に手を伸さば否むなかれ、何となれば此時彼は貧しくして乞人の一なることは疑なければなり。然して與ふる時は大量と慇懃なる顔色とを以て與へ、請ふ所よりも多く給せよ。けだし言ふあり、汝の砕片を貧者の面前に投ぜよ、然らば多時ならずして報を得ん〔傳道之書十一の一〕。富者を貧者より区別するなかれ、適当なる者を不適当なる者より弁別するなかれ、尽くの人は汝の為に善なる行に因りて一様なるべし。けだし此方法により不適当なる者をも善に誘引するを得べし、何となれば霊魂は有形上のものにより敬神に誘引せらるればなり。主が税吏又は淫婦と食を共にして不適当なる者を斥けざりしも、此方法を以て不適当なる者を敬神に誘引せん為なり。又有形上に頼り無形霊神上に近づかしめん為なり。ゆえに作善と尊敬とを以て悉くの人を平等視し、或はイウデヤ人たり、或は不信者たり、或は殺人者たるを問ふなかれ、矧んや彼も汝の為に兄弟たり、汝と同性にして識りつつ真理を錯りしには非るをや。
人に善を為すときは彼より報酬を待つなかれ、さらば彼の為にも此の為にも神は汝を賞賜せん。然して汝の為に能くするときは善を為すべく、未来の報酬の為に為すなかれ。もし極貧の規則をその心に課して、神の恩寵により憂慮を免れ、極貧を以て世より高く立つならば、慎めよ、貧者を愛して施を為さん為に獲るを嗜むなかれ、一者より取りて他者に與へんが為にその心を擾乱に投ずるなかれ、人々に従属して己の尊敬を貶すなかれ、彼等に請願して浮世の事を慮るが為にその智の自由と尊貴とを失ふなかれ、何となれば汝の階段は慈恵者の階段より高ければなり、汝に願ふ如何しても従属せざらんことを。慈恵は子を育つるに似たり。されど黙想は完全の最巓[4]なり。もし汝に財産あらば一時に之を散ぜよ。されど何物をも有せずんば、有せんことを願ふなかれ。己の庵を浄潔にして、奢侈と贅物とを去れ、何となれば汝の欲せざるに拘はらず、こは汝を節制にみちびくを余儀なくせしむればなり。すべてのものに欠乏するは人に節制を教へん、然れども我等自から許して彼と此とを有するときは己を節制する能はざるべし。
外部の戦に勝利を得たる者は内部の戦を畏れざる勇気を有せん、されば彼等を危懼せしむるものは一としてあるなく、前後より来らんとする戦に彼等は動揺せざらん、知るべし戦とは感覚により及び不注意により心中に起る所の戦にして、例へば耳又舌により或は與へ或は取るときに起る所のものをいふ。是れ皆心中にて混迷を生ぜん。ゆえに外部の擾乱の至るに際し霊魂は心中に起る所の秘密なる戦に自から注意して、内部に蜂起するものに安静を以て克つ能はざるべし。然れども人はその城門を閉づるとき、即感覚を閉づるときは、内部に戦ふべく、城外に悪を謀る者等を恐れざらん。
此を知りて黙想を務め、事の多端を以て己を煩さずして、すべて身体の精力を祈祷の労に向け、神の為に労して、日夜神のことに配慮する間は極めて緊要なるものにも乏しきを有せざるべしと確信する者は福なり、何となれば神の為に放心より又労よりも遠ざかればなり。しかれどももし誰か手工せずしては黙想を務むる能はざるときは、手工を補助とし用ひて働くべし、利益の為に慾心よりするなかれ。手工は弱者の為に課せらる、然れども最完全なる者の為には彼は擾乱の因とならん。けだし貧者と怠慢者の為に神父等は手工に従事すべきを定めたれども、緊要なる行としたるには非ず。
神が汝の心を深く内部に於て感動せしむる時は拝と跪とを断えず行ふべし。もし魔鬼が汝を勧めて他の行為に従事せしめんとするも、その心に何を慮るをも許すなかれ、而してその時此により汝に生ずるものの如何なるを見て驚嘆せよ。もし誰か日夜祈祷してハリストスの十字架の前に己を捧ぐること面縛せられし者の如くならば、苦行者の戦に於てかくの如く重要にして且難きものは他に一もあらざるべく、又かくの如く魔鬼の猜疑を起すものもあらざるべし。その熱愛の冷ならずして涙の乏しからざらんを欲するか、此を練習せよ、人よ、予が汝に告ぐるものの為に日夜慮りて他の何事をも願はずんば、汝は福なり。その時光は汝の内部に輝き、汝の義は速に照し始めて、爛漫なる花園の如くなるべく、水に乏しからざる泉の如くなるべし。視よ、苦行により人に如何なる幸福の生ずるかを。人は祈祷に膝を屈め、手を天に挙げ、面はハリストスの十字架に向ひ、その悉くの思を一に纏めて神に祈るに集中すること屡々之あらん、而して人が涙と感動とを以て祈祷するやその間に之と同時に忽焉としてその心に楽みを注ぐ泉の沸騰するありて、その肢体は弱り、目は閉ぢ、面は地に俯して、その所思は変化す、よりて人はその全身に惹起さるる歓喜の為に叩拝を為す能はざることあらん。人よ読む所のものに注意せよ。けだし奮闘せずんば獲る所あらざるべく、熱心に門を叩き、その側に不断儆醒して止まらずんば聴かれざるべし。
黙想を守るに堪へざる者の外誰か此を聞きて外部の義を欲する者ありや。されどもし誰か黙想を練習する能はずんば〔けだし門の内部にあることは神の恩寵を以て人に與へらるればなり〕他の路を棄つるなかれ、然らずんば生命の二の路に於てその一を失はん。外部の人がすべて世に属するものの為に死せずただ罪の為のみならず、すべて肉身的行為の為にも死せずして、之と同く内部の人も邪なる思の為に死せず、肉体の自然の感動が弱りて、罪の甘美が心中に起らざるに至る迄は、神の神の甘美も人に起らざるべく、その肢体は此生命に於て潔浄を受けざるべく、神聖なる思はその霊中に入らずして感じ得ざるものとなるべく、知得ざるものとなりて存せん。且人は天性の免る可らざる要求の外は生活の為の慮りをその心中に働かしめずして、之が為の配慮を神に托するに至らざる間は霊的酩酊は人に起らずして、使徒が自から慰めたる〔ガラティヤ二の二十〕慰安を知らざるべし。されど予が此事を言ひしは失望せしには非ず、もし誰か完全の最巓に達せずんば神の恩寵を賜はらずして神の慰安を迎へざらんといふには非ず。けだし人は不適宜なるものを軽んじ、之より全く遠ざかりて善に帰るならば、実に速に助を感ぜん。もし少しく尽力を用ふるならば、その霊魂の為に慰安を見るべく、罪の赦しを捉ふべく、恩寵を賜はりて多くの幸福をうけん。さりながら彼は世を離れたる者の完全に比すれば、彼処に福楽の奥義をその霊中に発見してハリストスの来りし所以を理会すること更に鮮少なり。彼に光栄は父及び聖神と共に今も何時も世々に帰す。「アミン」。