<< 謙遜は如何なる尊敬を受るか、その階級は如何に高尚なるか >>
兄弟よ、予は口を開きて高尚なる目的、即謙遜のことを言はんと欲す、しかれども予は恐れに満たさるること、猶自己の思慮に依り神のことを議せんとするを知る者の如し。謙遜は神性の衣服なり。人となりし言は此服を服して、之により我らの体を以て我らと談話せり。されば凡て此服を服する者は実に彼の高きより降りて尊威の大なるを隠し、受造物が仰ぎ望んで焼かるるを免れん為に謙遜を以てその光栄を俺ふたる者に似たるあり。けだし彼が受造物より部分を取り、かくの如くして受造物と談話せざりしならば、受造物は彼を熟視する能はざりしならん。彼が口づから言ふを面り聞くを得ざりしならん、何となれば彼が雲中よりイズライリの諸子に語りしとき、彼らもその声をきく能はず、モイセイにつけて、神は汝と言ひ、汝はその言を我らに伝ふべし、『神が我らと言ひて我ら死せざらん為なり』〔出埃及記二十の十九〕といひたればなり。
此によりて見るに受造物は彼と公然対面を為すを如何して得べきや神の顕現の畏るべきは、代求者も左の如く言ふに至れり、曰く『「恐懼戦慄せり』と〔エウレイ十二の二十一〕、何となれば西乃の山に現れし光栄はその力最大にして、山は煙を発し、山の上より示されたる示現の恐るべきに揺撼し、山の麓に近づきし猛獣は死せり。然してイズライリの諸子はモイセイの命に循ひ己を浄めて、神の声を聞き神の示現を見るに堪ふる者とならんが為に、三日の間準備整装せり、しかれども時至るやその光の顕現とその轟く声の強きとを受る能はざりき。
今は然らず、その来臨を以て世界にその恩寵を注ぎ給ふや、彼は降るに天変地異に於てせず、火中に於てせず、恐るべき強き声に於てせず、却りて羊毛にそそぐ雨の如く静に地上に落つる点滴の如くして、他の方法により我らと談話しつつ現はれ給へり、何ぞや、彼はその尊威を肉体の帷幕の中に隠すこと、宝庫に蔵めたる如くして、その指揮により童貞生神女マリヤの懐に於て己を建造し、我らの間にありて我らと談話し給へり、是れ我ら看望するとき彼は我らが族中の一人にして我らと談話するを見つつ驚かざらん為なり。
故に凡て造物主がその体に衣て現はれ給ひし衣服を服する者はハリストスそのものを衣るなり、何となればハリストスはその受造物に現はれ給ひしこの同形を以て全人間と共に居りて、全人間もその内部の人に之を衣んを願ひ、この同形を以てその同僕に現はれ尊敬と外部の光栄を服するに代へて之を以て飾らるればなり。故に有言無言の受造物はすべてこの同形を衣たる人を見て、之に伏拝すること、主人の如くし、以てこの同形を衣て清光し給ひし自己の主宰を栄せんとす、けだし如何なる受造物は謙徳ある者を尊視せざらんや。さりながら謙徳の光栄の衆人に現はるるに至る迄は此の聖徳を満るの観は軽視せられたりき、然れども今や此謙遜の大徳は世の目前に照り輝きて、すべての人は何れの所に於ても見るを得る此同形を尊ばざるはなし、此に依りて受造物は己の創造者と造成者の現象に接するを賜はりぬ。故に此同形は真理の敵の為にも軽んぜられざるなり。之を得たる者はすべての人間より貧しといへども、之を学びたる者は之を以て飾らるること栄冠と紫紺衣とを以て飾らるる如し。
人は決して謙徳ある者を嫉妬を以て苦めず、言を以て傷つけずして、彼を軽んぜざるべし。けだし彼の主宰が彼を愛するにより彼は衆人に愛せらるるなり。彼は衆人を愛して衆人も亦彼を愛す。人皆彼を慕ふ、ゆえに何の処に近づくも、到る所彼を見ること光の天使を見る如くして、彼に尊敬を加ふ。もし智者或は教師は言はんとするも彼らは黙止す、何となれば彼らは言ふの権利を謙徳ある者に譲ればなり。衆人の目は彼の口に注ぎて、如何なる言のその口より出づるを待つ。すべての人は彼の言を待つこと神の言を待つ如し、彼の簡短なる言は智的想像を説明する賢哲の格言と同じ。彼の言は智者の耳に甘きこと、砂糖と蜜の咽に甘きより甚だし。彼は言語に嫺はずして、その状貌は卑しく且微なりと雖も、彼の裁決は人々の為に神の裁決の如し。謙徳ある者を侮蔑して言ひ、彼を視て活発の人と為さざる者は、神に向つてその口を開く如し。しかれども謙遜なる者が彼の眼中に軽んぜらるると同時に謙遜なる者の尊敬はすべての受造物に於て守らるるなり。謙徳ある者は野獣に近づかんか。僅に眼を挙げて彼に向ふや、彼らが猛烈は鎮まりて、彼に近づくことその主人に近づく如し。その首を慴伏して、彼の手と足を舐る、何となればアダムが罪を犯す以前に野獣を集め、楽園に於て彼らに名を命ぜしとき、アダムより発したる香気を謙徳ある者より感ずればなり。此香気は我らより奪はれたり、しかれどもイイススは来りて之を新にして再び之を我らに賜へり。人間の馨香は之を以て油せられたり。又謙徳ある者は死を致すべき爬虫に近づくか。僅に接近してその手を彼らの体に触るるや、彼らが腐触性と死を致すべき毒気の烈しきは熄み、その手を以て彼らを潰すこと蝗の如くせん。彼は人々に近づくか。人々は彼に注目すること、主人に注目する如し。我れ何ぞ人々を言はんや、魔鬼だもその全く無耻なると、煩悶すると思念の全く高慢なるとに拘はらず、彼に来るときは、塵の如くなる可し、その憎悪は力を失ひ、その奸計は破れ、その狡猾は為す無くして存せん。
今や我らは神に依る謙遜の光栄の大なると謙遜に隠るる力とをあらはしたるにより、謙遜の如何なると人は如何なる完全により何時之を受るを賜はるとをあらはさん。又外見上謙遜なる者と真の謙徳を賜はりし者との間の区別を為さん。
謙遜は或る奥密なる力にして、完全なる聖者がすべての行為を成就して後受る所のものなり。此力は他にあらず、独り徳行に完全なる者に恩寵を以て與へらるるものにして、天性此を受るの能ありて之に堪ふるによる、何となれば此徳行は自から一切を含有すればなり。故に如何なる者たりとも、すべての人を謙徳ある者と看做し得べきに非ずして、ただ我らが述べたる定式に相応したる者のみを謙徳ある者と為すべし。
天性謙抑にして沈黙なる者、或は善智なる者、或は温柔なる者は皆既に謙遜の階段に達したるに非ず。返つて誇るに足るべきものを奥密に有すれども、誇らずして、その意に塵芥視する者は真に謙徳ある者なり。然れども誰か罪と過とを想起し、高ぶらずして之を記憶するも、その心は砕けずして、その智は此らのことを想起するとき驕傲なる思の高処より降る迄に至らざる間は、たとひこは賞賛すべしと雖もその者を謙徳ある者とは名づけざるなり、何となれば彼には驕傲なる思の猶存するありて、彼は未だ謙遜を得ず返つて狡獪に之を自己に近づくるによる。ゆえに我が言ひし如く賞賛すべしと雖も、謙遜は未だ彼に属せず、彼はただ謙遜を願ふのみにして、謙遜は彼に有る無し誰か己の思慮を以て謙徳の為に原因を案じ出すの要あらざれども、すべてに全く且自然に労せずして謙遜を得たる者は、全く謙徳ある者なり、彼はすべての人間と天性とに超ゆる或る大なる賜を自己に受けたれども、己を視ること罪人の如くし、何らの価値もあらずして自分の目にて自分を軽んずる人の如くす、然れどもあらゆる霊性の奥義に悟入し、全人間の能くし難き事をすべて確実に成就すると同時に自から己を認めて何の価値もあらざる者と為すなり。而して此事は狡獪を以てするにあらず、又強ふるに非ずしてその心中に於て此の如きなり。
此の如き者となりて、かくの如く己を変化すること天性の如くなるは人に能ふべきか或は能はざるか。
終りに人が受る所の奥義の力は人に此事を成就せしむるにすべての徳行に於てして人の労を待たざるに疑ひを容るるなかれ。是れ即福なる使徒らが火の形状に於て受けたる能力なり。此能力の為に救世主は彼らに誡命して言へり、上より能力を受るに至る迄は、『イエルサリムより離るるなかれ』〔行實一の四〕と、此のイエルサリムは是即徳行にして、能力は即謙遜なり、而して上よりの能力は即撫恤者なり。別に之を解釈すれば撫恤の神なり。此事につきては神の書に奥義は謙遜なる者に啓示せらると言へるも亦此の義を示す、謙徳ある者は奥義を表現する此啓示の神をその内部に受るを賜はる。故に或聖人は言へり、謙遜は神聖なる直覚を以て霊魂を成全すと。
終りに人は自分にて謙徳の尺度に達せりとその心に思ふを敢てするなかれ、時として人に起る痛悔の一念により、或は人に流るる少許の涙により、或は人が天性に有し、又は尽力を以て占有したる一の或善行によりて凡ての奥義の充満を成すものと悉くの徳行の宝蔵となるべきものとを得るあらば、我言ふ、是れ皆此の賜と共に少許の練習を以て得たりと思ふなかれ。之に反して人は悉くの反対の霊に勝ち、諸々の道徳の行為中顕然に行はざるものと未だ得ざるものとを一も残すあらずして、敵の悉くの城砦に勝ち、之を従はしめて、その後此賜を受けたるを自から精神にて感じ、使徒の言ふ如く、『神は我らの神と共に証す』〔ロマ八の十六〕といひ得るならば、是ぞ即謙遜の完全なる。之を求め得たる者は福なり、何となれば彼はイイススの懐を毎時接吻して之を抱けばなり。
しかれどももし人は質問して、『予は何を為すべきか。如何にして謙遜を得べきか。如何なる方法を以て謙遜を受くるに堪ふる者となるべきか。視よ予は自から己を強ひ、之を得たりと窃かに思ふや、視よ之と反対なる思は予の心中に回転するを視る、之によりて今は失望に陥る』と言ふならば、此質問者は左の答を與へらるべし、門徒はその師の如くなり、僕はその主人の如くなりて足れりと言ふ是なり〔マトフェイ十の二十五〕、之を誡命して此の賜を授くる者の謙遜を得たる所以を見て彼に法るべし、然らば之を得ん。彼は言へり『けだし此世の君来る、彼は我に何をも有するなし』〔イオアン十四の三十〕。悉くの徳行の完全により謙遜を受くべきを見るか。此誡命を與へたる者に效はん。彼は言へり『狐には穴あり、天空の鳥には巣あり、唯人の子には首を枕する処なし』〔マトフェイ八の二十〕。然れども此を言ふはすべて萬姓諸族の中に成全成聖せられて充満に達したる者らより榮せらるる者にして、彼は彼を遣はしたる父、及び聖神と共に今も何時も世々に至らん。「アミン」。