越後史集 人
黒川真道編
越後史集 人
国史研究会蔵版
本書は越後国中頸城郡春日山を以て居城とせる、長尾為景の先祖より筆を起し、為景の子上杉謙信が、享禄三年誕生。然して本題に入り、謙信が幼少時代に於る振舞の事蹟と、成人後に於る彼が数戦の軍功と、さては其の軍略とを叙し、最後に天正六年四十九歳にして、逝去に至るまで悉く記し、筆をさしおきたるものなり。
春日山日記に二種あり。一種は七巻本と一種は三十巻本となり。
七巻本は松下近義の著述にして、其巻之一の巻末に記して云く、「此日記謙信降誕享禄三庚寅より天正戊寅に終る四十九年、全部七冊、今世間非㆘如㆓流布㆒之謙信記㆖、因㆓彼之家乗㆒編㆓輯之㆒耳、松下氏撰」と見えたり。
三十巻本は国書解題に云く、
「春日山日記 写本三十巻大塚貞伝、越後国春日山を以て居城とせる、長尾弾正少弼為景【 NDLJP:5】入道道七の元祖より説き起して、遂に上杉謙信の戦策に及ぶ、実に数百項よりなれる記事なり、年代詳ならず」と見えたり。国書解題は本書を以て、年代詳ならずと見做したり。明治十五年、本書は史籍集覧に採収して出版せり。(但此の本、後の改定本には除きたり)其の本書奥書に記して云く、「右全部三十巻之書者要門晩学大塚貞儔(此の儔の字諸本に伝に作れり因て今伝の字に従ふ)自㆓筆之㆒納㆓于安定舎㆒。于時享保十五年庚戌三月上旬」と見えたり。これによれば三十巻本は大塚貞伝の作にして、しかも享保十五年なる事確かに知られたり。
此の三十巻本由来につきては、同書首巻(史籍集覧本には首巻を脱す。されば予は別の写本によりて記す)に記して云く、「抑〻此日記は春日山大乱の節大半紛失して、残る処の書僅に府城の辺村(府城は春日山の城なり)何の院とか云ひし禅院に在しを、隅田某(名の処きれてうつさず)是を見出し、吾家に蔵し置く処の旧記也云々。又云、我亦彼末流を汲て処々に徘徊し、謙信公の古記を考へ、或は群臣の手に記し置く日記等、散然として爰彼にある物を尋ね、其他他家と雖、其時武家の記録等をも亦考訂して関たるを補ひ、彼是拾ひ集め、一部三十巻とす、如此補関すと雖、其補ひ全きにあらず云々」と記されたり。本書を検するに、巻一より巻十五までを本段とし、巻十六・巻十七の二巻を附尾とし、巻十八・巻十九・巻二十・巻廿一・巻廿二・巻廿三・巻廿四・巻廿五・巻廿六・巻廿七・巻廿八・巻廿九・巻三十の八巻を後集としたり。然して巻十五の巻末に記して云く、「此日記壁中に年を経る故に紛失する処多し、諸書を考へ、前方数十年の間闕如する処を補ひ、附尾と号して聞見の有増を記す、又後集と云ひて、謙信公一生の軍謀、且又其合戦城攻に神奇の兵策有し事を略記す。是秘事也と雖、後代の為に記置者也、本段は都て十五巻なり」と見えたり。然らば此の原本は元は十五巻本にして、大塚貞伝が附尾後集を増補したること明らけし。真道按ずるに、今七巻本と三十巻本との本段を比較するに、七巻本の方は巻数も少なく事蹟も簡短に記せり。三十巻本の方は増補潤色したる所あり。七巻本の方、時代及び作者の伝記等知れざれば、今直ちに断言し難しと雖、本書の内容の上より観察すれば、三十巻本の本段と称するものは、恐らくは此の七巻本を何人かの手によりて増補潤色したるものならんと思はるゝなり。此の事容易に云ふべきものに非ざれば、試みに記して諸賢の【 NDLJP:6】考を竢つて決定すべし。たゞ子は本集に七巻本を採集するにつきて、聊愚見あれば其の大略を記しぬ。
太祖一代軍記 一巻本書は首巻に上杉氏の系図を掲げ、本文には享禄三年正月廿一日、上杉謙信誕生より筆を起し、天正六年三月十三日、四十九歳にして逝去するに至るまで、彼れの一代の事蹟を記し、巻末に至り景勝の事蹟を略記して、筆をさしおきたり。此の書書名に太祖と記したるは謙信を称したるなり。
作者は近藤高忠とあり。伝記及び時代を詳かにせずといへども、謙信を太祖と称するより推察すれば、上杉氏の家臣なるべく、思惟せらる。但巻尾に、「寛保三癸亥年八月三日」と記せり。若しくは本書の作者が年月を記せるものか、後の考を竢つべし。
近世軍記 二冊本書は上杉景勝の事蹟を専ら記したるものなり。
作者は国枝清軒にして、延宝八年の自序を附せり。
本書の主眼は、上杉景勝の会津戦争を記すにあり。其の他の事蹟は従として見るべき由なり。猶国枝氏の自序によれば、材料は上杉氏の家臣杉原常陸介親憲の族、杉原親清が編輯せる本を原本として、更に増補訂正して大成せし趣なり。
作者国枝清軒は、自序に江州大津西湖楼に題すと見え、伝記等詳ならず。併しながら近江国大津辺に居住せし人なる事は知られたり。此の他同氏の作にして続武者物語九巻あり。
本書は巻数二十巻なる事は目録により知らるれど、此の底本には其の分冊の境判然せず、よりて今は原本のまゝ上下二冊とせり。他日類本を得たらん時、巻数を確かむる事を埃つべし。
大正六年四月 編者識
【 NDLJP:7】例言一、本編には、春日山日記七巻・太祖一代軍記一巻・近世軍記二冊を採収す。
一、太祖一代軍記は、原本片仮名本なれども、本編には悉く平仮字に改めたり。
一、読誦の便宜を計りて語尾を補ひ、仮字に漢字を補填し、読み難き漢字に振仮名を施す等既刊の本書に同じ。
一、校讐の際底本と異本と字句に差異ありたる時は、底本字句の左側に縦線を施して、其右側に〔何々イ〕と傍註し、単に字句の左側に縦線のみを施せるは、編者の懐疑を示せるものにして、識者の後考に竢たんと欲するものなり。
一、原本の特徴と認むべき文句は、徒に改竄せずしてこれを保存せり。その他編輯上の注意等に至ては、既刊の本書に異なることなし。 目次 長尾為景武勇并先祖の事為景詠歌の事上杉房義撃取の事附管領顕定越後発向并高梨摂津守顕定討死の事為景と信州村上頼平合戦の事為景越中国に於て討死の事為景長男越後相続せしむ事景虎誕生の事附景虎は箱根権現の化身たる一説の事景虎八歳にて越後国米山蟄居せしむ事景虎十三歳本国を出て諸軍修行の事越前朝倉に於て義景老臣を使とし景虎を旅館に饗応して献酬の礼をなす事景虎比叡山に住居せしむ事叡山に於て宇佐美駿河守良勝始めて君臣の約をなす事良勝先祖并家伝武経要略神武の大道噂の事越後国群臣威を争ふ事附為景の舎兄愚暗にして国政よからざる事景虎本国帰城の事景虎十四歳の時逆臣共を誅戮せらる事景虎と長尾義景合戦并義景敗軍降参の事村上義清信州の領地を廃て越後に奔入る事甲州守護晴信父信虎を追出して家督押領并晴信度量ある事信州小笠原村上諏訪同志して甲州韮崎に於て晴信と合戦の事右の四将連々打負け社稷を失ふ事景虎義清対面の事景虎義清問答并晴信弓矢噂の事武田晴信不義信州四将の不義と越後老臣批判の事景虎老臣と村上同志し密謀を議せらるゝ事景虎信州出陣評定并軍令条目の事景虎出陣并信州所々放火の事附備定の事信州海野平に於て晴信と初て合戦の事晴信軍備観察して良勝諫言并人数引取り越後へ帰らるゝ事山本勘助噂の事越中表発向の事附彼国弓矢評定の事近習小士近国間者せしめらるゝ事信州出張并海野平晴信対陣の事附越中国発向の事近国に於て誤て景虎矢弓風儀批判の事信州佐久郡発出の事附越中国手遣ひの事越中国より間士城に帰て密議言上せしむる事附河田越中へ往く事河田豊前守越中国より帰国彼所に様子密事申上ぐる事武田晴信虎巻を秘蔵噂あるの事附宇野軍配問答の事上杉憲政国を廃て春日山へ敗走せられ代々の家系と管領職景虎へ附譲の事上杉殿先祖并代々繁昌して管領職となる噂の事北条氏康父祖噂の事越中国侍降参并彼国発向の事景虎剃髪して謙信と号す信州発兵并地蔵峠合戦の事附長尾義景噂世愚批判の事東上野出張の事附北城丹後守密事言上并越中国発兵の事永野信濃守太田三楽噂の事能登守護畠山氏へ謙信使の事長尾義景叛逆風説の事将軍義輝公上使の事附上使謙信に対ひ申達せらるゝ条々の事謙信将軍家献上物并上使両人へ賜物の事長尾義景叛逆決定に付き誅せしむる事近習の小臣三人小田原に往かしむる事小田原の間士帰来り密旨言上の事附松田尾張守噂并鎌倉寺院撞鐘奇特の事氏康を座頭に加ふる事信州川中島表発兵乱妨放火の事附東上野出張并越中に於て椎名神保対陣迫合の事謙信重て川中島出勢并関東発馬氏康対陣の事謙信太田三楽先鋒とし再び関東発兵の事謙信信州発向の事附信玄より軍使を以て和睦の儀申越さるゝ事謙信上州沼田表発向の事謙信信州表出勢水難に依り帰国并重て同地発向信玄と百余日対陣せし事附越中に於て椎名神保和睦の事関東の間牒の者帰城して彼表諸将の様子言上せしむる事客星出づる事附謙信宇野問答の事謙信小田原発向并氏康籠城の事京都より近衛殿下向関東公方と称す謙信押て管領職と号す事附鶴岡八幡宮参詣の事成田長康警固武士と神前に於て口論并長康己が居城へ謙信上州平井退出の事附長康口論に付き相甲に於て妄説并氏康信玄批判の事謙信近衛殿具足し上洛の事義輝公へ拝礼の事附諱の字賜并管領職に補し網代輿免許の事謙信密に三好松永を撃亡言上の事附将軍家御許容に就き謙信帰国の事謙信在京の中越後に於て太田三楽憲政を押立て小田原表発向の事輝虎群臣と軍評定の事信州川中島合戦の事甘糟越後勢引取り帰国の事川中島味方備図の事川中島合戦以後再び一戦を遂くべき由謙信より信玄へ使者并信玄許容なく帰国の事川中島合戦評判色々の事川中島合戦に於て敵の首切捨と兼て謙信定置るゝ事和田喜兵衛自害に付き世間妄説の事謙信信越の境出張の事武州松山後詰として謙信出馬并松山落城の事附上州山の根城暫時攻落さるゝ事長尾謙忠誅戮并北城厩橋城代の事山之根に於て謙信死間を以て武田北条両城の間を隔てらるゝ事謙信群臣と領国政事談合の事宇佐美駿河守病死の事謙信諸将の功を選み賞禄の事三好松永将軍家御生害の由細川藤孝飛檄到来の事三好家先祖噂の事謙信上州和田城攻の事附 長尾帯刀逆心に付き帰国の事厩橋城に於て武田北条相戦ふ事輝虎氏康と和睦并北条三郎越後へ来る事能登守護畠山氏末子越後へ来る事北条父子より謙信加勢頼越さる并謙信同意なき事重て北条家援兵を乞ふ事附謙信出馬の事義昭公より上使の事織田信長祖先并信長弓矢噂の事北条氏康逝去の事附三郎景虎小田原へ往かるゝ事参州守護源家康使札并音物の事謙信川中島辺発兵の事重て謙信長沼辺出勢の事信玄死去の事附謙信哀愁深き事柿崎誅さるゝ事謙信武田勝頼へ申含まるゝ条々并勝頼思慮なき事能州畠山逆臣の為め討るゝ事謙信群臣と軍評議の事附勝頼領分へ暫く相働らかざる事飛騨国江馬氏退治の事越中国退治并河田当国守護代の事来春領国の軍勢催促号令の事春日山城下怪異の事謙信病死并辞世之事越後長尾氏系図太閤秀吉公寵臣逆心思ひ立つ事附関白秀次公生害の事上杉神刺原の新城を取立つる事加州前田利長逆心の沙汰并利長人質進上の事上杉使者藤田能登守上洛の事上杉謀叛の沙汰藤田能登守栗田刑部会津を立退く事藤田能登守上洛の事伊奈図書助河村長門守会津へ下さるゝ事大坂に於て上杉退治御評定の事上杉景勝白河表手配の事直江山城謀を以て越後諸浪人一揆を催す事上杉伊達矢合の事御所会津御発向附花房註進の事伏見城より嗣君に註進附宇都宮御帰の事小山御陣御評定并本多中書・榊原式部御諫言の事伊達政宗帰城並白石城を攻取る事政宗白石城より岩手沢に引退く事越後国一揆蜂起爾附後守直寄手柄の事一揆勢越後国三条の城を囲む事附溝口宣勝村上義明後巻の事〔〈家康公イ〉〕小山より江戸へ御帰陣の事蒲生飛騨守秀行使者を以て岡野左内〔イナシ〕志賀布施〔〈外池・小田切・高力・安田・北側等イ〉〕に示す事景勝長沼より会津城に帰る事秀康卿景勝方へ御使者の事直江兼続景勝を諫むる事并最上発向陣触の事越後国津川城落去并一揆退散の事直江山城守兼続最上へ攻め入る事并幡屋城を攻むる事直江山城守諸大将と軍評定并長谷堂の城を攻む附最上義明、後巻対陣の事最上義明加勢を伊達に乞はるゝ事附政宗加勢の事并井上杉方松本木工之助討死の事上の山の城口合戦附上杉方穂村造酒允討死の事上泉主水討死の事会津より飛脚を遣し関ヶ原敗軍の由を直江が陣に告ぐる事直江山城守并上杉の諸軍勢長谷堂口を引払ふ事附洲川合戦の事伊達政宗福島の城を攻むる事本庄出羽守宮代合戦の事政宗信夫郡焼働并木幡四郎右衛門討死附須田大炊助長義政宗と逢隈川合戦の事松川合戦政宗福島の城を攻むる事景勝御赦免〔付イ〕上洛〔并上杉系図イ〕の事杉原彦左衛門物語覚書条々〔〈二十三箇条の事イ〉〕宇佐美民部少輔の事 目次 終この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
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